気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

霊的自我と肉体自我

2016-01-31 09:04:46 | 人間とは何か
わたしとは何か・・、

有り難いことに、わたしは何かという問いかけは、人間だけが出来る問いかけだ。

動物とは違うところ、それが「自我意識」というもの。

あなたにも自意識があるし、誰にもそれがある・・ことさら重要とは思わないまま、

どこか当たり前のように、ある意味で無視するように、人生を急き立てられるようにして、

いつか通ってきたのかもしれない。

「わたしは何か?って」



そんなことよりも、あれを憶え、これを習い、生き抜くために、

より良き生活のためにと競争の中を意味不明のまま皆で走ってきたのかもしれない。
・・・

誰でもそうだが、振り返れば、愛らしく無邪気な赤子の時には、ただ生命の輝きだけがある。

そうではないか?

赤ん坊は間違いなく生きているが、当然、自我というものが芽生えてない状態だ。

赤ん坊の時をほとんど誰も憶えていないのは、頭脳を含む肉体精神機能が開始されたばかりで、

経験と記憶が少なく、持続する経験の記憶としての自我が未発達だからと言えよう。

「素の意識」はあるが、まだ未分化の有様で、まるで種が土の中から芽吹いたばかり、

どんな花なのかわからない段階、

肉体生命は有るが「我」(われ)という自意識が育っていないということ。


あなたは生まれた瞬間を憶えていないだろう?・・・、

それは、そう、・・憶えていない、記憶がないということ。


赤子には、生命を表現している「素の意識」はあるものの、

生れ出た肉体を通じて経験し持続するその「記憶」が未だ少ないということ。

生命がこの世界に生れ落ち、自らを表現しつつ、経験しつつ、記憶してゆく過程で

その持続する記憶によって・・「自我」が目覚めてゆく。



それは、「物心つく・・」等と言われることで、誰でも通ってきたこと。

多分3歳~5歳あたりかも知れないが、

人は皆次第に「ここに居る・・わたし」という「自意識」が生じてくる。

そうではなかったか?


つまり、この人生で赤ん坊からスタートして、肉体経験とその反応と思考を繰り返しつつ、

その意識の持続によって「我(われ」という「自意識」が育ってゆく。

その我(われ)という自覚が「肉体自我」と言って良いだろう。


「わたし」という意識、つまり自意識は、人間特有のもので、

実に、この自意識があるがゆえに、世界というものが立ち現われるのだ。



単純に言えば、人は生まれる前には、この世界にいなかった。

もともと、あなたはこの世界にはいなかった、そうだろう?

逆に言えば、

いや、あなたという人が生まれ、経験と記憶の蓄積とともに、意識が芽生え、

自らに気付いている意識、つまり自意識が明確にならなければ、

それが不都合か、嫌いか、好きか等は別として、

今のあなたの「世界」は無かったのである。

それが今生きている・・ということだ。

移り変わる信念や、政治や宗教など、全くどうでもよい事だ。



あなたの「意識」あればこそ、あなたの「世界」が在る。

嗚呼、その逆ではないのが、実に気づきにくい肝心なところである。


また、大勢の人間が、全てそうして自意識を有するからこそ、

それが集合して共通認識としているからこそ・・、

この世界、あの世界、どの世界も・・存在しているとも言えるのである。



・・

まず宇宙がただ、そこに有ると言っても・・そこに有りますよ~・・と言っても?、

誰もいなければ、一体誰が・・その存在を証明するのだ?


物質的な宇宙のビッグバンがあって、おっとり刀で駆けつけのように、

その中にちっぽけな生き物として有機物質的な生命体が偶然現れた

・・それが人間だ・・・・ということではなく、


意識的な気付きを有する神なる意識的存在があってこそ宇宙が在り、

そういう創造の根源の想いによって、

人間を含む、意識を有する生命という無数の「意識存在」が、

自らをあらゆる視座から観察すべく、

この無限の宇宙に、生ける輝きとして出現しているのだ。

この世界の、あなたや私たちも、間違うことなく・・それである。


創造者であり観察者であり、宇宙の目撃者・・それが人間だ。

あれが旨い、これが好きだ、嫌いだ、怖いとか大丈夫とか・・だけではない。


無数の人間、意識体が宇宙で生まれてくること、

自らに気付いている意識に、自意識に目覚めるからこそ、

それが気付ける対象としての諸世界、宇宙が出現している。


決してこれは、難しげな話でもなく、大言壮語でもなく、

あなたや私たちが生まれて育ってきた過程そのものが、

ただ単に、普通に生きてきた過程そのものが、「それ」なのだ。

これは、人生で気づくべき1つの肝心なテーマでもあろう。

偶然生まれて偶然死んで、ハイ終わり?・・大量生産?

