気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

あなた:幸せの湧出点

2010-07-26 07:42:01 | 覚醒意識

●幸せは求める『もの』ではない

人は皆幸せであることを願っているのだが、「願っていること」自体がその幸福を、その向こうに遠ざけていることに気づく必要がある。

 

何か逆説的であるがこれは真実であろう。

なにか漠然とした幸福を願うことは何も問題がないはずだが、逆に「願っている」こと自体が、「今」は幸福でないという声明になっているのだ。

人それぞれに幸せはあるものだが、今はそれが誰にも備わっていない・・・という不可思議な共通の観念がある。

 

何かを求める姿勢は素晴らしく意識的なものであるが、「求めること自体」が、それを「得られていない」ということを意味していることに気づくだろうか。

 

確かに、何も分からない行き当たりばったりの無意識的状態からみれば、そもそもの自らの幸福というものに気づいているだけ、それだけ意識的になっているということなのだが、そもそもの幸せ自体が一体何なのかが不確かな状態であることを示している。

  

あなたの幸せとは、一体なんであるか?と問われたら、どう答えることができるだろうか。

  

あなたが毎日それなりの生活を通じて、どこか得たいと想っている「幸せ」とは、一体なんであろうか。 しかし、それをことさら明確にすること自体、きわめて面倒なことであり、逆にそれが分かれば苦労はあるものか!とも考えるだろう。

 

多分そうかもしれない。確かに、それが分からないからこそ、求め続けるのだということは正に真実を言い当てた言葉ではないか。

 

●本当に今、無いのか? 

無いから・・求める・・至極当たり前であるが、無いとは誰が決めたのだろうか。

例えば、あなたの幸せが、今は無い・・と誰が決めたのだろうか?

 

実はこの疑問には極めて重要なことが含まれている。気づかれるだろうか?

今は幸せでない・・・だから頑張って幸せになるのだ・・という「幻想」の観念に気付けるだろうか。

  

例えばあなたに両手があって、何も問題がないとしても、それでは足りないと言って、苦心して義手を求めるようなものだろう。

また、海に泳ぐ魚達が、喉が渇いたと言っては水を求めて探し回るようなものだろうか。

また、呼吸をしている人が、わざわざ息を止めて、どうしてこんなに苦しいのかと騒いでいるようなものだろうか。

 

今は皆が幸せでないから、皆その幸せを求めて頑張っていくのだ・・という、極めて尤もらしい「幻想」に染まっている事実に気づけるだろうか。

 

●幸せとは「今」あること

幸せは、今あること自体であり、それは決して終局の目的等ではないのだ。

既に、今あること自体が「幸せ」であり、それは物でも、金でも、地位でも、名誉でもない。

 

幸せ、それをどこをどう探そうと、誰かについて行って、何を求めようと、どこに行こうと得られることがないのは、なぜか。

 

幸せが、あなたにとって、いつも「山のあなたの空遠くにある」のはなぜか。

あなたが、そしてわたしが、今ここに在る・・こと自体が幸せというものだからだ。

 

幸せは既に与えられているのだ。

 

幸せ、それは物でも銭でも力でもなく、

永遠の『今生きて在ること』そのものであるからだ。

それは究極の目的ではなく、既に在る、あたり前の『あなた』のことである。

  

喜びも、悲しみも、苦労も、苦痛も、

嬉しさも、逃避も、戦いも、懺悔も、憎しみも、

当の「あなた」がいなければ体験など出来ようもない。

 

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●『あなた』という創造の原点 

快楽に自己投入し、それを追い求めるのも、

苦難に顔をゆがませ、そこに自己投入し耐え忍ぶことも、

当の「あなた」がいればこそなのだ。

 

それらは全て、あなたが自らの幸せに気付くための方便であったと真に解ることが「悟り」である。光と闇、快楽と苦痛、喜びと悲しみ、その二元性を生み出してきたのは、社会でも親でも、あるいは憎むべき悪人でもない。

