人はいつ頃から自己が自己であるという自覚をもつのだろうか。
それは多分幼児期の頃だろう。2,3歳のころだろうか。あなたはどうだったろうか。
その時点で 「わたしがわたしである」 という自覚・・自意識が芽生えるということになる。
実のところは、「わたしがわたしである」 という事を・・再び・・思い出すということだ。
それは、あなたやわたし達は、現世以前にも 「わたしはわたしである」 という自意識を有していたということだ。
それとも、いきなり偶然に・・・今世で「わたし」という自意識が出てきたと思うのだろうか。
常に「今」しかないという・・・経験的事実を既に知っているのであれば、
今・・・在る・・という事は、いわゆる過去も未来もあるという事なのだが、
それとも、それは誰かが数式で、あるいは証拠物で説得しなければならないことなのだろうか。
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人間が他の動物と根本的に異なるのは、姿形や頭脳の働き、知的能力の違いということもあるが、根本的違いはこの「自意識」・・・わたしが私である・・という自覚意識の深さである。
これを意識的な意識と呼ぶことにしよう。
万象顕現の全ての元にあるのは全包容的「意識」であり、その「意識」のある状態、ある内容の表現・顕現が、例えば様々な鉱物であり、植物であり、そして動物である。
そしてまた、こういう様々な意識存在形態には、無自覚的な「意識」からより自覚的な意識への連鎖があると観察されるだろう。
それを意識の進化と言って良いだろう。
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「鉱物に意識があるって?・・そうは思えないよなあ・・・」 というのは、
鉱物自体には人間のような意識的意識がなく、人間と同等の自覚的な反応をすることが出来ないからである。
また人間ほどの深化された意識的・意識とその表現形態がないせいである。
アニメの世界では「やあ、ダイヤモンドさん、元気かい?」といえば、
ダイヤモンドは「まあ、そこそこだね」等ということも可能だが、
実際にはそういうことはなく、表面的には何の反応もないように見える。
しかしながら、人間の意識の内容・想念は鉱物内にも浸透し記憶されるのである。
記憶、記録も即ち人間と同じような意識の働きに他ならない。
宝石には持ち主の「念」が残ると言われるのはそういう記憶作用があるからである。
記憶はすなわち情報であり、情報は波動なくして生じ得ない。
宇宙は原子分子、クオーク等の元である様々な波動で満ちている。
そして様々な波動のなかのベーズバンド、また根源的な波動がここでいう「意識」なのだ。
(鉱物にも秩序を示す結晶構造があるのは、すなわち意識と存在意図の顕れである)
よく擬人化された動物が出てくるアニメがあり、そこでは動物も人間のように考えて・話す・わけだが、これは動物や植物が、人間とつながった『意識』を有することの直観的理解から来ているものと考えられる。
動物に人間のような意識があったらこういう風だろうかという、面白可笑しきおとぎ話であるが、確かに彼らにも意識があるということなのだ、
それはその外観姿や秩序だった内部構造、組織の新陳代謝や化学、光学的な反応などに現れているし、身近な動物に至っては簡単な意思の疎通ができるものもいる。
犬や猫等を飼っている方は良くお分かりだろうと思う。
人間のより複雑なこころの働きだけを「意識の働き」と言うだけでなく、全ての顕現諸物、鉱物、植物、動物にも「意識」が働いているのである。
形に現れているものは、すべからくちょうどそのレベル表現での「意識」と「意図」があるということだ。
現れている物、全てが・・・・「意識」の表現形態である・・・ということ。
根本的に言えば、宇宙顕現の原初の息吹、根源意識の発露、表現意図なくして諸物は現れることもない。
背後にある宇宙意識の発露の表現形が宇宙の被造物あるいは存在諸形態であって、
それが宇宙という様々な次元、様々な表現形で顕されているのである。
仏教でいうところの、山川草木 国土悉皆成仏 というのはそういう意味である。
あらゆる全てのものが、ひとつの意識の表れであり、我々はその無限の多様性を意識的に観察しているということだ。
人間はこの世界に生まれ、いつの頃か、あるいはほんの少しで自意識を持つという事は、すなわち宇宙意識のその自己実現性、宇宙創造の意図をすでに蔵しているということでもある。
その自意識が過剰になり、自己だけに自己が限定され、全てと切り離された個性であるなどという曲解が、すなわちエゴイズムとなる。
エゴが、自己とは・・・全てと切り離された、断片自己だと「考えて」、それを固定してしまえば、その切り離された自己同士は競争や闘争を行なって優劣を競うことにもなるだろう。
どこか欧米式の個人主義、競争意識、優越意識、他者からの簒奪などは、その典型である。
現代のように、企業や組織が本来の目的から逸脱し、自己だけの生き残りをかけて宣伝、洗脳、本当に見える嘘を垂れ流す有様は、まさにそのエゴの末期症状というべきものである。
この先はブラックホール的自己収縮と崩壊が待ち受けているかもしれない。
エゴとは自我への集積と局所化であり、当然ながらそのエゴの重さで収縮自壊作用を有することになるのだ。
・・・・・・・
意識的な意識を有する人間は、つまり宇宙意識の・・・個別化された魂・意識であるということだ。
個別化されたということは、全体を全体から観ているところの神意識、宇宙意識が、
また無数の部分から→全体を観る<自己>を生み出したとも言えるわけであり、
多少宗教的な表現ではあるが、
これがすなわち神の子たる人間の在り方であると言えるだろう。
従って、人間は地に落ちた単なる無知なる・・知的生命等では毛頭なく、
本来は自由自在、融通無碍(ゆうづうむげ)の意識的存在なのである。
それがそう成っていないように見えるのは、
この地球上の平均的な人類想念の偏狭さに起因しており、
その偏狭な想念の重さが相当なものであるが故に、またその想念の鎖を、
その他大勢に右ならえで自らもかついでいながら
何でこうなのかと喘いで(あえいで)いるようなものであったのだ。
自己が無限とつながった存在であり続けながら、他者からの規制を許しつつ自我の殻に閉じ混り、またそういう人々の群れを観ながら、それに憤る・・・愚かさ、
神の子たる魂・意識と、創造の絵筆である想念の融通無碍なる自己実現性を無限に蔵しながら、
外の世界の眠れる他者ばかりを気にかけて、
世間ではあれが良いとか、これが可愛いとか、これは危険だから対策がいるだとか、
そういう何かありそうで・・・実は果実も責任も何もない幻想という常識に縛られて、
そのマーケットで、
一生を消費してしまう消費者になり、様々な虚飾の想念のゴミの中で右往左往しているようなものではないか。
それは、外側で提示される価値観を全て鵜呑みにしてしまう無責任さからくるものと言って良いだろう。
嗚呼・・・、しかしながら、もうそのような小さく重い人類意識の時代は終わりを告げているのである。
自己の自己たる意識、自己の世界の原点たる意識を研ぎすことによって、
また頭だけではなく、こころと行為を純化することを通じて、
(宇宙)意識である自己の無限性に気付けるのである。
今のあなたという、どこか有限な在り方は、
実は、あなたが無限でなければ顕せないものなのである。
これは単なる気持ちの良い抽象論ではなく、
今この時において、気付かなければならない『霊的事実』なのである。