●幸せは求める『もの』ではない
人は皆幸せであることを願っているのだが、「願っていること」自体がその幸福を、その向こうに遠ざけていることに気づく必要がある。
何か逆説的であるがこれは真実であろう。
なにか漠然とした幸福を願うことは何も問題がないはずだが、逆に「願っている」こと自体が、「今」は幸福でないという声明になっているのだ。
人それぞれに幸せはあるものだが、今はそれが誰にも備わっていない・・・という不可思議な共通の観念がある。
何かを求める姿勢は素晴らしく意識的なものであるが、「求めること自体」が、それを「得られていない」ということを意味していることに気づくだろうか。
確かに、何も分からない行き当たりばったりの無意識的状態からみれば、そもそもの自らの幸福というものに気づいているだけ、それだけ意識的になっているということなのだが、そもそもの幸せ自体が一体何なのかが不確かな状態であることを示している。
あなたの幸せとは、一体なんであるか?と問われたら、どう答えることができるだろうか。
あなたが毎日それなりの生活を通じて、どこか得たいと想っている「幸せ」とは、一体なんであろうか。 しかし、それをことさら明確にすること自体、きわめて面倒なことであり、逆にそれが分かれば苦労はあるものか!とも考えるだろう。
多分そうかもしれない。確かに、それが分からないからこそ、求め続けるのだということは正に真実を言い当てた言葉ではないか。
●本当に今、無いのか?
無いから・・求める・・至極当たり前であるが、無いとは誰が決めたのだろうか。
例えば、あなたの幸せが、今は無い・・と誰が決めたのだろうか?
実はこの疑問には極めて重要なことが含まれている。気づかれるだろうか?
今は幸せでない・・・だから頑張って幸せになるのだ・・という「幻想」の観念に気付けるだろうか。
例えばあなたに両手があって、何も問題がないとしても、それでは足りないと言って、苦心して義手を求めるようなものだろう。
また、海に泳ぐ魚達が、喉が渇いたと言っては水を求めて探し回るようなものだろうか。
また、呼吸をしている人が、わざわざ息を止めて、どうしてこんなに苦しいのかと騒いでいるようなものだろうか。
今は皆が幸せでないから、皆その幸せを求めて頑張っていくのだ・・という、極めて尤もらしい「幻想」に染まっている事実に気づけるだろうか。
●幸せとは「今」あること
幸せは、今あること自体であり、それは決して終局の目的等ではないのだ。
既に、今あること自体が「幸せ」であり、それは物でも、金でも、地位でも、名誉でもない。
幸せ、それをどこをどう探そうと、誰かについて行って、何を求めようと、どこに行こうと得られることがないのは、なぜか。
幸せが、あなたにとって、いつも「山のあなたの空遠くにある」のはなぜか。
あなたが、そしてわたしが、今ここに在る・・こと自体が幸せというものだからだ。
幸せは既に与えられているのだ。
幸せ、それは物でも銭でも力でもなく、
永遠の『今生きて在ること』そのものであるからだ。
それは究極の目的ではなく、既に在る、あたり前の『あなた』のことである。
喜びも、悲しみも、苦労も、苦痛も、
嬉しさも、逃避も、戦いも、懺悔も、憎しみも、
当の「あなた」がいなければ体験など出来ようもない。
●『あなた』という創造の原点
快楽に自己投入し、それを追い求めるのも、
苦難に顔をゆがませ、そこに自己投入し耐え忍ぶことも、
当の「あなた」がいればこそなのだ。
それらは全て、あなたが自らの幸せに気付くための方便であったと真に解ることが「悟り」である。光と闇、快楽と苦痛、喜びと悲しみ、その二元性を生み出してきたのは、社会でも親でも、あるいは憎むべき悪人でもない。
様々な観念、記憶、想像もあなた自体が生み出してきた。
そのドラマの主人公はあなた自身でありつづけるし、そのシナリオはトータルなあなたが書き続けるのが真相である。
