気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

魂の垢を洗い流そう

2010-12-26 11:01:44 | 覚醒意識

世に言う「解脱」や「悟り」は、科学や技術、宗教や哲学等では為し得ないものである。

 

なぜなら「解脱」(げだつ)とは、あなたの「魂」の垢を落す意識の働きのことだかからだ。

 

魂の垢とは、この世界に生きてゆく間に思わず知らずまといつけた、条件付けされた稚拙な『こころの垢』のことである。

 

不信・不満・不安・・  すべてが本来あるべきことの否定、「」を示している。

 

このような直感的にそれとわかるような、歪んだ想いのパターンのことを「こころの垢(あか)」と言っていいだろう。

 

それらの「垢」によって、毎時毎瞬が不快に感じることになるのだが、あなたはもうすでにいやというほど気づいていることだろう。

 

毎日のように身体を洗う人々が、どうして「こころ」を洗うことに気づかないのだろうか。

 

こころの大切さに気づかず、ましてやケアもせず、それを自ら洗わずにいるおかげで、社会には様々な悪臭が立ち込めているではないか。

 

今はその洗い流しを迫られている極めて重要な時期にあるのは火を見るよりもあきらかであろう。

 

実のところ、身体の洗濯よりも、こころの洗濯のほうが意識的存在である人類にとって、極めて喫緊の課題であるというにも係わらず、

 

まずこころの働きに気づいていないのはどうしてなのだろうか。

 

あなたの『身体よりも極めて近く』にある、毎瞬毎時去来する『想い』に気づいていないのはどうしてなのだろうか。

 

その『想い』によってこそ、我々の『幸や不幸』を作り出しているということに、どうして気づかないのだろうか。

 

それは、

  

お金や名誉や財産が我々のあるべき理想の状態を作り出すという、現代社会にはびこる「虚妄」の観念に流されているからではないのか。

 

人も羨む大富豪達がその富の量に比例したぶんだけ 「わたしは本当に幸せである」 とでも言ったことを聞いたことがあるのだろうか。

 

世界の権威である大学者達が、「わたしは真理を体得した」 とでも言ったことを、誰か聞いり見たりしたことがあるのだろうか。

 

容姿のきれいな彼氏や彼女を伴った人こそがリッチで幸せそうにみえるのだろうか。

 

そう信じているのであれば、幸せそうな彼らに是非聞いてみるがいい。

 

本当に幸せであれば、そのような他を押しのける、がむしゃらな蓄積努力も必要ではなく、また上辺だけの華麗な演技も必要ではないのだ。

 

本然、自然は、ことさら無理して孤軍奮闘も要らず、貧弱な内面を隠す虚栄の飾りも要らない。

 

Saigyou12

 

我々は、赤子の時のように、

  

晴れやかで、穏やかで、愛らしく、すべての人に自然に愛を放散するような、

  

そんな『素の意識』に戻る必要がある。

  

すべてを信じ、疑うこともなく、好奇心いっぱいでありながら、

  

しかも、

  

何事にも流されることもない、真の大人の知恵を兼ね備えた存在に、

  

立ち返らなければならない時なのだ

  

あなたにはすでにその資格が充分あるではないか。

  

どこに、誰に求めなくとも、

  

あなたがこの世界で歩んでいる道のりで得られる貴重な宝物が、

  

あなたのこころの中にそれこそ満載ではないのか。

 

たとえそれが、

 

触れば傷つくような、人間関係というブリキの人形でも、

 

それなくしては傷つけあうことの可笑しさも理解出来ず、

 

苦いせんじ薬のような体験も、

 

二度とやってはいけないとわかる教訓になることもなかったのだ。

  

広大なあなたのこころ、表面意識のみならず、膨大な潜在意識にある、

  

あなたの歩んできた数知れない足跡を見つめれば、

  

その歩みの雄々しさと勇敢さと、

  

そしてその貴重な感動ばかりの記憶を創り出すために在る、

  

多くの他人という同胞・兄弟姉妹の大きな愛を感じるだろう。

 

 

愛を自らで感じること、

 

それは、

 

どこに行かずとも、

 

何にならずとも、

 

いつも、今在るこの瞬間の、いのちの輝きの中で出来ることなのだ。

 

あなたの意識の眼を、どうか下ばかりに向けず、

 

常にさらに大きく広い、

 

いつもすぐには気づくこともできないかもしれない、

 

大いなる無条件の愛に向けようではないか。

  

あなたがいつもこころのその眼で観るものが、

 

すなわちいつもその時の「あなた」である。

 

 

我々を包含しているすべてのものが、

 

何も言わずとも、ただそこに在ることによって、

 

無条件の愛の眼差しを向けているのだ。

 

我々の行うべきこととは、

 

虚妄の観念、自我の固まった観念、

 

