俗に言う生まれ変わりというものに既に気付いている人も多いだろう。
あなたという、あるいは私という存在形態は、何もこの世界、この時代のものだけではないということである。
一般には他生に渡る様々な体験や想いは、DNAや潜在意識、あるいは魂意識等と言われる部分に記憶されているようである。
DNAは身体の設計図でもあり、その設計図は、祖先という幾多の身体の使用者の想いや体験が昇華されて記憶され、仕上げられてきたものと考えることもできる。
また、いわゆる「魂」がこの次元世界の「身体」への意識の投影・転写・あるいは「誕生」のおりには他生、あるいは多次元レベルでの記憶も加わることになっているようである。
多分それは、今はジャンクDNAと言われる意味不明の領域にあるはずである。
ここに書かれた言語?は現状での3次元的な観念フィールド、あるいは思考ツールではなかなか解読・構築等ができないかもしれないが、そのうち可能となるはずである。
それは、我々の生命観が、より大きな生命観に移行した段階で、自然に解けるような仕組みでもあるだろう。
またその解読・構築は、化学的な手法によらず、直接我々の意識レベルからのアクセスによって行うことができるのではないだろうか。
一般にも言われて久しい「潜在意識」とは、「普段の意識」の集合した大きな意識といえるだろう。ある面では過去の「記憶」の集合とも感じるかもしれない。
ちょうど車の車輪が「地面」と1点で接していながら、1点にから1点に連続して動いて進むように、
常に1点でありながら、まさにそれによって円を描いているように、我々の「今の意識」も実はより大きな、膨大なる、あるいは壮大なる「意識」の部分であるということだ。
それに気づきだした人々も増えているが、ただ多くの人々は、車輪、あるいは大円、または更に大きな円環とでも言うべき、より大きな<わたし>になかなか気づけないようでもある。
それは何故なのかと言えば、
いわゆる意識が外の世界にくぎ付けになっている・・、あるいはこの世界の現われの方に、即ち現象のほうにその1点たる意識をフォーカスさせているからだ。
つまり現象世界のみを追いかけているということである。
映画を観ていること自体に夢中になってそれに自己同化し、それを観ている当の本体を忘れてしまっているということである。
この世界は、大いなる自己アイデンティティを忘れる、その忘れ方が激しいような仕組みの世界であり、ある意味では、それを称して「次元降下」というらしい。
・・・・・・
みじかなところで考えてみると、
1つの人生においても、生れて以来の知覚、思考、感情という創造物は潜在意識にしっかり記憶されていることは、誰にも理解できるだろう。
普段は忘れている幼い時代の記憶が、何かのきっかけで、あるいは眠っている時などには、強烈なイメージや感情として出て来ては驚くこともあるはずだ。
幼い時のあなたは、まさに子供であり、今のような人格も記憶ももってはいなかったが、しかし、それも<あなた>に違いない・・・という感覚があるだろう。
例えば、小学校のころのあなたは、今のように成人し、今のような体格、今のような性格、今のような感情の癖など持ち合わせていなかったはずだが、しかしその時の自分も今の自分も<あなた>であると間違いなく感じるはずである。
年かっこうも趣味趣向も、年齢も違うのにも関わらず、あなたは<あなた>だという感覚が続いているはずだ。
このように、普段は気付いていないだけで、今の意識を含む更に大きな意識・記憶があるというのは当たり前のことなのだ。
またそのどれもが自分であるというアイデンティティ感覚・<わたし>という感覚だけは間違いなく実感していることだろう。
このように、意識の主体としての<わたし>の現われ自体は変化し続ける・・ということだけはいえる・・<わたし>とは、そんな存在だと考えることもできるはずである。
其の意味を称して 「I am that ・・I am 」 と言う。
わたしは<私であると>想うところの存在である・・ということだ。
わたしとは、肉体である・・・とは言えないのだが、またそう想うこともできる。
そう想いこめば、またそのような存在フィールドを体験することになる。
多分今までは、世界の多くの人々がそのような観念でもって人生を送っていた時代であったとも言えるだろう。
生れて死ぬまでが<わたし>であると思いこんで、あるいは思い込まされてきたともいえるかもしれない。
良くいわれる3次元世界はそういう体験世界のことであったのだろう。
