気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

悟りの道標(30)返本還元  

2016-10-10 06:48:49 | 人間とは何か

悟りの道標その9は、返本還元。
本(もと)にとって返す、元に還るということ。

還るというのは、周る、巡る、という意味があり、
大きなサイクルを終わらせて、あるいは一つの巡り(めぐり)、
あるいは1つの旅を終えて、元に還るということである。

螺旋が描く円は、一周してもとに還るが、それで完結
・・「あ、ご苦労さん! はいっ・・終わり、」・・
ではなく、終わりは、新たなめぐりのスタートでもある。






そう、返本還元は、
人が生きている間に、死ぬことであるといえよう。

うっ・・えー? 何言ってんだ?、死んだら終わりではないか、
縁起でもない!・・・やめとくれ・・聞きたくないっ。(笑)

しかしながら、「生きたまま死ぬ」ということは、まさに悟りのこと、
決して、肉体が死ぬとか生きているとかではなく、
生きている間に、<まやかしの自己>が消えるということだ。

マインド、思考で出来た、仮の自我という幻の楼閣が消えるということ。
もともとない幻想が消える・・?ので、こりゃ~大変なことなのだ。

この世に生まれる・・という「設定」から始まり、
この世で育つという、時間軸上の諸経験で培った「私個人」
それは、
すべてから分離した・・小さな肉体と、外との、その境界感覚で生じ、
あたかも・・肉体の中に、意識が閉じこもっているような感覚、
それを長い間繰り返すことで、その中に本当に自己がいるように思っている。

つまり小さな時空への「自己投影」、籠の中の鳥だと思っているということだ。
思っていること、信じ込んでいること、
「汝ら、信じるがごとく、汝になる」
これは即ちマインドパワーの無意識的な使用である。

人々は、自らを「世界」という多次元映画のなかの、一つの何かに自己投入しているのだ。
これは、実に・・神のみぞなせる業(わざ)。



この世で生きるということは、
この世界という、1つの宇宙「映画」に見入って、
そこに「意識を投射」して、<その中での自己>になりきること、

当事者になりきるということは、
それを観ている<本来のわたし>を「忘れる」ことなのである。

でも、いま、自分とは何か、魂とは、本質とは、・・と問うているのならば、
そう、それは本来の自己への帰還の合図であるといえようか。
・・・

返本還元は、もとに還ること。
再び、思い出すことである。

例えばそう、この世界は、まるで人形浄瑠璃のようなもの、
必死の形相ものすごく、様々な物語、混乱や騒ぎがあるけれども、
安易なハッピーエンドとは言えないものの、
まったく実によくできた大芝居なのだ。

しかしながら、われわれは人形そのもではない。
牛、マインドそのものではない。
マインドをそれとして観ていることができる存在は、
決してその中にはいないのだ。

有限の時間と空間という観念世界では、永遠に続くものは何もなく、
そこに意識を投影している者は、いつかは目覚める定めだ。

どこの誰が、たとえ皆が皆そうではない、そうではないと叫んでいたとしても、
都会にいる多くの人たちが、何も知らなく動き回っていたとしても・・、
本質のわたしは・・<そこ>には・・いない。

そうではないか?

返本還元は、もとに還ること。
還る・・こと、それは元に戻る、
再び、思い出すことである。

悟りは、何かに成りきる、成り上がることではなく、
それらすべての元に・・在ること・・根源に還ることである。
あー、そんな、もったいない~、と言うだろうが、(笑)
余計なものはすべて捨て去ることなのだ。



なるほど<悟りの八、人牛俱忘>では・・・肉体もマインドも、
実体のない仮のものとして描かれている。

そして、その空(くう)の彼方に郷(ふるさと)がある、
それは、宇宙の時空の、どこか、いつかでもなく、
今、・・在る・・こと・・の中に在る・・、

これは自然であり、まさに至福である。

花は自らに紅、

水は茫々たり、






悟りの道標(29)人牛俱忘・・私個人は幻想

2016-10-05 06:19:58 | 人間とは何か
悟りの道標8番目は、人牛俱忘。


牛も、牧童も何も描かれていない、一体どこにいった~!
うおっ!牛と私はどこに消えたんだ~(驚)、

こころはまさに・・ここに在らず。
OH MY GOD!




