気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

こころの羅針盤

2011-08-18 06:39:01 | 覚醒意識

こころとは

 

身体的、社会的環境から受ける、人間内面の反応と考えているかもしれない。

 

例えば、

 

誰かにされたことが不快であれば、それによってあいつは嫌な奴だとこころで思う。

 

実生活で自分に好都合なことがあれば、嬉しいと思う。

 

誰が見ても悪いことをしているような人達を見れば、怒りのこころが生じる。

 

何かにつけて反感を示す相手には、嫌悪の気持をもつ経験はだれにもある。

 

・・・・

 

人々の中にいるということは、様々な人々の想いと言葉と行いのまっただ中にいるために、

その様々な影響によって常に自分の「こころ」が反応し、それによって動かされることになってしまう場合があるだろう。

 

つまり、いままでの常識的通念では、集団という外から来る出来事、行為、現象によって、人のこころに反応が起きるものだ・・・と受け止められているだろうか。

 

あなたの内面のこころは、外からの影響によって不可抗力的に揺り動かされる。

 

そう信じ込んでいただろうか。

 

こころとは、自分のものでありながら、自分ではどうしようもない、か弱い受け皿、あるいは波風で騒ぐ張りつめた池のようなものだったかもしれない。

 

まさにそうであるがゆえに、出来るだけ良い人々に、良い環境に取り巻かれていたいと感じ、その為に人間関係、社会関係をうまく調整しようとしてきたのだ。

 

様々な約束事、契約、複雑な法律、律法などもその為のものであったろう。

 

また色々な文明の利器、お金、社会での地位と称賛も、すべて、出来るだけ良い立場で、出来るだけ快適な環境にいたいという、大勢の人々の欲求であったわけである。

 

・・・

人々の作る様々な社会、国家の根底にあるのは、・・・

 

「集団とは皆か弱いこころをもった人々の集まりである。」

・・・・という誤解である。

 

すなわち、自分の「内面」、あるいは「こころ」が、外の世界からの影響、あるいは「外力」によって動かされてしまう・・という「恐れ」なのである。

  

それは、あなたのこころが、あなた自らで扱う事が出来るものではなく、あたかもパブロフの犬のように、単に外からの刺激に反応するだけのものとする、大いなる誤解の刷り込みがあるのではないか。

 

外からの刺激に応じた「反応をするこころ」とは、

 

例えば、

 

誰かに何かを言われて、すぐに憤激したりすること。

 

利害関係のある相手の態度に戦々恐々とすること。

 

嬉しい刺激をもらえる人々だけを周りに置こうとすること。

 

不都合なことに対して怒り、その怒りを相手に向けること。

 

自分に好都合なものだけを必死で集めようとすること。

 

他人に無条件に従い、密かに自分の利益を享受しようとすること。

 

・・・・

これらのどこにでもある人々の反応、行動は、すなわち、

自分の「こころ」をかき乱されてると思うが故に、自分を必死で守ろうとすることを示しているのだ。

 

偉そうな政治家だろうと、余裕も見せびらかす富豪だろうと、道を歩いている普通のおじさん、おばさんであろうと、飾りや虚勢があるなしに関わらず同じことである。

 

一見誰でも行っていることではあるが、ここには絶対的に、気づくべきことがある。

 

そう、

 

あなたの心はあなた自身の統御するものでなく、外からの影響で蹂躙されたり、追いたてられたり、波風を立てられたりするような、極めてか弱いものだと・・・信じているということだ。

 

・・・・

 

この刷り込みパターンが、一体どこから来るかと言えば、

 

まずその多くは、この世界に生まれおちた時の、あるいは幼児のころの、

この次元世界の洗礼ともいうべき、荒々しい環境からの影響が多いかもしれない。

 

幼児期に大なり小なり受けるところの、この世界における荒々しい波動は、まず、親、家庭、周囲の環境によって起きてくる。

 

必然、赤子や幼児は、大人の悲しみ、憂い、憤り、疲れ・・・そのような様々な波動を身に受けながら育つことにもなる。

 

赤子や幼児は、物理的にほとんど何も出来ない、か弱い存在でありながら、

また自意識で何かのカルマ的な所業を創れるわけもない状態に置かれながら、

 

生れた周囲の環境から、ある時期は善悪取り交ぜて、家庭や社会から怒涛のような影響を受ける場合もあるのだ。

 

それらが歓迎すべからざる体験の記憶が、いわゆる幼児期のトラウマというものであろう。

 

この世界においては、大なり小なり誰にもあるものであり、

 

その歪み自体を潜在意識に刻印しているがゆえに、

 

またそれを表面では忘れているがゆえに、

 

大人になった場合の無意識の行動に現われてくるものである。

 

その中にあるもので、最も大きな歪みは何かの不都合に対する「恐怖」であろう。

 

