気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

自己を許すこと・癒すこと

2009-09-27 12:06:08 | 心の科学分野

●こころを洗う

今、我々のまず為すべき事は何だろうか。

多分・・・、それは我々夫々の「思い」の浄化ではないだろうか。

それは自らが行なえるものであり、また自らしか行なえないものだ。

自分の「こころ」の洗濯である・・・・

ただし、こころの洗濯というのは、こころの中の汚物を洗い流すことということではなく、汚物と感じている様々な感情に意識の光をあて、キラキラ輝く体験・経験という宝物に変質させることなのだ。

●トラウマは夏休みの宿題のようなもの

トラウマやこころのしこりを、それを嫌なものとして捨て去る行為ではなく、それと対峙し、それを観て、その経験意味を悟ることなのだ。悟りとは究極の達成ではなく、1段1段と確実に登る階段にある・・と言うことであり、目からうろこを落とし続ける行為のことであろう。

その為には、自分の感情が訴える、その歪んだエネルギーの中で右往左往してはいけないと思う。感情の訴えは、我々に混乱や忌避を求めているのではなく、そこに、我々の「観るべき」重要なものがあるという意思表示なのだ。

 

●体験と体験する者の違いに気づくべし

我々は体験自体でなく、体験をする者なのだ。人生を演じる芝居の中の役者のようなものであり、役者は役の中で演じるところの二枚目や三枚目、悪役の役どころ、またそれが喜劇、悲劇のストーリーであっても、決して自己を失わないことと同じなのだ。

我々は間違いなく、体験・経験自体ではなく、それを体験している主体である「魂」「意識」という、人生の舞台を超えたところの役者なのだ。あるときは喜劇、あるときは悲劇、あるときは加害者、あるときは被害者として、この地球という独特のフィールド演劇に出演している。

未だ大勢の人間達はそのことに気付かずにいるのかも知れない。演劇の中の自己の役回りが、自分の思いや感情によって創作されていることに気づく段階において始めて、自己の演技、演出、体験を創造している役者である自己に気づくのだろう。他者が我々の人生のシナリオを描くわけではないことに気づく必要があるのだ。

 

●我々は無限に自己演出する役者のようなもの

役者が、単に役の中の体験演技にこだわり、その役どころで進行する時空舞台の演技という流れの中で、トラウマを作り上げることの「可笑しさ」に、今はもう気づくべきかも知れない。プロの役者ならば、気にするべきは、思いや感情によって創られる自らの演技の輝きかたであり、決して単に舞台の中の様々な物語自体ではないだろう。人生のある時は喜劇、ある時は悲劇の様相を呈すものだが、自分が役者であることを知っている者は、その様相自体に己を没入させず、そこにいる自己を、それを大きな視野で観ながら演技する者なのだ。

様々な気付きのレベル、段階において経験するものは、それを経験・体験することでその気づきのレベル、段階を超える為の後押しであろう。たしかに、経験しなければ一体何が解るものだろうか。体験・経験は大きな自己への気づき、理解を深めるためのものなのだ。それを創り上げるのは、自己の思いであり感情である。

 

●外は内の反映でしかない

目の前の机を、縦にしようと横にしようと、我々の魂の発露であるところの本質的な「思い」は何も変わるものではない。洋服を変えようと着飾ろうと、我々の内面は変わりようがないのだ。ゴッタ煮のような情報群を百科事典のように集積するだけでは、知恵や力には変わりようがない。

世界の多くの人々が外に向かって、いかに夫々の自己主張を行なうか、いかに相手に理解してもらうかに腐心している。それはベクトルが違うのだ。自らを理解するのは自らであり、それを他者に求めるのはまさに筋が違う。

外なる世界の諸物を、ここあちらと切り刻んでも、また統合しても、それはごまかしやお遊びでしかない。その前に、自らの存在として拠って立つところの、魂の発露である「思い」に対峙すべきではないだろうか。地球という、愛溢れる大舞台を維持する者は、役者としての人類の目覚めと感動的な演技、それを待っているのだ。地球という大舞台をここかしこ切り刻んで遊ぶような幼年期はもう終りかけている。

 Mir_sts63_j 

 

●こころは体験の動的フィルター

自己の周りの世界を認識するのは、我々の「思い」と「感情」という内面の働きである。世界をあるがままに見るには、我々の中にある、こころの歪を探り出し、思い出し、それが単に経験と感情であることを認めるのだ。そうして、そこにあるかも知れない、怖さ、恥ずかしさ、憤りなど、内面の歪となっている感情を勇気と根気で解きほぐし、その噴出をそのまま開放するのだ。

こころは各人各人の体験のフィルターであり、我々の行なうべきことはそのフィルターを掃除することだろう。トラウマはフィルターに映る影であり、その影の原因である歪んだ思いと感情を、自ら癒すべきなのだ。

そうしたあかつきに、我々の目の前に映し出される世界・地球は、実に調和に満ちた世界でありながら、様々な生命たちの、かけがえのない体験と学びの場であることが理解されるだろう。

