気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

自己認識は創造である

2012-07-29 09:35:10 | 宇宙時代の考え方

地球の70億の人々はそれぞれ身体を持って生活をしているのだが、その多くの人々が真実とはそぐわない盲信によって動いているかも知れない。

 

多くがその肉体レベルの物事に終始している、あるいは終始せざるを得ない状況にあるがゆえに、本当の文明の進展が阻害されているかもしれない。

 

意識的存在たる人類それぞれの「自分とは何か・・」という根本的な問いかけと、そして、その気づきの深まりこそが集合意識の現象結果としての文化・文明を進展させるのだが、

 

肉体・物質形態のあくなき存続に特化したレベルで固定された人類意識の選んだところの、資本(金)を資源とする物質繁栄主義の蔓延によって実のところは精神が疲弊し、挙句の果てはその物質文明の伽藍が今崩壊しつつある。

 

それは単に人類が本質の有り方から逸れてしまったが故のことである。

 

人々は、人間とは何か?とか、どこからきてどこえゆくのか?など思いもよらない状態で生活をしている場合もあるだろう。

 

それはいわゆる意識的無意識と呼ばれている状態であり、自己を意識、あるいは認識していながらそれが漠然としたものであり、その意識するということの本質に気づいていないということだ。

 

あるいは様々な既成概念の流布や教育等によって、人間としての本質の追究から逸らされてしまっていたとも言えるだろう。

 

人間とは何か?わたしとは何か?という本道の追求よりも、

 

とりあえずの生活の為の、あるいは幻想の栄耀栄華の為のお金の追究が先というわけだった。

 

取りあえず・・が、いつの間にか、それが、さも本質のごとく固定されたようなものだ。

 

それは欧米的な物質繁栄主義、搾取的自己繁栄主義の賜物であると言ったら言いすぎであろうか。

 

精神よりも物が先で、魂レベルの追究よりも肉体の保持や快楽が先であるという刹那的なことに特化してしまったプラグマティズム、現実功利主義とも言えるだろうか。

 

その主義主張も、確かに、それは主義でありまた「観念」にすぎないのだ。

 

その偏った観念の人類的な流布と意識的・無意識的洗脳によって、いたしかたなく人類的な観念の崩壊を今迎えているということである。

 

簡単に言えば、宇宙・大自然の有り方との調和、同調が外れたということである。

 

同調が外れれば、有意識的なあり方とすれば、フィードバックを掛けて揺り戻しをし、再度同調する方向になるのだが、それは再び新たな大自然との調和に戻ることになるのは火を見るよりも明らかである。

 

・・・・

 

人類社会の全ての根本は、想念、思い、あるいはその反応である感情にある。

 

様々な法律体系もその人類の想い、思考を社会秩序にそった形に成文化したものであり、あるいはまた科学の成果と言えども、人あるいは科学者の思考過程の先にある論理的で再現可能な1つの現象説明にすぎないのである。

 

つまり現実を説明する客観的方法とされる科学と言えども、自然を理解するための人間の思考と、様々な自然現象の再現性を上手く説明できる手法の1体系にすぎないのだ。

 

すなわち、人間の周囲には絶対客観というものは何も無く、思考あるいはそれを意識の働きというならば、それに従って、またそれに合う方向の「認識体系」のみがあるということである。

 

人間が認識をしなければ、世界があることもわかるはずもない。

 

逆に、世界があっても、それを認識しないでどうして存在することができようか。

 

世界とは、それを認識することで現われるところの「認識体系」の謂いである。

 

ここで認識を「意識の働き」と言いかえれば、

 

世界とは、あるいは宇宙とは、意識の働きそのものであるということだ。

 

認識することの一部に「知覚」の働きがあり、

 

「世界」とは我々が「知覚」することで現われているともいえる。

 

確かに、我々は、見る、聞く、嗅ぐ、感じる、味わうという五感の知覚作用を使っているが、

 

それは認識している・・ということの中の1つの具体的な手段である「五感」を使っていることである。

 

また五感以外の直感、ESP、テレパシー、あるいはスプーン曲げやサイババの物品出現なども、

 

意図的な認識、特定の方向にデザイン固守された意識がエネルギーを生み出し、現象化あるいは物質化することの証拠である。

 

何もびっくり仰天の超能力というまでもなく、人は自らの時空を自らで造り上げているということであり、

 

大勢の人々がごく普通の当たり前の、何の変哲もない観念あるいは苦渋が当たり前というような信念を持っていることで、その集団的に合意された世界を造り上げているというだけなのだ。

 

人間の有様としてどこか低位に、不自由に固定しているような集合観念のことを3次元的な「洗脳」観念と呼んで良いだろう。

 

・・・

 

多くの人は、多分、周囲の世界という<現実>を単なる現象として見ているだけ、あるいは聞いているだけ・・・と漠然と感じているかもしれないが、

 

あにはからんや、実は自らが造り出しているのである。

 

そういう見る、聞く、嗅ぐ等の「知覚」作用は、人間の認識作用の一部であり、認識の働きとは即ち人間の「意識」の働きのことであり、

 

また意識の働きの中枢とも言える思考、感情という意識的意識によって、現実が認識されているということなのだ。

 

簡単に言えば、現実は1つではなく捉え方によって幾通りも認識されるということであり、

 

もっと本質的に言うならば、

 

その認識に沿った形態でその人間の周囲という「現実」が顕れているということである。

 

・・・ここが肝心要なところであろうか。

 

