気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

意識進化

2012-05-27 11:54:22 | 覚醒意識

人間は歴史において世界を<何とかしたい>と常に考えてきたわけであるが、

 

その理由は、改善されるべきは自分等ではなく、外の不完全な世界の方だと考えてきたからだろうか。

 

それは多分、外の世界が変われば、自分達も変われるのだという思考である。

 

環境が変わらなければ、人間は変われない・・・本当にそう信じ込んできたのだろうか。

 

環境、外の条件、物質レベルの物事に完全に依存している者、すなわち・・人間・・・・どこかそういう観念があったわけであろう。

 

それを突き詰めれば、

 

人間とは生物的肉体であり、それ以上の何者でもないという「認識」が故であったことだろう。

 

・・・確かに現状の肉体は物質レベルの諸物に依存している。

 

しかしながら、生物的肉体を含め、鉱物、植物、動物等あらゆる存在形態はこの地球という大きな存在の中の身体組織のようなものであり、

 

その地球の身体組織の一部を一時借り受けつつ、その世界における言わば体験学習をしているというのが真実なのである。

 

天と地と人という舞台設定において、自らを思い出す体験をしているもの、

 

言わば体験学習をしているそれを・・「魂」と言う。

 

どんなものにでも自己同化してその存在形態を体験できるところの「魂」の本来の身体というべきものは、その意識を体現したもの・・すなわち「意識体」ということになるだろうか。

 

意識体とは、魂意識の体現するボディーという意味であり、その選択するボディーのなかには、この地球上での肉体形態もまた存在するということである。

 

そう、そのようにして個別化した神としての体験用ボディーの1つが、この地球上の身体・肉体なのだ。

 

確かにそれは体験の為の仮の衣服のようなものである。

 

・・・・

 

どこかやはり宗教的なイメージがあるものの、あらゆる全ての根源を「神」とすれば、

  

いわゆる神は顕現する宇宙を、各次元、あるいは「各所」から観察するために、局所からの観察眼、あるいは「部分としての自己認識」をも用意しているということも言えるだろうか。

 

部分としての神の自己認識・・・それは神の個別化とも言うべきものだ。

  

まさに神々とはそういう存在であろう。

 

全体を認識する・・・、あるいは全体を観察するには、

 

一なる神の有り方すなわち、全体をそのもの全体として認識することのほかに、

 

個々の意識を有する人間のごとく、小さな小さな部分から全体を認識するやり方もあるということである。

 

小さな部分でありながら、全体を含む存在形態・・・

 

それは今現前するわたしであり、あなたなのである。

 

それこそが、人間は神の子、仏の子などと象徴的に言われる所以である。

 

それ自体に何も問題などありはしまい。

 

・・・・

 

しかしながら、それも全ては宇宙の自己認識にほかならず、

 

実のところは、あらゆる全てが神だということなのだ。

 

目覚めているあなた、そしてわたし達は、今、

 

人間という<部分>から、天・地・人を含む<全体>を俯瞰している立ち位置にあるわけだが、

 

その、部分から覗きつつ、世界を観ているものは当然ながら実は本源、根源、あるいは神なのである。

 

言わば神は、全体そのものであるが故に、その全体を別の視点である、「無限」にある「1小部分」からも観察していると言えるかもしれない。

 

宇宙、存在諸世界にあまねく存在する意識的存在、あるいは人間、あるいは生命は、悠久の進化途上にあると言われるが、

 

その意味は、自己という意識、自己認識を有するようになった生命体は、

 

部分から全体にその観察範囲、気づきの範囲を拡大してゆく途上にあるということであり、

 

それは神自らの無限に生じた部分からの自己観想、自己観察と言えるだろう。

 

それは大勢の神が参加した、言わば壮大な遊びとも言えるかもしれない。

 

「一」が無限に現われ、それは「多」となって、分化あるいは次元降下し、

 

そこから意識が目覚め、あるいは芽生え、あたかも子供が成長するかのように、自らの顕現である大いなる宇宙・存在諸形態を観察する目を獲得しつつ、

 

体験経験を通じて、次第に大いなる自己への認識に至りながら、

 

<一>から分化した無数の<多>が次元上昇して、ユニティすなわち<一>となる。

 

