アインシュタイン以降の時間・空間の相対性への認識は、我々の次なる認識レベルへの重要なステップでもありそうです。観測者がいなければ光の速度に基づいたこの理論も現象も成立たたないでしょう。数式も何も意味がありません。
つまり、その観測者の認識レベルに応じた時間・空間が現われてくるものだとも考えられます。それはミクロで云えば素粒子の観測者との触れ合いによる挙動の変化にも伺えるものです。
我々の馴染んでいる『こころ』、また馴染んでいながらも解明されずにいる『意識』という働き、この一見形而上的な概念は、実は物質レベルを包括し生み出す空(くう)なる可能性に対する、その様々な顕現への青写真であるという事が理解可能かもしれません。今の時代は、まさにその認識への入り口に来ているのではないでしょうか。
●通常観念における『想念』
我々人間が他の生物と違うのは、想念、すなわち「思考」と「感情」の複雑さにあることは周知のとおりです。考えることは人間存在の特徴と言われています。思考は「思い」とも言えますが、思考がどのようなものであるのかは、実は判然としていないかもしれません。また感情とは何でしょうか。
思考は頭で考える?イメージのようなものであり、精神活動にすぎない・・という風に思っているかも知れません。あくまでもそれは人間の頭脳が生み出す眼に見えない精神活動である・・という風に感じるものでしょう。 感情は出来事に対する喜怒哀楽等であり、思考とは違い、自然に出てくる体験に対する意識的・無意識的な反応・感慨とも言えます。
ほとんどの場合感情は、体験に基づく内面の自然発生的反応とも言えるものであり、可笑しい時は笑い、悲しい時には泣きますが、思考のように意図的に出てるものではないのは明白です。
また人間には思考・感情があるから、その他の動物と違うというわけであり、霊長類としてこの生態系の中で頂点で生きることが出来るのだという風に、間接的ながら教わってきたようです。人間がその「思考」で思いつく道具を、まず手足という身体を使い、次から次と作り出すことで、ひいては今の文明を作り上げてきたというのが、我々の通常抱いている観念です。
●『思い』の本質
デカルトの「我思うゆえに我あり」という、思考の主体としての人間存在の意味付けは、すなわち我々が存在していることに気がつくのは、そう思うことが出来るからであるとも解釈されるでしょう。
わかったようなわからないような表現ですが、思考の本質が出ているようです。『思い』がなければ、我々は我々自体に気づくことはないということです。すなわち思考がなければ、「無意識」に歩いている存在とも言えるでしょうか。いや、歩いている・・ということすらも認識できないでしょう。
この「思い」という意識の作用は、宇宙開闢の時点の意識、『今その瞬間』という始めを生み出した根源存在:第1義的存在の「自己認識」のパターンと同質といえるでしょう。いわゆる神または仏の自己想起とも言われます。あなたやわたしも人間存在として、その自己想起を『今」体現しつつあるのであり、わたしが今存在していると実感することは、まさに我々は創造の根源から発する、一即多を体現する鋳型であるという証なのではないでしょうか。
創造の大いなる根源は、我々を通して自らを観ているのです。
●思考は創造する鋳型(パターン)
思いが現実化するということに関しては、今は大勢の人々も気づき始めています。『思い』なくしてどんな行動も現われないことは誰しも理解可能です。また大きな意味で、様々な想念・思考は創造の要素なのです。その思いに「時間」というプロセスをはめ込んでいるならば、その時間というもの現われ、思い→現象化・物質化というプロセスを、悠長でわかり難いものにしているのです。その証拠に、我々の信念・通念の中には、大なり小なり必ず「時間経過」というものが投影されているでしょう。
想念そして感情は、自己の存在領域のあらゆるものの現実化、物質化の青写真、設計図に相当しています。また想念の中に時間という要素が組み込まれているからこそ経過時間表現の1要素として経験するのです。
●こころの法則
思いが一定の傾向を繰り返せば、それは意識から潜在意識に固定され、それは鋳型となって行動や体験に繋がります。そしてそれらの体験・経験による現実化を目の当たりにしたときに感情が生まれます。思考は行動、体験の原因であり感情はその現実化の確認の為に起きるものでしょう。転生における様々な感情が記憶として「魂」に記録されるという話も頷けるでしょうか。
●魂の「記憶」は感情の記録といわれる所以
