古い世界は既に終了している。
今はその残照がまことしやかに残っているように見えるだけである。
「今までもそうだった、これからも同じだ・・・」という人類に刷り込まれた観念で、
未だ大勢の人々が「慣性的な」生き方をしているがゆえに、そういう残照世界となっている。
知性と感性、観察と直観を既に身に着けている人々には、
それが、薄々と、あるいは今では確実に分るに違いない。
もう終わっているのだと・・・。
古い世界の残照がこれから現象レベルで崩壊してゆく・・・・。
そして、常識や目の前にある現象でしか理解できない場合、
崩壊という形に遭遇することで生じる、思考と感情の激しさはいかばかりのものだろうか。
その中で、何事か大切なもの、今まで大勢の中で安住しつつ忘れていた、
人生において本質的な事がらを嫌でも思い知る・・・いわば幸運な人々もいるだろう。
あるいはあくまでも、無意識の中で、輝ける自らの「魂・意識」を立ち上げないままの人もいるかもしれない。
いくらお金を出してもなんともできない事柄に気付き、
いくら訴訟、主張してもなんにもならない事態に気付き、
われ先に逃れようとしても、どうにもならない状況に気付き、
いくら世間に迎合しても何にも得られない社会に気付くことになるだろう。
しかしながら、これらはトラブルでもえらいこっちゃ・・ということでも、恐怖の大予言のようなものでもなく、
確実に、それは恩寵なのである。
我々はこの世界の繰り返しの幻想のなかでよくやってきたのだ。
律儀にも、そしておバカにも、目の前、体の表面の向こうの世界、
つまり現実と言われる世界が、
幻影の世界だとは気づかずに繰り返し、繰り返し、生まれ変わり、死に変わりを演じてきた。
この世界は、間違いなく幻影の世界なのだ。
理解可能だろうか。
この世界は、来たら必ず去ってゆくべき、一時のあるいは仮の世界だと言えば解りやすいだろうか。
その幻影の世界で命を掛けた約束や、
絶対果たさなければならない使命や、
返さなければならない借入金や、
責めを負わなければならない負債や、
従わなければならない民族の掟(おきて)や、
そういうあらゆる「重り」というものに何千年以上縛られてきたということだ。
それらの「重り」とは全て、この幻想たる外の世界から来る「観念」である。
どこにでもある、自然にある重い石などに人が縛られるわけはない。
観念の重り、それは外の世界、社会と言おうか、人々の信じていることと言おうか、
生れ落ちた時空環境での「歪み切った想念形」の集合と言おうか、
そういうものでしかないのだ。
それらに、いつの間にかがんじがらめになっていた笑えない状況、
そういう状況が「終わる」ということなのである。
それでもまだ、そういうことに関しても恐怖を感じるのだろうか。
確かに、変化自体・・・への恐怖があるかも知れない。
宇宙・大自然は常に変化しつつ、調和と創造を続けているのだが、
人間は何でもかんでも怖れる習性を、この閉鎖世界で持ってしまっているようである。
それは結局人間不信からきている。
他者にどんな仕打ちをされるか、騙されるか、わかったものではない・・・、
そうだろう。
そういう不信は人間社会の幼さから来るわけで、大自然の脅威?から来るものではない。
大自然は人間を活かし続けているのだが、その中の人間の幼さが故の想いや行為に、
自らが傷ついて来たということである。
だから人によっては「恐怖」さんがお友達になっているという寸法だ。
・・・・
また、そう、変化を怖れるがゆえに、つねに未来を知りたがる。
なぜならば未来がどうなるか、わかったものではない・・・という根強い「不信感」があるからだ。
宇宙大自然に対する、また一番近しいはずの人間達にたいする不信感があるがゆえに、
不穏で不都合な未来をも予想してしまうのだが、
それを回避するための、別の未来なるものを求めるわけだ。
そうして、そのより良き方向に向けて頑張るのです・・・等ということになる。
自らが障害物を想定し、その想定された障害を・・・乗り越えましょう・・・という話だ。
だから、いつも、とりあえずは・・ただただ「頑張れ・・頑張れ」ということになる。(笑)
そうではないか。
これはなるほど「こころの癖」というものであって、そういう想念パターンであるからこそ、
そういう未来に・・・いつも「今」在るということになる。
そして改善や解決は・・・いつも未来にしかない理由となる。
あれが足りない、これが欠けている、ここを補充しなければならない、
まだまだ足りない、もっと金を、もっと増加を・・・・、
そうやって、何をしているかと言えば、人生を文字通り「消費」しているのである。
何がどうあろうと、歳は自然に取ってゆくものだろう?
・・・でも、みんなそうだから、あの人もそうだし彼もそうだ・・・
結局は外の幻影の世界の住人、あなたの鏡の向こうの姿を規範としてしまっている。
だれも責任者などいないのに関わらず。
他者から受けた様々な痛手、繰り返しの人生で受けた愚かな仕打ち、犯してしまった過ち、
この閉鎖された3次元世界ならではの、そういう学びを行なっている我々大勢の魂達の、
わけのわからぬ行為の渦の中で、痛みや悲しみや、後悔の念の蓄積が処理されず溜まり、
いぶし銀のような魂の知恵ではなく、怖れと精神的不自由さになり替わってきたとも言えようか。
それをカルマというならば、そうカルマとは<魂の知恵>の裏返しなのである。
だからひっくり返せ。
また元に戻ったとしても、またまたひっくり返すのだ。
カルマや因習やこころの歪み等、本来 「問題」ではない。
カルマは知恵だと見抜くべきなのだ。
どんな深刻さに対しても、「だから、それがどうしたのだ?」と、自らに・・・言ってやれ。
そうやって自らの「重いこころの鎧」をさっさと脱ぎ捨てるのだ。
もう他者との、ましてや自己とのバトル・「闘い」など不要である。
やるべきと感じることを行ないつつ、気楽に、あるがまま、
自然にそった在り方。
あらゆる加工品のおもちゃはもう捨ててもよかろうもん。
・・・・
あれが足りない、これが不足だ、もっと立派に、・・・・
だからそれがどうしたのだ?
物や見てくれ見映え・・・、そんなの関係ない・・・のである。
今・・在ること、わたしは在る・・・こと、それこそが幻影ではない。
これこそ「驚天動地」の真実であり、事実なのだ。
その「わたし」が、見ている幻想世界は・・・移り変わり行く万華鏡のようなものである。
観ている者・・・それはまた、釈迦が言ったとされる 「天上天下唯我独尊(存)」 である<あなた>なのだ。
全ての存在諸物は、ただひとつなる神なる我(われ)の観る夢であり、
存在諸世界はあらゆる可能性を映し出す鏡のようでもあり、
自己投入・自己演技の出来る魂の演舞場のようなものである。
すべからく、あらゆる物事の中心は、外の世界の誰かや何かではなく、
それぞれの<わたし>以外のなにものでもない。
その真実を・・今それぞれのわたしの<ハート>で輝かせる時が来ているのである。
外の世界の崩壊と再生は、恐怖するものではなく、それが恩寵であるということが解るだろう。
然(しか)り・・・。