人間は肉体的、精神的、霊的な存在であると言える。
人間の「肉体的」な側面は誰でも理解可能だろうが、逆に「精神的」な側面、すなわち「こころ」について、実にいい加減な気づきの段階にある場合が多く、
つまりこころの働きを重視せず、観察することもなく、結局これを統御できずにいる場合が多いということだ。
ましてや「肉体」、「こころ」を生ぜしめているところの因なる「霊的」な側面には、とんと気づいていない有様だったともいえようか。
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例えば、
我々は今生きているわけであるが、さて死んだらどうなると誰でも考えたことはあるはずである。
また生と死とか、どこかそういう本質的なことを、これも不思議なことにタブー化していることに気付けるだろうか。
主に欧米的な物質主義では、肉体が死んだら全て終わりだという根の観念があり、だからこそ生きることが重要なのだという思想になっているわけだが、
それは当初から生と死というセットになっている「生命」の在り方を直視せず、とりあえずの刹那の生のみに「執着」しているということ示している。
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「おいおい・・死だと?とんでもないねー、死んだら終わりだ。
クワバラクワバラ、そんなこと考える気にもならないよ・・・」
「それにそんな女々しいことを考えず、もっと生きなきゃならないぜ、なあ兄弟・・」
・・ということだろうし、これは一見もっともなことだと感じるだろうが、しかし、
こういう観念は、例えば日本の武士道精神とはまったく異なる考え方、生き方であるし、
ある意味では、積極的どころか、人生の重要なテーマから目をそらせるための逃避的なプラグマティズム観念であるといえようか。(笑)
これは、例えば吸う息ばかりが呼吸だと言っているようなものであり、寝ていることより起きていることばかりが生だと言っているようなものである。
また、春ばかりが季節であるというようなものであり、晴天ばかりが気候だというようなものである。
要は、肉体自我の取りあえずの生存だけに特化した刹那的な観念なのではないか。
世の東西を問わず、ほとんどこのような物質偏重な思考が世界に行き渡った感がある。
これは肉体、こころ、霊的要素で構成されているところの人間の理解に対する欠落であり、
今までの物質偏重な現代文明は、精神的、霊的な要素をほとんど無視したような実に片手落ちな文化、文明であったといわねばならない。
不思議なことに、時代が下るほどこういう刹那的で物質的な自己像が蔓延してきたわけである。
これは確かに次元降下といっていいだろう。
「物質的自己像」だけがそのすべてであるというような観念が、当たり前の常識として蔓延したということだ。
要は、「今がすべて」だという意味を卑小に曲解し、「刹那的な肉体生命」だけが生命の全てであると勘違いしているのである。
外の世界は現象の世界であり、結果の世界であるにもかかわらず、その現象ばかりを追い掛け回すような集団思考に染まっているため、人間の1つの側面要素である肉体の棄損、消滅をもって自己の終わりだという風に思い込むわけである。
確かに、現象である物質形態の自己が、自己としての生命の全てであれば、
その肉体がなくなれば、すなわち自己の消滅と考えてしまうことになり、
また自己が消滅するなどという話は、それはそれは恐ろしいことにもなるだろうし、
考えることも探究することも「恐怖」の対象になってしまうわけである。
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これは、今までの3次元的あるいは物質主体の『自己認識』である。
”現れている”物質形態、3次元的な自己だけに、あるいは自己の”現象”にだけその意識をフォーカスしていたということでもある。
こころや感情の要素はおざなりにされ、
そして何にでも意識を投影することの出来る霊的自己、「魂・意識」を忘れてしまっていたということだ。
それはまた、小説を読んではいるがその作者が誰であるかに想いを巡らせない、あるいは映画を観てそれに嵌りこみ、それを見ている当の観察主体である自己を忘れているということでもある。
簡単に言えば、『因』があってこそ『果』があることに気づかない、あるいは法則があってこそ現象が起きていることに気づかない有様であるともいえようか。
意識的存在である人間の、その意識する対象が表面ずらの現象の方ばかりであったということでもある。
表面ずらの現象とは、すなわち自己の物質的表現形態のことであり、いわゆる肉体自我のことである。
現れた肉体自我の元にある、因であるところのいわゆる『魂』のことに、
集団で気づかない状態で終始していたということだ。
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例えば映画や小説には必ず作者がいるように、人の人生はそれを生起させるところの『魂』があるが故のことなのである。
そして作者である『魂』は、その人生という創作演出のなかに自己の一部を投影しているのである。
従って魂レベルの自己に気づくためには、人生の中身、自己がどう考え、感じ、動いてきたのかを自らのこころで観察することが必要になるのだ。
自己の人生、思考、感情、行動を自らで観察することなくして、その人生の作者であるところの、本来の自己<魂>に気付けるわけもないし、また
自己への問いかけを通じて自分自身に気づくことなくして、あなたの人生舞台の作者であるところの、背後のより<大きな自己>に気付けるはずもないということである。
外の世界、よそ様の価値観念、社会の常識、他者の思考にばかり意識を向けている有様は、まさしく世間に洗脳されて嫌々リングに上がっているボロボロのボクサーのようなものである。
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3次元的な文明世界に生まれるという事は、荒い波動で終始していた、ある意味で情報量の少ない世界に出てくるというわけであり、生命や魂の本質的な仕組みを知らない世界に生まれるということである。
それはあたかも、まっさらな白紙から絵を描くような状態であり、
それぞれの人生という動的絵画を描く過程を通じて、
描いている当事者であるところの、当の<自己>を思い出すという霊的ゲーム、
これは次元を降下して自らを忘れた魂が、次元を上昇させて自らを思い出すというような、相当に得難い学びをするということであり、
肉体的な自己から始めて、精神的な自己、霊的な自己の包括的な理解を得るまでの道のりが、この次元での学習なのだといえるだろう。
しかし実に、なんという遊びなのであろうか!