物質観念からだけの小さき考え方を、

 

今一度、いや何度でも洗い流すことなのだ。

 

そうすればこころの波動は、透明化をはじめ、

 

より広く、より細かく、より優しく、より精妙に変化しつつ、

 

その透明度に応じて、

 

本然が愛である、あなたの真我が浮かび上がってくるだろう。

 

そう、

 

どこにいようと何をしようと、

 

執着のおもりのない、自由自在の境地に浮かび上がるのだ。

 

これが多くの先達の辿った解脱の道である。

 

まさに、

 

悟りや解脱は、単にあなたの『こころ』を超えることなのだ。

 

人々はすべてその資格を有している。

 

われわれの意識の眼は、

 

結果ばかりの外の世界ではなく、

 

因たる、われわれ自身を見るためにあるのだ。

 

 So_036

 本日も拙い記事をご覧頂きまして、まことに有難うございました


意識の大海(3)マインド・意識・気付き

2010-12-12 11:24:39 | 覚醒意識

マハラジの言葉を集めた書である、「 I AM THAT 」(わたしは在る)は、

何度読んでもその深さに驚くばかりであり、

身体から、こころへ、そして魂へ、そして本来の真我である、大いなる全体へと、

勇敢に旅した者だけの雄々しさと神々しさを感じないではいられない。

間違いなく、

彼はそれを身をもって示す為に、19世紀にこの世界に現れ、20世紀に去っていった、偉大なる魂の教師の1人なのだ。

 

 

 I AM THAT 

このフレーズの中にすべてが含まれていることを感じるのは決してわたしだけではないだろう。

 

あなたや私たち、あるいはすべての宇宙、すべての存在の根底にあるものが、

 

「I AM THAT 」なのだと感じないだろうか。

 

わたしは・・・それであり、これであり、あれである。

 

多くの人は、今そう思っている。

 

あるとき、ある場所、どこかの誰か、それを演じている。

 

生まれ変わっても、そう思ってきたはずだ。

 

しかしながら、あれやこれやに自己同一化することが、

 

他生の人生でも行われていただけだと気づけば、

    

わたしはそのどれでもないということにもなる。

 

即ち「すべて」であるともいえるが、

 

「すべて」というカテゴリーでもない。

 

永遠なる真実は、

  

わたしは・・・わたしであること、そのもの。

 

I AM THAT     

 

それは、「神なる根源」 の目覚めを表そうとして、表しきれない、

 

「無限」さえも超えたものを、敢えて指し示す言葉

 

そんな気がするのだ。

 

そして、

 

それは、実のところ、あなたや私たち自身のことなのだ。

 

我々は無限に広がる意識の大海をも越えている、

 

ある意味で、創造者、航海者であると言う表現も、

  

卑近な例示でしかないのだろう。

 

・・・・

 

「I AM THAT  」 わたしは在る・・・ナチュラルスピリット刊 P238より抜粋

  

マハラジ

身体は物質的なものであり、変えるには時間がかかる。

マインド(こころ)は考え方と感じ方という精神的習慣の集合だ。

変えるためには、それらは表層に引き出され、調べられなければならない。

これもまた時間がかかる。

ただ決心し、たゆまずやり通すことだ。

あとはそれ自身が面倒を見るだろう。

 

質問者

どうやらわたしは何をすべきか、という明確な計画をもったようです。

しかし私は疲れ、ふさぎこんで友人たちを求め、そうして孤独と瞑想に与えられるべき時間を浪費してしまうのです。

 

マハラジ

あなたの感じるようにするがいい。

自分を責めるのはやめなさい。

暴力はあなたを固く、厳しくしてしまう。

道の上の障害と闘ってはならない。

ただそれらに関心をもちなさい。

それらを見て、観察し、調べなさい。

良いこと悪いことなんであれあるがままに起こらせるがいい。

だが、あなた自身を起こることのなかに沈み込ませてはならない。

  

質問者

自分が観照者だとつねに思い起こさせる目的は何なのでしょうか?

 

マハラジ

動きまわるマインド(こころ)の彼方には、不変なる気づきという背景が存在する。

マインドは本来の自己を知り、それを敬い、

月食で月が太陽を覆い隠すことをやめなければならない。

ただ観察可能なもの、体験可能なものは何ひとつあなたではなく、

またあなたを束縛することはできないということを自覚しなさい。

あなた自身ではないものに、注意を払いなさい。

 

質問者

あなたが言ったことをするには、私は絶え間なく気づいていなければなりません。

 

マハラジ

気づくことは目覚めることだ。

気づかないことは、眠っていることだ。

いずれにせよ、あなたは気づいている。

そうあろうと試みる必要はない。

あなたに必要なのは、気づいていることに気づくことだ。

意図的に、そして意識的に気づいていなさい。

気づきの領域を広げ、そして深めなさい。

あなたはつねにマインドを意識している。だが、

あなた自身が意識していることに、気づいてはいないのだ。

 