以前の記事の繰り返しになりそうだが、ホ・オポノポノの言葉は、実に簡単でありながら、広大な生命の海ともいえるこの諸世界の根源とつながる響きをもっている。

・・・

ごめんなさい

 許してください

  愛しています

    ありがとう

・・・

この言葉は、自己を癒し、自己の鏡である他者を癒し、全てのものが、全ての為にこそ存在している真相を表わしていると感じないだろうか。癒しは体験を、感謝すべき知恵に変質させるためのものだ。

実のところ、ここにも、どこにも、かしこにも、「許し」と「愛」と「感謝」に満ち満ちているのが真相なのだ。まさに宇宙全体は未知から既知へ、嬉しく楽しい実のある体験を続けている。

Nature1008

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。


警鐘と向き合う

2009-09-21 20:47:59 | 心の力学

現状を幅広く知覚、認識することではじめて、その中に潜む危険性、すなわちそれぞれの自己にとり不都合な現象生起の可能性等にも気づくことが出来る。

また、その対策を出来うる範囲で、大なり小なり行うことで、その危険性というものが、逆に薄められることになるだろう。これは機械制御でもおなじみのフィードバック機能と同様なプロセスとも言えるだろう。フィードバックした情報は、怖れて脚をすくませる為のものではなく、事前に対処しそれを回避する為のものだ。

常に危険の防止策は、意識的であることと、事前に察知することなのだ。

しかしながら、現実に対する認識が偏ったり、無視されたりする場合には、その危険性すらも感知できないことになる。嫌なものは見たくない聞きたくないという、無意識下での逃げの心理が働いている場合がそうかも知れない。

そうした場合には嫌な厭なものが追っかけで現象化してくる。まさに鬼ごっこのようなものだ。

お互いが他人任せの無意識なあり方であれば、その意識的気づきの欠損、断層、ギャップ自体がまさに「サプライズ」に変換され、個々人にとって予想だにしない驚天動地の現象に遭遇することにもなるのではないかと思える。

確かに、知らなかったからこその驚きであるし、解らないからこその恐怖になるものだ。

言葉を変えていうならば、不都合なものに対する予言なども、事前に騒ぐ事で、いつの間にか、大勢の人の意識がその潜在的な可能性に向けられ、その潜在エネルギーの現象化傾向を一部先取りすることにもなり、逆にその方面での現象化は薄まるのかもしれない。

そうは言っても、我々は平和であってもボケてはいけないのだと思う。ボケると目覚し時計が強制的にでも鳴り響くようなものかも知れない。また、目覚まし時計を憎んでも、それは筋違いというものではないのか。目覚めてしまえばうるさいベルを止めることが出来るのだから。

要は、警鐘や不都合と思われる予言や予知についても、それが、何がしかの情報であることを認識すべきだろう。そんな馬鹿な・・等と根拠無く笑ってみたり、また逆に、全てを鵜呑みにして、恐怖で凍りつくようなことなどは、まさしく現状認識努力からの安易な逃避かもしれないのだ。

要は、まず、実はそれがよく解らないのだと認識すべきであり、次に、自分の知性・感性で判断する以外には妥当な策はないだろう。

一つには何はともあれ、自己で可能な範囲で対処しておくのが当たり前の、いわゆる転ばぬ先の杖というものだ。それで安心が得られるならば、それこそが恐怖からの開放にもつながるものだ。

とはいえ、有象無象の情報の氾濫する世界の中にあっては、認識眼または直観力が必要なことも事実ではある。人々の現実の背後にあるのは、人々の潜在的なこころ、意識作用であると考えれば、例えばジョセリーノ予言等も、有名になるにつれて次第に予言が外れる?ようになることも理解しやすいだろうか。

理屈を言うならば、こういうことかも知れない。

不都合で危機的な予言を事前に知ることで、大勢人々の意識が、否応無くその潜在的な歪みや可能性にアクセスしてしまう為、本来ならば大きいはずの潜在エネルギーギャップに対して干渉することになり、その原因となる潜在エネルギー自体が、どこかで変質してしまうのかもしれない。

一挙に生起するはずの?危機感や恐怖という現象が、部分的に先取り体験され、漏洩してしまうからだとも考えられる。例え現象が起きたとしても、事前にどこか既知であれば、無知と既知の間のギャップからくる驚きや衝撃は少なくなるものだ。

 

隠されたものは現れる。現れたものは消え去ってゆく。

潜在はいつか必ず顕在となり、未知が既知になれば怖れも露と消える定めだ。

おのれの心の影にある怖れは、おのれで引きずり出して、日の光にさらすべき時なのではないのか。

 

 

Img_0875

予知や予言、警告の恐怖に同調することで、それを増幅してしまうことも有りそうだが、まず、人々がその潜在的な可能性を知ること自体において、原因側の変質が起きるものだと考えられる。

それを増幅するか変質させるか、打ち消すかは、いつもいつも我々の周りの舞台を現すところの、心のパターンによるのだ。逃げずに向き合うこと、驚天動地の現象であっても、またはナチュラルな変化であっても、またはどうということでもなくても、いさぎよく、今の自分の中においてこそ、それに対峙することが、まずもって肝要なことだと思えないだろうか。

これは物質の要素である素粒子と、それを見ようとする観察者の相互作用にも比すことが出来そうである。実のところ「知る」という意識的な行為自体が、物質的な「現象化」への干渉作用をもたらすといえるのだ。

