気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

どうやって解脱するのか(8)思考は実体波動と感得すべし

2015-01-23 06:52:25 | 見えないものから見えるものへ
●空(くう)はあらゆる波動の充満を意味する

地上の空間、我々の目の前にある空間、それは何も無いのではなく、様々な波動で満ちている。

目に見えないからといって、何も無いのではない。

現代文明での電波利用はその1つの具体例であり、地球の周囲の空間を様々な波長、位相、振幅の電波がそれこそ無数に飛び交っている。

パソコン、スマホ、携帯電話、TV放送等が使えるのは、そういう電磁波とそれに乗っかっている情報によるのである。

「波動」とそれに乗っかっている「情報」・・・を使っているわけで、
現在発見されている波動で、その発生・操作が可能になっているのが<電磁波>というわけだ。

人類の周囲の空間にはそれこそ無数の電磁波動が飛び交っている、または振動しているのである。

・・・


・・
●人の想いは波動として伝搬している

同じく、人間の想念、想いつまり思考や感情、想像なども波動として飛び交っている。

電波と同じくそれもやはり目には見えないし、現状では電磁波のようには機械観測出来ない「波動」である。

機械観測できないと言っても実際に存在するのだが、これに気付けないところに、自ずと物質文明自体の限度がある。

テレパシー、精神感応と呼ばれているもの、あるいは「以心伝心」と言われている情報の直接伝達は、この「想念」波動の送信・受信のことである。

テレパシーや直観での事実情報の把握は、

自分のこころ、精神の動きの中に生じる情報であるため、

普段から自らの心模様を観察できる場合にだけそれを意識的に使うことが出来る。

それらはいわゆる「静かな」こころ、リラックスした意識状態が必要である。

単なる外からの刺激でのランダムなこころの反応なのか、

有意味な情報を乗せているのか、

かなり微妙な精神的な波動への同調や、フィルタリングをしなければならないからだ。

波風で荒れている海面では、直下の魚の動きは見えないようなものだ。

テレパシーや直観での情報感受、またそれは身体が寝ている時にも起きやすい。

脳波で言えば、アルファ波からシータ波のレベルであれば、寝ていようと起きていようとそういう波動感受が容易になるのである。

そういう波動感受は、例えば他人の想念感受によって嘘かまことかが、なんとなくでも判然とするし、この先危険かどうかの漠然とした執拗な感覚が生じるものである。


ここで重要なのは、

それらはいわゆる「静かな」こころ、リラックスした意識状態が必要であること。

また単なる外からの刺激でのランダムなこころの反応なのか、

有意味な情報を乗せているのか、

かなり微妙な精神的な波動への同調や、フィルタリングしなければならないということだ。


・・・

ふと思ったことが実際にそうだったとか、何気にある人のイメージが漠然と浮かんだところ、その人から連絡があったとか、その人に関する何らかの出来事があったとか、そういうことはあなたにもあるだろう。

カレーが食べたいかな・・と思ったら、その日の夜の献立は実際カレーだったとか(笑)、そういう類の経験は誰にもあるだろう。

それはあなたに関係がある者の「思考」に、ふとした瞬間に「同調」していることを示している。



●想念を空虚な代物として捨てる愚かさ

それらをすべて偶然の出来事として捨ててしまうのが現代の思考であるが、これが大きな間違いなのだ。

目に見えないからといって存在しない・・全て偶然である、確率論の問題だ等と、そういうことを平然という者は、全くの無知蒙昧の輩であるが、そういう者が現代社会の所謂上層部に陣取っているような社会に成り下がっているようである。

