気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

今起きていること(13) 崩壊と再生

2014-09-20 06:04:44 | 見えないものから見えるものへ

 

 

古い世界は既に終了している。

 

 

 

今はその残照がまことしやかに残っているように見えるだけである。

 

 

 

「今までもそうだった、これからも同じだ・・・」という人類に刷り込まれた観念で、

 

 

 

未だ大勢の人々が「慣性的な」生き方をしているがゆえに、そういう残照世界となっている。

 

 

 

知性と感性、観察と直観を既に身に着けている人々には、

 

 

 

それが、薄々と、あるいは今では確実に分るに違いない。

 

 

 

もう終わっているのだと・・・。

 

 

 

 

 

 

古い世界の残照がこれから現象レベルで崩壊してゆく・・・・。 

 

 

 

 

そして、常識や目の前にある現象でしか理解できない場合、

 

 

 

崩壊という形に遭遇することで生じる、思考と感情の激しさはいかばかりのものだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

その中で、何事か大切なもの、今まで大勢の中で安住しつつ忘れていた、

 

 

 

人生において本質的な事がらを嫌でも思い知る・・・いわば幸運な人々もいるだろう。

 

 

 

あるいはあくまでも、無意識の中で、輝ける自らの「魂・意識」を立ち上げないままの人もいるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

いくらお金を出してもなんともできない事柄に気付き、

 

 

 

いくら訴訟、主張してもなんにもならない事態に気付き、

 

 

 

われ先に逃れようとしても、どうにもならない状況に気付き、

 

 

 

いくら世間に迎合しても何にも得られない社会に気付くことになるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

しかしながら、これらはトラブルでもえらいこっちゃ・・ということでも、恐怖の大予言のようなものでもなく、

 

 

確実に、それは恩寵なのである。

 

 

 

我々はこの世界の繰り返しの幻想のなかでよくやってきたのだ。

 

 

 

律儀にも、そしておバカにも、目の前、体の表面の向こうの世界、

 

 

 

つまり現実と言われる世界が、

 

 

 

幻影の世界だとは気づかずに繰り返し、繰り返し、生まれ変わり、死に変わりを演じてきた。

 

 

 

この世界は、間違いなく幻影の世界なのだ。

 

 

 

理解可能だろうか。

 

 

 

この世界は、来たら必ず去ってゆくべき、一時のあるいは仮の世界だと言えば解りやすいだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

その幻影の世界で命を掛けた約束や、

 

 

 

絶対果たさなければならない使命や、

 

 

 

返さなければならない借入金や、

 

 

 

責めを負わなければならない負債や、

 

 

 

従わなければならない民族の掟(おきて)や、

 

 

 

そういうあらゆる「重り」というものに何千年以上縛られてきたということだ。

 

 

 

 

 

 

 

それらの「重り」とは全て、この幻想たる外の世界から来る「観念」である。

 

 

 

どこにでもある、自然にある重い石などに人が縛られるわけはない。

 

 

 

観念の重り、それは外の世界、社会と言おうか、人々の信じていることと言おうか、

 

 

 

生れ落ちた時空環境での「歪み切った想念形」の集合と言おうか、

 

 

 

そういうものでしかないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

それらに、いつの間にかがんじがらめになっていた笑えない状況、

 

 

 

そういう状況が「終わる」ということなのである。

 

 

 

 

 

それでもまだ、そういうことに関しても恐怖を感じるのだろうか。

 

 

 

確かに、変化自体・・・への恐怖があるかも知れない。

 

 

 

宇宙・大自然は常に変化しつつ、調和と創造を続けているのだが、

 

 

 

人間は何でもかんでも怖れる習性を、この閉鎖世界で持ってしまっているようである。

 

  

 

 

 

 

 

 

それは結局人間不信からきている。

 

 

 

他者にどんな仕打ちをされるか、騙されるか、わかったものではない・・・、

 

 

 

そうだろう。

 

 

 

 

 

そういう不信は人間社会の幼さから来るわけで、大自然の脅威?から来るものではない。

 

 

 

大自然は人間を活かし続けているのだが、その中の人間の幼さが故の想いや行為に、

 

 

 

自らが傷ついて来たということである。

 

 

 

だから人によっては「恐怖」さんがお友達になっているという寸法だ。

 

 

 

 

 

・・・・

 

 

 

