気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

人は肉体でなく意識体 (2)想念の扱い方

2011-12-18 12:11:01 | 宇宙時代の考え方

自分を肉体レベルのみの存在であると想っている人は今でも多いだろう。

 

外の世界の有様、自分の周囲の人々を見るにつけ、そのほとんどが魂の永遠性等言ってはいないし、また言うにも憚れる雰囲気が支配しているようである。

 

最も重要である「わたし」とは何か?というテーマすらも問いかけることなく、世間のざわめきや虚飾の楽しさにいかにのめりこむかを競いあっているような態すらあるのではないだろうか。

 

今、この時が大事・・これしかない・・事は、まさに真実であるものの、世間で流れている、当り前とされる生き方は、

 

今を感じる、今を真に生きるということに似ているが、

 

まったく「非」なるものであることに気づかねばならない。

 

人も、企業も、社会や国家も、競争やバトルによって、いかに自分を優位にするか・・というゲームを行っているだけのことかもしれない。

 

そのゲームに勝つことで、誰も幸せだと宣言したことのないゲームである。

 

取りあえず皆が言うから、皆がそういう風に生きているから、皆がそれに負けないで頑張っているからという、

 

実は、どこのだれも責任をとらない風潮に、あなたやわたしは巻き込まれ、流されてしまっているという風に感じたことはあるだろうか。

 

世界とは、社会とは、世間とは、

 

皆が仮に・・そうだ・・・と「想っている」観念によって集合的に出来あがっている、

 

その時々の「仮想現実」であるということを、

 

今はもう知る必要があるのではないだろうか。

 

常に時と共に様々な流行があり、

 

それもまた人々のこころの変化、趣味趣向の観念の集合的変化によって、

 

現われては消えてゆく、一時だけの「幻」なのだ。

 

大勢の見る幻に従い、それに無意識に合わせることが正しいこととして、

 

あなたもわたしも貴重な人生を送ってきたと言えるかもしれないし、

 

そうこうしている間に、

 

いつの間にかこの世を去ることになるかもしれないのだ。

 

そのとき、あなたならばどうするのだろうか。

 

肉体人生の何たるかを理解せぬうちに肉体を去ることになった場合に、

 

その存在はどうするのだろうか・・。

 

多分、

 

自分は肉体のみであると想わされている人々、

 

永遠たる魂の存在など眼中にない段階の人々も、

 

そういう・・意識を有している・・存在であるからには、

 

その不滅性によってこそ、

 

また再び似たような境遇にやってくることになるだろう。

 

魂たるその存在は、

 

それを学び終えるまで決してあきらめたりはしないからだ。

 

誰も責任のとることのない、他者の言うとおりの人生でなく、

 

わたし・自身の人生を生きる・・ということを学ぶまで、繰り返すことになるだろう。

 

それを昔からカルマという・・・。

 

 

本来のそれぞれの<わたし>自身の人生とは、

 

その時々の魂の輝き、神の子、一なる無限性の顕れとしての、

 

光を発散させるための人生であり、

 

また、ただ普遍的な生き方、そのこと自体がなぜか、

  

様々な虚妄の観念によって難しくなっているような、

 

偽りと汚濁に満ちたと見ゆる、この3次元世界においてこそ、

 

最も学び甲斐があるということなのである。

 

しかしながら、今はもう、

 

それぞれの<わたし>達が、ただ光り輝くことが喫緊のテーマなのであり、

 

他者の影を論(あげつら)い、あるいは逆に追従して何が何だかわからない、それが何かを見ることのない「闇」に巻き込まれることほど愚かであってはならないのだ。

 

 

それぞれのわたしにある最強のツール・・、

 

それはそれぞれの「想念」である。

 

何をどう思うか、感じるか、・・・その微妙ではあるが、

 

とんでもなく強力な創造のパワーを、

 

他者でなく、自らで駆使することが求められる時が来たのだ。

 

I am that I AM。

 

まず、

 

当り前の幸せに感謝しよう。

 

今・・生きていることに感謝しよう。

 

大自然や親身な人々と共に生かされていることに感謝しよう。

 

たぐいまれともいえる、洗うべき汚濁に満ちたこの世界に生れたことにも感謝しよう。

 

そして、

  

これから吹くだろう、いや、もうすでに吹き荒れ始めている、

 

大いなるシフトの時代の嵐にも感謝しようではないか。

 

・・・・

 

想いという、想念という、

 

それぞれのわたしが創ることのできる、

 

最強のガードと光の楯もしっかりと用意しようか。

 