自分自身の思考、イメージが実体のないものだという固定観念に縛られているわけであるが、これを解除できるかどうか、・・非常に重要なポイントなのである。

●想念も実体波動である

あなたやわたし達が頭に描くイメージ、過去経験した風景や場面、想像するイメージは、いわゆる高い次元あるいはさらに微細な波動域での情報であり、

波動の媒体の違いはあれども、普段見ているパソコンやスマホの画像と同じように、実体波動なのだ。

実際にあなたの「想い」は、媒体が電磁波ではないものの、ある種の波動として、全国放送いや全宇宙放送されているのである。

全宇宙というのは決して誇張ではなく、思考の速さ・・という事からすれば、いわゆる光の速度を超えているという実験結果があるわけだ。

また量子物理での実測によって証明された「量子もつれ」も、素粒子間の「情報伝達」速度が光速という限度をはるかに超えていることを示している。
・・・

誰にも身近な精神機能である「思考」「想像」は同じく一種の波動情報であり、その伝達は時空間の限度枠など超えている波動伝達なのだ。

実際にあなたの「想い」は、媒体が電磁波ではないものの、

ある種の波動として、全国放送いや全宇宙放送されているのである。

地球上にはそれを感受して、表面意識に浮かび上がらせること・・・を知らない人が多いだけなのだ。

お金を出してスマホやPC端末は使っているが、

自分の身体と精神の機能は退化したままで、それをほとんど全く使っていないということ。

物質的繁栄、楽しい資本主義的富の蓄積のためにはそれが邪魔なので、無視しつつ排除しつつ、ここまで来たが、

まさにそうであるからこそ、物質文明自体の限界と崩壊現象が現れてきているのである。

人間の精神性を無視して来たところの近代欧米物質文明の自己矛盾とも言えよう。
・・


・・・
●想いは言葉と行為の原因である

想念は言葉に表現され、また行為の原因となることは、既にわかる人には解るのだが、その元にある想念が、情報の重畳された波動であること・・・

それを知ることが極めて重要な意識進化のステップなのである。

想念の内容がキャッチされれば、それこそ嘘や隠しは全く通用しない。

騙すことも誤魔化すことも、それ、想いの内容に含まれているわけで、隠せるものではない。

●ボロボロ出てくる人類のカルマ

今現在世相を見るならば、

ある想念のパターンを大量生産して、何事かの方向に持ってゆくことが行われているが、これに気付けるかどうかという人類の試練の最中であるとも言えようか。

残念ながら主要メディアは、そういうある種のイメージを繰り返し表現しつつ、そのイメージを元にした想念体系に、大勢の気付かぬ人々を巻き込もうとしているようである。

それは古い世界の崩壊の濁流に流されることを強いる方向なのである。

今までもそうであるが、今こそが精神の不動性の真骨頂を発揮する時であり、

外の世界で生起する様々な人為的事件や出来事に、流されてはならないのである。

その濁流は、まず想念レベルにおいて起こされるのである。

気付いているだろうか。


●あちらこちらに出てくるハーメルンの笛吹男

特に政治や経済、社会におけるいわゆる権威層に顕著になっている愚かさ、

見え透いた嘘やおバカな姿態をさらす者たちが増えてくるのは、

その想念が読まれる、察知できる時代へと移行していることを示しており、

実際のところ、面白おかしくそれらの事象に一喜一憂している場合ではない。

鵜の目鷹の目の姿勢で、世界の激変の刺激を喜んでいるならば、

気付かず知らずに、外側から押し売りされる「想念」の大量生産品の中に流されてゆくことにもなるだろう。

呼子の役目のハーメルンの笛吹男はどこか優しげだが、結局人さらいということだ。


●嘘や騙しの通用しない世界への移行

古い世界はそのウソと騙し、建前とエゴ的本音の吹き溜まりであった。

お金を元にした便利な機械や工作物、安楽な生活などで目くらましをされてきたのだが、実のところは精神的機能の・・・退廃の道を経験していたということである。

便利な機械が、即そのまま人間の精神の退廃につながっていたわけだ。

そしていま、その退廃の文明の崩壊現象が起きていることに気付けるだろうか。

地球の崩壊ではなく、その時空の中に築かれた虚構の物質偏重文明の崩壊である。
・・

識者の間で、世界経済の崩壊が近い・・・等という風潮が一部にあるのはそれを察知しているからである。

また、第3次世界大戦がどうのこうのというのも、その傾向をおどろ恐ろしく感受しているのだ。

