気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

意識の話(15)想念浄化法 その2

2017-07-28 05:09:20 | 真我実現シリーズ
真我実現とは、本当のわたし・・真の我、神なる我を実現することだ。
実現とは、実際に現すことであり、また、
”もともとそうである”ことを悟ってゆくことである。

すでに実現されていること・・に、気づいていくことだ。
人間の意識進化と言われている意味が分かるはずである。

進化とは生物機構、身体構造、物質的多様性等ではなく、
それら外面にある表現型を表出するところの内面の進化、
意識の進化、深化のことである。

また、悟りは、1段階で終わるものではなく、
真我へいたる道程にある様々な道標のようなものなのである。

・・・
完全なる無次元、無限次元、静寂の水面に、
1つの不可思議な滴(しずく)が落ちて、
それが水面の全方向に波となって拡大する。

あらゆるすべては意識の大海と、
その波に喩えられるように、
人間の「個人としての意識」は、
広大無辺、無限次元の中に沸き起こった
波の波頭ようなものである。



その小さく見える無数の波頭(個の意識)は、
広大無辺な意識であるがゆえに、無限をバックにしており、
個々の意識そのものは、小さな波の波頭でありながら、
広大無限の意識そのものと変わらない。
1個2個、3つ、・・でありながら、すべては<ひとつ>なのだ。

誤解され、手垢のついた概念となった感がある「神」という言葉を使えば、
<我はそれ、わたしは神なり>という「想念」になる。

宇宙とか巨大な物量のイメージが出るものだから、
わたしは神なんて・・とても、とても、
あるいはそんな思い等、トンでも・・などと・・そういう想いが出てくる。
ここにも物質的自我、肉体自我への長い間の固執がある・・、
限られた時間空間内の、物質量の確保に追い回される生活の癖のようなものであろう。

”われは神なり、すべてと・・ひとつなり”
I AM that I am.
わたしは、それとしか言えない、これといって規定できない無限の意識だ。
・・
この言明も「想念」である。
そうした想念は・・宇宙マインドに近接した、実に重要な想念であり、
人々の思いの根幹に植え付けるべきものである。
猿の進化した肉体である・・という想念と天と地の違いではないか?(大笑)

これ以上の”ポジティブ”シンキングはないだろう。
また、その想念形波動は非常に周波数が高いため、
低く歪んだ波動とは、波動的に干渉することはない。

つまり、ネガティブな影響を受けることはないのである。
波長が異なるものは、相互干渉しないのが波の性質だ。
思考、想念も波動であれば、そんなことは簡単に理解可能である。

思考や想念を観察する意識的行為を実践すれば、
これらは氷が解けるように理解が出来る。

繰り返される人生での想念の記憶の束、
それが魂の記憶であり、その複雑な想念の綾から、
その人間の性格や性向が現れるのだ。
同じ親の子の兄弟でも、全く性格が違うのは、
単に漠然と、DNAや環境の違いではなく、
メンデルの法則でもなく、
幾多の人生で刻印された記憶の束の、
その自動演奏的な表現型の特徴なのである。
当然、カルマという解消すべき歪みも含んでいる。
・・・
今までのこの世界では、想念及びその表現様式が、
実に荒っぽく、稚拙で芸術的どころの話でなく、
生存するためのあらゆる種類の奪い合いと争いの歴史であり、
その中に自己投入して、幾多の人生を送ってきたからには、
・・・
それらの想念の束を浄化し、昇華する事が必要なのである。

想念は・・それを観察することで、その挙動を変える。
それは、
素粒子が・・人がそれを観察することで、その挙動を変えるのと同じだ。

粗大な物質的塊、あるいは観念で作られた一時の名誉、
何をいくら追い回しても、それらはつかまえることはできない。
いくらこの世の栄華や快楽を追い回しても、
決して満たされることはない。

なぜならば、その意識体にとって、いや人間と言おうか、
彼にとって、五感で感じる、想う、感じるあらゆる現象は、
その光源である・・わたし・・「意識」と、そこに生じた「想念」の映し出す、
多次元映像であるからだ。

今あなたは、その真っただ中にいる。
どんな映画、DVDを所望するのだろうか?
全くそれと変わらない。

”われは神なり、すべてとひとつなり”
I AM that I am.
わたしは、それとしか言えない、これといって規定できない無限の意識だ。

「意識」「神」「根源」だけが、その派生である「想念」を観察できる。
そして想念は魂・意識の体験シナリヲを描き出す元のエネルギーである。

真、善、美、楽、豊・・
あるいは、
嘘、悪、醜、苦、乏・・

どちらかといえば、どちらの想念を選ぶのだろうか、
どちらの表現型を選ぶのだろうか。
どちらの経験収穫を選ぶのだろうか?

