気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

ラムサの言葉

2008-07-26 16:45:43 | 宇宙的気付き

 前回は自分の夢という、意識の窓を通じて霊界ともいえる、あちらの世界のビジュアル体験?をお話しました。我々のいるこのカテゴリーは、あらゆる世界のほんの1つであることが伝わるならば、こんなに素晴らしいことはありません。  

 今回の記事は 「ラムサホワイトブック」 からの抜粋です。直感的には、ラムサのような至高の意識存在は、前回の記事にあるような死後と生前を包括する世界、高次の世界の施設運営やケア等を、「人知れず」、行なっている教師的存在達と思われてなりません。われわれは人知れず多くの素晴らしい家族に囲まれていることに気付けるかもしれませんね。かつて夢の中で、2mを越す上背の白色ローブ、ギリシア時代のような衣服を着た存在に会い、子供のように抱き上げられたことがあります。何だかすごく懐かしい思いがしましたが、そのとき、その存在もしっかりとこちらを観察をしていたようです。この感覚はお解かりになれるでしょうか。勝手な思い込みと思われるでしょうか。

(ラムサホワイトブック、1ページより)

自らの神性に気付くこと意外、人類に救いはない。

あなた方はこの理解の種である。

あなたが考えること、気づくことは何であれ、あらゆる場所に存在する意識を向上させ、拡大するのだ。

そして、自分自身の意図的な人生のために、自分が理解したことを実践しながら生きるとき、

他の人々はあなたのうちに、どこにでもいるありふれた人々よりも偉大な思考プロセス、崇高な理解、

そしてより意図的な在り方を見出すことが出来るのである。

・・・・・

 私はラムサ、ひとりの至高の存在である。

私は遠い昔に地球、あるいはテラと呼ばれるこの天界に生きていた。

その人生で、私が死ぬことはなかった私はアセンションしたのだ。

それは、私が自分のマインドの力を使い、体を見えない生命次元へもってゆくことを学んだからだ。

そのことを学ぶ中で、私は無限の自由、無限の喜び、無限の生命があることを知った。

わたしの後にここで生きたものにも、私と同じようにアセンションした者たちがいる。

 私は今、人類を深く愛している見えない同胞団の一員である。

我々はあなた方の兄弟であり、あなた方のあらゆる祈りや瞑想を聞き、全ての動きを見守っている。

我々はかつて人間としてここに生き、あなた方の誰もが知っている絶望や悲しみや喜びを体験した者である。

だが、われわれは人間体験における限界を克服し、それらを超越することを学んだため、

それよりもはるかに偉大な在り方を悟ったのだ。

 わたしがここにやってきたのは、われわれにとってあなた方がとても重要で、

貴重であることを伝えるためである。

なぜなら、あなた方の中を流れる生命、そしてあなた方一人ひとりにやってくる思考は

 (あなた方がそれをどのように抱くとしても) 、

あなたがたが神と呼んで来た知性、生命の力そのものであるからだ。

この神という本質こそが、われわれを結び付けているものであり、

あなた方をこの天界(地球)にいる者だけでなく、

あなた方がまだ見ることさえ出来ていない無数の宇宙にいる存在達と結び付けているものなのである

 わたしがここにいるのは、あなた方のほとんどが遠い遠い昔に忘れてしまった血統を

思い出してもらうためである。

私がやってきたのは、今よりもずっと高い視点をあなたに与え、

あなたはまさに神聖なる存在、永遠なる存在であり、

神と呼ばれる本質が常にあなたを愛し、守ってきたことを、

あなたが論理的に納得できるようにするためだ。

また深い知性を使って人生のあらゆる現実を創造してきたのはまさに自分なのだ、ということを

あなたが悟るのを手助けするためだ。

(以上抜粋)

・・・・・・・・・・・・・・・

わたし達が皆1人1人で孤独であると言うことを、いったい誰が言ったのでしょう?

