気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

宇宙の原初・・我(われ)・・在り

2016-05-01 11:55:53 | 偉大なる先達の言葉
(「I AM THAT・・」より)



探究者とは自分自身を探している人だ。

「私は誰か?」以外のすべての質問を放棄しなさい。

結局、あなたが確信できる唯一の事実とは、

あなたは在るということだけだ。

「私は在る」は確かだ。

「私はこれだ」は確かではない。

真実のあなたとは何なのか

それを見いだすために努めなさい

あなたが何なのかを知るために

あなたが何でないかを知りなさい

あなたではないものすべてを発見しなさい

身体、感情、思考、時間、空間、あれこれ

具象であれ、抽象であれ

あなたに知覚できるものはあなたではない

知覚するという行為そのものが

あなたの知覚するものが

あなたではないことを示している

マインドのレベルにおいては

あなたは否定的言語でによってしか描写できない

ということをより明確に理解するほど

あなたの探究はより早く終焉を迎える

そして、あなたが無限の存在であることを悟のだ

----

わたしは在る

そして私が在るゆえにすべては在る

「私は誰か?」という質問に答えることは出来ない

いかなる体験もそれに答えることは出来ない

なぜなら、真我はそれを超えているからだ。

 (シュリー・ニサルガダッタ・マハラジ)

・・・・

外の世界の様々な出来事や事象に意識をやっているかぎり、

いつまでも外の世界に振り回されることになる。

外の世界の中に、雑多な事象現象のなかに、

か弱く小さな肉体としての私が存在していると想っているかぎり、

その閉鎖された観念世界、一見安定なマトリクスで苦労することになる。

いままでのように。


なぜ苦労するかといえば?

なぜならば、それは本来の姿ではないからだ。

苦労や苦痛は他者があなたに押し付けるようにみえて、

まったくそれは違っている。

社会が悪いせい? その中の人間達が悪いから?


実際、それも違う。

押し付けられるような、押しつぶされるような、

小さくか弱い「あなた」をそこに作り出しているから、

怯えて、怒って、嘆き続ける・・

小さくか弱い「わたし」をそこに創りだしているからこそ、

わざわざ、それに感情や思考のゴミを押し付けてくる他者がいてくれるのだ。

どうしてこんな風なんだろうか、こんなに不幸なんだろうか、

どうしていつもどこか不安なんだろうか、

どうして・・・。


苦痛や苦労は・・・「それは違うよ・・」という合図。

あー、嫌だ・嫌だ、こんな人たち、こんな世界・・と思っているならば、

その人は、嫌な目に合う小さき人を、好き好んで自ら演じているということだ。

えー、ばかな! 自分が悪いだと? 俺は悪くない! いい加減にしろ、と、

こころが感情に震えて怒り狂うか、しゃがみこんで嘆き悲しむか、

恨みに燃えて復讐するか、逃げて隠れておびえるか・・・

そういうこころのパターンの繰り返しだっただろう。


あなたの意識があるからこそ、世界を見て、聴いて知ることが出来る。

あなたの意識があるからこそ、人々を観て、聞いて関係することが出来る。

極めて、極めてシンプルだから、何千年も気づかぬこともあるものだ。

本来の自己を忘れるこの世界で、忘れたまま、生れては死んでの繰り返し、

それすらも覚えていない・・この世界における、そんな魂の学習は終わったのだ。

それとも、苦痛と快楽の狭間の・・経験を・・もっとやりたいのだろうか。


あなたの意識、われ在り・・という自己認識、

それがなくて世界も宇宙も・・観測できないことを思い出そうか

この世界に生まれる・・という物語が無くて、この世界を知ることは出来なかった。

そうだろう?

意識を有する人々がいたからこそ、世界の記録が残っているのだ。

過去の歴史や事実記録さえも、そういう他者たちの知覚の寄せ集めに過ぎす、

例えば、宇宙の中にどこにも人がいなくて、どうして世界を認識できるだろうか?

宇宙や自己を「認識する」働きが無くて、どうして宇宙やわたしがあるだろうか?



