気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

空(くう)は充満する意識 (1)

2013-12-28 21:23:01 | 見えないものから見えるものへ

 

一般常識では、空間とは何もないだだっ広い空虚なスペースだと考えているかもしれない。

 

あなたも漠然とそう思っているだろう。

 

しかし、残念ながらそれは全く違うのである。

 

空間には何もないのでなくて、あらゆるものが充満していることを言う。

 

有名な物理学者であるディラックは、陰電子と陽電子の対の充満と考えた。

 

±の対なので表面上は差し引きゼロなのであるが、実はプラスとマイナスで充満していると考えたのだ。

 

+1、-1=ゼロではあるが、永遠に空虚という事ではなく、

 

空(くう)は永遠に波打っているということである。

 

 

有るようで無い・・・、無いようで有る・・・という、空(くう)のことを一般に空間と呼んでいる。

 

あなたの周りも空間だらけではなかろうか。

 

しかしながら、

 

空間には目に見えない電磁波が飛び交っているように、実のところ「波動」で満ちているのである。 

 

宇宙はまたスペースとも言うわけで、

 

宇宙は、どこまであるかわからない空間に様々な素粒子、原子、微粒子、惑星、恒星が浮かんで、様々な運動をしているように見えるため、

 

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宇宙空間を、単独の物質が動き回っているというような観念があるだろうが、これは間違った観念だと言える。 

 

えー~マジ?どこが間違っているの?・・・・と言うのはもっともなのだが、

 

やっぱりその観点は間違っているのである。

 

・・・・

 

ちょっと簡単すぎて、ややこしいが、

 

スペース、つまり空虚な空間に物質が単独に浮かんでいるのではなく、

 

「空間そのものが常時物質に成り続けている」のである・・・というのがより正確な考え方であるということなのだ。 

 

例えば、情報通信工学では、もっとも周波数の高い搬送波によって様々な情報が伝達されるわけであり、

 

基本的なベース波動、搬送波の無い情報通信は成り立たないのと同じく、

 

そこに「物」があるという事は、

 

空間自体も極微、微細な波動で満ちていると考えざるをえないのである。

 

そう、 

 

空間とは何もない虚空なのではなく、目には見えない「波動で満ちている」領域であると言えるのである。 

 

空即是色、色即是空とは・・・まさしくそのことを言っている。 

 

何もない空間に<物質粒子>が単独で・・・・在るというのではなく、

 

 

変な表現ではあるが、

 

空間そのものが・・・・粒子に成っている、なり続けているということである。

 

空間自らが波動を変調して・・・そこに粒子状の波動を生成しているということだ。

 

そう・・・、全ての「物」は・・・空(くう)より生じているということだ。 

 

空(くう)間は、何もないのではなく、あらゆる波動、あらゆる情報、未分化のエネルギーで充満しているのである。

 

この観点に至るならば、いわゆるフリーエネルギーも、さらに霊的現象も、臨死体験も、魂の体脱もそれが事実であり、また可能であることを理解できるのだ。

 

光すなわち、電場と磁場が交互伝搬するのは、「空間自ら」がその情報によって変調されていることを意味している。

 

なぜなら空間は、未分化のエネルギーに満ちているスペースそのものであるからだ。

 

そのエネルギーに揺らぎをもたらすのは、あるいは波動を生じさせるのは、

 

いわゆるところ創造主の意図であり、また人にあっては想念という、

 

言わばハードウエアを動かすプログラムとも言えるだろう。

 

実のところ、あなたやわたし達の周りの空間は、何も無いように見えて、

 

未分化ではあるが無限のエネルギーや情報に満ちているのである。 

 

なんということだろうか!!

