意識というと、すぐに人間の「意識」を思い浮かべるかもしれない。
そしてそれは、意識のごく一部、人間の顕在意識だけを言っている場合が多い。
潜在意識、さらに超意識という広大なそれに関しては、
単に概念でしか知っていないかもしれない。
あなたはどうだろうか?
したがって宇宙すべてが「意識」の表れであるとした場合、
わかったようでわからない状態にあるかもしれない。
動物に意識あり、植物に意識あり、鉱物に意識あり、とすれば、
『えー、そんなのあるの?』と感じるのは、
「意識」が”人間の意識”だけのイメージだからだ。
そうではないか?
動物までは、・・まあ、ある程度意識がある・・のはわかる。
人間の姿態に近いからだ。
あなたが犬や猫を飼っていればよくわかるだろう。
確かに意識があり、意図や好き嫌いもある(笑)。
でも、植物、鉱物・・つまり、存在形、物質形もふくめすべてに意識がある・・、
そう言うと、「なんだかな~」が・・正直なところだろう。
そうではないか?
なぜならば「意識」が”人間の意識”だけのイメージだからだ。
・・・
この世でいう「意識」あるいは人間的なマインドの働きは、
つまりそれは「狭義の」意識である。
普段、「意識」というのは、意識の表層のごく一部なのだ。
しかしながら、
海の表面の波は、海全体がなければ起きえないようなもの。
表層のごく一部ではあるが、確実に全てとつながっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/b8/0b7dcff1ed72d4ff69d15febe50fdfcb.jpg)
これは顕在意識と潜在(超)意識に相当する。
だから、普通の人の「意識」も、つまり狭義と言えども、
・・・無限の意識・・全体があるから生じている。
さらに、意識は物量、サイズなどでで分割されるものではないために、
部分の中に・・全体が含まれているのである。
ここは重要な気づきである!
部分の中に全体が含まれるはずがない・・!
そう考えるのは、悲しいかな唯物、物量、計算的思考の性(さが)なのだ。
何m?、何万円?、・・何kg?・・生活費どうする?(笑)
そんな世界で生まれて、先祖代々繰り返されては、
どんな利益がある?
効果のほどはいかがなものか?
結果が得られるの?
いつの間にかそういう思考・マインドに完全にはまるのも無理はない。
周りにいる人々がみな同じことを信じ込んでいれば尚更だ。
またそれを逸脱しようものなら、場合によって攻撃もされるような、
そんなカテゴリー世界にいたならば、
部分の中に、全体が含まれる!・・・、
有限と見える人間は、神的無限の存在だ!・・・
石も、岩も、植物も、動物も・・・
全体というひとつの・・根源の表現型である!
わたしは神である。
すべては・・つまり、ひとつである!
そういう「見解」にたどり着くことは難しい・・ということだった。
しかしながら、それは今までのこと。
神・意識は、すべての根源であり、
そこからマインド・こころが生じ、
その波動ですべてが創られている・・
わたしたちは・・本来、根源、
それなのである。
とはいえ、人々は、
「そうはいってもね~」、「この体がね~」
「現実は理想と違うからね~」等という、繰り返される「思考」によって、
繰り返し、繰り返し引き戻されてきた。
そうであるがゆえに、
その思考、想念によって、
特殊で、狭く、苦痛と快楽の味の濃い時間・空間、
お互いを傷つけあい、殺しあう特異な経験場、
輪廻転生しなければ、体がいくつあっても持たない世界、
強烈な不協和音に色づけされた感情波のあふれる世界、
まるで、幼年期のままの、
小さなカテゴリーの世界に幽閉されていたのだと・・・、
今はもう、気づけるはずである。
アセンションなどと言われる概念、
気づけぬ人にとっては、何が何だかであり、
また、
ある人々にとっては、既にそれがぼんやりながら見えており、
まさに”過ぎたるは及ばざるがごとし”であろう。
マインドによって、思考によって創られた
古臭く飽和した今までの地球幻想物語は、
どうすれば消し去ることができるだろうか?
期待され、噂される・・・
世界の大改革か?