宇宙のどこでも、その叡智を全て自己投入しているのが創造の根源ならば、

無限の愛や叡智が、どうして出し惜しみをするだろうか。

嗚呼、そう! 自らが・・本質においては、

無限の叡智、生命の根源であることに気づかなければならない。



世界が有って、宇宙が有って、・・わたしがあるのではなく、

わたしが在るからこそ・・・世界や出来事、多くの人々を知覚できるのだ。

そういう無数のわたし達が在るからこそ・・多次元宇宙、存在諸世界が展開されている。








本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。







今、目覚めのベルは鳴っている

2012-01-15 14:01:40 | 偉大なる先達の言葉

当然、もうご存知かもしれないけれど、

 

京大の小出さんの1月8日の公演中継のYou Tube録画である。

 

これは原発事故に関する真実の1つのディスクロジャーといえるものだが、

 

これらを含めて、

 

いかに我々が眠りこけているか、あるいは刷り込み観念で生きているか、

 

よくわかるかも知れない。

 

大衆として無意識の中で眠っている間に、ある面でも『地球』はここまで来てしまったということである。

 

真実は自らで気づくものであり、他者から教えられるものではない。

 

それだけで輝く素の意識としての自らに戻らなければ、嘘の時間と、影でしかない物質の流れに流されてゆくかも知れない。

 

本来の自分に戻らないお芝居は、面白くないことだろう。

 

・・・

 

長いけれども、・・ゆっくり・・と聞いて頂ければ有難い。

 

もう時間は、有るようで、また、すでに無いようでもある。

 

 http://www.youtube.com/watch?v=7MbcteuNf6c&feature=player_embedded

 

自分自身の意識の眼をさまし、

 

与えられた虚妄の 『観念』 を潔く捨て去り、

 

ある意味で、肉主霊従とも言われる、

 

極めて愚かな有り方に、自分で終止符をうたねばならない時に至ったのだ。

 

気づくのは、わたし・・自身、

 

そして  あなた自身・・なのだ。

 

原点は、いつでも、どこでも それぞれの<わたし>であり、

 

その<わたし>とは、個々の肉体人間の<私>ではない。

 

・・・・

少なくとも、

 

扱うことのできない原発は 100パーセント NO!であり、

 

人の命を取り戻すことのできない戦争は 100% NO!である。

 

巧妙に騙して大勢を搾取する、宣伝・洗脳は 100% NO!であり、

 

・・・

他者に依存し、無意識に眠れる有り方も、100% NO!である。

 

魂たちよ・・・今、の今・・目覚めのベルが鳴っているのだ! 

 

 

 

・・・

本日もご覧いただきまして、有り難うございました。

 


マザーテレサのことば

2011-10-16 10:18:20 | 偉大なる先達の言葉

マザーテレサも間違いなく覚者であると感じる。

 

そして普遍意識からくる「愛」を、女性とは思えぬ強靭で不屈の信念を通して、他者への奉仕行動というダイナミクスで表現したのだと思う。

 

なんという強烈な光だろうか。

 

キリスト教とか修道院とかインドでの救済活動とか、様々なイメージがあると思うが、そんなことは枝葉にしか過ぎない。

 

誰がどう権威に利用しようと、何を宣伝しようと問題ではないのだ。

 

ただ、わかる人にはわかるものである。

 

どこの誰が、どんな名前の、どんな職業の、どんな知名度の、どんな業績の、どんな履歴の、どんな性格の人なのか・・という、枝葉末節のようなものは儚く消え去る、『一時だけ極めて現実と思わせる』・・幻(まぼろし)のようなものである。

  

そのようなきらびやかな虚飾、まぼろしに騙されてきた時代はもう終わりにしようか。

 

今ここに生きてある我々は、今の『現実』が、どうも何だか不都合で、どうもなんだか苦痛で、どこかしら不満足であることだろう。

 

多分大なり小なり、そうではないだろうか。

  

世の中が間違っているために、自分が幸福を感じられない・・・と感じている人もきっと多いだろう。

  

自分の波長にあった人がいないという人間関係の不満もあることだろう。

 

全てはこころの持ち方なんだ・・と気がついてはいても・・・

 

そうはいってもやはり現実の生活、現実の世界では如何ともしがたいものがある・・と思って、こころの肩を落としていることの繰り返しもあるだろう。

 

あるいは、お金があれば何の問題もないのだが・・・と思っているかもしれない。

 

世の中が間違っているから、自分が不都合な状態にある・・・・という想いに気づいているだろうか。

 