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ここで何度でも言ってきたことの1つは、自己観照、自己観察、内観であるが、
この世界では、そのような、自己を観る行為自体がもっとも重要なことはもうご理解頂けるであろうか。
自分が何者か、生命とは、死とは何かという命題を追究してゆくことで、
自らこの3次元世界において、多次元的自己に目覚めることが可能になり、
カゴメの歌のように、本来より自由な鳥としての魂が、閉じられた籠の中から雄飛することが出来るのである。
確かに肉体の自己だけでは、物質的なマトリクス・いわゆる籠から出られないのも頷けるかもしれない。
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それまでは生と死という相変化、つまりこの3次元的世界と、その4次元的な周囲次元の間、霊界などとも言われている次元を行ったり来たりするわけで、それが輪廻転生といわれるものであろう。
要は、人間も地球も多次元構造をしているのである。
繰り返しの生と死のサイクル、それはあたかも惑星の重力に捉えられ、地表と周囲を上下しつつ周回、旋回するようなものだろうか。
あるいはそれは、地球という多次元構造体のなかの低いレベルでの、魂の次元降下と次元上昇体験であるとも言えるだろう。
しかしながら本来多次元構造体である宇宙、あるいはこの地球、そして自らがそうであるところの、それぞれの魂にとっては、生もなく死もないのである。
言わば、3次元と4次元の間のサイクルを意識的に抜けることは、
即ち、一段と高い自己の認識に移行するということは、
なるほど確かに5次元認識といえるのである。
こういう観点から言えば、生と死は、単に存在次元間の行き来に過ぎないわけである。
また3次元世界とは、そういう次元間の行き来に気づいていない意識体の学び舎といっていいだろう。
そう、そこの生命たち、生徒たちは霊的側面である、多次元的な自己に気づいていないのである。
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現実といわれる世界、我々が・・・今意識を集中しているこの3次元的表層世界で肉体死を迎えれば、本体である魂はいったん次元を離れるわけであるが、これはヘミシンク等では意識のフォーカスレベルを変えると言っており、
表層の意識すなわちマインド、こころが現実世界に執着している限りは、ちょうどその意思どおりのフォーカスレベル、あるいは周囲次元にとどまって、適宜な時間空間において、再び地表次元に降下生誕する。
ところが、再び生誕降下する地表次元は、相も変わらず自分たちの魂のことを何も知らないような文明世界であるからこそ、また生まれ変わりを経て、再びどこかの世間的な人格を形成しつつ経験を重ね、
勇躍そこから目覚める時点に至るまで、また、本質の自己に気付けるまでの言わば修行をしつつ、
このレベルでの様々な経験値を得ていくわけである。
良いも悪いもなく、この世界はそういう生命経験場なのである。
多分あなたもそうなのであるが、そういう繰り返しの様々な経験値、他生の人生の記憶がないと思うのは、
単に、この世界の荒い波動に揉まれ、そちらの観念の方に意識を集中せざるを得ない人生を送っていたからだと言えようか。
この世界独自の荒い波動、生命に対する情報の少ない、刹那的な観念の蔓延する世界の常識にからまれつつ、
目先にぶら下げられたにんじんとも言うべき、生きている間だけの物質的繁栄と快楽に意識を奪われている間は、
魂たる本質の自己が知らせているところの「内面からのメッセージ」になかなか気付けないかもしれない。
内面からのメッセージとは、実は<わたし>という多次元意識体の、高次元レベルの<わたし>あるいはそれぞれの<わたし達>からの情報なのである。
例えば良くあるようなチャネリング等も、たまたまどこかの進んだ惑星の宇宙的個人の?テレパシックなメッセージ等という解釈は、ある意味でかなり当て外れであると言えようか。
ちょっとややこしいかもしれないが、
宇宙とはだだっ広いだけの無限の空間スペースでなく、実に多次元構造体といえるからである。
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その多次元構造を貫いているところの大いなる自己、または普遍的意識とのそのアクセスのために、常に古来から推奨されてきたのが、瞑想や内観というものである。
それは静謐の中に本来の空(くう)を感得し、
結果、こころの絶対的な平安を得るためだけのものではなく、
空なる無限性を多次元的に自己表現しているところの、
拡大された自己、大いなる意識へのアクセスを行う為の
古来からのノウハウでもある。
また前世の断片記憶を垣間見ることや、ESP的直覚知、意識が肉体次元を離れている間の高次元的な意識経験、あるいは夢情報等も、
顕在意識による意味変換や特定観念での変質、フィルタリングがあるとしても、
これらも実際に内面からの静的、動的メッセージであるわけだ。
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なるほど、確かに言えることは、
創造の本質たる自己に向き合わず、いったい全体どこの誰に向き合うというのだろうかということだ。