諸悪人の懲罰か?
経済の崩壊と再生か?
いいや、違う、
それは全く同じ物語の再生でしかないのだ。
外の世界の改革、崩壊と再生の話ではない。
それぞれの<わたしの・・マインド>のリセットと再生である。
他人の・・マインドではない。
自分でしかできない・・ことである。
それは昔から「悟り」とか「解脱」と言われている。
マインドの荒波を鎮め、
より純粋意識に戻しつつ、
入れ替えに、
心底・・楽しいと感じるイメージで置き換えること
今まで繰り返された不都合な思考、マインドは、
なべ底の焦げのようにこびりついており、
それを洗い流すには、それなりの時がかかるものである。
ああ朋よ、そうではないか?
今はもう、時間がないというときに、
時間がかかる・・そんな時・・である。(笑)
・・・
解脱とは、中阿含経(初期の仏典)では、
あらゆる事象に執着せず、自らを解脱したと自覚せしめ、
自らこの世に生存している身でありながら、
世間における苦痛や生存に伴う、
老、病、死、そこから起こる憂い・悲しみ・喜怒哀楽から離れるとともに、
やすらぎのある世界(涅槃)を感得すること・・などと記されている。
どうすれば・いいのか?
まったく、どうもこうもない、他人に頼んでもだめだ。
自らの投影世界が、マインドで創られているならば、
マインドを鎮めることしかない。
霊的な気づきを得たとしても、あれこれと知識を集めることが続き、
そのマインドがいまだ静まっていないならば、気づくべきであろう。
どんな中にあっても・・静かに・・在ること、で、
ひずんだマインドをリセットしつつ、
いきおい、本来の純粋意識からあふれだしてくるもので、
マインドの展開模様が変わるさまを、そう、
驚愕とともに自らで・・・自らの変わるさまを、
自らで・・観ることができるだろう。
シナリヲ・マインドを変えること、
それ以外に、スクリーンの物語を変えることはできない。
映し出された世界、スクリーンの映像をかきむしっても無駄だ。
そうではないか?
そしてそれは、意識のごく一部、人間の顕在意識だけを言っている場合が多い。
潜在意識、さらに超意識という広大なそれに関しては、
単に概念でしか知っていないかもしれない。
あなたはどうだろうか?
したがって宇宙すべてが「意識」の表れであるとした場合、
わかったようでわからない状態にあるかもしれない。
動物に意識あり、植物に意識あり、鉱物に意識あり、とすれば、
『えー、そんなのあるの?』と感じるのは、
「意識」が”人間の意識”だけのイメージだからだ。
そうではないか?
動物までは、・・まあ、ある程度意識がある・・のはわかる。
人間の姿態に近いからだ。
あなたが犬や猫を飼っていればよくわかるだろう。
確かに意識があり、意図や好き嫌いもある(笑)。
でも、植物、鉱物・・つまり、存在形、物質形もふくめすべてに意識がある・・、
そう言うと、「なんだかな~」が・・正直なところだろう。
そうではないか?
なぜならば「意識」が”人間の意識”だけのイメージだからだ。
・・・
この世でいう「意識」あるいは人間的なマインドの働きは、
つまりそれは「狭義の」意識である。
普段、「意識」というのは、意識の表層のごく一部なのだ。
しかしながら、
海の表面の波は、海全体がなければ起きえないようなもの。
表層のごく一部ではあるが、確実に全てとつながっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/b8/0b7dcff1ed72d4ff69d15febe50fdfcb.jpg)
これは顕在意識と潜在(超)意識に相当する。
だから、普通の人の「意識」も、つまり狭義と言えども、
・・・無限の意識・・全体があるから生じている。
さらに、意識は物量、サイズなどでで分割されるものではないために、
部分の中に・・全体が含まれているのである。
ここは重要な気づきである!
部分の中に全体が含まれるはずがない・・!
そう考えるのは、悲しいかな唯物、物量、計算的思考の性(さが)なのだ。
何m?、何万円?、・・何kg?・・生活費どうする?(笑)
そんな世界で生まれて、先祖代々繰り返されては、
どんな利益がある?
