気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

悟りと人間

2009-04-29 14:09:06 | 心の科学分野

●悟りは達成ではない

「悟り」とはなんでしょうか。大概、何か宗教的なイメージを持つかも知れません。悟りを開くという言葉にあるように、人間が、至福、安心、静寂などに象徴されるある意味で落ち着いた、広く、高い意識状態を、恒久的に実現しているとも言えるでしょうか。

また「解脱」も「悟り」に似たイメージを持つかも知れません。なお、ここでは言葉の定義の話をしているわけではないので、それらの定義の細かい枝葉をあげつらうつもりもないのです。

 悟りや解脱は、過去の聖者や宗教の開祖、まれに歴史に残る有名な覚者たちだけが成し遂げる事ができる「偉業」というものではないと考えます。どうしても世間一般の観点から見れば、宗教や、昨今の言葉でいえばスピルチュアルな分野での偉業や達成などのようなイメージを持つ場合が多いでしょう。また宗教界におられる、または造詣の深い方々は、更に深く専門的な見解をもっているものでしょう。

 

●悟りはありのまま、素のままにあること

 悟りは世間の観念から見えるところの偉業や達成ではなく、元(根源)の自分という、素の有り様に立ち帰ることです。例で言えば、映画館で上映される映画に没入していた自分から、観客であった自分の意識に判然と気付いて目覚めることです。結果の世界、現象の世界に入り込み、そこに自分という意識が入り込んでいるということ自体も、忘れていた自分自身に気付く事です。

 気付くと言うのは、ちょっと気にする・とか、ひょっとして・・等という意識レベルではなく、<まこと・そうであったと『悟る』>ことでしょう。『悟り』は今ここにあるのであり、苦行難行して得られる偉業や達成ではないのは明らかでしょう。今このままで、素のままで、何も確保せずとも、どんな位階になくとも、何を言われようとも、どんな風に見られようとも、それは本来のことではないのです。今在る、当たり前の自分に戻るということは、いつも、今もそうである今のこの瞬間の存在自体であることなのです。過去にも在ったし、今も在り、何時のときも在る、自分への自覚のことです。在ることが第1義的であり、その周りにその都度飾られるものは、刹那の影法師のようです。

   

●「今」が奇跡と感じること

 当たり前の自分であるとは、今存在しているこの瞬間の奇跡に対して、それをそのままを認めることであり、それがそのまま、まさにそうであるということ・ということです。今という『奇跡』の瞬間にあることは、まさに自分自身も『奇跡』であることは自明であり、『奇跡』の中にあり続ける「今」を通して、無限である自己の広大さに気付いていることになります。自明の理と云わずして何というべきでしょうか。

 云わば、魂という広大なる自己自身が、意識という働きを通して自己投影し、自己を自己として認識し続けているのが、森羅万象とその根源であり、同じく、その中に包含されている、今の私たちなのです。各自の広大なる自己は、無限から現われ出ずる者であり、確かに我々皆ともに、まさに『無限』の「極み」以外の何者でもないのです。

   

●無限の先の先には、いつも「今」が在る

 その『無限』を様々な形態として有らしめるものは、自己自身を見つめ続ける『愛』であり、その自己を愛し続けるためにこそ、無限数の魂達である我々がいるのです。我々個体と見ゆる人間は、無限と有限の、その多様さの永遠に在るイメージの中に、様々な存在世界の要素を演じているということも出来るでしょう。体験や思考、感情、想像を表出している、我々人間意識という1点の中にも、その全体、無限が包含されている有様は、まさに無限を超えた、また、悠久を超えた全体という言葉をも超えたものでしょうか。

その超えに超えた先にあるものが、どこにでも在る、「今という永遠のこの瞬間」であったのです。

 

●悟りはすなわち難解でないこと

 悟りは、そのまま、あるがままの中にこそ、その自己たる無限を実感することであり、物や形や情報や、ましてや露と消える金銭などとは全く無縁のものです。悟りを開いたといわれる存在達が世俗を捨てたように見えるのは、まさに見えない者が抱く『虚妄』であり、まさにそのままの有り様に、そのままあり続けること自体が、もっとも今を生きているということの逆説を示しています。確実に今この時を生きているのは、逆に虚妄を捨て去った者達の方であり、遥か遠くにいるのは、世俗に埋没し自己を一体化させ、我を「忘れた」在り方をしている存在のほうだといえるでしょう。

 別の意味でいえば、もっとも刹那的で、最も不快で、最も孤独なあり方を自ら選んでしまっている我々大多数といわれる人間の有り方の方こそ、難解この上もないものであったのです。

 

●元々解脱していることに気付けるまでのこと 

 『悟り』等無い・・と感じる状態、解脱などしていない信じ込み、自らをわざわざ降下させ、枝葉、末端の中に、まことに広大な己の意識を押し込める体験自体は、逆に、難しいことこの上もなく、森羅万象、宇宙広しと言えども、確かに独自の素晴らしい体験でもあります。

 今のこの瞬間という、『時』のない『今』という『瞬間』の永久性、言葉を変えれば、連続性に気付く事ができるならば、我々の誰にもある死という、相対的な世界での存在形態の転換も、まさに相対的なものであると理解されることでしょう。今の瞬間が『永遠』であれば、どこで終ってしまうのか?という疑念自体も、馬鹿げていることに判然となることでしょう。

我々は有りて有り続けて「今」在ります。

 二度あることは三度あるという意味では毛頭ありませんが、今この瞬間に有るということを、そのまま、ありのままに観ずることができれば、変化を纏(まと)いながらも、瞬間瞬間で永遠に自己であり続ける生命・魂の壮大な仕組みにも間違いなく気付く事でしょう。

 

●人間本来無一物

 最近放映された「禅」という邦画ではありませんが、まさに素のまま、在りのままとは、本来、何も所有などしていないことを覚知し、肉体も借り物であることを、こころの底で理解することでもあります。我々にあるのは、今というこの瞬間、瞬間の永遠なのです。これが解ることがどんなに難しいことなのでしょうか。今在ることが永遠(とわ)といっても、それは山のあなたの永遠(はるか遠く)にはなく、今この瞬間にあることは明々白々の真実です。

 きれいごとの話でも、なにか詩のようなの話でもなく、事実、今この瞬間というものしか無いことがわかると言うものです。今のこの瞬間に気付いてしまったならば、あらゆる楽しみも失われるかもしれない等という猜疑や恐怖こそが、「ここ」にあらぬこころ、という状態をもたらしているのでしょう。こころが「今ここ」に居なければ、当然ながら、いつも遠くのどこかにあると思うものです。

 

●本来、楽しきこと限りなし

 まことの嬉しさ、楽しさは、今この瞬間に己を帰着させることを合図として現われる、無限に親身な仲間たちのことでもあります。仏頂づらした他者も、脅しにかかるエゴイストも、心の狭い他人も、嫉妬深い隣人も、皆同じ道を歩いている仲間達であるということに、どこかで確実に気付くことでしょう。我々が、未だに、好き嫌い、嫌悪、好感を併せ持つ「こころ」であったとしても、それらの光と影として自分の「こころ」に映し出される他人達は、実に自分のために有り、同じ同志であり、親身なる仲間、友人であることに、はた、と気がつくかもしれません。

不完全と見えること、常に道半ばにあると感じることの中に、今のこの瞬間・瞬間から創出しつづける大いなる『愛』や『眼差し』を感じないでしょうか。

楽しきこと限りなし。

もし何か負っているものがあるとすれば、楽しきことまさに限りなし、これが本来当たり前であることを悟る、その務めだけなのです。

 

 Saigyou12

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。

 

 

 


意識・波動・人間

2009-04-26 16:01:24 | 見えないものから見えるものへ

物質を含む世界のあらゆる存在形態、こころの働きも含め、それらを既知なるあるいは未知なる『波動』として見たときに、今まで不可解であり、身近に感じられなかった様々な次元や生死の世界、宇宙の世界の話なども、多少とも理解が容易になるかも知れません。

●エジソンの逸話

 眼に見え感覚に映る様々な現実を経験し、大概の理解と気づきを得た人達は、往々にして眼に見えないレベルの存在の有り様に興味を持ち、探求することが多いようです。例えばあのエジソンなども、晩年にはいわゆる『霊界』との通信など?を試みていたとも言われます。電球や電気の発明、新しいビジネス等というイメージのみを持った人々にとっては、「天才も最後には行き過ぎてしまい、とうとう晩年には頭が変になったのか?」等とも映るものですが、エジソンとは限らず、多くの先達たちの眼に見えないレベルへのアクセス意欲にはそれなりの意味があるものです。