主に人間に代表される自己意識、思考や認識というものが無ければ、

 

確かに物質形態が先にあって、あとで人間が現われたと単純化しても良いわけだが、

 

ふと気付けば、・・・

 

世界がそこにある」とわかるためには、まず! それを そう と「認識」する必要があることが理解出来るはずだ。

 

確かにコペンハーゲン的量子論の解釈では、観測する人間の状況によって素粒子の世界が変動することを説明している。

 

これは意識、人間の世界にあってはその認識自体が人間にまつわる世界を創造しているということの 『相当に控えめな表明』 なのである。

 

地球も相当に複雑に物体化しているが、そうであるためには地球も意識体でなければならず、

 

同じく、

 

そのフィールドの中にいる人類も複雑に肉体化しているが、そうであるためには人間もまず「意識体」でなければならない。

 

意識的存在は全て、その意識の働きとしての物質化現象といういわゆる<自己表現>をしているわけである。

 

逆に、現われた全ての物質形態、・・・鉱物、植物、動物等も、その程度は異なっていても、全てが意識の表現であり、そういう意味ではそれぞれがそれぞれのレベルでの自己認識を有しているということである。

 

山川草木 国土悉皆 成仏・・・・

 

大自然、人間国土含め、あらゆるものが仏(ほとけ)であるという言葉はまさにそういう意味である。

 

もっともさわりのない言葉で言えば、

 

どんなに複雑に絡んでいようとも、全ては「大いなる意識」の表れであり、そういう意味で元はひとつであるということである。

 

一段と大きい認識に至ったならば、我々はその大いなる認識をごく当たり前の日常世界に持ち来たらせることになるのだ。

 

たとえ多くの人々が未だそういう想いに至らなくても、

 

真実を見いだした者達はそれを超えてゆかねばならない。

 

勇気をもって古い自己認識からより大きな自己認識へと超えてゆく者達が増えれば、眠っている者達は周りの様子の変化に否応なく気付いて来るのだ。

 

意識進化の道とは、・・・

 

自己というものが、さらにより大きな存在であることに次第に意識的に気付いてゆくということである。

 

またより大きな認識に進む方向は、あらゆる全てが同胞であると知る方向であり、

 

また、それは

 

人類に古くから伝わる 「」 と言われるものである。

 

肝心なのは、外の世界の進化等ではなく、それを表現するところのあなたやわたし達の<意識>なのである。

 

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魂意識の拡大

2012-07-22 09:19:11 | 新たなる地平線

多くの人々は、この世界に生れた瞬間から、この世界の人間の意識波動にやむかたなく適応する過程を通じて、自らの魂意識波動を低下させることになる。

 

簡単に言うならば、オギャーと生まれた瞬間から、この世界の人間達の信じる観念に多かれ少なかれ染まってゆくということでもある。

 

その時々で常識と考える想いの群れを、知る知らずに関わらず、自らにインプットするということでもある。

 

今のあなたは、何十年かに渡ったこの世界での思考と経験を通じて、今のあなたという存在感覚、あるいは自覚を造り上げているのである。

 

今の我々のすべては、そういう風にして・・・、今ここにいるのだ。

 

ところで、

 

全ての人存在は、その自覚の希薄さや密度の違いはあっても、「我あり」または「わたしは在る」あるいは「生きて今在る」という自意識を持っている。

 

この意識的意識・・の有り方は、宇宙に遍在せる意識・・・人の謂うところの神なる意識の有り方そのものである。

 

・・・・あなたはこのことに気付くことが出来るはずだ。

 

それに気付くために、

 

どんな複雑な知識や名誉や富も何の支えにもならない。

 

どんな複雑な計算式もお笑いネタも快楽も実に何の役にも立たない。

 

あなたは・・・今ここ・・に在ることに・気づいている!

  

実に当たり前のことだが、ゆっくりと真摯に感じてみるべきであろう。

極めて、単純でシンプルで、無限に身近な・・・<あなた>自身の有り方に気付くはずである。

 

その自意識、あるいは確かな自己存在の感覚こそは、あなたとしての魂の証し(あかし)なのである。

 

言葉を変えて言うならば、あなたもわたし達も根源意識から放たれた不滅の光・波動であるということも出来るだろう。

 

その不滅の光、あるいは全ての可能性を潜在的に有する意識的波動が、あなたやわたし達の魂・意識というものであり、

 

その魂意識が、その無限の可能性の潜在する意識波動を、ある意味で自ら上げ下げすることで、様々な周波数帯域にアクセス、あるいは自己投入、あるいはその世界に参入することになる。

 

そうやって無数の根源から放たれた光・波動に、様々な創造世界の情報が行き渡り、あるいは根源に伝わることで、宇宙の創造を観察・確認が出来るのである。

 

この3次元的な表層世界に生きていることでその事実を忘れているかもしれないが、

 

人が皆それぞれ創造者であるとか、神の一人子であるとか、仏であるとか、神々であるとかのどこか宗教がかった表明も、実のところは嘘でも比喩でもないのである。

 

単純過ぎることで「真実」を見逃している間に、我々はまさに放蕩息子のごとく、根のない状態で世界の中をほっつき歩き、あるいは傷つき、あるいは気付けば孤独に涙し、時には儚くも消える栄華に身をささげる場合もあるだろう。

 

例えばあなたの今までの人生はどうだったろうか・・・。

 