誰も何も言ってはいないのです。分からないことを分かるふりしているだけの多くの人々の中にいるだけなのではないでしょうか。実に長い間、同じドラマを演じてきたのでしょうか。分からない知らない劇場・・・・その忘れることを選んできた多くの存在達は、思い出すのは自力によるという約束事は、よもや忘れてはいないはずなのです。

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霊界の集合施設体験記 part 3

2008-07-21 12:10:40 | 夢及び半覚醒時の体験記録

我々の視覚、臭覚、音覚、味覚、触覚などの五感は、世界という存在を認識するために与えられた、一部分の窓のようなものでしょう。我々の眼の可視領域が、電磁波スペクトルのほんの1部であるようなものと同じ事のようです。

さて、Part 2 からの続きです。

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●別の友人、Yさんの病の知らせ

1度そのような、何処かの集会場のような空間で寛いでいるKさんの夢を見た後のこと。

 やはり前の会社時代の同僚Yさんが病気らしいという知らせがありました。企業倒産後、新しい小さい会社を作って何とかやっているようだが、ストレスかなんかで病気になっているらしい・・との、元上司のMさんからの知らせがありました。確かに、中年になればなったで、お金等も最も必要になってくる時期ですし、それに反して世相や・経済社会がバブルの後遺症で萎んでいる状態では、相当に大変なストレス感もあるのです。その後、ひょんなことからそのYさんから電話があり、「元気かよ~?」「ちょっと病気でね。会社も休み勝ちなんだ~」みたいな会話をする機会がありました。その時私に、何故電話を寄こしたのかはわかりません。当時は会社内でそれほど親しくも無く、彼の好きなゴルフを一緒にする仲でもなかったわけです。あえて彼からの個人的な電話は、後にも先にもこの1回限りでした。

そんなことがあってから数ヶ月、その知らせの事も忘れてしまいました。

●再びあの同じ施設?での再会

 そんなあるとき、友人のHから再び携帯電話での連絡があり、なんとその会社を作って頑張っていた Yさんが亡くなったというのです。年齢として、逝くにはまだまだと若いのですが、どうも病気が原因ということでした。あのKさんの時から大体半年程後のことです。今思えば、数ヶ月前、彼からあった一回だけの突然の電話は、Yさんの無意識での別れの挨拶であったかもしれないと思いました。 そうこうするうち、現金なもので、現実生活に追われている為か、その事もすっかり忘れてしまいました。所詮、他人とはこんなものでしょう。

 ところが、ある朝の夢というか、いつもの目覚め過程での半覚醒状態で、再び前回見た「何処かの集会場」の映像が見えたのです。 その集会場のような施設の雰囲気は、以前とほとんど同じです。自分の視点はテーブルのこちら側、やや高めにあり、複数の人達があちら側のテーブルに座って談笑しているようです。

その映像の真ん中付近に、以前のKさんがやはりにこやかに座っています!

「あれー、何だやっぱり生きているんじゃないかー」と、また実感してしまいました。

これは、当然その時の間違いない実感なのですが、後で現実に戻った時には、それは違うと考える類のものです。Kさんが生きているという実感を、これで2回も持ったわけです。それも全く同じような場所での事です。夢ならばあやふやな場面移行などでしかるべきなのですが、2回とも同じような施設に意識レベルで行ったかのようです。

●友人コンビでのダメ押しメッセージ?

これもビックリなのですが、更にビックリしたのは、・・・・最近亡くなったと聞いた、あのYさんが隣に座っているではないですか!

正面向かって、Kさんの右隣に座っています。そんなに、にこやかではないのですが、緊張もしていない様子です。なにか最近ここに来たようなそんな雰囲気でしょうか。

そのとき感じたのが、「なーんだ!2人とも生きているじゃないか!!」という強烈な感覚です。後で思えばよくも何回も騙されるなーと思いますが、その夢、半無意識状態では全くの事実としか感じないのです。

・・・記憶に残っているのはここまでですが、睡眠から目覚めてからもかなり気になる夢情報でした。

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●分析と雑感

これらの夢情報を、少し分析すると以下のような事になるでしょうか。

●以前と同じ雰囲気の、何かの集会場の施設のようなところに、亡くなったといわれる知人が存在する・という情報・メッセージを受けたこと。

●そのときのその場の臨場感は、まさに事実であるとしか思えないこと。例えば、普段の生活での、そこに道路がある、バラが咲いている・・という日常感覚、存在認識と同質の実感とも言えます。