外が不都合な状態であるからして、わたしは不都合(不幸)であるのだ・・・という、一見まともそうな論理・観念をこころのパターンにしていないだろうか。

 

しかしそれは全く違うことに、既に気づいてもいるはずだ。

 

そう、その古いパターン、それはもうやめたが良い。

 

それはある意味では『待ちの状態』の意識であり、何かをしてもらいたいという、外に甘えたいような幼い意識の現われだったのではないか。

 

あたかも、おっぱいをもらい、ご飯を食べさせてもらい、優しい言葉を投げかけてもらいたいというような、幼い時期の意識にすこしだけ未練があったのかもしれない。

 

また、それはどこかに「恐怖」があったためなのかも知れない。

 

この世界に生れ出て、自我が構築される過程において、様々な不都合や恐れを感じながら、

 

いつの間にか大勢の他者の様子を伺い、評判を気にし、集団の中でうずくまる生き方を編み出して、結局は自分の色と違う色を自分に塗りたくってきたのではないか。

 

自分の色と違う色を自らに塗りたくれば、それこそ苦痛を我慢しなければならないはめに陥るだろう。

 

それは牛乳瓶の中に無理やり入り込もうとする猫のしぐさのようでもある。

 

それは衣服のLLのサイズの人が、無理やりSサイズの衣服を着るようなものでもある。

 

確かに「不快」極まりない、「不都合」この上もないはずだ。

 

誰かが言うから、世間の風潮がこうだから、世の中の価値観がああだから・・・という、現われては消えてゆく幻想のような想い・観念・イメージに、自分を合わせていたのではないのか。

  

本来、あなたやわたし達は、自分のこころ、意識の中心から来る何かの「感じ」をしっかりと読み取ることをしなければならないはずだ。

  

実はこれこそが最も大切なことでもある。

  

外のように見えて、全ては内から来るのだ。

  

本当にわかるだろうか?

 

そうじるだろうか?

 

それをしないがゆえに、回答を求めて外の世界にさまようのではないか。

 

誰かが教えてくれる。

 

誰かがみてくれる。

 

誰かが支えてくれる。

 

誰かが理解してくれる。

 

誰かが救ってくれる。

 

そして誰かが愛してくれる・・・

 

他者や異性や家族や社会や国家や世界に期待をかけ、そして裏切られてこころの歪みを貯めこみ、逆に歪みを解消すべく、またまた外の世界を探し回る。

 

そんなこともあったろう。

 

しかし『今』はもう違うはずだ。

 

あなたは、昔もこれからも『あなた』である。

 

今は、『あなた』の中を探す時に至ったことを自覚すべきではないか。

 

あなたの身体、こころ、そして『無限』に接続されている、あなたの意識の中を探しだし見つけていくことで、

 

結果、

 

それが『外』という世界に少しづつ、自然に、確実に現われるということだったのだ。

 

我々は今まで逆をやっていたのだ。

 

大いに笑える話ではないか!

・・・

どんなことでも、大きかろうが少なかろうが問題ではない。

 

あなたが教えるのだ。

 

あなたがみてあげるのだ。

 

あなたが支えるのだ。

 

あなたが理解するのだ。

 

あなたが救うのだ。

 

そしてあなたが愛するのだ・・・

 

「誰か」ではなく、誰か・・とは、それぞれの「あなた」なのだ。

 

「誰か」ではなく、それぞれの「わたし」なのだ。

 

 

そのように方向転換した人々の住まう世界が、いわゆる第四密度の世界とも言えよう。量でもなく大きさでもなく、意識的な、質的な転換のことである。

 

本来のわたし・・達であれば、嬉しく楽しいのが当たり前である。

 

なぜなら、

 

全ての歪みの元にあった、ありもしない他者の影など存在しないからである。

 

これはまた、神たる・主体たる意識「わたし」への、意識的眼ざめを通過したということである。

 

 

 

下記の文は誰かがマザーテレサ存命のおりに、彼女の言葉を書き取り、まとめたものだと言われている。

 

 

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マザーテレサのことば  カルカッタにて・・・

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人は、理性的でなく、論理的でなく、自己中心的です。

 

そんなことは問題ではありません。

  

   愛しなさい。

 

良いことをしても、エゴだと非難されるでしょう。

   

  そんなことは問題ではありません。

 

