人生とは何かを例えで話をすることにしよう。
生れることや死ぬこととは何かのたとえ話である。
超簡単に例えれば、
お気に入りの映画を上映している映画館に入り、観賞したのちに家に帰るようなものだ。
またそれは・・好奇心に満ちた・・魂:個性化した意識が、
さらに壮大な意識のプロデュースする「物語」の中に入り込み、
そして出てゆくことである。
それを繰り返して映画を楽しむようなものである。
楽しむ?とは、実に意味深い言葉であり、
経験・体験そのものには良いとか悪いとか、高いとか低いとか、
立派だとかみじめだとか、そういう後付けの幻想観念とは無縁の・・、
存在・・在ることの、創造の・・醍醐味なのである。
わたしは・・今・・在る・・。
好奇心に満ちた・・魂:個性化した意識が、
壮大な宇宙意識のプロデュースする「物語」の中に入り込み、それを体験する。
肉体とはそのためのツールのようなものだ。
なので決してあなたはその”肉体”そのものではない。
従って、宇宙スピリチュアル系列の情報で言われるように、
あなたは地球に生まれるように、自らが決めて来た魂であるというのも当て外れではない。
あるいは、あなたは何度もある地域・時代から、別のある地域・時代に転生したというのも、決して当て外れではない。
ただそれを思い出す、あるいは想起するような世界ではないために、
すっとそれを知らずに過ごしてきた、
つまり寝ては起きて動く日常人生、意識が眠り目覚めるその繰り返し、
さらにはその大きな生死というサイクル・浮き沈みの中にいたのである。
しかしながら、一回1回で全てを忘れて、また生まれ変わっても、
転生をする本質である魂、
共通の意識体・情報を伴ったエネルギーには全てが記憶されるため、
表面意識ではなかなか気付かないけれども、確実に魂・意識は進化しているのである。
「わたしとは肉体だ」・・という虚構、幻想の「自己認識」
誰も言わないけれども、それが既存の常識であるかのような支配観念、
あなたが今、人間をやっているという事は、
人間としての意識経験を十分にしているからこそのことである。
つまり何度も様々なレベルでの「転生」を繰り返しているからこその、
今の人生・意識レベルそして見識なのだ。
何もせずに、ただで(笑)・・勝手に偶然に起きることなどないと、
この世で既に経験済みではなかろうか。
実に身近な・・わたしという・・存在の、
実際の在り方を深く深く・・観てゆく実践行為を、
実におろそかにする世界である(あった)ため、
死という、それがどういう事なのか全然わからない状態のままであったと言えよう。
例えば、
映画館で1つの映画を観終わっても、その映画が全てだと思い込んでいるならば、
その映画(人生)の終わりの後も、その意識レベル(観客席)に居続けてしまうことで、
また同じような映画を観る羽目になってしまうということだ。
そしてその生誕と死の仕組みでいえば、
その映画(この世界)への参入は・・
自分がちゃんと親から生まれた赤ん坊という設定を持っているため、
実にリアルに自己自身が肉体として生まれてくるように見えるのである。
オギャーと泣いた瞬間に、
もうすでにその映画(人生・世界)に立派に出現したという事である。
生れて来た自分自身に気付く・・
実際に・・あなたが幼少期に・・自分自身に気付いたのはいつ頃だろうか?
それはあなたの肉体が気付いたのだろうか?
幼児期の肉体が気付いたのだろうか?
意識だからこそ、幼児である自分に・・・気付いたのだろうか?
”気付き”に・・肉体も頭脳も無く・・・気付き・意識そのものであると、理解できるだろうか?
それとも何か物体的なものが無いと”信じ”られないだろうか。
それも「想い」に他ならないし、身に着けている肉体は・・
あなた自身ではなく、あなたの知覚対象であることに・・気付けるだろうか?
