気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

時間も空間も非実在である

2014-10-24 07:37:28 | 意識の拡大
過去や未来・・それはまったく実在ではなく
それは何かといえば、そういう考え「観念」でしかない。
そうだろう?
昨日というものが、一体どこにあるかと言えば、
あなたの記憶の中にしかない。
 
和ダンスの中にあるわけではないし、古い写真の中にあるわけではない。
過去は「記憶」の中にしかない。
違うだろうか?

「過去」とは、そう、人間の観念の中にしかないわけで、多分動物たちにはもともと無いだろう。
彼らには、「今」しかないわけだ。
だから悩むことも嘆くこともあるわけもない。
知能が高いとか、頭が良いとか悪いとかのレベルでなく、彼らは常に「今」しかないことを、
どうしようもなく知っているということだ。

・・・
アー、あの時はこうだったな~と、自分や家族の古い写真を眺めたりするだろうが、
そこに「過去」があるわけではなく、
今・・・その記憶を再現しつつ、感慨に浸っているということだ。

そう、「過去」というものはどこにも無いのだ。
本当にそれを、知っていただろうか。

 
同じく「未来」は想像の域であることは、更に簡単に理解可能だ。
未来は、未だ来てない「現在」の延長という「観念」であるし、
予測思考以外の何ものでもない。
未来も・・・今・・想像している「思考」だということだ。
 
実在するのは、常に<今>の瞬間である。

それらしく言うならば、<今>とは「ゼロポイント」であるとも言えるだろうか。

そうなのだ、過去も未来も全くの実在ではない・・今・・その真の意味を理解すべき<時>にある。

在るのは、たった今・・・永遠に<今>のこの瞬間しかないのだ。
 
あなたにあるのは  「今」 。 言わば・・ゼロポイント。
在るのは今という、決して無限小の時間などと量子化されない・・存在の「瞬間」である。
我々にあるのは、今という、魔訶不思議な、存在の瞬間~瞬間だ。
 
誰にも、どこにもあるのが、<今の瞬間>、それを創造の瞬間といっている。
全ての存在達に・・・在るのがそれである。
常にそうだ。
 
多分人々は、存在しない過去や未来にずいぶんと悩んでいるだろうか。
それが先を憂える人、賢い人などと思っているのかもしれない。
 
起きた出来事、過ぎ去った現象をさも意味ありそうに解説する偉い先生がた、評論家たちの
批判や解説という、今ここに非ざる観念の仇花をぼんやりと眺めているのだろうか。
 
あるいは、世界で騒ぎまくる、<鼻高々>な霊的幼子たちの、
哀れで健気な乱暴狼藉に、今もなお、
ハラハラドキドキしている、どこか愛深き者たちもいるものである。

しかしながら、そう、それらはいつもいつも、過ぎ去った過去なのであることを理解できるだろう。
過去とは記憶、観念の中にしか存在していない。
 
時間とは、それ、そこに在るように見えて、すぐに過ぎ去るものであるからには、
それぞれの繰り返し、繰り返す、癖になった思考や観念の中にしかないのである。

過去に苦しんでいるということはなく、その観念に引っかかっていることを示しているだけのこと。
それが、そんなに楽しいのだろうか。
 
常にリセットされているというのに、わざわざ、いつまでも古い汚れた毛布を引きずっていることが、
そんなに楽しいのだろうか。

しかしながら、
それがどんなにバカバカしいことか分るだろう。
意識を向ける先は、過去でも未来でもなく、
そうだ、今の瞬間なのである!
  

常にある、当たり前の<今>を味わいを持って感じて生きていること、
 
それこそは、相当に深く広い味わいを感じることになるのだが、
いつでも、どこでもすぐに可能であるし、お金や物資は殊更かからないだろうし、
誰かにサービスしてもらう必要もあるわけもなく、
またその時が来なければできないものでもない。
そこには無条件しかないのだ。
  
何がどうあるのが嬉しい事なのか、何が楽しい事なのか、
今この瞬間の、<わたし>のその観方、捉え方以外にないのである。


時間と空間、距離と経過という、量で扱うところの「時間・空間」は相互に入れ替わる。
それらは物理的概念で言えば、最小単位というものに量子化されるだろうが、
今の・・・瞬間・・・は、そういう物理的な次元で計れない。
それこそ、有るのか?、無いのか?、そういう不可思議な無限小の点というのも変な言い方になる。