    良いことをしなさい。

 

あなたの夢が実現すると、裏切る友や本当の敵に会うでしょう。

 

  そんなことは問題ではありません。

 

    夢を実現しなさい。

 

あなたがする良いことは、明日には忘れられるでしょう。

 

   そんなことは問題ではありません。

 

    良いことをしなさい。

 

正直で誠実なことが、あなたを傷つけやすくします。

 

  そんなことは問題ではありません。

 

    正直で誠実でありなさい。

 

あなたが何年もかかって築いたものが、壊されるかもしれません。

 

   そんなことは問題ではありません。

 

     築きなさい。

 

あなたが人々に援助をすると、その人々は腹を立てるかもしれません。

 

   そんなことは問題ではありません。

 

     人々を援助しなさい。

 

あなたの最善を尽くしなさい。世界はあなたを蹴り飛ばします。

 

   そんなことは問題ではありません。

 

     最善を尽くしなさい。

 

 

 

 

Photo

 

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生きることの本分

2010-08-29 11:06:21 | 偉大なる先達の言葉

我(われ)事(こと) に於いて 後悔せず

  

(宮本武蔵 「独行道」より) 日本の名言集(リベラル社刊)

私は自分のしたことを後悔しない。

剣聖・宮本武蔵の言葉だけに大変説得力があり、力強い。ここまではっきりと後悔しない、と言い切れる人は現代にあまりいないだろう。後悔は何も生み出さない。失敗や過ちを犯したとき、いつまでもそのことにとらわれているより、改善すべき所は改善して次に進むほうがどれ程生産的だろう。(前掲p18)

  

宮本武蔵は戦国時代の末期の剣豪であるが、その時代の特徴をその形にまとった、偉大な修行者であったと思われる。剣という武器を使って修羅場を潜り抜け、おのれの身体、こころを常に生命の現場の最先端で磨き上げた者である。

身体の鍛錬を通じてこころを磨き、それらを含む大いなる魂の域に到達した存在とっては、後悔や懺悔や執着は、衣服についた汚れ以上のものではない。

  

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 (ウイキペディアより)

 

   

ゆく河の 流れは絶えずして、

 しかも もとの水にあらず

  

(鴨長明『方丈記』より  前掲P20)

 

川の流れは絶えることがなく、しかも流れる水も同じものではない。鴨長明『方丈記』の有名な序文で、世の中も常に移り変ってゆくとういう無常感をのべたもの。

私達は、いつまでもおなじ暮らしが続くという錯覚や前提の中で生きている。そのために見方や考え方が頑固になってしまうこともしばしば。より柔軟な物の見方を身につけたい。(前掲p20)

 

鴨長明は悟りの域に到達した人であったろう。この言葉の中には、常なる変化と不変の真理が述べられていることを、あなたも感じることが出来るだろうか。

 

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世の中に 慈悲も悪事もせぬ人は

 さぞや閻魔も困りたまわん

 

(一休  前掲P23)

世の中で、人に優しくすることもなければ、悪事も働かぬようなような人には、閻魔様も処遇にお困りになるにちがいない。もちろん悪事はよくないことである。

しかし、必死に生きていれば、思わず悪事に手を染めることもある。人に慈悲をかけることもなけらば、悪いこともしないような人に、いったい生きている価値があるのだろうか?という一休からの問いかけだ。良い悪いを問う前に必死で生きてみよう。(前掲p23)

 

一休らしいユーモアと慧眼を感じさせることばである。

 

常識という集合無意識の観念にとらわれて、自ら眠っている人々は、何らかの自らの意志によってそこから脱する行為が必要なときがある。勇気をもって思い切った行動をとる場合には、それが善とか悪とかの評価でもって叩かれ騒がれるが、それを超えなければ何が善で何が悪なのか「実感」することができないのだ。

 

他の人を見て、ああだこうだという者は「頭の観念」に束縛されていることを如実に示しているのだ。 あなたはどうだろうか。

  

 

誤まれるを 改(あらた)むる善の、

これより大きなる無し

 

(慈円『愚管抄』より  (前掲p51)

 

過ちを犯したら、改めることが善であり、それ以上の善はない。簡単なことのようだが、案外できていないことが多い。いろいろと言い訳して正当化したり、たいした問題じゃないと無視したりする。また間違いに気がついても、改め方を間違ってしまうこともある。間違いに向かい合う勇気、その間違いを正しく分析する判断力も必要になる。(前掲p51)