それを意識進化と言っているのだろう。

 

時間も空間も、他の星の世界も、あるいは多次元世界も並行世界も、その為の様々な舞台設定のようなものであろうか。

  

存在諸世界のあらゆる生命形態、あるいは我々の認識レベルから言うところのあらゆる物質・非物質レベルの顕現形態も、

 

一なる神の、自らの分化した者たちであり、すなわち、一なる神の「分け御魂」なのである。

 

この時空における、我々の肉体・身体は、

 

実に地球という、これまた巨大な意識体の舞台設定、物質顕現の一部の借り受けのようなものなのだ。

 

そういう意味でも、確かに肉体は、<わたし>自体ではないし、肉体は<あなた>自体でもない。

 

確かに実際我々は、何も所有してなどいないし、また本来特殊な何者でもないし、全ては仮のもの、借り物ということだ。

 

一体ぜんたい、何に執着することがあろうか。

 

与えられた魂の為の人生を、

 

その時その時で、最も大切なものを感じる方向に歩き続け、

 

真摯に、そして精一杯生きてゆくことだけで良いはずである。

 

最も大切なものを感じる方向に歩き続ければ、

 

やがて確実に道が見えてくる。

 

・・・

   

何も難しい話でもない。

 

高等数学も不要であろう。

 

どんな競争も必要なわけもない。

 

お金を貯めこむこと等どんな関係もない。

 

一時の虚栄の地位や名誉がどんな役に立つのか。

 

生存の為の必死の形相など、全くお門違いだろう。

 

誰か、何か、外へ依存するようなことも何か違うことだろう。

 

それが日常的であっても、たとえ宇宙的なことであっても・・。

 

 

それらへの執着は意味がないどころか、いわゆるカルマを生み出す要因となる。

 

また、カルマをオドロオドロしくとらえる必要も無く、それは、ただそれに気付くまでの試行錯誤のプロセス、あるいは起き上がりこぼしのような不屈・不動をその旨とした恩寵の仕組みなのである。

 

また気付けば、それすらも、もうどうでも良いことではないだろうか。

 

意識の進化とは、

  

拡大しつづける自己、すなわち神の分け御魂としての自らの再発見であり、

 

嬉しくて、面白くて、楽しき存在であること・・・自体がその道にある証である。

 

 

自分を発見してゆくことの面白さ・楽しさは、

 

夜の暮れるのも忘れ、泥んこになって遊んだ、あの疲れ知らずの

 

子供の時代に既に体験し、そして知っていることである。

 

 

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人間すなわち神の自己同化

2012-05-20 10:17:42 | 覚醒意識

人間は今、最も根本的なところから考え直さなければならない時期に来ているようである。

 

気付けば、もうそんなに時間が残されていないような、そんな切迫感を感じないではいられない。

 

人類はずいぶんと惰眠をむさぼってきたのかもしれない。

 

そろそろ目覚める時期にあることだけはまず確かであろう。

 

あなたはどう感じるだろうか。

 

・・・ 

全ての社会的、経済的なことも含め、その大元にある、

 

「人間とは何か」というテーマに関して、

 

古い価値観からの大きな転換が必要な時期にきていると考えられる。

 

・・・

我々は気付かない間に、人間とは何か?という問いかけと、それに対するその時々の回答や考えにそった形で、社会を造っていることに気づいているだろうか。

 

意識的か無意識的かに関わらず、人類の総合された価値観念、集合意識によって今までの文明・文化が創られていることに気付けるだろうか。

 

今までの、「人間とは何か?」というテーマに対する人類の平均的な自己認識とはどういうものだったのかは、もうすでに理解可能であろう。

 

平均的な自己感、自己認識とは、・・簡単に言えば、

--人間とは社会的動物である。

--あるいは有機的な肉体存在である。

--あるいは思推する理知的動物である。

・・・というような自己認識ではなかろうか。違うだろうか。

 

いかにも教科書的でもあるし、常識的でもあるし、誰でも違和感がないかもしれない。

 

また、誰に話しても変な目で見られることはないに違いない。

 

実は、これはどこか旧態以前たる唯物史観的な観念から来ているのであるが、それになかなか気づけないかもしれない。

 

