気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

(続)エゴは実在しない

2021-10-24 05:15:46 | 賢者の教え

(前回からのつづき、)

 

・・・

だれもが今ここで(周囲を)見ています。

あなたはまったく努力なく見ています。

 

見ることが進行しています。

 

また誰もが(何かの音を)聞いています。

 

見ることが起こっていて、聞くことが起こっています。

 

自分自身に尋ねてください。

「私の目が、私に見るように言っているのだろうか?」と。

 

さて、私の目は、「ボブ、ほらこれを見ろ、あれを見ろ」とは言っていません。

目を通じて見ることが起こっているのですが

それが思考によって、「私は見る」「私はあれを見る」と翻訳されているのです。

 

聞くことが耳を通じて起こっています。

耳は、私に、「私が聞く」とは言いません。

再び、それは思考によって「私が聞く」と翻訳されるのです。

 

ですから、

眼は「私は見る」とは言わず、耳は「私は聞く」とは言わないのに、

思考が湧きおこってそれを翻訳します。

ーーーー

では次のことを自分に尋ねてください。ーーー

「私は見る」という思考は、実際に見ることが出来るのか?

注意して観察してください。

そうそれば、思考が見ているのではないことを、あなたは理解するでしょう。

・・

「私は聞く」という思考が、実際聞くことが出来るでしょうか?

思考が行うのは・・ただ翻訳することだけです。

 

このエゴとは考えられたもので、見たり、聞いたり、気づいたりするパワーを持っていないのです。

「私は選ぶ」という思考(自体)は、(何も)選ぶことが出来ません。

「わたしは気づいている」という思考は、あなたの気づきではありません。

 

このように、この虚構のエゴとは、私たちが長年束縛されてきた1つの思考なのです。

エゴとは、選択ができ、自分の意志を持っており、たまに悪運に見舞われることもある1つの実体である、‥という信念は、ただの思考に過ぎません。

 

それが作り話であるあると気づくとき、いったい何が起こるでしょうか?

 

自然に生きることが、今までとにかくやってきたように続いていくのではありませんか?

それが、あなたを呼吸させています。

それがあなたの心臓を鼓動させています。

それがあなたを呼吸させています。

それがあなたの髪の毛や爪を成長させ、食べ物を消化し、細胞を新陳代謝させ、

考えること、感じること、感情、

あらゆることが、まったく努力なく起こることを可能にしています。

ーーー

以上、「ただそれだけ」ナチュラルスピリット刊、・・より抜粋。

 

 

・・・

 

(補足解説)

賢者は・・外の世界ではなく、

自分自身のあり様をしかと見るように繰り返し促してきた。

 

思考は起きるが、思考によって作られたものは実体ではない。

特に歪んだ思考によって作られた自我を「エゴ」といって良い。

思考で出来た虚構の信念体系・あるいは常識というものも、また、

まったく、実体を持たない。

そう、エゴ・自我というものも含め、

思考の体系は・・変幻自在のマインドによる作品・作り話である。

 

だから、この世界も映画のようだと言われるのだ。

それは楽しみ、学び、味わうべきものであって、

それに血道をあげ、執着し、追いすがる・・ことの可笑しさに気付けるだろう。

 

それを行う「エゴ」は、実は・・・存在しないのである。

 

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 

 


エゴは実在しない

2021-10-23 09:35:46 | 賢者の教え

★セイラー・ボブ・アダムソンの教え

(「ただそれだけ」2011年刊:ナチュラルスピリット・・より)

◆エゴは作り話である

わたしたちの問題は、二歳か二歳半頃身につけた、

一個の分離した実体、すなわち「自分」という考えから起こります。

 

あなたは「自分」とか「」という言葉に対して何かできるでしょうか?