欧米流のプラグマティズム的なお馬鹿観念も、

度が過ぎると笑えなくなるものではないか(笑)



自己が、ちっぽけけな人間的生き物でしかないという常識的大嘘は、

物質的幻影を自己だとする迷いの「観念」でしかなく、

明日の飯をどうする、明日の着物をどうする・・そういう物質形の幻影の中に、

繰り返し引き込むマトリクス観念のなせる仕組み、

自らを幻影のなかに自己投入すること・・

自分は身長何cm、体重何kgの肉体でしかないという、肉体自我の迷妄観念の中に沈み込むこと、

あるいは人は価値のない存在だからこそ、

様々ものを獲得して、地位や名誉を求める必要があるのだという観念、

自らが、世界を創造している・・その世界の・・小さな小さな物質観念のなかに、

あろうことか、その自らを幽閉する事が出来たという、

ある意味で奇跡的な「神の遊び」である。

なるほど自らが創造者ならば、何でも演じることが可能なわけだ。


人生で目覚める過程を選んで下生した魂の表現型、意識的存在であるはずの人間が、

<肉体こそ「わたし」そのものである>という、

その時だけの小さな肉体自我を演じ続け、生じて始まり、死しては終わるという、

一過性の泡のような文明意識を刷り込まれ、

出ては消え、消えては出てと・・無意識ながらの輪廻転生を「経験」していたということだ。


・・

いや、しかし、意識を有するもの皆すべて、

有限の身体と、見えない心で出来た「肉体自我」のその姿形の中に、

その意識を自ら植え付け、そこから目覚めつつ、様々な生命表現を通じて

本来の壮大な「わたし」まで拡大する、そういう聖なる遊戯をしてるとも言える。


様々な生体験、様々な肉体自我、様々な自意識の経験と記憶を通じ、

女や男、ある時代、ある場所の、小さい私や、大きい私という経験や思索を通し、

様々な世界を創造しつつ、その集大成としての自我、大いなるわたしへと、

その帰還の道を楽しく歩んでいるもの、それが「霊的自我」。



ある意味で、個人の私、その時々の肉体自我も、その出先、出張所のようなものでありながら、

当然ながら、確実に壮大なる霊的自我の中に在る。


無数の人生も、幾多の生も、その「霊的自我」の経験していることなのだ。

でも、気付かず知らずは、もう終わりにした方が良いだろう。



例えて言えば、

それは、本店から出向したはずの社員がそれを忘れ、

辺鄙な出張所にいて、自らが誰だかわからなくなっているようなものだ。

それはまた、この次元世界という体験場で、

全てから分離した単独別箇の単なる肉体個人として・・

死んだら終わりの刹那的生命だという風潮の中で、

なんだかわからず右往左往している魂達のようなものだ。


個人としての私、個人我、俺、儂(わし)、奴、彼女・・は肉体自我としてのそれ、

それらをすべて含めた、時代や場所、時間や空間を超えた「無限者」が、

本質の自我、真我と言えようか。

真の我(われ)、わたしは・・・何でもないもの、だから何でもなるもの、

ひとつなる無限者といっていい「それ」だ。


気付くべき真実、・・・

誰も皆そう、それぞれの「わたし」が今、ここに在るということ、

そのままですら、とんでもない奇跡であり・・まさに無限に有り難いこと。

「わたし」とは、様々な知覚によってそれに感動する為のもの・・、

ただ、・・ありがとうと言うしかない、わたし意識の・・その先にあるもの、霊的自我であるとも言えようか。


そう、<真の意味>で<自己>を愛する者は、

すなわち、全てを愛する者、それが真我だ。






本当の「わたし」とは、、霊的存在:スピリット等とも呼ばれる。
拝借するこのサイトの記事も非常に参考になるかもしれない。
ここ。(なわふみとさんのサイト)


本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。



今起きていること(21)現れた分岐道

2016-01-20 10:05:30 | 地球の一大変容
歴史とともに人類が進化して来たと思っている、あるいは思わされている人が多いかもしれないが、それは全く嘘、デタラメというものだ。