 

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古い時代の終わりの前に

2013-12-23 12:06:57 | 見えないものから見えるものへ

 

 

我々の世界はリアルな幻想世界である。

 

昨今の言葉ではバーチャル・リアリティーともいえる世界。

 

その裏方の立役者は、物質という素材だ。

 

相対論の有名な帰結は、E=m×c^2(E=エネルギー、m=(物)質量、c=光の速度)、

 

これでアインシュタインは有名になった。

 

物質はエネルギーであり波動であり、波動の局所的な重合が物質と見えている。

 

粒子・粒子といってさらに小さな粒子を探しているように見えて、それらは、時間空間というフィールドでの

 

局在化したエネルギーであり、また波動の重合なのである。

 

 

 

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それを無理やり壊すのが、今の破壊的、あるいは平和的?原子力利用なのだ。 

 

波動の重合を、中性子というものをぶつけて原子を「ぶった切る」ことで得られる、余剰のエネルギーを利用するという、荒っぽいやり方である。

 

まるで恋人の間を引き離すようなもの、あるいは家族の間を引き裂き、路頭に迷わせる山椒大夫の悪行のようなものだ。(笑)

 

 

Photo_5ちょっと横道ならよいが。

 

 

 

実際笑いごとではないが、このような物質を壊すエネルギーの獲得の仕方は、必ずその物質世界を壊すような方向に進んでしまう傾向にある。

 

なぜならば、すでにある原子の『調和』を破壊して得ようとするエゴイズムがそうさせるからだ。

 

平和的な原子力利用?核兵器の圧倒的な威力?

 

バカなことを、尤もらしく言ってはならない。 

 

難しそうな理論や効率や経済効果等は、全くもってごまかしに過ぎないのである。 

 

単に、それは破滅が何かを知らない霊的幼児たち、それを試したい者たちの、無意識の愚行でしかない。

 

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・・・・ 

 

 

 

根にある思考を読むことが出来れば、事の本質とその行き着く先が分る。

 

 

予知や予測、予言の元にあるのは、根本にある想念のリーディング(読み取り)である。

 

想念であればこそ、その内形が微妙に変化し、映し出される事象も変化することになる。

 

現れた事象だけを観て評価とすると、それが当たらぬも八卦、当たるも八卦ということになる。

 

 

聖書にある黙示録とは、3次元世界での文明が往々にして、その昇華されざる悪想念によって滅亡してゆく様を、後世に残すために、気を付けるべき教訓として残したものだという事がわかるはずなのだ。 

  

あれは何度もこの地球上で行われた経緯のパターンを示しているわけだ。

 

それも、そもそも御大層な宗教教義とは関係がない。

 

・・・

物質はエネルギーであり波動であり、波動の局所的な重合が物質と見えているのである。

 

そのエネルギーを物質として現象化させるのは何かといえば、

 

「思考」である。また「想念」ともいう。

 

「思考」が物質素材を使って形態化することで、様々な「物」、「システム」、仕組みが創られるのだ。

 

 

ここが実に肝心な理解のしどころでなのである。

 

これはたとえ話ではないのだよ。

 

 

・・・・・ 

 

宇宙多次元世界は、いわゆる全体の、神の「思考」によって出来ている。 

 

それは我々が自然界の「法則」と言っている概念に顕れている。

 

  

 

宇宙は神の夢、幻想といえばおぼろなイメージになってしまう観念があるだろうが、

 

多次元宇宙、それを存在諸世界というならば、それは神の、あるいは創造主の「想念」で想像されているというのが、

 

直観的な言い方ではあるが事実なのである。

 

実際宇宙は、バーチャル・リアリティーな世界。

 

地球という一つこの世界も同じである。

 

地球の生態系は、この惑星生命意識体の「想念」で出来ており、

 

その想念の基にあるのは、・・・・法則を体現したところの「慈愛」。

 

諸宇宙・銀河・惑星生命圏は、身近な全て、あらゆる生命を慈しみ、愛するという想念の具現化である。

 

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・・・・

 

すでに学んでいるように、

 

人が肉親を、恋人を、わが子を慈しみ、保護し、成長を助けたいと『想う』のと同じことなのだ。

 

その想いは『無条件に』そこにあるべきもの、あるいはそれを表現せざるを得ないものであり、

 

無条件の切なる想い、・・・慈愛の念がベースにある。

 

 

違うだろうか?

 

 

これに引き換え、自己存続のための計算や欲得勘定や、宣伝や主張などは、経験すべきものではあるものの、棄て去るべきゴミ以下のものだ。

 

人間社会の有象無象の制限された共有観念、今はもうそういう生殺しのような揺りかごから目覚めなければならない時期にある。

 

 

悪臭を放つエゴ同士のバトルや戦い、勝った負けた、儲けた損した、税をむしれ、働きを上げよ、・・・・

  

ことほどかように、個人個人が自我存続の闘争システムに組み込まれて、

  

頑張って生きている・・・、そんな人的世界こそ、

 

今はもう意味のなくなった仮想現実世界なのである。

 

 

多くの人がそれに気づいて来ただろうか?

