臨死体験で起きる「ライフレビュー」というものがある。
死んだあと、あるいはその境目にあって、自分の人生を振り返るプロセスがあることが知られている。
ライフレビューでは、文字通り人生を一瞬のうちに振り返り、自己の想いや行為、そしてそれが他者に与えた影響までも、そこに浮かびあがることになる。
それは「魂・意識」そのものの自己認識であって、誤魔化し隠れる「物」「観念」などどこにも無く、逃げも隠れも出来ない、自己自身の自己直視が起きるということだ。
また、ライフレビューとは、後悔とか、そういうストイックでどこか自虐的な「反省」というものではなく、
人生で何を学んだかという、ある意味で質的な、厳密とも言える「霊的進化の自己確認」であるとも言えようか。
そこに後悔や悲しみ懺悔等という、個人中心のいわゆるエゴ的な、世間体で尤もらしい感覚の感情論はない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/1e/171a275427e9872e7b5bf4efd368ea48.jpg)
何処か宗教的な意味合いと感じられようが、それを簡単に言うならば、
如何に人生で・・「愛」や「慈悲」、「調和」に気付き、
またそれを想いや、言葉や、行為で表現出来たろうか?・・・という自己評価とも言えるだろう。
なぜならば、存在諸世界は「それ」で創造されているからである。
人生においては、
喧嘩したり、争ったり、騙したり、あるいは逃げ隠れしたり、無知のぬるま湯で終生すごすなど、
実際のところ、そんな暇はないのだ。
また他が良いとか悪いとか、原因だとか・・・そんなことは全く見当違いなのである。
今までのこの世界のような、競争やせめぎあいでの進化?など、最も外れた観念、閑念だ。
天網恢恢疎にして洩らさず・・・・と言うことわざがあるが、
宇宙的な法則から外れたシステムは長く維持することは出来るわけもない。
それは本質的に・・・楽しくないからである。
誤解なく理解すべきことは、
<本質的な意味>で・・・楽しい在り方・・・それが本道であり、また調和と進化の目安なのだ。
全ての物、生物、現象も、いわゆる創造神、根源意識、あるいはサムシング・グレートの自己表現であり、したがって全てはその神なる自己へと回帰している、あるいはつながっている。
全体そのものが、あらゆる部分に、それ自体が畳み込まれているということ・・・。
またそれを、「一」はすなわち「多」なり、また「多」はすなわちひとつなり、
・・・あるいはオール・イン・ワンネス、また「全ては愛」と言うのは、
それであらゆるものがつながっていることを意味しているのである。
なかなか気付かないけれども、あなたも「神」だということ。
本来・・・楽しくない・・わけがないではないか!
あなたであると意識している<意識主体>は、
世界において「あなた」しかいない・・・極めて当たり前の事実を直視すべきであろう。
「われ・・在り」は形を変えようとも、常に永遠に・・・今在る・・・
幾多の人生は、そして今の人生も、まさにその証拠である。
本質的な意味で・・・楽しい人生・・・それが本道にあることの目安だ。
ここがちょっと辛いと感じるかもしれないのだが、
それは、自らを・・・自らで・・・創ってゆくことであり、安易に誰かに与えられるものでもないということでもある。ましてや、お金を出して得られる貰える、浮ついた快楽や安穏さは、確かに単なる商品でしかないということだ。
------------
「臨死体験 9つの証拠」156ページより
・・・
紹介するのはマークという若い男性のライフ・レビューだ。彼はタホ湖近くをジープでドライブ中、雪道で滑って電柱に激突した。そして車と電柱の間で押しつぶされ、重傷を負った。
このひどい事故のせいで本格的な臨死体験をしたが、それには本書の冒頭で述べたほとんどの特徴が含まれている。その中のひとつが、完全なライフ・レビューである。
たとえばマークは、彼の人生で実際に合った出来事を、まるで映画の一場面のように見ている。自分のライフ・レビューについて語るとき、臨死体験者の多くが映画という表現を使っている。奇妙な夢のようなものとは違い、彼は自分の再体験に感情移入している。
当たり前のようだが、自分の気持ちだけではなく、ほかの人がどう感じたのかまで知ることが出来るのだ。また彼は、自分の人生や人間の一生というものについて、いくつかの真理にたどり着いている。
臨死体験を通した自己認識のおかげで、彼は残りの人生で自分が変わるための指針を手に入れた。アンケートにはこう書かれている。
