気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

清涼風

2013-08-21 20:42:13 | 色々な気付き

たまに拝見させていただいているブログであるが、

 

既にご存知かも知れないけれど、

 

これこそ面白いと言わずしてなんというべきであろうか。

 

 

核心をつく鑑識眼と、それを深刻に増幅しないところのユーチューブの作者の『英知』を感じる次第である。

 

 

同じユーチューブ映像で吹き替えが2つもあることに気付けるだろう。

 

http://blog.goo.ne.jp/tarutaru22/e/660d7a1337a0190e50cd2fb5b08249a6

 

大笑いをいただきまして、誠に有難うございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


選挙会場での老婆の姿

2012-12-18 10:04:20 | 色々な気付き

先日私も当然ながら投票所に赴いたのだが、

 

道の途中に、空(から)の乳母車を支えに、その曲った背中を恥ずかしげもなく晒しながら、

 

ゆっくり・・ゆっくりと投票所に向かう老婆の姿があった。

 

下世話な話、自分の下(しも)の世話も出来ているのか?というような姿で、

 

お国の為に、自分の役目の為にという一心であろうか、

 

あるいは昔懐かし我が子を思い出すかのように、

 

でも今はそこに・・・誰も乗っていない乳母車を押しつつ、それに支えられ、

 

選挙用に急きょ設えられたバリアフリーの歩道を必死に上がっていたのだった。

 

なるほど、

 

選挙や政治がらみの物事は、

 

何かわかったような意見をしゃべくる身内の考えや、

 

付き合いでの依頼、あるいは生活基盤につながった組織からのお願いなどがあるのが常であるが・・・、

 

それがもたらす結果は何かはわからないとしても、その時の縁を大切にしながら、

 

あるいはそれを今の生きるよりどころにしながらも、

 

周囲の為、・・・子供の為に、

  

そして、それにつながる有象無象の人々に、

 

どこか何か・・役立つことをしたいと思っているのであろう。

 

一票それが・・何をもたらすかの知的な分析も判断も出来ない人々であっても、

  

あるいは老人だ、認知症だとか、ボケだとか云われる方たちであっても、

 

魂がその体自体から転移する時期を誤魔化されたような世間の偽観念の渦の中で、

 

今やるべきことを黙って・・やっている姿・・・

 

その身そのままで・・今・・生きていること・・・在ること。

 

勝手ながら、そのような感覚を覚えるような、ある意味で健気な老婆の姿が、・・・今もこの目に焼き付いている。

 

・・・

 

気付けばこのような有象無象の相対的世界・・・、

 

実際のところ、分けのわからない欲得思考の展覧会のような感のする世界、

  

さも解ったふりの者達が、次から次へ手を上げ躍り出て、その挙句の果てが無茶苦茶になっても責任も取れない者ばかりが先導するかのような世界・・、

 

常に露と消えて行くだけの刹那の幻想の世界に期待をしつつ、

 

全てが裏切られ、翻弄され、どこか搾取されている可能性にも気付かず、

 

それでも自分が何か他者の役に立とうとする姿・・・、

 

・・・、

 

それが何で、どんな効果で、どんな利益や悲劇をもたらすのかは今はわからずとも、

 

前に進もうとする本質の姿は垣間見ることが出来る気がする。

 

どこか踊らされ利用されているやもしれない・・・ことも知らず、

 

ただ生きて何かの役に立とうとしている姿・・・。

 

・・・

 

道ですれ違っただけの、ことさら何の縁も無い老婆だったけれども、

 

それに気付かせていただいたことに感謝である。

 

 

御苦労さまでした。

 

お疲れさまでした。

 

本当に有難うございます。

 

そう・・、

 

人の母も、地球という名の父なる宇宙に浮かぶ母も・・・その本質は同じなんだなと思う。

 

 

その広大なふところの上で何も知らず遊び呆ける友がき、その他多くの無意識のいろどり役者たちを眺めれば、

 

たまに袖すり合うだけの多くの人々へも・・・どこか魂へのいとおしさを感じるかもしれない。

 