右に行き、左に戻り、前にめりに転んで、後ろ向きに倒れ、ある時にはわけもわからぬ無明の人々の足蹴りに合うこともあったかも知れない。

 

今の世相、世界の騒ぎは、まさにそうしたことが濃密に圧縮されたような混乱状態を示している。

 

それはある意味で、この世界で味わえる最後の混乱を体験したい者達のお祭り騒ぎでもあろうか。

 

今のこの時期は、そうした遅れて開花しつつある魂意識達も多いのだが、気付ける者達、あるいは魂の猛者にとっては、それに合わせる必要も既に無く、またことさらの繰り返しをすることも無いはずである。

 

変えるべきは外の世界ではなく、自分自身であることを真に理解している者達は、外の騒ぎに巻き込まれることもない。

 

ここが・・思案のしどころ、あるいは別れ道とも言えるだろう。

 

・・・

  

確かにこの地球という世界は有限時空換算での数千年以上に渡り、エゴで代表されるような我勝ち、我良しの観念が主流であったとも言えようか。

 

こうして、この世界に下生する人々は、そのわけもわからず、理由も知らず、自らが何者であるかの片鱗すらも気付かず、野放図で粗野で荒い観念まみれの世界に繰り返し生きてきたのだ。

 

そういう意味では、これをご覧のあなたも、わたしも、誰も皆、相当な『魂意識の猛者』である。

 

・・・・

 

この世界にあっても、どの世界にあっても、あなたや私達という自覚ある魂意識は、知覚と体験と思考と感情を通じて自らが何者であるかというところの真髄を模索しているとも言えるだろう。

 

そうすることで、魂意識は創造自体を観察・確認、あるいは様々な次元体験をしながら、自らの根源に還ってゆくというプロセスを経験しているということだ。

 

根源からの発祥と帰還のサイクル、それは即ち「道」と言われるものでもあろうか。

 

あるいは阿吽・・の呼吸のようなものだろうか。

 

あるいは寄せては引くさざ波のサイクルのようなものだろうか。

 

生きてある意識達は、すべからく嫌も応もなく、実のところは嬉しく楽しいがゆえに、その「道」を通じて散策し、帰還することを意図したわけであり、またそれはいわゆる神の自己発見のゲームとも言っても良いかもしれない。

 

少なくとも、生とは・・・・『嬉しく楽しい』ことが本質であることに気付けることだろう。

・・・ 

 

今あなたがこの世界に於いて「われ有り」という自覚を持って存在していることは、それ即ち神、根源、あるいは無限の意識・・・そのものであることを示している。

 

あなたがあなたである・・という自覚を持ち、それを意識できる』ということは、あなたという存在の根本的な有り方を示しているのである。

 

しかしながら往々にして、この世界の荒い意識波動、すなわち想念や表現の乱れまくった有様によってそちらに引っ張られるような人生を歩くことによって、それになかなか気づけない場合があるものである。

 

その有様を表現するならば、まるで3流映画に観入っているようなものなのだ。

 

あなたとは、時に嫌々しながらあるいは時に嬉々として、人生という3次元的自己体験映画に観入っている観客のようなものである。

 

ところがある時、その映画を見入っている自身に判然と気付く時がくるのである。

 

その時とは、それはその上映されてきた映画のまさに終わりの時なのである。

 

それは1人1人が悟りや解脱によって、不自由な体験世界を自らで超えてゆく時代ではなく、大勢の魂意識が嫌も応もなく気付くべき稀有な時なのである。

 

それをいわゆるアセンション、次元上昇とも呼んでいるはずだ。

 

この地球上の人類意識が営んできた古い文明形態の終わりに差し掛かかり、今大勢の魂意識達が目覚めて来ていることにあなたも気付けるはずである。

 

今こそはまさに稀有な時なのである。

 

あるいは、人のことはさておいても、あなたはあなたの意識が拡大していることに自らがどこか気づいていることだろう。

  

なるほど、真実とは、気付けばいつでもどこでもあるものなのだ。

 

人に依らず、物に依らず、名前によらず、形に依らず、あるいは想いさえにも依らず、

 

ただ存在している、あるいは生かされている、今のこの瞬間の『事実』に意識を戻す時である。

 

それぞれのわたしは、・・・今この瞬間に・・・在る

 

それはこの世界での生や死、良し悪しの観念、ましてや物質の栄華等によって左右されたり、消え去ったりすることのない、

 

あなたやわたし達の真実である。

  

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意識体としての地球

2012-07-15 10:48:49 | 宇宙時代の考え方

地球には地殻があり、山あり、川あり、海あり、そして多種多様なる鉱物あり、植物あり、そして様々な動物が生きている。

 

それら全ては、いま理解出来るところによれば、原子、分子、素粒子等の基本的な素材の組み合わせで出来ているとされている。

 

それらは静かにたたずんでいるわけではなく、ダイナミックなレベルで振動をしつつ、様々な波動の重合、離散をしながら、あるいは電気、化学的な反応を繰り返しながら、数では現わせないほどの多様なこの上もない存在表現形を具現している。

 

太陽からのエネルギーを元に、そのような様々な地球上の形態変化あるいは存在表現が行われているのは明らかな観察事実であり、地球上の生態系の維持と循環の働きは、何も人類という生物種がいてもいなくても変わることはない。

 

ある意味で、日夜の入れ替わりも、海の満ち引きも、大気中の水の循環も、大気そのものの循環も、いつ果てるとも知れない地球の自己表現的創造、すなわち意識の自己表現であると喝破すべきものであろう。

