気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

魂の諸相 (5)転生と次元の上下

2013-05-27 08:24:35 | 宇宙時代の考え方

人間は肉体的、精神的、霊的な存在であると言える。

 

人間の「肉体的」な側面は誰でも理解可能だろうが、逆に「精神的」な側面、すなわち「こころ」について、実にいい加減な気づきの段階にある場合が多く、

 

つまりこころの働きを重視せず、観察することもなく、結局これを統御できずにいる場合が多いということだ。

  

ましてや「肉体」、「こころ」を生ぜしめているところの因なる「霊的」な側面には、とんと気づいていない有様だったともいえようか。

 

・・・

例えば、

我々は今生きているわけであるが、さて死んだらどうなると誰でも考えたことはあるはずである。

また生と死とか、どこかそういう本質的なことを、これも不思議なことにタブー化していることに気付けるだろうか。

 

主に欧米的な物質主義では、肉体が死んだら全て終わりだという根の観念があり、だからこそ生きることが重要なのだという思想になっているわけだが、

それは当初から生と死というセットになっている「生命」の在り方を直視せず、とりあえずの刹那の生のみに「執着」しているということ示している。

・・・

「おいおい・・死だと?とんでもないねー、死んだら終わりだ。

 クワバラクワバラ、そんなこと考える気にもならないよ・・・」 

「それにそんな女々しいことを考えず、もっと生きなきゃならないぜ、なあ兄弟・・」

 

・・ということだろうし、これは一見もっともなことだと感じるだろうが、しかし、

  

こういう観念は、例えば日本の武士道精神とはまったく異なる考え方、生き方であるし、

 

ある意味では、積極的どころか、人生の重要なテーマから目をそらせるための逃避的なプラグマティズム観念であるといえようか。(笑)

 

これは、例えば吸う息ばかりが呼吸だと言っているようなものであり、寝ていることより起きていることばかりが生だと言っているようなものである。

 

また、春ばかりが季節であるというようなものであり、晴天ばかりが気候だというようなものである。

 

要は、肉体自我の取りあえずの生存だけに特化した刹那的な観念なのではないか。

 

世の東西を問わず、ほとんどこのような物質偏重な思考が世界に行き渡った感がある。

 

これは肉体こころ霊的要素で構成されているところの人間の理解に対する欠落であり、

 

今までの物質偏重な現代文明は、精神的、霊的な要素をほとんど無視したような実に片手落ちな文化、文明であったといわねばならない。

 

不思議なことに、時代が下るほどこういう刹那的で物質的な自己像が蔓延してきたわけである。

 

これは確かに次元降下といっていいだろう。

 

「物質的自己像」だけがそのすべてであるというような観念が、当たり前の常識として蔓延したということだ。

 

要は、「今がすべて」だという意味を卑小に曲解し、「刹那的な肉体生命」だけが生命の全てであると勘違いしているのである。

 

外の世界は現象の世界であり、結果の世界であるにもかかわらず、その現象ばかりを追い掛け回すような集団思考に染まっているため、人間の1つの側面要素である肉体の棄損、消滅をもって自己の終わりだという風に思い込むわけである。

 

確かに、現象である物質形態の自己が、自己としての生命の全てであれば、

 

その肉体がなくなれば、すなわち自己の消滅と考えてしまうことになり、

 

また自己が消滅するなどという話は、それはそれは恐ろしいことにもなるだろうし、

 

考えることも探究することも「恐怖」の対象になってしまうわけである。

 

・・・・

これは、今までの3次元的あるいは物質主体の『自己認識』である。

 

”現れている”物質形態、3次元的な自己だけに、あるいは自己の”現象”にだけその意識をフォーカスしていたということでもある。

 

こころや感情の要素はおざなりにされ、

 

そして何にでも意識を投影することの出来る霊的自己、「魂・意識」を忘れてしまっていたということだ。

 

それはまた、小説を読んではいるがその作者が誰であるかに想いを巡らせない、あるいは映画を観てそれに嵌りこみ、それを見ている当の観察主体である自己を忘れているということでもある。

 

簡単に言えば、『因』があってこそ『果』があることに気づかない、あるいは法則があってこそ現象が起きていることに気づかない有様であるともいえようか。

 

意識的存在である人間の、その意識する対象が表面ずらの現象の方ばかりであったということでもある。

 

表面ずらの現象とは、すなわち自己の物質的表現形態のことであり、いわゆる肉体自我のことである。

 

現れた肉体自我の元にある、因であるところのいわゆる『魂』のことに、

 

集団で気づかない状態で終始していたということだ。

・・・

 

例えば映画や小説には必ず作者がいるように、人の人生はそれを生起させるところの『』があるが故のことなのである。

 

そして作者である『魂』は、その人生という創作演出のなかに自己の一部を投影しているのである。

 

従って魂レベルの自己に気づくためには、人生の中身、自己がどう考え、感じ、動いてきたのかを自らのこころで観察することが必要になるのだ。

 

自己の人生、思考、感情、行動を自らで観察することなくして、その人生の作者であるところの、本来の自己<魂>に気付けるわけもないし、また

 

自己への問いかけを通じて自分自身に気づくことなくして、あなたの人生舞台の作者であるところの、背後のより<大きな自己>に気付けるはずもないということである。

 

外の世界、よそ様の価値観念、社会の常識、他者の思考にばかり意識を向けている有様は、まさしく世間に洗脳されて嫌々リングに上がっているボロボロのボクサーのようなものである。

 

・・・

3次元的な文明世界に生まれるという事は、荒い波動で終始していた、ある意味で情報量の少ない世界に出てくるというわけであり、生命や魂の本質的な仕組みを知らない世界に生まれるということである。

 

それはあたかも、まっさらな白紙から絵を描くような状態であり、

 

それぞれの人生という動的絵画を描く過程を通じて、

 

描いている当事者であるところの、当の<自己>を思い出すという霊的ゲーム、

  

これは次元を降下して自らを忘れた魂が、次元を上昇させて自らを思い出すというような、相当に得難い学びをするということであり、

 

 

肉体的な自己から始めて、精神的な自己、霊的な自己の包括的な理解を得るまでの道のりが、この次元での学習なのだといえるだろう。

 

しかし実に、なんという遊びなのであろうか!