その為には、何が正しく何が間違っているか、何が正解で何が誤謬だかという思考や批判をこのさい頭から排除すべきなのだろう。

 

外の現象世界、全ては成るようになるということであり、

 

それが嫌も応も無い集合意識レベルでの学びのプロセスなのだということだろうか。

 

・・・

 

この気象変化・地殻変動期にあると言われる今の地球において、原発という放射性物質の極度に集中され濃縮された破壊エネルギーをそのままに、

 

またさらに推進する?という方向に再び多数決という名の舵を切ってしまった形に仕上げられた感のある集合意識においては、

 

今後高い確率で予想される経済や生態系の激変、文明の一大崩壊のような転換を迎えた時点で、もう誰のせいにも出来ないことを・・・

 

悟るはめになるのかもしれない。

 

仮にも、自然界との調和よりも、今ある命の大切さよりも、付和雷同の笛の音に踊るような目先の金回りのほうを選んでしまったということならば、

 

それもまた意識的な選択であり、その選択によって今回もその結果が現われるだろうし、ただそれだけなのだ。

 

要は、因果応報は時代が下れば無効になるわけも無く、たとえどんな時代であろうと、良きに付け悪しきにつけ、意識的に選んだものを刈り取るということは変わりようがない。

 

結果を刈り取るその時には・・・あー、知らなかったということは言えないし、誰のせいにも出来はしまい。

 

なるほど、それに気付けるかどうかの試金石、あるいは標識の1つはもう通り過ぎたようでもある。

 

有史以来初めて広島・長崎に核の閃光と放射能拡散を経験し、

 

長年にわたる病苦と差別、遺伝子の奇形の症状に苦しんで来た人々は否も応もなく、すでにそのカルマを解消したことだろうが、

 

さらにまた福島の放射能を世界中に垂れ流している・・・地球という中のへそ、神州の雛型である日本と云う国体の、癒されざる物質形態内奥の傷を一体誰がどうするのであろうか。

 

またこれ以上の歪みは蓄積出来ないところまで来ていることを、多くの人は見てとることもできないのかもしれない。

 

どんな生き物もそうであるように、体の傷は癒されるのが自然の法則であるが、その癒し方に、もう自己都合だらけの人的な期待や注文は出来るはずもない。

 

その歪みや傷をいやす大自然の英知は、人的物量を超え、想像を超えたものであることを経験することになるかもしれない。

  

根本的に言って、地球という時空間は生物、人類全てにとっての<借り家>なのだということを知るべきであるし、

 

そしてその感謝を忘れてしまえば、

 

地表から自らが追いおとされるはめになっても誰にも文句も言えまいし、またそれすらも気付かないかもしれない。

 

それでも、・・・そんなはずはない・・・のだろうか。

 

いいや・・・、見渡せば、すでに時は満ち、機は熟したのではないかと思う。

 

・・・そう、これ以上は  不自然  なのだ。

 

・・・

 

翻って、

   

集合意識がどうしたとか、そんなことよりも、何よりも、

 

それぞれの<わたし>自身は気付くべきことがある。

 

今の瞬間・・・在ることに、気付いて居て

 

それに本当に、感謝が出来るだろうか。

 

例えそれ以外の全ては一時の、儚き夢まぼろしであったとしても、

 

ままよ、それでも良いのだろうし、

 

かえってそれを観察するところの本質は不動であることを忘れないでおこう。

 

そう、常に還るところは・・・自己の本質なのである。

 

・・・

 

ただ、いま、・・・有難う御座います。

 

 

 

Earth1

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 


おめでとうございます

2009-01-02 12:51:37 | 色々な気付き

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明けまして、おめでとうございます。

いつもと変らない日の出なのですが、新年だ・・といういつもと違った気持ちでそれを見るだけで、新たな感じで太陽の神々しさを感じるものですね。無条件のまばゆいほどの光と暖かさ、それを感じることができるのは、なんとも言えない奇跡でもあります。

我々が、太陽に対してそのような感覚をいだく瞬間というものは、我々の1人1人の視界の中において、それは、太陽と実際に繋がる瞬間を意味します。

 

我々の視界に在るあるすべての物事・・、自分の目に映り、耳に聞こえること、それらは外の世界というものではなく、実は、その時々の包括的な「我々自身」であるということに気づけるでしょうか。

 

単なる観念論を捨て去り、今の我々が体験しているリアリティ(現実)を見る時なのではありませんか?