・・・

●カルマは解消すべきもの

現在古い世界の崩壊に合わせて、

世界の一部では様々な、ろくでもない人為的行為や事変が、昨今かなり矢継ぎ早に起こされていることは知っていよう。

矢継ぎ早なので、隠れた意図と事変の間の、その因果関係も解りやすくなってもいる。

ネットなどであれやこれやと嘘を暴き出したり、裏にある別勢力の意図を導き出したり、あるいはメディアの流す尤もらしい虚実が浮かび上がったりしているわけだが、

それは、思考と行為の裏にあるエゴ的意図が、あれやこれやと、どこか見透かされていることを示すものであって、

それも集合意識の潜在下での「想念」の直接感受が元にあるわけだ。

・・・

そう、

想いは・・・嘘をつくことが出来ない。

言葉は嘘八百を言うことが出来るし、行為だってマヤカシが可能であるが、

その元に有る「想い」はどうしても・・・、どうあっても誤魔化しようがない。

実に、人格の色付けをしているのが、内面にある定常化した「想念」、信念なのである。


カルマの解消とは、

その方向違いの信念、固まった想念が、自己崩壊することを体験することなのだ。

「それって、やっぱ違うよね・・・」という明らかな理解を、魂が経験することである。


臨死体験で明らかにされた、人がこの世から離れた後の、
・・
高次元でのライフレビュー(人生の自己想起)も言わばそういう魂の学びの、その真髄の確認であるとも言えるかもしれない。

・・・
 


●真の意味で自己を大切にする時

外の誰か、何かの現象ではなく、まず自己観想が重要だ。

まず、自己の「想いを観る」ことが出来るかどうか?

想いの中に微妙な歪を発見できるかどうか?

想いを自分で「意識的に選択、創造」することが出来るかどうか?


真剣にかつ気楽に、自らの内面を広げる意識的努力をしているのかどうか、

それこそが、それぞれの魂・意識にとっての喫緊のテーマである。

人生の大きな目的はそれであると思えないか?


それは、自分だけ安楽であれば・・、自分の身の安全が保障されれば・・という、

エゴ的想念とは全く方向が異なることは理解できよう。

・・・

外の世界では、今までのエゴ的想念のカルマチックな濁流の荒波が更に大きくなるだろう。

それに無意識に波長を合わしてしまうのか、より意識的に広く高く自らを方向づけるのか、

今、非常に重要な意識進化の岐路に差し掛かっている




・・
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古い世界の崩壊音(4)日本財政は既に終了している

2014-11-18 15:34:52 | 見えないものから見えるものへ
消費税を無理やり上げた結果が、マイナス成長という果実を結んでしまったというニュースが流れている。

なるほど、時の流れは速いものである。

今回も、一部だけを強調する類の「嘘」の報道があるかとも思っていたのだが、

権力に迎合するメディアでさえも、

さすがに自分達のおまんまが食い上げの方向性を直視せざるを得なくなり、

現実の立ち位置の危うさを無視出来なくたった事に気付き始めたようではある。
・・・
 
それがせめてもの救いでもあるが、

残念ながら・・しかし、時は既に失した。


かつて終戦後あった経済崩壊の混乱まで・・、預金封鎖と新円切り替え、軍票という言わば国債の放棄の再現まで、

そう・・・あと何年・・何か月・・あるだろうか。
 
当時の敗戦と、更に戦後経済の零スタートの時に耐え得たような、粛々とした日本人の忍耐強さは、今も残っているのだろうか・・・。

実にこころすべき時でなのある。

取りあえず、実際に何か準備していてもおかしくはないが、あなたはどうだろう。

未だに経済アナウンスよろしく借金や、消費を続け、ローンを抱えているのだろうか。

あれが旨いとか、これがかっこいいとか、借金も財産の内だとか、インフレでローンが目減りするとか、そんな悠長さでは峠越えは難しいかもしれない。

今日の明日とは言わないものの、かなり近い将来、確実につけを払う事態が訪れるのである。

目にする嘘八百で飾られた文明の幻想の何たるかを、はっきりと見極めることも大切なことではあるが、出来うる限り気付かぬ人々の発する、混乱する想念と行為の濁流から離れていることが大切である。

そしてそういう時こそ、他者を援けることの出来る精神的余力を残していることが肝要である。

・・そう、これは峠越えの為の1つの秘策となることだろう。

 
...