 

個人我は・・・生きているのではなく、宇宙全体に生かされているのである。

  

それに気付けるかどうか。

 

そうだろう?

 

 

大気があるからこそ、呼吸が出来て生きていることが出来る。  

 

 

 

水があるからこそ、人体の組織細胞を循環維持することが出来る。  

 

 

 

土地があるからこそ、立って歩くことが出来るし、家屋を建てて居住が出来るのだ。 

 

 

  

火があるからこそ暖を得られ、温度の過不足を調整することが出来る。  

 

 

 

そして太陽の光、エネルギーがあるからこそ、地上は光で満ち溢れるているのである。

 

 

・・・・

 

それを感情論というのだろうか?

 

それを当たり前だというのだろうか?

 

あるいはやってもらって、当然のことだというのだろうか?

 

 

それとも未だ最優先は・・・銭・金・物・快楽・地位・権力なのだろうか?

 

生きるためには、他を押しのけてまで頑張らなければならないというのだろうが、

 

例えれば、それは我を張って生きなければならない・・・という時代想念のウイルスに犯されているということだ。

 

自分だけは、自分だけは・・・と我を張り、棘(とげ)を磨き、言葉の槍で武装しつつ生きることが、

 

さも頑張って生きているのだ・・・というのだろうが、

 

・・・・

 

その前に

 

我々は全体によって、慈愛の宇宙のなかで、生かされていることに気付けないのだろうか?

 

自分達ではどうしようもない自然の調和、膨大な緑の大地、壮大な生態系、生命の表現ステージを、

 

人間の創ったお金という価値貨幣に変換することに狂奔し、

 

汚すだけ汚して、その汚染自体に自らが苦しむことすらも気づかず、

 

未だに世界の汚染の拡散や、自然界の増大する異変に、未だに頭をかしげているのは、

 

一体全体どういうことであるか。

 

 

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・・・・

 

地球上に生存してきた無限種とも思える生命形態、

 

空や海の生き物はその多くが絶滅種となって去ってゆく、

 

 

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昨今は、イルカやクジラのような、知的で愛らしく、おおらかな生物、そういう人間に近い生物までこの世界から引き揚げ始めている。

 

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知っているだろう。

 

極端な気象変化、

 

世界的大気異常、

 

温暖と寒冷化の間の大きなブレ、

 

人々の意識に顕在化してきた地震、地殻変動、 

 

それらは、一時の偶然の産物で、目を背けていればそのうち元に戻るようなものではなく、 

 

蓄積されてきた人類の想念形の、その明確な現象化に他ならないのである。

 

 

 

これを止めることが出来るのは、人間以外にないことは分るだろう。

 

 

そうだ、崩壊に瀕している外の世界は、いずれにしても一大変容を遂げなければならない時期に来たのである。

 

その為には、

 

 

 

人間だけの為の欲得の経済活動を、一定時間断続に休止し、その崩壊の加速を和らげて共生可能な社会を作り合っていくか、

 

あるいはそこからしか出てこないところの、随所設置可能な分散エネルギー、真空エネルギーを全世界的に導入するか・・・、それ以外に何があるのだろうか。

 

 

本来はこれが天の意思、宇宙の、全体の想いであろう。

 

 

我欲、エゴを昇華し、お互い様の新しい次元世界を創造するしかないのである。 

 

創るか移行するか、それは波動共鳴として同じことでもある。 

 

これが今の差し迫った現状、現実なのだ。

・・・・

 

何もせずに、何もわからずこのまま突き進み、廃墟と汚染の中でどうしてこうなったのかと天を仰いで嘆き悲しむのだろうか、

 

 

あるいはまた、生きるための水や資源を奪い合い、国は国に立ち向かい、もっとも威力のある核で脅しを掛けながら、最期にドカンと1発で、カルマの帳尻の合わない幕引きを望むのだろうか。

 

しかしながら、多分それは出来ないことだろう。 

 

地球は慈愛の具現であると同時に、それ自らが生命体、生命場であるがゆえに、 

 