 

・・・

ここで何度でも言ってきたことの1つは、自己観照、自己観察、内観であるが、

 

この世界では、そのような、自己を観る行為自体がもっとも重要なことはもうご理解頂けるであろうか。

 

自分が何者か、生命とは、死とは何かという命題を追究してゆくことで、

 

自らこの3次元世界において、多次元的自己に目覚めることが可能になり、

 

カゴメの歌のように、本来より自由な鳥としての魂が、閉じられた籠の中から雄飛することが出来るのである。

 

 

確かに肉体の自己だけでは、物質的なマトリクス・いわゆる籠から出られないのも頷けるかもしれない。

 

・・・

それまでは生と死という相変化、つまりこの3次元的世界と、その4次元的な周囲次元の間、霊界などとも言われている次元を行ったり来たりするわけで、それが輪廻転生といわれるものであろう。

 

要は、人間も地球も多次元構造をしているのである。

 

繰り返しの生と死のサイクル、それはあたかも惑星の重力に捉えられ、地表と周囲を上下しつつ周回、旋回するようなものだろうか。

 

あるいはそれは、地球という多次元構造体のなかの低いレベルでの、魂の次元降下と次元上昇体験であるとも言えるだろう。

  

しかしながら本来多次元構造体である宇宙、あるいはこの地球、そして自らがそうであるところの、それぞれの魂にとっては、生もなく死もないのである。

 

言わば、3次元と4次元の間のサイクルを意識的に抜けることは、 

 

即ち、一段と高い自己の認識に移行するということは、

  

なるほど確かに5次元認識といえるのである。

 

こういう観点から言えば、生と死は、単に存在次元間の行き来に過ぎないわけである。

 

また3次元世界とは、そういう次元間の行き来に気づいていない意識体の学び舎といっていいだろう。

 

そう、そこの生命たち、生徒たちは霊的側面である、多次元的な自己に気づいていないのである。

・・・

現実といわれる世界、我々が・・・今意識を集中しているこの3次元的表層世界で肉体死を迎えれば、本体である魂はいったん次元を離れるわけであるが、これはヘミシンク等では意識のフォーカスレベルを変えると言っており、

 

表層の意識すなわちマインド、こころが現実世界に執着している限りは、ちょうどその意思どおりのフォーカスレベル、あるいは周囲次元にとどまって、適宜な時間空間において、再び地表次元に降下生誕する。

 

ところが、再び生誕降下する地表次元は、相も変わらず自分たちの魂のことを何も知らないような文明世界であるからこそ、また生まれ変わりを経て、再びどこかの世間的な人格を形成しつつ経験を重ね、

 

勇躍そこから目覚める時点に至るまで、また、本質の自己に気付けるまでの言わば修行をしつつ、

 

このレベルでの様々な経験値を得ていくわけである。

 

良いも悪いもなく、この世界はそういう生命経験場なのである。

 

多分あなたもそうなのであるが、そういう繰り返しの様々な経験値、他生の人生の記憶がないと思うのは、

 

単に、この世界の荒い波動に揉まれ、そちらの観念の方に意識を集中せざるを得ない人生を送っていたからだと言えようか。

 

この世界独自の荒い波動、生命に対する情報の少ない、刹那的な観念の蔓延する世界の常識にからまれつつ、

 

目先にぶら下げられたにんじんとも言うべき、生きている間だけの物質的繁栄と快楽に意識を奪われている間は、

魂たる本質の自己が知らせているところの「内面からのメッセージ」になかなか気付けないかもしれない。

 

内面からのメッセージとは、実は<わたし>という多次元意識体の、高次元レベルの<わたし>あるいはそれぞれの<わたし達>からの情報なのである。

 

例えば良くあるようなチャネリング等も、たまたまどこかの進んだ惑星の宇宙的個人の?テレパシックなメッセージ等という解釈は、ある意味でかなり当て外れであると言えようか。

 

ちょっとややこしいかもしれないが、

 

宇宙とはだだっ広いだけの無限の空間スペースでなく、実に多次元構造体といえるからである。

・・・

その多次元構造を貫いているところの大いなる自己、または普遍的意識とのそのアクセスのために、常に古来から推奨されてきたのが、瞑想や内観というものである。

 

それは静謐の中に本来の空(くう)を感得し、

結果、こころの絶対的な平安を得るためだけのものではなく、

空なる無限性を多次元的に自己表現しているところの、

拡大された自己、大いなる意識へのアクセスを行う為の

古来からのノウハウでもある。

 

また前世の断片記憶を垣間見ることや、ESP的直覚知、意識が肉体次元を離れている間の高次元的な意識経験、あるいは夢情報等も、

 

顕在意識による意味変換や特定観念での変質、フィルタリングがあるとしても、

 

これらも実際に内面からの静的、動的メッセージであるわけだ。

・・・ 

 

なるほど、確かに言えることは、

 

創造の本質たる自己に向き合わず、いったい全体どこの誰に向き合うというのだろうかということだ。

 

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魂の諸相 (4)空(くう)と波動

2013-05-20 09:20:31 | 宇宙時代の考え方

あらゆる全ての素(もと)にあるのは、「空」(くう)であり、

 

また空(くう)とは無限の可能性を、それそのものに畳み込んだ、いわば無限の存在ベースのようなものであると考えることが出来る。

 

だから空っぽなのである。(笑)

 

・・・

ちょっと難しそうな話であるが、

 

かの物理学者ディラックは、電子と陽電子がぶつかって「対消滅」して空間に文字通り消える現象から、空間は-電子・+電子で充満していると考えた。

 

電子と陽電子の対消滅を科学的に観察したことで、空間とは電子と陽電子の対の状態での「充満」と考えたのである。これはディラックの海などとも言われている概念だ。

 

空(くう)間は、一見何もない空(からっぽ)に見えるが、それは+と-の電子で中和しているからであり、それは逆にエネルギーで充満していることを示している・・というわけである。

 

これは今から出てくる、あるいは既にもう出て来ている真空エネルギー装置、フリーエネルギー発電等の元にある考え方であり、要は時間と空間の理解や認識はもう既にそういう段階に来ているということだ。

 

・・・

今までわかってきた科学的な見解では、空間とは、それは、からっぽ・・・何もないように見えてそうではなく、エネルギーというか存在表現の為の無限の資質で満ちているということであり、

 

何度も言うように、これは仏教といえば、そういう範疇の教えである、「空即是色、色即是空」という般若心経の最重要概念そのものである。

 

そう、それはどこか遠くはるかかなたの宇宙にあるというわけでもなんでもなく、今現在のあなたやわたし達の周りにある空間も、その空(くう)そのものなのだということだ。

 

あなたやわたし達に最も近い?、常にそこにある・・・ところの「空間」というスペースは、実は空(くう)なのだということは理解が容易だろうか。

 

我々が、知らないまま、なんだかんだといって動き回っている空間は・・・まさに空(くう)なのである。

 

空(くう)に大気分子が浮かび、光が伝搬し、重力場があるということである。

 

空(くう)に素粒子が生じ、エネルギー密度が生成され、波動としてまた粒子として存在することが出来る。

 

空(くう)に惑星があり、恒星があり、銀河や超銀河、超銀河団がある。

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空(くう)それ自体は、「空間」でも「時間」でもなく、それを顕在化させるところのベースそのものである。

 