●既知と未知、色(しき)と空(くう)

 特に現代社会においては、物質的繁栄のみに汲々とし、眼に見えないものは、あたかも存在していないような一般通念・漠然とした信念を抱き、それに自ら染まってしまい、その目先の物質的な視点から世界を眺めていた感はないでしょうか。

 もともと常識などは、常に変化し続ける認識と考えるものであり、多くの人々の言う?『常識などに間違えのあろうはずもない・・』、という観念こそ、現象のみに囚われていることを示すものです。本来の意識的存在である人間のあり方としては、当たり前という観念にこそ、その注意を向け、出来るだけ意識的になっている必要があるものです。

今の世界は、今まで見えなかったものが加速度的に見え出してくる、奇遇な時期にある事を感じないでしょうか。加速した世界の動態を見るにつけ、確かに極めてまれな一大シフトの時にあるようです。

●「色即是空」は、存在世界の有り方を説明する象徴的な言葉である

 色即是空、すなわち、現象(色)は空(くう)から現われるものであり、また空(くう)であるからこそ、様々な色(現象)を湧出することが出来るということです。空(くう)の探求は色(現象)の探求でもあり、必然的に、今は眼に見えないといわれる未知の世界の探求につながるのです。従ってさらに広大な世界への理解を得ようとすれば、常に眼に見えない分野へのチャレンジが必要であり、思索、科学、哲学なども、未知なるものから既知なるものへの変換作業であるとも言うべきでしょう。

 人間にある好奇心や、より大きな知識への希求で示されるごとく、我々の認識、意識の眼差しは、常に未知なるものへと向けられています。常識といわれる通念、観念や、既知なるものだけへの意識的な執着は、逆に人間存在としての本来のあり方ではないのです。その意味で、我々は一時の惰眠をむさぼる段階、目覚めざる意識の段階、忘却の淵に眠る体験をしている状態であったということもいえるかも知れません。

●今居る世界の、前後左右に気づく段階

 この現実以外の世界といわれるもの、生前の世界、死後の世界、他の存在界などといわれる世界はどのように構成されているのでしょうか。

 もっとも、自分が単に「肉体」であると無意識に信じ込んでいる「こころの段階」では、このような問いかけや探究心自体に意味が感ぜられず、まさに無きに等しいものでありましょう。ましてや、話題にしたり、気づいたりするどころの話ではありません。

 それらの存在にとっては、五感以外のことは意識の対象の外にあるため、そのような概念自体に接する事もないかも知れません。その段階では、井戸中の小さな世界のみが、まさにその意識する対象であるために致し方ないものです。確かに、目覚めのために必要な1つのプロセスとしての『無意識』という体験をしているだけのことです。狭い世界に対して自分自身が飽和する段階までのことではあります。

●様々な存在界

 現界、霊界、天界などという仮想存在世界を表す言葉は、その言葉がそのものを示すように、古い宗教価値感や善悪2元思想、また恐怖を元にした囲い込み方策などで色どられています。大なり小なり、我々無知なる人間達の「手垢(てあか)」にまみれており、その、おどろおどろしい概念が人類の意識に思いベールを被せ、大きな世界観から隔離してしまい、この地上次元のみへの偏執として機能してきたようです。今までは恐怖や無知、偏見、偏った宗教観などが、人をして、世界の本来の広大なあり方から、眼をそらすようにして来たかのようです。

 古来から言われてきた霊界、天界などという異世界の概念は、多層になった幅広いさまざまな「存在界」のことを象徴的に表しています。地獄、極楽、などの概念は、意識的存在のその存在の有り様の、云わば段階・ステップまたは異なるステージを示しているのです。我々のこころという意識作用がより広範囲になり、様々な経験や現象に対する理解を深めてゆけば、自ずと、否応なくその『意識レベル』なるものは微細に精妙になってゆきます。これは簡単に言えば「意識的進化」とも言えるでしょう。

●意識の振動率・周波数について

 例えば、1本の赤いバラを見たときに、どのように感じるでしょうか。単なる赤い花であると素通りしてしまうでしょうか、微妙な色合いに少なからず感動するでしょうか、植物という種の不思議を感じるでしょうか、また自己の意識を通じてその在りて在る生命という表現を感じるでしょうか。

 単なる現象対峙にしても、まさにありとあらゆる思い方、感じ方、言い換えれば『意識の有り方』がそこにはあるのです。『意識の有り方』はそれに相応しい『振動率』、より身近な言葉で言えば『周波数』なるものがあると云えるでしょう。

●存在形態の違いは意識の振動率の違い

 各人各人の意識的な進化のプロセスは、具体的に云えば「こころの振動率の変化の過程」とも表現できるでしょうか。鉱物、植物、動物、人間にもそれぞれの意識があり、また人間でありながらもそれぞれの個々人が様々な思考や感情を表現しています。まさに全ては広大な『意識』でありながら、その段階段階で様々な有り様を現しているということであり、それぞれの個体たる存在は、その時の「意識の振動率」が異なっているだけの事ではないかと思われます。

 身体・姿態などの外面の形態の違いは、内面から発する意識の違いを表す2次的なものであろうと考えられるのです。

●進化には振動率の精妙化を伴う

 より大きく深い、また精妙さを増した意識の有り方は、自ずとその『周波数』(意識的波動の精妙さと言っていいもの) が細かくならざるを得ないようです。例で言えば、目の前にあるパソコンの画像も、古い機種などは周波数が低く、その低い解像度での粗い表示しか出来ませんので、より細かく精細な画像を表すためには、更に高い周波数のものが必要になってきます。つきつめれば、存在の色々の諸相、表現の緻密さは、その諸相に於ける振動率・周波数に沿ったものになるわけです。

 経験や気づき、体験に対する様々な思いや感情を通じて成長するということは、ある意味で人生経験の目的と云ってもいいでしょうし、その自然な成り行きとして、思考、感情、意図などの『意識状態』が、より高い周波数帯に移行していくとも云えるのです。

一言で云えば、存在としての愛と理解の度合いが、より広大でより深く高い方向に成長するということでしょうか。

 

●こころの有り様で意識の周波数が変る

 意識的進化ということは、人間にあっては、いわゆる『こころ』の成長といえるものであり、より精妙で幅広い世界を認識出来るようになってゆくと言うことでもあります。動物と人間の違いは、肉体の質量の違いなどではなく、その意識の拡大範囲や、精妙さの違いです。

 昔から言われている「オーラ」の輝きは、その人間の意識段階、理解の幅や深さを表し、赤系から紫、白、黄金、へと変っていくようです。これは光のスペクトルとも類似しており、光の七色のスペクトルもそれぞれに周波数が異なっているのです。

 これは、程度が低いとか高いと言うことではなくて、そのようにスペクトルがシフトしているというだけのことです。人の思考や感情、行動などの表現出来る内容により、その周波数帯が異なってゆくというアナロジー(類推)と捉えても良いと思います。

●意識のレベルに応じた世界に在る事実

 この『意識の振動率・周波数』なるものが、その存在の、その時に属する世界への同調機能をもたらします。我々のこころの働きは、その時々の我々の意識の振動率を決めており、その振動率に同調した世界との協調が行なわれているのです。 現状のこの世界に同調しているからこそ、今この世界に存在しているのが我々なのです。

●波動で読める世界観

 我々の存在世界も一種の緻密なホログラフィーと考えられるのです。ということは我々の共有するリアルな世界は、ある一定の振動率を持った波動で構成されていると言うことも考えられるのです。我々が地球という時空フィールドに60億もの人間:個別意識として各々存在しているのは、個別の意識体(人間・動物・植物・・)が、一定の周波数帯に同調しているということも言えるでしょうか。それぞれに多少の周波数の違いはあるものの、お互いが意識下での同意の上、同じ番組を見ていながら、相互にコラボしていると言えるのではないでしょうか。

波動・周波数的な観点から我々の世界を説明しようとすれば、大枠ではそのような、ある意味ですっきりした世界構造を提示できないでしょうか。我々の身体、環境を構成する物質としての原子・素粒子も、ミクロでは波動の性質が顕著になるということは、多分にそのような世界観も実は的を得ているかもしれません。

