気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

真我は内に在り

2011-10-30 16:06:39 | 覚醒意識

俗に言う生まれ変わりというものに既に気付いている人も多いだろう。

 

あなたという、あるいは私という存在形態は、何もこの世界、この時代のものだけではないということである。

 

一般には他生に渡る様々な体験や想いは、DNAや潜在意識、あるいは魂意識等と言われる部分に記憶されているようである。

 

DNAは身体の設計図でもあり、その設計図は、祖先という幾多の身体の使用者の想いや体験が昇華されて記憶され、仕上げられてきたものと考えることもできる。

また、いわゆる「魂」がこの次元世界の「身体」への意識の投影・転写・あるいは「誕生」のおりには他生、あるいは多次元レベルでの記憶も加わることになっているようである。

 

多分それは、今はジャンクDNAと言われる意味不明の領域にあるはずである。

 

ここに書かれた言語?は現状での3次元的な観念フィールド、あるいは思考ツールではなかなか解読・構築等ができないかもしれないが、そのうち可能となるはずである。

 

それは、我々の生命観が、より大きな生命観に移行した段階で、自然に解けるような仕組みでもあるだろう。

 

またその解読・構築は、化学的な手法によらず、直接我々の意識レベルからのアクセスによって行うことができるのではないだろうか。

 

  

一般にも言われて久しい「潜在意識」とは、「普段の意識」の集合した大きな意識といえるだろう。ある面では過去の「記憶」の集合とも感じるかもしれない。

 

ちょうど車の車輪が「地面」と1点で接していながら、1点にから1点に連続して動いて進むように、

 

常に1点でありながら、まさにそれによって円を描いているように、我々の「今の意識」も実はより大きな、膨大なる、あるいは壮大なる「意識」の部分であるということだ。

 

それに気づきだした人々も増えているが、ただ多くの人々は、車輪、あるいは大円、または更に大きな円環とでも言うべき、より大きな<わたし>になかなか気づけないようでもある。

 

それは何故なのかと言えば、

 

いわゆる意識が外の世界にくぎ付けになっている・・、あるいはこの世界の現われの方に、即ち現象のほうにその1点たる意識をフォーカスさせているからだ。

 

つまり現象世界のみを追いかけているということである。

 

映画を観ていること自体に夢中になってそれに自己同化し、それを観ている当の本体を忘れてしまっているということである。

 

この世界は、大いなる自己アイデンティティを忘れる、その忘れ方が激しいような仕組みの世界であり、ある意味では、それを称して「次元降下」というらしい。 

 

・・・・・・

 

みじかなところで考えてみると、

 

1つの人生においても、生れて以来の知覚、思考、感情という創造物は潜在意識にしっかり記憶されていることは、誰にも理解できるだろう。

 

普段は忘れている幼い時代の記憶が、何かのきっかけで、あるいは眠っている時などには、強烈なイメージや感情として出て来ては驚くこともあるはずだ。

 

幼い時のあなたは、まさに子供であり、今のような人格も記憶ももってはいなかったが、しかし、それも<あなた>に違いない・・・という感覚があるだろう。

 

例えば、小学校のころのあなたは、今のように成人し、今のような体格、今のような性格、今のような感情の癖など持ち合わせていなかったはずだが、しかしその時の自分も今の自分も<あなた>であると間違いなく感じるはずである。

 

年かっこうも趣味趣向も、年齢も違うのにも関わらず、あなたは<あなた>だという感覚が続いているはずだ。

 

このように、普段は気付いていないだけで、今の意識を含む更に大きな意識・記憶があるというのは当たり前のことなのだ。

 

またそのどれもが自分であるというアイデンティティ感覚・<わたし>という感覚だけは間違いなく実感していることだろう。

 

このように、意識の主体としての<わたし>の現われ自体は変化し続ける・・ということだけはいえる・・<わたし>とは、そんな存在だと考えることもできるはずである。

 

其の意味を称して 「I am that ・・I am 」 と言う。

 

わたしは<私であると>想うところの存在である・・ということだ。

 

わたしとは、肉体である・・・とは言えないのだが、またそう想うこともできる。

 

そう想いこめば、またそのような存在フィールドを体験することになる。

 

多分今までは、世界の多くの人々がそのような観念でもって人生を送っていた時代であったとも言えるだろう。

 