 

地球の生態系とも言われるこの大自然は、まさにエネルギーの欠乏や情報の過不足等の心配のない、完全な調和にもとづいた循環システムなのである。

 

我々人類とは、その多種多様な存在形態と生命の表現で溢れたこの地球のシステムにとって今までいかなるものであったろうか。

 

本来ならば人間という高度な生命体あるいは「個別意識体」は、地球という巨大な意識体あるいは生命体の現わす世界に参入し、更なる高度で幅の広い生命表現をもたらすことがその役目であると考えられる。

 

それらは大きくいえば、宇宙全体における意識進化のシステムに沿ったものであると考えることが出来る。

 

それを例えて言えば、たとえ大きな「舞台」を造り上げても、その「舞台」の設備だけでは不十分であり、「舞台」の本来の目的であるところの華やかな演劇や演技等が行われなければ感動も何も生れない。

 

その為にこそ、その舞台で縦横無尽に活躍できる「役者」というものが必要なのであると同時に、その役者達は舞台の演技、演劇によって体験知を得られるのである。

 

なるほど舞台と役者、地球と人類、それらは本質的な関係としては相似形といえようか。

 

確かに人類は地球というベースが無ければ生きてゆけないし、水、空気、熱、光等の条件がなければ生きてはゆけないことは誰でも知っていることである。

 

・・・

しかしながら、残念なことに、人類はそのような自らの依って立つ「舞台」すなわち地球に、気遣いや感謝をほぼ忘れたようである。

 

特に数百年来続いた、いわゆる欧米的物質的繁栄に根ざしたエゴ思想の拡散はまさに人類の自己崩壊への『めくら行進』であったようである。

 

より具体的表現をすれば、経済社会という仕組みにおいて、自己存続欲で特化された刹那的な資本主義という思想に染まり、

 

人類の欲望と生き残りのためだけに、わけもわからず必死になってその生態系を壊してきたのが現状であろうか。

 

気付くべきは、今人類の多くが大なり小なり染まってしまっている資本主義や拝金主義は、単に人間の為だけの思想であり、人間が依って立つ基本中の基本である、この『地球の生命循環システム』を眼中に入れていない謂わば「エゴ」の想念の固まったものであることだ。

・・・ 

要は人間が生き残るために・・??  と称して

 

自らが生かされている、本体の地球を壊してきたのである。

 

自然を征服する・・というような出来もしない闘いを仕掛けている愚か者が、さも雄々しい者であるかのような錯覚をもたらす悪酒に酔いしれてきたのだ。

 

自然の中にあってこそ、その地球の素材でできた肉体で生きることの事実を忘れ、その循環系の中で様々な生物と共に生かされているにも拘らず、

 

地球という意識体の表現フィールド自体を征服し、即ち闘って打ち負かし、己の欲得に従わせようとする想いと行為は、

 

まさに自分の乗っている機関車を自分で壊すようなことなのである。

 

その結果がどうなるかは、子供でもわかることである。

 

周囲、大自然との調和を第一としない、個々人レベルの生存欲、生殖欲を原動力とした物質文明の繁栄は、逆に文明の進展どころではなくまさに退化そのものであり、いずれは崩壊する運命にある。

 

我々は自分の生き残りというテーマを追求するあまり、逆に本来の生き残りが出来ないような方向にもってきたとも言えるだろう。

 

我欲で突き動かされた、自分だけの生き残り観念・・・がその根本原因である。

 

その観念に邁進した者の栄誉が、支配層の特権だとか、セレブの豪奢な生活だとか、リッチの余裕などであれば、それこそ儚(はかない)い悪夢のようなものである。 

 

なぜならば、それを失うことの恐怖が常に付きまとい、更に維持しようとしてもがくことになるのは火を見ないでも明らかであるからだ。

 

・・・

今の世界、様々なものが異変をきたし、壊れて来ているように見えるはずである。

 

小さな世間的な観念で生きている者たち、あるいは常識という固定化された観念に沈みこんでいる者たちを除いて、どこか意識的な観察眼の優れた者たちは既にその事に気づいているはずである。

 

何かがおかしい?・・というレベルをとうの昔に超えてしまい、今まで正しいとされた既成観念とそこから出来た仕組みが、あちらこちらで轟音をともなって崩壊していることに気付いていることだろう。

  

これは気のせいではないのだ。

 

またそのうち元に戻るものでもない。

 

いつの世でもどこにあっても、古きものはあたらしきものへと遷移する定めである。

 

・・・・

我々こころあるものは、これまでの愚かさに十分に気付くことが肝要である。

 

わっせわっせと何かに、あるいは責任など持たない支配者や政治家や群衆に突き動かされてやみくもに動き回ることはもうやめにしよう。

 

意識的、無意識的、あるいは宣伝洗脳によって動かされてきた感の否めない、古き社会、大勢の人の生き方の結果が、

 

今のそしてこれからの世界の大いなる遷移をもたらしたのであれば、

 

まさにそれに潔くあるべきなのである。

 

相変わらず、慌てたり、恐れたりする想いや行為は、未だその遷移、変容の真の意味に気づいていない証拠かもしれないのだ。

 

外の人為世界の騒ぎや異変、感情の爆発による集団行動、愚かな権益を確保、または拡張するための戦争や争いの噂に惑わされてはならない。

 

それは、

 

あなたやわたし達の身の安全の為ではなく、

 

この地球という愛すべき、そして慈愛に満ちた存在フィールドの、

 