 我々は、今、地球の基本周波数を元にした世界にいるわけであり、人類集合意識の合意している3次元立体世界という、一見リアルな世界に浸かっている、あるいは同調しているということも出来ます。世界が実に立体的、触感的であるために、そのような波動の世界の住人・観察者であるなどとは思いもよらないわけです。実は、手の触れる机の表面も、自分の肉体も、空の青さも、空気の冷たさも、極めて緻密な地球の波動を元にした「ホログラフ」であると考えてもいいでしょう。

●ロバート・モンローの偉業

 尚、ロバート・モンローは『体外離脱体験』を繰り返し、この世界を包み込む様々な周波数帯を「フォーカスレベル」としてわかり易く説明しました。不思議な事に、7オクターブ毎の意識的な周波数帯を示し、現実世界(現世意識エリア)~20、フォーカス21~(霊界)、フォーカスレベル27~(天界)、、フォーカスレベル35~以降は様々な存在世界・・・という具合に、やはり階層構造をしていると説明しています。

周波数帯の住み分け

 電磁波で伝わるTVやラジオなどは一定の周波数の幅のなかで、多様な映像や音声を表現することは誰にも理解出来ます。TVの1チャンネルと3チャンネルはわずかの周波数の違いですが、同調周波数をそれに合わせるだけで、チャンネル毎に違った映像を見たりや音声を聞いたり出来ます。周波数帯が少し違うだけで、全く違った番組を見ることができるです。例えば、1チャンネルではニュース番組、少しだけ違う周波数帯の3チャンネルでは料理の番組という住み分けがあるのです。

 我々の今の意識の振動率では、世界の存在層の1部しか見えていないということです。例えば、古来から言われてきた「現実界、霊界、天界」なるものは、存在するあらゆる層の隣合った別の存在の周波数帯のことを象徴的に示しています。

●世界の違いは周波数帯の違いでもある

 それらの違いの基本は、その世界に存在する『意識』の周波数の違いにあると考えられます。電波通信関連の技術などをご存知の方々は、少しづつ異なる「バンド」(周波数帯)が飛び飛びになって構成されている事が良くお分かりでしょう。TV等では、周波数の違いがすなわち各チャンネルの違いとなっています。1チャンネルが現実界、2チャンネルが中間(霊)界、3チャンネル以降は様々な天の世界等などと考えるとわかり易いでしょう。

 ある周波数帯(意識世界)では、そのほかの周波数帯(意識世界)との混信は無いということであり、言い換えれば、周波数の違いだけによってですが、通常は、周波数の違う他の世界を見ることは出来ないということです。 要は、それぞれの世界の違いは、まずもって、その世界に在る意識存在(人間など)の意識の周波数の違いという事でしょう。それは異なった時間空間という形で現われますが、実のところ、周波数の異なるだけのことであり、世界は今ここに重なって存在しているということも云えるでしょう。

●「固定観念」は文字通り、固定する為の「アンカー」

 「現実」といわれる、この地球次元世界のみが唯一であると暗黙ながら感じていることは、世界の地平は平面であり、とても球体などとは考えられないとする、いわば過去の天動説を髣髴とするものです。まさに「固定観念」が人々を1つの狭い世界に釘づけにする、「錨」「アンカー」の役目を果しています。これはある時には文明維持の為の保護作用にもなるものですが、今のような意識レベルでの、文字どおり『激動の時』にあってはまさに足かせともなるでしょう。

●集合意識を「意識する」ことが急務

 多くの人間が、壮大な世界の有り方に気付かないのは、皆がそう思っていない、そんなこと言っていない、聞いていない、教わっていない、等という感覚的な理由が主なことでしょう。そんなこと信じられない・というのは、人類集合意識の表面に現われていないから・と言ってもいいでしょう。「五感で誰しも知覚することが出来なければ、それは存在しない、または人間にとって意味の無いことである」という意識状態、観念にまさに同調しているとも言えます。

 集合意識または社会通念、あるいは常識という意識のバンド(周波数帯)に自らを縛っているのでしょう。また縛っているとも考えていない、気づいていないかも知れません。 

 我々は主に五感を通じて、そのわずかの表面の意識、顕在意識を通じて世界と接しています。世界を見る窓としての五感と、それに反応する狭い顕在意識があるのです。五感で得られる情報を元にした思いや感情が、狭い顕在意識の窓を通して、世界の中の一側面を切り取って見ているといってもいいでしょう。その側面側面での認識過程を経験しているプロセスにあるのだと云えるかも知れません。

 輪廻転生の目的は時間・空間を実にふんだんに使ったものであり、幾世代にもわたる時代での変遷を通じて、様々な自己の体験とその気付きを経験することでもあると考えられます。

●地球意識の振動率の変化

 慣れ親しんだ、この地球のこの次元という『舞台』自体の振動率が、現在変りつつあるようです。それに気づかずに、無意識的に「古い」信念体系を元にしたシナリオで演じているステージではなくなって来ているかも知れません。ひょっとして、地球という多次元『舞台』が、ある時一挙に転回し、新しい幕間に移行している間も、そのシフト自体にも気づけないかも知れません。

 我々の存在しているこの地球のフィールド自体も意識体であり進化しているのであれば、この世界のゲストである我々魂存在が、旧態已然たる無意識のままであっては、ある意味で失礼?にも当たるでしょうか。さらに今後、その地球と人類意識の間のギャップが拡大してゆく事にもなり、我々自体がそのエネルギーギャップのもたらす不快を経験することになるかもしれません。

 具体的に云えば、今行われている社会・経済の激変、地球生態系の変化、時空潜在次元での多層界の遷移、太陽系レベルでのシフトなどにも気づくことで、そのシフトに合わせたこころの持ち方と行動のパターンを準備しておくべきなのです。尚、意識進化を大切にするという生き方は、今後驚天動地の一大変化があるからだとか、そんな事態は無いから大丈夫だとか云々・・という条件付きのモチベーション(動機)からではなく、人間本来、いつも出来るだけ意識的に生きること、知覚レベル、認識レベルをより広く、深くしてゆく・という生き方が必要なのではないかとも考えます。

 地球というフィールド、そのうららかな春のような日差しのなかで、光や風のざわめきを感じながら、様々な体験や眠りを楽しんだ後には、各人各人の潔いそのすっきりした目覚めこそが、ゲストである我々人類にとって、この地球への一番の恩返しなのではないでしょうか。

いつまでも、いつまでも眠っている場合ではない・・かと思う今日この頃です。

まさに、いさぎよさこそが、夜明けを迎える為の切なる「こころ」の開花ともいえるのです。

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。

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想念と人間

2009-04-19 13:50:53 | 宇宙的気付き

 アインシュタイン以降の時間・空間の相対性への認識は、我々の次なる認識レベルへの重要なステップでもありそうです。観測者がいなければ光の速度に基づいたこの理論も現象も成立たたないでしょう。数式も何も意味がありません。

 つまり、その観測者の認識レベルに応じた時間・空間が現われてくるものだとも考えられます。それはミクロで云えば素粒子の観測者との触れ合いによる挙動の変化にも伺えるものです。

 我々の馴染んでいる『こころ』、また馴染んでいながらも解明されずにいる『意識』という働き、この一見形而上的な概念は、実は物質レベルを包括し生み出す空(くう)なる可能性に対する、その様々な顕現への青写真であるという事が理解可能かもしれません。今の時代は、まさにその認識への入り口に来ているのではないでしょうか。

●通常観念における『想念』

 我々人間が他の生物と違うのは、想念、すなわち「思考」と「感情」の複雑さにあることは周知のとおりです。考えることは人間存在の特徴と言われています。思考は「思い」とも言えますが、思考がどのようなものであるのかは、実は判然としていないかもしれません。また感情とは何でしょうか。

 思考は頭で考える?イメージのようなものであり、精神活動にすぎない・・という風に思っているかも知れません。あくまでもそれは人間の頭脳が生み出す眼に見えない精神活動である・・という風に感じるものでしょう。 感情は出来事に対する喜怒哀楽等であり、思考とは違い、自然に出てくる体験に対する意識的・無意識的な反応・感慨とも言えます。