  

自然の雄大さに気づき、驚きや感謝の念を発する行為は、まさに自然と人間のコラボレーションであり、逆に、自然が我々に対する驚きや感謝を発しているということでもあります。

 

これは鏡の法則ということでもあり、また自・他の統合意識ということでもあります。

  

自・他の間にあるもの、それが 「わたし」 という永遠の「・」です。

  

統合は固まって溶けさるという意味ではなく、全ての存在がすべてに対して、その存在の思いを無限に反射させるような賛嘆の交響楽といっても良いものです。

 

その中では、その時々、個々が個々で自由自在でありながら、全ての中心でもある不可思議さを感じるでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

アセンションシリーズの途中ではありますが、チョッと新年のご挨拶をさせて頂きました。

 

厳しさの中にも、そこに必ずある、「光」と「暖かさ」に感謝する年でありますように。

 


時事雑感(2)大きな経済津波がくるときの心得

2008-09-16 19:06:23 | 色々な気付き

つらつら気づいたことを雑感として記事にアップします。経済の動きは人間のこころの動きにしっかり連動しています。現れた結果、現象から因を推し量ることは何をおいても大切なものだと思います。

●さらに巨大バブルの崩壊、再び

 日本はブラックマンデー、ソ連崩壊、1990年代から2000年初期までの国内金融危機を通じて、終戦後のドサクサから必死になって働いたきた成果である経済成長という実りを、自分達で味わう事はありませんでした。世界は1つという合言葉が、なぜか利用され、搾取されてきたようです。団塊の世代が今まで必死になって、経済社会の1兵卒をこなしながら蓄えてきた年金等も、何かに蝕まれているという事実はもうニュースなどでご存知でしょう。虚構の物質感覚と権力意欲の増大を行なってきたパフォーマーたちの、何かしてくれそうなきらびやかな舞を、スケベったらしく呆然と眺めてきたせいで、各自にあると思ってきた財産にいつのまにかどこからか手が付けられてきたという驚愕の暗示でもあるのです。偉い方達は何か必ず良い事をやっているはずであるという、日本人独特の人の良さと、その裏返しである集団への埋没と観察眼のなさが、問われていると思えてなりません。

●日本に起きることは世界に起きる

 日本国内の10年以上に及ぶ金融危機の後始末がようやく終りかけてきたところが、こんどは欧米からのバブルの破裂のようです。どうも日本の土地神話のバブル性に気づいた者が行なったような感じもします。米国中心の住宅金融、信用収縮バブルは、もうすでに破裂しています。あくまでも笑いやバラエティーが一番というマスコミの鈍さのなかでも、破裂の津波は必ずやってきます。いつもの、苦痛に気づけば、いつの間にか様変わりということになるかもしれません。

 破綻の連鎖のプロセス、日本と欧米との姿勢の違いがここにも現れています。虚妄の宣伝をしながらも裏では、お金をさらに世界から集める算段をしているところかも知れません。

 命をかけた金儲けという人生観が間違いであったとわかるまで、どれだけのことをやらねばならないのでしょうか。虚構の金融工学なるものを駆使してデリバティブなどという証券に変換しながら、要は先物取引をしていたわけでしょうが、そのあてが外れたということでしょう。また真面目で力のある律儀な蟻さん達は、もうこの地球上にいないのを発見したということでしょうか。BRICなどという造語を当てはめられた国々はとうに見抜いているようです。

●蟻の模範は日本か

 まさに蟻とキリギリスの世界のようです。蟻の典型はどうも日本ということのようですが、仕事で長年世界を廻ったりした経験のある方々は、外の世界の異質性を感じ、逆に日本の特殊性を肌身で感じて還って来るようです。理想に燃えて欧米を中心とする世界に雄飛したはずが、表面だけの冷酷な物質偏重社会、階級社会を垣間見てしまい、外に理想の社会などないことを感じるものです。蟻がキリギリスの世界に行くと、色々な言葉の誘惑に会いますが、大体単独の蟻のままではその社会に入る事が出来ないようです、利口な蟻はその世界の本質的な空虚さに気づきます。何か価値ありそうな物を持参しなければならないようです。