空(くう)を生命場顕現の普遍的なスペース(宇宙)だとすれば、それはまた普遍的な「意識」の場ということができるだろう。

 

そして意識には距離も時間もない。

 

距離で定義される空間は、空(くう)の意識的な認識による1つの顕在化であり、

 

宇宙あまねくあるところの空(くう)そのものではない。

 

素の空(くう)には時間も空間もない。

 

例えば、宇宙での自由自在な移動等は、その空の本質を知っている意識的存在者の当たり前の行動手段である。

 

我々は今、空(くう)の本質を垣間見ることができる文明に移行しているのであるとも言えるだろう。

 

それが本来の宇宙的な文明ということである。

 

ここでの表現は特殊であるが、要はそういうことなのだ。

・・・

物理学では光の伝動媒体としての空間に存在するエーテルというものの論議があったのだが、前世期始めのころのマイケルソン・、モーレーの実験でそれが存在しないということになった経緯がある。

 

このエーテルとは、例えば海の水のような何らかの透明な物質的媒体であるというものだが、そういう顕在的伝動媒体としてのエーテルは否定されたということになっている。

 

結局は光は波動媒体なく真空を伝搬するという事実は変わらないのであるが、しかしながらこれはエーテルなるものの否定であっても、空間自体の光の波動の伝導事実を否定するものではない。

 

ここがややこしい。

 

ただ、情報の伝搬を情報工学的にいうならば、必ずベースになる搬送波のようなものが必要であるということであり、波動が空間に存在しつつ伝わってゆくということは、その「空間自体が搬送波」そのものであると考えることもできるのである。

 

またその搬送波的な性質を持つ空間とは、極微から極大までのあらゆる種類の波動の搬送波になっているということになるだろう。

 

あらゆる波動に満ちているために、中和されているということもできるし、

存在諸物、物質が窮極ではエネルギー的な波動であれば、空間とはそのあらゆる波動を生じるところの未分化の素材ものそのものであるということになる。

 

話は変わるが、日本の密教の開祖あの「空海」は、そういう意味で自分の名前をつけたのだとすれば、なんたる存在であろうか。

 

確かに、全ては空の海、超簡潔に言えば、空即是色・・・ということだ。

 

空とは、何もないからこそ・・・何にでもなり得るということである。

 

言葉を変えれば、

 

要は、我々は空(くう)という無限の可能性、あらゆる波動の生じるところ、未分化のエネルギーの真っただ中にいるという事である。

 

 

 

そして、実はその未分化のエネルギーに波動的揺らぎをもたらすのは実は「想念」なのである

 

オー・・!、マイ ゴッド!(笑)

・・・ 

真っ白なカンバス(空)に描かれる様々な絵柄(現象)は、すなわち絵描き(神)の「想い」に他ならない。

  

宇宙、多次元世界が普遍的な生命場、あらゆる生命の満ちるスペースであるわけは、

空(くう)なる無限の可能性のなかに、

様々な絵柄を描くための、より深く高い意識の発露である

想念を創出するためであると考えられるだろう。

その仕組みそのものは「愛」といわれる場合もある。

 

そう、神の分け御霊である無数の魂は、言わば空(くう)という無限の可能性の中に現れた多次元的な創造光であるともいえようか。

 

その魂たる無数の光によって、空(くう)の中の未分化の想念が顕現され、そして未知が既知となり、闇が光に照らされつつ嬉しく楽しいところの様々な表現と進化が可能となる。 

・・

 

これを改めて「実感」してみることが気付ける人びとにとって重要なことなのだと思う。

 

そう、「実感」とは、言わば頭の中の概念から、顕在化、外のへ表現プロセスの実施発意なのである。

・・・

 

身近な話、例えば、あなたが何か不幸や不満を感じているのであれば、

 

なるほど、それを今「実感」してしまっている・・・ということであり、

 

それ、そのとおり、

 

幸福や平安、豊かさがない・・ということなのだ。

 

 

そう、それは当たり前だが、本質的に違うところは、

 

実感結果 を理解せず結果実感 のほうに終始していたということだ。

 

だから、結果ばかりを追い求め、何時まで経っても実感が出来ずにいたというわけだ。

 

だから短い人生において、それをわかるまで繰り返すための輪廻なのである。

 

おーっと、なんという事だろうか! ・・そういう実感が出ないだろうか。

 

多くの人びとは未だ・・・十分に試して、<実感>してはいないかもしれないが、

 

まず先に・・・「実感」すべしなのである。

 

実感」できれば、「感謝」が出てくるのである。

 

そして得られるのが経験という作物、果実なのである。

 

要するに因果、または時系列が逆であったのだ。

 

なるほど確かに、これでは籠の鳥のままである。

・・・

また実感するためには、そういう意識的法則を知り、信頼して実行することが必要になるだろう。

 

そこには赤子のような素直さと着実な進捗姿勢こそが必要であるはずだ。 

 

刹那的な功利性や実利性とは無縁のものである。

 

・・・ 

わたしとは・・・○○である(と認識している)ところの存在である。 

 

これがいわば意識的存在としての在り方の宇宙的な法則なのだ。

  

行動すべきことは、あらゆる他者の不埒な想い、常識的な迷妄思考、常識とされる重たい観念を、さっさと頭や胸や丹田から追い払い、

 

まず、想念、観念レベルにおいて自己によって「生まれ変わる」必要がある。

 

自己の不都合(自虐)でなく、他者の好都合(被支配)でもなく、他者の不都合(支配)でもなく、

 

それぞれの魂における本来あるべき姿、そういう意味では様々な自己の好都合を「実感」すべしなのである。

 

もともと・・・本来どうあってしかるべきか・・・内面にあるコモンセンス、あるいは理想、あるいは本質、あるいは安心感、

 

そういう見えないベクトルを内面から感じ取り、内から外へと意識を発散、生じせしめるのだ。

 

要は様々な、例えば本来あるべき幸せイメージを・・・実感に変換するのである。

 

ある意味で本質的に自己都合な、嬉し・楽しの「実感」は、

 

我々顕在意識で感知されないレベルにおいて、

 

無限のエネルギー母体である空(くう)に確実にその揺らぎをもたらし、

 

未分化のエネルギーを生じせしめ、

 

その嬉し・楽しで変調された空間や時間という存在舞台を生み出すことになる。

 

そういう一段と自由度の高い生存フィールドのことを一段高い次元世界というらしい。

 

なるほど、今地球自体もそういうフィールドに遷移しているという話は、

 

それは何もおとぎ話や希望的観測や現実逃避、あるいはスピリチュアルな世界の架空の思い込みではない。

 

いつものように、あなたの直観は当たっているのである。

・・・

自己の意識の中にある様々な歪んだ観念を・・・空(くう)に戻し、

 

すなわち、それはそれと観ることで手放しつつ、

 

幸せを実感するところの新たな思考、想念を発生・醸成させ、

 