 ほとんどの場合感情は、体験に基づく内面の自然発生的反応とも言えるものであり、可笑しい時は笑い、悲しい時には泣きますが、思考のように意図的に出てるものではないのは明白です。

 また人間には思考・感情があるから、その他の動物と違うというわけであり、霊長類としてこの生態系の中で頂点で生きることが出来るのだという風に、間接的ながら教わってきたようです。人間がその「思考」で思いつく道具を、まず手足という身体を使い、次から次と作り出すことで、ひいては今の文明を作り上げてきたというのが、我々の通常抱いている観念です。

●『思い』の本質

 デカルトの「我思うゆえに我あり」という、思考の主体としての人間存在の意味付けは、すなわち我々が存在していることに気がつくのは、そう思うことが出来るからであるとも解釈されるでしょう。

 わかったようなわからないような表現ですが、思考の本質が出ているようです。『思い』がなければ、我々は我々自体に気づくことはないということです。すなわち思考がなければ、「無意識」に歩いている存在とも言えるでしょうか。いや、歩いている・・ということすらも認識できないでしょう。

 この「思い」という意識の作用は、宙開闢の時点の意識、『今その瞬間』という始めを生み出した根源存在:第1義的存在の「自己認識」のパターンと同質といえるでしょう。いわゆる神または仏の自己想起とも言われます。あなたやわたしも人間存在として、その自己想起を『今」体現しつつあるのであり、わたしが今存在していると実感することは、まさに我々は創造の根源から発する、一即多を体現する鋳型であるという証なのではないでしょうか。

創造の大いなる根源は、我々を通して自らを観ているのです。

●思考は創造する鋳型(パターン)

 思いが現実化するということに関しては、今は大勢の人々も気づき始めています。『思い』なくしてどんな行動も現われないことは誰しも理解可能です。また大きな意味で、様々な想念・思考は創造の要素なのです。その思いに「時間」というプロセスをはめ込んでいるならば、その時間というもの現われ、思い→現象化・物質化というプロセスを、悠長でわかり難いものにしているのです。その証拠に、我々の信念・通念の中には、大なり小なり必ず「時間経過」というものが投影されているでしょう。

 想念そして感情は、自己の存在領域のあらゆるものの現実化、物質化の青写真、設計図に相当しています。また想念の中に時間という要素が組み込まれているからこそ経過時間表現の1要素として経験するのです。

●こころの法則

 思いが一定の傾向を繰り返せば、それは意識から潜在意識に固定され、それは鋳型となって行動や体験に繋がります。そしてそれらの体験・経験による現実化を目の当たりにしたときに感情が生まれます。思考は行動、体験の原因であり感情はその現実化の確認の為に起きるものでしょう。転生における様々な感情が記憶として「魂」に記録されるという話も頷けるでしょうか。

●魂の「記憶」は感情の記録といわれる所以

 様々な思考の内で頻繁に繰り返されると、それが記憶になります。算数の九九でも経験しているように、繰り返すことでそれを憶えてゆくものです。その繰り返しは選択された情報として潜在意識に固定されます。それら潜在意識に入った、繰り返された思考の轍(わだち)は、再び思考で変えない限りそのまま残るものです。 我々は、潜在意識に固定された様々な記憶を元に行為することになるのです。潜在意識に記憶された観念の集合は、総合的なその人間存在のそのとき「信念体系」を現します。

 ちなみに、この信念体系に応じてその波動に合う様々な時代や世界への転生という体験をするようです。前世の記憶の再生はそのような転生の経験知を垣間見ることに相当するのでしょう。まさに思いのまま・ありのままがそこにあるわけです。

●自分自身を知るとは、創造する者であることに気づくこと

 問題は、人生というドラマのその明確なプロセス、原因と結果に関して『無意識』である場合でしょう。 「いったいどうしてこうなのか~!?」という感情は、そのあからさまな自分自身の創造過程に気づいていないという体験の反応・感慨であることを示しています。

 自分の思いが原因となっていることがわかるまでは、眼に見える外の世界、物質の法則、世界の他者達にその原因を捜し求めますが、方向が全く違っていたという悟りに至れば、自分の世界の原因は自分自身にあることがわかり、結果自己の意識次元を1つ超えることになります。

 これは無意識的な自己から意識的な自己への脱皮ともいえるものです。自己責任というのは、他者に対するものだけでなく、自己自身に対する自己責任ともいえます。自己の『思い』に責任をもつという事が、意識的存在としての1つの自立を意味しているのです。

●自分の思いを自分で知らない状態に気付くべし

 思考という青写真は明確さを与え、意図するとおりに創造するための「鋳型」であるということです。 ところが、通常は我々の『思い』自体がいつも結構あやふやであり、肯定や否定、欺瞞や信念などが混ぜこぜになっていることに気がつかないものです。 思いが無軌道であれば、我々が体験する現実の類も、それに従って混沌状態になります。何がどこでどうなるのかわからない、不安に満ちたものになるでしょう。

 今、我々が希望した状態にないと考えているならば、それは他人や世間のせいではなく、その希望を求めながらも、様々な否定や忘却に忙しいため、その希望した状態を固定できずにいる、各人の思いや感情(こころ)の有様に原因があることは明白です。

●引き寄せではなく、そのまま、ありのままが出てくること

 意識的、無意識的に関わらず、云わば体験を自分で引き寄せているのが本当のところでしょう。引き寄せという言葉は何か無理やり引っ張る?・・というイメージがあるために、ここでは相応しくないかもしれません。自分で自分の世界を、思考・感情でもって、いつもちょうど、そのように創造しているという表現のほうが正解かもしれません。

 自分で気づかずに、自分の有り様を決め続けていることと言っていいかもしれません。こんな筈ではない・・という言葉自体が、はっきりそのことを明かしているのです。自分で自分に対して首をひねっているのかもしれません。結局、外は結果・写し絵であることに気付くまでは。

●内観・自己観察で目覚める自分

 内観や瞑想、自己観察はそのような自分自身の内面と感じるフィールドに生起する、現象の青写真となる「想念」を観察するという極めて重要なプロセスであり、これなくして、まともな青写真など出来るものではありません。自己の設計図に手を入れず、それが無茶苦茶であるのをほったらかしているに等しいのです。放ったらかしにしていながら、よそ様の事、社会の事、世界の事ばかり気にしているのが、我々一般の人類集合意識と言えるでしょうか。期待に満ちた眼差しをお互いに投影し合っているようです。

 個人個人に必ずある、生と死という極めて重要なテーマ自体にも、大勢の人間が最後までその意識の光を当てずにいるのは、多分に、そんな事など意に介していないように見える大勢の人々が周りにいると信じているからなのでしょう。価値基準がいつも他人にあると言ってもいいでしょうか。

●求めることでそのまま「不足」を実現している現実

 例えば、幸せでありたいとは誰しも思っているのに、どうして幸せではないのか、という素朴な疑問も、まさに自分の思っていることをそのまま実現しているという事実を示している事に気づくでしょうか。

 「幸福でありたいのに、どうしてそうでないの?」という疑問そのものが、幸福が現われないない事を、まさに示しているのです。幸福であれば単純に「幸せだ」と思うでしょうし、そうでない人は「あー不幸だ」と思うものです。これは禅問答ではなく、まさにその思いどおりのことを創造している真っ最中であることを示しています。

 「幸福が得られていない・」という意識が、無意識的な代償として、物質、名誉、金銭などの架空の飾りを求めてきたのが現代文明ともいえるかも知れません。過去の時代に比べて周りの加工物・機械などは豊富になったのですが、それ故に幸せをと感じる人々が増えている・・とはどうしても思えないでしょう。逆に、余計な物や地位、名誉を確保、維持せねばならないようなことばかりに汲々とせざるを得ず、幸せを実感するどころか、不安と混乱が増大していることはないでしょうか。幸せを条件付きで追い求めれば、幸せはいつも追い求められる位置にあり続けるわけです。

 幸せを感じれば、そのとき今、そこにまさに「幸せ」があります。  まさにパラドキシカルなことですが、これが真実でしょう。幸せをどこかに求める続ける行為自体が、「今幸せが無い」事を明確に宣言しており、そうしてそのものズバリ不足・不幸という実感を現し続けるのです。不足を外に求めること自体、そのとおりにいつも不足を実現しつづけているのです。