様々な思考の内で頻繁に繰り返されると、それが記憶になります。算数の九九でも経験しているように、繰り返すことでそれを憶えてゆくものです。その繰り返しは選択された情報として潜在意識に固定されます。それら潜在意識に入った、繰り返された思考の轍(わだち)は、再び思考で変えない限りそのまま残るものです。 我々は、潜在意識に固定された様々な記憶を元に行為することになるのです。潜在意識に記憶された観念の集合は、総合的なその人間存在のそのとき「信念体系」を現します。
ちなみに、この信念体系に応じてその波動に合う様々な時代や世界への転生という体験をするようです。前世の記憶の再生はそのような転生の経験知を垣間見ることに相当するのでしょう。まさに思いのまま・ありのままがそこにあるわけです。
●自分自身を知るとは、創造する者であることに気づくこと
問題は、人生というドラマのその明確なプロセス、原因と結果に関して『無意識』である場合でしょう。 「いったいどうしてこうなのか~!?」という感情は、そのあからさまな自分自身の創造過程に気づいていないという体験の反応・感慨であることを示しています。
自分の思いが原因となっていることがわかるまでは、眼に見える外の世界、物質の法則、世界の他者達にその原因を捜し求めますが、方向が全く違っていたという悟りに至れば、自分の世界の原因は自分自身にあることがわかり、結果自己の意識次元を1つ超えることになります。
これは無意識的な自己から意識的な自己への脱皮ともいえるものです。自己責任というのは、他者に対するものだけでなく、自己自身に対する自己責任ともいえます。自己の『思い』に責任をもつという事が、意識的存在としての1つの自立を意味しているのです。
●自分の思いを自分で知らない状態に気付くべし
思考という青写真は明確さを与え、意図するとおりに創造するための「鋳型」であるということです。 ところが、通常は我々の『思い』自体がいつも結構あやふやであり、肯定や否定、欺瞞や信念などが混ぜこぜになっていることに気がつかないものです。 思いが無軌道であれば、我々が体験する現実の類も、それに従って混沌状態になります。何がどこでどうなるのかわからない、不安に満ちたものになるでしょう。
今、我々が希望した状態にないと考えているならば、それは他人や世間のせいではなく、その希望を求めながらも、様々な否定や忘却に忙しいため、その希望した状態を固定できずにいる、各人の思いや感情(こころ)の有様に原因があることは明白です。
●引き寄せではなく、そのまま、ありのままが出てくること
意識的、無意識的に関わらず、云わば体験を自分で引き寄せているのが本当のところでしょう。引き寄せという言葉は何か無理やり引っ張る?・・というイメージがあるために、ここでは相応しくないかもしれません。自分で自分の世界を、思考・感情でもって、いつもちょうど、そのように創造しているという表現のほうが正解かもしれません。
自分で気づかずに、自分の有り様を決め続けていることと言っていいかもしれません。こんな筈ではない・・という言葉自体が、はっきりそのことを明かしているのです。自分で自分に対して首をひねっているのかもしれません。結局、外は結果・写し絵であることに気付くまでは。
●内観・自己観察で目覚める自分
内観や瞑想、自己観察はそのような自分自身の内面と感じるフィールドに生起する、現象の青写真となる「想念」を観察するという極めて重要なプロセスであり、これなくして、まともな青写真など出来るものではありません。自己の設計図に手を入れず、それが無茶苦茶であるのをほったらかしているに等しいのです。放ったらかしにしていながら、よそ様の事、社会の事、世界の事ばかり気にしているのが、我々一般の人類集合意識と言えるでしょうか。期待に満ちた眼差しをお互いに投影し合っているようです。
個人個人に必ずある、生と死という極めて重要なテーマ自体にも、大勢の人間が最後までその意識の光を当てずにいるのは、多分に、そんな事など意に介していないように見える大勢の人々が周りにいると信じているからなのでしょう。価値基準がいつも他人にあると言ってもいいでしょうか。
●求めることでそのまま「不足」を実現している現実
例えば、幸せでありたいとは誰しも思っているのに、どうして幸せではないのか、という素朴な疑問も、まさに自分の思っていることをそのまま実現しているという事実を示している事に気づくでしょうか。
「幸福でありたいのに、どうしてそうでないの?」という疑問そのものが、幸福が現われないない事を、まさに示しているのです。幸福であれば単純に「幸せだ」と思うでしょうし、そうでない人は「あー不幸だ」と思うものです。これは禅問答ではなく、まさにその思いどおりのことを創造している真っ最中であることを示しています。
