気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

臨死体験の真実(3)ライフレビュー

2015-01-31 09:42:48 | 魂の諸相
臨死体験で起きる「ライフレビュー」というものがある。

死んだあと、あるいはその境目にあって、自分の人生を振り返るプロセスがあることが知られている。
ライフレビューでは、文字通り人生を一瞬のうちに振り返り、自己の想いや行為、そしてそれが他者に与えた影響までも、そこに浮かびあがることになる。

それは「魂・意識」そのものの自己認識であって、誤魔化し隠れる「物」「観念」などどこにも無く、逃げも隠れも出来ない、自己自身の自己直視が起きるということだ。

また、ライフレビューとは、後悔とか、そういうストイックでどこか自虐的な「反省」というものではなく、
人生で何を学んだかという、ある意味で質的な、厳密とも言える「霊的進化の自己確認」であるとも言えようか。
そこに後悔や悲しみ懺悔等という、個人中心のいわゆるエゴ的な、世間体で尤もらしい感覚の感情論はない。
 


何処か宗教的な意味合いと感じられようが、それを簡単に言うならば、
如何に人生で・・「愛」や「慈悲」、「調和」に気付き、
またそれを想いや、言葉や、行為で表現出来たろうか?・・・という自己評価とも言えるだろう。

なぜならば、存在諸世界は「それ」で創造されているからである。

人生においては、
喧嘩したり、争ったり、騙したり、あるいは逃げ隠れしたり、無知のぬるま湯で終生すごすなど、
実際のところ、そんな暇はないのだ。
また他が良いとか悪いとか、原因だとか・・・そんなことは全く見当違いなのである。

今までのこの世界のような、競争やせめぎあいでの進化?など、最も外れた観念、閑念だ。
天網恢恢疎にして洩らさず・・・・と言うことわざがあるが、
宇宙的な法則から外れたシステムは長く維持することは出来るわけもない。

それは本質的に・・・楽しくないからである。
誤解なく理解すべきことは、
<本質的な意味>で・・・楽しい在り方・・・それが本道であり、また調和と進化の目安なのだ。

全ての物、生物、現象も、いわゆる創造神、根源意識、あるいはサムシング・グレートの自己表現であり、したがって全てはその神なる自己へと回帰している、あるいはつながっている。
全体そのものが、あらゆる部分に、それ自体が畳み込まれているということ・・・。

またそれを、「一」はすなわち「多」なり、また「多」はすなわちひとつなり、
・・・あるいはオール・イン・ワンネス、また「全ては愛」と言うのは、
それであらゆるものがつながっていることを意味しているのである。

なかなか気付かないけれども、あなたも「神」だということ。
本来・・・楽しくない・・わけがないではないか!

あなたであると意識している<意識主体>は、
世界において「あなた」しかいない・・・極めて当たり前の事実
を直視すべきであろう。

「われ・・在り」は形を変えようとも、常に永遠に・・・今在る・・・

幾多の人生は、そして今の人生も、まさにその証拠である。

本質的な意味で・・・楽しい人生・・・それが本道にあることの目安だ。

ここがちょっと辛いと感じるかもしれないのだが、
それは、自らを・・・自らで・・・創ってゆくことであり、安易に誰かに与えられるものでもないということでもある。ましてや、お金を出して得られる貰える、浮ついた快楽や安穏さは、確かに単なる商品でしかないということだ。

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「臨死体験 9つの証拠」156ページより
・・・
 紹介するのはマークという若い男性のライフ・レビューだ。彼はタホ湖近くをジープでドライブ中、雪道で滑って電柱に激突した。そして車と電柱の間で押しつぶされ、重傷を負った。

このひどい事故のせいで本格的な臨死体験をしたが、それには本書の冒頭で述べたほとんどの特徴が含まれている。その中のひとつが、完全なライフ・レビューである。

 たとえばマークは、彼の人生で実際に合った出来事を、まるで映画の一場面のように見ている。自分のライフ・レビューについて語るとき、臨死体験者の多くが映画という表現を使っている。奇妙な夢のようなものとは違い、彼は自分の再体験に感情移入している。