●エゴは自己の肉体生存のみを目的とする意識

 条件を設定し獲得してゆくこと、その肉体レベルの生存目的と幸せを混同させるものが、所謂我々の「エゴ」といえるかも知れません。利己主義の先に幸せがあるものと信じ込んでいるこころのあり方が「エゴ」と言えるでしょうか。

 不思議にも、本来の自己というものを「いつも」とりあえず、さておいているのが我々の姿態であったようです。これはまずもって「エゴ」を無くすると等ということではあり得ず、逆に、エゴにも気付いていないということなのではないでしょうか。内面のエゴにも気付けない場合に、そのエゴなるものを浄化など出来るわけもありません。生来、生存する為のあらゆる努力は自己中心的、競争的になる傾向があり、その刹那の肉体自己を中心とする思いの轍が「エゴ」と言えるかもしれません。現代社会はまさにそのような、正当なる?自己生存主張のざわめきの中にあるようです。

●観ること=光を発すること

 古来からある、内観・座禅・自己観照・反省という行為は、外の世界に刺激を求め、ふらついている意識のベクトルを、因たる自己の内面に当てると言う行為であり、時代や文明に影響されない、常に有効な自己の目覚めの方法です。

 自己の内面には様々な想念や古い信念・こころの轍(わだち)が見えるものです。エゴイスティックなこころ、影も日向もそこにきっと見えるでしょう。自己の内面にある影や闇と感じる部分を意識して、それを観ることではじめて「光」が当たるということです。光が増せば自分のいる位置や、辿っている道も明瞭になることは自明の理ともいえるでしょう。まさに観ることは、すなわち自己の変質を促す強力な意識作用のことでもあります。

 自己の思いや感情の創造性に気がつけば、再び見える外の世界は以前と違った様相を呈します。自己のエゴフィルター、色メガネが外れれば周りの世界も変って見えるのが道理であり、他者である人々への理解も変るのです。ある意味で世界は実のところ創造主ばかりのとんでもない世界が見えてくるでしょうか。

 光があって初めて見えると言うことではなく、実のところ、見ることで光が出るのが真実ではないでしょうか。物証で構築されている卑近な物理科学の世界であっても、そこに観察者がいなければ世界は無いも同然ということが明確に理解出来る時がそのうち来るかも知れません。忘れてならないことは、物質形態ではなく、意識であるわれわれの存在(being)こそが、第1義的存在であるということです。

●全てはなんと既に与えられている

 進歩し続けるということは、不足を補う為の連続した行為ではないのです。一瞬一瞬が充実していながら、その豊かさ・味わいを現し続けるということであり、決して不足を不足のままで不満を持ちながら走り続けることではないのです。

 「求めよ、さらば与えられん」という言葉は、不足を求め続けよ・ということではなく、求めているものが既に、そこに与えられていると言うことであり、不足感を求めることは、既にいつも「不足」を与えられ続けると言うことでしょう。思いはすぐに実現しているということです。

 ここの処は、なかなか理解が難しいところであり、熟考が必要でありそうです。今、という瞬間を逃し続けるかぎり、やはり「なかなか?」であり続けることでしょう。「なかなか」パラドキシカルな仕組みでもあるようです。

●信じるごとくになっている現実そのまま

 幸せであると感じている人は、幸せが「欲しい」とは思うことはないでしょう。既に何かをもっている人は「欲しい」などとは思いません。その違いは、意識の状態にあることがわかります。わかり難いですが、そう思っている分だけ、ちょうどそのことが実現しているのが真実と言えます。

●法則には例外なし

 「汝が信じるごとく汝になる」というのは、聖人君子のたとえ話ではなく、まさしくそれが法則としてあまねく働いていることを示しているのです。今信じていること、正しいと思っていることが、その程度だけちょうどそこに出ていることが、シンプルな創造の原理とも言えます。

●幸せはいつも「今」ある

 我々は「物があれば幸せだろう」・・とか、「有名になれば幸福になれる」・・とか、「リッチになれば生活の不安が無くなり幸せになるだろう」・・とか、支配者になれば何の不安も無くなり幸せになれるだろう・・とか思うものです。それらに共通するのは、ある条件を満たせば幸せになれると信じ込んでいるということです。「不足が満たされれば、幸せになれるだろう」という「嘘」を自らで刷り込んでしまっていることに気がつくべきなのです。

 そのような場合は、「幸せ」を実は希求してはいないのかも知れません。潜在意識的には、個々の魂にとって必要な経験、すなわち不幸とは何か?という仮想経験をも積むということであり、別の意味で、そのような不足体験も出来ることの「幸せ」を選択し続けているのでしょう。表面の意識では「幸せ」を求めていながら、そうではない状態を「無意識的に」敢えて経験しているのです。顕在意識だけではなかなか気づかないものですが、幸せを求め続ける意識状態であること自体が、それを先に先に延ばし続けることの原因でもあり、また不足をいつも不足とする状態にあり続けることそのものが、ありのままに、そのとおりのことを実現しているのです。

 従って、最終的には「こころの平安」を幸せというならば、幸せとは、今この瞬間に既に在ったし、いつも在り続けているということが真実なのです。思いや感情で創造するからこそ、ちょうどその分だけの状態が、そのまま顕現しているというのが、実にシンプルな、ありのままの我々の創造の有り様なのです。

●人間は自己認識のプロセス(道)にいる者

 これはまさに自己を認識・実現しつづけているということでもあり、大きな観点から見れば、不幸も不足も、その人間のその時希求する、まさに必要な経験であり、自己実現のプロセスを表していることには変わりがありません。

 無意識的な自己実現か、あるいは、意識的な自己実現かの違いでもあります。我々の「魂」の今のこの瞬間瞬間を歩いている「道」は、より広く深い意識的な自己認識に至る為のものであるわけです。我々は、無意識では道が良く見えませんが、より意識的になることで周囲が良く見えるようになり、周りを照らす光が次第に増してゆくプロセスにあるのではないでしょうか。 究極の根源意識から出た我々の「魂」なるものは、無限であるからこそ、意図する様々な表現をすることに喜びをもたらしてゆくものです。

 それに気付いた存在にとって、今、何を選択するかと問われれば、それは誰にとっても明白なのではないでしょうか。今この瞬間に在る「幸せ」を第一義的に「実感」することであり、それはまさにそうであった・・と「自ら」知ることなのです。それにはそれに気付くことだけがまず必要なことであり、ありのままが全て素晴らしいと進んで実感できれば、それに応じて、ちょうどそのような素晴らしいことが否も応も無く、ちょうどその分だけ顕現してくるのが法則といえるのです。そこに例外はありえないでしょう。

「汝自身を知れ」というのは、ありのままの「今在るわたし」に気付くことでもあります。そこに強制的で過大な物的条件は不要であったことに気付けば、不足など元来無いことがわかる筈なのです。

安心・平安はこころで創造します。必要なのは、まずこころが安心・平安で固定するまでの努力です。物的条件は2の次であり、物や現象が主人公ではなくなります。

●自然な創造の流れ

 創造は、意図→意識→エネルギー→現象(物質・環境)化 というのが法則です。我々は、物質探求→エネルギー→意識、という逆からの理解を行いつつあり、今、意識と意図に気づいているわけです。これに至れば、今度は意図、意識、エネルギー、現象・・への自然のプロセスを行なうようになるでしょう。これは2極化、分離意識からあるレベルでの統合意識の位置に立つということも出来ます。第1義的なものは現象でなく因たる意識にあるのは明白です。現象は影、ホログラムともいえます。実は時空間も精巧なホログラムであると考えられます。

想念、こころは意識の作用であり、我々の世界、現象を創り上げる因に他なりません。注意すべきなのは現象でなく我々のこころの方です。

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本日も誠に拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。

 

 

 (挿入絵はウイキペディアより参照)

 

 

 

  

 


こころと人間

2009-04-13 08:16:56 | 宇宙的気付き

昨今、色々な出来事のテンポが加速されてきた感じがします。微妙な感覚に気づける人々は多分感じているのではないかと思います。人間の想念の集積である経済・社会ははっきりと大きな渦を彷彿とするような動きになっています。自然界の現象も相応に呼応することになりそうです。人間人1人1人のこころの持ち方、方向付けには完全なる自由があり、なにごとにも出来うる限りの最高最善を選択することがいわば責務といってもいいのです。すぐに現われるとか現れないとかの「時間」に制約されず、その不安・葛藤を捨て、しっかりと真理を保持することがテーマでもありそうです。なるほど不安や葛藤は、この特殊な社会という舞台に出る前には元々もっていなかったわけですから。