狼少年の逸話のように、村人に対する「狼が来るぞ~」という警告に耳を傾けている限り狼は現れず、それを忘れ去った時にこそ狼が来るようなものかもしれない。

逸話における村人の過ちは、危険という客観的な可能性から目がそれてしまい、「狼が来るぞ~」という少年の、当たり外れのほうに意識が行ってしまうことである。少年の挙動のみに集中していたことが村人の過ちであるとも言えるだろうか。

要は、個々人が常に意識的であることが必要なのだろう。

余談として、この世界には、さらに高次ともいえる理解を得ている人たちがいる。人類自らが、自らに不都合な潜在面のエネルギーの歪みを、無意識に創り上げてしまう行為に対して、祈りなどを通じて積極的に変質させることを引き受けている人たちもいるようだ。

それは、我々のような一般人の危なげな「制御されない、潜在エネルギーへの干渉」と違い、立派に制御された意識的干渉であり、まさに大人の所作ともいえる。人類にもいわゆる親と子供の役割付与があるようなものだろうか。

  

恐怖という、自ら創るところの「観念」自体が、自らのその恐怖の「原因」となる

意識的・無意識的に念じてしまうこと、引き寄せる作用自体は、自分のこころにあるのだという事実に、常に気づいている必要があるのではないか。

眠れる人には目覚しの合図がラッパのごとく次から次へ鳴る時代かも知れない。巨大な音で失神する前に、早めに目覚めるに越したことは無いではないだろうか。

我々の体験・経験は、他の誰かが決めるものではないという真理ともいうべきものを忘れてはならないだろう。

こころの中で本当にそうだ・・とどこかで信じている通りの体験をするのが我々という意識的存在なのだ。

今は、人間としての叡智の輝きを磨く試練の時であるともいえるかも知れない。

思いのパターンが、行動、現象化の種・原因を創っていることを理解し、恐怖や不安を、いっさいがっさい、きれいさっぱり投げ出して、希望と信念と、そして本当の豊かさをまず自分の心の中に創り出す時なのだ。

 

ゆくべき道を決めるのは、いつもいつもわたし達の、意識的な「選択」をおいて他にあろうはずもない。

 

我々は、今、物質~エネルギー、そして、ようやく、その因である「意識」に気づく時代に来ている。

  

   

Nature1011_2

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。

  

 

・・・・・・・・・・・・・・

 話は逸れますが、玉蔵さんのサイトから警鐘が出ています。ご存知ない方は一読をお勧めします。今までにそうそう無い情報発信内容ですが、時々閲覧させていただいている彼のブログゆえ貼り付けさせて頂きます。

http://goldentamatama.blog84.fc2.com/blog-entry-442.html

・・・・・・・・・・・・・・ 


原初の光

2009-09-19 19:38:23 | 宇宙的気付き

●第一義的原因 「私は有る」

我々の生きてある時空、また遥かに思い描くことが出来るこの悠久の可能性の世界のなかには第一義的なことがある。

それは何だろうか。

それは宇宙開闢の原初の「意志」であり「意図」ではないのか。宇宙を現し続けるものが、最初の最初に決めたことは、いつもあなたやわたし達の中に在る意図であろう。

それは、・・「今有る」という気づきを通して、目覚めることなのだ。それに終わりなどないところの、その者である「あなた」に今気づけるだろうか。

森羅万象、あるいは宇宙という、この創造の只中で、我々が「今」「ここ」に有るということは、我々自身が、全ての元の元の源泉であるところの、根源の意図を保持しているということに違いないとは思えないだろうか。

原因なくして結果はない。

原因と結果の法則は誰しも理解可能だろうか。 例えば、物体の作用とその反作用でもあり、観察している意識と物質を構成する素粒子、量子との関係でもあり、また人間それぞれのこころのパターンとその反映である経験・体験との因果関係でもあり、様々な生命と生命との生態系での共存関係・因果関係でもあるだろう。

第一義の意図・因が、いつも「今有る」がゆえにこそ、我々を含んだ大勢の命の「今」がある。

「私はある」という、その第一義的ともいうべき「意図」こそ、瞬間・瞬間に生まれ続けている様々な世界、時空・諸現象の元の元の因であるのだ。それを古来から直感的に言い表そうとしてきたのが、創造主・神・仏などという概念だろうか。

「わたし」が今有るからこそ、「わたし」の周りの世界がある。 同じく、「神仏」の根源の意図という因が今有るからこそ、「神なる仏なる」世界が展開している。

我々を含むあらゆる意識ある存在は、悠久無限という全体の中での「個別の創造」を受け持っている「部分」である、と同時に「全体」でもあるのだ。

これはフラクタル、ホログラフという昨今の科学的な概念からも容易にうかがうことが出来るのだ。

   

●光による世界創造

一なる根源から発せられる、無限」に変化する波動のことを「光」といって良いだろう。我々は、根源から発せられる「光」であるという直感は、まさにそのような意味なのだ。

その自在なる「光」、すなわち「無限に変化する波動」が、命としてあらゆるところに伝播しているのは、その波動を伝播せしめている母なる「無限なる意識」ともいうべき下地があるからこそだろう。そのような、どのような波動も現すことのできる下地の意識、バックグラウンドの意識を「宇宙意識」と呼んでいるのかもしれない。