生れて死ぬまでが<わたし>であると思いこんで、あるいは思い込まされてきたともいえるかもしれない。

 

良くいわれる3次元世界はそういう体験世界のことであったのだろう。

 

しかしながら、外の世界ではなく、心機一転して自分の意識を掘り下げてゆく過程においては、そのような一般的な3次元的な観念の枠をはるかに超えた<わたし>に関する記憶やイメージ、既知感などに出くわすことになるだろう。

 

それらを単なる「無意識レベルでの想像」と考える方が心理学的合理性に合っていると思える場合もあるものの、

 

どう考えてみたとしても、今までのこの人生での記憶以外のタイプの記憶のようなものも確かにある・・ということを受け入れる方が、合理的あるいは妥当である場合も多いのである。

 

つまり、自分の中には、この人生での記憶だけでなく、さらには幾多の転生での記憶もあるということの事実を受け入れた方が自然だということにもなってくる。

 

何事も古い枠でこじつけて説明することが、実は逆に科学的合理性に合っていないことに気付かなければならないのだ。 

 

現在では、退行催眠やリーディングという手法があり、そこに出てくるものはいわゆる自己の内面深くにあるより大きな生命としての<わたし>の情報ということが言えるだろう。

 

確かに、その手法の施行者や本人の意識のフィルタによって微妙にその情報も変調されることもあるために、はっきりとわからないケースもあるものの、明らかに今の世界以外の話としか考えられないような体験・感情を再現することがわかっている。

 

また私などのように、夢や半覚醒の微妙な意識の狭間での断片的情報取得とその体系化によっても可能だし、

 

あるいは人生の中での事変にからむ臨死体験なども、より大きな<わたし>への強烈な気づきを得ることになる。

 

あるいは古来からの手法のように徹底的な内観によって自己を掘り下げることもできる。

 

・・・・

 

要は、私たちという意識的存在は、一過性の単なる有機動物などではないということ。

 

そして意識的存在は、この世界という時空を超えた存在であるということである。

 

またその遥か先は、とてつもない存在である<一なる全体>に繋がっていることもわかるのだ。

 

それも<わたし>なのである。

 

・・・

  

何かにつけ忙しく動き回ることがどこか美徳とされる時代では、動き回ることによる生成物のみを後生大事に扱ってきた。

 

その最たるものが物質的富の蓄積なのだろうか。

 

目先の物にこころを奪われ、必要以上に集積・蓄積しなければ生きてゆけないなどという強迫観念がいつの間にか支配的になったようである。

 

我々は、世界の様々な出来事の解釈、多くの人々の様々な種類の固定観念のほうに、注意を集中させ過ぎていたのだ。

 

それを観ている、体験している、そして今・生きてある<わたし>の方に、その意識の焦点を合わせなかったのではないだろうか。

 

ある意味では、

 

物質主体、物質的富を追い求める今までの時代こそ、それぞれの<わたし>達にとって、実に「暗い」時代だったのである。

 

あなたとは何か。

 

わたしとは何か。

 

この世界で行うべきはずの究極のテーマは自己の探求であったのだ。

 

また、この問いかけをするには、自らの内面と言われる方にその意識を向けなければならないし、またそうすることによって、鏡としての外の世界の在り方もよく見えてくるのだ。

 

まず、内面から生じる様々な想いそして感情を、それそのものになり切ることなく、あるいは自己投入することなく、観察するポジションを確立しなければならない。

 

自己の自己たる所以は、その刹那的な肉体だけにあるわけでもない。

 

それを通じて、様々に湧き出でるところの想いや感情・・「想念」、すなわちこころ、あるいはマインドを観察する、あるいは観照することが極めて大切だということだ。

  

まず心を静めるには、それになり切らず、それをそれとして知覚すること、即ち観ていることが大切である。

 

それは自己とは、肉体でもなくまたこころでもないことに気づくためだ。

 

どこか遠くに行かずとも、今の普段の当り前の生活のなかで、自らの内面を注視することである。

 

そうすれば、乱れたこころの水面は次第に静かになり、磨かれた鏡のように澄み渡り、本来の<わたし>すなわち<真我>が観えて来るだろう。

 

今は時間空間を遠く離れたと感じている・・<あなた>を観ている元の本体、あるいは真なる、あるいは大いなる<あなた>に気づいてゆくことになる。

 