「全ての人生は死で終わる。恐れることはない。『死は最高の冒険だ』と言ったのは、ピーターパンだったろうか?誰もがこの旅に出かける。死が訪れたら、恐れずに楽しもう」
以下はマークのライフ・レビューだ。
・・・
[ どんなふうに始まったのかはっきりしないが、いわゆる「人生が走馬灯のように駆け巡る」とか、「ライフ・レビュー」とか呼ばれているようなことが自分に起こっていた。人生でやってきたさまざまなことについて、自分の感情を再び経験するだけでなく、周囲の人々の感情までも経験するのだ。いちばん衝撃的だったのが、母の感情だ。
子供のとき養子になったぼくは、ちょっとした問題児だった。少年時代はほかの子に暴力をふるい、ドラッグやアルコールに溺れ、盗みをし、めちゃくちゃに車を乗り回し、成績も悪く、物を壊し、妹や動物を虐待した。問題行動を並べだすときりがないほどだ。
要するに、こうした出来事全てを体験し、自分や周囲の人間の感情も体感したのだ。
だが、もっとも心に残ったのは、思ってもみなかった母の感情だった。彼女は、ぼくの死を知って深い悲しみに打ちのめされたが、息子がいざこざばかり起こしてきたことに対する複雑な感情も抱いているようだった。善い行いを何もせず、こんなに早く人生を終えてしまうことが悲劇的であるのは、私にもなんとなくわかった。
母の気持ちを知ったおかげで、人生にまだやり残したことがあると悟った。
母や友達の悲しみは、とても深いものだった。問題ばかり起こしていたが、ぼくは友達に恵まれ、有名人とは言えないまでも人気者だったので、多くの人々がぼくの人生を、どうとらえているか知ることが出来た。とりわけ母の悲しみを知ったことにより、その後の人生が大きく変わった ]
・・・・
(つづく)
死んだあと、あるいはその境目にあって、自分の人生を振り返るプロセスがあることが知られている。
ライフレビューでは、文字通り人生を一瞬のうちに振り返り、自己の想いや行為、そしてそれが他者に与えた影響までも、そこに浮かびあがることになる。
それは「魂・意識」そのものの自己認識であって、誤魔化し隠れる「物」「観念」などどこにも無く、逃げも隠れも出来ない、自己自身の自己直視が起きるということだ。
また、ライフレビューとは、後悔とか、そういうストイックでどこか自虐的な「反省」というものではなく、
人生で何を学んだかという、ある意味で質的な、厳密とも言える「霊的進化の自己確認」であるとも言えようか。
そこに後悔や悲しみ懺悔等という、個人中心のいわゆるエゴ的な、世間体で尤もらしい感覚の感情論はない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/1e/171a275427e9872e7b5bf4efd368ea48.jpg)
何処か宗教的な意味合いと感じられようが、それを簡単に言うならば、
如何に人生で・・「愛」や「慈悲」、「調和」に気付き、
またそれを想いや、言葉や、行為で表現出来たろうか?・・・という自己評価とも言えるだろう。
なぜならば、存在諸世界は「それ」で創造されているからである。
人生においては、
喧嘩したり、争ったり、騙したり、あるいは逃げ隠れしたり、無知のぬるま湯で終生すごすなど、
実際のところ、そんな暇はないのだ。
また他が良いとか悪いとか、原因だとか・・・そんなことは全く見当違いなのである。
今までのこの世界のような、競争やせめぎあいでの進化?など、最も外れた観念、閑念だ。
天網恢恢疎にして洩らさず・・・・と言うことわざがあるが、
宇宙的な法則から外れたシステムは長く維持することは出来るわけもない。
それは本質的に・・・楽しくないからである。
誤解なく理解すべきことは、
<本質的な意味>で・・・楽しい在り方・・・それが本道であり、また調和と進化の目安なのだ。
全ての物、生物、現象も、いわゆる創造神、根源意識、あるいはサムシング・グレートの自己表現であり、したがって全てはその神なる自己へと回帰している、あるいはつながっている。
全体そのものが、あらゆる部分に、それ自体が畳み込まれているということ・・・。
またそれを、「一」はすなわち「多」なり、また「多」はすなわちひとつなり、
・・・あるいはオール・イン・ワンネス、また「全ては愛」と言うのは、
それであらゆるものがつながっていることを意味しているのである。
なかなか気付かないけれども、あなたも「神」だということ。
本来・・・楽しくない・・わけがないではないか!