●この世界から去った人の集まる公共の施設のようなところがあるだろうということ。

●施設のようなものがあるならば、それらの運営・ケア等している存在もいるだろうということ。

●自分へメッセージが伝わったのは、お互い知人であるという相互共通の思念と、私なりの好奇心・求道心があったからだろうと思われること。

●これらの現象を物理的に、あるいは数式で表せなどということ自体が、まず見当違いの考えと思われること。

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 1つのこの地球という存在時空にも、我々の今馴染んでいるこの3次元的な存在認識世界の他に、霊界などとも言われているような層、多層の構造があるということは、古くからはスエーデンボルグや、あるいは最近のロバートモンロー、福島大学の飯田史彦、モンロー研(日本)の坂本政道のような方々の書でも紹介されています。また昨今は、前世・過去生・来世を含んだ大きな生命観を示すメッセージや書籍が多く出されるようになって来ています。

 宇宙人などというカテゴリーでいつの間にかイメージ付けされている存在も、我々の壮大な宇宙を含む、多彩な生存・表現のネットワークの一部なのです。あなたや私達も過去と呼ばれる時代に存在して来たし、未来と言われるページにも存在するでしょう。それに全く気がつかないのは、おそらく「今ある本当の時流」に気付かないからなのかもしれません。誰かの、何処かの権威が、あるいは社会組織の上からの放送があるはずだと思っているのでしょうか。

 そのような全体が進化するためには、個々の独自の気付きや理解が絶対に必要なのです。待ちの姿勢であれば、永遠に待ちの状態・そのものを創り上げるでしょう。現状認識の中のウソと真を、自分自身で発見していかなくてはなりません。

 これら各自の意識体験や書物の情報、日常の生活の中での気付き等により、我々は素晴らしい存在時空に居るということが、おぼろげながらも間違いのない実感を伴って理解されてくるようです。今現れている本当に高位なメッセージ、知るべき情報や生命の知識などを、少しづつ意識して統合してゆくことで、アセンション、宇宙人、生と死、霊界、現世、生態系の変化、予言などを含んだ、1段大きなスケールの仕組みが見えてくるだろうと思います。

(了)

 Img_0925 

 どっ! ドアップやめてんかニャー

 足投げ出しネコと勘違いされるわー

 ムム、確かに、夏はおなか丸出しで寝る特技は・・ん・・あるがニャ。


霊界の集合施設体験記 part 2

2008-07-19 10:19:48 | 夢及び半覚醒時の体験記録

●どこかの集会場・施設をモニターした?

 それから2-3ヶ月経ったころでしょうか、Kさんが再び夢に現れました。それは以前の闘病時の時のような、ちょっと不快な苦悩を感じるような様子からは打って変わったものでした。当然に夢見での映像なのですが、普通の夢と違う雰囲気があるのにまず気付いたわけです。

 (注:夢と言われる睡眠時の映像や感覚、音声を含む臨場イメージの中には、何かの層の違いというか、自分のそのとき注意している意識レベルの違いというか、そういうものがあります。)

その夢境での映像の雰囲気は、例えで言えば、TV・映画などで、思い出や楽しい出来事のを映像化する場合、画面全体及び周辺に白い光のようなボカシを入れることがありますが、そのような何か白っぽい光が背景のベースにあるような、そんな感じの空間イメージでした。全体雰囲気・空気というものが明らかに普通と違う感覚です。

そのような雰囲気で見えたのは、何か大きな食堂、集会場のような場所です。長い大き目のテーブルがあり、そのテーブルのあちら側に座っている、数人の存在が見えましたが、なんとその中に亡くなったはずのKさんがにこやかに座っています。元気な様子でこちら (私の視点のほう) を意識しています。生前の顔がそのまま見えたわけではないのですが、間違いなくKさんであることがわかります。身体の形態も備わっているような印象ですが、細部までは意識しませんでした。自分の視点は、テーブルのこちら側のやや上の辺りにあるようで、あたかもTVモニタをもって(自分の目?がモニタなのですが) 空中にいるような位置関係です。そのときの視界エリアの中で、私が意識した存在は、自分の知り合いであるKさんだけですが、他にも多くの人が座っているのがわかります。間違いなく人の集まる何かの集会場のような、清浄な明るい雰囲気が伺えます。

その時は 「あれー生きているんじゃないかー、なーんだそうだったのか!」という、強烈なメッセージ的な感覚を受けたのです。ドッキリ番組でよくあるような、「なーんだそうだったのか」という感覚に似ています。なーんだ、ちゃんと生きているじゃないか!という、しかし相当に強い感情、感動が沸いてきました。亡くなったはずの人が目の前にいるということが、通常ではあり得ないこと等、すぐにわかってしまうはずなのですが、やはり夢の中では顕在意識=常識的な観念というものが薄れているせいでしょうか。