国民は、実質税収40兆円ほどの国家財政で、90兆円ほどの予算を組むことの異常さに、
 
本当に気づいているのだろうか。

2-3年前には800兆円だったものが、今や1100兆円にもなった国債残高の意味を理解しているだろうか。

ああ、それは国の借金だろう?私は関係ないわよ・・・、とは言えないのだが不快だろうか。

確かに、庶民の知らないところで、いつのまにか勝手に、<国民>という他人名義の借金を作っている者たちがいるのだが、

実際は財務省やら公的機関やらの、控えめで伏し目がちではあるものの、そういう事実報道もあるわけであって、それを知らないとは言えない現実があるということに気付かなければならない。要は、小賢しさにはめられているのだが。

国民は、なんともはや苦労ばかりの、情けない親たち・・そんなことであろう。(笑)

 
国家政府の1100兆円の国債残高の「担保」は、何あろう国民全部の金融資産である。
 

1300兆円とも言われる金融資産、つまり普通・定期の銀行預金、生命保険、その他の預け入れ資金、そして年金資金までもが「担保」となっているのである!


担保と言えば聞こえが悪いが、実際にそういうことなのだと、知っている人もいるはずだが、騒いでいる経済専門家も少ない・・・というよりはメディアで刺し止めされているということだ。

それは例えば、あなたの定期預金が100万円あれば、その90%までは貸出しができる、あるいは生命保険の自己積立分の9割まで貸し出せますよ・・というあれである。
知っているだろう。

・・・
銀行はデフレという現状と、グローバルなアメリカ資本と競合しないという暗黙のお達しによって、普通に融資する安全でまともな貸し付け先が細ることになり、いきおい、政府の発行する取りあえず安心な?国債で運用することになったわけである。

たった1%でも利子を生めばということで、庶民の預金を国債に<投資>してきたというわけである。
大体20年前から始まって、昨今のように次第に麻痺するのに時間はかからなかったというわけだ。

今現在国債残高が、1100兆円という話だが、どうやってこれを還せるのか?

小学生でもできる計算、1100÷40=27年、年間の国税収入40兆円の・・・実に27年分である。

黙って毎年全てを還しても27年かかるのである。

またそれに、全てを還せるわけもなく、税収の大方が国家公務員、官僚たちの「人件費」つまり生活費に費やされているのである。それが大体30兆円とも言われている。

なるほど、それが全部悪いというわけでもないが、増税するにも何をするにも、いつものその理由づけが面白いのは、社会保障費が肥大したからだと言っていることだ。(大笑)

要は、国民自体の負荷が重いと言っているわけだが、国民の働きで飯を喰えている者が言うべ気事ではないわけで・・・言われている方も、自分のことは思わず、そのことに気付けない人々が多いのである。

重いのは、身体障碍者や弱者、じいさんや、ばあさんを生かすための「社会保障費」だというような言い立てであり、それは実に、事実のごく部分だけ誇張する粗悪な理由づけである。

「われらは東大出でしてね、国民を管理するエリートであって、あなたがた下っ端の庶民が頑張らなければ、こうなってしまうんです。効率化を促すインフラも道路も予算振り分けで作ってあげたでしょう。だからもっと頑張ってください。それに実際我々の生活もままならないのです。だから消費税も上げなくてはならないのです・・」・・と暗に、言っているようなものである。
 
そういう上から目線の暗黙の指示行為に比べれば、上に言われるとおりに、いつも通りのプロパガンダを流しているメディアや、利益追求だけを鵜の目鷹の目で、常に探している企業などは、まだまだ「まし」であると言わねばならない。