そう、自らが回転時間軸の傾きによって、新しい天地の創造をすることになるだろう。

 

 

すくなくとも言えることは、

 

この先、我々が共同で知覚している、このリアルでバーチャルの世界がどうなろうとも・・・、

 

 

あなたの生体フィールド、想念フィールドは自らで光り輝いているべきなのである。 

 

想いは自らで選択するもの、 

 

感じられる、もっとも柔軟で、もっとも朗らかで、最も慈愛に満ちた、もっとも力強い想いを、 

 

あなたの中心から輝かせるのだ。

 

 

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それが、この母なる地球と共振する、調和する、共鳴することに他ならない。

 

それが言わば、このような時代に招じられた、魂達の今生の目的のようなものではないか。 

 

嗚呼、もう、は未だなり、そして・・・・未だは、もうなり。 

 

時間は有って無きがもの・・・、さて、後どのくらいあるのだろうか。 

 

残された移行の・・・時の刻みを、さて、あなたはどうするだろうか。

 

 

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この世はリアルな幻想世界

2013-12-17 08:29:58 | 意識の拡大

 

 

この世は幻想である。

 

なにをバカな・・・・という人が多いかもしれない。

 

幻想と言っても、何かぼんやりと霞んで見えることではなく、しっかりした感のある虚構の世界である。

 

しっかりした感を作り上げるものが物質と呼ばれている、いわゆる「固い物」である。

 

固い物があるからこそ、現状を維持できるわけである。

 

しかし、我々の常識レベル、通常観念で固く感じる物は、どんどんミクロに分解してゆくと、何もなくなってしまう。

 

そこに在るのは目に見えない・・・もの、それをエネルギーと呼んでいる。

 

エネルギー自体は数字に換算することが出来る・・と科学では想定しているが、

 

しかしながら、誰もそれを見た者はいないのだ。

 

物質はエネルギーで出来ており、そのエネルギーは見えないものであれば、

 

物質も本質的には見えないものから出来ている、⇒ 見えないものである。

 

そうだろう?

 

でも見えている・・・ように感じている・・・。

 

見えないものなのにも関わらず、ある観点からは・・・あなたはそれを、見えるように感じているわけである。

 

 

「そうだ、俺も見えるぞ、見える、・・・

 

そうそう、わたしもそうだわ、世界は物だらけだよ、ねーあなたも見えるでしょう?

 

あなたもそれに従いなさいよ!」  というわけである。

 

 

そういう観点が集合して、常識観念が出来上がっているのである。

 

国や地域や、村や、世界組織、法体系にしてもその類の「観念体系」なのである。

 

多くの人々が、その幻想世界で、あーだこうだと騒いでいるのだ。

 

その波動的物質幻想世界を壊すことが出来るもの、核兵器等を持ちだしてまで、

 

あーだ、こうだと言い張っている極めて幼い霊的幼児たちを見よ。

 

ある一定レベルで、その幻想世界の仕組みを理解できない者たちが往々にして、核で滅んでしまうのは、問題を理解できなかったということを示している。

 

物資レベルを越えなかった者たちの拙い演技とはいえ、とんでもない幕引きでもあるのだ。

 

 

でも今回はそれが出来ないだろう。

 

物質はエネルギーで出来ており、そのエネルギーは見えないものであれば、

 

 

物質も本質的には見えないものから出来ているところの、・・・・見えないものである。 

 

 

また、エネルギーは波であり、有ると無いとの境を振動しているもの。

 

 

世界は、・・・有る~無いの間を振動している「波」が創り上げるものであるため、

 

森羅万象は変幻自在、万有変化しており、有るように見えて、実は無いのである。

 

 

また、無いように見えて実は有るのであるから、人間の小さな思考にとっては実に、ややこしいことになる。

 

どうして無いのか?、ずっと有ってほしい?・・・そうやって、銭・金・物を集めることになる。

 

地位や名誉、権勢、権力・・・それを集めることになる。

 

しかしながら、諸行無常、それらは続くはずもないわけだ。

 

物質はエネルギーで出来ており、そのエネルギーは見えないものであれば、

 

物質も本質的には見えないものから出来ているところの、・・・・見えないものである。

 

また、エネルギーは波であり、有ると無いとの境を振動しているもの。

 

 

世界は、・・・有る~無いの間を振動している「波」が創り上げるものであるため、

 

森羅万象は変幻自在、万有変化しており、有るように見えて、実は無いのである。れこそ、思考、選択次第で、気づけばあっという間に消え去るものである。

 

人生も権力も地位も名誉も同じことである。

 

違うだろうか?