 憶えているのはここまでで、その後すぐに、夢境からいつもの朝のまどろみ状態を経て、寝床にいる自分の体感を伴った状態になって目覚めたわけです。目が覚めてみれば、実は、かの人はすでに亡くなっているはずという常識判断がすぐに出てくるわけで、「なーんだ、生きているじゃないか!」というそのときの実感が、現実ではなかった事に気付いたのです。目覚めてからは、「なーんだ、夢だったのか」 になったわけです。

 但し、自分の場合はそのような夢での出来事も、何らかの情報として有効であることを多少知っており、この夢を見ることになった、過去の一連の経緯などをも含めた、全体ストーリーを概観することも大切であると理解しています。また遠隔視認やテレパシーなどの能力も、本来人間にあることも知っているわけでして、そのような顕在意識での少し広めの認識という下地もあるために、このような明晰夢を憶えていることが出来たのだと理解しています。

この夢で得た情報から、現状の自分のレベルで受け取れるメッセージは、ざっと以下のようなものでした。

 

(以下、分析と考察)------------

1) 別次元?ではあったが、Kさんに再び会ったこと (夢というルートを経由し、生死というカテゴリーから抜けたところでしたが、忘年会の帰りがけの「また元気で会いましょう」の言葉がそのとおりになったわけです)

2) 死後もKさんの本体はちゃんと生きていることを「強く」教えられたこと。

3) いわゆる死後には一時的に何かの施設、フィールドに集まり、安息、休息をしているようなことがあること。

4) その場所は多分霊界と言われているところだろうということ。

5) 死後も、生前と同様の形態に近い?身体をもっており、またその本人のアイデンティーの部分は存続していること。

6) 我々の普段の生活レベル、肉体感覚を主としている顕在意識レベルではない、潜在意識、超意識レベルの波長域なるがあり、我々も実は同調可能であると言うこと。 夢では顕在意識が眠っている為、別次元等とも?同調しやすいが、顕在意識持ち前の制御が出来ない為に、あやふやな情報として捉えられることが多いこと。

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 一般通念では、何だ・夢じゃないかで終ってしまう事が多いわけです。先般述べたように、心理学的にも大まかに認められているとおり、表面意識でない潜在意識レベル下の情報をあっさり捨て去る考え方が、人類にとって相当な損失であることも考えなくてはならないでしょう。化学でのベンゼン核の発想や、色々な科学的な法則発見のヒント、感動を呼ぶ芸術作品なども、多くが巨大な潜在意識・超意識領域からの情報であることも、たぶん事実でしょう。眼に見えるものは、眼に見えないものから現れてくるということ、良く考えれば至極当たり前のような気がします。自分の体験は、あのロバートモンローや、坂本政道さん、その他の霊界と言われるものを含む、他の生存次元に関する情報と同じ種類のものであることが、その後通読したそれらの書籍類を通じてわかったのです。

さて、実は話はこれで終わりではありませんでした。

このような夢が、単なる夢ではないということを、更に「再確認」するような不思議なことが続いたのです。

(Part 3 へ つづく)

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  ドッ ドアップ!やめてくれんか!

  おっさん顔にみられるからニャー

  おちおち寝てもいられん、ムニャー、ムニャ~

  

  

 


霊界の集合施設体験記 part 1

2008-07-17 07:54:16 | 夢及び半覚醒時の体験記録

 わたし達の1日24時間という時間枠の中で、睡眠は休息の時間と捉えられていますが、それは肉体にとっての休息であり、物質レベルでの活動は休止しています。しかしながら、自己の肉体以外の相では、実は休止などしておらず、肉体の五感での知覚以外の分野で色々な知覚体験をしているようです。逆に言えば、肉体の五感感覚は本来の自己に存在する知覚(経験)の1部分であるという事なのです。

それら、肉体感覚以外での知覚体験は、気がつかない、または憶えていないことだけのことのようです。誰でも時たま夢を記憶していることはありますが、日常繰り返される現実世界のパターンに慣れているために、波長の異なるともいえる睡眠中の体験はあまり意識されていないようです。当然ながら目覚めた時に記憶にも残りません。パターン化された心にはイレギュラーなものを無視する傾向があるのはご存知でしょう。

 自分の場合も、御多聞にもれず睡眠は、何もしない単なるお休み時間であると思っていたのです。しかしながら、アイデアや画期的な発想が、夢をとおして得られることは人類の歴史上でも、科学や芸術でも公然の秘密であることを以前から知っており、昨今その必要を感じてからというもの、自分も夢を憶えておこうと思ったわけです。