また、そう、変化を怖れるがゆえに、つねに未来を知りたがる。

 

 

 

なぜならば未来がどうなるか、わかったものではない・・・という根強い「不信感」があるからだ。

 

 

 

宇宙大自然に対する、また一番近しいはずの人間達にたいする不信感があるがゆえに、

 

 

 

不穏で不都合な未来をも予想してしまうのだが、

 

 

 

それを回避するための、別の未来なるものを求めるわけだ。

 

 

 

 

 

 

 

そうして、そのより良き方向に向けて頑張るのです・・・等ということになる。

 

 

 

自らが障害物を想定し、その想定された障害を・・・乗り越えましょう・・・という話だ。

 

 

 

だから、いつも、とりあえずは・・ただただ「頑張れ・・頑張れ」ということになる。(笑)

 

 

 

 

そうではないか。

 

  

 

これはなるほど「こころの癖」というものであって、そういう想念パターンであるからこそ、

 

 

 

そういう未来に・・・いつも「今」在るということになる。

 

 

 

そして改善や解決は・・・いつも未来にしかない理由となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

あれが足りない、これが欠けている、ここを補充しなければならない、

 

  

 

まだまだ足りない、もっと金を、もっと増加を・・・・、

 

 

 

そうやって、何をしているかと言えば、人生を文字通り「消費」しているのである。

 

 

 

何がどうあろうと、歳は自然に取ってゆくものだろう?

 

 

 

・・・でも、みんなそうだから、あの人もそうだし彼もそうだ・・・

 

 

 

結局は外の幻影の世界の住人、あなたの鏡の向こうの姿を規範としてしまっている。

 

 

 

だれも責任者などいないのに関わらず。

 

 

 

 

 

 

 

 

他者から受けた様々な痛手、繰り返しの人生で受けた愚かな仕打ち、犯してしまった過ち、

 

 

 

この閉鎖された3次元世界ならではの、そういう学びを行なっている我々大勢の魂達の、

 

 

 

わけのわからぬ行為の渦の中で、痛みや悲しみや、後悔の念の蓄積が処理されず溜まり、

 

 

 

いぶし銀のような魂の知恵ではなく、怖れと精神的不自由さになり替わってきたとも言えようか。

 

 

 

 

 

 

それをカルマというならば、そうカルマとは<魂の知恵>の裏返しなのである。

 

 

 

 

だからひっくり返せ。

 

 

 

 

 

また元に戻ったとしても、またまたひっくり返すのだ。

 

 

 

 

カルマや因習やこころの歪み等、本来 「問題」ではない。

 

  

 

カルマは知恵だと見抜くべきなのだ。

 

どんな深刻さに対しても、「だから、それがどうしたのだ?と、自らに・・・言ってやれ。

 

そうやって自らの「重いこころの鎧」をさっさと脱ぎ捨てるのだ。 

 

 

 

もう他者との、ましてや自己とのバトル・「闘い」など不要である。

  

やるべきと感じることを行ないつつ、気楽に、あるがまま、

  

自然にそった在り方。

  

あらゆる加工品のおもちゃはもう捨ててもよかろうもん。

 

 

 

 

 

・・・・

 

 

 

あれが足りない、これが不足だ、もっと立派に、・・・・

 

  

 

だからそれがどうしたのだ?

 

 

 

物や見てくれ見映え・・・、そんなの関係ない・・・のである。

 

 

 

 

  

 

今・・在ること、わたしは在る・・・こと、それこそが幻影ではない。

 

 

 

これこそ「驚天動地」の真実であり、事実なのだ。

 

 

 

その「わたし」が、見ている幻想世界は・・・移り変わり行く万華鏡のようなものである。

 

 

 

 

 

 

観ている者・・・それはまた、釈迦が言ったとされる 「天上天下唯我独尊(存)」 である<あなた>なのだ。

 

  

 

全ての存在諸物は、ただひとつなる神なる我(われ)の観る夢であり、

 

 

 

存在諸世界はあらゆる可能性を映し出す鏡のようでもあり、

 

  

 

自己投入・自己演技の出来る魂の演舞場のようなものである。

 

 

 

 

  

 

すべからく、あらゆる物事の中心は、外の世界の誰かや何かではなく、

 

 

 

それぞれの<わたし>以外のなにものでもない。

 

  

 