人類全般が順調に進化してきたと思っているだろうか。

なるほど、<魂>が経験を重ねて、至宝としての知恵が醸造されるのは当然なのだが、

経験によって知恵を醸造する為の生活の場は、即ち大自然との調和の場であるはずである。


その活きた場所が汚染され、失われてきているせいで、まさに荒野と化しつつ、

それに気づかず知らず、いや気づかされず知らされず、

さらにもっと獲得せねばならないという、過ぎたる欲望が渦を巻いてきたからには、

経験・体験こそが魂の進化を促すという・・・過酷なまでの人生試練さえも、

地球という学び舎の演目さえも、次第次第に棄損してきたことに気付けるかもしれない。


なるほど、本来あるべき文明自体は進歩していなかったのかもしれない。

気付けば、進歩したのは、自然を犠牲にした便利さだけの「機械」であり、

進歩したのは、多くの生命を犠牲にした富の集中の仕組みだったと言えなくもない。


物質汚染の泥の中で、膝まで浸かってはい回るような経験、

低いレベルの欲望思念で満ちた社会や世界で苦労する事も、

人類にとって、既に十分すぎるほどの経験となっただろう。


我々みんな、意気込んで落ちてきた、この愛すべき辺境の舞台で、実によくやってきた。

なんという勇気ある者たちだろうか、まさにそれは、

存在宇宙でも、実に得難く、雄々しいことなのだ・・・、

嗚呼、しかしながら、今はもう、

過ぎたるは、及ばざるがごとし・・と言わざるを得ない段階であろう。


今まで便利で良しとされてきた物質機械文明は、その役目をとうの昔に過ぎてしまい、

今はもう、どこか人間にさえも値付けして商品やサービスと化すような有様、

人間を、管理された買い物カートに入れようとする有り様になっては、

動植物や人の命さえも、消費や投資の対象にされる状況になってしまっては、

人が人らしくあるべきはずの人類の文明の歴史が、終るのもまた良しとせねばなるまいに。


人が何のために生きているのか?という問いを忘れた時点で、

その文明は意味をなくすとは思えないか?

・・・

フーテンの寅さんのセリフではないが、

「それをやっちゃ~おしまいだよ~」ということになる。

そう、今の時点で・・、これ以上進むと・・・、

残念ながら、人間が今よりさらに急激に意識レベルが退化することにもなるだろうし、

それでも何か良き展開があるという期待はあるけれども、

残念ながら、旧態以前とした意識レベルでは新たなる発展は不可能であろう。

ああ今は、そういう時が来ているということだ。


ここが、調和を保てる生命システムの「見切り」点、ターニングポイントということ。

ところでこんな話を聞いて、あなたはどう感じているだろうか。


願わくは、物欲で落ちるべく落ちた「重いこころ」を、勇気をもって棄て去って、

その「心魂」を軽くし、後は、自らの意識の次元を上げるしかない時点にある、

いや、もう既に「地球」は急速に自らを変化しつつある現状を見よ。


実際、大いなる変化は既に起きていたこと、

人類の直線時間間隔では、既に数十年前からそれが始まっていることに気付けるだろうか。
・・・

スピリチャリズムの興隆、霊的世界への気付き、

臨死体験の増加と、その報告の一般大衆へのお知らせ、

自らの存在というものが、無限と接続されている、その体験証拠の真摯な報告や、

あるいは、多次元宇宙における未知なる存在との出会い、

何十年も前から変わらず「UFO」という概念で抑えられてきたそれ、

言わば、宇宙は時空を超える「魂」の広大な生命の場であるという、天からの切なる知らせ、

あるいは、地上の人間社会の暗い支配の暴露・・・、

昨今では、あの原発事故のおぞましい影響も、隠し切れるわけもなく、次第に顕在化してくる時点に来たのである。



さらには、急激に頻発してきた地殻変動、誰にも明らかになった気象変動も、

それらは決して、単なる偶然や一時的変動ではなく、

いい加減気付くべき、自己変革すべき人類への促がし、

もうエゴに根差した時代は終わったのだという、

地球、宇宙大自然の意思を示すものではないのか!



・・

「へえ?・・地球に命や、意識があるって?・・初耳、それ考えすぎちゃうの?」

・・・かもしれないが、それこそ人間を貶めるところの無知と傲慢ではないのか。

動物や人々にあって、それらを包括し、活かしている地球に意識や意図がないわけがなかろう。


地球は土の塊と思っていることこそ、教え込まれた、無知と傲慢というもの。

我々の身体も、それ、地球の様々な物質要素で出来ている、

我々の、複雑なDNAとそれに基づく肉体精神機構、それも偶然か?