  

様々な観念、記憶、想像もあなた自体が生み出してきた。

  

そのドラマの主人公はあなた自身でありつづけるし、そのシナリオはトータルなあなたが書き続けるのが真相である。

あなたが不幸であると思っているのならば、そのシナリオを変えてみるべきである。変えることを怖れてもしょうがない。

シナリオに他者を含み、他者に依存しようとする過ちさえ犯さなければ良いのだ。

 

●因は外には無く、内にある

今、あなたが幸せで在る・・という鋳型を造るのに、どんなものも一切必要が無いのだ。

 

あなたは幸せである・・・その自覚自体が、

あなたは実はとんでもなく幸せであったと気づく原因となるのだ。

  

幸せとは何か?という前に、あなたは幸せであるという事実を知ることである。

 

幸せであることに様々な条件をもってくるような「刷り込み」のウソを捨てることである。

 

それは不幸を幸福に変えようとする社会全体の幼い試行なのだ。

 

あなたは、それらはもう充分だと理解出来るだろう。

 

風に吹かれてみれば今でも少しわかるだろう。

悠久の海を眺めてみれば今でも少しわかるだろう。

さんさんと降り注ぐ太陽の光を浴びればわかるだろう。

美しい草や花を眺めればわかるだろう。

生命を育てる土を触れば分かるだろう。

  

これら大自然は人間が様々な観念によって生じる不可思議な不幸ごっこを楽しんでいることに気づかせてくれる親身なリアリティ、朋友のようなものである。

  

人間の自らが作った自作自演の不幸という観念自体が幻想であり、元々自然にそぐわないものである。人類の不幸の観念が大自然を汚してきたともいえる。

 

幸せを確認する為の、一時の自作自演の『不幸芝居』は、ホンの余興のようなものである。

 

何を無理してどこからかズルズル引き寄せる必要もないのだ。

 

幸せではない・・という『観念』自体を捨てるのだ。

 

誰かの他者に依存せず、何かの有る無しによらず、どこかの仕組みによらず、

あなたは既に幸せという存在そのものであると気付くプロセスだけが必要であろう。

  

その為には、それらを迷わしている、あなた自身の『こころ』をクリアーにすることだ。

 

『こころ』が立ち騒ぐ有様は、感覚でいえば、例えばお腹や胸の周辺に有る様な感じのなんとなくの不安としても感じるだろうか。いつもハートのあたりの不安感に気付けるだろうか。

  

●過去を無意識に『今』に持ち込んでいる有様

過去の『こころ』、すなわち想いと感情と記憶が、無意識に不安と不幸感、不足感の状態にあることに気付けるだろうか。それらは過去のものであるが、今という瞬間に持ち越されているこころの有様を見よう。

 

内面の自己のこころ模様の一定の鋳型、定在する波動のパターンを作り変えるのだ。

 

『何かいつも不足で不安だ・・』という『こころ』の鋳型に自ら気付き、それを『何が無くても幸せそのものである』という波動のパターンに作り変えるだけなのだ。

 

誰かが、ひとびとが不幸である様をどういう屁理屈をつけて説明しようと、現状の悲惨な有様を嘆こうとも、それは常に瞬間に過ぎ去り、消え去ってゆく幻の記憶である。

過去の不幸という記憶を、今という時に常に持ち越して、再生しているだけにすぎないのだ。

 

今という常在は永遠に刻々新しい創造であり、その湧出点である『あなた』自身が、あなたのツールである「こころ」によって、鋳型を変えてゆくことは、まさにマジックを演出することになるだろう。

 

変えるべきは、他者でも、社会でも、仕組みでも、夫でも、妻でも、家族でもない。

 

変えるべきは、それらの真の意味と価値を見通すことが出来る、あなたのこころのパターン以外にないのだ。

 

