わたしとは何か・・、
有り難いことに、わたしは何かという問いかけは、人間だけが出来る問いかけだ。
動物とは違うところ、それが「自我意識」というもの。
あなたにも自意識があるし、誰にもそれがある・・ことさら重要とは思わないまま、
どこか当たり前のように、ある意味で無視するように、人生を急き立てられるようにして、
いつか通ってきたのかもしれない。
「わたしは何か?って」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/3b/4dea94a9459e82f109243c874f3926ed.jpg)
そんなことよりも、あれを憶え、これを習い、生き抜くために、
より良き生活のためにと競争の中を意味不明のまま皆で走ってきたのかもしれない。
・・・
誰でもそうだが、振り返れば、愛らしく無邪気な赤子の時には、ただ生命の輝きだけがある。
そうではないか?
赤ん坊は間違いなく生きているが、当然、自我というものが芽生えてない状態だ。
赤ん坊の時をほとんど誰も憶えていないのは、頭脳を含む肉体精神機能が開始されたばかりで、
経験と記憶が少なく、持続する経験の記憶としての自我が未発達だからと言えよう。
「素の意識」はあるが、まだ未分化の有様で、まるで種が土の中から芽吹いたばかり、
どんな花なのかわからない段階、
肉体生命は有るが「我」(われ)という自意識が育っていないということ。
あなたは生まれた瞬間を憶えていないだろう?・・・、
それは、そう、・・憶えていない、記憶がないということ。
赤子には、生命を表現している「素の意識」はあるものの、
生れ出た肉体を通じて経験し持続するその「記憶」が未だ少ないということ。
生命がこの世界に生れ落ち、自らを表現しつつ、経験しつつ、記憶してゆく過程で
その持続する記憶によって・・「自我」が目覚めてゆく。
それは、「物心つく・・」等と言われることで、誰でも通ってきたこと。
多分3歳~5歳あたりかも知れないが、
人は皆次第に「ここに居る・・わたし」という「自意識」が生じてくる。
そうではなかったか?
つまり、この人生で赤ん坊からスタートして、肉体経験とその反応と思考を繰り返しつつ、
その意識の持続によって「我(われ」という「自意識」が育ってゆく。
その我(われ)という自覚が「肉体自我」と言って良いだろう。
「わたし」という意識、つまり自意識は、人間特有のもので、
実に、この自意識があるがゆえに、世界というものが立ち現われるのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/7f/c8c038124390e07acaf6ddfc81fa3e3e.jpg)
単純に言えば、人は生まれる前には、この世界にいなかった。
もともと、あなたはこの世界にはいなかった、そうだろう?
逆に言えば、
いや、あなたという人が生まれ、経験と記憶の蓄積とともに、意識が芽生え、
自らに気付いている意識、つまり自意識が明確にならなければ、
それが不都合か、嫌いか、好きか等は別として、
今のあなたの「世界」は無かったのである。
それが今生きている・・ということだ。
移り変わる信念や、政治や宗教など、全くどうでもよい事だ。
あなたの「意識」あればこそ、あなたの「世界」が在る。
嗚呼、その逆ではないのが、実に気づきにくい肝心なところである。
また、大勢の人間が、全てそうして自意識を有するからこそ、
それが集合して共通認識としているからこそ・・、
この世界、あの世界、どの世界も・・存在しているとも言えるのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/cf/84a5eee8f3ca6ac4dadd6784269348a4.jpg)
・・
まず宇宙がただ、そこに有ると言っても・・そこに有りますよ~・・と言っても?、
誰もいなければ、一体誰が・・その存在を証明するのだ?
物質的な宇宙のビッグバンがあって、おっとり刀で駆けつけのように、
その中にちっぽけな生き物として有機物質的な生命体が偶然現れた
・・それが人間だ・・・・ということではなく、
意識的な気付きを有する神なる意識的存在があってこそ宇宙が在り、
そういう創造の根源の想いによって、
人間を含む、意識を有する生命という無数の「意識存在」が、
自らをあらゆる視座から観察すべく、
この無限の宇宙に、生ける輝きとして出現しているのだ。
この世界の、あなたや私たちも、間違うことなく・・それである。
創造者であり観察者であり、宇宙の目撃者・・それが人間だ。
あれが旨い、これが好きだ、嫌いだ、怖いとか大丈夫とか・・だけではない。
無数の人間、意識体が宇宙で生まれてくること、
自らに気付いている意識に、自意識に目覚めるからこそ、
それが気付ける対象としての諸世界、宇宙が出現している。
決してこれは、難しげな話でもなく、大言壮語でもなく、
あなたや私たちが生まれて育ってきた過程そのものが、
ただ単に、普通に生きてきた過程そのものが、「それ」なのだ。
これは、人生で気づくべき1つの肝心なテーマでもあろう。
偶然生まれて偶然死んで、ハイ終わり?・・大量生産?