 当たり前のようだが、自分の気持ちだけではなく、ほかの人がどう感じたのかまで知ることが出来るのだ。また彼は、自分の人生や人間の一生というものについて、いくつかの真理にたどり着いている。
 臨死体験を通した自己認識のおかげで、彼は残りの人生で自分が変わるための指針を手に入れた。アンケートにはこう書かれている。

「全ての人生は死で終わる。恐れることはない。『死は最高の冒険だ』と言ったのは、ピーターパンだったろうか?誰もがこの旅に出かける。死が訪れたら、恐れずに楽しもう」

 以下はマークのライフ・レビューだ。

・・・
[ どんなふうに始まったのかはっきりしないが、いわゆる「人生が走馬灯のように駆け巡る」とか、「ライフ・レビュー」とか呼ばれているようなことが自分に起こっていた。人生でやってきたさまざまなことについて、自分の感情を再び経験するだけでなく、周囲の人々の感情までも経験するのだ。いちばん衝撃的だったのが、母の感情だ。

 子供のとき養子になったぼくは、ちょっとした問題児だった。少年時代はほかの子に暴力をふるい、ドラッグやアルコールに溺れ、盗みをし、めちゃくちゃに車を乗り回し、成績も悪く、物を壊し、妹や動物を虐待した。問題行動を並べだすときりがないほどだ。

 要するに、こうした出来事全てを体験し、自分や周囲の人間の感情も体感したのだ。
だが、もっとも心に残ったのは、思ってもみなかった母の感情だった。彼女は、ぼくの死を知って深い悲しみに打ちのめされたが、息子がいざこざばかり起こしてきたことに対する複雑な感情も抱いているようだった。善い行いを何もせず、こんなに早く人生を終えてしまうことが悲劇的であるのは、私にもなんとなくわかった。

 母の気持ちを知ったおかげで、人生にまだやり残したことがあると悟った。
母や友達の悲しみは、とても深いものだった。問題ばかり起こしていたが、ぼくは友達に恵まれ、有名人とは言えないまでも人気者だったので、多くの人々がぼくの人生を、どうとらえているか知ることが出来た。とりわけ母の悲しみを知ったことにより、その後の人生が大きく変わった ]
・・・・

(つづく)

臨死体験の真実(2)シエイラの体験

2015-01-28 16:29:45 | 魂の諸相
臨死体験が科学的に認識され、次第にそれが既成の事実だという方向に動いて来たということは、実のところ、ようやく人類の世界認識範囲というものが広がってきたということだ。

いわゆるあの世とこの世の境界が壊れてきたとも言えるだろうし、誰も皆実際には多次元的な世界にいることに気付いて来たという事でもある。

あの世とか、この世とか・・・何かトンデモナイ仕組みがあるのかと言えば、そうでもなく、別段何もおどろおどろしいものはなく、知らないが故の怖れがそうさせるのである。
UFOだとか宇宙人だとかも全く同じことであり、知らない・解らない意識から出る「恐れ」が様々な枝葉を作ってきたということだ。

ただそこには・・・今まで多くの人がそれを知らなかったという事、あるいは知らされなかったという事、つまり何が何だかわからないこと、そういう未知なるものに対する恐怖があっただけだったのである。

そりゃそうだろう。

何が何だかを知らないと、「あーでもない、こうでもない」という妄想が先走り、あるいは歪んだ宗教観念での判定や、茶化して安心したり、または何でもかんでもトンデモ・・と決めつけるような「観念論」だけで終始することにもなる。

誰に聞いても答えは不明確であれば、結局は目先の生活だけ、この身の保身という生存本能だけが残ってしまうことになっていたわけだ。

人類の束縛観念の究極のものは、死への無知であり、したがって生への無知でもあったわけだ。

だから取りあえず、大勢に合わせて、身近な肉体の安楽さや快適さに邁進して来たということでもある。

そうではないか?