想いに気付き、想いを観て、想いをより分け、想いを変えようではないか。

 

想いはあなた自身ではなく、あなたの自在に加工できるツールであり、

「あなた」という永遠の魂の湧出点は、常に清らかで美しい意識・生命の源流なのだ。

 

それらを端的に一言で表せば、1つは

 「ありがとうございます」 という感謝の念である。

条件などどこにも無い感謝の言葉、想念は

同じく、自然に感謝できる事象、物や事が湧き出でる 「鋳型」 になるのだ。

 

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幸せは、いまそこに在る

2010-07-18 11:10:14 | 覚醒意識

●人は本当に幸福になりたいのか

幸せとは一体なんであると思うだろうか。

あなたは幸せになりたいと思っているだろうか。

そうであれば、なるほどあなたは今は「幸せ」ではないのだろう。

あるいは幸せになりたいとも、それがどんなことなのかも、はっきりしていないだろうか。

 

そうであれば、なるほど今は、なんとなくの不安をもとに、無意識的に生きているのだろう。

ただ、言える事は、誰でも幸せでありたいと願っているということだ。

これには相違がないと思われるが、なかにはすでにあきらめている人々もいるだろう。

幸せなど努力しても得られるものではない・・・人生とはそんなものだよ。

そう思っている人もいるかもしれない。

実はそういう人は幸せの一歩手前まで来ていることに気づいたほうがいい。ニヒリストに徹して淋しく朽ち果てる必要はないのだ。

幸せは必死になっても決して得られるものではない・・ということにはっきりと理解が至った人はもう幸せの一歩手前である。

あなたの「幸せ」まで、あとほんの少しなのだ。

 

●社会という何でもありの「海」 

我々は大勢の人々の価値観念の海で泳いでいるようなものだ。知らず知らずに家族、周囲、社会、国、世界の様々な価値観念に影響され、動かされている。

あなたは、さまざまなもののとらえ方、考え方をいつか知らずにあなたの心の中に溜め込んできた。その心の中の観念群は、すでにあなたの信念となってしまっていることにも、普段はなかなか気づかないものだ。

その中では、誰かに何かをされたことの驚きがトラウマとなる場合もあるだろう。

常に発展途上である社会の中では、多かれ少なかれそのようなこころの傷を与えたり、もらったりするものなのだ。

特に、親身であるはずの親達や周囲の人達の、言葉や行為が幼児であるあなたやわたしたちに影響を与える場合もある。

親といえども発展途上であるがゆえの至らぬ言葉や行為が、知らず知らず子供に影を落す場合がある。それが元で、どこかでそれを「認知してもらいたい」という潜在的で目に見えない動機によってその後の人生を動かされることもあるだろう。

あるいはまた、人々の色々な集団の中において、未だ至らぬ人々の様々な言動がきっかけで、知らず知らず、怖れや誤解をあなたの心に染みこませてしまったこともあるだろう。

それが元で他の人々を逆に蔑んだり、嫌ったりするような、くぐもった感情の「土壷」にはまり込む場合もあるだろう。

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●与えられた不幸という名の「幸運」

また、人生において極端に不幸に気づかせられるような生れ方をしている人々は、逆に幸運といわねばならない。

例えば身体不遇を持って生れた人達、あからさまに人と異なる容姿をしている人達、社会でどん底のような貧乏を味わった人達、そのような、普通とは違う生れ方をしたり、とんでもない失敗をしたり、ほんの少し普通の人と違うことで、嫌悪されたり陰湿に処遇されたりした人達は、逆の意味で魂の練磨にとっては極めて幸運だといえるのだ。

 

なぜなら、それが明らかに間違ったことだと身をもって気づける体験ができるからだ。 忍耐と気付きと、客観視まで至る為の体験は、そうそうできるものではない。

   

そのような人は元々の魂のレベルがある人達なのだ。それは良い悪いではなく、それが多生にわたって培われた魂のパワーと言えるものだろうか。

 