しかしそこから全てが生まれ、変化し、生成・崩壊をしているのだ。
 
日が昇り、また日が沈み・・・、
月が顔を出し、微笑んで向うへ消えてゆく・・。
風が起こり、空を巻き上げ去ってゆく・・、
花が咲き、胞子が空を飛び、様々な土地で色を添える。
雨が天空から落ち来たり、命の流れになって緑を育む。
 
それは、天地の永遠の「今」の瞬間の、その動きなのだ。

それを観ている者たちは、
浅いところから深いところまでの創造の観察者たちであり、
植物や動物やそして人間という、意識の無限の参加者たちである。
 
しかし、わたしは・・今・・・在る・・・ことを知っている、意識している。
実に、なんということだ!
  
それぞれの世界にたった、ひとりしかいない、わたし。
わたし・・・の見る世界とは、それらの集合でありながら、
集合そのものが・・・唯一のわたし、それぞれのわたし達を決めることは出来ないのだ。
 
その創造の中心たる・・・「わたし」の存在奇跡に気付けるだろうか?
 
あなたの意識する世界には、外側にその他大勢の仲間がいたとしても、
主体たる意識の中心は・・・あなたしかいない。
 
ご近所のうるさ方だろうが、爺さんだろうが、子供だろうが、そこに居たとしても、
彼らも、彼らの中心の<意識の窓>から覗いているだけの話だ。
 
<わたし>は完全に今の瞬間に奇跡的に在る・・・。
それらに気付くために、身体があり五感があり、周囲の時間空間があるのである。

釈迦の言葉とされる「天上天下・・唯我独尊」
それは、あなたやわたしの・・・真実を説明している言葉である。

決して、慰めや単なる比喩であろうはずもなく、
それこそが真実であり・・・現実である!
 
嘆くような過去も、憂いの未来も、
実際のところ・・<今ここ>には存在していない。
 
何がどう在るのかという人生の最大のテーマとは、

それぞれの今の瞬間の意識・そして選択なのである。

  
 

 
 

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

世界はすべて、それぞれの中にあり

2014-10-15 07:34:07 | 意識の拡大
我々のいる世界は、そのまま客観的に<自己>の外側にあるわけではないというのが本当のところである。
・・・・と言えば、そんなことはない、バカなことを言うなとなること請け合いだが、
本当は・・・・<自己>の外も内もないのである。

言うなれば、肉体の外と内とに、「存在原因の違いを想像し、それらを勝手に区切る」からこそ、
<自分>と<それ以外>という認識になるのだ。

それを分離とか言っている。

人々は、その<分離>同士のことであり、押し合いへし合いしていたわけである。
当然ながら、摩擦、苦痛や苦悩がそこらじゅうに出てくるわけだ。
その為に法律やら決め事やら、人生訓やらが必要とされ、なんとか曲がりなりにも社会が続いてきた。
この世界の人々は今までそういうことをしていて、それがしかたのない人間関係だと思っていた。

大体、人間関係には苦悩がつきもので、無条件にバラ色の関係など、ほとんど無かったはずである。
身近な者たち、親子、親類と言えども、尚更そうである。

そうだろう。

それは自己のことを「肉体」単体であると想いこみ、
その「肉体自我」を維持するために、必死になっていたという笑えない歴史と言って良いかもしれない。

そうやって単体自我で生まれ、そしていつの間にか死んでゆく、・・・
そんな人生を何百、何千億という魂が経験してきたわけである。

真実の<自己>、それを真我というならば、
真我とは全てを含んでいる<われ・わたし>のことであると言えようか。
あるいは「すべてはひとつ」という象徴的な表現のほうがピンとくるかもしれない。

ひとつ・・というのは、1個・2個でなく、「ひとつ」、つまりオール イン ワンである。

例えば、あなたが下ばかり見ていないで、その目を上げて、
更に夜空のさらに向うの、見えない無限の方向を見たとしたら、それは、

すべてがひとつ・・という驚愕の事実を見ている・・・ということだ。

こういう観方を、どこか「詩的」な捉え方だという場合もあるが、
世界のあらゆるものを、個別別箇の分離した物質の集まりとみなし、
1個2個3個と数えるような、分離した世界認識を・・・越えた「観点」を示している。

 
私がそこに見ている物も・・・、聞いている音も・・・、見上げる空の雲も、
<わたし>の意識する世界の・・・中に・・在るのであって、
どこか違うところにありはしないだろう?
 