落下の恐怖、怒声の恐怖、肉体棄損の恐怖、弱いものに加わる暴力への恐怖、わけのわからない幼い集団でのいじめの恐怖のような、

 

粗野で下卑な人間社会の歪みが、程度の差はあるものの、

 

誰のこころにも刻み込まれているだろう。

誰しもこの世界が理想形でないことは判るはずであるし、

 

表面は取り繕っているような人々の群れにあっても、

 

社会という集合の中には、残念ながら様々な無知、汚濁、歪みがあるものだ。

 

・・・・・

 

我々はそれを自らで洗い出す必要があるのだ。

 

外の汚れたあり方を、誰それの愚かなあり方を、細かく抽出して批判し、誰かや何かを洗おうとするのではなく、

 

汚濁に見える・・・そのあなたの見方を、考え方、捉え方を転換するのだ。

 

外の何が、誰がどうであれ、「あなたはあなたである」という根本的な真理、あるいは本当の事実に気づく時なのだ。

 

こころの歪みと体験記憶は違う質のものであり、

 

歪みは解消されるためのものであり、

 

体験記憶は魂に刻み込むものである。

 

記憶は体験から得られた英知であり、こころの歪みは英知への理解の不十分さを示しているのだ。

 

こころの歪みは、暗いエネルギーとして感情や行動に無意識に出てくるものであり、それを歪みとして気付かない限り、何度でも無意識に表面に出てこようとする。

 

ぜんまい仕掛けのおもちゃは、その歪みエネルギーがある間は、その動きをとめることはないようなものだ。

 

例えば、誰かの服が汚れている、異臭を放っていると自らで気づかなければ、何時まで経っても洗う気にはならないように、

 

あなたの魂の周囲に湧き出している「こころの汚れ」を、それと気づけない間は、心そのものが浄化されないことになる。

 

歪みや汚れは、それに気づいてもらうための切なる「表現形態」なのだ。

 

いわゆるネガティブと言われるこころの持ち方も、それから逃げて真反対のピジティブに逃げ込んで解消されるものではない。

 

またネガティブな歪みを「攻撃」しても、何の意味もない。

 

こころの歪みは、攻撃しても解消できるものではなく、

 

なおさらその歪みを増やすような愚かなヒロイズムのようなものである。

 

歪みはこころのパターンとして、

 

わたし達に、それを開放するように促し続ける・・・、

 

逆の意味での気づきのための恩寵でありながら、

 

それに十分気づいてはいなかったかもしれない。

 

霊的な知識のある人は、それをカルマと言って眉をひそめる場合もあるだろう。

 

しかしながら、

 

その繰り返す歓迎されないカルマは、

 

どうしようもないものではなく、

 

ただ単にこころの歪みの解放を促すためにある仕組みであることを、

 

勇気をもって気づかなければならない。

 

カルマとは、歪みなど本来ない・・・ことを繰り返し繰り返し気付かせようとする、謂わば愛すべき宇宙の法である。

・・・

宇宙の、あるいは存在世界の、あるいは人生での様々な反応は、あなた自体があればこそであり、主役はあなた自身であることに簡単に気づけるだろう。

 

何をしても、何をしなくても、どうあっても、どうなくても、

 

「あなた」がいなければ、あなたの世界は展開などしていないのだ。

 

わたしは・・・有る! 確かに・・今・有る。

 

・・その実感、感覚、を意識しよう。

 

生れたときから無意識レベルを通過しながらも、次第に自らを取り戻してきた人生のプロセスは、全てに意味があることなのだ。

 

 ・・・

人生の押し寄せる波が、あなたにとって荒過ぎると嘆くより、

 

それに立ち向かうべくお膳立てされた、ひのき舞台に感謝しようか。

 

ここまでの舞台を用意し続ける、大いなるものの、切なる思いに感謝しようか。

  

人生の荒波が、心地よい、さざ波になるように、あなた自身という航海船を、感謝でもって大きくすればいいだけのことだ。

 

感謝とは、受け入れるこころの度量のことであり、

 

受け入れられるその分だけ、あなたは嫌でもさらに大きくなるのが真実である。

 

人生とは「わたし」が更に大きくなる為の、雄々しき試練のことである。

 

それに立ち向かい、

 

ある時は、砕け散る荒波がもたらす、涙を頬を伝わせればいい!

 

一時のこころの苦痛が、一体どうしたというのか?

 

押し寄せる荒波は、あなたのこころを歪ませるためにあるものではなく、

 

あなたを小さく、か弱く、誰かに頼らせるためにあるのではなく、

 

その真逆でああることに、どうか気づいてほしい。

 

あなたが吹きすさぶ風の中にあっても、必ず耐えることができると信じるならば、

 

強風はその役目をやっと終えることが出来ることを知ってほしい。

 

吹きすさぶ荒々しい世の風も、

 

大きく成長したあなたにとっては、

 

本当に、本当に心地よい、

 

春のそよ風にもなるのだ。

 

この荒いと言われる世界において、

 

何百何千億という数知れぬ、先達の魂たちの歩いてきた道が、

 

あなたに歩めぬはずもないのだ。

 

 

あなたもわたし達も、

 

その為に・・・ここにいるのだ!!