良いとか悪いとかではなく、世界認識及び自己認識そのものが狭かったと言って良い。

無知と恐怖が故の自己幽閉、この世とは、そういう思考・観念で閉じられた惑星次元であったとも言えようか。

例えで言えば、まるであの千と千尋の物語の、橋の向こうの小さな湯屋に閉じ込められていたようなものなのだ。






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「臨死体験 9つの証拠」46ページより

[私には昔から、いくつものアレルギーがあったの。生れついてのちょっとした不快の症状という程度のものだったけど、あの運命の日は、命を脅かされることになったわ。
外科医と麻酔医には、前もって全てのアレルギーを伝えてあった。どうしても必要という手術ではなかったし、緊急性も低かった。
医療チームは出来る限りの予防措置をしてくれたけれど、手術で使われた薬剤に私は深刻なアレルギー反応を起こした。あまりにも激しくて、心臓が止まったのよ。

 心臓が停止するとすぐに、自分が天上付近に浮いていると気づいた。私につないである心電図のモニターが見えたわ。線が水平になっていた。医師や看護師たちは必死で私を生き返らせようとしていた。眼下に広がる光景は完全にパニック状態だったわ。でも反対に私は深い安らぎを感じていたの。痛みは全くなかった。私の意識は手術室を漂い出して、ナースステーションに行ったわ。手術室にいたフロアのナースステーションだって、すぐにわかった。天井近くの高い場所から見下ろしていたから、看護師たちが忙しく業務をこなしているのが見えたのよ。
 
 しばらくそのまま見ていると、トンネルが開いたの。引き寄せられて中を進んでいくと、やがて反対側に明るい光が見えてきた。穏やかな気持ちだった。トンネルを抜けると美しい神秘的な光が満ちた場所で、私の前には、死んだはずの愛する肉親が数人いた。また会えたことがうれしくて抱きあったわ。

 圧倒的な愛と慈悲にあふれた神秘的な存在がそばにいた。「戻りたいか?」と聞かれて「わかりません」って答えた。当時は優柔不断だったから。
しばらく話し合って、肉体に戻ると決めた。本当に難しい選択だったわ。圧倒的な愛に満ちた場所にいたんですもの。そこにいると本当の故郷にいるのだと実感した。でも私は肉体に戻ったのよ。
 1日以上たって、私はICUで目覚めた。体中、チューブやワイヤーだらけだったわ。でも、この深遠な体験については話せなかった。しばらくして手術室にいたフロア・・あの時見えたナースステーションがあるところ・・に戻った私は、ようやく勇気をとり出して、看護師のひとりに臨死体験でみたものを話したの。

 その看護師はショックを受け、怖がっているみたいだった。そこはカソリックの病院だったから、修道女が私の話を聞くために送り込まれてきたのはまあ、当然よね。私が自分の体験を丁寧に説明すると、修道女はじっくり耳を傾けたあと、「悪魔の仕業」だと断言したの。そのあと誰にも話したくなくなったのも、無理ないでしょう]

(つづく)


臨死体験の真実(1) 科学的な統計から浮かび上がる事実

2015-01-27 08:12:08 | 魂の諸相
臨死体験とは、いわゆる病気や事故等で死にかけて、再び生きかえった人々の体験のことだ。

このブログでも、実際わたしの友人が大事故に遭遇して、病院に運ばれる前後で臨死体験をしたという記事を載せたことがある。

死とかの話は一般的に嫌がられる傾向があるのだろうが、実際誰でも間違いなく経験するものであって、怖いとか嫌だとかばかりでは解決できず、

逆にいったいそれは何だろうという具合の、勇気や探究心、本来の科学的精神が必要なことなのである。

この世に出てくること、そして去ること、その本質的事実から何世にも渡って逃げていてどうするのだろうか。

ここにも真実を知らせない、あるいは知りたくないという、世間一般に浸透した恐怖にもとづく迷妄観念があるということだ。

日本には古来から漠然とでもあった死生観が、明治以降の物質偏重観念への取り込みによって薄められた感があり、

例えて言えば、あの「千と千尋の神隠し」のアニメでの、冒頭の千尋の両親のような、何も考えないで喰うだけに専念しつつ、とうとう豚になってしまうようなお話は、単なるアニメストーリーではない。