その真実を・・今それぞれのわたしの<ハート>で輝かせる時が来ているのである。

 

  

 

外の世界の崩壊と再生は、恐怖するものではなく、それが恩寵であるということが解るだろう。

 

  

 

然(しか)り・・・。

 

Sky38


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今起きていること (12)清算と浄化

2014-09-14 13:58:55 | 見えないものから見えるものへ

 

 

人はただ偶然に生まれて、そしていつか偶然に死んで、 

 

そしてそれで終わりであると、大勢の人が思っているようである。 

 

それが科学の発達した現代では正しいこととされているようだ。 

 

確かに、そういう・・・漠然としているが確実な・・・「教育」をされる為にそういう風に思い込んでしまうものだ。 

 

なるほど、自分も若いころはそう思っていたし、それがすっきりした見解である等と思っていた。 

 

だからそういう狭い常識観念の中に、不安ながらも安住している人々のことはよくわかるのだが、

 

ちと、人生という舞台での探究が不足していると思うのである。 

 

 

ところで、そういう信念の人の場合は、実際に死んだ時にちょっと問題が出るかもしれない。 

 

死んだら何もないと思い込んでいる存在が、実際に肉体を離れた場合、 

 

依然として自己意識がある為に、そこに、いまだ生きていると想いこむのである。  

 

本来の<わたし>という魂・意識、創造での認識主体、それを総合して「意識主体」とするならば、 

 

その<神の断片>としての「意識体」は依然として存在するために、未だ自分は生きていると感ずるのだが、 

 

生前の勘違い、思い違い度が過ぎると、余計な世界と同調することにもなる。 

 

例えば、世にいう幽霊やら地縛霊やらは、そういうこの世へ「執着」した意識体の「断片」が、 

 

この世界に中途半端に同調している波動現象である。

 

 

 

魂は多次元意識体とでも言うべきもので、その意識の集中する次元に・・・同調する仕組みなのだと言えようか。 

 

そしていま、この世界にいる者たちは、今この次元に「主たる意識」をおいているということなのだ。 

 

何だかんだと言いながら、我々が今ここに生きている・・・とはそういうことである。 

 

気付いているだろうか。 

 

 

赤子で生まれるという形、母の子宮という言わば次元転換器を経由して生まれる為に、 

 

自分が肉体であるという認識が当たり前のように思われているのだが、 

 

それはそういう魂の経験の為の次元変換プロセスがあるということである。

  

 

ところで、普通に人が死んだ場合、その「意識主体」は、かつての肉体から離れていることに気付くわけだが、 

 

しかしながら、肉体での同調が外れると、その存在する周波数域が外れるために、以前の肉体環境を維持できるはずもなく、 

 

大方は地球という波動フィールド内の、別の周波数域に移行するわけである。 

 

それをいわゆるあの世と言っている。 

 

 

その領域をヘミシンク等では、信念体系領域と言っており、また中間世界とも言うのだろうか。 

 

自分の培った信念に<同調>する意識体の断片達の一時的な寄合世界とでもいうべきだろうか。 

 

そこには餓鬼のような観念世界やら、上品な宗教世界やら色々あるわけだが、 

 

ある思い込み観念に染まった意識世界である事には変わりがない。 

 

 

そうやって下生、昇天、生まれ変わり、死に変わり、想いの質を、意識の精緻さを磨き上げる為である。

 

魂にとってのかなりな試練のコースというべきものではなかろうか。

  

ここにいる存在達は皆、魂の猛者だというのはそういう意味である。

 

 

そう、あなたもそうなのだ。(笑)

 

・・・・

 

 

誰もが嫌がる・・死ぬという現象は、要は、地球の表面次元との同調は外れてはいるが、 

 

同じ地球の存在フィールドの一部である、別の領域に移行するということ。

 

 

それは、本来の魂の参入次元ではなく、その途中の中間次元で一旦留まるということなのだ。

 

それは下位のアストラル世界とでもいうのだろうが、ぼんやりとしたカスミの世界でもない。

 

意識~想念~エネルギー~現象・・・・はどこでも同様だからだ。 

 

 

 

ところが、今その意味での中間世界がきれいさっぱりと浄化されつつあるとされる。 

 

只今工事中、・・・・そしてもうすぐ工事終了ということだ。

  

おいおい!・・・。 

 

