世に言う「解脱」や「悟り」は、科学や技術、宗教や哲学等では為し得ないものである。
なぜなら「解脱」(げだつ)とは、あなたの「魂」の垢を落す意識の働きのことだかからだ。
魂の垢とは、この世界に生きてゆく間に思わず知らずまといつけた、条件付けされた稚拙な『こころの垢』のことである。
不信・不満・不安・・ すべてが本来あるべきことの否定、「不・在」を示している。
このような直感的にそれとわかるような、歪んだ想いのパターンのことを「こころの垢(あか)」と言っていいだろう。
それらの「垢」によって、毎時毎瞬が不快に感じることになるのだが、あなたはもうすでにいやというほど気づいていることだろう。
毎日のように身体を洗う人々が、どうして「こころ」を洗うことに気づかないのだろうか。
こころの大切さに気づかず、ましてやケアもせず、それを自ら洗わずにいるおかげで、社会には様々な悪臭が立ち込めているではないか。
今はその洗い流しを迫られている極めて重要な時期にあるのは火を見るよりもあきらかであろう。
実のところ、身体の洗濯よりも、こころの洗濯のほうが意識的存在である人類にとって、極めて喫緊の課題であるというにも係わらず、
まずこころの働きに気づいていないのはどうしてなのだろうか。
あなたの『身体よりも極めて近く』にある、毎瞬毎時去来する『想い』に気づいていないのはどうしてなのだろうか。
その『想い』によってこそ、我々の『幸や不幸』を作り出しているということに、どうして気づかないのだろうか。
それは、
お金や名誉や財産が我々のあるべき理想の状態を作り出すという、現代社会にはびこる「虚妄」の観念に流されているからではないのか。
人も羨む大富豪達がその富の量に比例したぶんだけ 「わたしは本当に幸せである」 とでも言ったことを聞いたことがあるのだろうか。
世界の権威である大学者達が、「わたしは真理を体得した」 とでも言ったことを、誰か聞いり見たりしたことがあるのだろうか。
容姿のきれいな彼氏や彼女を伴った人こそがリッチで幸せそうにみえるのだろうか。
そう信じているのであれば、幸せそうな彼らに是非聞いてみるがいい。
本当に幸せであれば、そのような他を押しのける、がむしゃらな蓄積努力も必要ではなく、また上辺だけの華麗な演技も必要ではないのだ。
本然、自然は、ことさら無理して孤軍奮闘も要らず、貧弱な内面を隠す虚栄の飾りも要らない。
我々は、赤子の時のように、
晴れやかで、穏やかで、愛らしく、すべての人に自然に愛を放散するような、
そんな『素の意識』に戻る必要がある。
すべてを信じ、疑うこともなく、好奇心いっぱいでありながら、
しかも、
何事にも流されることもない、真の大人の知恵を兼ね備えた存在に、
立ち返らなければならない時なのだ。
あなたにはすでにその資格が充分あるではないか。
どこに、誰に求めなくとも、
あなたがこの世界で歩んでいる道のりで得られる貴重な宝物が、
あなたのこころの中にそれこそ満載ではないのか。
たとえそれが、
触れば傷つくような、人間関係というブリキの人形でも、
それなくしては傷つけあうことの可笑しさも理解出来ず、
苦いせんじ薬のような体験も、
二度とやってはいけないとわかる教訓になることもなかったのだ。
広大なあなたのこころ、表面意識のみならず、膨大な潜在意識にある、
あなたの歩んできた数知れない足跡を見つめれば、
その歩みの雄々しさと勇敢さと、
そしてその貴重な感動ばかりの記憶を創り出すために在る、
多くの他人という同胞・兄弟姉妹の大きな愛を感じるだろう。
愛を自らで感じること、
それは、
どこに行かずとも、
何にならずとも、
いつも、今在るこの瞬間の、いのちの輝きの中で出来ることなのだ。
あなたの意識の眼を、どうか下ばかりに向けず、
常にさらに大きく広い、
いつもすぐには気づくこともできないかもしれない、
大いなる無条件の愛に向けようではないか。
あなたがいつもこころのその眼で観るものが、
すなわちいつもその時の「あなた」である。
我々を包含しているすべてのものが、
何も言わずとも、ただそこに在ることによって、
無条件の愛の眼差しを向けているのだ。
我々の行うべきこととは、
虚妄の観念、自我の固まった観念、
物質観念からだけの小さき考え方を、
今一度、いや何度でも洗い流すことなのだ。
そうすればこころの波動は、透明化をはじめ、
より広く、より細かく、より優しく、より精妙に変化しつつ、
その透明度に応じて、
本然が愛である、あなたの真我が浮かび上がってくるだろう。
そう、
どこにいようと何をしようと、
執着のおもりのない、自由自在の境地に浮かび上がるのだ。
これが多くの先達の辿った解脱の道である。
まさに、
悟りや解脱は、単にあなたの『こころ』を超えることなのだ。
人々はすべてその資格を有している。
われわれの意識の眼は、
結果ばかりの外の世界ではなく、
因たる、われわれ自身を見るためにあるのだ。
本日も拙い記事をご覧頂きまして、まことに有難うございました。