気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

空(くう)は充満する意識 (10)夢のまた夢

2014-04-27 09:15:24 | 見えないものから見えるものへ

あなたは「夢」をよく覚えているだろうか。 

 

実は私などは、断片的であるが、毎日のように覚えている。

 

夢体験はどこか意味不明の体験やら会話やらも多く、 

 

中には、飛んだり、くぐり抜けたり、電車やバスであちらこちらに行っては帰ってくるようなもの、 

 

色々な存在との会話やら共同経験やら、幼児期の環境を思い出すなど、なんだかホントに色々あって面白い。 

 

当初、日常の技術業務に何かアイデアを応用すべく、夢の記録などをしていた頃もあって、 

 

その時分には、役に立つ画期的アイデアどころか、色々な夢での恐怖体験やら、内面にある感情の歪の表出のようなものもあったことを憶えている。 

 

なんだか恐怖を感じる何かがあり、あるいは何者かに追いかけられるものもあって、 

 

「あわわわ・・・ギャーー~!」・・と必死に逃れようとしたら、 

 

あらら・・・目が覚めた。。。ふー、あれは夢だった、やれやれというものもある。

 

誰にも経験があるだろう。

 

今思えば多くは内面に蓄積されたトラウマや感情的な歪の表出であることがわかる。 

 

さらにそれらを分析すれば、今生でのものや、今生ではないものまであると感じられるのだ。 

 

通常意識に戻れば、「おいおい、これ本当かよ、。。。」的なものもある。

 

さらに、その夢というか意識的経験というか、その中に、

 

何か・・・・私・・・以外の親身な意識、存在を確認したのである。

 

 

それは魂のガイドというか、ハイアーセルフ(高次の自己)というか、そういう意識的存在が、

 

 

私の意識の中に<愛すべき親身さ>で、出現しているということに気付いたのである。

 

この話は別に譲るとして、

 

・・・・

 

馴れてくると、夢とは一概に同じ意識状態で毎回毎回観ているわけでなく、 

 

様々なレベルというか、広がりというか、経験の層というか、そういうものがあることが分ってくる。

 

日常の悩みや気になる事そのものの「観念」を維持している、寝床でも「夢中に」考えているようなものから、 

 

普通はあり得ないようなこと、空中を飛んだり、トンデモ乗り物で移動したり、壁を突き抜けたり、 

 

ややこしい迷路をあっという間にくぐり抜けたり、 

 

また要するに、幽体離脱の経験を夢として漠然と記憶しているものや、 

 

さらに広大無辺な宇宙というか、場所というかそういう・・・ところ?にいる・・・ことを経験しているようなものもある。

 

余りにも遠方に行ったような時には、えー?マジ?と気づいてすぐに戻ってくることもある。

 

宇宙を旅したような(夢)経験はかなり強烈に覚えている。 

 

・・・・

そんなこんなで、一般に夢といわれるものは、かなりな自由度を有している意識上の経験であるからして、 

 

それは就寝時の頭脳の「想像の産物」であるとも解されるだろうが、そうではない。 

 

何事も経験しなければなかなか・・だと思われるのだ。 

 

「頭」の知識だけではなかなか理解できないのは、何でもそうだろう。 

 

夢は、就寝時の頭脳のなせる想像の産物?・・・なのか、 

 

そうであれば、日常の五感を中心にした体験も想像の産物といえるかもしれない。 

 

つまり頭脳が夢をつかさどっているのであれば、頭脳の働き、機能によって、 

 

しっかりしているとされる日常の<五感情報>にも、 

 

相当なバイアス、あるいはフィルタが介在していることも考えられるだろう。

 

 

・・・・・

 

例えば、「あなたはここにいるある人物が見えません・・」 という催眠術に掛けられた人は、 

 

不思議にも、その対象が「目に前に」存在していても・・・見えない・・・ということは知られている。 

 

催眠は、当該者が・・・「それが真実である」とする、仮ではあるが、「思い込み」に誘導するものであり、 

 

思い込みが強ければ、それがその通りに、その当人の周囲体験となるわけである。 

 

ところで、催眠を受けていない人から見れば、おいおい目の前にそれがあるじゃないか、ホントに見えないの? ゲラゲラ(笑)、となるし、

  

その催眠の被験者だけが異常感覚にあるという風にされるわけだ。 

 

しかしながら、集団での催眠であれば、集団内の誰もそれを見えないという事になるわけで、 

 