ということは、今までのような無意識での生き死にの繰り返しは出来なくなりつつあるということである。 

 

「おーい! 知らない間に工事などすんな!」・・・と言いたいところだがそれは筋が違う。

 

 

要は、地球の存在周波数帯域がリニューアルされる、また魂の学びのスタイルが変わったということなのだ。 

 

アセンションとか次元上昇とか、そういう噂話があるだろう。

  

火のないところに煙は立たないということわざもある。

  

一般に物理的と言われるこの世界にも、既にそのような兆候が既に滲み出してきている。

 

つまり存在時空領域・改変の、現象化が起きているのである。

 

・・・・

  

多次元惑星に中間世界が出来るということは、 

 

例えば探査機が途中の領域に引っかかって、また再び下へと引っ張られて降りてゆくようなものだ。 

 

それは1度だけでは十分な探索、学びが出来ていないからとも言えようか。 

 

あるいはまた、結構過酷な体験ワールドのせいで、魂の刺激が強すぎて幻惑するせいだとも言えなくもない。 

 

魂達は過酷な世界に面食らって、呆然自失している、あるいは我を忘れている・・・そんな世界もあるのだ。

 

 

この世界のように。 

 

なるほど地球での体験は、<行きは良い良い・・・帰りは強(こわ)い・・・・ 天神様の通り道> なのだ。  

 

3次元的世界の休憩場とも言える中間世界、 

 

信念体系世界、中間世界に引っかかると、自らではなかなか抜け出せないことになる。 

 

何故なら「自己の信念」の変化だけがその世界との同調を外せるからだ。 

 

その為に、いずれかの機会によってふたたび、中間世界から、この3次元的世界に生まれ変わることになる。 

 

なぜならば、ある段階ではハードな世界こそが、もっとも刺激が大きく、学びも早いからだ。 

 

その世界での学びやあるいは歪は、その世界で清算するのが最もスマートだということ。

 

 

この世界での悟りというのが、そういう浄化と清算の意識プロセスを意味しているのである。

 

 

今はその最終時期ということで、大勢の意識体への目覚めの合図がここかしこにあるのだが、

 

気付いているだろうか?

 

 

 

 

今まで、バッファー、緩衝領域、時空の周波数の周囲に中間世界があった、 

 

そうであるからこそ、魂意識の周波数域の上下移行、生まれ変わりが可能なことになる。 

 

その中間界、現実界でのプロセスでは、 

 

いわゆる霊的ガイド、天使、いわゆる高次元意識体達の、 

 

そこはかとない、しかしながら親身で漏れのないケアが行われるのである。

 

 

時折下生する霊的教師たちはそういう、高次元のケアマネージャーのような存在である。

 

それをまー、磔にするとか、追いやるとか、祭り上げるとか、そういうことしかできない者たち、「何をしているのか皆目わからない者たち」も大勢いるのがこの世界だったのだ。 

 

ところで、この世界にいる人々は、自分の受けているそういう霊的ケアに気付いているだろうか。

 

 

例えばそう、幼稚園にも園児の面倒を見る保母さん、あるいは先生がいるだろう。 

 

幼稚園に通い、夕方には家に戻り、また幼稚園に通うことで次第に成長してゆくわけである。 

 

そして通い詰めた幼稚園はやがて終わり、小学校に上がるようなものである。 

 

進化のパターンは同じなのだ。 

 

あなたやわたし達が、何度もこの3次元的世界に生まれ変わってきたということは、 

 

そういう後ろの正面の・・・ケアを受けつつ、魂・意識を拡大するためなのだ。

   

・・・・

 

どこでも類は友を呼ぶという法則があるようで、 

 

それは確かに同調、干渉、反発等のような波動の法則の結果ともいえるだろう。 

 

確かに、全ては「波動」であり、「エネルギー」である。 

 

そしてその波動の変調、あるいは色付けをするのは「想い」である。 

 

物質とは、その波動域の、ある波長域の重合したエネルギーにすぎない。 

 

そう、この3次元的な世界も程度の差は大きくあるものの、実際それに変わりがないのだ。 

 

例えば、目の前にある様々な物質形態物は、 

 

波動・エネルギーの、ある周波数域の振動形態に過ぎない。 

 

その周波数域の同調・反発・重合は・・・意識、想念によっているのである。  

 

 

だから、肝心なことは外の世界ではなく、自己の内面に注意せよ!ということになる。 

 