効果のほどはいかがなものか?
結果が得られるの?
いつの間にかそういう思考・マインドに完全にはまるのも無理はない。
周りにいる人々がみな同じことを信じ込んでいれば尚更だ。
またそれを逸脱しようものなら、場合によって攻撃もされるような、
そんなカテゴリー世界にいたならば、
部分の中に、全体が含まれる!・・・、
有限と見える人間は、神的無限の存在だ!・・・
石も、岩も、植物も、動物も・・・
全体というひとつの・・根源の表現型である!
わたしは神である。
すべては・・つまり、ひとつである!
そういう「見解」にたどり着くことは難しい・・ということだった。
しかしながら、それは今までのこと。
神・意識は、すべての根源であり、
そこからマインド・こころが生じ、
その波動ですべてが創られている・・
わたしたちは・・本来、根源、
それなのである。
とはいえ、人々は、
「そうはいってもね~」、「この体がね~」
「現実は理想と違うからね~」等という、繰り返される「思考」によって、
繰り返し、繰り返し引き戻されてきた。
そうであるがゆえに、
その思考、想念によって、
特殊で、狭く、苦痛と快楽の味の濃い時間・空間、
お互いを傷つけあい、殺しあう特異な経験場、
輪廻転生しなければ、体がいくつあっても持たない世界、
強烈な不協和音に色づけされた感情波のあふれる世界、
まるで、幼年期のままの、
小さなカテゴリーの世界に幽閉されていたのだと・・・、
今はもう、気づけるはずである。
アセンションなどと言われる概念、
気づけぬ人にとっては、何が何だかであり、
また、
ある人々にとっては、既にそれがぼんやりながら見えており、
まさに”過ぎたるは及ばざるがごとし”であろう。
マインドによって、思考によって創られた
古臭く飽和した今までの地球幻想物語は、
どうすれば消し去ることができるだろうか?
期待され、噂される・・・
世界の大改革か?
諸悪人の懲罰か?
経済の崩壊と再生か?
いいや、違う、
それは全く同じ物語の再生でしかないのだ。
外の世界の改革、崩壊と再生の話ではない。
それぞれの<わたしの・・マインド>のリセットと再生である。
他人の・・マインドではない。
自分でしかできない・・ことである。
それは昔から「悟り」とか「解脱」と言われている。
マインドの荒波を鎮め、
より純粋意識に戻しつつ、
入れ替えに、
心底・・楽しいと感じるイメージで置き換えること
今まで繰り返された不都合な思考、マインドは、
なべ底の焦げのようにこびりついており、
それを洗い流すには、それなりの時がかかるものである。
ああ朋よ、そうではないか?
今はもう、時間がないというときに、
時間がかかる・・そんな時・・である。(笑)
・・・
解脱とは、中阿含経(初期の仏典)では、
あらゆる事象に執着せず、自らを解脱したと自覚せしめ、
自らこの世に生存している身でありながら、
世間における苦痛や生存に伴う、
老、病、死、そこから起こる憂い・悲しみ・喜怒哀楽から離れるとともに、
やすらぎのある世界(涅槃)を感得すること・・などと記されている。
どうすれば・いいのか?
まったく、どうもこうもない、他人に頼んでもだめだ。
自らの投影世界が、マインドで創られているならば、
マインドを鎮めることしかない。
霊的な気づきを得たとしても、あれこれと知識を集めることが続き、
そのマインドがいまだ静まっていないならば、気づくべきであろう。
どんな中にあっても・・静かに・・在ること、で、
ひずんだマインドをリセットしつつ、
いきおい、本来の純粋意識からあふれだしてくるもので、
マインドの展開模様が変わるさまを、そう、
驚愕とともに自らで・・・自らの変わるさまを、
自らで・・観ることができるだろう。
シナリヲ・マインドを変えること、
それ以外に、スクリーンの物語を変えることはできない。
映し出された世界、スクリーンの映像をかきむしっても無駄だ。
そうではないか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/5d/cc52595b8f51414dd4cb624cca031d0d.jpg)