過去や未来・・それはまったく実在ではなく
それは何かといえば、そういう考え「観念」でしかない。
そうだろう?
昨日というものが、一体どこにあるかと言えば、
あなたの記憶の中にしかない。
和ダンスの中にあるわけではないし、古い写真の中にあるわけではない。
過去は「記憶」の中にしかない。
違うだろうか?
「過去」とは、そう、人間の観念の中にしかないわけで、多分動物たちにはもともと無いだろう。
彼らには、「今」しかないわけだ。
だから悩むことも嘆くこともあるわけもない。
知能が高いとか、頭が良いとか悪いとかのレベルでなく、彼らは常に「今」しかないことを、
どうしようもなく知っているということだ。
・・・
アー、あの時はこうだったな~と、自分や家族の古い写真を眺めたりするだろうが、
そこに「過去」があるわけではなく、
今・・・その記憶を再現しつつ、感慨に浸っているということだ。
そう、「過去」というものはどこにも無いのだ。
本当にそれを、知っていただろうか。
同じく「未来」は想像の域であることは、更に簡単に理解可能だ。
未来は、未だ来てない「現在」の延長という「観念」であるし、
予測思考以外の何ものでもない。
未来も・・・今・・想像している「思考」だということだ。
実在するのは、常に<今>の瞬間である。
それらしく言うならば、<今>とは「ゼロポイント」であるとも言えるだろうか。
そうなのだ、過去も未来も全くの実在ではない・・今・・その真の意味を理解すべき<時>にある。
在るのは、たった今・・・永遠に<今>のこの瞬間しかないのだ。
あなたにあるのは 「今」 。 言わば・・ゼロポイント。
在るのは今という、決して無限小の時間などと量子化されない・・存在の「瞬間」である。
我々にあるのは、今という、魔訶不思議な、存在の瞬間~瞬間だ。
誰にも、どこにもあるのが、<今の瞬間>、それを創造の瞬間といっている。
全ての存在達に・・・在るのがそれである。
常にそうだ。
多分人々は、存在しない過去や未来にずいぶんと悩んでいるだろうか。
それが先を憂える人、賢い人などと思っているのかもしれない。
起きた出来事、過ぎ去った現象をさも意味ありそうに解説する偉い先生がた、評論家たちの
批判や解説という、今ここに非ざる観念の仇花をぼんやりと眺めているのだろうか。
あるいは、世界で騒ぎまくる、<鼻高々>な霊的幼子たちの、
哀れで健気な乱暴狼藉に、今もなお、
ハラハラドキドキしている、どこか愛深き者たちもいるものである。
しかしながら、そう、それらはいつもいつも、過ぎ去った過去なのであることを理解できるだろう。
過去とは記憶、観念の中にしか存在していない。
時間とは、それ、そこに在るように見えて、すぐに過ぎ去るものであるからには、
それぞれの繰り返し、繰り返す、癖になった思考や観念の中にしかないのである。
過去に苦しんでいるということはなく、その観念に引っかかっていることを示しているだけのこと。
それが、そんなに楽しいのだろうか。
常にリセットされているというのに、わざわざ、いつまでも古い汚れた毛布を引きずっていることが、
そんなに楽しいのだろうか。
しかしながら、
それがどんなにバカバカしいことか分るだろう。
意識を向ける先は、過去でも未来でもなく、
そうだ、今の瞬間なのである!