●こころの「かたち」はハートで感じる

 「こころ」はよく心臓・ハートとしてイメージされる事があり、ハートのマークで比喩的に表現される場合が多いようです。われわれの「こころ」とは、五感・肉体を通して得られる様々な経験や体験を経て、それらに対して、どのように感じているか、考えているかという、魂・意識の反応の集大成のことです。

 例えば、今の時点で、どのようなフィーリングがあなたの胸・ハートの辺りに感じられるでしょうか。表面の意識では、細かいところはわからないものの、なんとなく感じる総合的なフィーリングは胸・ハートの辺り?で感じるものです。それらも毎日少しづつ変化等しているのが感じられるでしょうか。生活や仕事の不安や不満は胃の辺りで感じますが、ハートで感じるのは、それらを統合したもののようです。このハートの感じを出来るだけ安らかな、暖かい感覚にしてゆく過程が大切なことです。

●喫緊のテーマとは、自分の「こころ」をありのまま観る事である

 そのためには、こころを創り上げる想念、思考・感情を観察し、常に高い観点から自己を見つめる努力が必要です。その過程を通して、確実にこころが洗われて行くことに気がつくでしょう。ハートを曇らせる感覚をかもし出す、こころの汚れなるものは、実は汚れではなく、それを大切な経験として感謝する事を待っているメッセージなのです。全てに意味があり、どんな1ピース1ピースもかけがえのない気付きの1コマなのです。それなくして今の私たちはないことをしっかりと認識すること以外に、いかなる喫緊のテーマがあるとも思えません。

●こころは想念・感情の集大成

 「こころ」は、総合的な集大成の1つの形態としては、このセンターチャクラといわれる胸の奥辺りにあるフィーリングとして感じられるかも知れません。 様々な経験に基づく色々な想念、すなわち、人生に於ける自分に関わる現象すなわち、自己体験に関する反応とも言うべき、『思考』と『感情』の記憶の集大成ともいうべきものが、その時々の「こころ」であると言っても差し支えないのです。それは往々にして胸の奥の感じという形態をとっています。

●胸の奥に在るこころのかたち

むかつく・胸が苦しい、胸の内を明かす、胸先三寸・・・全てこころの有り様を示します。この胸を如何様にしてゆくか?どこまで嬉しく、楽しくしてゆくか?これは人生の明確なバロメータなのです。外に在る様に見える、難しい理論も、思わせぶりの権威も全く意味がないのです。

 自分自分が、どれだけ自分を嬉しく、楽しい存在であるかを知ることが大切です。誰かが何かを言ってみた所で、何の権威もないことがわかるまでのことなのです。

●「こころ」が無ければ「観察」が出来ない

 我々に意識作用、すなわち思考と感情が無ければ、どのような経験をしようと何の意味もありませんし、経験を経験として認識する意識的行為がないのですから、あたかも物と物がぶつかり合っているだけの無味乾燥な現象でしかあり得ないのです。こころの感受作用は、諸現象への観察行為であり、その現われとしての創造の表現を見とどける行為なのです。大勢の人間の様々なこころ模様を通して眺めることが出来るのです。人それぞれ、色々あって良いというのは、このような意味もありそうです。多彩な観察があればこその楽しさでもあるのでしょう。

●自然は「こころ」を生み出した母

 こころがなければ自然はその意味をあせてしまうかも知れません。大地に落ちる雨は何の意味も無く、ただ土塊に消えていくわけであり、花が咲いていてもなにも感じることなくそこに物としてあるでしょう。こころがなければ、全ては何の意味も意図もない無味乾燥な現象で終ってしまいます。感じるこころがなければ、何の哀れも趣きも情緒もないのです。そのような世界を意識の未分化、無意識の世界と言ってもいいでしょうか。

●人類のわがままは一時の遊びでしかない

 我々の世界は実は無味乾燥どころか「こころ」に満ち溢れた世界なのです。それをどう間違って考えたものか、不満と欺瞞と支配と陰鬱たる世界にしているのです。このようなエネルギーにみちた地球をどうしたものか、わがまま放題、しほうだいの遊び場にしてしまったようなものでしょうか。

「こころ」を意味の無いものとして、物資に劣る、役に立たない「物」として、無意識に信じ込んでしまった我々の責任でもあるのです。唯物史観も、実は物質、原子構造の規則性や法則のわかりやすさに驚嘆した、幼子の感傷思想とも言えるかもしれません。

●人間のこころは創造を認識する

 神なる根源は、様々に現われた自己を観察できることで、創造の成果を見とどけることが出来るのです。人間はその創造の観察者でもあります。例えで言えば、自分の描いた絵を誰かに見せてその評価を是非にも確認したいというのは、実はよくわかる話ではないでしょうか。どんなに素晴らしい絵であるかをわかるために、また更なる素晴らしい絵を描きたいと思う切なる意図があるがゆえに、我々人間という、もう1人の神なる存在を創造したといっても良いのです。宇宙全て1なる多、ある意味で仲間だらけのコーラスも味があるのです。

●無限であればこそ「許し」がある

 様々な存在諸世界、様々な次元や層で行なわれている創造過程は、自己のその素晴らしきことの限りなさ、文字通り、限る事なき創造の美しさを何万何億とおりでも変化し、表現し続ける意図を現しているのです。そこには悪や不満などという愚にもつかない思いなどあろうはずがないのですが、その無限の慈愛や可能性の中でこそ、その悪や闇、無知や偏見、闘争や諍いと思しき体験なども許されているのです。まさに無限の意図の中には全てが許されているのです。

●創造は素晴らしき目覚めの連続でもある

 生命とは、本質的な自己自身の目覚めを促す、ある意味で途方もない意欲、自己が自己としての自覚を得る為に必要なものであろうと言えます。眠りから目覚めるまでのまどろみから次第にクリアーになっていく意識の変遷は、毎日の朝の目覚めにも似て、それは、いわば神なるものが、己自身を再発見する楽しいプロセスでもあるのです。

●地球は神なる目覚めの為の母体である

 地球が生まれ、悠久の時間軸のまわりで、多くの生命を育み、その中で様々な現象をつむぎ出し、無限ともいえる表現と記憶の中に、ようやく生まれた自意識的存在が「人間」という最高最大の意識形態なのです。それは、今の我々がそう思っているように、胎児から始め、世の中という世界に出て行き、なにも知らない状態から、次第にその知識を増やし、体験を養分としてその想念を調律し、自己に目覚めてゆく過程も、まさに同じようなものです。輪廻転生は、そのこころと言われる想念・感情の調律をマスターする為のものであったのかもしれません。

地球惑星生命圏も、実のところ、我々のこころの調律と拡大進化を楽しむ為の学園であるとも言えるでしょう。

●愛と理解は意識的存在のつとめ

 『わたしは今在る!』と意識し宣言出来るのは、あなたやわたしであるところの『人間』なのです。植物や動物、例えば、身近な猫、犬その他のペットなどにも意識があるのは多くの人々が知っているとおりですが、人間のように、知性、感性の高度な表現、すなわち「こころ」という自己フィードバック機能を備えた、完全なる個性体ほどには進化していないのでしょう。

 様々な諸世界の現象の背後に在る、あるいは、それ自身である「意識」は、様々な鉱物・植物・動物という表現形態を現すことで、その妙なる諸世界のハーモニーを創り上げています。因なるもの、すなわち根源から発せられる意図は、あらゆる可能性を包含し、諸世界の隅から隅まで、それを自己表現するための無限の「波動」を発しています。「波動」はすなわち意識であり、その意識が、物質、音、電磁、想念などの様々な波動として現われているのです。

●波動で充ちた世界

 我々の文化、文明での既知なる概念から言っても、例えば、五感で感じる物質感触のような振動波、音波、可視光などの波動を知っています。しかしながら、これらの波動は根源意識の波動表現形態としては、そのほんの1部であるとも察せられます。我々は次第に五感に映ずる範囲以上のエリアを探索してきているのが事実なのです。電磁波自体は可視光以外は眼には感じられないのですが、機械という補助機能を工夫し、その波動率を変換し、周波数をおとす事で五感に映ずるようにしています。元々は眼には見えない波動なのです。