仕組まれた太平洋戦争で負けて以来、

この国が投資と回収の市場にされ、そこで肥え太った豚を飼育・トサツするような仕組みに組み込まれ、長い回収が始まったのはいつだったろうか、
 

頃合い良しとプラザ合意で為替の保護枠を外され、

その後何十年もアメリカの簒奪の修羅場をくぐりながら、

今までなんとか結果が出ていたのは、生きるために必死な、

馬車馬のような、生きる職人のような、律儀な庶民がいたからである。

・・・

確かに、今まではそういうことであった。
 

しかしながら、それはもう終わったことに、

あなたもこころの底のどこかで気づいているはずである。

年とは全く関係なく、

もし本当に、それに気付いているあなたは、

もう十分やってきたのだ。

やるべくして人生を生きてきたならば、

自己の苦痛と快楽の、人生のその酸いも甘いもあるその意味に気付いているならば、

これから必然的に起きてくる、この次元でのその卒業の式における、

未だ、何が何だかわからない人々の、阿鼻叫喚の姿を見る必要もないはずである。

これから必然的に起きてくる・・・この次元世界の・・魂の卒業式に、

あなたはどう臨むのだろうか。

 

 


 
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古い世界の崩壊音 (1)時至る

2014-11-06 07:05:42 | 見えないものから見えるものへ

我々の知覚している世界は、相変わらずの状態で続いていると見ているかもしれないが、
その「今」をしっかりと観察するならば、未来すなわち、変化し続ける「今」が、どのようになるのか、大方は決まって見えてくるものである。

人生も社会も国家さえも、人々の「こころの傾き」によって、右や左に舵がきられているわけで、
細かいことは別として、当然ながらその先行き方向は、本来誰でも見えるものである。


人間社会は全てが「人為」であるわけで、集合無意識からランダムに偶然に生起するわけでないのだ。意識的な創造の原動力、意図や意思などというものを無視し、突然変異やハプニングに無理やり帰すという思考が、いつの間にか人類の呪縛となっているようなものだ。

もしそうであるとするならば、船の舵を握っている船長が眠っているか、酔っ払っているようなものであり、なるほどそういうことならば、自分が舵を切っているにもかかわらず、先行きはどうなるか皆目見当がつかなくなるわけである。


「例えば人生一瞬先は闇だ」ということわざがあるが、未来が決まっているわけではないという真実と合わせて、決めるのは自分の意識の働き、こころの方向性によるものである・・という意味が含まれているのである。


それは、タイムラインは決まっていない等という意味でもあるが、そのタイムラインは、誰かが、あるいはその他大勢が決めるものではないのである。民主主義的多数決あるいは独裁、少数の権力者で決めるものではない、つまり、それぞれのあなたの外側で決められるものではないのである。

人生は窮極で、それぞれの選択によっている。
わたしだけで生れてきて、わたしを中心に人生を経験し、
そして、わたしだけで去ってゆく。
例外なく、それぞれ皆が対等に、そうである。
それに違わないだろう。
 

我々が知らず知らず参画し、共同創造しているこの世界は、例えば、数千年に1度くらいの極めて大きな変化を体験しつつあることに、あなたは気付いているだろうか。

さて、さらに予測可能な人為的現象、社会現象ではなく、昨今の自然界の変化、異常気象、地殻変動等が、数十年に1度とか100年に1度とかの確率で生起している等とメディアで報道されているわけだが、
それはその規模の大きさと人的被害の大きさのことを言っているわけであり、
これは即ち事象の「変化率」の増大を意味しているのである。
また当たり前だが、経済的、人的被害の増大は、その部分で大自然と確実にリンクしていることも示している。
大自然の中にあるのが人間社会であるという事を、如実に知らしめていること・・その意図的な変化の増大に気づけるだろう。
「怖い、怖い、気をつけよう!」だけでは、全く意味を理解していない。

 
「人類は自然の中で生かされているのだよ、忘れたのか」・・というメッセージを、そういう事象で示しているのだ。無味乾燥な出来事、物ごとで取り巻かれているというような唯物論的観念に染まっている限り、出来事の中に含まれる意味、全体から個々に示される「含意」に気付けないかもしれない。


なにせ、世界の全ては偶然で、意味のないものであって、とりあえず自我だけを生き延びさせよう、そのために銭・金・物、権威や地位を獲得しようとする、そういう生き方が主流であれば、
極めて特異な今の時代というか、人的、自然的な一大変化時の動きにも、ほとんど気づけないかもしれない。