自分がどうしてこう不幸なのか?と悩んでいる人は、もうすでに気付きの光明の一歩二歩手前まで来ていることを肝に銘じるべきである。

 

 

不幸という幻が、あなたの意識の表面に浮上して来ている証拠である。

底のそこに溜まっている不幸というヘドロの幻想が、

あなたの意識の表面に浮かび上がって、消えて行く寸前なのだ。

自分の培った想いを、忍耐をもって観てあげようではないか。

  

●平均的・常識的価値判断という幻(まぼろし)から覚めよ

ある時には、その他大勢の常識的で幸せそうな?人々から外されたと思って悲しく思うこともあるだろうが、そういう一見不遇で可哀想といわれる人たちは、それが全くそうではないことがわかるまでの理解の近道を歩いている人々なのだ。

誰にも似たり寄ったりのことはあるだろうし、実のところは、ほとんどの人々がそういう知見をしているのだが、不思議なことに、皆、自分だけ特別不幸であると思っているようだ。

たしかにそのような、自分だけ不幸であるとどこかで感じながら生きている人々のつくる社会では、まさにそのような不幸な人々が量産されてしまうことも自明だろう。

しかしながら、実のところは、あなた以外の大勢の常識的で幸せそうな人々の存在は、それはまったくの幻想観念でしかないのだ。

自分以外はきっと皆幸せに違いないと想うことは、まさにそれが思い込みであり幻想でしかない。

自分が不幸であるという漠然とした不安感、不足感も、実のところは有りもしない幻想なのだ。

その幻想映画を楽しんでいる、どこか不幸好きな?自我の影に気づけるだろうか。

 

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●誰が幸せに条件をつけたのか?

自分がその他の人々と違っているから、不幸である、不遇であると思い込んでしまっていることにすべての問題があることに気づくべきである。

 

そこにある大きな、最大ともいえる誤解は、人々があなたを幸福にする・・という観念、人々からの満足した処遇と尊敬を受けなければ、あなたが幸せではない・・というあなた自身の知らず知らず作り上げてきた「刷り込み」観念から生じているのだ。

人が幸せであることに、常に何かの「条件」を持ち出していることに気づくだろうか。

車がなければ、・・・立派な家がなければ・・・、愛してくれる魂の伴侶が傍にいなければ・・・、お金が潤沢になければ・・・・、社会地位が高くなければ・・・、他国を支配して平和にしなければ・・・・・  そうした条件がなければ、あなたは幸せではない・・・・という、まさに嘘八百の観念に動かされてきたのだ。

ある意味では、社会の平均的な集合観念のもたらす「嘘」である。

確かにその嘘がなければ、経済発展も、GDPの増大も、幻の大国化も出来なかったのだろう。

しかしながら、経済大国に住まう人達が、例えば極北のエスキモー達より本当に幸せであろうか。チベットの山奥の昔ながらの生活をする人々より幸せであるのか。

いいや、そうではあるまい。

物資の豊かさや便利さは肉体にとっては安楽さをもたらすことができるが、

肉体の安楽さや快楽が、幸せの必要条件であるという認識自体が極めて刹那で狭い了見といえるのだ。

 

幸せに「必要条件」がある?という、最大で最悪の観念が人々に刷り込まれている・・というよりも、そのような社会での人間関係のなかで、自らがそういうふうに自分でプログラムしてきたのだが、肝心要なそれに気づけるだろうか。

問題は人にも気づいてもらう、ということの前に、あなた自身が、わたし達自身が本当に気付いたのかということなのだ。

 

 

●人の間すなわち空(くう)