「幸福が得られていない・」という意識が、無意識的な代償として、物質、名誉、金銭などの架空の飾りを求めてきたのが現代文明ともいえるかも知れません。過去の時代に比べて周りの加工物・機械などは豊富になったのですが、それ故に幸せをと感じる人々が増えている・・とはどうしても思えないでしょう。逆に、余計な物や地位、名誉を確保、維持せねばならないようなことばかりに汲々とせざるを得ず、幸せを実感するどころか、不安と混乱が増大していることはないでしょうか。幸せを条件付きで追い求めれば、幸せはいつも追い求められる位置にあり続けるわけです。
幸せを感じれば、そのとき今、そこにまさに「幸せ」があります。 まさにパラドキシカルなことですが、これが真実でしょう。幸せをどこかに求める続ける行為自体が、「今幸せが無い」事を明確に宣言しており、そうしてそのものズバリ不足・不幸という実感を現し続けるのです。不足を外に求めること自体、そのとおりにいつも不足を実現しつづけているのです。
●エゴは自己の肉体生存のみを目的とする意識
条件を設定し獲得してゆくこと、その肉体レベルの生存目的と幸せを混同させるものが、所謂我々の「エゴ」といえるかも知れません。利己主義の先に幸せがあるものと信じ込んでいるこころのあり方が「エゴ」と言えるでしょうか。
不思議にも、本来の自己というものを「いつも」とりあえず、さておいているのが我々の姿態であったようです。これはまずもって「エゴ」を無くすると等ということではあり得ず、逆に、エゴにも気付いていないということなのではないでしょうか。内面のエゴにも気付けない場合に、そのエゴなるものを浄化など出来るわけもありません。生来、生存する為のあらゆる努力は自己中心的、競争的になる傾向があり、その刹那の肉体自己を中心とする思いの轍が「エゴ」と言えるかもしれません。現代社会はまさにそのような、正当なる?自己生存主張のざわめきの中にあるようです。
●観ること=光を発すること
古来からある、内観・座禅・自己観照・反省という行為は、外の世界に刺激を求め、ふらついている意識のベクトルを、因たる自己の内面に当てると言う行為であり、時代や文明に影響されない、常に有効な自己の目覚めの方法です。
自己の内面には様々な想念や古い信念・こころの轍(わだち)が見えるものです。エゴイスティックなこころ、影も日向もそこにきっと見えるでしょう。自己の内面にある影や闇と感じる部分を意識して、それを観ることではじめて「光」が当たるということです。光が増せば自分のいる位置や、辿っている道も明瞭になることは自明の理ともいえるでしょう。まさに観ることは、すなわち自己の変質を促す強力な意識作用のことでもあります。
自己の思いや感情の創造性に気がつけば、再び見える外の世界は以前と違った様相を呈します。自己のエゴフィルター、色メガネが外れれば周りの世界も変って見えるのが道理であり、他者である人々への理解も変るのです。ある意味で世界は実のところ創造主ばかりのとんでもない世界が見えてくるでしょうか。
光があって初めて見えると言うことではなく、実のところ、見ることで光が出るのが真実ではないでしょうか。物証で構築されている卑近な物理科学の世界であっても、そこに観察者がいなければ世界は無いも同然ということが明確に理解出来る時がそのうち来るかも知れません。忘れてならないことは、物質形態ではなく、意識であるわれわれの存在(being)こそが、第1義的存在であるということです。
●全てはなんと既に与えられている
進歩し続けるということは、不足を補う為の連続した行為ではないのです。一瞬一瞬が充実していながら、その豊かさ・味わいを現し続けるということであり、決して不足を不足のままで不満を持ちながら走り続けることではないのです。
「求めよ、さらば与えられん」という言葉は、不足を求め続けよ・ということではなく、求めているものが既に、そこに与えられていると言うことであり、不足感を求めることは、既にいつも「不足」を与えられ続けると言うことでしょう。思いはすぐに実現しているということです。
ここの処は、なかなか理解が難しいところであり、熟考が必要でありそうです。今、という瞬間を逃し続けるかぎり、やはり「なかなか?」であり続けることでしょう。「なかなか」パラドキシカルな仕組みでもあるようです。
●信じるごとくになっている現実そのまま
幸せであると感じている人は、幸せが「欲しい」とは思うことはないでしょう。既に何かをもっている人は「欲しい」などとは思いません。その違いは、意識の状態にあることがわかります。わかり難いですが、そう思っている分だけ、ちょうどそのことが実現しているのが真実と言えます。