雄々しき変容を観察し見届けることこそが、

 

我々という人間として現われた意識体としての、

 

母なる地球という意識体に対する、

 

こころからの感謝を示すことになるからだ。

 

・・・・

 

ありがとう・・・

 

ごめんなさい・・・

 

許して下さい・・・

 

愛しています・・・

 

 

このハワイに伝わると言われる古(いにしえ)の言葉は、

 

決して軟弱で、女性的で、感傷的でメルヘンチックなものではなく、

 

・・・潔(いさぎよ)く、

 

自らの古きものを古きものとし、新しきものを新しきものへと変容させる

 

進化する意識のパワーを示している。

 

地球の思いやり・愛に気付き、

 

自らの幼さに許しを請い、

 

その愛を受け継ぐという意味だろうか。

 

まさにそれは『無条件の愛』・・・と言ってもいいだろう。

 

・・・確かに、

 

いわゆる3次元的で、幾度にも渡る乱雑で愚かで自滅的な人類社会を受け入れてきた、今までのこの地球の無償の許諾は、

 

それを 愛 と呼ぶならば、

 

それは<いのち>の学び舎における、

 

まさに我々という「魂たち」が学ぶべき1つの<粋>であるといえようか。

 

地球に与えてもらった全て、人生の諸経験を含め、魂たちにとっての得難い学び・・・

 

それこそが、真の宝と言えるのだ。

 

ところで、

 

今、あなたはもうすでにこの<言霊>をしっかりと言えることだろう。

 

 

 Earth1  

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世界は全て想念形

2012-07-09 08:34:56 | 心の科学分野

人間世界のあらゆるものは人間の想念の形である。

 

つまるところ、身の回り、世界にあるあらゆる物は人間の想念の造り上げる形態でしかないのである。

 

あなたは気付いているだろうか?

 

・・・

 

それとも全ては物質で出来た堅牢なものだと思っているだろうか。

 

物質とは、人間ではどうしようもないものだと思っているだろうか。

 

このどちらに想念が傾いているだろうか。

 

あるいは、

 

その物質を手に入れるためにお金が必要だと思っているだろう。

 

だからお金お金という人々が増え、その為に日夜頑張っているのだろうか。

 

・・・・すでに長い時を経て、取りあえず最も汎用的なものが「お金」であるという刷り込みがされてきたことに気付くだろうか。

 

お金で人が動き、人が何かを造り上げる、その造り上げた加工品を人が購入しお金が動き、そのサイクルを繰り返して様々な物を造ってゆくことが、即ち経済・社会の基本になっているということである。

 

人間世界のあらゆる構築物、構造物、加工物質、食品さえも、すべて人間の想念で造られていることを知っているだろうか。

 

当たり前の事実であるが、忘れていないだろうか。

 

しかし、想念で造ると言っても、現状では想いやイメージが直接形態化するレベルではなく、種である人間の想念、アイデア、イメージを設計思想として先ず生みだし、その想念をもとに、周辺の事物、最適な物質を集めて加工し、それを形に現わしているということである。

 

人間世界にあるあらゆる物は、たとえどんなものであろうと鉛筆であろうと、ウオシュレットであろうと、乗用車であろうとジェット機であろうと、その全ては、元々人間の想念であったことは間違いがない。

 

決して勝手にシンドバット的?に造られるものではない。

 

全ての物質加工形態の元に在るのは、想念であり、造られたものは想念形である。粘土細工もスポーツカーも、その造られる複雑さや人的関与の程度の違いはあっても、勝手に出現しているわけではない。

 

あらゆる物質形態の原因は『想念』であり、出来たものは『想念形』であることには違いがない。

 

人間はどうしても唯物史観的な観念に束縛されていた関係で、想念で形が決まることよりも、現われた物のほうに目が行くように促されていたために、その根本的な形態創造の仕組みを、あまり意味が無いもののように思いこんでいたのだ。

 

例えばあなたが何かの設計や創作、工芸、企画のような仕事を知っているならば、こういうことには何処か合点がいくはずである。

 

すくなくとも、すべての創作のスタートは、アイデア、思いつきにあるということである。

 

いわゆるところの、頭に思い浮かんでくるもの・・・・アイデア、思想・・それが全ての起点であることに気付けるだろう。

 

あなたやわたし達の回りにあるものの様々な加工品はすべて、誰かのアイデアから造られているのだ。

 

勝手に偶然にこの世界に出現したものではない。

 

極めて当たり前だが、この事実から深い意味を感じる者は少ないかもしれない。

 

・・・

 

すべての発端はまず想いであり、人間世界の全ての物事は『想念』から生じるのだ。

 

ただし多くの創作者達は、それらは単なるアイデアであり、それを形に現わすにはそれ相当のエネルギーと時間経過が必要であることを知ってもいるはずだ。

 

例えば何かの機械を造る場合、アイデア、設計の詳細を決め、それを造り上げる構造物質を選択し、それを加工して、アイデア・設計の詳細に従って実際に形態化してゆくのである。

 

アイデアから形態化までのそのプロセス自体は、その時々で発見される物質科学技術的な手法を利用しながら、時代を経て変化してゆくわけである。

 

しかしそれはあくまでも形態化の為のプロセスであり、

 

つまるところは、全ての根本には『想念』とその『形態化』の原則があることには変わり様がないのだ。

 

想念による詳細にしたがってそれが現実化・形態化する原則は変わり様がないのである。

 

・・・・

重要なのは、この想念の形態化の流れが、人間社会のあらゆる物事の根本にあるということなのだ。

 

科学技術的な製造工程に留まらず、例えば人間関係、マクロな社会の仕組みも全てこの『想念形』によって出来あがっているということである。

 

未だかつて、かつこれから先も、人間社会のあらゆる物事は、人々の『想念形』で構成されているということである。

 

科学技術が進んでいようがそうで無かろうが、人間社会の根本の原理原則は『想念』とその『形態化』なのである。

 

あなたや私たちの人生というか生活というか、どういうあり方というか・・それそのものも、あなたや私たちの「想念」によって構築されていることもまさに、この想念とその想念の形態化の原則どおりなのである。

 

あなたが誰かの想念で影響させられているだって?