それを定在波化すること、定着させることが実に重要なことなのである。

 

世界の大勢が何をしているのかをドキドキ、きょろきょろ見ていたところで実際何もなりはしないだろう。

 

あなたの魂の顕現である、あなたの知覚する世界、

 

それを観るところの座標軸は・・・<あなた>でしかなく、

 

わたしの座標軸は・・・わたしなのだ。

 

そう、

 

それが、それぞれの<わたし>という、所謂ところの神の分け御霊の存在意義である。

 

また意識である魂、魂意識の自己観相は、

 

古くから言われてきた意識次元の拡大・上昇方法である。

 

様々に去来する様々な想いを、それ、想いとして観じること。

 

それに振り回されず、それを逆に随意に使用するまでに意識を純化すること。

 

そうすることで、

 

狭い顕在意識がより拡大することがいわゆる意識の進化、魂の昇華であり、

 

それが「道」といわれるものではないだろうか。

 

 

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魂の諸相 (3)宇宙的な魂の系譜

2013-05-11 08:03:59 | 宇宙時代の考え方

●今の肉体自己<本質の自己

自分が単なる肉体ではないということが認識できるならば、

 

本質の自己とは、時空を超えている存在であるということも理解可能であろう。

 

また、あなたの「本質」とは、今のような不自由な3次元的「空間」、あるいは直線的に流れているように見える「時間」を優に超えた存在であるということも認識可能であろうか。

  

そんなばかな・・という考えがあるのも確かだが、これが実に難儀な3次元的閉塞観念なのである。

 

時間空間を超えた本質・・言わば「魂」は、宇宙の中に目覚めた神なる根源・それ自身の・・・無数の『創造・観察点』であるとも言えるかもしれない。

 

ここで云う「神」とは、現在の宗教的な観念でイメージされる、あなたやわたしとは別個のどこかに鎮座まします別物の絶対者というものではない。

 

もう、そのような支配や被支配で誤魔化すような自己卑下的なイメージはさっさと払拭する時である。

・・・

●拡大された自己の自覚

存在全体として常に在り、そして自らがその全体であると認識しているところの「普遍的意識」が「神」というならば、

 

その全体の中のある一点で目覚め、部分たる自己をその意識において次第に拡大しつつ、部分から全体に帰還するという崇高な遊びの意識が、あなたやわたし達の本質たる「魂」であるということが出来るかもしれない。

 

これが聖書などの放蕩息子のたとえ話等で示されているストーリーの真意だろう。

 

実に、あなたも、言わば旅の途中の放蕩息子や放蕩娘なのである。

 

今この世界に居て、いろいろな経験をしつつ、また色々な思考や感情を形成しつつ、自らの理解が深まるような、そんな人生を歩んでいるのも偶然ではない。

 

 

●狭い集合観念による自己幽閉 

あなた自身そして私たち自身の存在・・・それが証拠である・・と言っても、なかなか・・・なのかも知れないが、それは世間的で狭い自己認識によってそう思っているだけの話である。

 

それは人々の知覚、思考に重いフィルターが掛かっているということであり、そのフィルターとは、人々の自己認識に対する低位への集団誘導的自己イメージであり、

人間とは単なる物質的存在である等という『観念』が植えつけられていたということでもある。

 

それはまた魂レベル、精神レベルの進化や昇華よりも、肉体生存と生き残りのみに特化するように仕向けれていたという事もできるのだ。

まるで恐竜時代の呪いの名残りのようではないか。(笑)

そういう物質的自己、その人間関係である支配や被支配のマトリックスは、人類の内面、思考ベクトルに掛けられているのであって、原因は外の世界ではないのである。

 

常に因は内にあり、外はその表れでしかない。

我々はそういう現象の世界で遊んでいたというわけである。

何をどうしようもなさそな世界での喜怒哀楽感情、たとえそれが我慢できないような悲しみや、抑えきれないような怒りや、これ以上ないような倦怠であったとしても、

それは実に、より大きな「わたし」である魂にとっては、実に得難い「体験遊び」のようなものである。

・・・・・

●鍵は常に内鍵、全ては内面から生起する

 

「わたしとは・・・何者か?」

 

その答えは、・・・常に今の「自己の認識」そのものにある。

 

それが答えである。

 

「わたし」とは・・・・常に今・・・<わたし>である・・・と信じている・・・ところの在りようなのである。

  

簡単に言えば、常にあなたとは、あなたが自分は ○○ だ・・・と信じ込んでいるところの、存在であるということだ。

 

これはまた、ある時はある人格、ある場所では別の人格として様々にその自己認識を表現する、すなわち様々に転生する存在であるとも言えるのだ。

 

あなたが自分のことを、単なる今の人格、またはある時空点で生まれた知的な肉体であると漠然と思い込んでいる、それこそが世間一般の真実・常識であって、それが全てだなどと信じ込んでいるならば、

今のあなたは「それ」・・・なのであり、当然ながらそれ以上でもそれ以下でもない。

これが集団観念に幽閉されている・・籠の中の飛べない鳥・・・という意味だ。

・・

●自己は常に自己であり続ける

そう、「わたしとは・・・何者か?」・・の、

 

その答えは、・・・常に今の自己認識・・そのものにある。

 

あなたとは、あなたが「これが自己である」と信じている・・ところのそれ。

 

要は、人とはその意識の働きでの自己認識によって常に自己を定義している存在である。

 

意識想いを発し、エネルギーを経由して様々に現象化する。

 

そう、自己認識とは自己がなんであるかを常に創造している働きなのだ。

 

それがあなたであり、わたしなのである。

 

 

実に、「汝ら、汝自身を知れ!」 ということの中に既に答えがあるわけだ。

 

それがある意味での正確な答えである。

・・・

ややこしいだろうか。

 

意識的存在は、意識の自己認識作用によって、様々に自己を現象化、形態化をしているわけで、

 

そうとは露にも思っていない鉱物という存在、植物という存在、動物という存在にも集合的意識があり、

 

そして、人は今、意識的な意識を有するまでになった『人間』という知的生命体を、この地球という生命圏で体現しているというわけである。

・・・

●転生舞台は地球だけに限らない 

人間という知的生命体の表現形態も実に多種多様であることは、この地球上の人種の違いでも明らかなのだが、例えばそのような人種の違いは、実は宇宙的な生命表現形態の違いをもとにしているのである。

 

まるでアメリカという国が、白人・黒人・ヒスパニック等、地球のあらゆるところからやってきた人種のるつぼである様に、

この地球も宇宙のあらゆるエリアから派生し、入植したところの生命形態のるつぼであるとも言えようか。

これは生命の表現形態つまり肉体的なこととは限らず、魂レベルにおいても言えることである。

 