我々の個々の意識、すなわち各人個別の想念、感情、または身体的な表現は、その宇宙遍満意識という波動の、いわば変調されたものと言えるだろう。

Hs200210dweb

光あれ」・・

それは、無限なる己を観ようとする為の、切なる、最初の発意・意図であり、無限そのものである自己を観想するための波動を発したことであるとも言えるのだ。あなたは思い出せるだろうか。

光の生じた瞬間、・・・・それを、創造の瞬間というならば、その時というのは、想定されるビッグバンの130億年前の過去ではなく、常に、今の瞬間である。

確かに、「生命」を言葉で言えばまさに「光」なのだ。様々な位相と様々な振動率を無限に有する波動すなわち無限「光」が、我々であるといえる。

個々の「魂」というのは、その様々な相を通じて無限を現し続けるところの、根源意識から発せられる「スペクトラム」といえるかもしれない。

個々の魂は、虹のスペクトルのように、個別化されて見えるが、その振動率と位相の異なるだけの、「一なるもの」の様々な派生・表現形態と言って良いだろう。

 

●ホログラム宇宙

「わたし」「あなた」も、そして「神・仏」も、その有り方は同質である。 それはまさに、「天にあることは地にもある」ということであり、相似象ともいえるだろうか。

それはまさにホログラムであり、またフラクタル構造でもある。

世界の片隅にある微小なものにも、完全なる全体が畳み込まれているのだ。

一なる根源の意図は、あなたや私たちや、木々や、鉱物や、動物や、我々の生存できる世界を提供し続ける、この地球という生命圏にも畳み込まれている。身体の細胞の1つにも、石ころの分子にもそれが畳み込まれている。

どんな物にも、それぞれの意識、意図を通して、様々なスペクトラムが現れている。それぞれが、完全に異なる位相や振動率を現しているが故に、まさに無限に個別で、完全にユニークな個々に満ちている。

Hs199402cweb

 

●創造は内から外へ

この現前する宇宙自体、誰か、自分とは異なる不特定多数の神々が創ったものだという感覚があるのならば、それは御門違いというものではないのか。

なぜなら、そこにあくまでも「外の他者」を想定しているからだ。

神や仏と自分を分離しているということが、深遠で遠慮深いと自負するようなある意味での欺瞞は、もうすでに過去のものではないのか。

外に想定する「神」は、実は自己の内面の光によって投影されるものであり、その投影されるものに媚びへつらい、はたまた自縄自縛することは、まさに自分で自分の籠に閉じこもるような行為でもあったのだろう。

閉じられた時空、それが地球という生命圏の有する特色の1つでもあったともいえるのだが、実のところ、無限に優しい本来の神なるものは、あなたの中で、黙って苦笑いしているのかも知れない。

創造主は内に在り、また、それゆえにこそあらゆる被造物を外に観るというのが真相だろう。我々はその共同参加者であるということに、今はもう気づくべきかもしれない。

」なるものであればこそ、無限の「」を現すことができる。我々は、無限の「」の中の「」つであり、その中には「無限」が息づいているのだ。

我々は孤独で淋しいどころの話ではない。

存在諸世界を通して、多くのわたし達が「今」有るように、ここにも、どこにも命が有るように、無限の向こうといえども、微細なミクロの世界といえども、まさに、どこにでも命が溢れているのがホログラフィックな宇宙なのだ。

今までの我々の意識は、一時ながら、本来の自己である全体を忘れてしまい、個別・個別の分離されたほんの先端の有り方だけを信じてきたのかもしれない。

例えれば、海に浮かんだ島を見て、海の底では全ての島がつながっているということをに気づかなかっただけのことだろう。幾星霜の苦渋と喜びも、まさに放蕩息子だけが味わうことが出来る、かけがえの無い、感謝すべき体験に違いない。

そうはいっても、無限という中に生かされていることを忘れてはいけないと思うのだ。そして、その無限の海から命の水を汲み出し、花を咲かせるのはいつも自分であり、「今有る」わたし達なのだ。

無限という可能性、そしてあなたと寸分違う事の無い、愛ともいわれる数多の命の輝きに、もう既に気づいたのだろうか。

 

●「部分」は即ち「全体」である

 

我々は創造の只中にいるのであり、

その只中にいる者はまさに創造主の一部でもある。

宇宙の、あるいは多次元とも言える存在諸世界の、

どこの一部分であろうと、その部分にも全体が畳み込まれている。

その部分部分に、全体が畳み込まれているのがまさにホログラムである。

意識的にどれだけ気づけるかどうか、ただそれだけの違いなのだ。

その気づきと理解の段階が、

いわゆる進化といわれるパフォーマンスなのかも知れない。

あなたや私たちも、皆々分け御霊、

個別・別個でありながらも、且つ、全体と完全につながっている。

全一とは、一なるものから溢れ出た無限という、あらゆる多様性のことであり、

それは、今ここにいる我々と我々をとりまく愛に溢れた世界のことなのだ。

 

Flower1002_2  

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。


人は「鏡」

2009-09-13 16:38:25 | 心の科学分野

我々のいるこの世界には、肉親、兄弟、周囲の身近な人から、その他全く知らないあかの他人まで、それこそ多くの「自分以外の人々」がひしめいている。 誰しも生まれてから、各人各人、夫々の時代を通して、様々な人々と様々な関わり合いを経験しながら「今」ここにいる。