その集団の誰にとっても、そんなもの存在しないということになるだろう。

 

 

なお、逆に、催眠を受けていない別の集団Bがあれば、 

 

あの集団Aは変だ、そいつら、絶対おかしい・・ということになる。(笑)

 

要は強い思い込みの内容・質的な傾向が・・・・が個々の体験として・・・現象化しているということなのだ。

 

 

これは、意識的な認識、その質的内容が経験、知覚として投影されるということを意味する

 

 

集団での様々な思い込み、集合意識の中にある固定観念が、その集団の経験のベクトルを生成するのだ。

 

 

ところで、また、そういう体験のフィルターである・・・「思い込み」は・・・ 

 

頭脳が自己完結的に生成しているわけではなく、 

 

要するに「わたし」という<意識>が、無意識的に頭脳に入力しているという方が明確であろう。

 

 

 

外からの情報を無造作に入力しているか、自分で決めたことを入力しているかの大きな違いはあるが、 

 

結局のところ、 

 

わたしわたしであり、自分の意識は自分であるわけで、 

 

他者がどうのこうのは不可能なのである。

 

要するに、 

 

内外の想念の自己への固定化、つまり簡単に言えば「思い込み」が自己経験の強いバイアス、フィルタになっているのである。

 

これは「こころの法則」として、その一端の真実を、既にかなりの人々が気付きだしている。

 

いや気付く魂と、全く気付かない魂に分かれてきているとも言えようか。

・・・・

話しは戻るが、 

 

普通に言われる夢とは、何だろうかといえば、 

 

それは毎日の就寝時の「意識」の働きであるといえるだろう。

 

身体が休息しているわけであって、 

 

肉体の働きではなく、明らかに<意識的な>働きによっているということだ。 

 

就寝時とは、肉体的な感覚器官が停止している状態のことで、 

 

その時に見る「夢」は、一般に<頭脳>が勝手に描き出している、ランダムな内面映像のように思われているが、

 

そうではない。 

 

逆に頭脳はこの現象世界の情報翻訳、今現在の私・意識への情報伝達の高度な翻訳機のようなものであって、 

 

頭脳内でオリジナルな信号発生を行なっているというよりは、情報の受信をしていると考えるべきものである。

 

 

通常は日常生活における「肉体の五感を経由した」情報の取得と整理、

  

そして、就寝時あるいは、特殊な変性意識状態では、

  

「五感を経由しない」情報の取得と整理を行なっているということである。

 

 

それは、本来のより大きな魂・意識が、

 

その時の個別のマインド・こころの状態によって色付けもされ、 

 

例えば気になる事、何かの思惑、感情的な歪等をピックアップしてストーリーに仕上げているものもあるし、 

 

また膨大な潜在意識、魂・意識のキーポイント情報の噴出像とも言うべきものもあって、

 

それらの情報を「この現実に」持ち来たらすことが出来るのが、頭脳という受信・翻訳機なのである。

 

そして、その働きの元に有るのが「意識」あるいは「魂」ということなのだ。 

 

パソコンを操作しているのが人間であるように、

 

肉体と頭脳を働かせているのが、あなたという意識、魂なのだ。 

 

そう、実は・・・夢も「肉体感官を通じないルート」での、「意識的体験」とも言うべきものである。 

 

往々にしてそれらが取り止めもなさそうに見えるのは、 

 

この現実世界の常識感覚との参照、つまり脳でそれを「翻訳する」ことから来る認識ギャップから生じているわけだ。 

 

夢が取り止めもないと感じるのは、 

 

小さな顕在意識にもたらされた潜在意識からの情報を、うまく解読できていないことに由来し、 

 

何だか意味不明と感じるからこそ、無意識レベルで自動的に捨てているわけである。 

 

だから思い出さないというわけだ。

 

これは前世の記憶がない理由と同じく、顕在意識が狭いままだからである。

 

・・・・ 

尚、ここで言う小さな顕在意識、表面意識とは「個別の私」意識であり、 

 

広大な潜在意識は、無限、普遍の「わたし」意識と言って良いだろう。 

 

それは小さな肉体人間として広大な宇宙を眺めているという図式そのものである。

 

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あなたが眺めている対象である無限の宇宙とは、広大無辺な・・・わたし・・・という意識の現れである。 

 

また・・我々・・という個別の意識は、広大無辺な・・・わたし・・という意識の一部であるということと同時に、 

 

その個別の意識には、実に広大無辺な意識が潜在するという事を示すのである。  

 