もっとも、アメリカの歴史は数百年であり経緯や系譜は未だ人々の記憶にあるわけだが、数万年という悠久の時間における宇宙からの入植や出奔などの出入り等は、その長い時間スパンが故に記憶が失われており、それが事実であるなどとは夢にも思っていない、ただそれだけのことなのだ。

 

例えば、アステカ、マヤ、ヒンズー、チベットなどの民族にはその古代から伝わる伝承があるが、一般的にはなんとなく古い物語としか思われていないのかもしれないし、またそれは文明が数千年前から起こり、それは今回初めて勃興したものだという先入観があるからであろう。

教科書での4大文明も、古い遺跡や断片的な記録からいって、単にそういう歴史があったはずだ・・というだけなのだが、いつの間にかそれしかないという、その他の可能性を排除した観念になっている事例は五万とあるのだ。 

 

日本にもある竹内文書、カタカムナ文字などもそのような相当に古い文明のエッセンスの伝承と考えられるのだが、長い時間経過や人伝えあるいは書き写し等というプロセスによって、内容自体が変質・変換されているし、さらには現代人の先入観念によってそれらは異端あるいは捏造などという形で片づけられているようである。 

 

しかしながら、どこか異端とされてきた伝承や記録のたぐいを見るならば、そこにとんでもなく壮大な人類の系譜を見ることが可能であり、過去の誰かの気まぐれな想像・創作などとは到底言えそうもないのである。

・・・

 

要は、この世界に現に生きている多くのあなたやわたし達の「魂」の転生といえばそういうものは、地球の今の時代のみならず、古代、超古代、あるいは近隣宇宙やさらに銀河エリアという壮大な時間空間をその舞台としているのだ。

 

そう・・・、気付ける者たちにとっては、それは無いというわけではなく、気付いていない、あるいは顕在意識に浮かび上がっていない、あるいは思い出していないということなのだが、・・・あなたはどう感じるだろうか。

 

ここにも、「その存在とは・・・その存在自身がどういう存在であるか・・と認識している」範囲の存在であるという・・・いわば存在原理によって今の自分を自己定義しているのである。

 

・・・

●生命の表現舞台は宇宙大

昨今は数十年前と比べて、UFOなどという概念自体は本当に誰でも知っている状態になったようである。

よほどの近視眼的で頭の固い者以外は、それが本当は何かを知らないまでも、誰でもその言葉自体は知っているのである。

簡単に言って、これは宇宙人がどこかにいるとかいないとか、信じる信じない、あるいは未知への夢やロマンあるいは恐怖を感じるなどというような皮相なSF話等ではない。

 

これは人類の集合意識に大いなる変化があった印といえるものである。

 

 

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それは我々という、様々な身体表現形を包含するところの生命体、意識的存在の舞台は宇宙大に広がっているということである。

 

人間は普遍的な『魂』であり、それは宗教的な言いまわしでは神の分け御霊として、いわば部分から全体への意識的な旅をしているわけであるが、そうであるならば、何も転生の舞台は地球にだけ限られたものではあり得ないだろう。

 

地球にしか生命がないなどと・・・いったい誰が証明したのであろうか。

 

責任者!出てこい~・・・であるが、責任者などいるわけもない。(笑)

・・・

●普通の考え方 

ある考えでは太陽の条件と、その太陽からの距離が実に絶妙であるが故にこの第3惑星に生命が誕生したとも言われているが、例えばそういうことだけを根拠にするならば、現在観測されている宇宙の銀河、恒星の数からしても、単なる確率計算であっても実に数百万程度の地球のような惑星が存在するだろうとされている。

 

また昨今はNASAやその他の公的、アカデミックな機関組織からも、その可能性や他の太陽系惑星の観測データがチラリ・ホラリと出てきているわけであるが、

それらは地球次元の周囲に相当数観測されるUFOやら、あるいは宇宙人とのコンタクト情報などを完全に無視する形での、いわゆる権威筋からの緩慢な宇宙情報リークであるとも考えられる。

彼らも末端の情報しかないのであるが、ちょっと知った観測事実を実際には持て余しているに違いない。

 

それをいつものように善意的にとらえるならば、大衆がパニックにならないようにという理由で、把握した事実を小出しにするというわけでもあろうが、 

なるほど我々大衆も無知には違いないが、その大衆に観測事実を明確に伝えないという事は、逆にそういう大衆のおかげで存在可能なはずの、その支配層、あるいは権威筋自体の恐れを示しているのである。

 

ここにも、都合が悪いものは忘れてほしいのだが、そうもいかない見えないプレッシャーによって、仕方なく小出しにしているというエゴ的パターンが見受けられる。

 

それはまるで東北大震災と福島原発事故の甚大なる影響を伝えようとしないで、時間をかけて忘却効果を期待しつつ、情報を小出しにしてその影響と責任を回避しようとするどこかの政府機関のあり方と全く同じであろう。

 

あるいは、例えば江戸の世の終わりに現れた「黒船」によって、江戸幕府内で蜂をつついたような騒ぎが生じ、あっという間に旧態以前たる姿に終始した時の幕府はそれ自身を終焉せざるを得なかった歴史と同じことなのだ。

 

良し悪しは別として、新たな事実認識に至るべき時において、

あくまでもその認識を変えないままでは、その観念的在り方そのものが崩壊してしまうということでもある。

 

・・・ 

聖書に残っているイエスの言葉の記録の中に 「天には住まいがたくさんある」 というのがあるが、それは単なる比喩でもなんでもなく、当然ながら嘘でもないはずである。

地球という、ある意味で重力によって閉鎖された感のある3次元的惑星生命圏も、そのような大宇宙の中の時空舞台の1つのありふれた存在形態でしかないと考えるのが本筋である。

そうであれば、この地球さえも天(天空・宇宙)の中の1つの住まいなのである。

 

●多数の存在周波数帯域

例えで云えば、惑星時空とは宇宙に無限に拡散している意識波動の、ある一定の波長帯、周波数帯であり、それは電磁波の一定幅の波長帯によってそこに映像が映し出されるような画像システムのようなものであろうか。

それがスクリーンのように2次元平面的か、惑星生命圏という3次元的立体形か、あるいはより繊細な波動域での顕現形態かの違いでしかない。

つまり宇宙での文明の違いとは、規模と情報の内容や量、そして表される表現次元の違いでしかないということである。

・・・ 

昨今は人類の何人かに1人がUFOを目撃しているとされるのだが、あなたも見たことがあるかもしれない。自分も葉巻型の”半透明”のUFOが、なんと”横すべり”に自宅数百mの上空を滑空するのを見たことがある。

・・・

気付けば今の時代は、そういう天の住まいから訪れる存在達、聖書などで言うところの、天かける「人の子」達が地球次元の周囲に無数に飛来しているわけである。人々の目撃の全てが航空機の誤認識や凧や気球あるいは思い込み等ではあり得ない。

 