好きな人、嫌いな人、二度と会いたくないような人、お世話になったと感じる人、馬鹿としか思えないような人、こころの傷になったと感じる人、暴力的な人、お金や地位にしがみついていると感じる人、狡猾でずるいと思う人、信じられないほど純粋な人、かわいそうと感じる人・・

気づけば多分、そのような様々な人との邂逅を多かれ少なかれ体験しているはずだ。あなたや私達が、若年であっても、また年配者であっても、その時間量によらずそうであるに違いない。まさに、今ここにこうして様々な人々の中に生きているのだ。

人と人との関わり合いの1つが「家族」であり、更に大きな「社会」であり、「国家」であり、「人類」なのだ。そういう意味では、我々は人類という共同体を構成してるという言い方は誰しも否定しないことだろう。しかしそうは言っても、地球の人類全てと直接関わりをもっているわけではない・・と思いがちだが、実はそうではないのかも知れない。 我々の視覚によって、地球の裏側の何処かの不特定の誰かを見ることは出来ないとしても、身近にその声に接することは無いとしても、我々は、創造宇宙のなかの、小さな地球の中の数多ある命として、意識ある存在として、ここに今こうして皆々共に生きているのが事実なのだ。

遠い・近い、多い、少ないという物量的な観念を外してこの事実を観る必要があるだろう。 地球の裏側の何処かの赤の他人は、赤の他人ではなく、我々のこの地上の「命」の仲間であるという事実に気づけるだろうか。我々に身近な縁者も、すれ違う他人も、それこそ知らない遠い地にいる人達も、まさに同じ「今」を生きている「兄弟・姉妹」なのだ。

無限の中にある、特異な創造点とも言える、無数のわたし達の「今」には、同じく無数の特異な創造点とも言える大勢の人々の「今」が有る。「今生きて在る」という共通の有り方から言えば、無限に展開される命の舞台のなかの、今この瞬間を共有している兄弟・姉妹とも言えよう。

・・・・・・・・・・

以前にこのブログにコメントして頂いた方から「ホ・オポノポノ」を教えて頂いた。これは400年前からハワイの人たちに伝わる問題解決の方法と言われている。400年だろうが1万年だろうが、時の量に関係なく、このホ・オポノポノにも、古代から綿々と伝わる人類の真の叡智が燦然と輝いている。自分が感じるに、これはいわば最もわかりやすい究極の救いともいえるだろう。救いといえば念仏のような連想もあり、誤解もあるかもしれないが、誰にも今すぐ出来るこころの浄化法と考えても良いと思われる。

ホ・オポノポノの真髄は、「他者は全き自分の鏡」とする捉え方だろう。そこでは、他者は赤の他人・別個の存在ではなく、自分の内面の投影であるとする。自己の内面を癒すことで否応無く、鏡たる他者が変化してゆくさまは奇跡と捉えられているが、これはある意味で、理路整然とした意識レベルでの確実な法則なのだ。あなたやわたし達の認識する「他者」は、あなたや私達の反映であるということだ。他者から見れば我々は反映であるが、それは、それぞれが皆根源たる一なるものの多面性を現しているからだ。それはまさに、一は即ち多である所以なのだ。

物量・分裂・測量的な考え方に染まっている我々にとって、他人は他人、自分は自分であり、他人がどうだろうと自分には関係が無い。極端に言えば、他者の存在意味としては、自己存続に利用できるか出来ないかの違いと考えてしまいがちだろうか。

ホ・オポノポノの真髄は、以下の4つの言葉に全て表れている。

-----------------

「みんなが幸せになる ホ・オポノポノ」 イハレアカラ・ヒューレン (徳間書店)より抜粋

 

 ごめんなさい。(I’m sorry.)

 許してください。(Please forgive me.)

 愛しています。(I love you.)

 ありがとう。(Thank you.)

------------

あなたは、この言葉を周りの人達に自然に言えるだろうか。

「どうして人に謝るのか?どうして感謝しなければならないのか?どうして愛しています・・などという小恥ずかしいことを言う必要があるのか・・?」 多分そのように感じるかもしれない。こんな言葉のどこに、一体何の効果があるというのか・・理知的で論理的な考え方からすればそのような感じもあるだろう。実際に言葉に出してみれば、様々な思いがこれらの言葉の周辺に表れてくるのがわかるかもしれない。極めてシンプルな、それでいてあらゆる次元を通じたような言葉には、確実なパワーがあるのだとも感じる。

ホ・オポノポノに関しても奇跡的な出来事が沢山あるようだ。まさに奇跡は法則であるという証でもある。

4つと言わず1つでも2つでも良いかもしれない。どのような人に対しても、これらの言葉をこころのなかで言えるようであれば、次第にこころが清水のように透き通ってくるはずだ。

その前に、こころの底に沈殿していた有象無象の濁りが感情となって現れてくるかもしれない。その貴重な経験達に、それに執着せず、屁理屈つけず、勝手なイメージで遊ばず、黙ってやり過ごしてあげることが出来るだろうか。それを、あなたや私達のこころの暗い底から、光あふれる大きな世界へ開放してあげることが出来るだろうか。あなたを一生懸命育ててきた「経験」や「記憶」達に、「ありがとう」と言ってあげられるだろうか。