多は一なり、一は多なり、

 

無限はひとつなり、ひとつは無限なり、

 

 

・・・・ 

また夢など見ない、そんなもの意味がないと思っている御仁は、 

 

要は、未だ自己が「小さな」顕在意識の範囲に甘んじていることを意味している。 

 

いわゆる常識観念の枠を超えることを怖れているマインドの表れだともいえようか。 

 

また、意識の囲い枠を取り払うことを怖れている・・・事自体にも気づいていない。 

 

物しか意味がない、目に見える物が全てだという、いわゆる刹那的、唯物的、物質的自己像でその意識を占拠されている場合は、そういうことになる。 

 

そういうわけで、 

 

あー疲れた・・で、お休みなさい、ばたんきゅー、・・・・ 

 

で目が覚めたら、夢など憶えていない、そんな時もあるだろうし、 

 

それが現実世界をしっかり生きている証拠であるとも、どこか思うものである。

 

 

しかしながら、それは、

 

魂・意識としてのすそ野、膨大な潜在意識を知覚できない間の姿なのだ。 

 

現在の狭い五感の範囲で知覚できないものは・・・存在しない、意味がない・・・そういう「観念」、 

 

つまりそういう狭い範囲の「想いのパターン」が刷り込まれているということに気付く必要があるわけだ。

 

 

意識とは本来広大無辺な空(くう)を満たすものであり、

 

空(くう)という、ただひとつの無限意識、神意識、普遍意識であり、

 

その中に生じている無数の波紋、それがそれぞれの魂・意識であるといえよう。

 

そして無限の意識の中で、様々な波動、波紋を生じさせる中心点、

 

それがあなたやわたし達、無数の<魂>というものである。

 

その波紋は全体に拡大するまで消え去ることはなく、ただ拡大するのみである。

 

それが魂の進化といわれているものなのだ。

 

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空(くう)は遍満する意識  (9)次元降下の転換点

2014-04-19 14:34:01 | 見えないものから見えるものへ

 

 

我々全ては、もともとこの世界というか、この時空に存在していなかった。

 

それはそうだろう。

 

あなたもわたし達も、「オギャー」と生まれるというプロセスを経て、ここに「生まれてきた」のだ。

 

・・・・そう、元々・・・ここ、そこに居なかったのである。

 

しかしながら、今は在る・・・・そういうことだ。

 

不思議ではないか?

  

人は皆例外なく、

 

オギャーの後に、すぐにも意識が活動を始め、

 

嫌も応もなく、生まれ落ちた環境で、経験、知識を獲得していきながら、

 

「わたし」という自意識を育ててゆく。

 

そうではないか。

 

そしてそれぞれの「私」という<自意識>が育つわけだが、

 

皆誰でも有しているその、「私」という・・・認識体系は、

 

主に肉体の五感にもとずく情報と、それに対する思考や感情によって形成されてゆくわけだし、

  

これが常識だという観念に適応しながら、子供から大人になり、また子供を産み育て、老いてゆくプロセスの中にあり、

 

あれが良いとか悪いとか、銭が足りないとか、何かが起きるとか、起きないとか思いながら、

 

そうやって・・・今この瞬間、人生をやっているのである。

 

 

・・・・ところで、誰でも・・いつかどこかで感じる疑問があるはずである、

  

例えば、

 

わたしが・・・今・・・在るという事。

 

・・・・それは単なる偶然か?

 

単なる偶然で・・・・今の私は・・・ここにいるのか?

 

なぜ、なぜ、どうして?

 

そんな強い感覚が、多分幼少時、青年時代にはあるかもしれない。

 

でもまたすぐに忘れてしまうものだが、

 

ふとまた思い出してはまた忘れつつ、世間の中で泳いで行きながら、

 

力尽きて沈んでいかない・・・間(はざま)があった・・・としたら、

 

いつかどこかで自己の存在自体に面と向かう時がくる。

 

自己という意識的な・・・意識に気付くときがくるわけである。

 

それまで何十回も行きつ戻りつ、この世界で生きてきたかもしれないということだ。

 

そう、すでに気付いているかも知れないが、

 

この世界は自己を忘れてまた、自己を思い出すというカリキュラムがあるようである。

 

その発端は、

 

わたしは誰?ここはどこ?・・的感覚、

 

あるいは、また

 

後ろの正面だーれ・・・・のようなもの。

 

そうして、何事にも偶然はあり得ないことに「ふと」強烈に気づける段階にきたならば、

 