そして、それらは何をしに、つかず離れず地球という3次元周囲に飛来しているのだろうか。

 

相変わらずの、恐怖と闘争のハラハラドキドキの感情的刺激を売り物にしたハリウッド映画は全くの的外れであろう。

 

もちろん人間にも様々あるように、そういう拡大された自由度を持つ者たちにも様々あるということだが、光速という今の我々の『時空認識の壁』を超える「速さ」で来ている者たちが、わざわざ資源やレアメタル等を漁りにくるわけもなく(笑)、そんなことよりもさらに重要な何かを示しに来ていると考えた方がいいのである。

 

●袖すりあうも他生の縁

ひょっとしたら、そういう着かず離れず、また人類の生命表現への干渉を極力さけつつ観察しているものは、魂レベルでの、まるで知人か、親か兄弟か親類のようなものかもしれないし、そうであるからこそ、自由意思を犯すことなく何か極めて重要なメッセージをもたらそうとしていると考えられるのだ。

 

あなたやわたし達の「魂」の転生は、地球の今の時代のみならず、古代、超古代、あるいは近隣宇宙や、さらに銀河エリアという壮大な空(くう)をその舞台としているのであれば、

 

地球外の住まいから訪れているといわれる存在達は、いわば何か他生の魂の「縁」とでも言うべきか、 

 

今ここに居る、あなたやわたし達の悠久の魂の経験と表現の記憶、より拡大された、いわば『魂の系譜』の中に含まれているところの、魂レベルでの訳知りな登場人物たちであるかもしれないのだ。 

 

それは多分、魂たる自己を狭い時間空間において忘却するような<次元降下遊び>から、もう目覚める時期ですよ・・という合図を送ってきているということだろう。

 

いずれにしても、我々は、もう肉体形態のみでの私という自己認識から卒業し、魂レベルあるいは多次元的な自己への認識に至る必要があるということだ。

 

昨今は、魂の不滅性やそれが時空を超越していることの傍証をするかのような、臨死体験、幽体離脱、意識の体脱などの情報が世界に増えている時代である。

 

また魂の転生に関するアカデミックな情報や報告も増えているわけであり、それらは全てより自由度の高い自己への観念的飛躍あるいは自己認識の大いなるステップを上がる時期でもあることを示しているのだ。

 

自己とは、何者であるか?

 

 

今はもう、その一段大きな自己認識に至る時なのである。

 

 

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魂の諸相 (2)魂関係

2013-05-05 12:57:07 | 宇宙時代の考え方

●子供は大人を癒すために下生する

 

子供時代というのは、この世界においては実は人生の黄金期なのである。

 

 

自由に遊び、自由に踊り、いろいろな興味と好奇心に満ち満ちた魂の黄金時代なのだ。

 

 

往々にしてその後に関しては、この世界との折り合いと、魂の修行のための時間のようなものと言っていいかもしれない。

・・・

そうなのだ、親や周囲の人を通じての世知辛く荒い世界のネガティブな影響をある程度しか受けない子供時代こそは、人生において最も魂の輝いている時期なのである。

 

誰も皆同じように、この世界に赤子として素の意識で参入し、成長といわれるプロセスを通じて人格を形成していく子供の時代にも、大人の世界からの様々な精神的な苦悩や葛藤も漏れてくるものである。

 

大人が生きている社会では、生きるため、生活のため、あるいはお金のためという事で様々な苦労や徒労があるわけだが、そういう親たちの生きている社会での想念、感情的な歪を否応もなく受けてしまうということだ。

 

例えば時折起きる身内の諍(いさか)い等に接すること、相手を責めるような親同士の激しい言動に接すること、周囲の不安や不満の想念を内面に直接感じること等を通じて、

嫌も応もなく社会との関わりにおける感情的な歪を受けることになるのだが、ところが親や周囲の者はそんなこと等ほとんど感じていないのである。

 

赤子は可愛く愛らしいけれども、未だ人格を有していないどこか有機的な動物であり、周囲で何が起こっているのかわかるはずもない・・というような、通り一遍の世間的な先入観念で接していることが多いからである。

 

・・・違うだろうか。

 

●子供たちは魂の教師の役目を持っている

  

赤子もそれ、永遠の魂をもつ存在であり、見る、聞く、感じるなどの直接的な波動によって、あるいは想いや感情というより高次の直接感覚波動によって、いわば情報取得をしている等ということは露にも思っていないのである。

 

自己が何者であるかという本質的な理解をどこか有していない者は、他者をもそうしたものだと観ているわけだ。

 

これは親が悪いとか男親が荒っぽくて良くないとか、母親は優しく立派だとかの話ではない。

  

多くの人々は、いつの間にか踏襲している唯物論的常識観念、人間社会の狭い通念、生命に対する刹那的、感情的、あるいは近視眼的思考で終始しているということであり、たとえ親たちにとって可愛く愛らしい生命体に対してさえも、勢いそういう行動表現、思考発信を行ってしまうからである。

  

大人たちの生きている娑婆の世界、この3次元的世界での様々な葛藤や感情的歪は、その都度その都度赤子や子供に対しても大きな影響を与えているということに気付けるだろうし、

 

またその影響を通し、逆に、親は子供によって癒されているという真実にも判然と気づけるだろうか。

 

大人たちにしてみれば、自分達を含め子供たちを生かすために苦労をしている・・と信じ込んでいるわけでもあるが、どっこい実のところは子供によって霊的な癒しや教えを受けているのである。

癒しや教えと言っても、ペラペラと口角泡を飛ばしての説明や主義主張をするようなものではなく、

 

存在すること・・・そのものによって・・・黙って身を挺して癒したり教えたりしているのである。

 

なるほど、子はかすがいと言われるように、子供の存在によって夫婦の間が救われたとか、関係が維持できたとか、そういう事は実に多い筈である。

 

今生だけでなく、幾多の人生において子供や親を深く経験したものであればこういう事実に頷けるはずである。

 

・・・

 

●近親者や近しい関係者は「魂の関係」者

 

考えてみれば、こういう濃厚な人間関係があるという事、親子あるいは人生で行き交い出会う様々な『人の間』には、よく言う霊的あるいは魂レベルでの関係があるということである。

 

それは表層意識ではなかなか気づけないところの、人間関係ならぬ「魂関係」であるとも言えるだろう。

 

とかく因縁という言葉には、人生上の様々な歪んだ感情要素が絡むため、往々にしてどこかネガティブなものを交えて想像するわけであるが、

 

例えばあなたの周囲人間関係、その良し悪しは別として、比較的濃厚な人間関係には多くの場合ここでいう「魂関係」が存在するということだ。

 

それとも、生命表現とは、ビリヤードの玉が勝手に動き、ぶつかるようなランダムで偶然なこととでも言うのだろうか。

 

猫や犬や馬でさえもそんなことは感じてはいないだろう。

 