 
そういう目先の物欲の充足を目指す刹那的な生き方、考え方を代表する仕組みが、いわゆる今までのアメリカを代表する資本主義経済世界と言えようか。
もうすでに社会主義も資本主義もなく、そういう主義主張という上辺の思想の追求という名目も消え去り、はっきりと物的充足のみを求める世界に成り下がったわけである。


今、どこの国の中央政治も地方政治も、地域社会も、その多くが「経済を拡大せよ、金回りを良くせよ、GDPを無理しても上げよ」と叫んでいるだろう。

また、資源の豊富な地域に限って、無知蒙昧の戦乱が起こされているのが分るだろう。

さらに潜在的な資源を探りつつ、その地域での覇権を確立すべく事前に密かにうごめいている国もあるだろう。

本来ならば、決して行ってはならないはずの経済上の禁じ手である、単なる紙幣の増刷もやらざるを得ない現実も、すでに古い経済の仕組みが崩壊していることを如実に示しているのである。

 
そう、精神的荒廃も、放射能の汚染も、実体経済の崩壊も 「ただちには影響がない」というレベルで必死に抑えられていただけの話である。

しかしながら、何事もないかのように隠されていた、人類のこころの歪は、今、あからさまに噴出をし始めたようである。
 
とうとう先延ばしされてきた、その浄化と昇華の為の試練の時が「今」来たと言うべきだろうか。

そして、今こそは決して「末法の世」の始まりというのではなく、まさに「末法の世の終わり」ということなのだと識(し)るべきだろう。
 


(つづく)

 
 



 
 