含みや意味深な想いによって、後の方でも構わないだろうが、
幸福より、不幸せを選ぶのが好きなのだろうか?

それはすでに今までの古い世界で十分ではなかったか?

そう、今はその決算時期にあると言えよう。
決算とは、お金の帳尻ではなく、
想念のことである。



意識の話(14)想念浄化法 その1

2017-07-23 05:47:43 | 真我実現シリーズ
今、人にとって最も大切なことは何かといえば、
それは自分の「想念を浄化」することである。

「人によっていろいろありますがね・・」という言葉は、
これには当てはまらない。
世界崩壊や、アセンションなどと言われる特異な時代に気づけるならば、
これは人類すべてに共通する喫緊の課題であることがわかるはずである。

想念を浄化することとは、
思いの中にある様々な歪を解消すること、もっと簡単に言えば、
恨みや憤り、怒りや不信、ネガティブなものとは知っているはずの、
それら想念の歪(ひずみ)を「気付き」に変換することだ。

「あれ、自分は怒っているんだなー」、と気づいていることだ。
怒りっぱなしで、そのまま寝てはいけない(笑)。
怒りが行く当てなく、そのままこころ(潜在意識)に沈んで隠れてしまう。
その怒りのひずみは、忘れて消えたのではなく、
”アクティブ”な形で記憶されるのである。
・・
「おお、わたしはずいぶん恨んでいたのだなー」と気づくことだ。
恨みっぱなしで、そのまま忘れてはいけない。
恨みの波動エネルギーがそのままの形でこころに重畳されるからだ。

そしてそのひずみは、
何かの衝動、トリガによって噴出する機会をうかがっている。
・・
つまり、沸き上がった歪んだ想念や、それに伴う強い感情は、
一時起きてはすぐに消えてしまうわけではなく、
そのままのひずんだ思考、ゆがんだ感情として「記憶」されるのである。

その記憶の束が、想念の強い傾向として、こころを作り上げてゆく。
これが人生でのカルマとなって蓄積されつつ解消を求め、
その人生劇場で昇華がかなわないならば、転生の次のテーマとなる。

この世界は、かなり荒い、粗い想念波動が優勢だったために、
何が出るのかわからない海で泳いでいたようなものである。
その中でのたうち回る恐怖と苦痛が、肉体人生を短いものにしてしまうのは、
なるほど無理もないところである。

ちなみに、旧約聖書等では、かなり古代では、数百歳の寿命もあったとされている。
それはある意味、アトランティスの時代の一大転換で、
それまでの想念波動が一気に浄化された以降の、
比較的清純な時代だったということもできるだろう。

今はまた、人類の活動による想念の波動が、
地球の限度を超えたようである。

人類の教材の名残である、
様々な想念の歪を浄化する時が来たということだ。

・・・

蓄積された想念の感情的なひずみは、
作用・反作用のごとく、
ひずみが大きいほど、その動・反動で、大きな消化・解消を要求される。
そんな反応は何も、ビリヤードの玉突きだけではなく、
またゼンマイ仕掛けの人形だけではなく、
それは、また「こころ」の働きの法則なのだ。




こころは・・生きた想念の束である。
それは物理次元を超えた高次波動の記憶であり、
この人生、あるいは幾多の人生、転生をも彩るところの、
自分自身で作り上げるシナリオに他ならない。

気付いているだろうか?

つまり、想念、感情に振り回されることから、
それを統御する段階へと意識シフトしているだろうか、
自分の想念を観ることが出来るだろうか?







十牛図の四、得牛




意識の話(13)転生メカニズム その2

2017-07-18 04:57:01 | 真我実現シリーズ
実のところ、「今在る」ことのなかにすべてのヒントが隠されている。

隠されているといっても、誰かがあなたから隠しているわけではない。
あなた自身が、「神隠し」をしている。

大勢がどうであろうとも、そうであればなおさら、
また、異質に感じる世界であるからこそ、
違和感や場違い感が際立つことで、
あなたは自らの神隠しを解く方向に・・促されるのである。
それはいわゆる現実逃避ではない。

真我、神我へと向くことは、時満ちて気付く、本来の道であり、
入り込んでしまった幻影世界、マトリクス世界からの解脱、
常識的、自虐的、閉鎖的な観念の枝葉で繁茂した世界から抜け出すことは、
決して逃避ではないことは理解できるだろう。