●経済は本来、生きる為の工夫作業

 個人個人が不安なゆえに物質的な富を蓄え、それによって社会的な栄誉を得ようとするわけですが、この土台にある個人の不安は、死ぬ事を恐れていることから出てきているのです。分けがわからないが今は死ぬのは怖いという感覚がその土台にあるといっても過言ではありません。全ての極端に及ぶ経済・政治活動のエネルギーの元は、多分その恐怖からきていると考えられます。株取引も先物買いも、組織での栄達も、全て自分と家族、縁者などに物資を供給すべく行なう行為でしょう。

 誰しも死ぬのが怖いのは当たり前です。生きる事、死ぬ事、命とは何か、この世界とはなにか?という問いかけや思いめぐらし、調査などを怠っているからです。卒業する時期は必ずあるのだろうが、それの為の準備をしていないのではないか・・という少し高いレベルの思索は多くの人々の潜在意識にあります。

 組織を大切にし、自分を殺してまで維持してゆこうとするのは、自分という個人がそのなかで不遇を受けず、すなわち存続を保証され、その保証を強固に出来ると信じるからです。まさに人間とは社会的な動物という「暗示」が根底にあるようです。

●普通に仲良く生きることの奇跡

 世界にある真実は、貧しいといわれる国々の普通の人たちの文化や生活にあるものです。衣食住にやっとの生活の人々ではありますが、必要以上の欲をまとっていない、いやそれどころではない真剣な生き様があります。笑い事のようですが、江戸時代の庶民の長屋の生活が最も経済的で、心が豊かな生活の一形態のようです。争って奪い合う物などが、もともと無いために、余分な心の歪が生まれようがないのでしょう。貧乏だ可愛そうだと言う偉い立場の人々は、お互いが助け合って生活するトンでもない活力を見逃しているのです。

●10年前の苦い経験

 自分自身の経験でも、今までの10年間の日本の金融始末の苦い経験をしています。わたしの以前25年以上勤めた会社は、時には優良企業といわれ、銀行から競ういあうような融資の誘いを受けたようです。ところが、ある時期日本国内のお金が潮が引くように失われ始め、あのバブルの時代には融資といわれたものが、いつの間にか気がつけば借金といわれ、会社経営者はその返済に意識を集中するはめになったのです。そのためのエネルギーの浪費と、社員心のなかに生じる疑心暗鬼が更に不安をあおりました。結局は会社の経営者の知恵や先読みも十分ではなかったこともあり、企業倒産になってしまったのです。今、米国などで行われている貸し渋り、貸しはがしが相当な数行なわれたようです。

 当時やるべきは、あっさりと身を削って早々清算することにあったと思います。いつまでもズルズル古いイメージを抱いて、そのうち良くなるなどと思うこと自体が幼い証拠であったのでしょう。もともと何も無いところから起こすのが企業であれば、常にそのことを第一のテーゼにしておくべきですが、出てきた結果や経歴にすがってしまう事も多々あるわけです。

 自分のやったことは、見極めをしたあとで自分で海に飛び込むことでした。ある意味死ぬ覚悟でした。長年培って成長しあった仲間のいるなじんだ会社から、再び、何のあてもない社会という海に飛び込んだのです。自分で見切って自分で企業という船をあとにする事しかありませんでした。たった1人でした。多くの社員はそんなことありえるはずもないという先入観に逃げ込み、船が沈むとは考えなかったのでしょう。まさにタイタニック号のようなものです。