要は、人間とは物質レベルの存在でしかない・・という「思考」である。

・・・

それが当たり前、という潜在的観念であるとも言えるのだが、それが「観念」であるということに気付くことはもう出来るはずである。

 

科学的な解釈とは言いつつも、それは「解釈」であり、人間の観念、思考でしかないというパラドクスに気付けるだろう。

  

人間とは、自己を定義すること、即ち「自己認識する」ことが可能な存在そのものであり、それを可能にするのは、思考・認識の働きである。

 

認識は「思考」あるいは「そう想うこと」 によっているはずであるが、その想いの中に既に唯物的な観念が入っていたということである。

 

これが正しいのでこれを信じなさい・・という思考を素直に受け入れるのが教育であると思ってきたわけである。

 

「思考」は肉体と異なる形態のものであり、それが自由自在であることは理解可能であるが、いつの間にか、自分が肉体でしかない・・と感じるような思考・刷り込みが入っていたということである。

 

また思考、想念は「頭脳」の中で生じていると<考える>ことで、思考そのものも結局は物質的生産物でしかない・・という漠然とした理解を得ていたわけである。

 

デカルトやカントのように、思推する働き自体の特異性に気付いた存在もいたが、

 

歴史上進んできた人体の科学的な解釈によって?、

 

思考は脳内の神経細胞間のインパルスによって生じているとされているし、

 

そうであればこそ、

 

「思考」も肉体・頭脳によっているからには、やはり人間は肉体存在である・・

と考えてきたのかもしれない。

 

しかしながら、多分デカルトはそんなことは言っていないだろう。

 

・・・・

 

人間は肉体的存在でしかない・・?

 

本当にそうだろうか?

 

・・・ここが肝心なところである。

 

まず、肉体に関して普通に思推してみるとどうなるだろう。

 

---- 

最近の物理学的、あるいは量子力学的解釈では、「物質」は波動で出来ているとされている。

 

ミクロの一定レベルでは、電子などの粒子性と波動性の2面性が観測されるものの、粒子性すなわち個体的な塊も、波動の局所的な集中を言っているにすぎず、根本的には物質なるものは「波動」と考えられるわけである。

 

様々な種類の原子核も電磁波というものを放出して別の原子核に変移するわけであり、

 

これは、波動の重合、塊が、波動を放出して別の波動の重合形態に遷移するという解釈が出来るのである。

 

核汚染に関わる放射性物質も、原子核が電磁波を放散しながらエネルギーを放出し、別の原子核に遷移することを意味している。

 

これは、局所に集中した「波動」が部分的に放出されることで、別の局所的集中形態に遷移することを言っている。

・・・・

 

すなわち肉体を構成する物質なるものは、電磁波を代表とする波動の様々な重合、集合と解釈するのが自然なのである。

 

我々は原子核レベルの知覚生活は行っていないものの、そもそもの基本は波動の中で生きているということである。

 

見ることは光という波動の検知であり、聞くということは音波の検知であり、味覚、触覚は異なる物質・粒子の間の振動の検知ということだ。

 

人間の肉体の構成についての大元の解釈を言えば、それはつまるところ波動であるということである。

 

すなわち、我々の肉体はつまるところ、「波動」であると<解釈>できるのだ。

・・・

 

ここまで、若干科学的な物言いで、長々と述べてきたわけであるが、

 

自分が肉体であるとか、その肉体が物質であるとか、物質が粒子であるとか、元は波動であるとかは関係がない。

  

証拠があるとか数式で表せるとか、そういうことは実は関係がない。

 

・・・ 

 

そう、

 

ふと気づけば、

 

それが科学的であろうと、宗教的であろうと、何であろうと、

 

人間は自分が肉体そのものであると漠然と思いつつ、

 

実のところは、科学的観測、すなわち観察という行為によって、

 

人間の肉体の・・解釈をしている・・存在であるともいえるだろう。

 

つまり、人間は人間の肉体そのものを<対象>として認識しているということである。

 

つまり、

 

物質や肉体は、わたしの・・・「観察対象」であるということである。

 

人間がいわゆる唯物的な思考によって<自分は肉体である>と、漠然と信じ込んでいたわけであるが、

 

それはつまり、

 

自己  「観察対象」そのものに、自分自身を<自己同化>していたということなのだ。

 

人間は<自己認識>という働きそのものによって、その時々の自分を漠然と規定していることに気付けるだろう。

 

それが世間的常識や歴史上の観念推移での刷り込みであろうとなかろうと、

 

それをそうだと認識してきたことには違いがないのだ。

 

   I am that I AM.