大自然の大いなる変化は、すなわち多次元的宇宙のなかの、

その1つの生命の場である地球の、その意識と意思の表明と考えなければならないはずだ。


意識の顕現は宇宙いたるところに創造として現れており、

それは、「あれが欲しい、これが嫌いだ」というような、

個々の人間の小さな想いや感情だけではなく、

さらに、壮大な規模での大自然、地球や太陽その他の惑星であっても同じことなのだ。

そう、地球という多次元生命体は、当然ながら意識と意思を有している。


地球の意思、それはある意味で、限り無く知的な母性でもあり、

今まで、地上の生態系に住まう、全ての生きとし生けるもの、

その、最大多数の最大幸福、いや最大多数の生存と豊かさと、

生命の間の美しさと調和と、それぞれの楽しき表現と進化を見守り、

それを維持するというものであったろう。


しかしながら、すでにもうこの次元形態で生じる人間の想念とその行為が、

歪(いびつ)から歪に集積し飽和したのちには、

ようやくながら、新たなる世界への移行と転換が行われる段階に移行する。


今起きている、人的現象世界での騒ぎや事変の増大、社会システムの崩壊の始まりと、

あわよくば旧態依然たる状態のまま、支配的優位さでの生き残りの模索も、

次元の異なるフェーズへの移行には、悲しいかな適者生存はかなわず、

それに無意識に気づいている者たちの、怖れと傲慢が故の、世界での大騒ぎも、

旧次元最後の仇花として、膿みだしのように開花してきた。

ある者たちは、テロや争いと人工の恐怖を世界にまき散らしつつ、

またある者たちは、人々の縛りを強めて、集団の盾にすべく身構えるような、

旧態以前たるエゴの支配構造への最終変化も、まさにその崩壊の顕れである。


生命で満ちる宇宙での、意識と意思の展開、つまり「創造」は、

あらゆる全てがひとつの存在・・としての表現であるからには、

雑多で偶然、バラバラのものは存在せず、宇宙・大自然のダイナミックな動きの中に、

確実に調和やハーモニー、リズムやサイクルが存在しており、

人類も、地球も、今はそのサイクルの急変時期、一大変化が行われるプロセスにある。


しかしながら、未だなおそれに気づいていない者たちも多く、

今日も明日も、何も変わらず過ごしている人々も、

造られた世間という幻想の檻のなかでの自由というマトリクスのなかで、

疲れながらも、頑張りながらも、他に何もなく感じるために、

その世界、世間という幻想にしがみ付いている者たちも、

もうすぐに目覚めざるを得ないフェーズになるだろうか。



・・・・

しかしながら、

気付かぬ者は・・気付かぬまま、旧態依然たる観念のマトリクスで眠りつつ、

知らない間に、その「時」を終えるかもしれない。

あるいは、

気付けるものは、その意味を感じ取ることで、そのことによって、

自ら落ち込んだ世界からの転換・帰還の為の、

1本の意識の「綱」をにぎり、崩壊する古い「時」を超えてゆくかもしれない。


内側の時は既に行き過ぎて、あとは常に遅れてやってくる外側の、

大いなる現象の変化を観察するだろう。

そして、あるものは時間を超えた一瞬で跡形もなく消え去り、

効率さだけの為の建造物、林立するビルも、張り巡らされた地下道も、

時空の崩壊と再生のなかで、その古い姿を消してゆくかも知れない。


宇宙は偶然にあって、全てはランダムで無軌道と考えること、

様々な生命も、また偶然の産物のような観念や思考が蔓延すれば、

当然ながらそのエゴ同士が集まり来たり、

欲望と傲慢さがゆえに、結局は世界の支配層を形成し、

それらが欲望を最大限に達しようとするために、最終的には、

誰が全てを勝ち取るかというゲームになって行き、

時が至れば、一気にぶつかり合いをして、結局は正・反で「対消滅」することになる。

まるで、空(くう)から現れた電子と陽電子の対極が、再び時空を同じくする瞬間に、

対消滅で再び空(くう)に消えるようなもの。



往々にして、そうやって重厚であるはずの物質文明は跡形もなく崩壊し、

古いエネルギーが空(くう)に消えてゆく。

空即是色、色即是空・・これも、まさにそれである。




アルマゲドンというのは、そういう物質レベルに落ちた文明の、

必然たるプロセスでの、良くある最終幕のことだ、

黙示録に書かれていること、その様々な・・宗教的枝葉表現を取り去れば、

エゴに特化した惑星文明の、よくある終わり方と読み取れるはずだ。
・・

今は2つに分岐した道が前方に見える・・・、

例えば右は、今まで通りの安易で便利で広く大きな道、

そして、左は、知られざる未知の道、言わば道なき道、いばらの道が見えるだろうか。


目先の大きさに流される者は、自己に目覚ることなく、

ただ多勢の支配の流れに流されるレミング達の行く道であり、

その先には無知と傲慢という断崖絶壁が待っているだろう。


もう一方の道なき道は、ひとりひとりが踏みしめて、新たに造りあげてゆく道であり、

一見困難にみえるけれども、逆に新たに開かれるべき、謙虚さと自己研鑽と創造の道である。

そこでは、いつか棘(いばら)と見える草木が、真の豊かさという果実を実らせ、

道なき道が、天上への壮大な大道と変わってゆくことを見るだろう。

繰り返すけれども、

2つに1つの道を選ぶのは、決して集団規則で決まるようなものではなく、

それぞれの・・わたし・・「魂」・・の選択である。

また、それは「肉体自我」のレベルの選択ではない・・ことを心得るべきであろう。

それが、今ここに在る・・魂という、

それぞれのわたしの「本質」の選んだ物語なのだ。
・・

嗚呼、でもその物語は・・今、フィナーレの章に入ってきた。

そういうことも、どれだけの存在が本当に気づいているだろうか、

そして、それぞれの<わたし>は何を選ぶだろうか。

目先の欲望、あるいは消えゆく定めの肉体自我だろうか、あるいは、

それを在らしめているところの、まことの<わたし>・・真我だろうか。



本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

色即是空の話(3)意識で出来た宇宙

2016-01-11 06:45:52 | 宇宙的気付き
人の体は50兆とも言われる生体細胞と、更にそれを構成する分子、さらにはそれらは原子で造られている。

そして組織的な最小単位の「原子」は、陽子と中性子で造られる原子核と、その周囲を回る電子で構成されており、

その数たるや、天文学的以上の数で造られていて、さらに、

またこの原子核と電子の間は、途方もない空間(空)があるために、その密度たるや、

99.999・・99? %が空っぽということであり、また残りは、活動するエネルギーのみである。





繰り返しになるが、物質とは、無限数のエネルギー活動要素で出来たところの、

99.999・・9?%の空(くう)なのである。

だからそれは、エネルギーで造られているホログラムと言えるもの。

最も身近なあなたの体も、ほとんどが空(からっぽ)である。


いや、そうはいっても、完全な空っぽではないのは、自己を見ればわかるもの、

それは誰にも、「わたしは存在する・・という感覚」が絶対的にあるからだ。

五感の感覚、感情、思考等でそういう風な、しっかりした自己存在感覚がある。

そうではないか?