質問者

私が理解するには、あなたは「マインド」「意識」「気づき」という言葉に、明確に区別された意味を与えています。

 

マハラジ

こういうふうに考えてみなさい。

マインドは、たとえあなたが見ていないときでも、想いを絶え間なく生み出している。

「マインド」のなかで何が起こっているかを知っているとき、

あなたはそれを「意識」とよぶ。

あなたの意識は感覚から感覚へ、知覚から知覚へ、観念から観念へと

果てしない連続のなかで移行している。

これがあなたの目覚めの状態だ。

そして、・・

マインドの全体性、意識全体への直接的洞察である「気づき」が現れる。

マインドは川のように、身体の川床のなかを絶えず流れている。

あなたはあなた自身を一瞬ある特定の波と同一化し、

それを 「私の想い」 と呼ぶのだ。

あなたが「意識」するすべてはあなたの「マインド」(こころ)であり、

「気づき」とは、「意識」の全体性の認識だ。

 

質問者

誰もが意識しています。しかし、誰もが気づいているわけではありません。

 

マハラジ

「誰もが意識している」と言ってはならない。

「意識がそこには在る」と言いなさい。

そのなかですべては現われ消えて行く。

わたし達のマインドは、意識の大海の波にすぎない。

海としてのそれは無限で永遠だ。

あなた自身を・・、

生命の大海、すべての存在の子宮として知りなさい。

もちろん、これらはすべて隠喩だ。実在は描写を超えている。

あなたはそれで在ることによってのみ、それを知ることができるのだ。

 

質問者

それを探求することに苦労するだけの価値があるのでしょうか?

 

マハラジ

それがなければ、すべてが苦労だ。もしあなたが正気で、創造的に、幸福に、

そして分かちあえる無限の豊かさをもって生きたいと願うならば、

あなたであるものを探求しなさい。

 

マインドは身体の中心にあり、

意識はマインドの中心にあるが、気づきは自由だ。

身体はその衝動をもち、マインドはその苦痛と喜びをもっている。

気づきは無執着で、不動だ。

それは透明で、静かで、穏やかで、油断なく、怖れがなく、

欲望も恐怖もない。

あなたの真の存在として、それに瞑想しなさい。

そして日々の生活のなかでそれで在ろうと試みなさい。

そうすれば、あなたはその豊かさを実現するだろう。

 

マインドは起こっていることに関心をもつが、

気づきはマインド自体に関心をもつのだ。

子供はおもちゃを追い求めるが、母親はおもちゃではなく子供を見ている。

 

 Img_new(2010.10 by NAOTO)

 

 

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。

  


意識の大海(2) 今このときは永遠なり 

2010-12-05 16:16:50 | 覚醒意識

●時空は光(波動)に満ちている

 

すべては波動として存在している。

 

波動は振動でありまたエネルギーである。

 

その波動の振動媒体は、身の周りに、身の中にも在るところの無限の「空」である。

 

空(くう)自体が、波動のその媒体であり、「空」(くう)であるがゆえにこそ

 

変化する存在形態・振動・波動を生ぜしめることができるのだ。

 

科学的には光は電磁波であり、エーテルという仮想の媒体を必要としないと言われる。

 

光は、『空(くう)』 の 『間(はざま)』 空間を、

 

それ自体を変調しながらその存在域を四方八方に伝播・拡大する。

 

あなたやわたし達の周囲のあらゆるものは、その『光』によってその存在を浮かび上がらせている。

  

まさに我々の周囲は『光』に満ちているといえるだろう。

 

光とは単に極端な眩しさや煌きなどではなく、様々に変化する宇宙の諸現象の彩りなのだ。

 

ある意味で、我々の周囲の諸現象は、光の踊り・ダンスのようなものかもしれない。

  

あなたは気付いていただろうか。

 

あなたやわたし達自体、

 

あるいは周囲、時空の遠方、近方、すべて光・波動に満ちているということを・・・。

 

その光・波動とは、あらゆるものを包含し、あらゆる可能性を見据え、あらゆる喜びを、自己の本質として自らを意識している、大いなる一なる根源の命の響きなのだ。

 

大いなる一なる根源は、全てのすべてであるからには、その1小部分とも感じているところの、あなたの存在自体もまさに全体が投影されている。

 

一部にはその全体が畳み込まれているがゆえに、全体の部分なのであり、数量的なちっぽけな観念は、決して当てはまらないことに気付くべきだろう。

  

 

●想念は宇宙に遍満する意識の波

 

すべての波動は、宇宙すべてを貫いてあるところの、全包容的意識の中の自己認識作用であり、

 