人も牛も、共にうちそろって「忘れ去られた」ということだ。
人、牧牛、身体としての「私」、
牛、思い、マインドつまり「こころ」、
これが同時に忘れ去られた。


「忘れる」とは、禅では無念無想で雑念が沸かないことを意味する。
あるいは、想念は和泉のごとく、川のごとく流れてくるが、
その流れの背後には、それが起きるための・・静寂があることを識っていることだ。
静寂、あるいは空(くう)が無ければ、騒音も物質形態波動も生じない。

人牛俱忘とは・・これを覚悟して(覚え・悟って)いることだ。
覚悟とは、後戻りできない境地・・という表現は当たらずとも遠くないだろう。

魂・意識の中で、
私という肉体を中心とした感覚から醸し出される<個人>
また、そこに生じる様々な思いや思考、感情などの<マインド>
それが消え去る・・ことを示すものだ。



ある意味で、魂は多次元の円相で、経験と知性、感性の昇華に伴い、振動数が上がるプロセスにあるといわれている。

円相とも言われるそれは、全方位に歪やとげがなく、それはまた空(くう)である。
まさに・・色即是空、空即是色のその空(くう)。
空(くう)は<充満>である。
また<円満・調和>である。

三次元的レベル、色々な現象からは、その現象を生起する因のほうはまるで見えない。
あるいは<空っぽ>のように見える、言葉を変えれば、
波動の粗い世界からは、精緻・精妙極まりない世界は見えない。

何もない・・ことが怖いと思うのは、この世的想念の癖である。
多くがほしい、沢山あれば価値がある、100円寄付より夢の1億年のジャンボだ・・(笑)。
培ったエゴを忘れたくない、
それは、
低い次元というか、波動の粗い共同創造世界というか、
より自由度や、楽しさや知見の広い在り方を怖がっているということである。

現状の、色ばかりにこだわり、空(くう)を怖がる。
それは勘違い、観違い、が元にあり、無という「概念」が怖いのである。
しかしながら、無とは、それ・・無いことを意味するのである。
無こそ・・無いのだ・・(笑)

マインドは、個人という自我が幻想であることが「怖い」という、
マインド遊びで・・遊んでいたのだった。
それは・・個個人が、個人バラバラと言われる幻想遊びである。
それがここで何千年も行われてきたのだった。

個人の自由、個人の権利・・当たり前に聞こえるが、、
分岐、分離の徹底が潜む・・一見もっともで、美しく見える思考の轍(わだち)。
今まで、分離の時代だったといわれるわけだ。
分離同士でサバイバルごっこ、命など短く、
例えそれが何個あっても足りないからこそ、
何度も生まれ変わる必要があったわけだろう。
まだやりたい者たちが世界で最後の騒ぎを起こしている。


我々は皆、もともと、この世界にいなかった。(空)
今在る・・、この現象世界から見れば(色)
我々は皆、空(くう)より来たりしものである。
そして今は、ここに存在している(色)

そうではないか?

そう、今でも、いつでもそうなのだが、

人牛俱忘、人、牧童、個人という私、
その私を創るもの・・自分だ!と認識するマインドも、
実は・・・実在してない。

つまり、それは「幻想」、一過性のものであるということだ。

しかしながら、それを生じさせつつ、
また、それをそれと気づいている
全てのバックボーンである何か、それ、神、宇宙意識、根源・・


それ・・・・・は、在る。


悟りの道標(28)忘牛存人 あれ?牛はどこ・・

2016-10-01 10:24:58 | 人間とは何か
悟りの道しるべの7番目は「忘牛存人」。




6番目では、牛の背に乗って悠々と家路を進む牧童であったが、
7番目にはは牛が描かれていない。

「あれ?牛はどこに行った?」

騎牛帰家・・
魂(霊)とマインドの間に一体性と調和がありながら、
未だその間に・・どこか違和感、分離感があるのだが、

忘牛存人・・
こころを発見し、それを調律し、
牛との調和を見出した者は、その調和の中で一体となる。

当たらずともきわめて遠からず、
波動的な解釈が分かりやすいだろうか・・、

存在するすべては波動である、
粒子という物質性も、エネルギー波動の局所化したものであり、
もとはすべて・・波動エネルギーであるということ。

木も草も、コンクリートも石も鉄も、すべては原子で出来ているわけだし、
その原子レベルでは、電子や素粒子(エネルギー)は、
粒子性と波動性を同時に持つとされている。


電子などもある条件では粒子であり、
また別の条件では波動であることが知られている。
条件・・、つまり観察方法によっているということだ。

私: 「おーい、波か粒(つぶ)か、一体どっちなんじゃい?」(笑)
と、言いたいところだが、そいつは、多分こう言い返すだろうか・・。

それ: 「えー?わてのことでっか?・・そうでんな~、
ある時は粒で、ある時は波である・・って、これはダメなん?」

・・・
私: 「ったく・・だから、どっちなんじゃい!」

それ: 「あほかいな、どういう形にしたいか・・あんた次第なんやで!」

私:「・・・?」(意味わかんねっ・・)(笑)





それはつまり、観察者の意識の在り方によっているということだ。
量子論では観察者効果などと言っている。
観察とは・・それ、人の<意識の働き>のことだ。

例えばあなたが映画を見ているとして・・、
それは、あなたの「目が」見ているのではなく、
あなたの意識・・がそれを捉えているのである。
あなたは映画鑑賞者ならぬ、様々な存在形の・・その観照者とも言えるのだ。
そうではないか?