人と人の間のことを「人間」という。

社会や集団の中で生きることはまさに「人間」なのだ。

あなたは「人間」を、いまここで体験している。

あなたはある意味で「人」ではなく、人と人の間であり、空(くう)でもある。

人間は肉体でも観念でもなく、人と人の間の空(くう)なのだ。

人と人の間を無理して埋めようとしてはならない。

なぜなら人と人の間は「空」であり、無理やり期待という想いで埋めようとしても埋まるものではないからだ。

理解しよう・・とか、分かってもらいたい・・とかは、あるいは改革も革命も、

あくまでも人の中の、淋しさや怖れが元であることに気づくべきである。

自分の淋しさや不安や無理解を、人に投影し、人に期待をかけることの誤謬にもう気づくべき時であろう。

「人」がやらねばならないそのすべてはその「人」自身にあるのだ。

あなたの人生は、誰かが?裏で操作したりして造るものでもなく、

誰かのせいで人生航路を曲げられてしまうものでもない。

すべては、その時の意識、その瞬間の「あなた」の「意志」によっている。

他人の悪が藪のように鬱蒼と自分にからんでくる・・という倦怠感も、あなた自身の採用している「観念」にしかすぎない。

 

●不幸という観念を捨て去るべし 

不都合で不確かな、そして自分を不幸にさせるような「観念」をすべて、今、捨て去るのが良い。

いさぎよく捨てるのだ。

あなたが後生大事にしまいこんできた、密の味のする不幸という重い想いを今すべて捨て去るのだ。

もともと持っては来なかった、あなたを不幸と思わせる「想い」を捨て去るのだ。

 

どうすれば捨て去ることが出来るのか?

簡単なことがどうしても困難に見えるところにも、我々が密かに楽しんできた、蓄積された陰湿な想いや恐怖が潜んでいる。

ひょっとして、幸せなど面白くもない・・という陰鬱な影を、あなた自身の中に見出すことが出来るかもしれない。幸せになったら最後、死んでしまうのではないか・・そんな怖れがあるのかもしれない。

 

残念なことに、

何をどうこうしなくても、あなたはいま、間違いなく「幸せ」なのだ。

「幸せ」は作り上げるものや状態ではなく、いま生きている事実のことである。

 

 

それはあなた自身が気づくしかないことである。

  

それに関して他者は関係がないのだ。

他者は別の「あなた」であり、その別の「あなた」も自ら目覚める道中にある。

不可思議にも、なぜか自分が不幸と感じる根本は、

他者でも、親でも、組織でも、社会でも、国でも、陰謀組織でも、架空の神でもなく、

あなた自身にある。

 

潔く、自ら背負ってきた重い観念を捨て去り、

 

自然に、人々の為に、自分の為に、今感じること、行えることをしてゆくのが「幸せ」なのであり、

その「既にある幸せ」を最大限に表現してゆくのが本来の「人生」という花道である。

 

その花道には、他者の押し付けや、無理や、脅迫観念は微塵もない。

 

なぜなら元々持ってはいなかった「余計な観念」自体を「捨て去る」からだ。

 

 

●感謝により、それそのものが顕在化する

 

あなたが本当に「いま幸せ」であることに気づいていること、

それそのものが「幸せ」の本質である。

余計なお世話といわれるかも知れないが、

あなたは「幸せ」以外に有り得ない存在である。

「幸せ」すらも怖れる場合は、いまはどうしようもないのも事実ではある。

しかしながら、潔くあるべきではないか。

 

何ごとにも「感謝」を通して、「幸せ」をそれを今の「事実」として受け入れるのだ。

 

それが謂わば「ノウハウ」である。

そうすれば、おっとり刀で喜び勇んで「幸せ」が顕在化してくるだろう。

あなたが認めて、感謝する分だけのその都度、ちょうど良い具合の「幸せ」である。

幸せとは、今すべての「あるがまま」を観ることが出来ることである。

宗教がかった言い回しと言われようとかまわないが、

常に最大限に湧き出でる神の恩寵、贈り物を、素直に

「ありがとう」

 

・・・・と受け取る勇気が必要な時がある。

  