そこから、それぞれの<わたし>・・・・自己自身に関する探究が始まることになる。

 

探究というのか、再発掘というのか、進化というのか、意識の拡大というのか、

 

そういう現状の自己感覚以外の、より拡大された自己への気付きというもの。

 

当初は、

  

宇宙はどうなっているとか、過去の文明はどうだったかとか、世界の影の構図はどうなっているかとか、

 

そういう「常識外」のことに気付きだすことにもなるだろう。

 

そうやって当初は知的なレベルの拡大をするにつれて、

  

意識レベルの拡大が漸進的にもたらされ、いわゆる霊的といわれるレベルに気付くようになるのは自然なことである。

  

少なくとも、

 

自分は<肉体だけの存在だ>という、生きてゆく間に培った、漠然とした信念体系が崩れること、

 

こういう意識的飛躍のステップが来るものである。

 

汚濁にまみれた世界を体験するということは、実際そういうプロセスのためなのだ。

 

何も意味なく汚れているわけもない。

  

この世界の有様と、自己の内面からの執拗な違和感を感じさせるように仕向けられているとも言えようか。

 

そうして、何かがおかしいと気付きだし、ある生では世界を変えなければならないと走り回り、

 

あげくは疲れ果て、自分が取り残されたように感じ、

 

そのエゴ的失意の底に在る・・・、唯一残るところの・・・・わたし・・・に気付かざるを得なくなる。

 

人生の主体は・・・・外の世界でなく、世間でもなく・・・<わたし>という存在であること、

 

今、わたしは・・・在る・・・・こと

 

その唯一自己に・・・残された<わたし>とは何か?

 

それがテーマとなる時が来るのだ。

  

ようやく、外側の身についた「観念の垢」を、まず 洗い落とす 段階が来るのである。

 

 

それは次元降下して自らを忘れた魂の、次元降下の先での、あるいは底での転換点とも言えよう。

 

嗚呼、兄弟たちよ、

 

これ以上はないところまで、よくやったものではないか。

 

今のあなたやわたし達の潜在意識の、ほんの数パーセントしかない今の顕在意識、

 

それがその意味である。

 

これ以下は縮小できず、あとは拡大するのみの転換点である。 

 

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空(くう)は充満する意識 (8)空間・時間も思考の産物

2014-04-14 08:24:40 | 見えないものから見えるものへ

我々の身の周りには物が溢れているように見えて、実はほとんどが空間だらけである。

 

空(くう)は創造の原初の母体ともいべきものであり、空間はそれとは違う表現型のことを言う。

 

空間とは空(くう)の中にエネルギーがある場合に言う表現だ。

 

我々は空(くう)の中にある存在物の相互の関係性を見たときに、

 

そこに<間>があると考えるから、「空間」となる。

 

つまり空間は意識的観察主体たる「人間」の観念で生成されるわけである。

 

えー?空間も人間の思考の賜物なのか?といっても良さそうだ。

 

そう、空間自体も観念、考え方に沿っているだけであって、

 

物理的な説明で使う次元要素、XYZの座標やら距離やらも実際は「思考」なのである。

 

いわゆる3次元的現実とされる世界、

 

あるいは時間・空間という我々の周囲のスペースも「思考の投影」ということだ。

 

今までの3次元的世界認識は、それが真実であるという事ではなく、1つの意識、認識レベルからの思考の投影である。

 

在るのはただ、空(くう)のみ。

 

我々の周囲の「空間」の中にある物質は、

 

全て空(くう)の中に、空(くう)<自らの中に>生じた波動、エネルギーの集中した姿なのである。

 

我々はそのエネルギーの影、物質姿だけを見て、そこに固い「物」があると認識しているだけのことだ。

 

そういう風に、意識的に「観察」しているだけのことなのである。

 

マクロ宇宙もミクロ世界も全く同じ仕組み。

 

世界は、意識的存在、思考する人間の観察によって、その存在形を顕している。

 

時間空間が、人間存在と無関係に、前からずっと在るわけではない。

 

 

突き詰めれば、

 

気付き、観察、思考という意識的働きによって、

 

その意識主体の周囲、近くから無限遠までの周囲を創りだしているわけである。

 

そんなばかな!