実に余計なお世話なのだが、あなたはどうだろうか。

 

いわゆるところの唯物論的洗脳から目覚めているだろうか。

 

 

●因縁とは魂の学びの為のポジティブな関係性のこと

   

絶対とは言えないものの、人間関係の裏側には、必ずと言っていいほどの魂関係がある。

 

それに気づくためには、良きにつけ悪しきにつけその、その「人の間」から安易に逃げたり、あるいは安直に理論づけして排除したりすることなく、そういう人間関係の大いなる深みを感じ取る必要があるはずだ。

 

人生とはある意味でそのためにあるとも言えるのだ。

 

要は、近しい人間は、良きにつけ悪しきにつけ、そのような様々な『人の間』の関係性を通じて、それを体現するとこところの『因なる本体』、魂の体験や昇華のためにこの世界にやってきている、そういう魂レベルでの同朋あるいは仲間であることを見破る心眼があるだろうか。

 

そういう意味ではあなたの周囲にいる存在達は、敵でも味方でもなく、同じステージの役者、登場人物なのである。

 

彼らがそれを知っているかどうかは問題ではなく、ねえ、解ってよ・・でもなく。

 

要は、「あなた」がそれに気づく事が出来たかどうかが・・・いわば魂の仲間内のテーマ・・なのである。

 

なるほど、こういう風な物言いに対しては、

人間とは、単なる肉体以上のものであるという気づきと理解があればこそ、判然とうなずけるものでもあるだろうか。

  

●魂グループは宇宙大にまでつながっている

そういう人間関係ならぬ「魂関係」にある存在たちを、ソウルグループあるいは魂グループ、類魂等とも言うようである。

 

例えばそういう関係を、肉体的な親類縁者と同じように、魂レベルでの『親類縁者』という言葉で表現してもそれほど外れてはいないかもしれない。

 

実のところ、その「魂関係」はこの地上の一角、狭い生活の場の中のものだけではなく、

 

地球全体という生命圏、そしてそれを含む宇宙的で広大な世界においてもつながっているのである。

  ・・・

いわゆる神なる根源においては・・・あなた は わたし・・・であり、

 

ソウルグループ等と言われる関係性は、

 

その・・・根源から発したところの分け御霊、

 

それぞれの「わたし」・・という、個性を持った魂顕現体における・・極めて近しい間柄とでも言えようか。

 

世間的な常識観念、表面ばかりの視野、表層の生存努力のみに終始するようにしつけられている間は、

 

心ここにあらざれば、目の前にある真実の数々の、何を見るとも、何も観えずなのである。 

 

そう・・・、見るとも観えない状態を闇夜あるいは闇と言い、なるほどそれが今までのカゴメカゴメの歌で云うような夜明けの晩だったということなのだろう。

・・・・・

かごめ、籠目      (この地球という、籠にくるまれた閉鎖次元世界)

籠の中の鳥は、    (その中に閉じ込められている自由な魂たちは・・)

いついつ出やる、   (それこそ、いつ出てくるのだろうか )

夜明けの晩に、    (夜明け前の、うす暗闇に光が差したころ・・)

つると亀がすべった (そして、何千年という長い時間と鈍重な空間が開かれた時に至り・・)

後ろの正面だーれ  (あなたを常に背後で観ていた、大いなる自己である魂に気づいただろうか)

・・・

(つづく)

 

 Angelphoto(すいません、写真を勝手にお借りしました。)

 

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魂の諸相 (1)拡大自己

2013-05-04 10:48:46 | 宇宙時代の考え方

いわゆる5次元意識は、今までの3次元(4次元時空)を超えている。

 

またその意識レベルにおいては、人々の自己認識も一段と拡大されたものとなるのは必定である。

  

それは、今までの自己を含む時間・空間認識を、1つ?次元を超えた在り方、観じ方、認識の仕方であるとも言えるが、

 

当然ながら、その時空を超えている『自己』としての・・・「わたし」に完全に気づいているということは・・、

 

本質たる自己・・・が、時と所の中に幽閉されたようなものではなく、時間、歴史、時代や場所、位置などを超えているところの『魂』である・・・ということを意識表層でも知っているということだ。

  

魂の中身がどうだとか、形はなんだとか、どういう利益があるかだとか、仕様詳細はどうだとか、そんなことはどうでもよく、

 

また癖になったような、そんな実利性や功利的な観念に引っ掛かる必要はなく、

 

真なる自己が永遠の存在である・・それを言えば「魂」である・・という大いなる気づきに至ればよいということ。

 

自らの真実に気づくために、その証拠を外に求めたり、あるいは他者や権威の言説にすがること、あるいは世界が変われば自分も変わると信じて待ちわびることほどに愚かなこともあるまい。

 

なるほど、例えばこのような真面目くさった場末のブログ記事なども、本来どうという事もないのである。

 

・・・自己が自己を探究する意識的努力、・・・ここが肝心かなめの峠の坂道なのだ。(笑)

   

あなたやわたしである『魂』が永遠であるという事実に気づくということは・・・

  

今の表層の・・わたし、あなたは、一過性の存在者、あるいは旅人でもあることを知っているわけであり、当然のことながら自己自身のその一過性の在り方に、殊更執着もこだわりも本来無用なのである。

 

一過性の個我・自己にこだわり、自我生存のみに執着し、尚更魂の表現型であるところの肉体維持に翻弄される在り方は、実のところ天地無用ならぬ本末転倒の在り方であるということだ。

 

またそれが今までのこの地球全般の人類の姿であったことは容易に気づけることだろう。

  

必ずしも近代欧米流の個人主義とは言えないものの、

  

個性尊重と称して、自我、エゴをむき出し、自己主張だらけの世界、

 

自由と称して、好き勝手し放題でその責任さえも理解できない荒れた世界、

 

平等と称して、他者を均一、一律なタガで支配しようと上下に重くのしかかる世界、

 

マクロ的表現で云えばまさにそういう世界であったわけであるし、今もなおその古いエゴ・個我でうごめいている者たちもいるわけである。

 

そういう、自分が何をやっているのかわからない者たち、自己認識の新たな次元に気づかない者たちを称して、闇の者といっているようだが、確かにそれは光がないところ、無明の世界でめくら滅法に動き回るようなものである。

 

そして暗闇での、自信満々の無知からくる、めくら滅法な動きによって、結果的に周りの多くの人びとを傷つけて来たわけである。

  

しかし、それに気づける者たちにとっては、

 

その魂レベルでの無知、無明のステージは既に飽和し、カルマも既にあふれ出し、歪も解消されつつある。

 

・・・そして終わりを告げたのである。

 

気付ける魂たちにとっては・・・、既に世は明けたのだ。

  

・・・ 

魂とは何かということを理解しようとすることは、

 

意識存在である人間にとって極めて大きな飛躍を意味している。

 