真なるあなた、幸せなあなたに自分自身で戻るときが来ている。

 

あなたが本当に「いま幸せ」であることに気づいていること、

それそのものが「幸せ」の本質である。

したがって、既に、もう幸せなのが、実は「あなた」の本質である。

  

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神性の臨在(2)無限なるワンネス(一体性)

2010-07-11 10:47:23 | 偉大なる先達の言葉

・・・P18よりの続き(デビッド・R・ホーキンス博士の回想)

・・・・・・・・・・・・・・ 

わたしはこの主観的体験について口にすることはありませんでした。というのも、その体験を描写する手がかりとなるようなものは何もありませんでしたし、聖人たちの生涯を記した文書以外、ほとんど霊的経験について耳にすることはなかったからです。

 

しかし、その体験以後、現実として認識される世の中の出来事は、仮のものでしかないと感じるようになりました。伝統的な宗教の教えは重要性を失いました。存在するものすべてを輝かせる「神性の光」に比べると、伝統的な宗教の神は鈍くくすぶっているだけでした。こうして、霊性(スピリチュアリティ)が宗教にとって代わったのです。

 

それから第二次世界大戦中、掃海艇での危険な任務に就いたとき、しばしば死の危険に瀕しましたが、死ぬことに恐怖を感じることはありませんでした。あたかも死そのものが信憑性を失ってしまったかのようでした。戦後は、心の複雑さに興味を抱いていたことから精神医学を学び、・・・・・中略・・・

けれども専門家としてのストレスが多い生活から徐々に致命的な病が進行し、どんな治療法も効果を示すことはありませんでした。38歳にしてわたしは極限状態に追いつめられ、死期が迫っていることを悟ったのです。肉体に関心はなかったのですが、霊(スピリット)がひどい苦悶と絶望感にさいなまれていました。そして最後の瞬間が近づいたとき、次の言葉がふと頭によぎったのです。

 

「もし神が本当に存在するのだとしたら?」

 

それからわたしは声に出して祈りました。「神よ、あなたがいらっしゃるのなら、どうかわたしを助けてください。」と。神がなんであれ、すべて明け渡すと、意識は忘却の淵に沈んでいきました。再び意識が回復したとき、何か途方もなく大きな変容が起こり、ただ沈黙と畏怖の念が広がっていました。

 

もはや個人は存在していませんでした。個人的な”わたし”も自己も自我もなく、ただ”わたし"にとって代わった限りないパワーの「無限なる臨在」があったのです。

身体とその行動は、完全にぞの「臨在の無限なる意志」によって統制されていました。世界は、「無限なるワンネス(一体性)」の明晰さによって光り輝いていました。

万物は、「神性」の表現としてのその無限の美と完璧さをあらわにしたのです。

・・・・p19以降 次回へつづく

Hs200908bweb  

人生とは偶然の出来事ではない。

それは無意識に過ごすのはあまりにも潜在的に神々しすぎるのだ。

しかし、その神々しさは、外から何かを獲得し、付加して創られるものではない。

無限の慈愛や理解は付加したり、差し引いたり、加えたりするようなものではない。それは元々在る無限性のことだ。

ただ必要なことは、あなたやわたしたちが生れ落ちた、この発展途上の世界のなかで、知らず知らず身に着けた、本来は存在しない架空の価値観念に気づきながらそれをすこしづつ取捨択一し、不浄なものを自らでそぎ落としてゆくことなのだ。

人生においては、人に勝った負けたのお祭り競争に巻き込まれたり、本来あるべき姿から逃げ隠れしたり、不特定の他者を恨んで嘆き、拳を振り上げることもあるだろう。そうしてその行為の虚しさを知ったならば、それを繰り返さない程度の知性も出てくるものだ。そうして何が大切なのか、気づいてゆくのだ。

 

まずもって、問題なのは他人でも世界の悪でもなく、後天的な各人の人生で色付けられた、それを観るあなたやわたしの「こころの癖」である。

 