 経済的破綻が次第にわかりきった事実になりつつある中で、知っていながらも船と一緒に藻屑と消えるには、あまりにも家族が多かったせいもあります。わかっていながら進路が変らなければ、あるいは誰も変えようとしないならば、どうすべきなのだろうと悩みに悩んだわけです。技術者として起死回生の特許をとろうと1人で意味もなく頑張り、自分も含めたリストラ案などを提案することが最後の仕事になりました。古き良き時代がそうそうなくなってたまるかというような感覚、要は、変化について誰も何も考えていなかったようです。今までどおりだと思う観念に逃げていたのかもしれません。わたしのような者はサイキック系要素もあり、多分特殊のようです。今思えば確かに貴重な経験でしたが、相当に辛い経験でした。前後2年間は、まさに心の中心が灰色の金属質の空気で覆われていたようなそんな感覚があります。

 眼に見えない観念や思考、先入観念は人が常に身に着けている具体的な物なのです。一種の鎧のようです。組織のなかではそれなりに苦労はあっても、逆にそれなりの安心感もあります。大人としての我慢は、生活や家族の為のものであり、自分を殺してでもその中で生存することの意味を与えてくれます。戦後から今までの日本の企業戦士は昔の城の侍たちとそれ程変らないのです。

●こころの鎧を捨て去る時期

過去の経験した状態が、今度は世界的なスケールで起きているのをヒシヒシと感じます。良いも悪いでもなく、実際に経験した者だけが感じることです。またやってきますね。

 実はいま、かなりな非常事態とも言えるかも知れません。これからの生き様は勇気をもって既成の観念をどんどん捨てざるを得ない環境になっていくという感じもします。今からの時代、身に着けた余計な汚れを落として身軽になるべく促されているようです。

●何でも生み出す空に気づけるか

 元々何も無いところから生まれてきた人間、これが本来の人間の在り様です。何も無いから必要に応じて現すことができるのです。武道でも奥義と言われる自然体、ここからはどんなことも繰り出すことが出来るものです。例えば、技術は知識です。眼に見えないが創造の道具です。日本は緻密で真剣な創造が出来る国であると思います。物を扱うのは心です。

そんなに甘いものではないですか?

しかしながら人間は本来は何も無いところから現れたわけです。皆お互い様と、今生きていることに感謝できることが、最大最高の財産ではないでしょうか。お互いに少しでも笑顔や気遣いをすることが、そんなに大変なことでもありません。個人として隔離されたことに気づけば、その殻を壊すのも自分しかありません。そのときには、大勢の他人が存在している有り難さや不思議さにも気付くのでしょう。

国敗れて山河ありという言葉がありますが、今回は山河はかなり汚されてしまいました。

因たるものに気づかず、物ばかりを追い求めた人類に残されているのは、

いつも今というこの瞬間です。

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(今回も拙い文章をお読み頂き、誠にありがとうございました。)


大変動の兆し

2008-09-06 13:17:51 | 色々な気付き

今現在、自己や世界に対する敏感な感覚を持っている人々が気にしている大きな変動が、ここに至って実際に現れつつあるような感じがします。それは当然人間社会、生態系、太陽系などを含む1まとまりのプロセスのようです。

●経済社会の変動

 経済システムがおかしくなってきているのは今はもう誰しも肌で感じ始めています。米国発のサブプライムローンをはじめとする、金の貸し借りに関する信用構造に亀裂が入り、すでに崩壊のイメージすら明瞭になって来ています。これらの情報はTVニュース等ではうかがい知れず、新聞とインターネットのニュースではっきりと浮かび上がってきているようです。インターネット等も全てが100%真実であると考えてはならないわけですが、1年間での世界の株式相場の下落率は1000兆円以上と言われており、まだ下落中でありどこまで行くのかが焦点のようです。さらりと言葉で言えばそれだけですが、我々がそのような世界の中に囚われている以上、しっかりと影響を受けてしまうのです。

●金持ちの博打では済まない

 一般庶民にとって問題なのは、それらは関係ない世界の話という不思議な無知・無関心感覚にあります。アブク銭が消えてしまっただけであれば、そのとおりでしょう。金持ちが博打ですったのであれば、そのとおりでしょう。競馬の勝負に負けた人がどうだというのでしょうか。競馬場が儲かっただけでことは済みます。