常にある、当たり前の<今>を味わいを持って感じて生きていること、
それこそは、相当に深く広い味わいを感じることになるのだが、
いつでも、どこでもすぐに可能であるし、お金や物資は殊更かからないだろうし、
誰かにサービスしてもらう必要もあるわけもなく、
またその時が来なければできないものでもない。
そこには無条件しかないのだ。
何がどうあるのが嬉しい事なのか、何が楽しい事なのか、
今この瞬間の、<わたし>のその観方、捉え方以外にないのである。
時間と空間、距離と経過という、量で扱うところの「時間・空間」は相互に入れ替わる。
それらは物理的概念で言えば、最小単位というものに量子化されるだろうが、
今の・・・瞬間・・・は、そういう物理的な次元で計れない。
それこそ、有るのか?、無いのか?、そういう不可思議な無限小の点というのも変な言い方になる。
しかしそこから全てが生まれ、変化し、生成・崩壊をしているのだ。
日が昇り、また日が沈み・・・、
月が顔を出し、微笑んで向うへ消えてゆく・・。
風が起こり、空を巻き上げ去ってゆく・・、
花が咲き、胞子が空を飛び、様々な土地で色を添える。
雨が天空から落ち来たり、命の流れになって緑を育む。
それは、天地の永遠の「今」の瞬間の、その動きなのだ。
それを観ている者たちは、
浅いところから深いところまでの創造の観察者たちであり、
植物や動物やそして人間という、意識の無限の参加者たちである。
しかし、わたしは・・今・・・在る・・・ことを知っている、意識している。
実に、なんということだ!
それぞれの世界にたった、ひとりしかいない、わたし。
わたし・・・の見る世界とは、それらの集合でありながら、
集合そのものが・・・唯一のわたし、それぞれのわたし達を決めることは出来ないのだ。
その創造の中心たる・・・「わたし」の存在奇跡に気付けるだろうか?
あなたの意識する世界には、外側にその他大勢の仲間がいたとしても、
主体たる意識の中心は・・・あなたしかいない。
ご近所のうるさ方だろうが、爺さんだろうが、子供だろうが、そこに居たとしても、
彼らも、彼らの中心の<意識の窓>から覗いているだけの話だ。
<わたし>は完全に今の瞬間に奇跡的に在る・・・。
それらに気付くために、身体があり五感があり、周囲の時間空間があるのである。
釈迦の言葉とされる「天上天下・・唯我独尊」
それは、あなたやわたしの・・・真実を説明している言葉である。
決して、慰めや単なる比喩であろうはずもなく、
それこそが真実であり・・・現実である!
嘆くような過去も、憂いの未来も、
実際のところ・・<今ここ>には存在していない。
何がどう在るのかという人生の最大のテーマとは、
それぞれの今の瞬間の意識・そして選択なのである。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
それは何かといえば、そういう考え「観念」でしかない。
そうだろう?
昨日というものが、一体どこにあるかと言えば、
あなたの記憶の中にしかない。
和ダンスの中にあるわけではないし、古い写真の中にあるわけではない。
過去は「記憶」の中にしかない。
違うだろうか?
「過去」とは、そう、人間の観念の中にしかないわけで、多分動物たちにはもともと無いだろう。
彼らには、「今」しかないわけだ。
だから悩むことも嘆くこともあるわけもない。
知能が高いとか、頭が良いとか悪いとかのレベルでなく、彼らは常に「今」しかないことを、
どうしようもなく知っているということだ。
・・・
アー、あの時はこうだったな~と、自分や家族の古い写真を眺めたりするだろうが、
そこに「過去」があるわけではなく、
今・・・その記憶を再現しつつ、感慨に浸っているということだ。
そう、「過去」というものはどこにも無いのだ。
本当にそれを、知っていただろうか。
同じく「未来」は想像の域であることは、更に簡単に理解可能だ。
未来は、未だ来てない「現在」の延長という「観念」であるし、
予測思考以外の何ものでもない。
未来も・・・今・・想像している「思考」だということだ。
実在するのは、常に<今>の瞬間である。
それらしく言うならば、<今>とは「ゼロポイント」であるとも言えるだろうか。
そうなのだ、過去も未来も全くの実在ではない・・今・・その真の意味を理解すべき<時>にある。
在るのは、たった今・・・永遠に<今>のこの瞬間しかないのだ。
あなたにあるのは 「今」 。 言わば・・ゼロポイント。