 

自己の多生に渡る様々な体験は、自己の成長の為のものであり、それを考えてみれば大勢の他者のお陰であろう。それが様々な経験や気づきという宝を得るためのものであったと知るならば、他者や自己の幼さゆえに味わったかもしれない、疲れきった記憶や、怖い怖い思い出や、執着の悔恨は、黙って浮かび上がらせてあげて、昇華してあげたいと思わないだろうか。

我々と同時に生きている多くの人々に対して、またその都度自分の世界に現れる人々に対して、我々が持つべき1つの最高水準の「思い」がホ・オポノポノの言葉に凝縮されている。

この言葉は、相手に対して投げかける言葉ではなく、自分の内面で宣言する言葉であることに注意しなければならない。相手にそうなって欲しいとか、変わって欲しいとか、よくなって欲しいということではなく、すでにそこにある「わたし」の鏡像としての「他人」に対して、自分の中に在る観念を癒すということだ。 他人を癒すのではなく、他人を見ているところの自分の観念を、勇気をもって癒すのだ。癒すべきは、親でも、子でもなく、ましてや世界でも、どこかの国でも、愚かなピエロ的指導者でも、自分に対峙する敵でもなく、自分のこころ、観念なのだ。

我々にとって、他人とは、天地万物の創り、今という世界の有り様の中の、無限の各所に在るそれぞれの「わたし」の無数の鏡像ともいえる。 自己という鏡を通して現れる他人との関わり、人間関係は、その様々な体験を通して創造される「感動」を育む為のものだ。大勢の他者とは、より深く広い慈しみというさらなる感動を、あちらこちらで花咲かせようとしている、この悠久無限世界を現し続けるところの根源意識から遣わされた者達である・・ということに気づけるだろうか。

我々のそれぞれの周り、近い遠いに関わらず、この地で「今」を共有している無数の他人とは、例えて言えば「天使」とも言えよう。他人とは、知らない振りして実に厳しく優しく、確実に全ての存在の魂の輝きに磨きを掛けてくれる天使なのだ。気付きや救いや愛は、何処かの誰かがもたらすものではなく、今のわたしやあなたたちの中から湧き出すものだろう。

我々が今なすべきことは、今まで様々な体験を通して培った記憶・イメージを、自ら拠り分け整理することだろう。あなたも私たちも、歩くのはいつもそれぞれの「わたし」であるが、その周りに万華鏡のごとく、あなたやわたし達の鏡である、大勢の愛ある他人が見守っているのだ。

我々の生きている命題・課題・テーマが有るとするならば、それはいつもすぐ目の前にあると考えられないだろうか。鏡に映るのはいつも自分であることに深い意味があるのかも知れない。

・・・・・・・・・

  

 ごめんなさい。 (I’m sorry.)

 許してください。 (Please forgive me.)

 愛しています。 (I love you.)

 ありがとう。 (Thank you.)

・・・・・・・・・

あなたは、はたしてこの簡単な言葉を、あなたの鏡像である、親や子供や周囲の人を含むさらに大勢の他人達に対して、心の底で言える勇気をもてるだろうか。

いいや、間違いなく言えるだろう。

  

 

ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場 ルノワール 1894

Moulin1

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。


探求者ロバート・モンロー(3)

2009-09-06 14:06:14 | 心の科学分野

●意識のシフトは誰でも可能な時代

ロバート・モンローの業績は、我々のいるこの地球という生命圏の多次元構造を、現代人にもわかりやすく、かつ誰にも再生可能な方法で説明したことだろう。へミシンクと呼ばれる方法、左脳と右脳の音響に基づく共鳴作用によって、様々なレベルの「意識」状態を体現できるような再現可能な方法を開発したともいえる。

過去のスエーデンボルグその他の探検者の、霊界などに関する報告や著作も多くあるが、ただ、それがどこか時代がかって、あるいは宗教がかって聞こえる為に、多くの現代人にとってはピンと来ないものだったかもしれない。また特異な能力者だけの体験談であれば、一般人にとっても適応されるものかどうかという疑念もあっただろうか。

●進化の扉は我々の内にある

よく言われる「意識」、その意識自体の多次元性の解明が為されつつあり、今まで通り一遍で扱われていた「こころ、意識」というものが、とんでもない可能性として認知されようとしているのだ。

物質世界の果てに行こうと、何をしようと、現在の自分の意識のあり方以上のものは現れないだろう。まさに孫悟空が、どこまで言ってもお釈迦様の手の内に在る・・という比喩が相応しい。開拓すべきは、何処かの土地でも金鉱でもなく、我々のこころ、意識作用である所以だ。

 

●死を怖れる必要はない

我々の「生」というものが、物質肉体の生存だけの、たった数十年の一過性のものであるという考えかたが今の時代の主流だろうか。 あからさまに断言はしないものの、多くの人が肉体が朽ちればそれで終わりと考えているようだ。そのために、人生において出来るだけ死を回避すべき生存競争と捉え、出来得る範囲でおのれの生を維持するための肉体を守ろうとする。

