真我実現とは、本当のわたし・・真の我、神なる我を実現することだ。
実現とは、実際に現すことであり、また、
”もともとそうである”ことを悟ってゆくことである。
すでに実現されていること・・に、気づいていくことだ。
人間の意識進化と言われている意味が分かるはずである。
進化とは生物機構、身体構造、物質的多様性等ではなく、
それら外面にある表現型を表出するところの内面の進化、
意識の進化、深化のことである。
また、悟りは、1段階で終わるものではなく、
真我へいたる道程にある様々な道標のようなものなのである。
・・・
完全なる無次元、無限次元、静寂の水面に、
1つの不可思議な滴(しずく)が落ちて、
それが水面の全方向に波となって拡大する。
あらゆるすべては意識の大海と、
その波に喩えられるように、
人間の「個人としての意識」は、
広大無辺、無限次元の中に沸き起こった
波の波頭ようなものである。
その小さく見える無数の波頭(個の意識)は、
広大無辺な意識であるがゆえに、無限をバックにしており、
個々の意識そのものは、小さな波の波頭でありながら、
広大無限の意識そのものと変わらない。
1個2個、3つ、・・でありながら、すべては<ひとつ>なのだ。
誤解され、手垢のついた概念となった感がある「神」という言葉を使えば、
<我はそれ、わたしは神なり>という「想念」になる。
宇宙とか巨大な物量のイメージが出るものだから、
わたしは神なんて・・とても、とても、
あるいはそんな思い等、トンでも・・などと・・そういう想いが出てくる。
ここにも物質的自我、肉体自我への長い間の固執がある・・、
限られた時間空間内の、物質量の確保に追い回される生活の癖のようなものであろう。
”われは神なり、すべてと・・ひとつなり”
I AM that I am.
わたしは、それとしか言えない、これといって規定できない無限の意識だ。
・・
この言明も「想念」である。
そうした想念は・・宇宙マインドに近接した、実に重要な想念であり、
人々の思いの根幹に植え付けるべきものである。
猿の進化した肉体である・・という想念と天と地の違いではないか?(大笑)
これ以上の”ポジティブ”シンキングはないだろう。
また、その想念形波動は非常に周波数が高いため、
低く歪んだ波動とは、波動的に干渉することはない。
つまり、ネガティブな影響を受けることはないのである。
波長が異なるものは、相互干渉しないのが波の性質だ。
思考、想念も波動であれば、そんなことは簡単に理解可能である。
思考や想念を観察する意識的行為を実践すれば、
これらは氷が解けるように理解が出来る。
繰り返される人生での想念の記憶の束、
それが魂の記憶であり、その複雑な想念の綾から、
その人間の性格や性向が現れるのだ。
同じ親の子の兄弟でも、全く性格が違うのは、
単に漠然と、DNAや環境の違いではなく、
メンデルの法則でもなく、
幾多の人生で刻印された記憶の束の、
その自動演奏的な表現型の特徴なのである。
当然、カルマという解消すべき歪みも含んでいる。
・・・
今までのこの世界では、想念及びその表現様式が、
実に荒っぽく、稚拙で芸術的どころの話でなく、
生存するためのあらゆる種類の奪い合いと争いの歴史であり、
その中に自己投入して、幾多の人生を送ってきたからには、
・・・
それらの想念の束を浄化し、昇華する事が必要なのである。
想念は・・それを観察することで、その挙動を変える。
それは、
素粒子が・・人がそれを観察することで、その挙動を変えるのと同じだ。
粗大な物質的塊、あるいは観念で作られた一時の名誉、
何をいくら追い回しても、それらはつかまえることはできない。
いくらこの世の栄華や快楽を追い回しても、
決して満たされることはない。
なぜならば、その意識体にとって、いや人間と言おうか、
彼にとって、五感で感じる、想う、感じるあらゆる現象は、
その光源である・・わたし・・「意識」と、そこに生じた「想念」の映し出す、
多次元映像であるからだ。
今あなたは、その真っただ中にいる。
どんな映画、DVDを所望するのだろうか?
全くそれと変わらない。
”われは神なり、すべてとひとつなり”
I AM that I am.
わたしは、それとしか言えない、これといって規定できない無限の意識だ。
「意識」「神」「根源」だけが、その派生である「想念」を観察できる。
そして想念は魂・意識の体験シナリヲを描き出す元のエネルギーである。
真、善、美、楽、豊・・
あるいは、
嘘、悪、醜、苦、乏・・
どちらかといえば、どちらの想念を選ぶのだろうか、
どちらの表現型を選ぶのだろうか。
どちらの経験収穫を選ぶのだろうか?
含みや意味深な想いによって、後の方でも構わないだろうが、
幸福より、不幸せを選ぶのが好きなのだろうか?
それはすでに今までの古い世界で十分ではなかったか?