 

あなたもわたし達も、そういうことを何十回と経験してきたのではなかったか。

 

 

・・・・

電磁波、光の磁場と電場の交互伝搬のように、

 

世界は、・・・有る~無いの間を振動している「波」が創り上げるものであるため、

 

森羅万象は変幻自在、万有変化しており、有るように見えて、実は無いのである。

 

 

 

それが、この世界はリアルな幻想という面白い仕組みの話である。

 

せっかく頭の固い西洋の科学者たちが、律儀に突き止めた真実、全ては量子でありかつ波動であるという発見を無駄にしてはならないだろうう。

 

 

この世はマーヤ(幻想)の遊びであるという東洋の英知と、その正反対の方向から1つ1つ肉薄してきた物質的精神追究のコラボレーションが既に成ったのである。

 

 

 

そういう思想のレベルでなく、これが事実である、また幻想である。 

 

 

 

そう、この世、この惑星も、リアルに見える、1つまとまりの幻想世界である。

 

 

夢を楽しくするのも、そうでなくするのも、それぞれの「わたし」次第ということが、

  

もう、解(わか)って・・・しまったのだ。

  

だから、くよくよしたり、マジになって苦しんだり、そんなくだらない遊びはもういらないのだ。

 

どんなときにも、朗らかに在ること、

  

 

そして時々でもいい、毎日でもいい、

  

こころの底から、大笑いに笑うことが、いわゆるこれからの・・正しい行為なのである。

 

 

 

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あなたは何か?という問いかけは誰がしている?

2013-12-16 07:34:20 | 意識の拡大

この地球上には今は70億人以上の人間がいる。 

 

言い換えるならば、70億以上の<わたし>達がいると言えようか。  

 

魂の体験のための駆け込み需要としても、実にすごい数だ。 

 

 

その、それぞれが皆、自分を自分と・・・認識しているわけである。 

 

それぞれが皆、自分は自分であり、他人は他人であると無条件に思っているということである。 

 

「バ~カ、そんなこと当たり前だろう」・・ということかも知れない。 

 

至極当たり前すぎて、話題にするのもはばかられることかもしれない。 

 

しかしいつも灯台元暗し、あるいは放蕩息子状態が多いもので、

 

肝心な点を度外視して、外の世界の中で動き回り、考えまくり、実際のところ何が何だか分ったような、わからないような、そんな経験知で終わらせてしまうことも多いのではなかろうか。 

 

外が忙しいからといっては、貴重な人生を少しづつ「経済消費」?してしまうことは、誰が誰にも、また何の言い訳にもなりはしないことになる。 

 

誰かが悪いからと言って、社会が良くないからといって、その証拠集めに奔走するだけに終わるのも、本質的には面白くもなんともないことだと思わないだろうか。 

 

他人のことは非常によく観えるが、自分のことはサッパリ、からっきしということは良くある話ではないか。

 

 

ところで、あなたはいったい何なのか? 

 

それぞれの・・・わたしとは何か? 

 

それって、もっとも追究すべきテーマではないのだろうか。 

 

それとも、そんなことは既に「知っている」のだろうか? 

 

 

思想、信条、男女、年齢、履歴、身長、体重・・・・そんなものは、本当の<わたし>ではない。

  

 

それらはテンポラリな私の属性ということが出来るが、言わば一過性なものである。 

 

・・・・

  

人は皆、俺が俺が、私が私が・・・ということで、他とは違う独自の<自分>を認識している。 

 

それが嵩じて、その独自の<自分>同士がいがみ合い、闘い合うこともある。 

 

大概において西洋的な文明・文化では、生き残るためには、俺が!、俺が!・・・・である。 

 

確かにこの地上で、人間だけがこういう<自我認識>を強く持っているわけで、それが知能のせいだというのがデカルト以降の考え方であろうか。 

 

要は、人間と、植物や動物との違いは、そのとびぬけた「知的能力」にあるとしているわけだ。 

 