現実逃避とは、欲望が満たされない場合に、別の欲望で憂さ晴らしすること、
あるいは満たされない欲望に気落ち、傷心して世間から離れてうずくまること、
あるいはそれに耐えきれず逃げることだが、
決してその(意識)の状況を超えていない様を意味している。

いままでは世界に満ちている人々、浮遊の意識たちの促すまま、
自らの創造世界の中心である「魂・意識」に、
無意識で気づかない振りをしていたのかも知れない。

多くの人は、世間や世界という、
物理的な逆風や逆流によって押し流されつつ、
それでも頑張って流されずに踏ん張って生きて
何か真実があるはずだという潜在的な感覚を持ちつつも、

意識内面の方向、真のわたしの方向に、向き合わないで来たともいえようか。

今回、オギャーと生まれて親に育ててもらう過程で、
培ってきた常識観念、世間的な生き方を通して、
見るのはいつも外の世界、外にいる人間様、社会・国家だったかもしれない。
それに合わせなければ、身が持たない・・というわけだ。
既にそれは観念の支配下にあるということだ。

生存欲、性欲、食欲などの分かりやすい感覚をベースに、
あれはいい女だ、きゃーかっこいい男、あれはいい会社だ、あれは嫌いな国だ、
攻められるなら、その前にやっつけろ、いや長い物には巻かれろ、
生きるためだ・・と、
そういうメニューばかりで、数々の人生を送ってきたのかもしれない。

そしてそれがゆえに、その魂の強い傾向がゆえに、
今ここに、再び・・いる・・のかもしれない。

あるいは同時に、そこからの解脱のための、
実際には実在しない、長い長い転生時間という夢を見ている。

そうだ、この世も実にリアルに続くタイプの・・
意識の観る・・夢に相違ない。

あなたはいま、どう感じるだろうか?
かつて、
どうしてこんなところにいるのだろうか?
あるいは、人はどうして生きているのだろうか?
そう思ったこともあるだろう。



すべては想念のなせる業(わざ)、
今までのこの世は、その心の働き自体を観察することでの、
その内面投影のメカニズムへの気づきがなかったのかもしれない。

しかしながら、今はもう、人生も、
そして様々な過去や未来というカテゴリーでの諸人生の物語も、
すべては想念の描き出すものであることが分かっていて、
自分の行く末さえも悠々と見定めることができるだろう。
本来、自由自在のどこが悪い?
輪廻転生もいつか、おもちゃ、ガラクタになるものだ。

なぜならば、あなたもすでに「想念」という、
創造の根源から発する、意識波動の変調されたものであるところ、
自らの「想い」を観ることができるからである。


意識とか、マインド、内面を見るとか、そういう話は・・何の役にも立たない、
お金にならない、まったく意味のないことだと、思っていただろう。
来る日も来る日も、自我存続のため頑張るという、
カルマとかいう架空の荷物があったのだろうか。



その観念荷物であるカルマは、「想念」の作でしかない。
想いの集積、それが「荷物」である。

想念を浄化すること、これが架空の荷物を軽くすることだ。
あるいは、背中に背負う荷物などないほうがいいに決まっている。
とはいえ、軽いショルダーバック程度がいいかもしれないが・・(笑)

・・・
人々は生活に追われ続け、
魂の表現型、創造の型・・を決めているところの、
自分の思考、感情、それらの一連の積み重なった想念に、
これが、なかなか気づかない。

この世界で気づくのは物的対象のほう、
外の世界の対象とのやり取り、あるいは時折のバトルのほうだ。

つまり幻影たる対象ばかりを見て、一喜一憂し、
その対象を見ている・・対象を現象として認識している・・、
それを存立せしめている・・意識としての「わたし」を・・忘れているのだ。

わたしは「意識」であるがゆえに・・次々に表出する「想念」によって、
様々な事象という創作物、環境という拡張された自我、
そしてそれらを固定する・・シナリオである「想念」が蓄積され続け、
いつかその重さによって自壊することになる。
また、その仕組みを知っていれば、そういった文明、文化の予知予言などは可能だということも言えよう。

意識がなければその対象は現れない。
わたしが存在せねば、わたしの世界は現れない。

いま、その意味を深く認識せねばならない。

今わたしは在る・・在るからこそ、わたしの世界が出現していること。


あー。そうか、それでどういう効果があるのか・・・
お金が入るのか・・・いい人見つかる? そういう癖になった功利思考、
そんな条件反射思考がやってくるかもしれない(笑)。
そして幻影に引き戻されては、また肉体自我に戻る。