時間や空間等は有って無きものである。

 

実に、人生という日々の与えられた生活こそは、大いなるあなたへ帰還するための、極めて貴重な探求の場なのだ。

 

大いなるあなたは、間違いなく<あなた>の中に在るのだ。

 

あなたも私たちも、

  

それを再び探し出す旅を今ここで行っているのだ。

 

それこそがこの3次元世界という体験ワールドの醍醐味である。

 

 

 

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マザーテレサのことば

2011-10-16 10:18:20 | 偉大なる先達の言葉

マザーテレサも間違いなく覚者であると感じる。

 

そして普遍意識からくる「愛」を、女性とは思えぬ強靭で不屈の信念を通して、他者への奉仕行動というダイナミクスで表現したのだと思う。

 

なんという強烈な光だろうか。

 

キリスト教とか修道院とかインドでの救済活動とか、様々なイメージがあると思うが、そんなことは枝葉にしか過ぎない。

 

誰がどう権威に利用しようと、何を宣伝しようと問題ではないのだ。

 

ただ、わかる人にはわかるものである。

 

どこの誰が、どんな名前の、どんな職業の、どんな知名度の、どんな業績の、どんな履歴の、どんな性格の人なのか・・という、枝葉末節のようなものは儚く消え去る、『一時だけ極めて現実と思わせる』・・幻(まぼろし)のようなものである。

  

そのようなきらびやかな虚飾、まぼろしに騙されてきた時代はもう終わりにしようか。

 

今ここに生きてある我々は、今の『現実』が、どうも何だか不都合で、どうもなんだか苦痛で、どこかしら不満足であることだろう。

 

多分大なり小なり、そうではないだろうか。

  

世の中が間違っているために、自分が幸福を感じられない・・・と感じている人もきっと多いだろう。

  

自分の波長にあった人がいないという人間関係の不満もあることだろう。

 

全てはこころの持ち方なんだ・・と気がついてはいても・・・

 

そうはいってもやはり現実の生活、現実の世界では如何ともしがたいものがある・・と思って、こころの肩を落としていることの繰り返しもあるだろう。

 

あるいは、お金があれば何の問題もないのだが・・・と思っているかもしれない。

 

世の中が間違っているから、自分が不都合な状態にある・・・・という想いに気づいているだろうか。

 

外が不都合な状態であるからして、わたしは不都合(不幸)であるのだ・・・という、一見まともそうな論理・観念をこころのパターンにしていないだろうか。

 

しかしそれは全く違うことに、既に気づいてもいるはずだ。

 

そう、その古いパターン、それはもうやめたが良い。

 

それはある意味では『待ちの状態』の意識であり、何かをしてもらいたいという、外に甘えたいような幼い意識の現われだったのではないか。

 

あたかも、おっぱいをもらい、ご飯を食べさせてもらい、優しい言葉を投げかけてもらいたいというような、幼い時期の意識にすこしだけ未練があったのかもしれない。

 

また、それはどこかに「恐怖」があったためなのかも知れない。

 

この世界に生れ出て、自我が構築される過程において、様々な不都合や恐れを感じながら、

 

いつの間にか大勢の他者の様子を伺い、評判を気にし、集団の中でうずくまる生き方を編み出して、結局は自分の色と違う色を自分に塗りたくってきたのではないか。

 

自分の色と違う色を自らに塗りたくれば、それこそ苦痛を我慢しなければならないはめに陥るだろう。

 

それは牛乳瓶の中に無理やり入り込もうとする猫のしぐさのようでもある。

 

それは衣服のLLのサイズの人が、無理やりSサイズの衣服を着るようなものでもある。

 

確かに「不快」極まりない、「不都合」この上もないはずだ。

 

誰かが言うから、世間の風潮がこうだから、世の中の価値観がああだから・・・という、現われては消えてゆく幻想のような想い・観念・イメージに、自分を合わせていたのではないのか。

  

本来、あなたやわたし達は、自分のこころ、意識の中心から来る何かの「感じ」をしっかりと読み取ることをしなければならないはずだ。

  

実はこれこそが最も大切なことでもある。

  

外のように見えて、全ては内から来るのだ。

  

本当にわかるだろうか?

 

そうじるだろうか?