それについてできることはあまりありません。

そこで、私たちは、出来事、経験、条件付けーー自分に起こった物事ーーを加えるのです。

そこに信念のエネルギーが入り込み、

それは見かけ上、具体的なものになり、

それが現実に存在しているように・・思えてきます。

 

それが、我とかエゴとか呼ばれているものです。

 

それは、自分自身はこうだ・・と信じるための参照点となります。

 

何かを見て、わたしはそれを好きになります。

それを好きになるとは知るはずもありませんでした。

まあ、それが以前に起こったことであれば、

わたしはその過去のイメージと結びつけて「これはいいな」と言うのでしょう。

 

やがて、その「良いこと」が過ぎ去ろうとします。

でも、私はそうなってほしくありません。

そのとき、何が起きるでしょうか?

 

私がそれを本当に好きなとき、

私は何をするでしょうか?

 

私はそれらが去るのに抵抗しようとします。

抵抗とは何でしょうか?

抵抗は葛藤であり、葛藤は病気(dis-eras=安らかでない)です。

 

もし葛藤の中にいれば、あなたは不安です。

こころ安らかではありません。

それが病気です。

 

もし何かが起こって、私がそれを好きでなければ、

私は再びこの記憶の自分を参照します。

それを好きでないとき、私は何をするでしょうか?

私はそれを押しやり、取り除こうとします。

 

またもや抵抗、葛藤です。

 

自然界においては、正反対のものからなるペアが常に作用していて、

そうした作用なしではどんな二元性もありえません。

これらの正反対のものは互いに対立するものではありません。

相反する立場はなにもないのです。

もし今かが春なら、まもなく夏がやって来ます。

春は、「夏であったらいいなあ」とは言いません。

それは自然に、何の対立もなく動いていきます。

 

満ち潮は引き潮と戦いません。

嵐がやって来て、色々なものを吹き飛ばします。

しばらくすると嵐は静まり、自然は徐々に水からを更新していきます。

正反対のペアはたえずそこにありますが、

何の対立もありません。

 

私たちに関しては、正反対のペアは常に対立します。

なぜなら、私たちは物事を、こうあるべきだ自分が考えたり、

信じたりしている心のイメージをたえず関連づけたり、

照らし合わせたりしているからです。

ーーー

つまり、私たちは物事をあるがままにしておかずに

物事が、こうあるべきだと自分が考えるやり方に従うことを望むのです。

ですから、私たちが抱える問題はすべて、実際は関係性の問題、

すなわち何と関連するかという問題なのです。

それはただ男女関係だけではありません。

そして、関係性の問題は、常に私たちが持っている自己イメージに関係しています。

 

それは、過去の出来事や経験にもとづく架空のイメージだということを理解するとき、

人はみずから落ち込んでいる罠に気付くのです。

・・・

このことは偉大な宗教的伝統の中でも言われています。

問題は・・・利己心、自己中心性、自己意志です。

あなたはこのエゴを昇華し、破壊しなければいけないと教えられます。

あなたはそれについてあらゆる種類のことを行い、

そうした奮闘の中で、何が起こるでしょうか?

 

あなたはそれに対して何をしているのでしょうか?

 

それは、エゴがエゴに対して戦っているのです。

 

それを注意深く見れば・・

エゴとは作り話だとわかるでしょう。

 

それは決して存在したことはありませんでした。

それは決して存在することが出来ないでしょう。

 

そのことは、今ここで、実にシンプルに指摘することが出来ます。

 

(つづく)

ーーーー

(注)上記著作より引用

●セイラー・ボブ・アダムソン

インドのアドウ”アイダ(不二一元論派)の流れを汲むオーストラリア人の霊的教師。若い頃は船員や羊毛刈りなどに従事し、酒浸りのすさんだ生活を送っていた。やがてアルコール依存症となり、断酒会に入る。アルコール依存症からの更生がきっかけで、スピリチュアルな探求の道に。

1976年にニサルガダッタ・マハラジに出会い、その教えによって真理と平安を見い出した。

 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。