 

慈円のおかれた当時の時代背景と生き様を感じさせる言葉でもある。

道を歩くものは、道に外れる場合もあるが、どれが本道でどれが邪道なのかをその都度フィードバックできる勇気と潔さが必要だ。

世の中の姿態を見るに、己の間違いを潔く公表し、勇気をもって頭をさげるような政治家や指導者が極めて少ないのは、彼らは未だ至らぬ者だということを暗示している。

真に偉い人や優れた人というのは、おのれの至らぬ有り方に気付いている人なのだ。そのような自己を省みる意識を持てる存在は、いわゆる魂顕現のランクが上位の存在である。

 

  

自ら見る、 これを 明という

 

『韓非子』より (中国の名言集 リベラル社p52)

   

自分自身で見る、これが賢明というものである。人から聞いた話やうわさでは、正しい判断は下せない。また人の考えをそのまま鵜呑みにしていては、真実からは遠ざかってしまう。何事も自分で確かめて、しっかりと考えてこそ、本当の姿を把握できる。そのときに初めて物事を正しく判断して、行動に移すことが出来る。(前掲p52)

 

いろいろな情報が氾濫している時代であるが、常に気をつけるべきは、真実を追究しようというこころの姿勢を崩さないことだ。

 

自分に都合のいいことばかりを掴んでいると、迷い道にはまることになる。真実を追究する姿勢・こころの鋳型があれば迷い道もすぐに引き返すことができるのだ。

 

 

 

心(こころ) ここに在らざれば 視れども見えず

 

『礼記」より(前掲p53)

 

これは深い意味がある言葉である。人が人である所以は、こころというものがあるからだ。それが無ければ、単なる機械人形に過ぎない。ロボットのアシモ君にも及ばないだろう。

こころは「マインド」とも呼ばれ、全てを顕しているところの普遍の意識の現れである。それが個人的なエゴで歪になっている状態を正してゆく過程が意識進化というものだろう。つねにマインド、こころを通して世界を見ているのが我々の実情である。

美しい自然や、成長途上にある生命たちの集う場が、1つにはこの地球である。

マインドを調律し、そこにクリアーで輝くばかりの世界と、そこに集う存在達の真の意味を感得するためにこそ人生というものがある。

不浄なものは、あくまでもそれを見るところの、あなたの『こころの曇り』に過ぎないのだ。

あなたのこころは、いつも『何処に』 在るだろうか。

生活か、お金か、性欲か、名誉の維持か、食欲か?

多分、

多くの人の『こころ』は 「身体」に在るのかもしれない。

 

身体は、しかしそれはあくまでも一時の「借り物」なのだ。それを基(もとい)にして、この世界の多くを学ぶことが出来る、仮の『器』に過ぎない事を忘れないことである。

 

こころ

 ここに 在らざれば、

視れども

  見えず・・

 

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神性の臨在(2)無限なるワンネス(一体性)

2010-07-11 10:47:23 | 偉大なる先達の言葉

・・・P18よりの続き(デビッド・R・ホーキンス博士の回想)

・・・・・・・・・・・・・・ 

わたしはこの主観的体験について口にすることはありませんでした。というのも、その体験を描写する手がかりとなるようなものは何もありませんでしたし、聖人たちの生涯を記した文書以外、ほとんど霊的経験について耳にすることはなかったからです。

 

しかし、その体験以後、現実として認識される世の中の出来事は、仮のものでしかないと感じるようになりました。伝統的な宗教の教えは重要性を失いました。存在するものすべてを輝かせる「神性の光」に比べると、伝統的な宗教の神は鈍くくすぶっているだけでした。こうして、霊性(スピリチュアリティ)が宗教にとって代わったのです。

 

それから第二次世界大戦中、掃海艇での危険な任務に就いたとき、しばしば死の危険に瀕しましたが、死ぬことに恐怖を感じることはありませんでした。あたかも死そのものが信憑性を失ってしまったかのようでした。戦後は、心の複雑さに興味を抱いていたことから精神医学を学び、・・・・・中略・・・

けれども専門家としてのストレスが多い生活から徐々に致命的な病が進行し、どんな治療法も効果を示すことはありませんでした。38歳にしてわたしは極限状態に追いつめられ、死期が迫っていることを悟ったのです。肉体に関心はなかったのですが、霊(スピリット)がひどい苦悶と絶望感にさいなまれていました。そして最後の瞬間が近づいたとき、次の言葉がふと頭によぎったのです。

 

「もし神が本当に存在するのだとしたら?」

 

それからわたしは声に出して祈りました。「神よ、あなたがいらっしゃるのなら、どうかわたしを助けてください。」と。神がなんであれ、すべて明け渡すと、意識は忘却の淵に沈んでいきました。再び意識が回復したとき、何か途方もなく大きな変容が起こり、ただ沈黙と畏怖の念が広がっていました。

 

もはや個人は存在していませんでした。個人的な”わたし”も自己も自我もなく、ただ”わたし"にとって代わった限りないパワーの「無限なる臨在」があったのです。

身体とその行動は、完全にぞの「臨在の無限なる意志」によって統制されていました。世界は、「無限なるワンネス(一体性)」の明晰さによって光り輝いていました。

万物は、「神性」の表現としてのその無限の美と完璧さをあらわにしたのです。

・・・・p19以降 次回へつづく

Hs200908bweb  

人生とは偶然の出来事ではない。

それは無意識に過ごすのはあまりにも潜在的に神々しすぎるのだ。

しかし、その神々しさは、外から何かを獲得し、付加して創られるものではない。

無限の慈愛や理解は付加したり、差し引いたり、加えたりするようなものではない。それは元々在る無限性のことだ。

ただ必要なことは、あなたやわたしたちが生れ落ちた、この発展途上の世界のなかで、知らず知らず身に着けた、本来は存在しない架空の価値観念に気づきながらそれをすこしづつ取捨択一し、不浄なものを自らでそぎ落としてゆくことなのだ。

人生においては、人に勝った負けたのお祭り競争に巻き込まれたり、本来あるべき姿から逃げ隠れしたり、不特定の他者を恨んで嘆き、拳を振り上げることもあるだろう。そうしてその行為の虚しさを知ったならば、それを繰り返さない程度の知性も出てくるものだ。そうして何が大切なのか、気づいてゆくのだ。

 

まずもって、問題なのは他人でも世界の悪でもなく、後天的な各人の人生で色付けられた、それを観るあなたやわたしの「こころの癖」である。

 

皆、何も問題などなかった、幼き頃の素の意識を取り戻すための長い人生の意味にも気づくべきだろう。

赤ん坊のような素の意識、輝かしく可愛く、嬉しく、ありがたいようなその在り方と、悠久の繰り返しの人生で培った大いなる叡智をあわせ持った存在、それが本来のあなたなのだ。

我々は皆ここを通ってきた者ばかりであり、あるがまま、素の在り方が何たるかすでに体現している者たちなのだ。

それは何かに依存した、いたいけな存在ではなく、

さに「そのまま」で輝かしく、力強いあるがまま、素のあり方を示しているのだ。

ただ、ただ、自己の「こころ」を浄化すべきなのだ。こころは生きるための大切なツールであるが、それ自らが主人公の仮面をつけているところが不幸の元なのだ。

あなたたちやわたしという根源意識の表れにしかすぎない「こころ」という知覚のレンズがさび付き、汚れているために、外に周りに不浄を観ることになる。

こころの浄化は自己のこころを、逃げ隠れせずに正面から「観る」ことで行なわれる。

 

なまっちょろい依存心をそぎ落とせ!

己だけは・・のエゴ自我をなつかしい記憶の中にしまい込め!

人生は自己研鑽の場と肝に銘ぜよ!

皆々発展途上である仲間達を批難中傷するな!

すべての体験も想いも、存在していること自体の奇跡の証拠なのだ。

感謝なしで人生を感じることなど出来ようはずもないではないか。

 

綺麗になったこころで観えるその輝かしい世界は、まことにあなたやわたしたちの住まう世界である。それはいつかどこかの時代でも、どこかの星系にあるわけでもなく、高い次元の天国にあるわけでもない。

 

あなたがいつもいつも今在るところが、常にあなたの理想の世界なのだ。

つねに自らを顕し続ける根源たる意識・それがあなたである。

Nature1008

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