確かに「私は、我が家の犬さんよりは頭が良いし、ネコさんよりも知恵がある」ということが言えるのだが、 

 

しかしながら、その知的能力、思考力、記憶力だけでは、例えば進歩したコンピュータの比ではないのも事実であろう。 それではコンピュータにかないっこない。 

 

だがしかし、コンピュータは人間たりえない。 

 

単なる情報処理だけでは、自己が自己であると、主体的に認識することは出来ないのである。  

 

機械に「魂」は吹き込めない・・そういう話である。 

 

右から左に情報が流されてゆくだけで、いったい何がそこに生まれるというのだろうか。 

 

分子や原子が集合・離散を繰り返すだけで、いったい何がそこに生まれるのだろうか。 

 

 

人間の着目すべき点は、演算処理、記憶能力のような、情報、記号や概念をいかに早くこなすかという知的能力のことではなく、 

 

自分が自分である・・・我あり・・・という『自己認識』なのである。 

 

つまり、わたしが⇒わたしであるということを知っている、 

 

 

あなたが⇒あなたであるということを「知っている」という意識的な働きのことである。

 

つまり自分を知る・・という意識である。

 

 

自己認識は知的能力によって生じるとされる所以は、この「知る」、「認識する」ことにあるわけだ。 

 

要は、自分が自分であることを・・・知る・・・という働きである。 

 

 

その「知る」とは、単に情報がインプットされる・・・量が増えるということではなく、それらの働き、動き自体を「観察している」あるいは「知っている」という総合的な認識のことである。  

 

 

それを例えるならば、映画を見ているということではなく、映画を見ている・・・こと自体を・・・観ていることである。 

 

 

夢を見ているだけではなく、その夢を見ている自分自身・・・に気付いている・・ということである。 

 

これを言うならば、わたしを観ているところの・・・高次の<わたし>という視座があるという事も出来るだろう。 

 

 

 

それは、もう1人の客観視が得意な自分がいるなどという平面的な意味ではなく、

 

今の自我、自己を・・・含むところのより大きな自己・・・の視座があるということだ。

 

端的に言えば、そういう視座とは、自分をも観察対象にするところの・・・より大きな自分・・とでも言えるだろう。 

 

 

よく言われるハイアーセルフとは、そういう視座にある自己とも言えるだろう。 

 

 

それは前世等、あなたのことを、あなたより知っているより拡大した<あなた>である。 

 

 

さらに言えば、今の人生に自己投入しているわたしを含む、より大きな<わたし>という意味でもある。 

 

 

 

だからなんでもアドバイスできるし、過去生や前世のことも知っているわけなのだ。

 

それはあなたの本質、魂と言ってもいいだろうか。 

 

あなたが今気づかない方向、後ろの正面、だーれ・・・なのだ。 

 

そう、

 

あっと驚く!為五郎(ちと古い)ではないのだが、

 

 

あなたを観ている者とは・・・・<あなた>以外にないだろう。  

 

 

より大きな<わたし>を簡単にイメージするならば、個々のクライアントPC(私)に接続している大型サーバー(ハイアーセルフ)のようなものだ。

 

それがさらに大きなシステムの中に含まれるところの拡大されたシステム、そんな感じだろうか。   

 

瞬時にデータのやり取り可能な大型システムのようなものであり、データから言えば、どれが自分でどれが自分ではないとは言えない。  

 

 

それを言うならば、全ては、さらにより大きな<わたし>というシステム内にある、無数の「私」のネットワークのようなものである。

 

 

もっとも、世間相場で言えば、自分とは個々のコンピュータであるぐらいにしか感じていないわけである。 

 

それをスタンド・アローンという。   

 

何処とも切り離されて、自分ひとりで立っていると<仮に>認識しているわけだ。 

 

・・・・ 

 

森羅万象のなかで、自己が自己であることを認識していることは、とてつもなく神秘的な事であると思わないだろうか。 

 

 

そう、神・・・秘・・・である。  

 

 

それは言わば神にとっての楽しい秘密遊び、かくれんぼ遊びかもしれない。  

 

 

自分が隠れて、自分で発見して行くようなそんな遊びである。  

 

 

わたしは・・・嗚呼、なんだ・・・それも、わたしであったのだ、 

 