 

あなたの生活が例えば政府によって造り上げられているだって?

 

あなたがどこかの悪者によってコントロールされるだって?

 

そういう他者を恐れる想念はもうやめにしないのだろうか。

 

自らの中に湧きあがる想念を恐れるような不可思議な有様に浸っているおばかさ加減にもほどがあるというものだ。

 

自らの想いは『自らの内面』と言われる方向から湧いてくることに気付いているならば、そのような恐れや不可抗的な外乱要因さえも自らが造り上げていることを悟れるのだ。

 

・・・・

 

人間世界の全ては、それぞれの人間達の想念と、その形態化されたもので出来ており、その全ての原因、起点はそれぞれの人間独自の意識活動なのである。

 

物質が??どういう活動をして、あなたやわたし達を規定しているのだ?

 

そういう思い込みこそが、そういう規定をしている想念形であることに気付くべきなのだ。

 

・・・・

 

I am that I AM  ・・・

 

わたしは、わたしが思うところの者である。

 

・・・・

人々が他者から規定されるという、いつからか思い込んでしまった想念によって、

 

様々な世界の軋轢や不幸なるものが製造されているという現実を見ようか。

 

それぞれのあなたが、生きるも死ぬも結局1人1人であるということは、その1人1人が自らの想いによって決して誰にも犯すことのできない世界を造り上げているということである。

 

それに気づかぬ意識レベルであれば、誰も嫌がる支配や強制という戦うべきものが影のように付きまとうことになる。

 

いやだいやだと言いつつ、なぜか嫌なことばかりを押し付けるような者たちが大勢いると感じるような今までの世界は、

 

それぞれのあなたが、自らのことを決めず、他者を期待し他者の想念を自らの想念と勘違いしていたということである。

 

想念は100%、自らのことを決める方向指示器なのである。

 

あるいは自らが自らの創造主である。

 

良いとか悪いとか、満足とか後悔とかの問題ではない。

 

人生は創造のプロセスそのままである。

 

他者のせいにせずに、自らの創造に潔く気付けるかどうかが肝心要である。

 

  

自らの想いを観ることが出来なければ、想念とその想念形で出来た世界の原則を知らず、他者の想念形の中で右往左往することだろう。

 ・・・

 

あなたの想いは、どこから湧いてくるのだろうか。

 

それは、

  

本来空(くう)であり、無限であるところの、時間も空間も超えてあるところのそれぞれの「わたし」から湧いてくるのだ。

 

空(くう)とは、何ものでもなく、また何ものでもありうるもの。

 

空(くう)とは、時間や空間さえも1つの可能性として含むところの「無限」である。

 

その中に湧きあがる様々な波動が「想念」であり、

 

その想念の形態化したものが世界である。

 

存在諸世界も宇宙も、人生も、社会も、個人生活も・・・・

 

同じ『自らの創造』の原則で貫かれている。

 

これこそが 現実 なのだ。

 

他者が今どうだろうと関係なく、楽しく面白く愛すべき信頼すべき『想い』を保持しようか。

 

基本の想念を自分らしく入れ替えようか。

 

ところで、

 

あなたはまだ想いが確実に顕れていることを、自らで確認、あるいは実証していないかもしれない。

 

そうであれば、それは自らで実証すべきではないか。

 

自らの想いを入れ替え、そしてそれを保持し・・そして、何が生じるか確認すべきであろう。

 

そう、・・・時は常に今・・・しかないのだ。

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして誠に有難うございました。


荒い世界の終焉

2012-07-04 03:06:13 | 新たなる地平線

この世界はかなり『波動の荒い世界』とも言われるがそれはどういうことだろうか。

 

波動が荒いとはどういうことを言うのであろうか。

 

それは多分、人々のこころの描き出すイメージや感情に歪みがあるということであろう。

 

それは、誰でも知っているようなオーケストラの美しく調和した音、強弱、旋律の妙の中に、ノイズのような音が混じっているということであろう。

 

そのような意味のない不協和音は本来誰でも直覚で気付けるものである。

 

それは、不安、恐怖、不信、等に代表されるネガティブとも言われる『想念』の言わば「ノイズ」がその原因である。

 

例えば、通信波に外乱要因が混入すれば、それはノイズだらけの情報となり、それがノイズであると知らなければ、乱れた受信情報があたかも正しいものとして受けとられ、事実・真実を知ることが出来ない。

 

例えば間違って伝えられる世界の表層が、あたかも真実であると誤認しながら、それすらも気付かないことになる。

 

そのような、事実、真実、リアルな世界からかけ離れた偽情報だらけ、ノイズだらけの想念世界の事を、荒い波動の世界というのだろう。

 