皆、何も問題などなかった、幼き頃の素の意識を取り戻すための長い人生の意味にも気づくべきだろう。

赤ん坊のような素の意識、輝かしく可愛く、嬉しく、ありがたいようなその在り方と、悠久の繰り返しの人生で培った大いなる叡智をあわせ持った存在、それが本来のあなたなのだ。

我々は皆ここを通ってきた者ばかりであり、あるがまま、素の在り方が何たるかすでに体現している者たちなのだ。

それは何かに依存した、いたいけな存在ではなく、

さに「そのまま」で輝かしく、力強いあるがまま、素のあり方を示しているのだ。

ただ、ただ、自己の「こころ」を浄化すべきなのだ。こころは生きるための大切なツールであるが、それ自らが主人公の仮面をつけているところが不幸の元なのだ。

あなたたちやわたしという根源意識の表れにしかすぎない「こころ」という知覚のレンズがさび付き、汚れているために、外に周りに不浄を観ることになる。

こころの浄化は自己のこころを、逃げ隠れせずに正面から「観る」ことで行なわれる。

 

なまっちょろい依存心をそぎ落とせ!

己だけは・・のエゴ自我をなつかしい記憶の中にしまい込め!

人生は自己研鑽の場と肝に銘ぜよ!

皆々発展途上である仲間達を批難中傷するな!

すべての体験も想いも、存在していること自体の奇跡の証拠なのだ。

感謝なしで人生を感じることなど出来ようはずもないではないか。

 

綺麗になったこころで観えるその輝かしい世界は、まことにあなたやわたしたちの住まう世界である。それはいつかどこかの時代でも、どこかの星系にあるわけでもなく、高い次元の天国にあるわけでもない。

 

あなたがいつもいつも今在るところが、常にあなたの理想の世界なのだ。

つねに自らを顕し続ける根源たる意識・それがあなたである。

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神性の臨在(1) 超越体験

2010-07-05 08:21:03 | 偉大なる先達の言葉

世の中で、ただ漠然と生きていることを体験している人々は多いのかも知れない、がしかし中には「意識の進化」ということに気づいている人々も多いだろう。

意識の進化とは、物質肉体を強靭にするという意味でもなく、精神を鍛えあげるという意味でもなく、こころを無にする努力でもなく、その時々の生存形態、意識のスケールによって演じながら、ただ本来の自己たる神性、すべてのすべての根源である「わたし」に気づいていくプロセスのことだ。

それぞれの「わたし」が、神性そのものである真我に拡大・浸透してゆくプロセスであるとも言えるだろうか。

今我々が歩いている道のことでもある。

あなたもわたしも偶然に生れて、うつむきかげんで生活し、そのうち死んでゆく肉体人間どころの話しではないのだ。

無限とは思い描くことの出来ないものであり、今の我々が有限を演じることで様々にその無限を引き出しているともいえるのだ。無限、それは、神、根源、内在神、宇宙意識とも言われている。我々はそれぞれが無限から生れたものであり、それぞれは無限を本性としている。

我々は無限者からやって来ているのであり、変化する世界での目先の体験への固執も執着もまったく見当違いであることがわかれば、どのようなことにも、こころ穏やかに微笑むことすら当たり前であることなのだ。

集団無意識のなかの卑屈な自己認識によっては、誰か他の人、そしてあなたが幸せであることはないだろう。逆に太陽のような暖かさと明るさこそが、あなたやわたしの本当の属性であることに気づくことだ。それが素の在り方というものである。

レンズである、こころのパターン、癖を取り除くのが人々のいつもながらの喫緊の課題なのだ。

Nature1011  

・・

精神科医であり、キネシオロジー等による意識レベルの測定を体系づけたデビッド・R・ホーキンスは、幼児期にいわゆる超越的意識体験をしたことを著作に示している。

超越意識体験とは、すなわち無限のわたしという、素の意識に完全に気づいた瞬間のことだ。立ち騒ぐマインド、思考、感情などが、何らかの状況で静止した瞬間に、それぞれのわたしが、本来の「わたし」に瞬時に拡大・シフトする事といえるかも知れない。