しかしながら、この世界はある意味で過酷な世界だが、そうであればこそ、そこから上昇するための意識的エネルギーが得られるのである。

・・・


臨死体験 9つの証拠」ジェフリー」・ロング/ポール・ペリー共著(株ブックマン社)The evidennce of afterlife

という最近出された書籍があり、放射線医療医である著者が、1300以上の臨死体験のデータをウエブサイト上で集積した結果を発表している。(絶対と言って良いほど確認しておくべき事実報告、真正の量子物理解釈とおなじく、本道にある科学的文献の1つである。)

レイモンド・ムーニー、キュブラー・ロス他の研究者、日本では飯田史彦、現在東大の救急医療分野の教授矢作直樹氏の報告など、もちろん臨死体験、前世療法等に関する科学的でかつ有名な書籍は1970年代以降多く出されているが、この著者は「科学的に有意味だとされる統計的分類」を駆使して、体験談のなかの共通性を抽出しつつ、これらが間違いのない人類全般の「現実」であることを確証している、ということである。

未だに、全ては脳内の発火現象、それに伴う単なるイリュージョンであるかのような愚かな決めつけや逆に調べもしない非科学的見解で誤魔化そうとしている科学者やメディアもあるが、もうそちらの嘘の世界は消えかけているのである。

人間は単なる肉体であり、生は偶然の産物、死んだらすべて終わりだとする・・それこそが造られた恐怖のイリュージョンであったということだ。


・・・・
以下、しばらく前著の抜粋で内容を紹介することにする。

(同著7P)
 ずいぶん前に、わたしは「死」が全ての終わりだと考えるのをやめてしまった。だが、そう思えるようになるまでは長い時間がかかった。科学者の一家に生まれたこともあるだろう。父はアイオワ大学薬学部の教授だったし、ノーベル賞の候補になったこともある。そんな父をはじめとする家族の影響で、私は科学を信奉することになった。
 NDERF(臨死体験科学研究財団)で、1300もの臨死体験の事例を科学的に研究した結果、本書に示した九つの証拠はすべて、あるひとつの真実を浮かび上がらせたと私は信じている。

すなわち、死後の「生」は存在するという真実だ。

・・・・
(つづく)

浸水に関する夢

2015-01-26 07:29:41 | 夢及び半覚醒時の体験記録
夢は大体毎日のように見ている。

映像やストーリー、会話の断片としてかなり憶えていると言えるかもしれない。

目が覚めてしまえばあの夢は何だったか・・と言う経験は誰にもあるものだが、

馴れてくれば夢の情報を、顕在意識に上らせる、あるいは記憶を上らせたままにしておくことも出来る。

一般に言う夢は、体脱経験や臨死体験と違ったレベルではあっても、それが意識的な経験であることに変わりがない。

取っつきやすい概念で言えば、自己の膨大な潜在意識にアクセスしているとも言える。

ユングの言うように、個々人の潜在意識は更に大きな集合意識を形成しているならば、
自分の潜在意識は、段階的に更に大きな「意識」につながっているとも言えるのである。

・・・
夢とは脳内のランダムな思考や記憶のアクセスだ・・という解釈があるが、そうだと思っている人にとっては終始その通りのままだろうが、

夢の中には何らかの現実的情報、未来予知関連、あるいは<魂レベルでの有意味な情報感受などもある>ことに気付く必要があるだろう。

全ての存在物、現象もそれ即ちエネルギーや波動であり、そうであればこそ様々な情報を有していると言えるのである。

全ては「意識」である言うが、実際のところそうなのである。

・・・・

前置きはこのくらいにして、

2日連続して、「浸水・増水」の夢を観たので備忘録としてブログに記録しておこうと思う。

(夢にはかなりランダム性があり、すぐには意味不明な登場人物やストーリーも含まれるが、下記はその中から主観的に意味を「抽出」したもので、自然現象に関するかも知れない・・・と思える内容である。)
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2015/1/24に見た夢:海岸の液状化?
 瀬戸内海あたりかも知れないが、電車がそんなに通っていない地域で、車の往来は逆に多い地域のイメージだが、海岸線の土地が急に液状化のような感じで崩れ始め、水が侵食してきた。