 

   わたしは「・・・・」であるところの存在である。

 

「・・・・」のところに、今までは例えば、<動物>や<肉体>、あるいは<深刻>、<貧しさ>・・・等などを「代入」してきたのだと言えるかもしれない。

 

自分がそうだと信じ込んでいれば、まさにそれを造り出すということだ。

 

進化とは、自己認識・・すなわち「・・・」が次第に拡大してゆくことである。

 

自己を認識することは、即ちまた、

 

無限という名の宇宙というものを創造しつつ、変化しつつ、あらゆることを知ろうとする全体、あるいは究極の一、あるいは永遠不滅な意識、神なる創造意識と同質であることに気付けるだろうか。

 

そうだとすれば、

 

一体ぜんたい何が問題なのか?

 

何を恐れることがあるのか?

 

何を深刻に考えているのか?

 

今やるべきは、多分・・・まず、

 

こころの底から大笑いすることである。

 

そう、

 

笑っているものは・・・いわゆるところの神なのだ。

 

あるいはそれは、

 

人間に自己同化しているいわゆる創造主の笑いと感じないだろうか?

 

実のところは、宇宙、存在諸世界は驚天動地の<嬉しさ・楽しさ>のために・・・そこに在るのだ。

 

 

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執着を捨てるべし

2012-05-13 09:51:19 | 宇宙時代の考え方

今、人間のやるべきことはいったいなんだろうか。

 

それが「目覚めること」であるならば、やるべきことは一体なんだろうか。

 

・・・

それは、

 

ある意味で、「深刻さ」の全てを潔く、捨て去ることである。

 

・・・

 

深刻に思えること、深刻に見えること、深刻な人間関係、深刻な社会状況、深刻な世界の様相・・・・

 

そういう世間的な歪んだ価値観念を見破り、さっさと捨て去ることである。

 

深刻さを無理に大切にするならば、

 

・・・

 

あー、困った困った・・どうすればいいのか・・

 

あー弱った弱った・・何とかしなければ・・・

 

どうして親はあーなんだろうか・・、

 

どうして子はこーなんだろうか・・

 

どうして彼や彼女はあんな風なんだろうか。

 

・・・

どうして生活が苦しいのか、

 

だから、どうしてもリッチになりたい、

 

どうして世間は愚かなのだろうか、

 

どうして世界は無知と汚濁に満ちているのだろうか、・・

 

・・・

ダメだ、これは何とかしなければ・・何かがどうにかならなければ・・

 

そうだ、改革だ・・革命が必要だ・・!

 

この・・汚れきった世界をばら色に変えなければならない!

 

あー、いやこの世界が滅ばなければ不幸に終わりが来ない・・。

 

 

・・・等ということになるかもしれない。

 

真面目な人々は、どこかそういう風に考えているのかもしれない。

 

多分あなたにも、どこかそういう観念があるかもしれない。

 

いわゆる真面目な人ほど、ことほど左様に深刻に世界をとらえているかもしれないということだ。

 

そういう人は、身近なところでも、拡大された世界でも、様々な確執と無理解に取り巻かれていると感じているかもしれない。

 

たとえそれが経済社会、人間関係、あるいは例えばスピリチュアルな観点であろうと、いつもいつも、そういう当たり前のような「深刻さ」があるかもしれないということだ。

 

その深刻さは、一体どこから来ているのか?