 

わたしが周囲を創っているわけではないよ、そんな記憶もありゃしない、いつ創ったというのかいなア。

 

多分、そんな反感がある場合もあるが、

 

何もあなたやわたし達が粘土細工のように手でこね回して作り上げる次元のものではない。

 

そうではないのだ。

 

・・・

 

我々、それぞれの<わたし>が今、・・・ここに在ることに気付いているだろう?

 

存在しているのは、そういう風に「意識」しているからだろう?

 

身体や頭脳がどうしたこうしたは現象面の機能の話であって本質ではない、

 

 

物やその組み合わせのメカニックな機能があったとしても、主体的に意識せざれば、何も認識できないではないか。

 

情報の収集、伝達、記録はパソコンでもロボットでも可能だが、「意識している」我(われ)が無ければ、

 

単なる情報処理機械ではなかろうか。

 

自己への気付き、・・・自己が自己だという認識こそが、魂の表現形なのだ。

 

その意識主体が、つまりあなたやわたし達という意識主体が、

 

そこに意識的に ”在る” こと・・・、

 

この世界では、肉体という機能体を経由して、目を開け、耳を澄まし、肌で感じる世界を観察していること、

 

意識的に存在していること、これこそが・・・世界を生じせしめているのである。

 

そして、集合意識的な働きで生じた世界をあれこれと理由をつけているということになる。

 

その都度、好都合な観念をそこに投影して説明しているということ。

 

 

3次元レベルの世界とは、大勢の意識的主体たちが、十分に意識的になっていない世界のことであり、

 

そこでは、当然ながら他者依存やら支配やらによって、無意識的意識集団を維持しているわけなのだ。

 

しかし現在は、色々な陰謀やら嘘やらに気付きだしているという末端の現実的気付きをも含め、

 

大勢の人間達、すなわち意識的存在達が ”目覚め” 始めてきたのである。

 

何も宇宙人やら影の陰謀組織やらのことを、恐ろ面白く持ち出すまでもなく、そういうことなのである。

 

 

 

無限という名の、空(くう)・・・、

 

時間も空間もそこから生まれる・・・原初の意識、

 

そこここに在る、あらゆるものは空(くう)より生じ、空(くう)に還る、

 

意識それは、まさに無限の表現母体、

 

あなたのまわりに在るのは、その空(くう)である。

 

意識的存在である<あなた>は、

 

その想いと感情、表現でいかようにも描き出すことが出来る。

 

ただし、そのことを意識の底から認識すればの話である。

 

 

自らの内在意識をそれで満たすことなく、

 

何事も生じることもない。

 

それは宇宙の生成と本質的には同じプロセスなのだ。

 

 

どこか、ぶっ飛んでいそうな話であり、目が回るようでもだが、事実は小説よりも奇なり、

 

そう、それ・・・・が真実なのである。

 

 

現実というものは、銭金物だけであくせくするだけに終始するものだけではなく、

 

そんなことは、気づけばさらに大きな現実の中に含まれているものではないのか。

 

 

自己認識で生じる多次元的空(くう)の宇宙にあって、

  

部分から全体を観察する視座にある我々の、

 

 

さらに大きな意識に相応しい、大きな世界が顕れるのは、火を見るより明らかではないか。

 

今はそういう時なのである。

 

 

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空(くう)は充満する意識 (7)自己認識の進化

2014-04-01 07:24:33 | 見えないものから見えるものへ

一般の人にとって気になるのは、人に前世などあるのか?ということだろうし、

 

また、どこに・・そんな証拠があるのかということでもあろう。

 

学校ではそんな話は露もなかったし、公的な情報でもそんな話はないということで、そんなものはないと思い込んでいるかもしれない。

 

例えば、ご近所でそんな話をしようものなら変な顔されて終わりだということかもしれない。

 

つまり常識になっていないということである。

 

また、まともな科学者・・・本当の研究者たちはそれを知っていても、ただ匂わせるだけに徹しているようである。

 

なぜなら、もし多くの人間達が・・・・それを知ってしまえば、

 

ただし、聞いて、見てすぐに忘れるというのでなく、

 

本当の意味で「知る」 「識る」という事だが、

 

集合・共通意識で出来ているこの社会は、大きな変化を遂げてしまうことになるのである。

 

 

そういう変化が怖いから、とりあえず今まで通りが良いとする思考で固まっているのだ。

 

今の社会があらゆる情報に満ちているのは、そういう本質の目くらましに満ちているということでもある。

 

人間が肉体単体でなく、それを通じて表現するところの原因体、意識体であるというより拡大された自己認識が常識的になるならば、

 