そういう仕組みが、引き寄せの法則、親和同調の法則とも呼ばれているものだ。 

・・・

 

地球表面次元にある存在諸物も、突き詰めればエネルギー・波動であり、 

 

それは地球という意識体の想いで色付けされているわけで、 

 

未だ十分にそういう認識を出来ない魂達にとっては、ずいぶんに御膳立てされた造りとなっているわけだ。 

 

山あり川あり、海あり土地あり、そういう大自然の造りは、 

 

地球や太陽、宇宙によってお膳立てされた学び舎であるというのはそういう意味である。 

 

そういう環境を波動共有する「意識レベル」にある魂たちは、 

 

相互に自己創造を学ぶことを通じて、霊的進化が出来るのである。 

 

 

進化と言っても肉体、物質の偶然の単体進化ではなく、それを表現・体現することを通じた<魂>の進化だ。 

 

例えればパソコンの高機能化、進化は・・・その設計者の進化なのだ。

 

そうだろう。

 

・・・・・

 

なぜ、わたし達はここにいる? 

 

わたし達とは何か? 

 

少し答えになっているかもしれない。

 

・・・・ 

 

あなたは毎日何を感じ何を思っているのか。 

 

何を・・・自らの意識に取り込んでいるのか。 

 

注意すべきではなかろうか。 

 

何故なら、意識において、常に波動同調・調整をしているからである。 

 

つまり自分の想念に対して、条件反応的、無意識的であってはならないのだ。 

 

実に、自己の想念、想いを自らで観る・・・ことが、この世界の学びの重要ポイント。 

 

銭、金、物、仮の名誉や地位への執着は何の役にも立たないどころか、 

 

そういうものへの執着は、自らの意識の波動である想念を重くし、 

 

気付かず知らず、粗く重い周波数世界に同調することにもなるのだ。  

 

世間の中の想念のゴミばかりに注意を払ってはいないだろうか。 

 

想念のゴミは、他者が掃除してくれるものではなく、 

 

赤子のおしめを替えてあげるようなものでもなく、 

 

お金を払えば、あら気持ちいい・・・等というようなものではない。 

 

また大勢の中に埋没してシュプレヒコールを上げれば霊得が積まれるようなものでもない。 

 

・・・・

  

世界を股にかけた大きなパフォーマンス行為をすることでもない。 

 

世界の背後にある悪意と欺瞞を掘り出すことでもない。 

 

だからと言って、自己の都合のよい信念体系に逃げ込むことでもない。 

 

そうではないのだ。 

 

自らの「想い」を自らで観ることが出来ること・・・。 

 

自己の想いを ”垂れ流して” 気付かないような霊的幼児から、 

 

想いを自らで調律、選択できる意識的な大人へと進んでゆくことだ。 

 

その為に毎日の生活、家族のなりわい、人間関係、社会との折衝があるのである。 

 

 

他者の振り見て、わが振り直し、 

 

自らの体験を導くところの、自らの想いを調律すること、 

 

そして、自らの想いの精緻な観察が出来るならば、  

 

条件反射的な行動や扇動に惑わされることもなく、 

 

他者の想いや行為にも気づける意識レベルとなり、 

 

意識と意識が相通じる拡大された世界へと自らを導くことになる。

 

 

なぜ、わたし達はここにいる? 

 

わたし達とは何か?  

 

 

そのレベルの学びは、この世界ではもうじき終了となる。 

 

なぜならば、地球、宇宙も同じ繰り返しをしているようでも、 

 

螺旋のように、確実に変化、進化しているからであり、 

 

本質の展開パターンを変える時期に来ているということ。 

 

そう、今がその時なのだ。 

 

そして、それがあからさまな現象になって顕れる時は、 

 

既に成った時なのである。 

 

例えば、地軸の傾きの変化があるとするならば、 

 

そんなに時間がたたない間に、グレンと全てが様変わりすることになる。

 

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今起きていること (11)3次元の卒業

2014-09-07 08:32:00 | 見えないものから見えるものへ

 

 

この世界の特徴と言えば何であろうか。

 

あなたはどうとらえているだろうか。

 

・・・・

 

最も大きな特徴とは、・・・・いわゆる「愛」が極めて希少であったということだ。

 

 