 そのような訳で、意図してメモ帳まで用意し、枕元においてからというもの、ふと気付けばすこしづつ色々な夢を憶えているようになりました。なるほど、意識に登った夢情報は、朝方の一定の時間にメモを取るか、かろうじて憶えているイメージを反復しなければ、すぐに忘れてしまうことも判りました。その夢を見たこと自体も、あたかも無かったように忘れてしまいます。

余談ですが、どのようなことでも、何かに意識的になり、その方向に行動で現すことで、強い意思表示を行なうことになる為、そのぶんだけ結果が出てくるわけです。「汝は信じるごとく汝になる」という法則はここでも適用されています。

前置きはこの程度として、半覚醒状態、すなわち自分の定義では「肉体は完全に休息しているが、顕在意識が部分的にも目覚めている状態」で、いわゆる霊界を垣間見た経験を書きたいと思います。

●霊界またはあちらの世界を垣間見た体験

4年前のこと、以前の会社で長年同僚であったKさんという先輩が、亡くなりました。亡くなる数ヶ月前に、以前の会社仲間での年末の忘年会がありまして、知らせがあったため自分も珍しく参加しました。そのときにはそのKさんも出席していたのですが、顔色が冴えず、屎尿器系の病気(がん)ということで、病院に通っているとの話でした。そういうこともあり、会席の隅で元気なく座っており、そのKさんの先輩筋に当たる人に、家族のことなどを頼んでいるようでした。皆酒が入って談笑している時にそんな話をするのは、会席ではかなりマイナーな話題と感じられ、これはどういうことなんだろうと不思議に思っていたのですが、当人はすでに先のことを自覚していたのかもしれません。

 それで、忘年会はお開きになり、料理店の店先で皆々別れて行きました。偶々そのKさんが近くにいたので、自分も別れの挨拶をしました。病気で弱気になっているような感じを受けていたので、励ましたいと考え、「元気でまた会いましょう!」と握手をして分かれました。皆がどこか敬遠している病気のKさんに、あえて明るく握手しているのも、どこか自分としては思いきった態度のようにも感じました。

それから数ヶ月ほど経ってから、そのKさんの「夢」を見ました、何かつらい様子で、救いを求めるような、なにか言いたいような感じの映像であり、確かにその人の身体の下のほう(屎尿器)の異常を感じたわけです。「そうだ、あの人病気だったんだ」と思っていたときに、左後ろのほうから、自分に非常に親身な何者かの意識的な声が出てきました。その声は病気の彼に対して、夢境の私ををガードするかのように 「それ以上はダメです!」 というような、はっきりした意志を伝えたのです。誰だろうか?と後で思いました。わたしの妻のような声でしたが、かなり親身な高位の威厳ある意識波動であったのを感じました。病気の辛さを、誰かにわかって貰おうとする様なマイナーな意識状態に対する注意を与えたようなそんな感じでした。朝起きて妻に話したのですが、全く知らないとのこと。この夢もしっかり憶えているタイプのものでした。

それから数ヶ月経って、そのことも忘れていた頃、別の友人Hから電話があり、Kさんが少し前に亡くなったようだということを教えてもらいました・・・。Hは酒を飲んでおり、携帯電話の向こうで泣いていたようです。わたしも彼らも、数年前の世相、銀行の貸しはがし、構造不況といわれる辛い時代、特に高給であった中高年のリストラなどの嵐の時代を、否応も無く耐え忍んできており、仲間のそれぞれの苦労に身につまされていたのだと思います。

その知らせを耳にしたときに思い出したのが、闘病中のKさんを暗示するあの「夢」でした。なるほどそういうことであったかと納得が出来たわけです。残念ながら、Kさんを見た夢の日時をメモしていなかったっため、生前なのか死後なのかは不明ですが、その夢の病気の苦痛を感じる内容からいって、生前ギリギリであったと思いました。合わせて思い出したのが、忘年会の帰りの別れ際に彼に掛けた言葉 「元気で又合いましょう!」という言葉でした。多分彼はそのことを覚えており、その約束を果そうとしたのではないかと思いました。但し、その夢での邂逅は「元気」ではなかったのですが・・・。

これは、親しい人等がよく枕元に立つといわれることなのでしょうが、ことはこれで終らず、不思議な事がさらに続きます。

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(part 2 へつづく)