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人とは何か :三位一体

2014-11-01 23:14:10 | 見えないものから見えるものへ

   
別に宗教とは関係がないが、人とは何か・・と言えば、それは三位一体の存在とも言って良いだろう。
  
ここでの三位とは
 
<身体・肉体>と、
 
<こころ・マインド>と、
 
そして
 
<魂・霊>等と言われるものだ。
 
・・・
 
簡単に言うならば、
 
「肉体」を見ているのが、「こころ」であり、
 
そして、
 
「肉体」と「こころ」を観ているのが、実は「魂」だということだ。
 
・・・
  
人は、自分の肉体の他に、自分の「こころ」が観えているだろうか。
 
「こころ」が観えなければ、後ろの正面の「魂」である自己に気付けない。
 
・・・
 
昔から禅の修業やら、瞑想やらは、そういう「こころ」を俯瞰する位置まで昇るためのものだ。
 
「肉体」も、そして「こころ」も、それを対象として観えるというか、意識の視点が広がるというか、
 
そういう意識的次元の上昇とでもいうべきものである。
 
・・・ 

そうすると、目の前のコーヒーカップが自分そのものではないように、
  
<肉体>も対象、そして<こころ>も、あくまでも「対象」であって、
 
自分の<本質>ではないということが『解る』(わかる)ということである。
 
・・・
 
この『解る』ということは、究極は、体感でも思考による想像でもないため、
 
自らが会得というか、感じるというか、それがまさにそうである・・というしかない。
 
・・・
  
あるいは目の前にあったベール、塀が解かれると言う方が解りやすいかもしれない。

眼から鱗が落ちる、あるいはこころのかさぶたが剥がれ落ちるとでも言えるだろうか。
 
余計なものが無くなるだけのことである。
 
・・・
余計なものとは、身に沁みついた、こころに刷り込まれた、低いレベルの重たい観念なのだ。
 
---
 
昔から続いている技法、禅や瞑想などによって、肉体とこころを静かに見渡せる意識へと自らを広げること、
 
そういう意識レベルというか、視座というか、そういう大きく見渡せる、いや、観ずることに親しむならば、
 
自分の本質ではない肉体や、その環境、あるいは想いや感情に重きを置かなくなるがゆえに、
 
肉体や環境、物質的事象等に必死になることも、
 
想いや思想の良し悪しや、感情のとげに嘆くことも、
 
快楽に酔っ払って、苦痛に顔をゆがませて、分けが分らなくなることも少なくなるのである。
・・・ 
 
「それで、それが何の役に立つのか? いくらの銭になるのか?ローンを返せるの?」
 
そういう、目先だけのプラグマティズムで培われた<こころの癖>も、ぶり返さなくなるだろう。
 
・・・
 
尚更、マインド、こころが創り上げる、ウソや騙しに会う事も少なくなるだろう。
 
なぜならば、既に・・・そのこころ・・が観えるからである。
 
・・・
 
我々の共有する世界、この世界が嘘や騙しに満ちていたのは、
 
肉体や物体は見えているが、それを見ている自己に生起する想念・こころが観えていないため、
 
他者のこころがどうあるのかも、皆目見えていなかったからだ。 
 
そうではないか。
 
・・・
 
人間は三位一体というのは言い得て妙である。
 
どこかの宗教でいう、神と子と聖霊という表現は、ある意味で、魂と肉体と精神と言って良いかもしれない。
 
・・・  
あるいはその構図とは、
 
「魂・意識」の<内側に>、「こころ・想念」が起きていて、
 
さらに、その「こころ」の<内側>に身体が投影されているとも言えようか。

 
・・・
またここで言う内側、外側とは、
 
普段イメージしている物や空間、そのあちらやこちらというものではなく、
  
例えば、高い周波数は低い周波数を当然・・含んでいる、と・・
 
あるいは、高次元が低次元をふくんでいるという、そういう風なものである。
 
・・・
 
低い周波数は、高い周波数をそのままで作ることは出来ない。
 
低い周波数域では、高い周波数域を見ることが出来ない。
 
TVやラジオ、携帯端末で使われる電磁波通信でも同じ仕組みだ。
 
また、粗い角材ではそのままで精妙な芸術品は作れないようなものだ。
 
ド・とファ・の音だけでは、格調ある音楽は作れない。
 
逆に、高い周波数では、低い周波数までも作ることが出来るだろう。
 
・・・
 
肉体と想念と魂・意識の違い、
 
ある意味で、それは渾然一体となった、次元の違いと言うしかない。
・・・
 
例えば、あなたの頭に去来する「想念」は、言わば高次元的波動と言えよう。
 
次元が違うから肉眼じゃ見えない・・・、そういうことだ。
 
・・・
しかしながら、イメージや想像が出来ているということは、
 
あなたはここに居ながら、その次元にも意識的にアクセス、同調していることを示している。
 
またその次元では、
 
人々の想念は、個々の自分の想念と同じ出どころのそれ、であることが解るようになるだろう。
・・・
  
よく言われるテレパシーなども、SFや絵空事でもなく、そういう次元域での同調によるのだ。
 
・・・
何故なら、宇宙の構図では、
 
全ては全体の「部分」でありながら、「部分」には全体が潜在しているからだ。
 
・・・
部分から全体へとその<意識>が次第に広がるならば、全包容的意識においては、
 
部分も全体もなくなるのである。
・・ 
 
ワンネスという意味は、そういう意味。
 
部分はまた部分であり、かつ全体なのである。
 
一は すなわち 多なり・・。
・・・ 
誰にも、どこにもある、何にでもある「意識」・・というしかないそれで、
 
全てが満ち満ちているということだ。
 
そしてまた、それは「空」(くう)として在るように観える。
  
・・・

それぞれの人間での、その在り方を簡単に言うならば、
 
「肉体」を見ているのが、「こころ」であり、
 
そして、「こころ」を観ているのが、「魂・意識」ということだ。
 
魂・意識とは、全体即ちまた、部分としてあるところの・・わたし・・のことである。
 
・・・ 
 
人は自分の「こころ」が観えているだろうか。
 
今までのように、肉体や物、環境ばかりが見えているならば、それは十分とは言えない。
・・・
  
こころの動きが観(み)えなければ、その動きの背後にある「魂」である自己に気付けない。
 
そう・・・、後ろの正面はどうやっても見えないもの、単なる肉眼では「見えない」ということだ。
 
だから、その仕組みの背後、あるいは広い視座に上る必要があるのである。
・・・
 
映画のスクリーンは、背後から光で照らされているから、それが見えるのである。
 
世界とは、そういう仕組みのことである。

・・・
 

 
・・
 
 
 
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