そう、今はその決算時期にあると言えよう。
決算とは、お金の帳尻ではなく、
想念のことである。
実現とは、実際に現すことであり、また、
”もともとそうである”ことを悟ってゆくことである。
すでに実現されていること・・に、気づいていくことだ。
人間の意識進化と言われている意味が分かるはずである。
進化とは生物機構、身体構造、物質的多様性等ではなく、
それら外面にある表現型を表出するところの内面の進化、
意識の進化、深化のことである。
また、悟りは、1段階で終わるものではなく、
真我へいたる道程にある様々な道標のようなものなのである。
・・・
完全なる無次元、無限次元、静寂の水面に、
1つの不可思議な滴(しずく)が落ちて、
それが水面の全方向に波となって拡大する。
あらゆるすべては意識の大海と、
その波に喩えられるように、
人間の「個人としての意識」は、
広大無辺、無限次元の中に沸き起こった
波の波頭ようなものである。
その小さく見える無数の波頭(個の意識)は、
広大無辺な意識であるがゆえに、無限をバックにしており、
個々の意識そのものは、小さな波の波頭でありながら、
広大無限の意識そのものと変わらない。
1個2個、3つ、・・でありながら、すべては<ひとつ>なのだ。
誤解され、手垢のついた概念となった感がある「神」という言葉を使えば、
<我はそれ、わたしは神なり>という「想念」になる。
宇宙とか巨大な物量のイメージが出るものだから、
わたしは神なんて・・とても、とても、
あるいはそんな思い等、トンでも・・などと・・そういう想いが出てくる。
ここにも物質的自我、肉体自我への長い間の固執がある・・、
限られた時間空間内の、物質量の確保に追い回される生活の癖のようなものであろう。
”われは神なり、すべてと・・ひとつなり”
I AM that I am.
わたしは、それとしか言えない、これといって規定できない無限の意識だ。
・・
この言明も「想念」である。
そうした想念は・・宇宙マインドに近接した、実に重要な想念であり、
人々の思いの根幹に植え付けるべきものである。
猿の進化した肉体である・・という想念と天と地の違いではないか?(大笑)
これ以上の”ポジティブ”シンキングはないだろう。
また、その想念形波動は非常に周波数が高いため、
低く歪んだ波動とは、波動的に干渉することはない。
つまり、ネガティブな影響を受けることはないのである。
波長が異なるものは、相互干渉しないのが波の性質だ。
思考、想念も波動であれば、そんなことは簡単に理解可能である。
思考や想念を観察する意識的行為を実践すれば、
これらは氷が解けるように理解が出来る。
繰り返される人生での想念の記憶の束、
それが魂の記憶であり、その複雑な想念の綾から、
その人間の性格や性向が現れるのだ。
同じ親の子の兄弟でも、全く性格が違うのは、
単に漠然と、DNAや環境の違いではなく、
メンデルの法則でもなく、
幾多の人生で刻印された記憶の束の、
その自動演奏的な表現型の特徴なのである。
当然、カルマという解消すべき歪みも含んでいる。
・・・
今までのこの世界では、想念及びその表現様式が、
実に荒っぽく、稚拙で芸術的どころの話でなく、
生存するためのあらゆる種類の奪い合いと争いの歴史であり、
その中に自己投入して、幾多の人生を送ってきたからには、
・・・
それらの想念の束を浄化し、昇華する事が必要なのである。
想念は・・それを観察することで、その挙動を変える。
それは、
素粒子が・・人がそれを観察することで、その挙動を変えるのと同じだ。
粗大な物質的塊、あるいは観念で作られた一時の名誉、
何をいくら追い回しても、それらはつかまえることはできない。
いくらこの世の栄華や快楽を追い回しても、
決して満たされることはない。
なぜならば、その意識体にとって、いや人間と言おうか、
彼にとって、五感で感じる、想う、感じるあらゆる現象は、
その光源である・・わたし・・「意識」と、そこに生じた「想念」の映し出す、
多次元映像であるからだ。
今あなたは、その真っただ中にいる。
どんな映画、DVDを所望するのだろうか?
全くそれと変わらない。
”われは神なり、すべてとひとつなり”
I AM that I am.
わたしは、それとしか言えない、これといって規定できない無限の意識だ。
「意識」「神」「根源」だけが、その派生である「想念」を観察できる。
そして想念は魂・意識の体験シナリヲを描き出す元のエネルギーである。
真、善、美、楽、豊・・
あるいは、
嘘、悪、醜、苦、乏・・
どちらかといえば、どちらの想念を選ぶのだろうか、
どちらの表現型を選ぶのだろうか。
どちらの経験収穫を選ぶのだろうか?
含みや意味深な想いによって、後の方でも構わないだろうが、
幸福より、不幸せを選ぶのが好きなのだろうか?
それはすでに今までの古い世界で十分ではなかったか?
そう、今はその決算時期にあると言えよう。
決算とは、お金の帳尻ではなく、
想念のことである。