確かに、完全な空(から)ならば、なーんにも存在しない・・

でも、そうではない!

・・・
例えば、

足立郁郎さんの「波動の法則」という著書によれば、原子核つまり中性子と陽子は、
それは、意識と意図だといっている。

中性子と陽子は、形に現れた「意識」と「意図」だと言っている。

そして、「電子」を伴なう事で、様々な物質として現出しているというのだ。

一般常識ならば、「えー、何それ?・・物質が意識や意図だって?、馬鹿な」(笑)

ということになるが、

実はこれが極めて真実に近い表現なのである。(まさか!・・(笑))


よく精神世界の分野では、辟易するほど「意識」という言葉が頻出するが、

全ての現象は「意識」によって造られているという、まさにその話である。

・・・
つまり、物質という、原子で構成される、あらゆる事物、事象は、

空(くう)の中の「意識と意図」の表現形なのだということ。


要は、あなたもわたし達もそれである。

物質だ、物質だ・・、重い、軽い、冷たい等としている、

我々の身体、及び、我々周囲のあらゆる物、事象は、

空(くう)の中の、「意識と意図」で現出、あるいは投影されているということだ。

実際、物質というのは、極めて大ざっぱな、単なる「概念」なのである。


我々は今まで、それが事実ではなく、

大ざっぱで偏執した、様々な観念の世界に閉じ込められていたということだ。

あれが良い、これは悪い、これは務めだ義務だ、頑張って変えろ、

観念のお金、観念での規則、観念による支配・・・、

もういい加減お腹いや頭一杯ではないか(笑)

在るがままで、既に完全で奇跡的な生命の表出である我々が、

さも貧相で、不足だらけで、貧弱な存在であると、一体誰が決めたのだろう。

いいや、どんな誰もいるわけもない。

あると見えるのは、それぞれのわたしの前に投影される、単なるリアルすぎる幻影だ。



存在世界という投影幕(時空・次元)に映されるもの、

物質、原子で構成される、あらゆる事物、事象は、

「空(くう)」の中の「意識」と「意図」なのだということだ。


要は、あなたもわたし達もそれ、空(くう)であり、また「意図を伴う意識」。


昔から誤解多く、神などと言われる宇宙創成の主、いわゆる創造主も、

その空(くう)の中の意識と意図の全体性と言えよう。




神格化、擬人化される神のイメージは、確かに意識と意図の存在によるわけで、

その意識と意図は、人にあっては気付きや想い、想念として現れているのだ。

宇宙は神の想いで出来ているとか、マーヤの造る幻想だとか言われる所以である。


これは、いつかの、どこかの宇宙の話ではなく、今・現に!、

あなたが存在する、その在り方そのものである。


原子という、空(くう)に描かれた、微細で多様なエネルギーの動きは、

つまり、空(くう)に生じた、「意識」と、

その反映・・何かへの志向性・・「意図」ということだ。

それが様々な世界、宇宙を投影している因なのである。


そして、その意図を伴なう意識の、根幹にあるのは、

無条件の愛、仏の慈悲や、神の愛と言われるもの。

なぜならば、窮極でそれであるからこそ、無限に展開し続ける宇宙が存在できる。

そうではないか?

あなたや私たちが、今在る、わたしは有るという感覚は、

無限である空(くう)が表出したところの、無条件の愛から来ているのである。

気付いていなかっただろうか?


例え未だ多くの存在達が、それに気づいていなかったとしても、

例えこの地上の多くの魂達が、

小さな自己愛の塊、自我やエゴに縮まっていたとしても、

ただ単に、気付くかどうかの違いだけだ。

・・・
人が生きるとか死ぬとかいうのは、

単に投影された夢の中だけの話であって、何も怖くもなく、問題もなく、

死というのは、単に「本質」の表出形の肉体が現象として消えること、

また生というのは、本質の住処たる・・『充満せる空(くう)』によって、

再び何度も、押し出されるかのように出現する生命のプロセスである。

・・・
しかしながら、意図を伴なった意識に気付くならば、

わけのわからないカルマという、繰り返しのループは不要なのだ。

ここが肝心かなめな峠の茶屋である!(笑)


生きるも死ぬも、すべて存在の諸相に過ぎず、

まさにこれも、「空即是色、色即是空」・・そのままである。

簡単すぎて意味不明であり、考えすぎて迷い道だった古い世界、


しかしながら、空(くう)とは空っぽであり、かつ全き充満だ。

何もかも、まったく完全に「それ」なのである。



おー、なんということだ!