 しかしながらそれらの失った名目資産は実体資産にいつのまにか転化しており、つまりその名目資産を担保に更にお金を借り、それを投資している場合が多く、下落で失った富はそのまま借金となって還ってきています。簡単にチャラにはならないのが「信用構造」の根幹であるからです。それらのお金は、金持ちの個人投資家以外に、商業銀行や投資銀行、つまり庶民のお金を集めて運用している機関からのものが多く、我々の人生で稼いでいる必死の汗をいつの間にか廻しているのです。従って、これから起きてくるであろう金融機関の破綻は他人事でなく、100%一般庶民に被ってくるものです。

●恐れの現象化

 すでに経済調査一般では、7-8年前あたりの冷え込んだ景気が現れており、数ヶ月~1年でホントに誰にもわかる形で、身近な生活の中にはっきりと現象として出てくるでしょう。現在の石油、食料の値上がりはすでにそれを示しています。売り上げと原価の比率・儲けの減少、職場環境のさらなる苛酷化、人件費の更なる圧縮、今は公用語?になったようなリストラ:人員削減等、我々のいつも「恐怖」している現象が、知覚できる世界・社会に現れてきます。多分経験豊富な中高年の方々は腑に落ちるものがあるでしょう。

●頑張りは恐れの裏返し

 我々はより良き生活をする為に、この不本意な社会の中で頑張ってきたのは「恐怖」を克服する為の経済活動という努力であろうと思います。根底にある「恐怖」から逃れる為に、がむしゃらに、より良き生活へ向かって頑張ることが、すなわち社会の共通コンセンサスでもあるわけです。言葉を変えれば人類総合意識の核になっているといえるでしょう。しかしながらこのような行為を一体誰が非難などできるでしょう。誰も出来るものではありません。社会のどんなところでも多かれ少なかれ、「頑張る」ことが推奨されているのが事実であることを、一体誰が批判できるでしょうか。政治も経済もスポーツも、どんなカテゴリーであっても「頑張る」「踏ん張る」ことの美徳を歌っています。

●本来頑張る必要はない命

  飯を食うために頑張る・・・これが根底にあります。

  我々は生きる為に頑張らなければならない・・・

  死にたくなかったら、とりあえず頑張れ・・・・

これらは圧倒的な数の人々に正当な感覚で認められています。実はここに大きな問題があることに気がつくでしょうか。

●生かされている事実に気付く

 我々はいつ生まれて、いつ去ってゆくのか?どういう理由で、なぜなのか?という我々の本当に共通したテーマを完全に忘れ去っている事に気がつくでしょうか。そのような高尚なことをやる前に、まず生きなければならない・・という「先延ばし」の逃げ口上が、不思議にも世間の常識になりきってしまっているところが、人類の最も大きな問題なのです。

 生きる事・・この意味を探ること、思いめぐらすこと、体験から気付く行為、これら生命を与えられている存在として当たり前のことが、どこに思慮としてあるのでしょうか。考えてみれば、この自然界、ひいては宇宙の中で生かされていることは明明白白なのですが、あまりに他人の言動に依存するがゆえに、このふとした本来あるべき気づき自体にも至らない場合もあるのではないかと思います。

 生まれたのは親のお陰です。しかしながら意図してあなたやわたし達という個性ある生命存在を創ったものではありません。この世界の参加意図・資格をもっている存在に対する門戸を開いたというのが自然な解釈であり、その親もその他の人々も、すでにある巨大で無限な宇宙の中の法則を元に、この地球と言う惑星生命圏に現れ出てきたというのが、本当のところでしょう。その観点から言えば、せっかくの不可思議な生命というシステムに乗って存在している身でありながら、生と死、人生の意味、自己のより大いなる表現・・などの内面から映し出すべき可能性に、全くの無頓着・無意識になっているのは一体どうしてなんだろうと言うことに思い至らないものでしょうか。