●思いも波動

 想念や感情は、我々の内面ではリアルこの上ないものですが、人様が眼に見えないということで、何かあやふやなものであると考えがちですが、それはとんでもない見当違いと言えます。こころの映像や感情、感覚は実にリアルな「波動」であり、物質レベルの波動を包括したものであり、物質形態の原因となる波動でもあります。それは電波と同じように、波動率を変換し、周波数を落とす事で、眼に見える形にも出来るものです。

 以心伝心、テレパシー、念動、念写等の経験があり、それら意識を元にした実際の現象化を理解することが出来る人々ならば自明のことでもあります。これはよりリアルなコミュニケーション手段となるものであり、こころがチューナーということです。自分のこころを調律する重要性がわかるはずでしょう。

●わたしはわたしの考えるように、いつも在る

「汝自身を知るのは汝自身であり、汝が信じるごとく汝になる。」

自分の最高の姿や最高のこころのあり方を自分自身で思い描くことが唯一必要なテーマであると考えられないでしょうか。現実がどうのこうの・・・という依存や他者批判は、自分自身には不要なことなのです。今、自分の最高のあり方、力と愛と思いやりに溢れかえった自分自身を思い描けば、まさにそこに本当の自分自身が在ります。真我とは自分で作り出す最高最善の自分自身のことであり、我々にいつもついてくれているのは、その可能性という自分以上に信頼に足る仲間なのです。空間・時間は刹那の形態、相対的なものであり、こころが永遠にあるものではありませんか。

今そうでないから?・・とか・何時そうなるの?とか、誰がそうなのか?とか・・誰が保証するのか?とか言う依存はもう、今、不要です。本来の最高最善の自分を今感じることが、過去・未来の自分を拡大することになるのでしょう。それはいつも「今」なのでした。

●全ては変化し続ける「最高最善」

 自分自身は自分で創るもの。それが創造の基本であり、最高最善とそのとき思えるものをいつも常にこころに勇気をもって描くことこそ、あなたやわたしの本来の姿なのです。

あなたやわたしはまさに永遠の存在であり、様々に変化する意識その者であり、時空を創出する根源から出でた者であります。時空は舞台であり生命は楽しい演技のプロセスなのでしょう。時間や空間は仮の形態であり、わたしたちは、悠久の今に「ゆったりと在る」ことを、今知ることが出来るのではないでしょうか。意識の方向が外界の派手な現象に紛れ、それを気がつかないだけであり、実のところ、こころの根底ではいつも知っているのです。

Flower1011

本日も誠に拙い文章をご覧頂き、まことにありがとうございました。

 

 


地球と人間

2009-04-04 14:02:59 | 宇宙的気付き

●こころは現象化のフィルムである

 我々の内面といわれるもの、すなわち意識作用、簡単に言えばこころの働きは、実は我々の外面といわれる世界への投影の原因になるものです。いわゆるフィルムに相当します。映画やカメラのフィルムと違い、常に自在に作成されている、ダイナミックに変化するフィルムです。この、こころの働きというものが、即物的でないと見えるため、実際に生きて生活するためにはそんなに役に立たないものと思い込んでいる人が多いようです。

●こころを無視する物質信念体系

 『飯を食う為の役に立つのか?こころが美しければって?それが社会でどんな役に立つの?そんなことよりも、逆に騙されて損をするのではないか?そんなのは危ない危ない・・もっと現実を見なければ・・』という思考が支配的な人たちも多いのではないでしょうか。大体がそこのところで『こころ』の追求・探求は頓挫し、多くの群集の1人としてその中に自分を溶け込ませ、いわゆる生存社会に適応する為の生き方に埋没してゆくのが常ではないかと思います。

 その中では、結局は肉体をできるだけ安楽に維持しよう・・という意識が中心となり、群衆社会の価値感の中で、それもできるだけ良い地位に上り詰めようとするのは当然のことのようです。そこでは、お互いに各自の利を獲得するべく闘いを行なうのは自明の理ともいえます。今のこの地球の社会は、大なり小なりそのような形態であることは、誰も否定できないでしょう。小さな輪の中で外向きに腕を組み、輪の中からはみ出さないようにお互いを押し合う、子供の頃に良く遊んだ「押しくら饅頭」ごっこをしているようでもあります。

我々の今まで馴染んだやりかたです。

●物質化による分離意識の体験

 あなたやわたしのいる人間社会の様相は、全般的にこのようなものなのでしょう。自分と他人が別々で、お互い同士は眼には見えるけれども、いったい何を考えているのかわからない者同士、そのような者たちが集まって、おサルの山よろしくヒエラルキーを作り上げ、今では、この小さな地球の中で押し合いへしあい、中には他を勝手に排除し、牽制し、刹那の利益が一致する者たちだけが、表面的な仲良しを演じているようなものではないでしょうか。

 個人であろうと組織であろうと国であろうと本質的なレベルは全く変わりがありません。どのような社会理論で説明しようと、どんな難しげな経済理論を掲げようと、本質は同じであることを理解出来る人々も多いことでしょう。自分の内面を観察しそのこころの有り様に気付いている存在ならば、多分にそのことがよく解るはずです。自己のことが知れるようになれば他のことも解るようになるものですが、逆に、自己のことがわからずして、外の世界を追い回している限りは、その目くるめく多様性の中で混乱して眠ってしまうことも多いのでしょう。

●無知の知に気づくまでの無意識の状態

 この社会のベースにあるのが『無知』であるという事に気がつくまでに、相当の痛い思いや、理不尽な体験を経る事になるものです。流れに追従してうまくまた賢く立ち回っていても、その頼るべき群集というものが、実は無知を無知と認識しない、単なる尊大な無意識であるという、とんでもない事実を知る時期が来るまでは、それを信じているのでしょう。

 そうなって初めて、否も応もなく、群集の無意識という架空の信念体系から脱する勇気が出てきます。本当の意味で1人1人が独立しながら完全な個性と他の全てとの調和を体現できるようになるものでしょう。

●自己に気づき始めた人々

 このような人間社会の様相、無知を無知と認識しない尊大な無意識の愚かさに気づきだした人々が、今は相当に増えているのではないかと思います。幾多の人生の中で役者を演じきり、時には栄光の頂点を体験し、時にはこれ以上無いほどの辛酸を舐めながら、それでも1条の光を失わずにやっと今の夜明け前に辿りついた人々も大勢いるのでしょう。大げさではない表現ですが、それらは実に数万年の時間の帯の中で様々な体験を経てきた魂たちかも知れません。地球生命圏の中で輪廻転生を繰り返し、やるだけやった後でやっと気づき始めた人々、飽きてきた人々、予定通り目覚め始めた人々、また、元々ちがう世界の意識を持ち越してこの地にやってきた人々などが増えていることもあるでしょうか。

集合無意識の中から意識的な新たな芽が現われて来たのではないでしょうか。これらは地球の変容に呼応するような自然な芽生えであろうとも感じられます。

●井の中に閉じこもっていることに気づくべし

 我々が『無限』の只中にあるということは、無知を無知と認識しなければ気づくことはありません。井の中で何でも知っていると思っている尊大さこそ、その無知を示しているのだと考えます。謙虚になればそれだけ自分たちの無知に気づくようになった証ということも言えるかもしれません。我々は『井』の中に居るのではなく、『無限』の中にいるのです。

 意識的存在である人間の次元の拡大・上昇なるものは、その自己の意識作用の質的飛躍によるものであることは自明の理です。『物』にどうしてそのようなことが出来るでしょう。目覚めは自己自身を観る立場に立つことを意味するのです。いつも目覚めは1人1人です。井の中から這い出るのも1人1人です。

●観察から新たな意識の次元軸へ

 自分が体験しているのは、肉体、思い、感情であり、自己を省みる、観察すると言うことは、まず自己の無知に気づくということなのです。往々にして、何故か自分自身は見たくないものですが、それを超え、自分である身体・思考・感情のあり方をしっかりと観ると言う行為が必要であり、それはあたかも2次元平面にべったりと張り付いた状態から、1つ新たな意識次元の軸ともいえるものを生じせしめることになるのです。