それがたとえ表層の意識での、おぼろげな観念的理解であったとしても、実に大きな気付きなのである。

 

 

それを理解する方向において、世界に今顕れている様々な現象や出来事も理解が容易となるだろう。

 

今は非常識の常識と言われるような、例えば古代、超古代文明、超能力、UFO、宇宙人、5次元意識、エゴ文明、予知や予言、・・等々も含め、

 

全ては、あなたである自己が何者か、あるいは魂とは何かという自己認識努力の先の飛躍においてこそ、ある段階での明確な理解が可能なのである。

 

要は、様々な未知なるものへの認識の深まりは、

 

あなたとは・・わたし達とは・・・いったい何者であるか?という問いかけの先にあるものなのである。 

 

  ・・・・

魂とは何かというならば・・・、

 

なんとなくそうだろうと感じているかもしれない『魂』の属性を云うならば、例えばこういう表現が可能であるが、あなたはどう感じるだろうか。

 

例えば、次のようなことがいえるかもしれないし、またそれもどこか直観的に分るかもしれない。

 

数学や英語を最初から習う場合と違い、既に何か直観的に解っているという感覚があるかもしれない。

 

あなたにはどこかしっくりくる感じがあるだろうか、あるいはそうでないだろうか。

 

言葉の厳密な定義にこだわらず、これから得られるところの内的感覚が重要なのだと思う。

 

 ①それは不滅性をもつ自己。

 

 ②それは転生を繰り返す自己。

 

 ?それは進化を楽しむ自己。

 

 ④そこに無限の可能性があるところの自己。

  

 ⑤その時々の肉体以外の何がしかの高次の存在構造を有する自己。

 

 ⑥時間と空間を超えている自己。

  

ただしここで云う自己とは、刹那的な個人我である、今のあなたやわたし・・・そのものではなく、それを包含するところの「わたし」「われ」・・あるいは「それ」・・、いわば存在原理そのものである<自己>とでも言えるだろうか。

今の、どこか世間に疲れたような、どこか面倒くさいような、そんな自己ではない。

・・・

 

  

・・・

どこか阿吽でわかるようならば、あなたはいわゆる『ハイアーセルフ・高次の自己』とのつながりを、意識のどこかで知っていることを示し、

 

生まれてから今までに、知らず知らず蓄積された様々な観念でごちゃごちゃになっている表層意識、顕在意識の下部にある、真実の自己に気づいていると言えるだろう。

 

そういう場合は、表層意識あるいは顕在意識、または世間一般の、この世的常識観念の「虚偽性」にも気づいているということ。

  

またこの世界の虚偽性とは、世界のことがすべて人為的な嘘八百というのではなく、全部どうでもいい代物ということでもなく、今の世界も、単にある段階の一過性の体験ステージでしかないということだ。

  

・・・

実のところ、「ハイアーセルフ・高次の自己」・・という言葉は、すなわち 『魂』 の別の表現であると考えていいだろう。

 

高次の自己に対して相対的に言えるところの「低次の自己」とは、毎日毎瞬おなじみの、今のこの世界での・あなた・わたし等という、この世界での「人格」意識であることだろう。

 

そして、そのあなた、わたしの今の「人格」意識そのものは、確かに今回限り、今世限りのものであり、宇宙、世界にそれぞれ1つしかない貴重この上ないものであると言えるのだ。

  

人生一回きり・・とかよく言われるわけだが、これは一面の真実の表現であり、存在世界に常に同じものは1つとしてない、無数の異なるそれぞれの「人格」としてのあり方のことである。

  

そして高次の自己とは、その顕れたる無数の「人格」・・すなわち個としての、無数の人生の経験の記憶の単位を含む、より拡大された自己のことである。

  

なるほど、「高次の自己」は複数の個別の「低次の自我」を含むからこそ、より高い次元の自己といえるのだ。

  

それを例えるならば、低次の自己とは、ひとつの太陽の巨大な光体から発した、無限複数の個別の発光帯のようなものとも言えるだろうし、また、高次の自己、より大きなシステムサーバーにつながっている個別のクライアントコンピュータのようなものと言えなくもない。

 

ここで云うコンピュータシステムというのは実に誤解を招くような表現でもあるが、

  

要は、全てのわたし達という単体意識は、より大きな意識につながっているということである。

  

それぞれの個我の意識は、当然ながら意識としての全体に繋がっているということを意味する。

 

そして、それらすべてが・・・わたし・・というたったひとつの自己認識、セルフコンシャスネスに集約されている。

  

だから、根幹においては、あなたはわたしであり、あなた方はわたし達なのである。

  

これは女々しい感傷でも、思わせぶりな比喩でもなく、素(もと)にある真実なのである。

 

例えばあなたの周りにいる大勢の他者が、今それを知っていようと知らなかろうと・・・

 

それが真実なのだ。

 

・・・

 

個我の意識がその拡大された意識全体方向への繋がりを辿ることで、

  

今の自己・・あなた・・がより大きな自己に目覚めてゆく、その過程が『意識進化』ともいえるのだ。

  

なるほど、これも言うならば・・・ 一は即ち多なり・・・ なのである。

  

そう・・、世にいう「悟り」とは、この意識進化の拡大方向に「厳然と気づくこと」であるとも言えるだろう。

 

悟りとは、時代に沿った流行り廃りなのではなく、また独特の雰囲気を持った個人の精神状態ということでもない。

 

自己の真実に気づくこと・・・である。

 

・・

 

無限の意識、より大きなわたし・・につながっている・・拡大し続ける永遠なる自己・・に、

 

厳然と気づくことで、

 

現生の物欲、色欲にこだわる必要性が脱落し・・、

 

一過性の現実の騒ぎに惑わされること、恐れる観念が消え去り、

 

またより良き何かに逃避することも、あるいはまた小さな自我への執着で固まることもなくなってしまう。

  

そして拡大し続ける永遠の自己とは・・・個我ではなく、実に全てであり、

 

そして、全てであるからには、それを言葉で云うならば・・・空(くう)でもあるのだ。

  

空(くう)とは・・・何もない空(むな)しいものと言う、極めて卑小な「観念」こそが、

 

個我・エゴという鈍重な自己像を描いてきたのである。

  

空(くう)は無限の可能性であり、充満であり、様々な自己創出の源である。

 

そして魂は、充満せる空(くう)から創出した、それぞれのあなたという、

 

全てにつながっているところの神なる者の個性化された創造そのものであり、

 

それはまさしく、存在の根源からの発散光であると言ってもいいだろう。 

 

例えば古くからある下のような曼荼羅図は単なる密教・仏教の芸術というわけでもなく、

 

そういう魂・意識のつながり、ハイアーセルフ、無限に拡大されつつ、それぞれがすなわち・・・わたし・・・であるところの存在諸世界を象徴して描かれたものである。

 

 

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