現代の資本主義的、物質偏重観念は跡形もなく消えて行き、

 

物より精神、そして転生という表現型を行なうところのそれぞれの魂、生きとおしの「自己」のほうに、主たる意識が注がれるようになるからである。

 

つまり有機的肉体単体たる自己像が、それを超えるより普遍的な自画像、今までの様な重い時空に束縛されない自己像で置き換えられてしまうからである。

 

そうなれば、そうなった分だけ、そういうより自由度の高い共通現実、つまりより自由な世界が出ざるを得ないのである。

 

今でさえも、全知、全能、全在の方向へと進んでいる人類の、さらに大きな飛躍が、否応なく生じることになる。

 

よく言われる宇宙文明とは、そういう意識存在達の共通認識で出来る世界なのだ。

 

・・・

 

例えば自己が何者かといういう問いかけの先に出てくる1つの認識、 

 

自己とは、様々な経験や人格をも経験しているところの、普遍的意識であるという認識に至るならば、

 

死んだら終わり・・という、刹那的で極めて小さい自己像が、あっという間に陳腐と化し、

 

それぞれの人生と、その時々を生きる普遍的な魂という、より大きな自画像が出てくるからには、

 

すぐにも消えてしまう目先の物質的栄華など、どうでも良いことになってしまう。

 

それら、銭金物などは、取りあえずは・・まあ必要な事ではあるものの、その為だけに人生に邁進するなどという、

 

なんでもかんでも頑張るなどという、律儀な猪熊奴隷のような自分の姿に判然と気づいてしまうし、

 

また逆に、何かを怖れて汲汲とすることも、実に・・バカバカしくなるのだ。

 

セレブがどうしたのか? リッチでホントに幸せなのか?

 

組織や国や世界のトップとなることが永遠の幸せを約束するのか?・・ 全く嘘だろう・・。

 

状況が仕方がないのでと・・言っては武器を溜め込み、富や金の簒奪を画策し、あちらこちらの争いゲームに参加すること、

 

 

また逆にそういう、どうでもよい作られた現象を、さも何かありそうに難しく評論することに、どんな生きがいがあるのか。

 

GDPの大きな国の民衆は幸福なのか、それは単なる・・・飽食感なのか、

 

 

まるで、千と千尋のアニメでの、豚になった千尋の両親のことではないのか。

 

何千年も続いている様々な宗教ドグマや慣習で縛られ、十葉ひとからげになっている野菜以下の自分はおバカでないのか、

 

そんなことが・・・間違いなく真剣に想起されることになるのである。

 

 

今まで覚者や聖者、あるいは解脱したと言われる存在達の、

 

綿々と伝えてきた逸話、メッセージ、情報が、

 

嫌というほど身近になるのである。

 

 

 

それぞれの個人我たるその時々の人格は、普遍的な自己、生きとおしの自己の投影であること、 

 

あたかも様々な立体映画に登場している役者の、そのシチュエーションでの単なる役どころのようなものであること、

 

 

そういうより拡大された自己像に真に気付く時が来ているのだ。 

 

輪廻転生、臨死体験、時空を超えた遠隔知、リモートビューを含むまっとうな情報、

  

時空を超えたところの、我々としての普遍的意識の証拠群は、

  

今は特に欧米の実証主義的土壌からも、遅ればせながらも、様々な真剣な研究報告が出てきている時代である。

  

 

古くから直覚的、体験的に理解していた東洋の知識が、ようやく物欲、唯物で代表される西洋でも認識されるようになったのである。

  

そう、・・・・もう後がないということだ。

 

事ここに及んでは、いつまでも無意識ながらの肉体転生のなかで、

 

眠り続けることは難しいことになっているのだが、

 

あなたはそういう今の<特異な時代>に本当に気付いているだろうか。

 

それとも、皆が変われば<わたし>も変わるという、他者依存でこれから先も徹するのだろうか。 

  

変化、変革、改革は・・・・外の世界で行うものだという、 

  

永遠に繰り返す真っ赤なウソに何千年、何万年も漠然と浸っているのだろうか。

  

時間・空間は、意識の現象面、表現型であって、その逆ではないのだ。 

  

意識を有する<人>の世界は、どうあがいても・・・・それぞれの「自己認識」によって出来ている。 

  

<  I AM THAT I AM 

 

例え生と死というサイクルを通じても、その自己認識に相応しい世界に常に在ること、自己を投影するということを、 

  

ゆめゆめ忘れてはならないのである。

 

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