 どのような体験もそれを有意義に生かすためには、意識的な観察眼が必ず必要であり、これらの基本的なプロセスを度外視して、何か夢見るような成長が外から勝手に起きてくる・・などということは期待薄でしょう。究極は神なる各自にあるのは、各自である神であって、誰か他者が全面的に面倒をみなければならないような、か弱い存在であるということはあり得ないのです。また外の世界は内面の写し絵として観察すべきであり、外の世界にいわゆる神を求め続けても、決して得られないことも同様でしょう。「放蕩息子」の例はそのことを教えています。

●他者依存は分離における生存形態である

 人々は、自己と他者の関係を理解するプロセスを経て、自己の本質に気づくようになっているようです。また、個別、個別の分離した意識状態で、自己を他者と同じと考えるのは早計なのです。同じソラ豆が沢山あつまっているイメージや、子羊が群れていることに似ています。これらは多分に無意識的な誘導でもありそうです。皆が皆、弱いもの同士であるという、平均化という、一見民主的で?わかったような分離に導くことを意味するかも知れません。

●自己=他者は、それを超えた位置から見えるもの

 一般通念で言う「皆同じ」という概念は、自己と他者の本質的な同一性の気づきではなく、他者へのお互いの依存を示すものです。今の社会においては、政治や仕組みなどに多大な期待を掛けることや、その批判を繰り返すことに終始する行為は、自己の何たるかを真摯に理解しようとしない場合のあり方ではないかと考えられるのです。他への期待が必ず裏切られることは、もう十分に理解出来るのではないかと思います。他者依存は須らく他者批判につながるものです。

 自己を掘り下げ、本質に気づく分だけ、その分だけ、実は自己と他者が1つであるという気づきを得るものです。その場合には他者への「依存」などは消えうせており、逆に相手に何かをしてあげたいという逆方向の「奉仕」としての関わり方になるものです。エネルギーを外に求めつづける乳飲み子のあり方ではなく、大人として何かの奉仕をしようとする関わりかたに大きな質的違いがあるのです。似て非なるあり方にもなかなか気づくのは難しいものです。

●自己観察は古い自己を認めながらも、それを捨てる行為である

 まず自己を観察し、その内面にある、こころの多様性と無限性に気づくことが出来る意識の位置、結果、より高位の考えかたが多少とも出来る観点から、己を観れば、自己と他者はその働きにおいて本質的に同じであるという事が理解出来るでしょう。自己が理解出来る分だけ他者をも理解出来るという簡単な表現に置き換えても良いかも知れません。

 自我(エゴ)というのは刹那の世界を生きるための自己であり、往々にしてとりあえず肉体的に生きてゆく目的で何でもしようとします。そのなりふり構わぬ刹那の「自我」を、調和と成長の路線に乗せるための、観察とその修正行為が行なわれるようになれば、自我(エゴ)から、本来の高次の自己の存在がはっきりと見えてきます。本来の自分を思い出してくるということもいえるでしょう。

昔から言われる「自己の放棄」とは、古い自己を勇気をもって捨て去ることで、それを含めたさらに大ききくて高次の自己を得ることでもあるでしょう。今我々は、分離から統合へ、多なるものから一なるものへの体験過程にあるようです。

●マインドは体験を実りにする為のツール

 我々の必要なプロセスは、まずこころのあり方の習熟であると察せられます。体験は成長のためであり、自己の無限性・多様性に気づくための貴重な宝物であり、その宝物を宝物として感謝するためにこそ、こころの働きがあるのです。マインドは様々な経験を宝物に変えてゆくツールであり、ツールである自己のマインドの働きを制御しないでどうして宝物に変えることが出来るものでしょうか。マインド・こころは自己を観る為の唯一のツールともいえます。

●多次元の身体とは

 古今東西、いにしえの叡智の記録、昨今のスピリチュアルに於ける様々な情報の中の共通した内容の中に、我々の身体構造の多層構造の教えがあります。なお、肉体という馴染んだ体は多層の身体・ボディの内の仮の1つにすぎません。我々のボディには、チャクラなどと呼ばれる7つの生命のセンターがあるようです。これはわたし自身でも実感できるものです。またそれら7つの生命中枢ともいえるものは、多層になったわれわれの身体構造とも関連しているようです。もっとも大雑把に分ければ我々のボディ:存在形態は、肉体、意識、魂という複合体でもあります。

●肉体は探求世界用の波動衣服のこと

 肉体は物理的な世界を体験するための、謂わば高度な機能衣服、モビルスーツ?物理世界への潜水服?のようです。この肉体というレベルは、今我々の多くが体験しているものであり、またこれには数十年という耐用年数があるのは誰も知っている事です。肉体は五感に映ずるもっとも身近なボディですが、多くの人々にあっては、五感に感じる物質レベルでの肉体のみに意識が集中しているわけです。まさに見るものしか見えず、意識するものしか現われないという原理が働いています。

●意識は連続する生命波動そのもの

 意識体というのは、想念・感情に関わるもっとリアルなボディですが、物質・肉体レベルに囚われている場合は意識できないものです。これらは輪廻転生に関する記憶を有しており、自己の内面に意識的になればなるほどそのリアルな存在が明らかになるようです。普段の生活でのこころ模様の観察や、肉体の活動が休止している層での意識体験・夢情報を意識して分析する作業などを通しても、この多層のボディ:存在形態に気づき始めます。

●魂は「在る」

 魂というのは理解や知識でそのものを捉えることよりも、間違いのない直感で把握するものでしょう。知性による理解、感性による気づきの、先に在るものであり、我々の根源ともいえるものですが、これは実は、『今生きて在る』という事実で明らかなことでもあります。事実に説明や証拠は不要であり、他者が証明するものでもありません。それはまさにそれとしか言いようがないものです。『わたしは在る』という意識がそれを証明しているのではないでしょうか。

●生と死は単に波動衣服の交換である

 死とは多層のボディ:存在形態の一番外側の衣類を脱ぐようなものでしょう。春夏秋冬で衣類を変えるようなものでもありますが、肉体に囚われている意識レベル(集中レベル)では、その衣服を着替えることは、それはそれは、とんでもない恐怖を覚えるものです。確かに衣服が1枚しかないと思っていれば、その1枚の衣服(肉体)への執着はただ事ではないのです。そのために人生の全てを使ってもしがみつこうとするものです。元々授かったものであるその衣服自体が、数十年の耐用年数しかないのを知っているにも関わらず。

 我々の本体は肉体以上の存在であるということです。多次元、多層のボディといっても、肉体としてイメージするような、限られた時間空間に構築される局所のボディではなく、時間空間を超えた形で構成されている形態であろうと思われます。

●地球生命学園の意義とは

 我々を含むこの地上の生命存在達は、そこにたまたま物理的な地球が出来たゆえに、その表面に出てきた有機的存在であるとは思えないのです。偶然が積み重なって地球や諸惑星さらには銀河などが出来ていると言う考えかたが絶対正しいと固執すること自体が、井の中の蛙的考えかたと思えないでしょうか。地球は生命の学びの為の1つのカテゴリーであり、さらに高次のあり方から謂えば、あらゆる段階にある意識存在達の合意のもとに存在しているものだろうと考えられます。

 地球での我々の輪廻転生は、全ての終りなき始まりの根源である悠久の一なる存在が、己に目覚めることを『体験』しているプロセスです。地球での生命体験は、己を忘れて再び思い出す為の特殊な学びを提供してきたようです。人間存在・魂は、究極で森羅万象の因、その根源自体でもあることを思い出すことが今大切なことなのです。

●地球の変容は人々の意識の変容とシンクロしている

 我々の意識の波動が合わさり、地球という意識が共鳴してこのような物理次元をかもし出しているという可能性は、光の干渉技術に関するホログラフィーの類推でも容易に察せられるのではないかと思われます。肉体レベルでの自我を超えて存在する我々の本質的な自己達が、その体験を共有すべく、ここに集い、地球という母なる意識と共同で様々な学びと遊びを表現しているのが真実であろうと考えます。

 今この時、この地球が変容しているということに気づくということは、昨今の社会変動・自然変動の観察もさることながら、原因側の要素である我々自身の内面を観ることでもそれが理解出来るものでしょう。我々の真なる自己を思い出すプロセスは、そのまま地球が覚醒しつつあるプロセスと決して無関係ではありません。

  

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本日も誠に拙い文章をご覧頂きまして、誠にありがとうございました