わたしの知覚する世界の、あらゆる事物、事象は・・・要は、わたしの意識の中にあるわけだ。
 

自己の知覚する、感じる世界は、自己とは関係のない「別物」と捉え、
あまつさえ、それを自己の生存にどこか抵触するものであるとしていたのだ。

<わたし>が単に「肉体でしかない」・・と言うならば、
<わたし>の知覚する世界のあらゆる事物、事象は・・・要は、<わたし>の外にあるわけだ。
それを根底から覆す事象が、1つ臨死体験や体脱体験というものである。

実際に<わたし>意識が、肉体の外にもある・・そういう経験だ。
それは意識体験というべきものであり、現状で可能な物的実証の範疇外にある。
言わば次元が違うのである。

それが事実ならば、肉体そのものが<わたし>という、漠然とした信念は崩れ去ることになる。
古い固定観念に、がんじがらめになって身をすくませている人には、ちと困難かもしれないが、
これが事実認識されるならば、古い観念、信念体系はあっという間に崩れ去るのだ。

「おーい・おい、わたしは一体全体、身体以外の何者なのか?」それが自然な問いかけとなる。
人類に今起きているのはそういうことである。

「えー?、そんな馬鹿な?、そんなの頭脳の妄想に過ぎない」という反応は、
実際には、古い分離観念の滲みついた者たちの意見に過ぎず、
現象そのものを探究し、あるいは経験していくような、
<本来の科学的姿勢ではない>ということを知らねばならない。


空(くう)の中に・・・全てを含んでいるのが<わたし>・・・・
従って、身体の中に安住するわたしの意識としても、
あるいはそれから自由なわたし・意識としても存在することが出来るわけだ。

なぜなら、個別と見える人間の<意識>も、全包容的な<全体意識>の個別表出に過ぎないからである。

全包容的意識・・それを言うなら、いわゆるそれは<神>じゃないか・・という風にとらえられるかも知れない。
確かに神には外も内もない・・・つまり<全て>だということが理解できるだろう。

そう、全包容的意識がすなわち真我と言えるだろうし、また真我とは、
自己の世界の中心原因、根源とも言うべきものであり、
なるほど、そもそも根源には、内も外もあるわけはない。

例えば<あなた>も、<あなた>の世界の根源であるならば、実際のところ、
あなたは・・・・あなたの世界の全てであることが直覚でわかるかもしれない。

あなたの世界において、あなたはひとりであり、全てであり、
決して時空の1片としての塊、あるいはローカルな「肉体自我」のことではないことが解るはずだ。
・・・・
 
あなたの知覚する世界には、意識主体としてのあなたは、たったひとりしかいないとも言えようか。
それはそうだろう。
多くの人が、この共通世界にひしめき合っていたとしても、
それを<自己から観ている者>は、それぞれの、<わたし>だけなのである。
 
あまり良い比喩でもないのだが、それを言うならば、あなたの世界において、
泣いても笑っても、あなたが王国の「王」だということである。

だから、他人がどうしたとか、悪漢がどうしたとか、外の支配者がなんだとか、
そんなの全く関係ないのである。

乞食が実は自己を忘れた王様であったという、物語は本当のことなのだ。
それぞれのわたしの世界、無限にも拡大している世界とは、

わたしの手足でこね回して造っているわけではなく、
物質的革命や改革で作っているわけではなく、

主体たる意識、我ありという意識の光によって、投影されているものである。

こころが曇れば、日が差さずに、何が何だかよく解らず、
こころが晴れれば、世界は明るくなって、遠く深く見通すことが出来るだろう。

そしてこの世界、今までの世界がどこか見通し良くなれば、
さらに拡大された世界が観えてくることになっている。
 
ところで、それでいったい何が問題なのだろうか。
大笑いに笑える話ではないか。

どこか残された、それぞれの<わたし>の古い世界の残照を見ながら、
普通に生きつつ、そして朗らかに笑っていることだ。

わたしの映し出す立体映像を観ながら、自分で苦しむのは、それこそ相当に可笑しいだろう。