本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。

尚、余談ではありますが、今までもそうですが、例えばこの2月頃からは、現象世界の様相が大きく変化し始めたことに、よりはっきり気付けるかもしれません。

色即是空の話(2)夢のまた夢

2016-01-09 08:36:04 | 宇宙的気付き
我々が『これが現実だ!』としているあらゆる事物、状況もまた空(くう)である。
空(くう)とは「からっぽ」であり、何でもないものだ。


何でもないからこそ、何にでもなるわけ。

これを<空即是色>と言っている。

何にでも現れたものは、全ては実際は空(くう)でしかない。

これを<色即是空>と表現している。


あらゆる個人、あらゆる世界、あらゆる次元、例えプレアデスであろうと、マゼラン星雲であろうと、あるのは・・それなのだ。

あらゆる時、ところ、状況において全く「それ」だ。

しかしながら、何もない「無」ではなく、空(くう)としか言いようがないそれだ。

「それ」という表現も、何か特定感が残っているが、単に「それ」なのだ。

本当の現実、リアリティーと言っても良い・・それだ。


人が追いまくられ、忙しく回り続け、次から次にやらねばならないこと、

アー!嫌だ・ヤダという状況があっても、それは現実ではなく、

ホログラム上の物語でしかない。


生れるという設定により、その気でも無いうちに、いつの間にか採用した、集団での夢物語である。

好きだ嫌いだと言いつつも、みんなが居るからこその、集合的夢物語である。

確かに、今までは、あまりうれしい夢ばかりとは限らないが(笑)、

そう、ここは典型的な、どこか悪夢とも言える部分のある「夢の世界」である。

そうではないか?

そして、その古い夢の世界が今この時期に終わりを迎えている。

夢から覚める者と、未だ夢を見たい者が居てもおかしくは無かろうが、

古い夢の興行は、ここでは終わりということなのだ。





実際に、寝ていて夢を見ている時には、あーこれが夢だ・・と思わないだろう。

ほんと、それはもう真剣勝負、誠実一路、活きるの死ぬの的な状況・・ではないか(笑)。

もう必死で逃げまくる夢などもあって、寝汗をかいたことだって何度もあるに違いない。

でも、気付けばそれは、人々が「これが現実だ!」と言う、この等身大の世界と全く同じで、

それを「夢」だと思っていないからである。

夢とは、それ、一時の幻想、仮想現実、非現実的現実・・という意味。


それで、多くの人が「そりゃあんた夢だよ」としている、寝ている時の夢は、夢のまた夢、

起きている時に遭遇しているのが、これまた「夢」なのである。

「夢」とは、変化して止まない物語、

なんとなくしっかりしているようで、実はそうでない物語のこと。


実際に、しっかりしているはずの「様々な物質」という固そうなもの、

それらすべて、99.9999・・?%が空っぽなのである。

ニールス・ボーアやディラック、マクスウエル、チャンドラ・ボースもそれを保証するだろう。(笑)


ほとんど何でもやってしまった感のある、かの関白秀吉は、辞世の句でそれを残している。




露とおち、露と消えにし、我が身かな、

難波のことも、夢のまた夢、



別に悲しく儚いものではなく、無常観でもなく、

あー全ては楽しい夢物語だったなあ・・という感慨を残したものだろう。


また、何処まで行っても釈迦の手(言わば法)があるという物語、

強いも弱いもなく、距離も時間もなく、

あらゆる全てが、空(くう)だと悟った物語、孫悟空のお話は、

単なる仏教における戒め的逸話、比喩の話ではなく、

確かに、真実を悟った覚者がそれを物語にしたもの。

茶化されて、遊ばれても、しっかりと残すのは、なんという古代の叡智だろうか。




全ては空(くう)、あらゆる全ては空より出でて、空に帰す・・

これが衝撃の真実だということなのだが、


でも 「この今の現実はどうするのよ?」 という、

癖になった「思考」がやってきては、

ローンを支払えとか、成績を上げよとか、もっと頑張れとか・・、

またまた、等身大の苦楽の生活環境に意識が戻ってしまうかもしれないが(笑)


嗚呼、朋よ・・、

しかしながら、その実感程度は違うものの、

あらゆる全ては、変えようのない、固まった現実と言うよりは、

実際は、仮想現実、ホログラミック・ストーリーというのが、

正確な描写であることがわかってしまうならば、

どんなことも、「だから・・それがどうしたの?」 と言えるはずなのだ。

そう、様々な枝葉を作り出すマインドの騒ぎを鎮めることも出来るだろう。



これは決して投げやりなどではなく、事実に即した世界観測。

「もっと真剣に・・、もっと頑張って、きっと何かに成る・・、勝負に勝ってモノを言える・・とか、

アイツは悪い奴だとか、彼女はいい子だとか、あの国は立派だとか、かの国は紳士のようでいて実は極悪人が支配しているだとか・・・、]