 

・・・

例えば、

 

深刻な孤独を解決するために、理想の男女を探し求め、

 

国の深刻な政治状況を改善するために、黄門様のような政治家を探し求め、

 

世界の混乱に満ちた有様を終わらせるリーダーや体制を期待しつづけ、

 

あるいは、地球上の深刻さを解消するために、昨今は宇宙に救いを求めるような人もいるだろうか。

 

気付けばこの世は、なぜかそのような、改善されなければならない深刻さに満ち満ちているようではないか・・

 

そして、そういう深刻さが、さも当たり前とされているようでもある。

 

そうしていつも外に救いを求めてはいないだろうか。

 

多分あなたもそれに気付けるだろう。

 

・・・ 

しかしながら、

 

そのような、あらゆる克服すべき深刻さを、さも真実であると勘違いしていることに気付かなければならないのだ。

 

そうして、世界を「深刻さ」からとらえているそういう観念によって、

 

また大勢の人々の想念によってその「深刻さ」を拡大再生産していることに気付かなければならない。

 

・・・

 

繰り返し言えることは、外にあると見える深刻さは、

 

あなたの内面に映し出されているものに相違ないのだ。

 

外にあるもの、社会の様相、すなわち集合した人間達の思考や行為や出来事は、善も無く、悪も無く、

 

それはそれで<あるがまま>なのであり、

 

それに対する認識としての「深刻さ」や「悩み」は、あなたやわたし達という「意識」によって映し出されているということである。

 

 ・・・ 

例えば、子供たちが公園で泥んこになって遊びまわっている姿を観て、やつらは馬鹿な遊びをしていると嘲笑するはずもないだろう。

 

カラスが1匹空を飛んでいても、それを孤独でかわいそうな奴よと涙を流すことはあるまい。

 

蟻達が何かをせっせと運んでいるのを見て、必死で働いている哀れな生き物として同情する人はいない。

 

あなたが見に行った映画が、自分の都合と違うと言って癇癪を起し、スクリーンに石を投げつけることはしないだろう。

・・・

 

つまるところは、

 

いつの間にか、全てに<良し・悪し>のジャッジを加え、

 

良いと思えば快さを感じ、

 

悪いと思えば不快に感じ、

 

あげくに、その不快さが集積されて「深刻」さになってしまうのである。

 

・・・

外に映し出される有様に対して、

 

あくまでも世俗的な価値観を加えて裁断し続けている限りは、

 

不都合や深刻さが残りつづけ、それに眼を奪われることに終始し、

 

その原因である世俗的な善悪・二元性の価値観の奴隷となっていることに気付けないかもしれない。

 

自らが無意識に選択しつつ、

 

深刻さに満ちた古い価値観、想念の塊、観念の檻の中にいるにもかかわらず、

 

そこから必死で出ようとしていることの可笑しさに気付けるだろうか。

 

・・・

 

大勢の深刻な価値観の投影されたものが、

 

すなわち共通現実としての、この「深刻」な世界であり、

 

これを嫌悪しながらも、あろうことか、その因となっている共通信念を保持し続け、

 

それによって深刻さが繰り返し投影されているような、

 

そういう自らの落ち込んだパラドックスに気付かなければならないということである。

 

あれは良くて、これは悪い・・・・というような二元的な観念こそが、

 

あれは良くてこれは悪い、という現象を再生産しているということである。

 

大勢の人間達が、深刻に認識していることで、・・深刻さが現象として投影されているということだ。

 

世界の騒ぎは、単にこの深刻さのマクロ的な投影の結果なのである。

 

そういう世界は、いつかその騒ぎの頂点に行きつき、それを終わらせなければならない羽目に陥るのもまた自然の成り行きであろう。

 

なぜならば、大自然は本来変化し続ける<あるがまま>であり、

 

いわば人類の執拗なまでの<わがまま>はそれと調和しない有り方であり、

 

そうであるからこそ、いわば文明そのものが自然から脱輪して外れてしまうことになるのも、また当然の成り行きであるということだ。

 

あるいは、それを期待して待っているというのも、また筋違いと言えよう。

 

 ・・・

人の周囲はあたかもダイナミックな立体スクリーンのようであり、

 

その立体映像は、その人の観念によってフィルタリングされ投影されている。

 

その集合が我々の世界という、マクロな立体スクリーンなのである。

 

我々の周囲、立体スクリーンというべき時空は、

 

科学でいうところのミクロな量子場、即ち可能性の海によって構成されており、

 

その量子場を様々な現象として顕現せしめている、

 

その根源にあるのが「意識」なのである。

 

我々が人として在るというこの現実は、すなわち意識的存在として在るという真実にほかならず、

 

自らの「意識」によって、自らを創造しているということだ。

 

「認識」「思考」という働きは「意識」によって行われる、言わばシナリオライティング作用であり、

 