●法則には例外なし
「汝が信じるごとく汝になる」というのは、聖人君子のたとえ話ではなく、まさしくそれが法則としてあまねく働いていることを示しているのです。今信じていること、正しいと思っていることが、その程度だけちょうどそこに出ていることが、シンプルな創造の原理とも言えます。
●幸せはいつも「今」ある
我々は「物があれば幸せだろう」・・とか、「有名になれば幸福になれる」・・とか、「リッチになれば生活の不安が無くなり幸せになるだろう」・・とか、支配者になれば何の不安も無くなり幸せになれるだろう・・とか思うものです。それらに共通するのは、ある条件を満たせば幸せになれると信じ込んでいるということです。「不足が満たされれば、幸せになれるだろう」という「嘘」を自らで刷り込んでしまっていることに気がつくべきなのです。
そのような場合は、「幸せ」を実は希求してはいないのかも知れません。潜在意識的には、個々の魂にとって必要な経験、すなわち不幸とは何か?という仮想経験をも積むということであり、別の意味で、そのような不足体験も出来ることの「幸せ」を選択し続けているのでしょう。表面の意識では「幸せ」を求めていながら、そうではない状態を「無意識的に」敢えて経験しているのです。顕在意識だけではなかなか気づかないものですが、幸せを求め続ける意識状態であること自体が、それを先に先に延ばし続けることの原因でもあり、また不足をいつも不足とする状態にあり続けることそのものが、ありのままに、そのとおりのことを実現しているのです。
従って、最終的には「こころの平安」を幸せというならば、幸せとは、今この瞬間に既に在ったし、いつも在り続けているということが真実なのです。思いや感情で創造するからこそ、ちょうどその分だけの状態が、そのまま顕現しているというのが、実にシンプルな、ありのままの我々の創造の有り様なのです。
●人間は自己認識のプロセス(道)にいる者
これはまさに自己を認識・実現しつづけているということでもあり、大きな観点から見れば、不幸も不足も、その人間のその時希求する、まさに必要な経験であり、自己実現のプロセスを表していることには変わりがありません。
無意識的な自己実現か、あるいは、意識的な自己実現かの違いでもあります。我々の「魂」の今のこの瞬間瞬間を歩いている「道」は、より広く深い意識的な自己認識に至る為のものであるわけです。我々は、無意識では道が良く見えませんが、より意識的になることで周囲が良く見えるようになり、周りを照らす光が次第に増してゆくプロセスにあるのではないでしょうか。 究極の根源意識から出た我々の「魂」なるものは、無限であるからこそ、意図する様々な表現をすることに喜びをもたらしてゆくものです。
それに気付いた存在にとって、今、何を選択するかと問われれば、それは誰にとっても明白なのではないでしょうか。今この瞬間に在る「幸せ」を第一義的に「実感」することであり、それはまさにそうであった・・と「自ら」知ることなのです。それにはそれに気付くことだけがまず必要なことであり、ありのままが全て素晴らしいと進んで実感できれば、それに応じて、ちょうどそのような素晴らしいことが否も応も無く、ちょうどその分だけ顕現してくるのが法則といえるのです。そこに例外はありえないでしょう。
「汝自身を知れ」というのは、ありのままの「今在るわたし」に気付くことでもあります。そこに強制的で過大な物的条件は不要であったことに気付けば、不足など元来無いことがわかる筈なのです。
安心・平安はこころで創造します。必要なのは、まずこころが安心・平安で固定するまでの努力です。物的条件は2の次であり、物や現象が主人公ではなくなります。
●自然な創造の流れ
創造は、意図→意識→エネルギー→現象(物質・環境)化 というのが法則です。我々は、物質探求→エネルギー→意識、という逆からの理解を行いつつあり、今、意識と意図に気づいているわけです。これに至れば、今度は意図、意識、エネルギー、現象・・への自然のプロセスを行なうようになるでしょう。これは2極化、分離意識からあるレベルでの統合意識の位置に立つということも出来ます。第1義的なものは現象でなく因たる意識にあるのは明白です。現象は影、ホログラムともいえます。実は時空間も精巧なホログラムであると考えられます。
想念、こころは意識の作用であり、我々の世界、現象を創り上げる因に他なりません。注意すべきなのは現象でなく我々のこころの方です。
本日も誠に拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。
(挿入絵はウイキペディアより参照)