 

こころ騒がず、こころ凍らせず、こころを温め、こころを光らせるのは、

 

他の誰でもない・・・、それぞれの大いなる「あなた」のやることである。

 

こころのコンパスを、静かに保ち、進むべき航路を常に忘れるな。

 

そうすれば、すぐに大いなる輝ける大陸が現われてくるのだ。

 

・・・

 

決して他ではなく・・・自らを信じること、確信をもつことだ。

 

それぞれの「わたし」自身が全ての源泉である。

 

この世界とは、大いなる試練と愛を学ぶための、

 

母なる大海原であることに、

 

あなたも、

 

今はもう気づいていることだろう。

 

42013_886327

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。


わたしは・・私を含む全てのこと

2011-08-05 08:38:57 | 直感真知

わたしは、個人としての「私」であるが、それが全てではない。

 

私の肉体は、私が観察するところの1つのユニット、フィールドであるが、

 

それは「わたし」ではない。

 

肉体に備わる両目は、外の景色を見ているとされているが、

 

「わたし」は肉体の私の中にいるのではない。

 

わたしが見ている全てが、すなわち「わたし」のいわばフィールド、身体である。

 

1つの個別の肉体機能が、別個の外界の一部を見ているのではなく、

 

見ているその物、その景色全てが、対象すべてが、

 

実は「わたし」なのである。

 

観察者と観察対象は不可分である。

 

すなわち、

観察者と観察対象、その双方はシステムとしての「1つの系」を作っているとも言えるだろう。

 

その両方が1つ(ユニティ)となって観測され、それをそれとして観察しているものこそが、二元性を超えている系であり、一段と高い次元の有り方である。

 

あなたの観ているもの全ては、すなわち大いなる「あなた」なのだという事が理解できるだろうか。

 

あなたはそれなのだ。

 

それが意識の中心で理解できるならば、あなたは個々別々の、あるいは分離された観念の世界、この3次元世界を超えているという事が出来るだろう。

・・・

真実は、どこか遠くや、他の次元や優良惑星等にあるのではなく、

 

いつでも、「今・・ここ」 にあるのだ。

 

すなわち、見る聞く感じるこの世界は、貴方の肉体の外にあるのではなく、

 

大いなる「あなた」の中にあるのだ。

 

・・・・

 

すなわち、私は・・・・「わたし」を観察している。

 

卑小な肉体であると信じ込んできた、あるいは思いこまされてきた

 

個人の私とは、本当の「わたし」ではないのだ。

 

今はもう、しっかりと気づける人々は多いはずだ。

 

 

あなたの、見る・聞く・感じる・すべてのことが、

 

実は「あなた」自身を観察していることなのだ。

 

遠い青い空に浮かぶ雲、 野原の草花、 街並み、 アスファルト、

 

 家並み、 そびえるビルの群れ、 散歩する人と子犬・・・、

 

満点に輝く夜空の星、闇夜に映える三日月、そして毎日昇る太陽も、

 

見はるかすかぎりの全て、聞こえる限りの全ては、

 

「あなた」自身なのである。

 

五感という媒介で映ずる世界は、

 

実は私という内と、・・世界という外で切り離されてはいない。

 

外と見ゆるもの全ては「あなた」なのだ。

 

道行く見知らぬ人々、親しい家族達、それらも全て「あなた」なのである。

 

個別の肉体としての1個のあなたの事ではない。

 

全ては兄妹姉妹だというのは当たり前の事実なのである。

 

愛と慈しみ以外に、憎しみや恐怖など本来あるはずもないのだ。

 

 ・・・・

色(しき) 即(すなわち) 是(これ)  空(くう)なり、

 

そして

空(くう) 即(すなわち) 是(これ)  色(しき)なり

 

わたしは、本来全て、また空(くう)であり、

様々な個別の色に顕れるのだ。

 

今、あなたも私たちも、その1つの色として、人として顕れている。 

・・・・  

今まで、「わたし」は、肉体である私のことを「わたし」と思いこんできた。

見える物、聞くもの、触るもの、全てが「外」にあると想いこんできたのは、

 

わたしが、私・肉体であると想いこんできたからなのだ。

 

「 I am that ・・・・ 」

 

ここには、あなたを 「あなた」自身で開放する「鍵」がある。

 

既に、開けることは容易なのだ。

 

「あなた」は貴方という肉体ではなく、それを含む「全て」なのだということが解ればいい。

 

 

Photo

 本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。