それらすべて・・・、

その気も無いうちに、生れてから、いつの間にか採用した、集団での夢物語の中のストーリーである。





好きだ嫌いだと言いつつも、みんなが居るからこその、集合的夢物語。

しかしながら・・言ってはなんだが、

多分、一時的だが、そんな苦しい事、嫌な事を・・進んで求めてきた。

そう、善だ悪だ、女だ男だ、リッチだ貧乏だ、死んだ、生れた等・・・という、

二元性の世界を、皆で楽しんでいる・・ということ。

とはいえ、こういう言い方をすれば・・、

「えーっ?、こんな非道な世界にいて、楽しんでるだと~、馬鹿言うな!?」

多分、きっと総立ちで怒られるかもしれない(笑)。


・・・、
あなたの目の前にあるパソコン画面もマウスも「それ」、机もそれ、空(くう)だ。

あなたの苦手な、誰かの個人も「それ」・・空(からっぽ)。(笑)

私だ・俺だ・と、真剣なあなた自身も、実際、空(からっぽ)が身体という衣服を着ている。

必死になって保身に走らなければならない人々のその大切な身体も、

99.999・・?% が空(くう)で、残りは活動するエネルギー。

物質の塊なんて、どこにもありゃしない。


なんてこった!・・何時も、何処にも・・何もなかった、そういう感動がある。

そう、感動だけで・・宇宙が出来ている!  何てこと・・、それが宇宙創成物語である。

OH、MY GOD!

・・・

また仮想の物質幻影を、必死で何とか制御しようとするのも、暖簾に腕押しのようなもの。

そんなことより、その前に、

極みなき「創造」という、・・空より噴出している、あらゆる全てを、

それを目撃していることに、まず感謝すべきだろう。


あー、そうなのだ。

物理科学、量子科学で突き止めたのが、重要な究極の何か!ではなく、単なる空だった。

どこにでもあるもの、どこに行こうとあるもの、いつでもあるものは、確かに「それ」、


空(くう)であるからこそ、何でもそこに存在できる。

空(くう)だからこそ、そこにお絵かきのように、無限小の点が顕れ、それが運動し、回転し、



様々な現象という、リアルこの上もない影絵を投影させ、諸世界という仮想現実を創り上げる。

また、あなたや私たちという、仮想の個人を映し出す、

いや、絶対・・私は私だ!と言う・・個人意識まで映しだす。

そう、ずべてから分離した個人は、まさしく分離し、枝葉で出来たジャングルの、

そのこころ模様の・・「夢」の中のいるだけ。

それらを含む様々な夢物語は、多次元世界等とも呼ばれるものである。


しかしながら、それもこれも、様々な物語も、多次元世界も、

あらゆる全てが、ワンネスという、<空(くう)>であればこそ。


そう、

空(くう)は空っぽであるからこそ、あらゆる全てが充満しているのである。


言っては何だが・・・、あなたも「それ」なのだ。

すぐに、自分の手を見てみる良いかもしれない、

手を見ているように・・・見えるが、

実際は、それ、その空のなかの現れ、あるいは投影像を観ているのである。





本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。

色即是空の話 (1)物質とは影絵そのもの

2016-01-04 08:48:18 | 宇宙的気付き
色即是空とは般若心教の真髄だが、別に仏教の世界の教えということでなく、

宇宙・世界の創造と変遷をそのまま簡潔に表現しているということ。

何が何だかわからない場合もあるけれど、

それはこの世界での紆余曲折、千変万化の・・その背後にある、

言わば法、あるいは仕組みに気付いていない意識段階を示しているかも知れない。

余計なお世話だが、あなたはどうだろうか?

色即是空、空即是色。

色(しき)とは現れた諸現象であり、

空(くう)とは現象の背後の(くう)のことだと言えよう。



   虚空蔵菩薩像

特に、空(くう)と言えば、何もないこと、空っぽ、無、ゼロ等と言う観念が絡んでくるために、

何か嫌な事、怖い事、つまらない事と言うような感じがして、

避けて通りたい気持ちになるかもしれない。

財布の中が空っぽ、えー?、ゼロ円だった・・あー、やだヤダ(笑)みたいな・・。

しかしながら、存在事物全て空(くう)に浸っている/・という表現が適当かどうかはあるが、

我々は空(くう)で、出来ている・・という、表現が適当かどうかとしても、

あらゆる物質、そのほとんど全てが、まったき空(くう)なのである。

原子の構造の話が引き出され、原子自体は密集した粒子で充満しているのではなく、

ほとんど、全くと言って良いほど空っぽだとされているだろう。

それは噂や陰謀論等の話ではなく、まったくその通りの空っぽ同然という事実を示している。


現状の原子核モデルでよく聞く話はこうだ。

原子核をバレーボールの大きさで東京駅にあるとすると、

電子はビー玉程度、その電子が原子核の周囲を回っているとされるわけだが、

その電子がどこにあるかと言えば、小田原あたりに位置している。

八重洲や神田でもなく、小田原というわけだ(笑)