そのシナリオによって周囲の時空が変調されているとも言えるのである。

 

簡単に言えばあなたの世界に、あなたの「こころ」というフィルムが投影されているのである。

 

世間というひとくくりによって、人々は古く重たい価値観念、共通認識によって、

 

その無限の可能性に、極めて小さいの枷(かせ)をはめられつつ、不自由極まりない、深刻な投影内容に終始していることに気付けるだろうか。

 

人を縛っているかもしれないのは他者の支配ではなく、当のその人の「意識」に他ならない。

 

あなたは未だ、外の誰かを悪者だと信じ込んでいるのだろうか。

 

また誰かに都合よく支配してもらいたいのだろうか。

 

・・・

 

さまざまな深刻といわれる状況は、あなたやわたし達の眼で見える現実ではなく、そういう風に思いこんでいる「観念」からきているのである。

 

ここちよい風が吹こうと、

 

時には嵐が吹き荒れようと、

 

太陽が毎朝空に上ろうと、

 

春には春の花が咲き乱れようと、

 

雲がその形を千変万化に変えようと、

 

時には黒雲が厚く垂れ下がろうと、

・・・

それも自然のあるがままなのであり、

 

その中にいる人間も本来あるがままであり、

 

その中に、感情的ともいえる善悪の裁断によって生じる、

 

様々な「深刻さ」を無理やり持ちこむ愚かさにこそ気付かなければならないのだ。

・・・ 

その為に人の行うべきは、自らの世界の因たる「こころ」に気づき、「こころ」を観察し、「こころ」の働きを統御することである。

 

我々は今まで外の何かが良いとか悪いとか考え、また信じ込み、

 

結局は自らのこころに振り回されてきたのだ。

 

そうしてそれを外の何か、誰かのせいにしてきたのかもしれない。

・・・

 

自らの意識の作用、こころは、自らの立体スクリーンのシナリオライターであり、

 

言葉を変えれば、

 

意識的存在たる人間は、意識的・無意識的にかかわらず、自らの時空を構成する量子場に、その顕現の為の仕様を与えているのである。

 

簡単に言えば、

 

信じていること、思いこんでいること、実感していることに従って、その通りの時空周囲が顕現しているということである。

 

深刻さばかりの創造は、実はもうどうでも良いはずである。

・・・

 

眉間に皺を寄せ、

 

陰謀に怯え、

 

苦しいことを耐え忍び、

 

ある時は騙され、

 

ある時は騙し合い、

 

苦悶の表情を真摯な姿と見間違え、

 

それでも頑張ることが美徳とされるような、

 

人類の深刻さの演出は、もう十分に過ぎたのだ。

 

深刻さに対する執拗なまでの執着は、度が過ぎ、またおバカすぎたようでもあり、それこそ心の底から笑えるだろう。

 

そもそも本来、楽しくなければ、宇宙など出現しないではないか。

 

 

もう、深刻さの遊びから卒業し、

 

本来の「楽しさ」を探し出す遊びの時代になったということである。

 

それがいわゆる巷で言われるアセンションと言ってもいいだろう。

 

あらゆる深刻さへの執着を、今、全て、内から捨て去るべきなのだ。

 

その捨てるべき執着は・・・あなたやわたし達のマインド、こころのなかにある。

 

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生かされている真実

2012-05-08 07:37:37 | 宇宙時代の考え方

我々には皆、身体というものがある。

 

殊更意識しなくとも誰でもわかっていることだ。

 

あなたやわたしの肉体は、全てこの地球の土、水、植物、あるいは動物などの組成を取り込んで構成されている。

 

頭、胴体、手足、筋肉、骨、内臓、神経、リンパ等の各機能組織は、何十兆ともいわれる細胞で出来ている。

 

細胞はまた分子で構成され、分子は原子の重合で出来ている。

 

それら分子・原子の数を言いだせば、またそれらを構成する素粒子・クオークの数を言いだせば、天文学的なもの以上になるだろう。

 

それらはまさに、存在宇宙の星々の数と比肩できると言って良いはずだ。

 

それら無数の細微細にわたる要素のすべてが、完全に調和しながら自らを生命として維持している。

 

これが我々の大切に思っているところの身体であり、その全ては自然の中で生成・維持されているのである。

 