 

それをしないがゆえに、回答を求めて外の世界にさまようのではないか。

 

誰かが教えてくれる。

 

誰かがみてくれる。

 

誰かが支えてくれる。

 

誰かが理解してくれる。

 

誰かが救ってくれる。

 

そして誰かが愛してくれる・・・

 

他者や異性や家族や社会や国家や世界に期待をかけ、そして裏切られてこころの歪みを貯めこみ、逆に歪みを解消すべく、またまた外の世界を探し回る。

 

そんなこともあったろう。

 

しかし『今』はもう違うはずだ。

 

あなたは、昔もこれからも『あなた』である。

 

今は、『あなた』の中を探す時に至ったことを自覚すべきではないか。

 

あなたの身体、こころ、そして『無限』に接続されている、あなたの意識の中を探しだし見つけていくことで、

 

結果、

 

それが『外』という世界に少しづつ、自然に、確実に現われるということだったのだ。

 

我々は今まで逆をやっていたのだ。

 

大いに笑える話ではないか!

・・・

どんなことでも、大きかろうが少なかろうが問題ではない。

 

あなたが教えるのだ。

 

あなたがみてあげるのだ。

 

あなたが支えるのだ。

 

あなたが理解するのだ。

 

あなたが救うのだ。

 

そしてあなたが愛するのだ・・・

 

「誰か」ではなく、誰か・・とは、それぞれの「あなた」なのだ。

 

「誰か」ではなく、それぞれの「わたし」なのだ。

 

 

そのように方向転換した人々の住まう世界が、いわゆる第四密度の世界とも言えよう。量でもなく大きさでもなく、意識的な、質的な転換のことである。

 

本来のわたし・・達であれば、嬉しく楽しいのが当たり前である。

 

なぜなら、

 

全ての歪みの元にあった、ありもしない他者の影など存在しないからである。

 

これはまた、神たる・主体たる意識「わたし」への、意識的眼ざめを通過したということである。

 

 

 

下記の文は誰かがマザーテレサ存命のおりに、彼女の言葉を書き取り、まとめたものだと言われている。

 

 

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マザーテレサのことば  カルカッタにて・・・

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人は、理性的でなく、論理的でなく、自己中心的です。

 

そんなことは問題ではありません。

  

   愛しなさい。

 

良いことをしても、エゴだと非難されるでしょう。

   

  そんなことは問題ではありません。

 

    良いことをしなさい。

 

あなたの夢が実現すると、裏切る友や本当の敵に会うでしょう。

 

  そんなことは問題ではありません。

 

    夢を実現しなさい。

 

あなたがする良いことは、明日には忘れられるでしょう。

 

   そんなことは問題ではありません。

 

    良いことをしなさい。

 

正直で誠実なことが、あなたを傷つけやすくします。

 

  そんなことは問題ではありません。

 

    正直で誠実でありなさい。

 

あなたが何年もかかって築いたものが、壊されるかもしれません。

 

   そんなことは問題ではありません。

 

     築きなさい。

 

あなたが人々に援助をすると、その人々は腹を立てるかもしれません。

 

   そんなことは問題ではありません。

 

     人々を援助しなさい。

 

あなたの最善を尽くしなさい。世界はあなたを蹴り飛ばします。

 

   そんなことは問題ではありません。

 

     最善を尽くしなさい。

 

 

 

 

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観自在

2011-10-03 06:20:59 | 直感真知

人間は肉体を有しているが、人間は肉体そのものではない。

 

数十兆と言われる細胞で構成されている我々の身体は、さらに無数の分子・原子によって構成されている。

 

さらにまたその原子自体も、無数の素粒子によって構成されている。

 

例えば、その原子・分子・素粒子などを量的に数えることが可能であろうか。

 

いやいや、

 

多分それは、眼前にある1つのこの宇宙の中の恒星、惑星、あるいは原子・分子・あるいは素粒子の数を数えるのと同じようなことだろう。

 

一定の体積であるからには、それなりの数量はあると推測可能ではあるものの、人間知で数えること自体に無理があるとも思える。

 

またそれらの無数の構成要素が、完全なる調和をもって、各々無限ともいえる相互作用を通じて、

 

今のあなたやわたし達の「肉体」を現前させているのだ。

 