どこにでも、・・・我在り・・・・・、 

 

 

自己認識を有するまでに拡大した意識、それぞれの<わたし>は、その途方もない遊びを理解することが出来る存在なのである。  

 

 

今、この地の人々は・・・、俺だ、俺だの自我に固まっている殻を破り、エゴの古巣から抜け出して、  

 

 

より大きな<わたし>を発見してゆく、意識の進化ベクトルへと大きな転換をしている最中なのだ。   

 

 

あなたを観ているところの、あなたであるハイアーセルフは、そう言っている気がしないか。

 

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意識次元を上げる ②アルファ波に乗ろう

2013-12-15 04:02:11 | 意識の拡大

人の精神状態がゆったりしてリラックスしているならば、こころにストレスがないことを意味している。

 

それは脳波で言えばアルファ波の状態とされている。

 

またストレスや精神的な緊張は主にベータ波で生じるものである。

 

とはいえ、ベータ波が悪ということではなく、それが乱雑でとりとめのない、緊張の多い精神状態ということなのだ。 

 

なるほど、ストレスこそが現代社会での万病の元であることは、今は常識となっている。

 

そしてそのストレスとは物質的なことではなく、ある精神状態のことを意味しているはずだ。

 

 

 

例えば、ある人の前にいて、どこか不快感を感じているとか、こころ穏やかでない状況にあるとか、そういうことが続くとストレスが蓄積し、へとへとに疲れてしまうことにもなる。

 

つまりストレスとは、「こころ」の中で何かが重く引っ掛かっている、あるいは精神的な葛藤があるということと言ってもいいだろう。

 

 

嫌だな~・・という「こころ」のパターンを無意識のうちに強く維持することで、例えば胃のあたりが重くなり、それが形態化に進んで胃潰瘍や慢性胃炎になる人もいる。

 

かなり真面目な人である。

 

多分、誰しもどこか似たような経験があるはずだ。

 

 

ところが、それらがどうして出てきたのか、当初はトンと気づかないのだ。

 

えー? トラブル? 病気? なにこれ? やだね~、

 

それは自分の事ではなく、誰か他の人か、学校の先生か、お医者さんの解決することだと考えている人が多いかもしれない。

 

そう、

 

その根本にあるのは、自分に起きることは、自分のせいではなく、不特定他者のせいだというような無責任な観念なのである。

 

誰か!・・・何とかして・・!

 

ある意味では、精神的に乳離れしていないとも言えようか。

 

 

 

世間全般見渡せば、世間という無意識集団に沈んでいるか、

 

 

 

あるいは自己主張と同じ根っ子の他者批判のオンパレードのいずれかであるかもしれない。

 

 

 

一体誰が、自己批判やら、反省やら、自己観想やらをアピールしているのか。

 

 

 

なるほどそういうものは大衆受けしない、つまり人気がないということだ。 

 

 

ところで、外の世界をいじくって、あの人が、あの組織が・・・きっと良くなるはずだとというような、どこかお花畑観念の人が多すぎないだろうか。  

 

 

 

変えるべきは、自分以外にない。  

 

 

それが真実である。

 

 

 

 

今回、それに気づけるかどうか、ただ、それだけだとも言えようか。

 

 

・・・・ 

 

 

 

 

自分のこころの状態と、自分のの状態との強い「相関性」は明確である。

 

 

 

同じく、

 

 

 

自分の意識の波動レベルと、経験する周囲世界との強い「相関性」は明確である。

 

 

 

 

 

それを真に理解することが魂レベルでの自立というものである。

 

 

・・・・

 

いわゆる「物質」や時空環境は、こころの表現の為の「素材」や舞台のようなもの。

 

こころはプログラムであり、それが現象として現れるのだ。

 

そのプログラムは、それぞれの「わたし」が、精神という変幻自在の用紙に書き上げるのである。

 

毎瞬毎瞬、思うこと、感じることがそのプログラムである。 

 

逆に、物質素材がこころを決める等ということは、天地裂けてもあり得ないわけだが、

 

形、物質そのものが「心」を作り上げるなどという、地球上でもっとも愚かで根拠のない、植えつけられた漠然たる大衆信念は、さっさと捨てなければならない。

 

 