その空間体積からいって、原子核や電子は極めて小さく、計算が面倒になるほどスカスカということになる。


その電子核と電子の間は何があるかと言えば、見えない力場はあるとしても、ほとんど真空ということ。

真空は科学的用語で、ここで言う空(くう)と同じ。

あなたやわたしの肉体はそれ、ほとんど空だということだ。

だから、物質で固まっているはずの我々の身体は、ほとんど「空(から)」であるからには、

我々の肉体自体も、物質というよりは、空(くう)そのものということになる。

比喩でもなんでもなく、目の前のパソコンも机もコーヒーカップも、ほとんど全てが空「くう」なのである。


多くの人が信奉している科学の見解であり、比喩でも予想でもない、事実認識である。

空っぽなんて嫌だ・・といっても、面白おかしいことに、

我々そのものが空っぽの中にいる(笑)。

原子、分子、細胞自体は、空っぽの中の、極めて微小なエネルギー波動/粒子の運動で出来ている。

また原子や電子、さらには素粒子と言われるものは、波動でありまた粒子のようにも見える

、波動エネルギーまたは運動エネルギー・・そのものだ。



我々が物質だ、肉体だという認識は、大嘘(うそ)のコンコンちき以下の観念なのである。

人が、自分のことを物質だ、肉体だ・・というような見解は、

致命的な誤解にもとづいているわけだが、

どうも、そういう唯物観念へと方向付けるような、社会常識の思惑があることにも気づけるだろう。

なぜならば、人々が唯物観念から脱してしまえば、もう物質偏重文明、資本主義的手段による富の蓄積、勝敗ゲームは消滅してしまうのだ。

・・・

我々の肉体、身体は物質で出来ている・・というの皮相的観念であり、

我々の肉体、身体は、「空(くう)」の中のエネルギー運動だという認識のほうが、

無限に真実に近いのである。

・・・
あなたは自分が、肉体でしかない・・と思っているならば、それは「ブーッ」であって、

わたしは自分が、空(くう)で、かつ、その中で「活動するエネルギー」でしかないと・・・思わなければならない。

自分が、既に、99.99999・・・?%  空(くう)であるということだ。



あなたが自分を、物質的存在だと定義するならば、そう、

あなたは、ほとんど存在しない、実在しないということになる。

空(くう)の中の、ちょっとしたエネルギー運動の、言わば影絵のようなものということになる。

昨今発見された光干渉技術では、それは「ホログラム」ということなる。




従って、科学的見解を大切にするならば、

「自分が肉体・物質である」とするのは大きな誤解釈表現であって、

それを言うならば「自分はホログラム」であるというのが、ほぼ正解なのである。

現代科学的にそった見解から言えば、私は物質・・・ではなくホログラムなのだ。

唯物的観念を大切にする、科学的見解者ならば、

あー、自分とは、実は「ホログラム」だったということ、そういうことだ。

おー、ホログラムとは、なんと軽そうな・・!(笑)


いやいや、そんなはずは!?・・という反感があるかもしれない。

そう、私は今ここに存在している・・という感覚があるからだ。

わたしは在る・・という感覚は、人間としての普遍的なもの、自意識というものだ。

しかしながら、わたしは在るが、全体から分離した肉体個人があるという見解は、

今観てきたように、

自分とは、無限の空(くう)に浮かぶホログラムであるというのが妥当であるならば、

さてそのホログラムの・・・どこに、私という、個人という「実体」があるだろうか?


人間も含めすべての物質現象の、

99.999・・99?%、空(くう)であり、

残りは全て、活動する微細エネルギーだとすれば、

私個人とは、単に空(くう)の展開せる次元の幕に投影されたホログラム、と、

そういう結論になるではないか。

実際、投影映像よりも、さらにスクリーンである多次元層を展開する「空(くう」そのもの

そういうことになるではないか。




わたしは、決して分離した肉体個人ではなかろう。

『肉体個人だという認識、癖の思考、観念』があっただけの話である。

また、そうでなければ3次元的世界はすぐにも消えていただろう。

・・

考えるよりも、今在るまま、それを単にそのまま観ることが推奨される所以だ。

バカバカしいほどに単純だが、社会の様々な迷妄観念が覆いかぶさっていたせいで、

人によっては何世にも渡って、楽しくも苦しくも騙されてきたわけである。

癖になった世間思考や偽の常識観念を外す努力は必要であるものの、

気付けばすぐそこに出口が見えてくるだろう。




五感に映しだされた森羅万象、あらゆる事象や事物、

わたし達の手足や、その目の前の諸物も、99.999・・・%が「空(くう」。

あとは法則や意識、意図による、微細なエネルギーの活動なのである。

それが多次元的に展開して全てが映しだされている。

本質はそれだけ。


なんという単純さか。

そして観念、マインドはなんと多様で複雑なんだろうか。

しかしながら、複雑さ、多様さのその中に真実はあり得ず、

ただ、ひとつという「それ」、

何でもないものこそが、何にでもなるという単純さこそが、あらゆる全てなのである。

全ての全ては、空(くう)でこの瞬間につながっている。

あるのはそれだけ・・・。



本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

新年おめでとうございます。

尚御覧の方々に・・、気づいたことや感じたこと等、その気になればですが、気軽にお話しいただければと思います。難しいものは何もないし、何の損得もありません(笑)