都会でも田舎でも、海でも山でも・・・人々の多くいる地域ほど「愛」が埋もれているということだ。

 

 

常にあった大自然の美しさや恩恵、ちょっとした試練など、それは命に対する「愛」であるということに、

 

気付かず知らず、ただ個体の己(おの)が生命だけを護持しようという意識レベルに埋没していたのだ。

 

そこに在る、どこにもある大自然の「愛」の中にありながら、

 

数千年以上の間、その愛を・・・愛だとは観察できなかったのだ。

 

 

どうして・・・何も無い・・・のではなく、そこに在るのだろうか

 

何も無いことなら、本来何も無いわけで、全く何も無い、それで終わっている

 

でもそこに、ここに、あそこに、そして我が身も他者もあり

 

それらを黙って保護している大自然がある

 

それは「愛」が在るからだ

 

 

理解可能だろうか?

 

 

空を仰いで、海を見て、土を触って、川のせせらぎを見て、あなたは・・・何を感じるだろうか?

 

全く無視しているか、ただ単に眺めているか、気にしないか、あー落ち着くなとか、美しいとか、

 

そういう感覚で接しているのだろう。

 

 

それらは「愛の顕現」であるとは観じないだろうか。

 

 

そんなこと考えもしていないのが・・・・今までの人の世界であったがゆえに、

 

そんなこと気付きもしないのが、・・・・今までのあなたやわたし達であったがゆえに、

  

3次元的制約の世界にあっただけの話である。

 

 

しかし真実とは、

 

 

それぞれの、わたしが孤独に頑張って生きている・・・のではなく、

 

 

 

人生は、・・・自分が生きている・・・のではなく、大自然の中の生かし合いの中にあるということだ。

 

 

 

寝ても覚めても・・・大自然は、そこに在り、そして我々がその中に在り、

 

息をして、

 

光を浴び、

 

土地の恵みで肉体を持続させ、

 

水で常に清潔さを保つことが出来る。

 

 

ビルの中にいようと、家屋の中に閉じこもっていようと、

 

外を歩いていようと、田舎に居ようと何も変わらない。

 

高層ビルの林立する大都会も、自然の中にいればこそ、

 

たとえ機能だけに特化した、その歪(いびつ)な姿をさらしつつも、存立することが出来る。

 

 

自然が無くて、だあれも、どんな生き物も・・・・生きることは叶わないだろう。

 

 

自然は、・・・そして、それを生みだす宇宙も、・・・生かし合い、育み合いで充満しているのだ。

 

全てが法則の顕現であることを、うっすらであっても、それを百も承知で、

 

個々人同士が競争し、牽制し、秩序を保つという触れ込みの契約でがんじがらめになり、

 

殺し合い、冒し合い、潰し合いをしているのは単に今までの少数の人類だけなのだ。

 

 

大自然のなかでの生物間の捕食。

 

大きな魚が小さな魚を食べる、ライオン家族がシマウマに襲い掛かり餌食にする、

 

そういうものを、どうしてか「人類の現実もそうだ」と、皮相的にしか感ぜず、

 

その結果、相当に歪んだ「思考」を代々と受け継いできたようなものである。

 

生き残りが全てに優先する・・・・まるで人間を小魚のように落とし込んでいるではないか。

 

 

物の流れの中の卑小な生き物・・・人間、

 

だから頑張って生きてゆく、そのための社会秩序をがちがちに整え、

 

人々がその法の下に平等であるとか、ありがたい信条を掲げつつ、

 

それらを護持する別々の集団同士で、大きな「捕食ごっこ」をしてきたというわけだろうか。

 

 

そういう自我エゴと捕食の想いこみで出来た世界が・・・今音を立てて崩れているのである。

 

そう、・・・勘違い、思い違い、認識の狭さを体験出来る世界は、

 

残念ながらと言おうか、やれ、ようやくと言おうか・・・終わったのだ。

 

 

今起きている大自然の変化、人類の上澄みと自称する特権階級の者たち、

 

実は上澄みならぬ浮草のような者たちが、地表面上で騒ぎを大きくしているのは、そういうことを意味している。

 

彼らが焦っていると言われるのは、もう終わっているからである。

 

 

・・・

 

何言ってんの・・・どこも終わってなんかいないじゃない!と言うだろうか。

 

またある魂は 「チョットそれではつまらない」 と思うだろうか、

 