欧米流のプラグマティズム的なお馬鹿観念も、
度が過ぎると笑えなくなるものではないか(笑)
自己が、ちっぽけけな人間的生き物でしかないという常識的大嘘は、
物質的幻影を自己だとする迷いの「観念」でしかなく、
明日の飯をどうする、明日の着物をどうする・・そういう物質形の幻影の中に、
繰り返し引き込むマトリクス観念のなせる仕組み、
自らを幻影のなかに自己投入すること・・
自分は身長何cm、体重何kgの肉体でしかないという、肉体自我の迷妄観念の中に沈み込むこと、
あるいは人は価値のない存在だからこそ、
様々ものを獲得して、地位や名誉を求める必要があるのだという観念、
自らが、世界を創造している・・その世界の・・小さな小さな物質観念のなかに、
あろうことか、その自らを幽閉する事が出来たという、
ある意味で奇跡的な「神の遊び」である。
なるほど自らが創造者ならば、何でも演じることが可能なわけだ。
人生で目覚める過程を選んで下生した魂の表現型、意識的存在であるはずの人間が、
<肉体こそ「わたし」そのものである>という、
その時だけの小さな肉体自我を演じ続け、生じて始まり、死しては終わるという、
一過性の泡のような文明意識を刷り込まれ、
出ては消え、消えては出てと・・無意識ながらの輪廻転生を「経験」していたということだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/4c/dc628cee16df981d5faa871c1bcc4993.jpg)
・・
いや、しかし、意識を有するもの皆すべて、
有限の身体と、見えない心で出来た「肉体自我」のその姿形の中に、
その意識を自ら植え付け、そこから目覚めつつ、様々な生命表現を通じて
本来の壮大な「わたし」まで拡大する、そういう聖なる遊戯をしてるとも言える。
様々な生体験、様々な肉体自我、様々な自意識の経験と記憶を通じ、
女や男、ある時代、ある場所の、小さい私や、大きい私という経験や思索を通し、
様々な世界を創造しつつ、その集大成としての自我、大いなるわたしへと、
その帰還の道を楽しく歩んでいるもの、それが「霊的自我」。
ある意味で、個人の私、その時々の肉体自我も、その出先、出張所のようなものでありながら、
当然ながら、確実に壮大なる霊的自我の中に在る。
無数の人生も、幾多の生も、その「霊的自我」の経験していることなのだ。
でも、気付かず知らずは、もう終わりにした方が良いだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/87/2491ce7fb614c10eaf39dd7f73ce8e85.jpg)
例えて言えば、
それは、本店から出向したはずの社員がそれを忘れ、
辺鄙な出張所にいて、自らが誰だかわからなくなっているようなものだ。
それはまた、この次元世界という体験場で、
全てから分離した単独別箇の単なる肉体個人として・・
死んだら終わりの刹那的生命だという風潮の中で、
なんだかわからず右往左往している魂達のようなものだ。
個人としての私、個人我、俺、儂(わし)、奴、彼女・・は肉体自我としてのそれ、
それらをすべて含めた、時代や場所、時間や空間を超えた「無限者」が、
本質の自我、真我と言えようか。
真の我(われ)、わたしは・・・何でもないもの、だから何でもなるもの、
ひとつなる無限者といっていい「それ」だ。
気付くべき真実、・・・
誰も皆そう、それぞれの「わたし」が今、ここに在るということ、
そのままですら、とんでもない奇跡であり・・まさに無限に有り難いこと。
「わたし」とは、様々な知覚によってそれに感動する為のもの・・、
ただ、・・ありがとうと言うしかない、わたし意識の・・その先にあるもの、霊的自我であるとも言えようか。
そう、<真の意味>で<自己>を愛する者は、
すなわち、全てを愛する者、それが真我だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/59/bbc69a14e902d379fd6b85ba9c728c58.jpg)
本当の「わたし」とは、、霊的存在:スピリット等とも呼ばれる。
拝借するこのサイトの記事も非常に参考になるかもしれない。
ここ。(なわふみとさんのサイト)
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
有り難いことに、わたしは何かという問いかけは、人間だけが出来る問いかけだ。
動物とは違うところ、それが「自我意識」というもの。
あなたにも自意識があるし、誰にもそれがある・・ことさら重要とは思わないまま、
どこか当たり前のように、ある意味で無視するように、人生を急き立てられるようにして、
いつか通ってきたのかもしれない。
「わたしは何か?って」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/3b/4dea94a9459e82f109243c874f3926ed.jpg)
そんなことよりも、あれを憶え、これを習い、生き抜くために、
より良き生活のためにと競争の中を意味不明のまま皆で走ってきたのかもしれない。
・・・
誰でもそうだが、振り返れば、愛らしく無邪気な赤子の時には、ただ生命の輝きだけがある。
そうではないか?