これは多くの人々に大なり小なりあることであるが、せわしいこころが眼に見えるものだけに馴れてしまったせいで、皆目気づかないのが本当のところだ。

単に意識の焦点とも言うべきものが、大いなる神性、無限者としての自己にでなく、五感に映りこむ刺激の方に固定されているというだけのことだろう。

 

彼は精神科の臨床医として活躍をする傍ら、悟りのプロセスをその人生自らで体現してきた。キネシオロジーという、簡素であるが確実で高度な手段を確立し、意識のレベルの測定というある意味で客観的な手法をもたらした。

彼もまさしく覚者であり、マハラジ、ラマナ・マハルシ、その他大勢の地球に降り立った教師達の一人であると思われる。

 

・・・・・・

「わたし」真実と主観性 デビッド・R・ホーキンス著 立花ありみ訳 (ナチュラルスピリット刊)より

P16-18

わたしの生涯を通しての強烈な意識の状態は幼年期に始まりました。それは最初にインスピレーションとなって現れ、その後、主観的悟りのプロセスを進むための指針の役割を果しました。

わずか3歳のときに、突如存在のあるがままの状態に完全に目覚めるという現象が起こりました。非言語的な部分で深遠な”存在”の意味を完璧に理解するとすぐに、そもそも”わたし”は存在していないのではないかという身も縮むような恐ろしい洞察が訪れました。

おぼろな意識が突然、自覚的な気づきに目覚めた瞬間に、個人的な自己が生まれ、”IS (そうである状態) ”、IS NOT (そうでない状態)”の2元性が主観的意識の中にたち現れたのです。

子供時代と思春期を通して、存在の抱える矛盾と自己の本性への問いが絶えず心を占めていました。

時折個人的自己がより大きな非個人的な「自己」の中にすべりこむと、当初の 非-存在 (non existence)の恐怖---無に対する根源的な怖れ---が再燃しました。

ウイスコンシン州の田舎町で、十七マイルのコースを自転車で回りながら新聞配達をしていた1939年の頃、家から数マイル離れた真っ黒な冬の夜道で氷点下20度の猛吹雪に襲われたことがありました。自転車は氷の上に倒れてしまい、荒れ狂う風が新聞を荷台からもぎ取り、雪に覆われ凍結した地面一体に吹き飛ばしてしまいました。

悔しさと披露の涙がにじみ、着ていた服は凍り付いてこわばっていました。わたしは暴風から逃れる為に、高く積もった雪堤の凍てついた外壁を砕いて隙間をつくり、中に滑り込みました。

程なくすると震えが止まり、えも言われぬ温かさに包み込まれ、あらゆる描写を超えた平安が訪れたのです。

そこには本質と不可分の始まりも終わりもない、光と無限の愛の臨在が充溢していました。

肉体と外界の感覚が薄れていき、気づきはあまねく存在する光に照らされた状態と融合していきました。

こころに静寂が広がり、あらゆる思考がやみました。

 

「無限なる臨在(プレゼンス)」が存在するものすべて、あるいはそこに唯一存在できるものとなり、時間もいかなる描写も超えていました。

 

どれくらい時間が経ったのでしょうか。何者かが膝をゆらし、不意に意識がも戻りました。--そこには不安げな表情をした父の姿がありました。肉体とそれに付随するすべてに戻ることはひどく億劫でしたが、父の愛と苦悶のおかげで、「霊(スピリット)」は肉体に滋養と活力を注いだのです。

父の死への恐怖に同情しましたが、同時に死という概念そのものが不条理に感じられました。

 

(つづく)

Nature2003

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