やっとゲームに慣れてきて、この世界の、その歪なことの楽しさを捨てがたいと思っているだろうか、

 

無意識ながら、生まれ変わり・死に変わりの「度胸ゲーム」を続けたいと想っているのだろうか。

 

いやいや、もう十分すぎるほど堪能したと感じているだろうか。

 

あるいは既に、そういう魂の体験・進化のプロセス自体に目覚めているだろうか。

 

 

・・・

 

大自然は循環している。

 

今までのいわゆる3次元的世界、または物質濃厚の世界にあっては、

 

個体生命として物質的に顕現している原子、分子、細胞は、

 

それらがお互い様の生命を、相互に混ぜあい組み換え、循環しつつ、地球という意識の中で創造を続けてきたのだ。

 

大魚が小魚を捕食するということはそういうことだ。

 

肉食獣が草食獣を食するということは、そういう生態系内の分子、原子、細胞の循環プロセスを意味する。

 

原子、分子、クオーク、細胞、あらゆるものは「意識」の顕現であり、

 

それらの美しくもダイナミックな変化こそが、地球という壮大な自然環造り出してきたのである。

 

そして人類はその中に生成される人体、肉体という3次元的体験基盤を提供されてきたのだ。

 

つまり、生まれ変わり、死に変わりのメリーゴランドの馬に乗って学び・遊ぶことが出来たのである。

 

 

 

この人的世界の特徴と言えば何であろうか。

 

あなたはどうとらえているだろうか。

 

最も大きな特徴とは、・・・・いわゆる「愛」が極めて希少であったということだ。

 

 

しかしながら、あなた方も次第に周囲に愛を感じてきたはずである。

 

家族を労わること、また見知らぬ人にも挨拶や笑顔を向けることが出来るだろう。

 

ほんのちょっとした日常の1コマ1コマにも、どこか感動を受けるはずである。

 

身近な自然、壮大な大自然、宇宙もそのように存在していることに、気づいてきただろう。

 

水、空気、光、土・・・そして全てを浸透している「空」(くう)も、

 

うるさい自己主張やら、ド派手な宣伝などすることもなく、

 

ただ愛を示現してきたのだということに、気付けることだろう。

 

 

「愛」とは何か、

 

あれはこれであり、あなたはわたしであり、自然は一体調和であり、

 

わたし・・・という意識は、あなたが「私である・・・」と意識していることと同じ意識であり、

 

それらすべてが「有り難い」、奇跡の瞬間であることを識(し)っていること。

 

今ある事すべてが進化、恩寵、それである。

 

 

 

良いとか悪いとか、大きいとか小さいとか、都合がいいとか不都合だとか、

 

勝った負けたや、偉大だとか卑小とか、

 

そういう「人類観念の次元マトリクス」のなかで、

 

小魚たちのように必死で生き抜く・・・魂達の一年生カリキュラムのような、

 

自我サバイバルゲームはもう終わったのである。

 

そう、あなたを捕らえているのは、あなた以外にはない。

 

・・・理解可能だろうか。

 

小魚が目先のエサばかりを追いかけまわるような姿はもう似合わないのだ。

 

どんな心配も恐れも必要がない。

 

生とか死が、いかばかりのものだというのだ。

 

それらの幾多の経歴はあなたの小さな表面意識に上ってこないだけで、

 

既に、知っている、識(し)っていることなのである。

 

 

今人間であるということは、その証拠である。

 

・・・・

 

全てはつながっており、全ては生かし合いであり、全ては進化・拡大であり、

 

そして・・・それらは「愛」なのだ。

 

 

・・・

 

これからの言わば魂のゲームのテーマは、

 

人類が大自然から受けてきたような、そんな、

 

慈愛を少しづつでも発散するようなものとなる。

 

 

それは確かに、ある意味で3次元的な閉塞世界から、より多次元的世界への卒業といえるのだ。

 

 

 

そのテーマは、決して「知」での進化ではなく、無条件の愛への実感的気付きである。

 

 

 

 

体の中心にあるハートに・・・自他を区別できない愛を、

 

 

たとえほんの少しでも放散している人はそれである。

 

 

 

宇宙・大自然は、今までも、今でも悠々とそれを行なっているのだ。

 

 

 

嗚呼・・・然り・・・。

 

 

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

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多分、そこで今まで通り続けるつもりでおりますが、

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