生誕は歓迎され、死は忌み嫌われるのは、更に大きな生命観というものに未だ気づいていない証拠ではないだろうか。考えてみれば、あらゆる恐怖は、この「生」に対する「死」をどう扱ってよいかわからない人類の意識段階を示しているのかもしれない。 死という否応無く体験すべきプロセスを、怖いがゆえに「そのうち考える」というような、考慮の外に押しやっている偏狭な観念体系にはまっているといえるだろう。その偏狭な刹那的、スポット的な固定観念のお陰で、時代が進もうと変わろうと、科学が進展しようと、真に幸せそうな笑顔が人々の顔に溢れてこないのだと思う。

そのような人々の意識の根底には、肉体生命の死への恐怖があると言って相違ない。

●生と死は相互補完

生が無ければ死はない、また死が無ければ生もない。当たり前ことではあるが、死を敬遠する観念自体が、「生を全うできない原因」とも言えるのだ。そのような片手落ちの文明が今の我々の文明とも言えようか。またそれは、数千年来それほど変わってもいないのかも知れない。生と死もやはり相対的な現象にしかすぎないのだ。

確かに、肉体が全てであれば、何をおいてもそれを死守すべく、他者をも利用または排除する極端な行為も、どこかやむを得ないものとして正当化される傾向にあるだろう。戦争はその最たるものだ。悪いことだと知りつつ繰り返す行為の背後には、自分の肉体維持・強化のために、さらに安楽な環境を作り上げようとする衝動がある。肉体が無くなっては元も子も無いという「恐怖」がその根底にあるといえるだろう。

ある意味で西洋物質文明は、生のための戦いと契約に象徴される文明と言えるかもしれない。

●今、最大の二元性、生と死を超えるべし

実のところ生命の生存形態が肉体のみに依存しているという観念に、閉じ込められているだけのことではないか。、、今、その固まった意識の焦点を、自ら柔軟にして、様々な可能性を受け入れ、生と死という、根本的な命題とも思える現象に、多方面から光を当てる行為が必要なのだ。まさにそれこそが今必要な「意識の一段の進化」といわれるものではないか。

各自が自分の肉体の周りだけに意識のスポットライトを当てているだけでは、自分がどこから来てどこに行くのか、どんな道に乗っているのか等わかろうはずも無い。どこかを歩いているようだが、見えるのが肉体だけであれば、それこそ自分の周りは真っ暗だろう。 またそのようなある意味で自己周囲のことしか見えない人々が、互いに不安と恐怖をもとに集合し、お互いぶつかり合いながら、また喧嘩したりしながら歩いているようなものだろう。

●我々の五感は極めて狭い窓のようなもの

生命の存在形態が、いわゆる物質的なもののみであるという信念に固まっていれば、決してその観点から出ることが出来ないだろう。存在の有り様が、物質的なものだけであるという観念は、多分それも一種の思い込みと考えられる。数式で表現できない、未だ観測機にかからないということだけで、物質形態以外の存在形態があり得ないということにはならないのは、まともに考えればわかるかもしれない。 例えば、我々の五感情報の多くを占める視覚情報は、電磁波のスペクトルのうちで360nm~780nm(ナノメートル)程度の範囲でしかない。

いずれにしても、我々に間違いなく有るこころを、目に見えないものとしておざなりにしてきたのは間違いのないところであり、実はその、こころ、意識作用の中にこそ、無限の可能性があることに、今はもう気づかなくてはならないだろう。

●人間は間違いなく、肉体を超えた存在である

体脱というのは、肉体を超えた高次の自己にとっては当たり前のパフォーマンスと考えられる。肉体五感では感じ得ないものを感じたり、遠距離を超えて情報を収集したり、また過去の記憶を再体験したりできるのは、隠された肉体の機能・・というよりは、肉体を超えた存在形態としての己の機能と考えるほうが自然なのだ。

人間の意識が「体脱」や「離脱」したと思しき状態では、距離やそして時間も越えることが出来るということが、我々自身が実のところ、我々の捉える常識的な物質的世界を超えた存在であることを示している。このような自己のあり方に対して、誰しも当初は違和感を持ち疑念を感じるものだが、いろいろと意識的に探求自助努力すれば理解が出来るようになる。

生と死を含む我々の生命のあり方に関する「未知」が、少しづつ「既知」になってゆくにつれて、我々が肉体そのものでなく、それを含むところの、より大きな生命体であるということに自然に気づくことになるのだ。

 

●地球は多層・多次元構造

モンローの表現によれば、地球の周りには不可視の意識フィールドがあり、それをフォーカスレベルと呼んでいる。フォーカスレベルを、ここで取りあえず「世界」というならば、我々の生きている物理的世界の他に、人が死んだ後に通過する世界(死後世界)、さらにその上には、信念体系という世界(霊界?)があるといわれている。その上には、地球生命圏への出入り口であるフォーカスレベル(天界?)がある。この意識レベルでようやく、ある意味で地球の「すり鉢」の淵に到達するようだ。意識生命体が地球に参入することが出来るポジションだ。

あなたや私たちが、ダーウイン的な観点で、このバーチャルな地球体験フィールドから生じた生命と考えているかもしれないが、それは肉体進化を語るものであり、誰にもある高次の自己・魂は、多分、皆皆ここから降下して地球での生体験を開始しているのかもしれない。

余談だが、昔の洋画で、広大な荒野の中に、ある一定の地域が深く陥没した不思議な土地があり、探検隊がそこへ降りていくアドベンチャー映画があった。その遥か底にある場所では原始とも思えるような植物が繁茂し、恐竜などを含む様々な危険と遭遇しながら、やっとのことで、その陥没したすり鉢世界を抜け出すストーリーだった。1度入るとなかなか抜けられないような波乱万丈なストーリーは、この地球の多層世界のルールを彷彿とする。

Chikyu009

●物理的世界は地球の多層構造の底の世界?