しかしながら、外の世界ではなく、心機一転して自分の意識を掘り下げてゆく過程においては、そのような一般的な3次元的な観念の枠をはるかに超えた<わたし>に関する記憶やイメージ、既知感などに出くわすことになるだろう。
それらを単なる「無意識レベルでの想像」と考える方が心理学的合理性に合っていると思える場合もあるものの、
どう考えてみたとしても、今までのこの人生での記憶以外のタイプの記憶のようなものも確かにある・・ということを受け入れる方が、合理的あるいは妥当である場合も多いのである。
つまり、自分の中には、この人生での記憶だけでなく、さらには幾多の転生での記憶もあるということの事実を受け入れた方が自然だということにもなってくる。
何事も古い枠でこじつけて説明することが、実は逆に科学的合理性に合っていないことに気付かなければならないのだ。
現在では、退行催眠やリーディングという手法があり、そこに出てくるものはいわゆる自己の内面深くにあるより大きな生命としての<わたし>の情報ということが言えるだろう。
確かに、その手法の施行者や本人の意識のフィルタによって微妙にその情報も変調されることもあるために、はっきりとわからないケースもあるものの、明らかに今の世界以外の話としか考えられないような体験・感情を再現することがわかっている。
また私などのように、夢や半覚醒の微妙な意識の狭間での断片的情報取得とその体系化によっても可能だし、
あるいは人生の中での事変にからむ臨死体験なども、より大きな<わたし>への強烈な気づきを得ることになる。
あるいは古来からの手法のように徹底的な内観によって自己を掘り下げることもできる。
・・・・
要は、私たちという意識的存在は、一過性の単なる有機動物などではないということ。
そして意識的存在は、この世界という時空を超えた存在であるということである。
またその遥か先は、とてつもない存在である<一なる全体>に繋がっていることもわかるのだ。
それも<わたし>なのである。
・・・
何かにつけ忙しく動き回ることがどこか美徳とされる時代では、動き回ることによる生成物のみを後生大事に扱ってきた。
その最たるものが物質的富の蓄積なのだろうか。
目先の物にこころを奪われ、必要以上に集積・蓄積しなければ生きてゆけないなどという強迫観念がいつの間にか支配的になったようである。
我々は、世界の様々な出来事の解釈、多くの人々の様々な種類の固定観念のほうに、注意を集中させ過ぎていたのだ。
それを観ている、体験している、そして今・生きてある<わたし>の方に、その意識の焦点を合わせなかったのではないだろうか。
ある意味では、
物質主体、物質的富を追い求める今までの時代こそ、それぞれの<わたし>達にとって、実に「暗い」時代だったのである。
あなたとは何か。
わたしとは何か。
この世界で行うべきはずの究極のテーマは自己の探求であったのだ。
また、この問いかけをするには、自らの内面と言われる方にその意識を向けなければならないし、またそうすることによって、鏡としての外の世界の在り方もよく見えてくるのだ。
まず、内面から生じる様々な想いそして感情を、それそのものになり切ることなく、あるいは自己投入することなく、観察するポジションを確立しなければならない。
自己の自己たる所以は、その刹那的な肉体だけにあるわけでもない。
それを通じて、様々に湧き出でるところの想いや感情・・「想念」、すなわちこころ、あるいはマインドを観察する、あるいは観照することが極めて大切だということだ。
まず心を静めるには、それになり切らず、それをそれとして知覚すること、即ち観ていることが大切である。
それは自己とは、肉体でもなくまたこころでもないことに気づくためだ。
どこか遠くに行かずとも、今の普段の当り前の生活のなかで、自らの内面を注視することである。
そうすれば、乱れたこころの水面は次第に静かになり、磨かれた鏡のように澄み渡り、本来の<わたし>すなわち<真我>が観えて来るだろう。
今は時間空間を遠く離れたと感じている・・<あなた>を観ている元の本体、あるいは真なる、あるいは大いなる<あなた>に気づいてゆくことになる。
時間や空間等は有って無きものである。
実に、人生という日々の与えられた生活こそは、大いなるあなたへ帰還するための、極めて貴重な探求の場なのだ。
大いなるあなたは、間違いなく<あなた>の中に在るのだ。
あなたも私たちも、
それを再び探し出す旅を今ここで行っているのだ。
それこそがこの3次元世界という体験ワールドの醍醐味である。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。