毎日メディアの放送にあおられ、また、慰められ、洗脳され、
あれがおいしい、この食感がたまらない・・
気になるのは・・
他人さまのことばかり、あるいは自分の子供のことばかり、
あるいは社会のこと、国家間のごたごたばかりかもしれない。

そう、今までは・・、


なるほど、これなんだろう?って、どうでもいいか(笑)


”わたし”という意識が投影している
「世界」という立体スクリーンの映像ばかりを観て、
嘆き、悲しみ、憤り・・、それらのこころの切り傷を、
意味不明なまま感情に刻印をしつづけ、

ひずんだその感情の再生産に嫌々ながら遭遇し、
それが何がなんだかわからぬまま、誰か悪いのかとか、社会が悪いとか、
そういう見当違いの想念をため込んだ人々の世界が、
つまるところ、こういう世界になっていたのである。

分かるだろうか?

自らの意識と意図によらず、
そのとき時の刷り込まれた思いや感情の指示のまま動くこと、
それはマインドへの隷属であり、
様々な感情の「切り傷」、こころの「痛み」を多く含んだ想念が
はたまた思いや感情、行為となって再生産されることになる。
これがカルマだ。

気付けば、実に面白くないではないか(笑)。
「カルマ」という、想念のひずみの自作自演の生成メカニズム。
つまらないシナリオでの自作自演も飽きが来ないだろうか?

そして、その歪のままで、一時の生が終わると、
その時の強い「存念」、「執念」、固定された欲望の「想念」が種子となって、
この時空を超えたところで再び「執念」の方向に「リターン」し、
当人の魂の側面である、無数の別の高次の自己達に支援されつつ、

再び似たような歴史・環境に「オギャー」という掛け声とともに参入する。
なぜならば、その存念を解消し、得難い英知にまで昇華するためだ。
これが輪廻・転生のメカニズムと言えようか。

・・
この世界にいる魂たちは、伊達や酔狂でいるわけではなく、

火中に栗を拾うぐらいの・・雄々しい者たちなのである。

幾多の人生で、戦い、慰め、信頼しあった仲間たちが、

あなたの目にする町や、都会、身近な周囲に実に大勢いるのである。

気づいていただろうか?

たとえ彼ら多くがそれを忘れているとしても、

数万年、数千年という長い長い、幻影の輪廻転生で、

ともに同じ時空を分かち合い、親子や家族となり、

あるいは別時代では宿敵や、協力者となって時代絵巻を作ってきた、

大いなる魂の同胞たちなのだ・・!
 (と、余計だがここ、書いてて思わず涙が出てきた・・笑)



自らが自らを創造する・・原理。
I AM THAT I am.

われは・・それなり。

・・なるようになる。
・・想念のごとく表現型が成る。
・・世界は、想念の振動波によって造られる。
・・意識は、信念・想念の種子を発芽させ、それを世界として描き出す。
  念とは・・常に、今の心 こころ・・である。

今の心・・その重いの荷物をすべてを洗い流せ。
思い”切る”ことだ。
重く垂れこめ続けた思いを、爽やかな思いに塗りかえてしまえ!

今において幻影の過去を手放し・英知の引き出しにしまう。
そして、こころをザックリ、ごっそり入れ替えるのである。

自らが本当に楽しいものを描き出し始める!
たとえ、多少の時間はかかろうとも、
この世界での苦楽や苦役を知っている者たちならばこそ、
続ければ、それがいとも簡単にできるはずなのである。
嗚呼、朋よ、今がその時期だ!

アルファはオメガである。
終わるのも、始まるのも・・今という瞬間以外にない!





意識の話(12)転生メカニズム

2017-07-17 07:05:06 | 真我実現シリーズ
転生とは「生まれ変わり」のことだ。
例えばここの記事を見ている人は、だれでもその概念を知っている。
それは学校では教わらないし、日常の会話にもほとんど出ない。

今の世、巷に出るのは大なり小なり、お金に関する話だけである(笑)。
現生の生活のための資源としてのお金が、まず最も大切なものというわけだ。
しかしながら、そのおかげで、まるで漁師のように、
毎日の稼ぎのために、浮遊意識の群れという海の中に漕ぎ出さなければならない。

「生まれ変わり」のことは、
比較的まともな宗教だけが、その話をすることはあるが、
せいぜい「善い行いをしたら天国に行ける・・」そんなところまでではないか。
どういうメカニズムなのかは、追及することもない。