我々の肉体を構成する要素も、量的計測、カウントなどの物理的方法を超えているということである。

極微の存在するか存在しないか定かではないレベルの素粒子群は、自らを自らたらしめるべく、重合、結合を行う事で原子・さらには分子、さらには細胞となって我々の肉体を作り上げつつ、それを維持している。

 

それがあなたの「肉体」となって、そこに現前しているのだ。

 

実のところ、

   

人が意識的に身体細胞の働きを細かく指示しているわけではない。

 

すべての肉体の活動は我々の意図に関係なく自然に行わなわれている。

 

あなたの今の肉体もそうである。

 

あなたのごく表面の意識ではなく、大いなる意識、あるいは宇宙意識、あるいは全体そのものの意識が、

 

あなたの肉体を生かしているということである。

 

微小の部分で創生され維持されている肉体の在り方も、

 

それは一糸乱れず動いている、

 

それこそ完全円満なる調和そのものではないだろうか。

 

人間のこころで痛めつけた肉体の疾患もいつか自然に治癒するように、

 

それは自動で、自然に完全なる調和を常に志向しているのだ。

 

我々は肉体を通じて顕現している、謂わば霊的実在であるとしても、

 

その肉体の驚異的な在り方にも、あり得ないような奇跡と調和を感じないではおられないはずである。

 

また、我々が肉体を超える『霊的存在』であるが故にこそ、

 

その1つの現われである、この『肉体』を観照することができるのだ。

 

 

 

それとも、

我々は飯を食らい、排出し、性衝動で突き動かされ、あるいは肉体存続のために他の命を犠牲にするような、単なる猿の頭脳進化の結果だと、本当に信じているのだろうか。

 

世が弱肉強食だという嘘はどこから出てきたのだろうか。

  

それは一体ぜんたい誰の洗脳なのか。

 

学校の先生か?、親たちか?あるいは、偉そうな議員か?

 

あるいは政府の訳知り顔の役人たちか?

 

あるいは世界の表の裏で支配している者たちか?

 

あるいは虐げられて歪曲した思想に固まった、哀れな民族の仕返しなのか。

 

それは真実なのか?

 

いいや、違う。

 

そんなことよりも、何よりも、他者がどうであろうとなかろうと、

 

我々は自らの「観念」の鎖を、自らで解き放たねばならない。

 

これこそが真実なのだ。

 

自らの『観念』は、誰が言おうと、皆が言おうと、

  

結局は自らで造り上げるものである。

 

造り上げたものは自分で刈り取る定めでもある。

  

これは逆に意識を有する人間であるからこその、完全なる自由さを示していると言えるのだ。

 

不自由だ・・と宣言して、自らを不自由に落としこむこと、

 

その不自由さを作り上げる能力は、人が自由な意識存在であるがゆえのことである。

 

他者のおかげで不都合を味わうと信じ込むこと。

 

実はこれこそ、笑える話なのだ。

 

その不自由さを、自分以外の他のせいにする幼き観念、

 

皆がそうでないなら、自分もそうでないだろうという、

 

いわゆる他者依存の幼児的観念、 

 

自らの映しだす哀れな自らの姿、

 

それを観て、それを何かのせいにするようなこと。

 

 

それすらも気づけぬことにこそ、人間本来あり得ざる闇に閉じ込められているということを悟る必要性があるのだ。

 

何であろうと、教えられた嘘であろうと、それをそうだと信じ込んでいること自体が、自らの造る観念に束縛されていたということである。

 

 

悟りとは自らの『虚妄の観念』からの解脱である。

 

その為には、その観念自体をそれとして客観視しなければならない。

 

 

まさに、

 

我々は日常で、様々な不満を憶え、不平をこぼし、あれが悪いとかこれがダメだというような、邪で不調和な思いを抱きながら、

 

こころを重くし、足取り重く歩いているようなものだが、

 

そういうこと自体が、何か重大な意識的存在、あるいは人としての『過失』であると思えないだろうか。

 

我々は、発展途上の人類のこころの集大成である、この文明の中にいて、それら不完全さばかりを論(あげつら)いすぎたのだ。

 

他への不満の前に、自らのこころの在り方を客観視しなければ、どうしてもこうしても、他者を責める観念ばかりが横行してしまうことは火を観るより明らかではないのか。

 

 

また、外の輝ける新しい時代の仕組みについて考える前に、

 

まずその前に、

 