●生と死の克服こそ急務

 生と死、これは対抗する2元論ではありません。生は歓迎し、死を忌み嫌う感覚から解脱する必要があるのです。相対的な観念世界では、生と死は必ず現象として立ち現れてくる同じ現象の単なる2面であり、全く同じものを示します。始めがあれば必ず終わりがあります。終わりを恐れているのは、今が無いからだと思われます。今というこの瞬間瞬間を見逃し続ける行為を本来の自己は知っており、それが表層の顕在意識に投影された場合に、先先を見てしまうものです。どれだけ時間が残されているのか・という不安。先、その先を見ているからこそ、いつ終わりが来るのだろうか?という恐怖が出てくるものです。

 また、今の瞬間を出来るだけ精一杯生きるということは、決して「頑張る」事ではないのです。汗水流すことが人間の誠実さの全てであると言う事でもありません。今自分が「生きていることに意識的になること」、その中から出てくるテーマに対して、出来るだけ真剣に答えようとすること。まずその生来のもってきたテーマを思い出すことなのではないでしょうか。まずそれを自分の内面の主眼に据えてから後、具体的な生活や社会、外の世界に対するお付き合いをすべきなのです。そうすることで、社会や世界という外面と、自己という内面が、合わせ鏡のようなバランスのとれた生存形態にやっと戻ることになります。鏡はそれぞれに独自なものであり、社会や他人の鏡に入り込む安穏さは全くの見当違いなのです。変った表現で表せば、一般常識の中に眠りこむ幼子の群れはもう流行らない・・・のでしょう。いつも目覚めるのは1人1人です。

●外の世界は内面の写し鏡

 有史以来の今まで、外の世界、感覚に映ずる世界のみを真実として感じ、その中で動き回り、傷つき、立ち上がり、更に力を得ようと頑張って来た歴史が、この社会・世界・地球上に在る人類の歴史であったのだろうと思います。そのために外の世界にある物質法則を探り出し蓄積し、科学技術を構築し経済社会を発展させようと奮闘してきたのです。

 たとえば今の時点での経済社会の現象は、丁度その「考えかたの限界」にあることを示すものです。行き過ぎは、崩壊という形で現れます。そっくり温存しながらの後戻りなど出来ないものです。行過ぎた行程から、立ち戻るということは、その現象世界からの離脱という形で現れます。離脱ということは、慣れ親しんだ環境が大きく崩壊し変質して行くと言うことです。周りが変るように見えるということは、内面が変ると言うことと1対1の対応であるということです。

●崩壊はすなわち創造

 このように考えると、経済社会の大きなうねりや崩壊、人によっては増幅される恐怖、不安等が現れるという現象は、実は絶大なる「恩寵」と考えるべきものです。病気をしたら発熱や苦痛を味わいながら回復に向かいます。膿が出なければ治らないし、教訓として不動の価値の1つ1つを得たいが為の、無意識から発する切なる思いからの人類の放蕩三昧であったはずです。膿が出るのを勇気をもって見守る必要があります。自分達が意識的、無意識的に作ってきた歴史に対する膿なのであれば、まさかそれからも逃げるなどは、よもや考えることではないでしょう

●世界観は内観の反映

自分達の世界に現れた現象から逃げること、先延ばしにする行為は、まさに「カルマ」という恩寵の世話になることを表し、再びめぐる同じような舞台にエントリーする行為と言っても良いかも知れません。その場合の繰り返し経験は、多分この地球生命圏でのことではないでしょう。なぜなら、もうすでにこの地球は、様々なことをその総合意識として経験をしているからであり、今から出て来るであろう様々な現象は、そのレベルでの最終経験であるかも知れないからです。

 今はもう多分、人類の意識下で待ち望む激動の時代の幕開けのようです。外界の現象からフィードバックし、自己の内面に気づく地道な行為がこの意味を明らかにするかも知れません。

●原点=今在ること

我々人間に間違いなく共通しているのは、生と死、今生きてあるということです。無意味に生きているわけでもなく、勝手な想像が全てでもなく、確かに何かを学ぶ為に、今ここに在るのです。不思議な不思議な今の自分の存在に気づけませんか。

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例えば、マハラジはこう言っています。

「働き、闘いとらねばならないような幸福に何の価値があるのかね?

 真の幸福は自発的で自然なものだ。」

 Nature1012