その諸現象を生み出す意識の作用は、いわば神なる根源の発する『想い』と言えるだろうか。

 

その想いは・・・、

 

全てを自己と観ずるところの、いわば宇宙・森羅万象における全一的な想いのことである。

 

これに対して、人間における想念は、

 

個人のエゴや、各個別の利害や、自己だけに都合の良いレベルに留まりやすく、

 

したがってその包含するエリアあるいは次元が、

 

その想念の質によって限られているために、

 

全宇宙を貫く根本的な周波数までは届いていないかもしれない。

 

多くの我々が、本来の『わたし』という真我の自覚に至っていないとはそういうことであろうか。

 

 

全一性からの想いとは、

  

人が、わが子や、愛すべき人々や、動物、植物をいたわる想いと同質であり、

  

自己とまったく同じように、あるいはそれは度外視して、

 

他への幸せを願う想いと同じなのだ。

  

『自』 はすなわち、反転した 『他』 でもあり、

 

また、

 

『一』 はすなわち、展開した 『多』 なのだと完全に意識している、

 

本来の「あなた」という真我の発する想いのことである。

  

森羅万象の根源にあるのは、

 

あからさまに、そして明らかに、

  

すべてがすべて喜ばしく、調和に満ちて、可能性に溢れた、

  

驚くような・・・・「愛」であると言えよう。

 

   

●人間本来、幸福である以外にはない

   

人、皆誰でも自己の幸福を願うように、

  

宇宙である一なるものも、その内にあるすべてが幸福であることを

  

自明の理としている。

  

いわば、あなたも、本来幸せでしか有り様がないのだ。

  

それを「そう」と感じていない場合は、個々人の『幸せ』の観点そのものが、見当外れであり的外れであると言えはしないだろうか。

 

何かの条件をつけて、『それ』がなければ幸せではない・・・という、条件付けをしているのかもしれない。

 

あるいは、『幸せ』とは、うっとりするような感情的な『状態』である・・・との勘違いがあるのかも知れない。

 

仮の条件の充足や、感情の高揚状態がなければ幸せではないと、勝手に思い込んではいないだろうか。

 

そうであれば、確かに、いつも今は幸せではないことになるだろう。

  

そのこと自体、「仮の不幸せ」を見事に創造しているかもしれない。

  

なるほど、それこそ逆に神なる者のなせる業といえようか・・・。

  

しかし、これこそ笑える話ではないか。

 

求めるがゆえにそれに至らない・・という逆説に笑わずにおれようか。

 

あるいは、これがいわゆる二元性の醍醐味なのだろう。

    

しかしながら、なるほど確かに、一時の仮の不幸があるからこそ、真なる幸福が実感できるのかもしれない。

  

  

・・・・まさに、究極は全てがOKなのだ。

  

  

 

全てが実は大いなる喜びの只中にあることは、

 

自らの生み出す観念の織り成す綾(あや)によって、自らが不幸で遊んでいることを悟れば気付けるだろう。

 

いつまでも他者のせいにしていては到底振り返ることはかなわない。

 

全てが、何だかんだと言いつつも、実は大いなる喜びや楽しさの只中にあることは、

  

我々全てが、『今この瞬間に在る』と知ることで理解できるだろう。

 

例えば、あなたが自らを、わたしは「わたし」であると気付いているように、

 

同じく、神なる根源も自らを「わたし」と気付いている。

 

そこに質的な違いがあるだろうか。

 

いいや、ありはしないのだ。

 

 

小石も「わたし」、木々も「わたし」、川も「わたし」、山も海も「わたし」、地球も「わたし」、銀河も、銀河団も「わたし」である。

 

それは意識の大海の中の、存在諸形態の振動率、周波数の違いのようなものでしかない。

 

意識の波動に本質的な違いはあり得ず、あるとすればその波動としての情報量あるいは振動率、周波数の違いだけなのだ。

  

あなたも、私達も・・・・つまるところは、大いなる「わたし」なのだ。

全ての根源の「わたし」である、それ、・・・

  

それは、いつでも、どこにでも、誰にでも、どんな物にも内在しているのだ。

 

そして、あなたにも、『今のこの瞬間』として在るではないか。

 

 

 

●今の瞬間は常に無条件

  

まさに、今の瞬間こそは永遠なり

 

無条件に、なにものにもよらず、

 

『あなた』がいつも幸せであるということは、

   

それがそれが、その証(あかし)である。

 

今の瞬間には、どんな条件もありはしないのだ。

  

あなたは絶対に幸せであるのだ・・という、大いなる『あなた』からの想いは、

 

すなわち 『無条件の愛』 である。

 

 

 Flower1007

 本日も拙い記事をご覧頂きまして、まことに有難うございました。