宇宙は、森羅万象は、あらゆる時、所を通じ、内側から外側へと展開しているのだ。 

 

これが本当に理解が出来るならば、人は外の世界ではなく、自己の意識状態、こころ模様の方を重視することになるのは火を見るより明らかではなかろうか。 

 

 

全くもって余計なお世話なのだが、・・・・

 

全ては、そしてあなたの世界は、あなた自身のこころのパターンが展開しているだけであることに、 

 

あなたは本当に気付いているだろうか。

 

・・・・

 

そしてここで云わんとしているのは、 

 

そのこころの在り方が妥当かどうか、調和があるかどうか、その1つのバロメータになるのが脳波ということなのだ。

 

人類は今、ベータ波が主流な状態から、アルファ波的状態に移行しなければならない時期にあるとも言えよう。

 

 

重く粗い意識から、軽く精妙な意識への移行の事である。

 

複雑怪奇でわけのわからない緊張と混乱の意識状態を卒業し、

 

それらを肥やしにしたうえで、

 

おおらかで心地よい意識状態へと開花する時に来たという事である。

 

種が土の中でうずくまり、エネルギーと力を蓄え、

 

光の少ない土塊の次元を打ち破り、勇躍天地へとその姿を伸ばす時期なのである。

 

・・・・

 

人が、大自然の中に在ることは、それだけで脳波がアルファ波に移行することになる。

 

自然の美しさや壮大さ、調和と変化の中にいる自分をそのまま感じているだけでそのようになるのだ。

 

これは極めてシンプルな、ある一定レベルまでの意識の拡大・上昇方法とも言えるだろう。

 

ただし、その中にあっても「頭」が何やかやという問題で占拠されていたり、心配事で悩んでいる限りは、大自然の中にあっても、心ここに在らず・・・という事になって脳波ベータ波のままで終始することになる。

 

さらに、人が何かに、例えば絵画や芸術、音楽に感動している意識状態でも脳波はアルファ波になっている。

 

あるいは、人に対する、無条件の思いやりや、小さな親切をした場合にも、こころはどこか晴れやかにリラックス出来るはずである。そういう場合は脳波も一瞬アルファ波になっている。

 

つまり、脳波で云うアルファ波の意識状態では、こころが安心や快活さ、感動や晴れやかさを感じているのである。

 

 

また特別な分野での達人、名人と言われる人達や、匠(たくみ)といわれる人達の脳波はアルファ波が主流になるのである。

 

そういう人たちが創意・創作作業にある時には、緊張のない集中と、慣れ親しんだ行為による安心感と、常に何か新しい創作ヒントを求め続けている真剣さがある。

 

そこにはオドロな感情の絡み合いや、複合された悩み事等は寄せ付けることが出来ない。

 

すなわち、それがたとえ一時であろうとも、いわゆる「無心の境地」にあるということである。

 

別に芸術に限ることもなく、人間のこころが、妙な緊張感なく、快活でかつ研ぎ澄まされている状態にあれば、気付く気づかないにかかわらず、その意識レベルは拡大している。

 

こころの中にノイズや異物のない場合、こころが晴れやかで、穏やかであることは誰でも分るはずだ。

 

快活であり、晴れやかであり、穏やかで、かつ研ぎ澄まされた感覚、

 

嘘や隠しも見通せる意識の状態、

 

そういうこころの状態を称して、意識が拡大しているという表現をするのだ。

 

 

散歩をしていても、登山をしていても、何もせず座っていても、

 

人間のこころが、妙な緊張感なく、快活でかつ研ぎ澄まされている状態にあれば、意識レベルは拡大しているのである。

 

意識の拡大というもの、それを科学的に推し量るバロメータの1つが脳波であり、脳波がアルファ波に移行することでそれを観測できるということである。

 

だからと言って、神経質になって脳波測定器を頭につける必要はない。

 

それでは元も子もない。(笑)

 

 

何かにこだわらず、何かをやりつつ、自然体でそこに在ること、

 

それが出来るようになれば、

 

あなたは「幸せ」というフィールドにあるという事である。 

 

それはまた今、今、この瞬間に選べるものである。

 

 

そう、

 

幸せであることに・・・・・どんな条件も無い、

 

 

嗚呼・・・朋よ・・そうではないだろうか。 

 

 

Pho_0705


本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。