それぞれのわたしの周囲に、

 

愛する者たちの周囲に、

 

でき得れば世界の隅々まで、

 

燦々と輝く太陽のような<光の輝き>をイメージしようか。

 

想像は、創造であることを忘れないでおこう。

 

想念は、存在をどこにでも導く、2頭だての馬車であることを忘れないでおこう。

 

 

・・・

 

今、われ、ここに在り・・・を自覚しよう。

 

それぞれの「あなた」は、究極は「わたし」であり、

 

またそれぞれの「わたし」は、究極は「あなた」である。

 

 Sky4_m

  

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人とは肉体でなく意識体  (1)ユニティ

2011-12-11 11:09:29 | 宇宙時代の考え方

20世紀に生まれた覚者の1人であるマハラジは、

 

人間の最もまずい誤解は、人間が肉体であるということを信じ込んでいる事だと言った。

 

たしかに、我々の生活、人生は肉体というベースによって行われているように見えるものだ。

 

頭が痛い、お腹がすいた、トイレに行きたい、・・すべて肉体の状況のことだ。

 

何かに手が触れた、お尻が痛い、体がかゆい・・すべて肉体のセンサによって起きることである。

 

しかしながら、人間の想い、思考はそのような肉体によるセンサリングにはもとづいていない「自発的」なものだと知っているはずである。

 

身体のおかれた環境条件による身体への刺激ではなく、いわゆる頭を中心としたイメージや想いは、それそのもので独立した、自発的なものであることも知っているだろう。

 

身体の状況によって反応する身体感覚は、身体に装備された自己保存機能にもとづくセキュリティー反応であり、痛・圧・温・冷等の感覚は、<意識>がそれに注意を払っているということで生じるのだ。

 

神経が五体の状況を効率よく頭脳に知らせることで生起する様々な身体感覚は、<意識>がそれに注視するからこそ、リアルな感覚となると考えることができる。

 

<意識>とはそれそのものを生じさせる働きである。

 

難しい表現かもしれないが、<意識>がなければ、身体も、時空間での生起現象も単なる物質の運動でしかなくなるだろう。

 

一体それを誰が観測、観察することが出来ようか。

 

その物的存在、現象さえも、誰も、何ものも認識しないで、

 

どうしてそれが「有る」と気づけるのだろうか。

 

対象化しないで、当該事象は浮かびあがってくるはずもない。

 

スクリーンがなければ光源からの光は結像しないのだ。

 

結像したものを、それがそうだ・・と認識する主体の働きがなければならない。

 

対象化することで宇宙は顕現し、身体も現われる。

 

そのあまねく対象化を創造といい、

 

対象化する原因、当該のものを古くから<神>と言っているのだ。

 

神とは個別の者ではありえず、ただ対象化する働き、そして法則であるというのはそこからきている。

 

意識の働きに法があり、

 

自然界の物理的法則もその1部の現われなのだ。

 

現象が生起することは・・・すなわちあらゆるものを対象化する意識の働きである。

  

多次元だろうが、何次元だろうが、創造によって根源自らを表現し続けることが、人間的な表現をすれば、神の遊びということであろう。

 

神という概念が全ての元を指す観念であるとするならば、また根源・ソースとも言い現わすことができる。

 

また、その根源は、どこか遠くに隠れているものではなく、

 

今この瞬間にも、あなたやわたしや、大自然としても現われているのだ。

様々な未知なるものを、既知として対象化する法が行き渡っている、

 

それをここでは「意識」といい、現象として、あるいは物的事象として、それを<認識すること>を、「意識」の働きという。

 

体のこともまったく同じように、自分の身体を意識しているからこそ、自分が身体であるという認識が生まれるのだ。

 

また人類の通常観念によって、意識する対象を「肉体」に限ってしまっている・・ということである。

 

これはまた、

 

意識する・・・対象を、自分の肉体の全体的なシルエットにのみ特化しているということでもある。

 

意識の注視、注意、あるいは「意識する範囲」が、個々のバラバラの個体に固まっているということでもある。

 

<わたし>が一点一点で目覚め、それが拡大して、見はるかすマクロの宇宙や、あるいはミクロの世界まで、その意識する対象を広げて行く行為が、魂の進化だといえる。

 

これはまた、あなたもわたし達も、同じ一点であり、実のところ全体でもあるということである。

 

いわゆる3次元的な世界は、個々バラバラの人間達が集まって様々な活動をしている世界のことであり、

 