赤ん坊は間違いなく生きているが、当然、自我というものが芽生えてない状態だ。
赤ん坊の時をほとんど誰も憶えていないのは、頭脳を含む肉体精神機能が開始されたばかりで、
経験と記憶が少なく、持続する経験の記憶としての自我が未発達だからと言えよう。
「素の意識」はあるが、まだ未分化の有様で、まるで種が土の中から芽吹いたばかり、
どんな花なのかわからない段階、
肉体生命は有るが「我」(われ)という自意識が育っていないということ。
あなたは生まれた瞬間を憶えていないだろう?・・・、
それは、そう、・・憶えていない、記憶がないということ。
赤子には、生命を表現している「素の意識」はあるものの、
生れ出た肉体を通じて経験し持続するその「記憶」が未だ少ないということ。
生命がこの世界に生れ落ち、自らを表現しつつ、経験しつつ、記憶してゆく過程で
その持続する記憶によって・・「自我」が目覚めてゆく。
それは、「物心つく・・」等と言われることで、誰でも通ってきたこと。
多分3歳~5歳あたりかも知れないが、
人は皆次第に「ここに居る・・わたし」という「自意識」が生じてくる。
そうではなかったか?
つまり、この人生で赤ん坊からスタートして、肉体経験とその反応と思考を繰り返しつつ、
その意識の持続によって「我(われ」という「自意識」が育ってゆく。
その我(われ)という自覚が「肉体自我」と言って良いだろう。
「わたし」という意識、つまり自意識は、人間特有のもので、
実に、この自意識があるがゆえに、世界というものが立ち現われるのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/7f/c8c038124390e07acaf6ddfc81fa3e3e.jpg)
単純に言えば、人は生まれる前には、この世界にいなかった。
もともと、あなたはこの世界にはいなかった、そうだろう?
逆に言えば、
いや、あなたという人が生まれ、経験と記憶の蓄積とともに、意識が芽生え、
自らに気付いている意識、つまり自意識が明確にならなければ、
それが不都合か、嫌いか、好きか等は別として、
今のあなたの「世界」は無かったのである。
それが今生きている・・ということだ。
移り変わる信念や、政治や宗教など、全くどうでもよい事だ。
あなたの「意識」あればこそ、あなたの「世界」が在る。
嗚呼、その逆ではないのが、実に気づきにくい肝心なところである。
また、大勢の人間が、全てそうして自意識を有するからこそ、
それが集合して共通認識としているからこそ・・、
この世界、あの世界、どの世界も・・存在しているとも言えるのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/cf/84a5eee8f3ca6ac4dadd6784269348a4.jpg)
・・
まず宇宙がただ、そこに有ると言っても・・そこに有りますよ~・・と言っても?、
誰もいなければ、一体誰が・・その存在を証明するのだ?
物質的な宇宙のビッグバンがあって、おっとり刀で駆けつけのように、
その中にちっぽけな生き物として有機物質的な生命体が偶然現れた
・・それが人間だ・・・・ということではなく、
意識的な気付きを有する神なる意識的存在があってこそ宇宙が在り、
そういう創造の根源の想いによって、
人間を含む、意識を有する生命という無数の「意識存在」が、
自らをあらゆる視座から観察すべく、
この無限の宇宙に、生ける輝きとして出現しているのだ。
この世界の、あなたや私たちも、間違うことなく・・それである。
創造者であり観察者であり、宇宙の目撃者・・それが人間だ。
あれが旨い、これが好きだ、嫌いだ、怖いとか大丈夫とか・・だけではない。
無数の人間、意識体が宇宙で生まれてくること、
自らに気付いている意識に、自意識に目覚めるからこそ、
それが気付ける対象としての諸世界、宇宙が出現している。
決してこれは、難しげな話でもなく、大言壮語でもなく、
あなたや私たちが生まれて育ってきた過程そのものが、
ただ単に、普通に生きてきた過程そのものが、「それ」なのだ。
これは、人生で気づくべき1つの肝心なテーマでもあろう。
偶然生まれて偶然死んで、ハイ終わり?・・大量生産?