宇宙から撮られた地球の写真等を見たときには、その物理的球体だけが目に入るのだが、それが全てとは言えないのではないか。 なぜなら、その映像はあくまでも物理的周波数帯での撮影であり、多重になった地球の生命圏の、その他の層の有様は当然ながら映し出されないと考えられるからだ。例えば、CAD、CAMのような図面作成でのレイヤ(層)構造を連想すれば良い。1つのレイヤの平面上(次元上)にいる限りでは、他のレイヤが映し出されないようなものなのだ。CADという単なるコンピュータソフトを知らないように、我々の存在しているこの世界の本当の有様もまた、真剣に探求しなければわからないのかもしれない。

自分という無限を理解するには、今あるところの理性と感性、その両方が必要なのだ。それまでは、まどろみを楽しむことになるだろうが、今はもうそのその時ではないかもしれない。

モンローやその他の多くの体脱体験では、意識体という多層に渡る高次の身体が、1つの層である物理的肉体というフェーズを離れることにより、肉眼では到底見えない他の層・世界を見ることができるのだと思われる。比喩的に言えば、単にラジオTVの周波数帯を自分でシフトすることで他チャンネルを受信できるようなものだ。世界の底にある最もわかりやすく御膳立てされた世界が、今の我々のいる物理的世界という事が出来るかもしれない。

我々は皆々、当面の自己を忘れてこの世界に降り来たり、多生に渡る体験・冒険を経て、再び元の次元に戻る真剣な遊びを選択した、アドベンチャーファミリーなのではないだろうか。それを思い出すことが、地球生命圏での様々な体験群のテーマでもあるだろう。

「忘れて思い出すという演劇」 の主人公を演じるには、相当の試練がいるのはもうお分かりかもしれない。

 

●多層世界の理論的側面

この多層構造を直感的に理解するには、その多層の世界の基本となる波動フィールド、昔から指摘されている物理学系で言う「エーテル」や、禅等で言う「空」、または最近ではアービン・ラズロの提唱するAフィールド、あるいはアカシックフィールド、またはモンローの指摘する「M」フィールドを想定せざるを得ないだろう。

その波動フィールドは、多層の周波数帯域を構成できるより微細な?波動で出来ており、それが変調されることで、多次元世界を表わすことが出来る言わば基本の「搬送波」とも言えるだろう。我々の視界を表わす光・電磁波はその1つのフェーズに過ぎないような、更に基本的な波動と考えられる。

肉眼では何も無いように見える空間が、単に物理次元において変調されていないだけのことであり、同じ時空周辺にありながら、異なる周波数帯においてはその周波数帯域での世界が、そこここに同時に存在しているというものだ。

その多層になった地球時空生命圏の周波数帯域が、今の時期、より高い周波数帯に急速に移行しているいう情報もあり、いわゆるそれがアセンションや次元上昇という、言わば周波数ホッピングだと考えられる。例えれば、4チャンネルは5チャンネルに移行する時期だろう。

ある条件で、原子核にエネルギーを照射すれば、その受けたエネルギーによって電子はその軌道をジャンプする。これは似て非なる例かもしれないが、今この地球生命圏にも、何か巨大な目に見えないエネルギーが照射されていると思われる。その影響は生態系、環境、気候、それから人類の意識にも作用しているだろう。物理次元にもその観測データが遅れて現れてくるはずだ。いや、今がまさにそうかもしれない。

 

●同調・共鳴・共感で現れる新しい世界

さらに広範囲の存在形態を表わすであろう上位の多層世界への同調は、我々の意識によって行なわれることになる。我々は常に我々の意識に相応しい世界にいるということだ。今こうして、「ここ」にいることがその証拠だろう。

要は自分のこころ、意識作用の全般を注意深く観ればそれがわかるものだ。今何をおいても重要なのは、大勢の他者の顔色を伺うことでもなく、自己自身である内面意識の適宜なチューニングではないだろうか。気づく気づかないに関わらず、上昇も下降も自由自在、こころのチューニング次第なのだ。

意識的存在である人間にとっては、どこまで行こうと、外はあくまでも内の反映なのだ。内面の光が増せば、それにあわせて次第に外にも明かりが増すような仕組みに、今、気づけるかもしれない。外の世界を無理して切った張ったする前に、その時々で、出来うるだけの「理解」と「愛」を、こころの中に創り上げることこそが、今の時期においてまず第一義的なことではないだろうか。

---------

北斎 1823~1829 作

Hoku01

本日も拙い記事をご覧頂きまして、まことにありがとうございました。