あなたが不幸であると思っているのならば、そのシナリオを変えてみるべきである。変えることを怖れてもしょうがない。
シナリオに他者を含み、他者に依存しようとする過ちさえ犯さなければ良いのだ。
●因は外には無く、内にある
今、あなたが幸せで在る・・という鋳型を造るのに、どんなものも一切必要が無いのだ。
あなたは幸せである・・・その自覚自体が、
あなたは実はとんでもなく幸せであったと気づく原因となるのだ。
幸せとは何か?という前に、あなたは幸せであるという事実を知ることである。
幸せであることに様々な条件をもってくるような「刷り込み」のウソを捨てることである。
それは不幸を幸福に変えようとする社会全体の幼い試行なのだ。
あなたは、それらはもう充分だと理解出来るだろう。
風に吹かれてみれば今でも少しわかるだろう。
悠久の海を眺めてみれば今でも少しわかるだろう。
さんさんと降り注ぐ太陽の光を浴びればわかるだろう。
美しい草や花を眺めればわかるだろう。
生命を育てる土を触れば分かるだろう。
これら大自然は人間が様々な観念によって生じる不可思議な不幸ごっこを楽しんでいることに気づかせてくれる親身なリアリティ、朋友のようなものである。
人間の自らが作った自作自演の不幸という観念自体が幻想であり、元々自然にそぐわないものである。人類の不幸の観念が大自然を汚してきたともいえる。
幸せを確認する為の、一時の自作自演の『不幸芝居』は、ホンの余興のようなものである。
何を無理してどこからかズルズル引き寄せる必要もないのだ。
幸せではない・・という『観念』自体を捨てるのだ。
誰かの他者に依存せず、何かの有る無しによらず、どこかの仕組みによらず、
あなたは既に幸せという存在そのものであると気付くプロセスだけが必要であろう。
その為には、それらを迷わしている、あなた自身の『こころ』をクリアーにすることだ。
『こころ』が立ち騒ぐ有様は、感覚でいえば、例えばお腹や胸の周辺に有る様な感じのなんとなくの不安としても感じるだろうか。いつもハートのあたりの不安感に気付けるだろうか。
●過去を無意識に『今』に持ち込んでいる有様
過去の『こころ』、すなわち想いと感情と記憶が、無意識に不安と不幸感、不足感の状態にあることに気付けるだろうか。それらは過去のものであるが、今という瞬間に持ち越されているこころの有様を見よう。
内面の自己のこころ模様の一定の鋳型、定在する波動のパターンを作り変えるのだ。
『何かいつも不足で不安だ・・』という『こころ』の鋳型に自ら気付き、それを『何が無くても幸せそのものである』という波動のパターンに作り変えるだけなのだ。
誰かが、ひとびとが不幸である様をどういう屁理屈をつけて説明しようと、現状の悲惨な有様を嘆こうとも、それは常に瞬間に過ぎ去り、消え去ってゆく幻の記憶である。
過去の不幸という記憶を、今という時に常に持ち越して、再生しているだけにすぎないのだ。
今という常在は永遠に刻々新しい創造であり、その湧出点である『あなた』自身が、あなたのツールである「こころ」によって、鋳型を変えてゆくことは、まさにマジックを演出することになるだろう。
変えるべきは、他者でも、社会でも、仕組みでも、夫でも、妻でも、家族でもない。
変えるべきは、それらの真の意味と価値を見通すことが出来る、あなたのこころのパターン以外にないのだ。
想いに気付き、想いを観て、想いをより分け、想いを変えようではないか。
想いはあなた自身ではなく、あなたの自在に加工できるツールであり、
「あなた」という永遠の魂の湧出点は、常に清らかで美しい意識・生命の源流なのだ。
それらを端的に一言で表せば、1つは
「ありがとうございます」 という感謝の念である。
条件などどこにも無い感謝の言葉、想念は
同じく、自然に感謝できる事象、物や事が湧き出でる 「鋳型」 になるのだ。
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。