欧米流のプラグマティズム的なお馬鹿観念も、
度が過ぎると笑えなくなるものではないか(笑)
自己が、ちっぽけけな人間的生き物でしかないという常識的大嘘は、
物質的幻影を自己だとする迷いの「観念」でしかなく、
明日の飯をどうする、明日の着物をどうする・・そういう物質形の幻影の中に、
繰り返し引き込むマトリクス観念のなせる仕組み、
自らを幻影のなかに自己投入すること・・
自分は身長何cm、体重何kgの肉体でしかないという、肉体自我の迷妄観念の中に沈み込むこと、
あるいは人は価値のない存在だからこそ、
様々ものを獲得して、地位や名誉を求める必要があるのだという観念、
自らが、世界を創造している・・その世界の・・小さな小さな物質観念のなかに、
あろうことか、その自らを幽閉する事が出来たという、
ある意味で奇跡的な「神の遊び」である。
なるほど自らが創造者ならば、何でも演じることが可能なわけだ。
人生で目覚める過程を選んで下生した魂の表現型、意識的存在であるはずの人間が、
<肉体こそ「わたし」そのものである>という、
その時だけの小さな肉体自我を演じ続け、生じて始まり、死しては終わるという、
一過性の泡のような文明意識を刷り込まれ、
出ては消え、消えては出てと・・無意識ながらの輪廻転生を「経験」していたということだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/4c/dc628cee16df981d5faa871c1bcc4993.jpg)
・・
いや、しかし、意識を有するもの皆すべて、
有限の身体と、見えない心で出来た「肉体自我」のその姿形の中に、
その意識を自ら植え付け、そこから目覚めつつ、様々な生命表現を通じて
本来の壮大な「わたし」まで拡大する、そういう聖なる遊戯をしてるとも言える。
様々な生体験、様々な肉体自我、様々な自意識の経験と記憶を通じ、
女や男、ある時代、ある場所の、小さい私や、大きい私という経験や思索を通し、
様々な世界を創造しつつ、その集大成としての自我、大いなるわたしへと、
その帰還の道を楽しく歩んでいるもの、それが「霊的自我」。
ある意味で、個人の私、その時々の肉体自我も、その出先、出張所のようなものでありながら、
当然ながら、確実に壮大なる霊的自我の中に在る。
無数の人生も、幾多の生も、その「霊的自我」の経験していることなのだ。
でも、気付かず知らずは、もう終わりにした方が良いだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/87/2491ce7fb614c10eaf39dd7f73ce8e85.jpg)
例えて言えば、
それは、本店から出向したはずの社員がそれを忘れ、
辺鄙な出張所にいて、自らが誰だかわからなくなっているようなものだ。
それはまた、この次元世界という体験場で、
全てから分離した単独別箇の単なる肉体個人として・・
死んだら終わりの刹那的生命だという風潮の中で、
なんだかわからず右往左往している魂達のようなものだ。
個人としての私、個人我、俺、儂(わし)、奴、彼女・・は肉体自我としてのそれ、
それらをすべて含めた、時代や場所、時間や空間を超えた「無限者」が、
本質の自我、真我と言えようか。
真の我(われ)、わたしは・・・何でもないもの、だから何でもなるもの、
ひとつなる無限者といっていい「それ」だ。
気付くべき真実、・・・
誰も皆そう、それぞれの「わたし」が今、ここに在るということ、
そのままですら、とんでもない奇跡であり・・まさに無限に有り難いこと。
「わたし」とは、様々な知覚によってそれに感動する為のもの・・、
ただ、・・ありがとうと言うしかない、わたし意識の・・その先にあるもの、霊的自我であるとも言えようか。
そう、<真の意味>で<自己>を愛する者は、
すなわち、全てを愛する者、それが真我だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/59/bbc69a14e902d379fd6b85ba9c728c58.jpg)
本当の「わたし」とは、、霊的存在:スピリット等とも呼ばれる。
拝借するこのサイトの記事も非常に参考になるかもしれない。
ここ。(なわふみとさんのサイト)
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。