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   へーっ・・・そんなこともあるんだニャー~(龍之介)

 

 

 

 


多層の身体(ボディ)

2008-07-12 11:40:43 | 宇宙的気付き

我々の親しんでいる「身体」についての1つの見解です。

身近な身体についても、出来るだけ大きい視座から見た枠組みや可能性を考慮しつつ、現れている現象の背後にある見えない未知なる意図を、既知にしてゆく事が本来の科学的思考であるとも思います。

●肉体の表面センサー

肉体・ボディほど身近なものはありません。視覚や聴覚、臭覚等の五感感覚は、全て己の身体と外界の接点である皮膚、表層面にあります。特に皮膚感覚はまさに皮膚表面上で感じると思っています。また他人の同じような身体機能を見れば、各自の存在境界は、明らかにこの身体の皮膚表面であると感じます。

これは身体の在り様を説明した常識的な見解でしょう。しかしながら、しっかりした物質感覚の中での、同じく物質的な在り様表している身体のことを言っているだけです。

●表面センサーの内側にいるのか

我々はその中にいるのでしょうか。五感のセンサーが感じるところに、わたし達は「居る」のでしょうか?このようなどこかに疑問符を伴ったような考えは、正当でないでしょうか?そんな馬鹿なこと・・と切って捨てることが出来るには、実は根拠が稀薄であるとも思われます。五感センサーが物量の表面で感じるから、本体である「わたし」はその中に居る、という考えが根拠が薄いかもしれないと言っているのです。

●肉体機械の中にいるという「観念」の中に居るわたし

「わたし」という存在を、どういう存在であるかと思いめぐらすこと、そのことが自分という境界を形作っているのではないかと思います。多くの人はそんなことまで考えた事がなく、「自分とは肉体である」と漠然と、しかも強固に感じているでしょう。しかし、地上には色々な人間がおり、体脱体験をしたり、臨死体験をしたという報告が非常に沢山出ています。今は「自分を肉体である」と漠然と信じ込んでいる観念体系に弾かれているようで、正式なアカデミックな世界では受け入れられていないようです。

それらの体脱体験は、明らかに自分の知覚作用が肉体の外に移行しているという感覚です。常識説明では、脳内の何らかの作用によるイメージ投影であると、漠然と丸め込まれているようですが、かなり論理が片手落ちのような気がします。わたしという存在が全て「脳」の中のニューロン発火作用であるという「思い込み」と考えられます。現れた現象を分析するしかない現在の科学というカテゴリーでは、それがせいぜいなのでしょう。

●出先機関たる身体

 例えば、TVカメラがある地方に設置されているとします。そのTVカメラは色々なセンサーを装備しており、そのおかげで、その設置場所の周囲のあらゆるところを見たり聞いたり出来るわけです。カメラが山に設置されていれば山の景色や動植物なども観察できるでしょう。しかしながら、それを観察しているあなたは、そのTVカメラの中にはいないのです。多分もっと遠くのスタジオ編集局などに居るのではないでしょうか。TVの画像が現れるのはその画面の表面ですが、本来の画像情報は遠く離れたTV局にあるのと同じです。そこにあるからその中に居る・という勘違いもありえるのが解るでしょうか。そこに意識を集中固定してしまっている場合は、あなたはあたかも山の中にぽつんと居るTVカメラ自体だと感じるかも知れませんが、そのカメラを通して観察している本当のあなたは別のところにいるわけです。わたしが肉体である・・と信じているのは、その先端にズームインしっ放しの意識形態を示しているに過ぎないでしょう。

●存在するもの=計量出来るもの:という観念体系

その根本には、物量として現れざるものは、計量しようもなく、またそれがゆえに実生活に価値のないものである、というプラグマティズム的論理があります。このような観念の中では、当然肉体が自分の全てであると思っていても誰にも非難などされないわけです。しかしながらそれらは「1つの観念」の中で通用するものであり、真実の追究とは似ても似つかないものでしょう。とりあえず、わかり易い「信念体系」の中で安住しているのです。誰も何も教えてくれないし、何も疑問視などしていない集合意識の大勢のなかで、しっかり埋没しているようです。