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2015/1/25に見た夢:あっという間の広大な領域の海面化?
 夢で、自分は何かを掴んだりしながら、楽な感じでひょいひょい斜面を昇っている。
そして、上には御殿のような天守閣のような建物があり、そこから下を望むとかなり高いところに来ていることがわかる。
 そしてはるか向こう、水平線あたりに水(海水?)があり、それがゆっくりと押してくる感じの映像が見えている。
・・と思っていると、あっという間に辺り一面が水で満たされており、かなり高いところに建っていたはずの例の御殿のような建物が、かろうじて水面の上に出ている状況になっていた。
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これらが、いつ起きる可能性があるのか?とか、予知的な情報だ?とか、そういう判断は差し控えるが、

1つ感じているところは、自分の生活環境か、あるいは何らかの世界の、大自然の動きに関する情報の断片であるかも・・あるいは増水・浸水というのが「水増しされた経済」の比喩だとか・・・、そういう事象が急激に起きる前兆という事かも知れないし、自分の経験から言えば、そういう可能性も否定できないということである。



以上




本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

どうやって解脱するのか(8)思考は実体波動と感得すべし

2015-01-23 06:52:25 | 見えないものから見えるものへ
●空(くう)はあらゆる波動の充満を意味する

地上の空間、我々の目の前にある空間、それは何も無いのではなく、様々な波動で満ちている。

目に見えないからといって、何も無いのではない。

現代文明での電波利用はその1つの具体例であり、地球の周囲の空間を様々な波長、位相、振幅の電波がそれこそ無数に飛び交っている。

パソコン、スマホ、携帯電話、TV放送等が使えるのは、そういう電磁波とそれに乗っかっている情報によるのである。

「波動」とそれに乗っかっている「情報」・・・を使っているわけで、
現在発見されている波動で、その発生・操作が可能になっているのが<電磁波>というわけだ。

人類の周囲の空間にはそれこそ無数の電磁波動が飛び交っている、または振動しているのである。

・・・


・・
●人の想いは波動として伝搬している

同じく、人間の想念、想いつまり思考や感情、想像なども波動として飛び交っている。

電波と同じくそれもやはり目には見えないし、現状では電磁波のようには機械観測出来ない「波動」である。

機械観測できないと言っても実際に存在するのだが、これに気付けないところに、自ずと物質文明自体の限度がある。

テレパシー、精神感応と呼ばれているもの、あるいは「以心伝心」と言われている情報の直接伝達は、この「想念」波動の送信・受信のことである。

テレパシーや直観での事実情報の把握は、

自分のこころ、精神の動きの中に生じる情報であるため、

普段から自らの心模様を観察できる場合にだけそれを意識的に使うことが出来る。

それらはいわゆる「静かな」こころ、リラックスした意識状態が必要である。

単なる外からの刺激でのランダムなこころの反応なのか、

有意味な情報を乗せているのか、

かなり微妙な精神的な波動への同調や、フィルタリングをしなければならないからだ。

波風で荒れている海面では、直下の魚の動きは見えないようなものだ。

テレパシーや直観での情報感受、またそれは身体が寝ている時にも起きやすい。

脳波で言えば、アルファ波からシータ波のレベルであれば、寝ていようと起きていようとそういう波動感受が容易になるのである。

そういう波動感受は、例えば他人の想念感受によって嘘かまことかが、なんとなくでも判然とするし、この先危険かどうかの漠然とした執拗な感覚が生じるものである。


ここで重要なのは、

それらはいわゆる「静かな」こころ、リラックスした意識状態が必要であること。

また単なる外からの刺激でのランダムなこころの反応なのか、

有意味な情報を乗せているのか、

かなり微妙な精神的な波動への同調や、フィルタリングしなければならないということだ。


・・・

ふと思ったことが実際にそうだったとか、何気にある人のイメージが漠然と浮かんだところ、その人から連絡があったとか、その人に関する何らかの出来事があったとか、そういうことはあなたにもあるだろう。