宇宙に遍満している「意識」が、それ自らに気づいていないレベルを体験している事を示しているのだ。

 

あなたは誰、わたしは誰? ここはどこ?のようなことであり、

意識していることは明確であるが、自らが意識していること・・それ自体に気づいていない有様である。

  

今まではそうだったのだ。

 

意識の高度な発露でもある人間という1点1点が、実は全体によってしっかり自己認識されていること、自らに気づいているということに認識が至ることが、

 

全ては1つ・いわゆるユニティともいえる段階である。

 

この視座から言えることは、・・・・

 

あなたは、わたしであり、

 

わたしは、またあなたである。 

 

一は多なり、

 

また

 

多は一なり。

 

<意識する>ことがなければ、物的対象は存在できない。

 

「わたし」が意識するからこそ、わたしの見る宇宙が顕現している・・とも言えるだろう。

 

同じく「わたし」が意識するからこそ、わたしの身体が生きて活動している・・ということでもある。

 

例えば、

 

<あなた>は、いまだかつで、<あなた>のいない宇宙など経験したことはないはずである。

 

変な話、<わたし>という認識主体のいない宇宙などあり得ない。

 

ここで宇宙というのは、今見える物的現象世界の全てを意味しており、物的現象世界は、その背後の意識の働きがなければ顕現・変化は起きようがないということである。

 

意識は全体であり、一なるものである。

 

それは既に<あなた>としても現われているではないか。

 

(つづく)

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脳波と意識レベル(2)アルファ的文明への移行

2011-12-04 10:39:10 | 宇宙時代の考え方

脳波におけるベータ波は、細かな作業や気を使うようなことや、本意ではない忙しさにある時等に現われるものだと考えることが出来る。

 

脳波は思考や感情による影響を含め、体の様々な組織細胞間の信号伝達を含めた総合的な電気信号波形とも言えるかもしれない。

 

体や呼吸、そして精神がリラックスした状態では、脳波にも、そのゆっくりした波形が確実に現われることが知られている。

 

それがアルファー波である。

出来ればこのようなゆったりした、あるいはリラックスした状態が続くことが、身体と精神のために必要なことである。

 

しかしながら、精神の影響によって呼吸や身体が反応することを忘れてはならない。

 

もともと身体はそれ自体を維持することが出来るわけであり、精神的な余計な干渉をしなければ、それ自身で最も楽な状態を保つことが出来るようになっている。

 

また身体機能の維持は、いわば潜在意識的な機能によるものであり、不随意な働きである。

 

要するに黙っていてもバランス良く働いているわけだ。

 

体がバランスを崩すと「苦痛」となって意識に浮かびあがるが、苦痛の元を無くすと元に戻るのは誰でも知っているだろう。

 

何かにぶつかって衝撃を受けた場合にも、その衝撃がやめば元に戻る。

 

ところが身体は、人間の思考、感情、想いによって影響を受けていることも事実なのである。

 

物質で構成された目に見える身体が、目に見えない思考や感情で大きく影響を受けているということだ。

昔から言われる 「病は気から・・」 は単なる比喩や傾向のことではなく、明らかな事実であることを知っておかねばならない。

 

例えば何かに悩んでそれが続くと、実際に胃のあたりが重くなり、そのこころのパターンが改善されないと、胃潰瘍等になる場合があるのは、誰でも知っていることだ。

 

また、不本意であったとしても、いわゆる歪んだ想いを続けると、その歪みが身体や、さらに外側の人間関係にもあらわれてくることも事実である。

 

身体を含め様々な自分の世界の事象の元にある「想い」こそが、それらの原因であり、

 

起きてくる現象を何でもかんでも偶然のせいだとすることは、実のところ甚だしい無知と言えるのだ。

 

人がどこに行くにも、何をするにも、まず「想い」が先にあるはずである。

 

人が人を評価するのも、その人の「想い」である。

 

良い人悪い人、好きな人嫌いな人・・などと評価するのも「想い」に他ならない。

 

想いや感情は 「想念」 と言われている意識の働きであり、それは目に見えるものではないが、逆に目に見えるもの、現象化への遠因となっている。

 

ここで遠因というのは、物と物の作用と反作用のような単純な因果関係では表せないが故である。

 

どういう思いが、どういう結果になるのかを深く知ることが、人間関係の目的ともいえるテーマである。

 

社会の中でのその多くの悩み、こころの歪みが「人間関係」の中から生れてくることは誰でも知っていることだろう。

 

お金の有る無しの表面的な話ではない。

 