誰も皆「意識して」食物を消化・吸収し、細胞組織への変換を行っているのではない。

 

誰も皆、ここでこの程度消化し、この程度細胞変換し、この程度排出せよ・・等とは言わない。

 

全ては自然・生態系のなかで完全に自動化されている。

 

・・・

これを妥当に表現すれば、

 

我々は自然のなかで生かされているということになる。

 

我々生命が地球によって生かされている・・・というのは詩的な感情論等ではなく、

 

まごうことのない事実なのである。

 

 ・・・

 

またそれらの全ての元に在るのは、太陽の光あるいはエネルギーである。

 

太陽のエネルギーが無ければ、地球も惑星も生命的存在を維持することが出来ない。

 

まさに太陽、そして地球によって我々の身体は構成され、維持されているのである。

 

我々の身体は当然ながら、そういう宇宙・大自然によって造られて・維持されて在る・・というのが真実である。

 

すなわち、

 

我々は皆、全てによって・・生かされている・・ということである。

 

現代の人々はこの事実を忘れ、必死で孤軍奮闘しなければならないというような、極めて視野の狭い観念によって突き動かされ、経済社会、生存競争というある意味でのバトルフィールドを造ってきたのだろうか。

 

しかしながら、

 

我々が存在しているこの宇宙・自然界が競争しているのだろうか?

 

各部分部分がぶつかり合って、潰しあいながら、適者生存しているのだろうか?

 

いいや、全くそうではない。

 

・・・もしそうならば、

 

あなたやわたし達の身体は、一瞬たりとも生存出来ないことだろう。

 

もしそうならば、

 

それは無数の細胞が細胞と競争し、食いあい、潰しあうことになるはずだ。

 

人間の体と言わず、動物、植物、鉱物を含む、あらゆるものが一瞬たりともその生存すらできないはずだ。

 

眼に見え、耳に聞こえ、肌で感じるこの世界は、完全なる調和によって維持されていることがわかるだろう。

 

宇宙・大自然の元にあるのは<調和>なのである。

 

古代の民、各地域の先住民族達は、それを知っていた。

 

ある意味で西欧的物質文明は、それすらも知らなかった。

 

・・・ 

 

自然界の循環のなかの捕食という一部を、感情的に捉え、それを恐怖で色づけし、世界は食うか食われるかというような極めて偏狭な思考がはびこってきたのだろう。

 

ダーウインは多分そんなことは言っていない。

 

地球の動物生態系は捕食によって循環しているわけだが、それらは生態系の分子・原子レベルでの形態変換であり、物質レベルでの重合・離散を通じての地球のいわば新陳代謝とも言えるのだ。

 

あらゆる分子・原子は地球の細胞のようなものであり、それが循環し、鉱物となり、植物となり、動物となり、一部は大気中の分子となり、雨となり水となり、壮大に、微細に循環しながらこの大自然を造り上げている。

 

それがあなたやわたし達の身体をも造り上げ、維持しているのである。

 

経済・社会がどうであろうと、人間社会の都合がどうだろうと、我々はこの地球という生態系、そして宇宙という無限の調和に満ちた世界に、

 

そう、  ・・・生かされているのだ。

 

それを言いかえれば、慈愛と言えるかもしれない。

 

それも、無条件の愛と言えるかもしれない。

 

これが我々人間を含めた全ての生命の基本中の基本である。

 

  

この真実に心底気付くことが、意識的存在である人間の役目といえるだろう。

 

地球を、宇宙を、その有り方を理解、感得するためにこそ、それに気づける意識体としての人間がこの地球にいると言ってもいいだろう。

 

人間の相当に近視眼的な生命観でもって相互のバトルを演じるなど、愚か極まりない仕儀とわかるだろう。

 

悠久で壮大な自然界の循環の中において、人間の手前勝手な恐怖感や自己存続のみを主張し、騒ぎまくるような文化・文明はもう終焉を迎えている。

 

あなたも既に気付いていることだろう。

 

 

嗚呼、

 

天なる父、・・・母なる大地とは、・・・まさにその通りである。

 

皆が皆生かし合ってるのが本然の世界であったのだ。

 

 

人類は一時の長い眠りから、・・・今・・目覚めてかけている。

 

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