●真実のきらめきの出る時代

昨今のインターネットや書籍による情報の爆発的な拡大の中で、体脱体験や臨死体験などの報告が増えており、またモンロー研等のように誰にも可能な、再現性を持たせたシステム化による説得力の増大などが顕著になっています。実はわたしもそのような真摯なレポートや理論化に接して初めて理解が深まったわけです。まともな宗教で言われてきた事を追証する形にもなっていますが、やはり現代に生きておれば、実証のない宣言には疑問符がついて回るものです。

●睡眠中は無意識な変性意識への移行

現実の生活に意識が集中している間は、この眼に見える肉体が自分の基地・基盤に思えますが、睡眠中はその限りではありません。睡眠中は肉体には意識が集中していませんが、たまに記憶している断片を見れば、何がしかの活動をしています。現実体系との乖離があるぶんだけ、顕在意識では理解できない為、記憶として取り上げられないと考えられます。すなわち多くを忘れてしまいます。この夢の状態は無意識的な変性意識状態という事が出来るでしょう。

生身の肉体は意識されずに、活動しているわたし、という状態があるのは否定できません。どれだけ憶えているかの違いはあっても、生身の肉体のセンサーである五感を使った活動ではありません。

●体脱体験は意識的な変性意識への移行

体脱体験や幽体離脱などは、なにかのショックや病気の過渡現象中に、顕在意識が目覚めている状態で起きる場合があるようです。その場合は顕在意識が意識的な状態であるため、その体験が実にリアルなものとなるようです。睡眠という慣れた無意識的なプロセスを経ずして、あるとき否応無く、顕在意識が起きている状態での変性意識への移行とも言えるかもしれません。これらは、顕在意識と無意識、超意識との瞬間的な邂逅であるとも言えます。普段は肉体に意識を集中しているものが、急激に肉体意識から注意をそらさざるを得ない状態に追いやられたことによるイレギュラーな体験とも言えます。それは衝撃的なものになるはずです。

●体脱後の身体は周波数が異なる

多くの体脱、臨死体験では、その状態にあっても己の身体感覚があるというものです。時空に囚われずに、意識したところに瞬間に存在できる状態であるために、ことさら普段のような物量感も感じるわけもないのですが、確かに自分が存在しているという「個別感覚」があるようです。

体脱、臨死、死後体験では、意識のいわば異なる周波数帯へのジャンプ的な移行が行なわれるのですが、前の周波数帯(次元)の残照を維持している為に、慣れた生身の物質肉体と同じような形態・身体ゲシュタルトを伴っているようです。その別次元での存在生成方式では、主に記憶・思考・感情などの、総合された心的形態(ゲシュタルト)を身に着けるようです。この次元では時間空間の素量が、より意識的・軽い存在形態であるために、そのような意識→顕在化のプロセスを感じるのであろうと思います。

わたしは在る・という感覚が持続しているために、いわゆる個別存在としての「体」をもっているのは自然なことであるとも思われます。違った言葉で言えば、我々の存在することが出来る、周波数帯の違うどのような世界であっても、個別神としての在り様を維持しているといえるでしょう。

●多層の身体(世界)構成

色々な情報によれば、我々の存在界(存在周波数帯)、いわゆる地上から天界、究極存在までにはには7つの層があるとも言われています。それがどのようなものなのか、今の自分の顕在意識ではあからさまな知覚は得られないわけですが、多分そのようなものではないかと感じます。今ある3次元と言われるこの世界も、その中の1存在形態であるにすぎず、各々違った周波数帯の世界では、その世界の存在表現の在り様も格段に異なったものであることでしょう。我々の個別神としての存在形態、心・身体もそのありようが当然異なっているのは推測できます。しかしながら「わたしは在るという真実」こそは、その色々な存在形態の中で変らざるものです。

●個別のわたしから全体のわたしへの体現ルート

宗教的な言葉で言えば、我々とは、個別神として無限の中の1点から全体にまで意識を拡大することを体現しつつある「全体」であるともいえるでしょうか。あえてそのような一見不自由な存在から、より自由な存在への気付きの連続、進化というドラマを楽しんでいるわけです。われわれの肉体は、今ある世界を感じる為の大変に精巧にできた身体であり、実際は全体の自己たるものが、総合的名なプロセスを経て、しっかりと創造していることには思いが至らないかもしれません。大いなる自己の意図により創造された「身体」は、あえて小さき自己からの覚醒を演じ続ける者のためのオアシス・中継点であるとも言えないでしょうか。

  例えば曼荼羅などもそのような多層の進化の仕組みを象徴しているものでしょう。

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