社会とは、そもそも他者とのまずい関係に満ちているのではないだろうか。

 

人々の悩み、苦悩の多くは、家族、近所、勤め先、親戚、社会組織、国家等を含め、人間関係の歪みに他ならないのではないだろうか。

 

それら全ての苦悩も、その当該事象の歪み自体ではなく、それを見る、判断する、あるいは物差しで測るような、その人その人の「想い」からきているのだ。

 

現象、事象、生起する物事は、ただ結果であり・・原因によって、あるがままに起きていることであるが、

 

それに対する想いという個々人の「意識」のフィルターによって、

 

善とか悪とか、好きとか嫌いとか、安心だとか、怖れだとかが醸し出されてくるのだ。

  

その意識のフィルターというものは、ほとんどが「自我の存続にとって」という物差しで出来ている場合が多いだろう。

 

また自我の存続目的と、それを脅かすことへの「恐怖」で色づけされている場合が多いだろう。

 

この人間世界での様々な現象は、全て人の「想い」の現われであるが、その中にある自我へのこだわり「執着」と、それを棄損する可能性への「恐怖」が支配的になってはいないだろうか。

 

常に、何とかしなければ、より良く、より安全に・・・という状態に置かれてはいないだろうか。

 

その裏にあるのが、現状への不安と、怖れであることを見てとれるだろうか。

 

そう、

 

問題なのは、外の現象、事象自体のことではなく、それを生じさせる因たる「想念」のほうにあるのだ。

 

まず、これに気づかなければならない。

 

こころも確かに原因だが・・、というレベルではなく、

 

人間世界のほとんど全てが人間の「想念」によって生起しているということなのだ。

 

これが理解可能であれば、我々の行うべきことは、我々の「想い」への気づきと、それ自体の浄化ということになる。

 

それが 「こころの浄化」 と言われるものである。

 

各人各人の対象たるべきものは、他人の想いや行動ではなく、

 

「自らの想い」や行動のほうなのである。

 

自分のこころを洗えずして、他者のこころを洗って差し上げます・・ということではなく、

 

それぞれの<わたし>が、それぞれの<わたし>の意識の表現形態を洗うということである。

 

自らが自らの発する想いを観てとり、フィードバックを掛け、歪まぬように心がけることが真っ先に必要なことであり、

 

さらに必要なのは、全てのものごとに対する、良し悪しという自我の存続のためだけの判断基準<ジャッジ>を設けないことなのだ。

 

自己判断・ジャッジを行うことにより、良いも悪いも含めた「あるがまま」を見損ない、そのジャッジにより「葛藤」「戦い」「苦悩」が生まれることになるのだ。

 

それがまたまた、葛藤や戦いや、苦悩の現象を生み出すループを作っているのだ。

 

「あるがまま」とは、本来大自然のごとく有る・・ということでもあり、人的社会の汚れや不正をそのまま許すことではないし、

 

何もしないでのんべんだらりとすることでもない。

 

起きている様々な事象、現象を、そのまま直視し、客観視し、ものごとの本質を捉えるということなのだ。

 

それが出来る人々が増えてくれば、わけのわからない現象に振り回され、こずかれ、ひきづられること自体が消えてゆくことになる。

 

まず、自己の様々な「想い」を観ることである。

 

そうすれば他者の「想い」も見えるようになり、

 

嘘も隠しも消えてゆくのだ。

 

自らの想いを観ることが出来れば、そこにある様々な歪みや影にも気づけることになる。

 

自己の想念を観る位置に立てれば、人間関係や様々な現象・事象の上に立つことになるだろう。

 

汚濁の川の岸辺に上がり、その流れにはもう影響されることはないだろう。

 

・・・・

 

例えば、その時の人間の「脳波」は、アルファ―波になるにちがいない。

 

ゆったりとリラックスした意識状態から生れるものは、

 

新たな洞察であり、直感知であり、

 

そして、人と人の想いが共鳴する世界である。

 

「想い」はもう人々を振り回す暴れ馬の役目を終えるのだ。

 

制御の効かない暴れ馬が、どんなことも可能な魔法の杖に変化するだろう。

 

人々は、物からさらに因たる意識への気づきにいたり、

 

その意識さえも観ている・・・

 

神なるものの一片ともいえる、

  

本来のあなたやわたし達に戻るのだ。

 

我々は本来、肉体でなく、こころでもなく、

 

それを含み、それを超えている、

 

ありとあらゆる存在諸世界における、全ての因、

  

唯一の<わたし>から出て来ているのだから。

 

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