低い波動レベル、本来の輝きから離れたくすんだ有様は、まさに荒いノイズ的想念波動が混入している世界のことを言う。

 

確かにノイズだらけでは何が何だかわかり様がない。

 

真実が容易に知らされない世界。

 

まるで一寸先もわからない深海のようなものでもある。

 

確かに、深海には洋上の光は届きにくいし、その重い圧力のもとに生存することになる。

・・・  

自己のこと、他者のこと、それを取り巻く自然のこと、そして宇宙のことに関して、容易に知ることが出来ないとされる「観念」のフィルターが掛かった世界は、重く荒い波動の世界というのがまさに言い得て妙であろう。

 

まともな情報も少なく、あまつさえ、自己という意識を有する認識主体である人間が、まるで動物の1種にしか過ぎないという虚妄の観念を教え込む愚かな世界。

 

最終結果として物質の換算価値にすぎない、あるいは単なる道具にしか過ぎない貨幣が全てに優先するという観念に行きつき、貨幣を奪い合いその為に罵り合う末法の世。

 

ここまで来れば、ようやくではあるが誰でもわかることになる。

 

絶対におかしい・・と。

 

美しき音を響かせるはずの本来あるべきオーケストラの中に混入した、稚拙で荒い不協和音、ノイズ、あるいは意味のない音はいつも誰でも感知できるのだが、不協和な音、それがオーケストラの真実だと集団で思いこんでいれば、なるほどそれが変に芸術的なものだと勘違いすることにもなるだろう。

 

まるで金メッキの置物を、金であると勘違いするようなものだ。

 

しかしながら、そのようなノイズや不協和音ばかりを聞いていれば、いつかこころを痛め、体をむしばむ結果になることで、遅まきながらもようやくその理解に至るのだ。

 

不快や苦痛によってそれを知ることになる。

 

結局は自らにその因果が出ることでしか理解出来ないということである。

 

・・わたし・・のことはすべて「わたし」に帰ってくるということでもある。 

 

今の自分の有様はどこかおかしい。またこの世界は、何かおかしい。

 

ことここに及んで、あなたも多分そういう認識に至ったことだろう。

 

・・・違うだろうか。

 

まず、それを理解しなければならないかもしれない。

 

道が2つに分かれる地点まで、あとほんの少しである。

 

・・・

 

確かにこの世界は、相当に荒い世界であった。

 

何千年という時間領域において、地球という全てを育む土台、大いなる意識の顕現である地球の大自然から離れ、気付けば人工的なノイズだらけの波動を人工美と勘違いしてきたのであろう。

 

人類も動物も植物も、全ては意識進化の途上にある兄弟や姉妹であるにも関わらず、目先の物質を集積することによる自己存続のみに注意をそらし、その獲得競争と勝敗に意義を見いだす程度のことだったのかもしれない。

 

ここに来た大勢の魂たちも、自分が何者で、どこから来て、どこに行くのかというような、大きな視野的物差しを持ちこむことに至るまでの間に、取りあえずの自己存続競争、あるいは闘争をして人生を送る羽目にもなったことだろう。 

 

その根本にあるのは、人々が単なる有機的な肉体動物であるという虚妄の観念、この3次元的世界特有の「ノイズ」的観念である。

 

ノイズ・・・というのは本来有るべきではない、勝手に造られた不調和波動、あるいは不浄の波動という意味であり、人間世界においてはその行動や表現の元になるところの「思い」や「感情」に混入した「嘘」の、あるいは低い次元の謂わば意識情報のことである。

 

自己が肉体存在でしかないとなれば、取りあえず肉体存続、あるいは自己保身が優先し、その為の人生を必死で生きることにもなるものだ。

 

大勢の者たちが、それが皆と言って良いほど同じ方向を向いているからには、如何にもそれが真実である・・という思いこみも無理からぬことであろう。

 

ましてや愛すべき肉親や周囲の者たちが当初からそうであれば、そこに間違いを見いだすことのなんと困難なことであろうか。

 

大衆の中に埋没し、大衆の虚栄の観念に染まってうごめいている人々は、その中に安住を見いだそうとしつつ、決してそこにはこころの平安がないと確信するまでには、相当に長い生死を通じた体験知が必要であったろう。

 

その愚かさを知らせるべく下生してきた幾多の魂の教師的存在達、魂の本来の高い波動をともなった先達、釈迦、キリストその他の魂の輝ける存在達であっても、

 

勇躍舞い降りて、自らを投じたこの世界にあって、幼き頃から自然に共振してきたところの想念群、ノイズだらけの様々な観念の除去はそれほど簡単ではなかったのかもしれない。

 

聖典や経典に残された彼らの逸話は、なんともはや宗教という集合ドグマになり果てた観があるにしても、その周囲から流れる僅かな真実情報が人々には大なり小なり伝わっている。

 

確かに言えるのは、なるほど真実を知るには、ノイズだらけの想念、信念体系、またその履歴である歴史さえも、世俗のこととして捨て去る段階も必要であったわけである。

 

真実であると思いこんできた嘘の観念を捨てなければ、なるほど『真実』を観ることが出来ないこともまさにその通りである。

 

・・・

 

あなたや私たち本来無限の意識体現主体が、この世界の胎児の肉体にその魂意識を共振させて、人間として生れてくるプロセスは、この人類世界の意識波動にまさに共振することで可能となるわけであるが、

  

そのベースバンドともいえる意識波動、認識レベルが元々荒くクリアーでないがゆえに、真実なる自らの記憶を一旦忘れてしまわなければならない忘却の仕組みがある。

 