その意識の・・観照が起きて、またそれに付随して、
観察結果の「思い」が色々と生じるのである。
それがマインド、心の働き。

様々な出来事に応じて様々なイメージ思いが起きる。
これつまり、創造への参画者である証拠だ。


魂(霊)という・・根源からの波動光・・の中では、
身体も、こころ・マインドも、単にその多次元的な派生波動でしかない。
魂(霊) >マインド・精神 >肉体ボディ--の順に荒い波動を構成している。
微細な波動でなければ、より大きな波長の波動は生じない。
至極単純である。

身体もマインドも、
最も根源的、微細で精妙、精緻な波動、すなわち、
魂・霊という根源波動の中に<すべて>含まれているのだ。

わたし・・の本質は、あるいは、魂、霊、真我においては、
身体もマインドもすべて含まれて・・様々に活きており、
また、それらがひとつであることを識(し)っているということだ。

忘牛存人・・、ただ在ること・・being、
いわば真我の次元では、
マインド、つまり牛は存在していないわけではなく、
一体となって在ることを示している。
あらゆる全てがそこにある。

それを・・充満せる空(くう)とも言えようか。
あるいは七色すべて含む白色光とも言えようか。

最も外側の波動帯である肉体ボディ、
例えれば、色々衣服を着たり、脱ぎ捨てるたりすることだが、
それを生まれるとか、死ぬとか言っているのだ。



悟りとは、最も荒い波動帯域から根源波動へと帰還する壮大なプロセスとも言えよう。
ここ、地球は既に根源への帰還へと反転したということだ。
物質的な荒削りの文明は、もう十分に過ぎたのである。

勝った、負けた、大きい、小さい、偉い、惨め、・・
ドカンっ・・ばこーん、ドスン・バタン! そんな粗削り表現はおしまいである。

嗚呼朋よ、お互い、なんとまー、よくここまで来たもんだ!

悟りの道標(27)騎牛帰家

2016-09-29 05:54:14 | 人間とは何か




  <騎牛帰家>
牧童は牛の背中に乗って、悠々と笛を吹きながら家に帰る。
もうマインドはあちらこちらウロツクこともなく、
家路に向かう道中を援けている。


「自分のこころのままに生きる」、ということが言われるが、
これは誤解しやすい言葉である。

人が、その時々の感情や喜怒哀楽、思いや希望の方向に動くとなれば、
常に・・ころころと変化する「マインド」に翻弄されていることになる。

こころ模様・マインドの状況は、まるで空模様のようなものである。
さらに今は、この地球の気象現象も相当に荒れてきていることも、
すでに知っているだろう。

思考や感情は常に意識内面に湧き出し続けており、
その湧き出す思考やイメージは、
常日頃培った・・こころの鋳型つまり考え方、感じ方の「癖」を
ひな形パターンとして湧き出してくる。

生活における体験、そのエネルギーの「鋳型」を、
自分の「心のパターン」が創っているのだ。
それは自動生起プログラムともいえよう。

プログラムに忠実に、進行・現象化してゆくのは、
何もパソコンやブルドーザや巨大クレーンや、ジェット旅客機だけではない。

自分の意識内面に描かれているプログラム、マインドの刻印
わたし・・の・・全ての原因は「ここ」にある!
マインドで自己創造しているのである。

何か嫌なことが心に溜まり、何日も悩んで憂鬱だったことはないか?
あるいは若いころ、不可思議な恋こころで、胸いっぱいになったことはないか?
そんな時には、世界がどうの、お金がどうの、政治がどうした等、
どうでも良いことではなかったか?