あなたであると意識している<意識主体>は、
世界において「あなた」しかいない・・・極めて当たり前の事実を直視すべきであろう。
「われ・・在り」は形を変えようとも、常に永遠に・・・今在る・・・
幾多の人生は、そして今の人生も、まさにその証拠である。
本質的な意味で・・・楽しい人生・・・それが本道にあることの目安だ。
ここがちょっと辛いと感じるかもしれないのだが、
それは、自らを・・・自らで・・・創ってゆくことであり、安易に誰かに与えられるものでもないということでもある。ましてや、お金を出して得られる貰える、浮ついた快楽や安穏さは、確かに単なる商品でしかないということだ。
------------
「臨死体験 9つの証拠」156ページより
・・・
紹介するのはマークという若い男性のライフ・レビューだ。彼はタホ湖近くをジープでドライブ中、雪道で滑って電柱に激突した。そして車と電柱の間で押しつぶされ、重傷を負った。
このひどい事故のせいで本格的な臨死体験をしたが、それには本書の冒頭で述べたほとんどの特徴が含まれている。その中のひとつが、完全なライフ・レビューである。
たとえばマークは、彼の人生で実際に合った出来事を、まるで映画の一場面のように見ている。自分のライフ・レビューについて語るとき、臨死体験者の多くが映画という表現を使っている。奇妙な夢のようなものとは違い、彼は自分の再体験に感情移入している。
当たり前のようだが、自分の気持ちだけではなく、ほかの人がどう感じたのかまで知ることが出来るのだ。また彼は、自分の人生や人間の一生というものについて、いくつかの真理にたどり着いている。
臨死体験を通した自己認識のおかげで、彼は残りの人生で自分が変わるための指針を手に入れた。アンケートにはこう書かれている。
「全ての人生は死で終わる。恐れることはない。『死は最高の冒険だ』と言ったのは、ピーターパンだったろうか?誰もがこの旅に出かける。死が訪れたら、恐れずに楽しもう」
以下はマークのライフ・レビューだ。
・・・
[ どんなふうに始まったのかはっきりしないが、いわゆる「人生が走馬灯のように駆け巡る」とか、「ライフ・レビュー」とか呼ばれているようなことが自分に起こっていた。人生でやってきたさまざまなことについて、自分の感情を再び経験するだけでなく、周囲の人々の感情までも経験するのだ。いちばん衝撃的だったのが、母の感情だ。
子供のとき養子になったぼくは、ちょっとした問題児だった。少年時代はほかの子に暴力をふるい、ドラッグやアルコールに溺れ、盗みをし、めちゃくちゃに車を乗り回し、成績も悪く、物を壊し、妹や動物を虐待した。問題行動を並べだすときりがないほどだ。
要するに、こうした出来事全てを体験し、自分や周囲の人間の感情も体感したのだ。
だが、もっとも心に残ったのは、思ってもみなかった母の感情だった。彼女は、ぼくの死を知って深い悲しみに打ちのめされたが、息子がいざこざばかり起こしてきたことに対する複雑な感情も抱いているようだった。善い行いを何もせず、こんなに早く人生を終えてしまうことが悲劇的であるのは、私にもなんとなくわかった。
母の気持ちを知ったおかげで、人生にまだやり残したことがあると悟った。
母や友達の悲しみは、とても深いものだった。問題ばかり起こしていたが、ぼくは友達に恵まれ、有名人とは言えないまでも人気者だったので、多くの人々がぼくの人生を、どうとらえているか知ることが出来た。とりわけ母の悲しみを知ったことにより、その後の人生が大きく変わった ]
・・・・
(つづく)