この世は、生だけを強調しつつ、死を忌み嫌うことで、
生と死という「生命のサイクル」まで気づかない世界であった。
いや気づかせない・・意図があったかもしれない。

生と死のサイクルは、存在の側面でしかないのだが、
「生きている」・・肉体感覚だけを後生大事にするおかげで、
その肉体維持、苦痛と快楽だけに意識を集中し続け、
必ずその方向を追及する者たちもいて、
そのために、資源や環境、あるいは人の肉体までも
奪い合う争いが絶えない状況だったということだ。

人間は、知的機能を持った「肉体」であるという想念である。

余談だが、その方面の話をするならば、

昨今は、今や人工知能のほうが優れている・・などという、
人間劣等化のための、最後の戦い?が起きている。

肉体は、たとえそれが複雑な組織であろうと、要は物質に過ぎないという、
思想、想念形で理論武装しているわけだ。
そういう者たちを、おどろしく闇の勢力などと言っている。
元気はいいし、行為は陰湿かつ派手だし、自己尊大化が得意なので、
組織のトップになりやすいというわけだ。
政治や経済で頑張っている者たち、その上澄みである。
良いも悪いもなく、
とうとう、とことん来たのでお役は御免ということだ。

今その数千年にわたった物質偏重の想念形が、
ガラガラ・ピキピキと音を立てて崩れ落ちている。

・・・
生まれ変わりについて、
あなたは実際、どう思っている?

要は”死んだ後”の話であり、それはつまり”生まれる前”の話も含んでいる。
これは次元を超える話なのだ。
またこの”粗大な次元世界を超えた・・わたし”に帰還する話でもある。

それは魂の進化とか意識進化と呼ばれているが、
真我、神我への帰還体験プロセスともいえようか。
あるいは放蕩息子の帰還のようなものだろうか。

ずーっと出ずっぱりでは疲れるだろう?
暗くなるまで遊んで疲れたら、一旦暖かい家に帰るようなものである。
そうではないか?

また、かならず1日のサイクルで熟睡があるようなもの。
パーティーで騒いだら隣の部屋で一時休むようなもの。
6日働いたら1日休むようなもの。
その有難さに気づかないのも、また、
全宇宙にとっての可愛い子供がゆえなのだ。
・・・
話はそれるが、
宮崎駿(はやお)作の「千と千尋の神隠し」は、
この世界のことを面白おかしく描き出している。
トンネルを通って出たところに、湯谷という館があった。


自らを忘れた者たちが「かえる」などになって、
忙しく異形のお大臣様達に奉仕している、湯屋の館。
今までの物質文明の話である。

自らを隠す・・つまり「神隠し」である。

これは今までの地球文明という館のこと。

わたしとは肉体であるという、いつの間にか固まった「想念形」
その想念形が、死んだら終わりだという、気にも付かない信念となり、
実際にこの世で・・死んだら・・終わりを演出する・・、

どういうことかといえば、

真我、神我、普遍意識は・・不滅でありながら、
その表層である「顕在意識」・・人間としての「今の意識」が・・、
つまり・・今の・・私たちのことだが、

「わたしは肉体で、死んだら終わりだ」という想念を固辞するため、
真我である・・わたしは、それも是非もなし・・として、
その側面自我を創造・体験するのである。

簡単に言えば、
そう想えば、そう成る・・メカニズム・・である。
実によくできた・・というのも変だが、
それはすなわち・・神隠し、自己忘却だ。
最も粗大な館、肉体の中という設定で、
またそういう世界に転生する、
そしてその粗大さがゆえの、カルマという
感情・歪エネルギーによる輪廻転生。

今その設定が、終わったともいえようか。
そして、それに気づくとき・・が来たということだ。
それが故のスピリチュアルな情報の氾濫でもある。
また古い観念の一大楼閣の崩壊である。

打ち上げ花火も何もないが、そういうことだ。
でも・・そこまで言って委員会?もあるだろう(笑)

・・・

本来死んだら終わりでない者が、
死んだら終わり・・・を体験する。

これ、どういう風になるだろうか?

すべてを忘れた・・自分として、生まれ変わるのだ。
わたし・・自意識という・・真我をそのまま含んでいながら、
わたしの側面・・つまり前世とか多次元生とか言われる、
あるいはハイアーセルフとか、類魂とか、自己の多次元的側面とか、
そういう風に言われている、真我の側面、魂の諸相・・
わたしの膨大な側面、記憶の”すべて”を忘れて・・生まれ変わる・・のだ。

あなたも、わたしも、多分そうだったろう?