そう、外の世界の出来事は、大勢のマインドの共同創造の・・結果であって、
結果を何とかしようとすることの愚かさに気づかなければならない。

あの人が変わればな~、(・・・きっと自分は楽になる)
社会がよくなればな~、(・・・きっと私は認められる)
皆が悟ってくれればな~(・・・きっと俺たち住みやすくなる)

そういう一見切実な思いは・・まさに、そうでない!ことの宣言である。

例えば、国家の政治家たちが、国民の損になる事ばかり、
それも自信満々、嘯きながらやっているのは、
そうでない!ことを、現象として見せているのかもしれないわけだ。
・・だったら、・・くれれば、・・?
だから、いつもそうでない・・事実、
これに、気づけるだろうか。

だから憂鬱にもなるし、
胃のあたりが重たく、ハートが不安を感じる。
葛藤ばかりを生み出し続けていたこと、
気づけば実に馬鹿馬鹿しいとはこのことである。

嗚呼、それはもうやめようか。
古いパターンをどうした、こうした、少しいじれば良くなるとか、
それはもうやめたほうがいい。

すべての古い価値観を、放下するのだ。

「そうでない」ことの宣言はもう止め!である。
撃ち方止め!・・・だ。(笑)
敵はどこにもいない、葛藤そのものであったのだ。

望んでいないものをバンバン宣言し、
不都合なウソの真実を、気づかず知らず創っていた!

しかしながら、
すべての思いは、単なるマインドでしかない、
また、マインドはどんな幻想をも創り上げるエネルギーの鋳型であるが、
その鋳型を加工して様々に作り上げるのは、牧童である<わたし>・・である。

わたしとは、魂(霊)、マインド、身体の複合体であり、
その本質のわたし、魂(霊)が・・十牛全図で示す牧童と言えよう。

牧童が自己のマインドを観る・・、あるいは内面の面倒を見る、
そういう、内に誠実なプロセスを続けるうちに、
確実にそれに慣れてくることになる。
続ければ絶対に習得してしまうのが人間である、そうではないか?

マインドと格闘するような「胸突き八丁」を越えれば、
つまり古い観念によって生じる「葛藤」が消えてゆけば、

あなたはもう、周りの景色や条件に翻弄されることなく、
気づけば強力なマインド・牛を道ずれに、
ゆったりと笛を吹きながら、
すでに故郷に戻る帰途にあることに気づけるのだ。

やあ・・本当に・・よくここまで来たもんだ・・(笑)


悟りの道標(26)こころ静めて越える、胸突き八丁

2016-09-26 06:30:40 | 人間とは何か
1.尋牛、牛とはなにか尋ねる・・ 、
2.見跡、牛を自分で探してみる ・・
3.見牛、やっと牛の姿を見つける・・
4・得牛、ようやく牛を得ること、・・
5.牧牛、その牛を飼いならすこと・・

1.尋牛
ここでの牛とは、こころ、思考や感情、マインドである。
自分の思考、マインドに全く無頓着な意識レベルから始まり、

2.見跡
何か大切なものへの気づきが立ち起こり、自己探求が始まる。

3.見牛
自己探求においては、まず自分のこころ・マインドを発見することになる。
唯心諸元、
自己を自己として認識するのは、マインドの働きであることに気付くのだ。
私は誰それだ、個人だ、男だ、女だ・・
私は悲しい、うれしい、あれはダメだ、これは良いぞ・・、
すべてマインドの働きである。
スピリチュアルな知識への接触も、このマインドの多次元面の情報への接触である。

4.得牛
幸も不幸も自らのマインド内で創り出し、
感情でそれを実感しているということが分かってくる・・。
つまり創造とは何かに気づき始めるのだ。


5.牧牛
解ればものすごく単純な方程式だが、
しかしながら、頭で非常によく理解できる段階になっても、
こころの中の様々な轍(わだち)習慣になったパターンが残っているため、
その内面のパターンをさら地に戻す意識的作業が必要になる。
つまり浄化して、新たに組みなおす作業だ。

マインドがすべての原因だという明晰性を得られたものの、
こころの反応に癖が残っているため、
「そうは思うんだが、・・分かってはいるのだが・・」

いまだ他人の言動に影響され、物的条件で喜怒哀楽で踊りだす、
そういう心の癖が残っているため、
この浄化作業が、最も困難な意識的作業と言えよう。

このため、日常の生活が大車輪に使われている、
どうでもよさそうな日常の出来事、人間関係が、
どうでも良くない、貴重な修験道場ということだ。

ある意味で静かな修羅場を通過しているのである。

ここでは、常に自己との向き合い、マインドの観察と調律が求められる。

意識進化の大きな正念場。
これが「峠」越え。

大きくは、地球も、そしてそこに在る人々も、
今この峠越えに来ている。

問題は外の世界の混乱や出来事ではなく、
それぞれのわたしの意識内面のことなのだ。

マインドを鎮め、浄化ししてゆく行程、
4.得牛から、5.牧牛は、悟りの道を歩く人々にとって、
多かれ少なかれ、正念場、「胸突き八丁」である。