魂は、即ち一旦ゼロから始めるような参入の仕方をとるのである。

 

微妙で高度な意識波動を、より周波数の低いモードに落とす必要があるために、その荒い周波数では本来の情報量を現わすことが出来ないようなものなのだ。

 

例えば映像機器で言えば、より周波数の高いハイビジョンの情報は、低い周波数の装置では決して映すことが出来ないようなものである。たとえ、映すことは出来たとしても、おぼろげな、なんとなくの映像しか見ることが出来ないのだ。

 

じつは誰にもある、この内面のなんとなくの、おぼろげな感覚・・・こそがあなたの真実を示す影のようなものであり、

 

この直覚知からくるような魂レベルの衝動に気付くことが、実に、実に重要な気付きなのである。

 

肉体ではない自分、自らの出自、あるいは自己の源、あるいは本当の「わたし」が、より高い意識周波数帯域から来たものだというおぼろげな「気付き」が、この荒い世界での『目覚め』の端緒なのだ。

 

その為には、外の世界の有様、あるいは大勢の人々の意識の周波数レベルをいじくることではなく、自らの意識周波数を高めてゆく必要があるということである。

 

本来の自分を思い出すための、謂わば最も重要な修練が内面直視にあることはこれで気付けるだろうか。

 

外に改革の目を向けさせることは、良く言う謀略のようなものなのだ。

 

外の世界に無理やり血の革命や改革を起こすことは、まるで海の中にコップの血水を注ぐようなものであり、いつも決まって失敗しカルマを生み、更なる不都合を生んで来ただけなのはそういう理由なのである。

 

外の世界のベースバンド、集合意識の波動の高低は、本来それぞれの1人1人の意識波動の高低の重合結果によって起きることであり、決してその逆ではないのだ。

 

一人一人の意識が変わることによって、その一人一人の知覚領域が変わり、またその結果である集合意識が変わるということである。

 

結果の重合である集合意識が変われば、それにつられて1人1人が変われるというのは根本的な勘違いなのだ。

 

それは、外の環境が変われば人も変わるという謂わば唯物史観的なノイズ観念であり、意識たるそれぞれの「わたし」が、十羽ひとからげにされるような支配の構図を生み出すのである。

 

それは今までのことではないのか。

 

外の結果の世界に意識の焦点を奪われている限り、それは高波動域に低波動の意識は無条件に同調することが出来ないということでもあり、世界がたとえハイビジョンの例えのような、高度でより自由な表現形態を可能とするフィールドになったとしても、あなたやわたし達の意識自体がそれに沿っていなければ、到底「同調」出来るわけも無いということである。

 

ここが思案のしどころであり、また道の分かれ目でもある。

 

確かに何事も波動で勘案すれば解り易いものである。

 

ようやく行き当たった量子論的世界観はその小さな後押しをするはずである。

・・・

 

我々の行うべきことは、本来のそれぞれの根源方向、内面の方向にあるより高い波動域への同調である。

 

意識の進化とは、外宇宙の果てに行くことではなく、それらを映し出すところの根源を思い出してゆくことであり、

 

まず、今までの荒い波動、ノイズだらけの世界で受けてきた様々な浄化されるべき意識の波動、こころの歪み、傷を 自らで浄化 することである。

 

その為にこそ、外ではなく、それぞれのあなたの意識、こころの中身を精査する必要があるのだ。

 

それは、

 

外の結果の世界を見ることに合わせて、またそれより以上の「内観」を行うことが必要ということだ。

 

あなたや私達に「世界」が映ずるのは、その根源たる意識のがあるからである。

 

また、意識存在であるあなたやわたし達は、映画のうすべったい2次元スクリーンに張り付いた投影物ではなく、それを投影して自らを観ている当の原因者なのである。

 

この、どこか時間と空間、理論や既存常識から外れた気づきの方向に、

 

本来有るべき、あるいはより自由でより大きい、より暖かい、より自然な世界がある。

 

実に、世界と名づけるものは、常にあなたやわたし達意識存在の発振波動にちょうどぴったり同調する体験学習場、遊び場のことである。

 

全てはそれぞれのわたしの意識の振動率、あるいは平たく言えばマインド、こころの調律のその程度に沿ったものなのである。

 

自らの意識の調律によって、その現われる世界が自在であることは、まさに「ここ」に生れてきたプロセスをみれば良くわかることだろう。

 

ここに生れるとは、わざわざ自らの振動を落としてやってくることを表現した言葉である。

 

常に自らによって立つ者、自らを造りあげる者、それはいわゆる創造主、一なるもの、無限たるもの・・・の派生でもある意識存在の真骨頂でもある。

 

・・・

そこまで気付けば、

 

本来のそれぞれの「わたし」である事実は、実に楽しく面白いことではないか。

 

仏頂顔も不満も不安も不要である。

 

恐れも嘆きも不要である。

 

急ぐことも慌てることも、額に皺を寄せることも不要である。

 

無限という自らの根源には、本来どのような観念のノイズもありはしないのだ。

 

それを今この瞬間に自らの無限性を明確に自覚することである。

 

物や形は消え去る運命にあるが、未だそのようなものに執着することの愚かさだけには気付くべきではないか。

 

そろそろこの世界も、胸突き八町の混乱を迎えながら、

 

それぞれが越えるべき「峠」に差し掛かってきたようだ。

 

・・あなたはもうそれに気付いていることだろう。

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。