カレーが食べたいかな・・と思ったら、その日の夜の献立は実際カレーだったとか(笑)、そういう類の経験は誰にもあるだろう。

それはあなたに関係がある者の「思考」に、ふとした瞬間に「同調」していることを示している。



●想念を空虚な代物として捨てる愚かさ

それらをすべて偶然の出来事として捨ててしまうのが現代の思考であるが、これが大きな間違いなのだ。

目に見えないからといって存在しない・・全て偶然である、確率論の問題だ等と、そういうことを平然という者は、全くの無知蒙昧の輩であるが、そういう者が現代社会の所謂上層部に陣取っているような社会に成り下がっているようである。

自分自身の思考、イメージが実体のないものだという固定観念に縛られているわけであるが、これを解除できるかどうか、・・非常に重要なポイントなのである。

●想念も実体波動である

あなたやわたし達が頭に描くイメージ、過去経験した風景や場面、想像するイメージは、いわゆる高い次元あるいはさらに微細な波動域での情報であり、

波動の媒体の違いはあれども、普段見ているパソコンやスマホの画像と同じように、実体波動なのだ。

実際にあなたの「想い」は、媒体が電磁波ではないものの、ある種の波動として、全国放送いや全宇宙放送されているのである。

全宇宙というのは決して誇張ではなく、思考の速さ・・という事からすれば、いわゆる光の速度を超えているという実験結果があるわけだ。

また量子物理での実測によって証明された「量子もつれ」も、素粒子間の「情報伝達」速度が光速という限度をはるかに超えていることを示している。
・・・

誰にも身近な精神機能である「思考」「想像」は同じく一種の波動情報であり、その伝達は時空間の限度枠など超えている波動伝達なのだ。

実際にあなたの「想い」は、媒体が電磁波ではないものの、

ある種の波動として、全国放送いや全宇宙放送されているのである。

地球上にはそれを感受して、表面意識に浮かび上がらせること・・・を知らない人が多いだけなのだ。

お金を出してスマホやPC端末は使っているが、

自分の身体と精神の機能は退化したままで、それをほとんど全く使っていないということ。

物質的繁栄、楽しい資本主義的富の蓄積のためにはそれが邪魔なので、無視しつつ排除しつつ、ここまで来たが、

まさにそうであるからこそ、物質文明自体の限界と崩壊現象が現れてきているのである。

人間の精神性を無視して来たところの近代欧米物質文明の自己矛盾とも言えよう。
・・


・・・
●想いは言葉と行為の原因である

想念は言葉に表現され、また行為の原因となることは、既にわかる人には解るのだが、その元にある想念が、情報の重畳された波動であること・・・

それを知ることが極めて重要な意識進化のステップなのである。

想念の内容がキャッチされれば、それこそ嘘や隠しは全く通用しない。

騙すことも誤魔化すことも、それ、想いの内容に含まれているわけで、隠せるものではない。

●ボロボロ出てくる人類のカルマ

今現在世相を見るならば、

ある想念のパターンを大量生産して、何事かの方向に持ってゆくことが行われているが、これに気付けるかどうかという人類の試練の最中であるとも言えようか。

残念ながら主要メディアは、そういうある種のイメージを繰り返し表現しつつ、そのイメージを元にした想念体系に、大勢の気付かぬ人々を巻き込もうとしているようである。

それは古い世界の崩壊の濁流に流されることを強いる方向なのである。

今までもそうであるが、今こそが精神の不動性の真骨頂を発揮する時であり、

外の世界で生起する様々な人為的事件や出来事に、流されてはならないのである。

その濁流は、まず想念レベルにおいて起こされるのである。

気付いているだろうか。


●あちらこちらに出てくるハーメルンの笛吹男

特に政治や経済、社会におけるいわゆる権威層に顕著になっている愚かさ、