宇宙創造は・・実に微に入り細に入り精巧に創られるものであるため、
これが魂のための体験物語だとは・・露とも思えないということだ。
外の世界でなく・・それを観ている・・わたしとは何か・・に、
深く深く・・気付いてゆくまでは・・・・。
そう、
宇宙創造さえも・・いわゆる神の・・”気付き”の対象なのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/74/c1f3aa16798f8440066f6505392675be.jpg)
生れることや死ぬこととは何かのたとえ話である。
超簡単に例えれば、
お気に入りの映画を上映している映画館に入り、観賞したのちに家に帰るようなものだ。
またそれは・・好奇心に満ちた・・魂:個性化した意識が、
さらに壮大な意識のプロデュースする「物語」の中に入り込み、
そして出てゆくことである。
それを繰り返して映画を楽しむようなものである。
楽しむ?とは、実に意味深い言葉であり、
経験・体験そのものには良いとか悪いとか、高いとか低いとか、
立派だとかみじめだとか、そういう後付けの幻想観念とは無縁の・・、
存在・・在ることの、創造の・・醍醐味なのである。
わたしは・・今・・在る・・。
好奇心に満ちた・・魂:個性化した意識が、
壮大な宇宙意識のプロデュースする「物語」の中に入り込み、それを体験する。
肉体とはそのためのツールのようなものだ。
なので決してあなたはその”肉体”そのものではない。
従って、宇宙スピリチュアル系列の情報で言われるように、
あなたは地球に生まれるように、自らが決めて来た魂であるというのも当て外れではない。
あるいは、あなたは何度もある地域・時代から、別のある地域・時代に転生したというのも、決して当て外れではない。
ただそれを思い出す、あるいは想起するような世界ではないために、
すっとそれを知らずに過ごしてきた、
つまり寝ては起きて動く日常人生、意識が眠り目覚めるその繰り返し、
さらにはその大きな生死というサイクル・浮き沈みの中にいたのである。
しかしながら、一回1回で全てを忘れて、また生まれ変わっても、
転生をする本質である魂、
共通の意識体・情報を伴ったエネルギーには全てが記憶されるため、
表面意識ではなかなか気付かないけれども、確実に魂・意識は進化しているのである。
「わたしとは肉体だ」・・という虚構、幻想の「自己認識」
誰も言わないけれども、それが既存の常識であるかのような支配観念、
あなたが今、人間をやっているという事は、
人間としての意識経験を十分にしているからこそのことである。
つまり何度も様々なレベルでの「転生」を繰り返しているからこその、
今の人生・意識レベルそして見識なのだ。
何もせずに、ただで(笑)・・勝手に偶然に起きることなどないと、
この世で既に経験済みではなかろうか。
実に身近な・・わたしという・・存在の、
実際の在り方を深く深く・・観てゆく実践行為を、
実におろそかにする世界である(あった)ため、
死という、それがどういう事なのか全然わからない状態のままであったと言えよう。
例えば、
映画館で1つの映画を観終わっても、その映画が全てだと思い込んでいるならば、
その映画(人生)の終わりの後も、その意識レベル(観客席)に居続けてしまうことで、
また同じような映画を観る羽目になってしまうということだ。
そしてその生誕と死の仕組みでいえば、
その映画(この世界)への参入は・・
自分がちゃんと親から生まれた赤ん坊という設定を持っているため、
実にリアルに自己自身が肉体として生まれてくるように見えるのである。
オギャーと泣いた瞬間に、
もうすでにその映画(人生・世界)に立派に出現したという事である。
生れて来た自分自身に気付く・・
実際に・・あなたが幼少期に・・自分自身に気付いたのはいつ頃だろうか?
それはあなたの肉体が気付いたのだろうか?
幼児期の肉体が気付いたのだろうか?
意識だからこそ、幼児である自分に・・・気付いたのだろうか?
”気付き”に・・肉体も頭脳も無く・・・気付き・意識そのものであると、理解できるだろうか?
それとも何か物体的なものが無いと”信じ”られないだろうか。
それも「想い」に他ならないし、身に着けている肉体は・・
あなた自身ではなく、あなたの知覚対象であることに・・気付けるだろうか?
宇宙創造は・・実に微に入り細に入り精巧に創られるものであるため、
これが魂のための体験物語だとは・・露とも思えないということだ。
外の世界でなく・・それを観ている・・わたしとは何か・・に、
深く深く・・気付いてゆくまでは・・・・。
そう、
宇宙創造さえも・・いわゆる神の・・”気付き”の対象なのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/74/c1f3aa16798f8440066f6505392675be.jpg)