意識の話(11)内面∝外面なり

2017-07-13 07:37:58 | 真我実現シリーズ
人の内面は、すなわち外面である。
内面∝外面、普通 ∝は比例という意味だが、
ここではメビウスの輪のように繋がっているということだ。

内面とは、こころとか精神とか言われるそれだ。

ところで、
こころ、「想念」は意識内面から波動として立ち上がる。

多次元宇宙も、私たちも全く同じである。
この画像は、それを象徴している。




全ては波動である。
中心から立ち上がる波紋は想念、マインドだ。
波紋・波動は、普遍的な意識の上に描き出される。
それら波紋、波動が交差しつつ様々な世界を描き出している。

物質なるものも、想念波動のある帯域の振動エネルギーである。
粒子、粒子というのもその局在化した波動である。
光も電磁波であり、光子、フォトンという名のように、
粒子性を持っている。

宇宙は神という名の、サムシンググレートの描き出す想念。
それはまた無限の叡智という情報を根本に含んでいる。

想念とは、ちょっとした人間の想いだけにとどまらず、
創造の根源から発する神の想念、宇宙マインドのことだ。
人間の想念は、その中の部分を構成している。

想念は、意識内面に湧き出す「創意波動」ともいえよう。

あなたの内面とは、意識とは、いったいどこにあるのか?というと、
どの場所でもない、
いつあるのかというと、この時だけとも言えない。
常に今ということがわかるが、
時間と空間のどこかには特定できない。

人によっては体の中にあるとか、目の奥にあるとか、
いや頭脳の中にあるとか、
そんなイメージだが、
どこにあるのか特定できるものではない。

それとも、あなたの頭や顔の周囲内部にある?
どこにある?
鉛筆の先はこれだ・・というように特定はできない。

わたしという意識は、
時間とか空間に制約されない、重さも体積もない、
いかなるディメンジョン(次元)もない。


しかしながら、あなたは今・・自分が在る・・!と感じている。

”自分自身の存在”を知っている、感じている、知覚している。

「わたしは・・在る・・・」感覚、知覚、気づきだ。

これが、”わたしの世界”のすべての根本にある「意識」である。

”自らを明らかに意識している”・・こと。
これは「魂」ともいわれるし、意識ともいわれる。
そしてそれは、
目に見える対象物ではなく、それを観る者、気づく者・・だ。

意識・・が、
わたしの世界の、すべての存在の原点であることに気づけるはずだ。
世界に「気づく」ことなく、世界は「存在」しない。

しびれる様な身体的刺激も、誰かに褒められる嬉しさもないが、
これは1つの悟りである。

概念や知識を頭に記憶するのではなく、
人生の、生の経験から、完全に腑に落ちるならば・・・だ。

内面があって外面がある。
気づきがあって、その対象物が存在する。
わたし意識があって、その知覚世界が存在する。

多くの人は、
宇宙があるから私は在る・・と「思って」いるが、
わたしが在るからこそ、
そういう思いが可能だと覚るべきである。

あなたが生まれる前は、宇宙があったと証明できるか?
あなたが寝ている時に、世界が在るとその時・・証明できるか?

いいや、出来はしない。

あなたが生まれてから、物心つき、成長し、
歴史家や学者や、誰かがそう言っていることを知るとしても、
あなたがそこに「在る」からこそだ。

これは非常に単純だが、まったく見逃されてきた。

気づき、意識がなければ、何も存在できないこと、
とんでもない事実が、
当たり前のように見逃されてきた。

そして今はもう、気づいているだろう。
内面は即ち外面として投影されていることを。


それでも、あなたは言うかも知れない。

「えー、何言ってんの?」
わたしゃ、かつて、
こんな宇宙を夢見たことが無い、思ったことが無いと・・、
こんな人生望んでなかった・・と、そうだそうだ・・と、
そう、想っているかもしれない。

しかしながら、

今見ていることが、過去世をも含む膨大な想念(内側)の外面に他ならない。

なぜなら、存在には、『今』しかないわけで、

今観ている、見ている、世界、宇宙、人生・・それが・・・、

常に、わたしの”想念の集大成”なのである。

人間とは、

よくここまで意識進化してきた存在形であると言えるのである。

そして、地球という重いマトリクス世界を、よく超えたものだと・・・

そう想うべきである!


OH! MY GOD!!