在るのは今という、決して無限小の時間などと量子化されない・・存在の「瞬間」である。
我々にあるのは、今という、魔訶不思議な、存在の瞬間~瞬間だ。
誰にも、どこにもあるのが、<今の瞬間>、それを創造の瞬間といっている。
全ての存在達に・・・在るのがそれである。
常にそうだ。
多分人々は、存在しない過去や未来にずいぶんと悩んでいるだろうか。
それが先を憂える人、賢い人などと思っているのかもしれない。
起きた出来事、過ぎ去った現象をさも意味ありそうに解説する偉い先生がた、評論家たちの
批判や解説という、今ここに非ざる観念の仇花をぼんやりと眺めているのだろうか。
あるいは、世界で騒ぎまくる、<鼻高々>な霊的幼子たちの、
哀れで健気な乱暴狼藉に、今もなお、
ハラハラドキドキしている、どこか愛深き者たちもいるものである。
しかしながら、そう、それらはいつもいつも、過ぎ去った過去なのであることを理解できるだろう。
過去とは記憶、観念の中にしか存在していない。
時間とは、それ、そこに在るように見えて、すぐに過ぎ去るものであるからには、
それぞれの繰り返し、繰り返す、癖になった思考や観念の中にしかないのである。
過去に苦しんでいるということはなく、その観念に引っかかっていることを示しているだけのこと。
それが、そんなに楽しいのだろうか。
常にリセットされているというのに、わざわざ、いつまでも古い汚れた毛布を引きずっていることが、
そんなに楽しいのだろうか。
しかしながら、
それがどんなにバカバカしいことか分るだろう。
意識を向ける先は、過去でも未来でもなく、
そうだ、今の瞬間なのである!
常にある、当たり前の<今>を味わいを持って感じて生きていること、
それこそは、相当に深く広い味わいを感じることになるのだが、
いつでも、どこでもすぐに可能であるし、お金や物資は殊更かからないだろうし、
誰かにサービスしてもらう必要もあるわけもなく、
またその時が来なければできないものでもない。
そこには無条件しかないのだ。
何がどうあるのが嬉しい事なのか、何が楽しい事なのか、
今この瞬間の、<わたし>のその観方、捉え方以外にないのである。
時間と空間、距離と経過という、量で扱うところの「時間・空間」は相互に入れ替わる。
それらは物理的概念で言えば、最小単位というものに量子化されるだろうが、
今の・・・瞬間・・・は、そういう物理的な次元で計れない。
それこそ、有るのか?、無いのか?、そういう不可思議な無限小の点というのも変な言い方になる。
しかしそこから全てが生まれ、変化し、生成・崩壊をしているのだ。
日が昇り、また日が沈み・・・、
月が顔を出し、微笑んで向うへ消えてゆく・・。
風が起こり、空を巻き上げ去ってゆく・・、
花が咲き、胞子が空を飛び、様々な土地で色を添える。
雨が天空から落ち来たり、命の流れになって緑を育む。
それは、天地の永遠の「今」の瞬間の、その動きなのだ。
それを観ている者たちは、
浅いところから深いところまでの創造の観察者たちであり、
植物や動物やそして人間という、意識の無限の参加者たちである。
しかし、わたしは・・今・・・在る・・・ことを知っている、意識している。
実に、なんということだ!
それぞれの世界にたった、ひとりしかいない、わたし。
わたし・・・の見る世界とは、それらの集合でありながら、
集合そのものが・・・唯一のわたし、それぞれのわたし達を決めることは出来ないのだ。
その創造の中心たる・・・「わたし」の存在奇跡に気付けるだろうか?
あなたの意識する世界には、外側にその他大勢の仲間がいたとしても、
主体たる意識の中心は・・・あなたしかいない。
ご近所のうるさ方だろうが、爺さんだろうが、子供だろうが、そこに居たとしても、
彼らも、彼らの中心の<意識の窓>から覗いているだけの話だ。
<わたし>は完全に今の瞬間に奇跡的に在る・・・。
それらに気付くために、身体があり五感があり、周囲の時間空間があるのである。
釈迦の言葉とされる「天上天下・・唯我独尊」
それは、あなたやわたしの・・・真実を説明している言葉である。
決して、慰めや単なる比喩であろうはずもなく、
それこそが真実であり・・・現実である!
嘆くような過去も、憂いの未来も、
実際のところ・・<今ここ>には存在していない。
何がどう在るのかという人生の最大のテーマとは、
それぞれの今の瞬間の意識・そして選択なのである。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。