人間は歴史において世界を<何とかしたい>と常に考えてきたわけであるが、
その理由は、改善されるべきは自分等ではなく、外の不完全な世界の方だと考えてきたからだろうか。
それは多分、外の世界が変われば、自分達も変われるのだという思考である。
環境が変わらなければ、人間は変われない・・・本当にそう信じ込んできたのだろうか。
環境、外の条件、物質レベルの物事に完全に依存している者、すなわち・・人間・・・・どこかそういう観念があったわけであろう。
それを突き詰めれば、
人間とは生物的肉体であり、それ以上の何者でもないという「認識」が故であったことだろう。
・・・確かに現状の肉体は物質レベルの諸物に依存している。
しかしながら、生物的肉体を含め、鉱物、植物、動物等あらゆる存在形態はこの地球という大きな存在の中の身体組織のようなものであり、
その地球の身体組織の一部を一時借り受けつつ、その世界における言わば体験学習をしているというのが真実なのである。
天と地と人という舞台設定において、自らを思い出す体験をしているもの、
言わば体験学習をしているそれを・・「魂」と言う。
どんなものにでも自己同化してその存在形態を体験できるところの「魂」の本来の身体というべきものは、その意識を体現したもの・・すなわち「意識体」ということになるだろうか。
意識体とは、魂意識の体現するボディーという意味であり、その選択するボディーのなかには、この地球上での肉体形態もまた存在するということである。
そう、そのようにして個別化した神としての体験用ボディーの1つが、この地球上の身体・肉体なのだ。
確かにそれは体験の為の仮の衣服のようなものである。
・・・・
どこかやはり宗教的なイメージがあるものの、あらゆる全ての根源を「神」とすれば、
いわゆる神は顕現する宇宙を、各次元、あるいは「各所」から観察するために、局所からの観察眼、あるいは「部分としての自己認識」をも用意しているということも言えるだろうか。
部分としての神の自己認識・・・それは神の個別化とも言うべきものだ。
まさに神々とはそういう存在であろう。
全体を認識する・・・、あるいは全体を観察するには、
一なる神の有り方すなわち、全体をそのもの全体として認識することのほかに、
個々の意識を有する人間のごとく、小さな小さな部分から全体を認識するやり方もあるということである。
小さな部分でありながら、全体を含む存在形態・・・
それは今現前するわたしであり、あなたなのである。
それこそが、人間は神の子、仏の子などと象徴的に言われる所以である。
それ自体に何も問題などありはしまい。
・・・・
しかしながら、それも全ては宇宙の自己認識にほかならず、
実のところは、あらゆる全てが神だということなのだ。
目覚めているあなた、そしてわたし達は、今、
人間という<部分>から、天・地・人を含む<全体>を俯瞰している立ち位置にあるわけだが、
その、部分から覗きつつ、世界を観ているものは当然ながら実は本源、根源、あるいは神なのである。
言わば神は、全体そのものであるが故に、その全体を別の視点である、「無限」にある「1小部分」からも観察していると言えるかもしれない。
宇宙、存在諸世界にあまねく存在する意識的存在、あるいは人間、あるいは生命は、悠久の進化途上にあると言われるが、
その意味は、自己という意識、自己認識を有するようになった生命体は、
部分から全体にその観察範囲、気づきの範囲を拡大してゆく途上にあるということであり、
それは神自らの無限に生じた部分からの自己観想、自己観察と言えるだろう。
それは大勢の神が参加した、言わば壮大な遊びとも言えるかもしれない。
「一」が無限に現われ、それは「多」となって、分化あるいは次元降下し、
そこから意識が目覚め、あるいは芽生え、あたかも子供が成長するかのように、自らの顕現である大いなる宇宙・存在諸形態を観察する目を獲得しつつ、
体験経験を通じて、次第に大いなる自己への認識に至りながら、
<一>から分化した無数の<多>が次元上昇して、ユニティすなわち<一>となる。
それを意識進化と言っているのだろう。
時間も空間も、他の星の世界も、あるいは多次元世界も並行世界も、その為の様々な舞台設定のようなものであろうか。
存在諸世界のあらゆる生命形態、あるいは我々の認識レベルから言うところのあらゆる物質・非物質レベルの顕現形態も、
一なる神の、自らの分化した者たちであり、すなわち、一なる神の「分け御魂」なのである。
この時空における、我々の肉体・身体は、
実に地球という、これまた巨大な意識体の舞台設定、物質顕現の一部の借り受けのようなものなのだ。
そういう意味でも、確かに肉体は、<わたし>自体ではないし、肉体は<あなた>自体でもない。
確かに実際我々は、何も所有してなどいないし、また本来特殊な何者でもないし、全ては仮のもの、借り物ということだ。
一体ぜんたい、何に執着することがあろうか。
与えられた魂の為の人生を、
その時その時で、最も大切なものを感じる方向に歩き続け、
真摯に、そして精一杯生きてゆくことだけで良いはずである。
最も大切なものを感じる方向に歩き続ければ、
やがて確実に道が見えてくる。
・・・
何も難しい話でもない。
高等数学も不要であろう。
どんな競争も必要なわけもない。
お金を貯めこむこと等どんな関係もない。
一時の虚栄の地位や名誉がどんな役に立つのか。
生存の為の必死の形相など、全くお門違いだろう。
誰か、何か、外へ依存するようなことも何か違うことだろう。
それが日常的であっても、たとえ宇宙的なことであっても・・。
それらへの執着は意味がないどころか、いわゆるカルマを生み出す要因となる。
また、カルマをオドロオドロしくとらえる必要も無く、それは、ただそれに気付くまでの試行錯誤のプロセス、あるいは起き上がりこぼしのような不屈・不動をその旨とした恩寵の仕組みなのである。
また気付けば、それすらも、もうどうでも良いことではないだろうか。
意識の進化とは、
拡大しつづける自己、すなわち神の分け御魂としての自らの再発見であり、
嬉しくて、面白くて、楽しき存在であること・・・自体がその道にある証である。
自分を発見してゆくことの面白さ・楽しさは、
夜の暮れるのも忘れ、泥んこになって遊んだ、あの疲れ知らずの
子供の時代に既に体験し、そして知っていることである。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。