見え透いた嘘やおバカな姿態をさらす者たちが増えてくるのは、

その想念が読まれる、察知できる時代へと移行していることを示しており、

実際のところ、面白おかしくそれらの事象に一喜一憂している場合ではない。

鵜の目鷹の目の姿勢で、世界の激変の刺激を喜んでいるならば、

気付かず知らずに、外側から押し売りされる「想念」の大量生産品の中に流されてゆくことにもなるだろう。

呼子の役目のハーメルンの笛吹男はどこか優しげだが、結局人さらいということだ。


●嘘や騙しの通用しない世界への移行

古い世界はそのウソと騙し、建前とエゴ的本音の吹き溜まりであった。

お金を元にした便利な機械や工作物、安楽な生活などで目くらましをされてきたのだが、実のところは精神的機能の・・・退廃の道を経験していたということである。

便利な機械が、即そのまま人間の精神の退廃につながっていたわけだ。

そしていま、その退廃の文明の崩壊現象が起きていることに気付けるだろうか。

地球の崩壊ではなく、その時空の中に築かれた虚構の物質偏重文明の崩壊である。
・・

識者の間で、世界経済の崩壊が近い・・・等という風潮が一部にあるのはそれを察知しているからである。

また、第3次世界大戦がどうのこうのというのも、その傾向をおどろ恐ろしく感受しているのだ。

・・・

●カルマは解消すべきもの

現在古い世界の崩壊に合わせて、

世界の一部では様々な、ろくでもない人為的行為や事変が、昨今かなり矢継ぎ早に起こされていることは知っていよう。

矢継ぎ早なので、隠れた意図と事変の間の、その因果関係も解りやすくなってもいる。

ネットなどであれやこれやと嘘を暴き出したり、裏にある別勢力の意図を導き出したり、あるいはメディアの流す尤もらしい虚実が浮かび上がったりしているわけだが、

それは、思考と行為の裏にあるエゴ的意図が、あれやこれやと、どこか見透かされていることを示すものであって、

それも集合意識の潜在下での「想念」の直接感受が元にあるわけだ。

・・・

そう、

想いは・・・嘘をつくことが出来ない。

言葉は嘘八百を言うことが出来るし、行為だってマヤカシが可能であるが、

その元に有る「想い」はどうしても・・・、どうあっても誤魔化しようがない。

実に、人格の色付けをしているのが、内面にある定常化した「想念」、信念なのである。


カルマの解消とは、

その方向違いの信念、固まった想念が、自己崩壊することを体験することなのだ。

「それって、やっぱ違うよね・・・」という明らかな理解を、魂が経験することである。


臨死体験で明らかにされた、人がこの世から離れた後の、
・・
高次元でのライフレビュー(人生の自己想起)も言わばそういう魂の学びの、その真髄の確認であるとも言えるかもしれない。

・・・
 


●真の意味で自己を大切にする時

外の誰か、何かの現象ではなく、まず自己観想が重要だ。

まず、自己の「想いを観る」ことが出来るかどうか?

想いの中に微妙な歪を発見できるかどうか?

想いを自分で「意識的に選択、創造」することが出来るかどうか?


真剣にかつ気楽に、自らの内面を広げる意識的努力をしているのかどうか、

それこそが、それぞれの魂・意識にとっての喫緊のテーマである。

人生の大きな目的はそれであると思えないか?


それは、自分だけ安楽であれば・・、自分の身の安全が保障されれば・・という、

エゴ的想念とは全く方向が異なることは理解できよう。

・・・

外の世界では、今までのエゴ的想念のカルマチックな濁流の荒波が更に大きくなるだろう。

それに無意識に波長を合わしてしまうのか、より意識的に広く高く自らを方向づけるのか、

今、非常に重要な意識進化の岐路に差し掛かっている




・・
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。