自らの依って立つ大自然の在り方に、こころの底から気付かなければならないのだ。

 

大自然の中にこそ、学ぶべきものがあるということに気づかねばならない。

 

自然は搾取すべきものではなく、それから学ぶべきものである。

 

我々は、勝手に必死に生きるのではなく、

 

大自然の、大宇宙の ふところに生かされてあるということを、

 

当然のこと、当たり前のこととして気づくべきである。

 

観るべきものは、我々の小さく幼いこころの作り上げるところの文化、文明の方ではなく、それらを包んで存在するところの、大自然、大宇宙の在り方のほうなのだ。

 

我々をいつも包んでいる大自然、

 

それはいつもそこに在るではないか、

 

逆に、我々の愚かな行き過ぎの文明のおかげで、

 

かろうじて息も絶え絶えになっていながら、

 

海も山も空気も、いまだそこにある。

 

涙が出るほど、有難いことではないのか。

 

 

 

毎朝確実に昇る温かい太陽、

 

夜をそこはかとなく照らす、高貴な光を発する月、

 

寝ころべば、ざわざわと寝床を作ってくれる草たち、

 

途切れることなく、我々の肺を満たしてくれる精気に満ちた大気、

 

あらゆる動物の生存のための酸素を供給している様々な植物たち、

 

塩水と淡水を見事に切り分ける輝くような水の循環、

 

 

我々は、このような無条件の豊かさ、無条件のいたわり、無条件の愛の顕現によって、

 

生かされていることを、いつから忘れてしまったのだろうか。

 

これらは決して単なる感傷ではなく、今我々の置かれている厳然たる事実であることを知るべきではないだろうか。

 

知らぬこととは言え、自らを含め、大自然の無条件の、そして文字通り言葉に出せないほどの、そのいたわりと愛に対して、人類自身の無知なるそのおバカさ加減に気付くべき時なのだ。

 

大自然、それは我々を育て慈しんだ親たち以上に、愛深い現われであることに、もう気付かねばならないのだ。

 

人工的な小さく愚かな価値観の中に、うずくまり、不平を言い、

 

最後には金融という単なる貨幣の動きばかりに惑わされ、

 

上に行くほど重たいばかりの社会、組織の維持のために人生をすり減らし、

 

たまに、思い余って革命だ、改革だと騒ぎまくる。

 

いつも最後には、生活のためと、自己存続のためといっては、GDP信仰や経済発展という自然破壊を続けようとする。

 

我々を黙って生かし続ける大自然を壊して、人間だけが幸福になれるわけがないではないか。

 

大自然の中の、我々の朋友たる動物、植物を滅亡させて、人間の文明が栄えるわけはないではないか。

 

 

大自然、大宇宙、微細なものから極大まで、

 

調和に満ちたこの次元世界、

 

我々の喜び遊ぶこの世界、

 

それを「そう」現前せしめているところの極大とも言える「

 

それなくば一瞬とても、誰すらもこの世界で生きてゆくことは出来ないのだ。

 

今ここに在ることに、どこをどうしても、何をどう言い繕ったとしても、

 

まず、出てくるものは『感謝』以外にないではないか。

 

あなたは、例えば大切にしている自分の肉体にも深く感じるところはないだろうか。

 

言葉に現わすならば、我々の個々別々にみえる肉体すらも、まさに小宇宙とも言える在り方をしているのだ。

 

そのように現われている「あなた」は、そのままで何をすることもなく、

  

まさに小宇宙以上の存在である。

 

 

我々の両の眼から鱗(うろこ)を落とし、

 

歪んだこころを素の輝きに戻し、

 

本来の嬉しさ、楽しさを意識の底から湧きあがらせるのだ。

 

その為には外の世界という、世間という鏡に映った自らを、

 

客観視してゆかなければならないのだ。

 

曇りなき平安、動揺なき静寂、晴れ渡る爽やかさは、・・

 

自らの観念を自らが「観る」行為によって達成されるのだ。

 

観る』ことで『意識の光』が発せられ、様々な不安、恐れを感じさせるところの虚妄の観念の黒雲は消え去るのだ。

 

昔で言うところの『菩薩』とは、まさに『観自在』であるといえよう。

 

それはどこかの他の誰でもなく、すべてのあなた、すべてのわたし達のことである!

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました