意識が無数に個別化し、あらゆる次元階層を通じてから自らを認識する働きを「魂」と言って良いだろう。
自らの意識に・・・気付いているという事が・・・人間という存在まで進化した、あなたやわたし達の存在意義なのだ。
だから人間の「本質」のことを「魂」とも呼んでいる。
ひ・と・つ・・・の意識が多次元層へ展開し、
あるいはその中の副次的階層の全てに発せられた光・・・
光というのは、全てを明らかにする、未知が既知になる、霊的理解が拡大するということの象徴である。
すなわち創造の根源光、
あらゆる波動をその内部に畳み込んでいる『個別化されたの普遍意識』のことを・・・「魂」と言っていいだろう。
また、魂の中の無制限の波動が・・即ち多次元層を展開させるのは、多次元宇宙と同じ仕組みである。
古くから伝承される、人間の肉体・・エーテル体・・・アストラル体・・・コーザル体・・等と言われる複数の霊的ボディは、その魂顕現の多次元層を意味しているようでもある。
その霊的ボディなるものも、当然ながら物理的機器で観測できるのは肉体及び、電磁波動的放射を帯びるところのオーラフィールドのみである。
そして、その魂(本質)の可能性、波動の多様性を順次開示、展開してゆくプロセスこそが、魂の進化と言われているものだ。
魂・・・それは、たしかに「神の分け御霊」という表現がふさわしく、また意識的生命はその根源である全包容的意識への大いなる帰還の道にある「旅人」という表現もなるほどうなずけることだろう。
・・・
また、あらゆる諸物、生命と言えども、何の意味もなく偶然にそこにあるわけもなく、全てにそれなりのレベル意識があるわけだし、
全ての生命は、鉱物・植物・動物・そして人間、またいわゆる宇宙的存在、さらに大きな可能性を体現している存在へと・・・進化をしている、段階の異なる同朋だということに気付けるだろうか。
月や太陽の運行、宇宙の表情、地球の生態系、様々な生命の表現が、単なる偶然の組み合わせでしかないとする視点、あるいはそこに完全な調和を観ることの出来ない存在は、未だ十分に人間レベルの経験をしていない霊的幼児であるというのは言い過ぎではあるまい。
全ての生命は・・すべての我々につながっている「意識」なのであれば、どうしてその他の意識生命体をないがしろにし、あまつさえ闘いを起こしたり、他の生命を勝手に簒奪したりすることが出来るのであろうか。
そういう者達は、要は自己が何をしているのか皆目わからない、また死んだら終わりの物質生命であると思っているからこその好き勝手し放題なのである。
無茶苦茶な好き勝手し放題、なるほどこれは窮極のプラグマティズム・現実利益主義、功利主義という観念とも言えるだろうか。
ところが、どこか欧米の自慢するこういう功利主義が、肥大した利己主義と結合した世界は、すぐにでも終わってしまう運命になるのである。
何故ならば、・・・そこでは自我の欲得のみが主流となってしまい
自然や宇宙との調和や共生というものが眼中にないからであり、
宇宙・大自然との亀裂や軋轢を呼び寄せてしまうのだ。
・・・そう、これはもう今起きていることではないか?
そして、その先にある道程には、自己本位の観念のやむに止まれぬ爆発と崩壊以外にないことは簡単に理解できるであろう。
でも結局それは自己創造の原則上にあることなのだ。
自らの不調和が・・・他の不調和を呼び寄せ、
他への批判が・・・自らへの批判と批難を作り出し、
自我の主張が・・・他の自我の主張とぶつかり合い、
他から奪うことが・・・自他の奪い合いの修羅となるのは、
・・・誰でも分るはずではないか。
・・・・
意識においてすべてが・・もとは・・ひとつ・・であることを、頭の知識でなくハートで知ること、またハートで知るという事は、頭や論理ではなく、それはまさしくそうだと意識全体で感じることを意味している。
ハートを通じて・・・腑に落ちる・・という事である。
なるほど、それこそが・・その部分こそが、克服されなければならない3次元的自己の無明なる部分、今の段階においてどうしても気づかなければならない・・・魂・意識の重要テーマなのだと言えるだろう。
全てが兄弟姉妹というのは、単なるセンチメンタルで理想的な感情言葉ではなく、
事実のことを云っているのである。
・・・
翻って、今我々の意識の眼はどういうポジション、どういう視座にあるだろうかということを自省する必要があるだろう。
自己が大いなる道を歩んでいる「魂・意識」であることに気付くか、
分けもわからず、他者をも不幸や不都合に巻き込んで、あるいは巻き込まれてしまうような、単なる小さな肉体存在であることに甘んずるか、
その意識レベルのボーダーラインが、今の人類世界にはっきりと現れているという事である。
・・・
大きくは、そのボーダーラインは人類が窮極の物質的破壊エネルギーを手に入れた時点から既に現れていたのだ。
そう、核の話である。 これを簡単に考えてはならない。
こと核に関することは、経済効果やらパワーポリティクスやら、民族主義や安全保障やらの利己主義的思考次元では到底扱うことが出来ないのものなのである。
またそれは、それを扱うところの意識レベルの問題であるからこそ、世界の雛形とも言われるこの日本が背負っている問題なのである。
その要の日本が間違ってしまうと、世界は救いようがなくなることは、火をみるより明らかではないか。
日本が世界の雛形であるという意味は、その日本列島の地形が世界の大陸との相似形として現れているということだけではなく、地球上に起きる現象の雛形でもあるということだ。
日本における福島原発の放射能汚染の終止せざる現実は、今の世界を暗示しているではないか。
まともに扱えない代物を持ちつつ、それが安全だというあからさまな嘘を見よ。
本来ならば、全力を挙げてこれを解消せざるを得ない立場の者たちが、さも自分とは関係がないかのような顔をして、
おのれたちの欲得のパフォーマンスに、喜々として終始している様を見るならば、
すでにこの国の戦後システムもその虚飾性が明らかになってしまったこともわかるのである。
なるほど確かに戦後レジームの崩壊でもある。
事は、何もできない者達がさも訳ありそうに、知的能力や人徳が高そうに「宣伝」することで、律儀でまた他者依存性の高い民衆を操り、その「投資」をおのれたちに『回収』しようとする行為のみが席巻している社会の有様、支配の有様だけではない。
・・・
要は、全ては「投資」と「宣伝」と利益の「回収」という・・・世間で言われるところの金融資本主義的な思考が元であると言えるだろう。
こと人間社会、国家間等の複雑怪奇さは、このような視点でのみ明確に解ってくるものである。
誰が、何が・・・利益を欲しがっているのか? 実に単純な論理 なのである。
政治も行政も企業も、メディアも教育も、大なり小なりその欲得の威力創出に特化したような歪んだ観念体系の中にすっぽりと入ってしまっているのだ。
そして、その観念の大本にあるのは、自己が単なる有機生物、銭金物を喰っては排出するだけの肉体存在でしかないという漠然とした集合観念なのである。
ある意味でいわゆる社会上層が・・・必死で頑張り、徹底的に自己主張し、我欲を張ってのしあがることが良いことだとする根の思考・・・・その思考を生み出すレベルに終止する魂達の独壇場となってしまったからには、
その『興ざめ』の社会的、国家的、世界的お遊戯会は終わりになってしまうのである。
全てが一方的になってしまい、また多様化が失われた世界となり、魂的な経験と昇華の幅が小さくなってしまえば、なるほど魂達が下生する意味を失ってしまうという表現は妥当であろうか。
つまり生命の生存と多様性が失われるということである。
1970年代に発表されたローマクラブの言をまたずとも、このまま何もなければ、そういう事になると察しはついていることだろう。
しかしながら、あらゆる全てが意識的生命体であるからには、生命の進化にそぐわないものはこの宇宙には生起するはずもないのだ。
なるほど、心有る者たちはそれを知っているがゆえに、今か今かと・・・見ているはずなのだ。
この世界は決して終わることはないが、そこに作られた、既に歪きった感のある現有システムはもう終わっているのである。
・・・
将棋でいうならば既に勝負はつき、投了までの淡々とした形作りの段階であり、
株式ならば、既に相場のエネルギーが枯渇し、一気に崩落する寸前であり、
病気の快復ならば、最期の歪が急発熱となって現れて、症状が急激に回復する寸前であり、
重い物質が押され続け、それが摩擦力以上の力になった時に急に動き出す直前のようなものである。
(余興・・・・・分る人にとっては、これはすでに詰んでいるという事)
・・・・
全世界を破滅に導くような、この自分たちの生存舞台を破壊するような「核」や「波動兵器」を持った人類は、おバカにもそれを使って自らの魂の学習を放棄してしまうか、
別の自己であるところの・・・他者を、威嚇し破壊する最終最後の愚かさを演じてしまうのか、
あるいはそういう最終段階の物質的パワーの誘惑を乗り越えて、破滅や破壊ではなく・・・一段次元の高い新たな創造の道に進むか・・・・そういう抜き差しならない時期に来ているのである。
これは、例えばまっとうな?宇宙チャネリング・・で云われるところの、第3密度の文明から・・・第4密度の文明への移行という事に相当するだろう。
このシフト、移行は地球の膨大な意識的歴史の一大ターニングポイントであり、その中に住まう意識体、生命体は、・・・生と死を問わず・・・必ず通過しなければならないものだと思われる。
多分、これは人命だけを尊重するなどという、人類生存だけの自己都合などは通用しない<シフト>になるだろうし、より大きな意識的観点からでしか観えない<移行>になるはずである。
例えで云えば、我々が淡々と通過してきた進学での卒業式のような、
しかしながら完全なる自由意思と自己昇華を伴った魂達の重要通過点、そういう一大移行時期が来ているということだ。
なるほど、自己が単なる物質的肉体ではなく、時代や時空を超えて在る『魂』であるという自己認識に至るならば、
そして、魂レベルの自己の進化や開花のプロセスに気付けるならば、怖れを抱くことなくこの理由が分るのである。
またなぜ古い世界が終わりを告げているのかが、わかるはずなのである。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。