気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

5次元意識

2013-04-30 08:24:32 | 宇宙時代の考え方

我々は常にいわゆる『灯台下暗し』の状態にあると言っていいかもしれない。

 

何を云わんとしているかと言えば、おのれ自身の何たるかを観ず、外の世界ばかりを見ているということだ。

 

今この瞬間であっても多分そういう事かも知れないのだ。

  

ところで、

 

あなた自身は実のところ、いったい何者なのであろうか?

 

・・・・

 

その問いかけに対して、自分自身で何かの回答を示すことが出来るだろうか。

  

幼少期、青年期などはそのような本質的な疑問が自己内部で沸々としていたはずなのだが、

 

いつの間にか、社会の慌しさや肉体感覚、生存競争の波に揉まれ、そういう疑問や質問自体を忘れてしまったのかもしれない。

  

余計なお世話であるが、・・・あなたはどうだろうか。

 

・・・

 

多分、重要なのは・・・『わたしは何者か?』 という自己自身への本質的な問いかけに対する、

 

自己自身で思うところの・・その時々の自己回答意識なのである。

 

・・・

この世界では、当初は誰でも赤ん坊という時代を通じて、次第に成長して行くという仕組みになっている。

  

赤ん坊の時代とは、何かといえば、すなわち 『素(もと)の意識』 だけの時代である。

  

赤ん坊も喜怒哀楽、あるいは身体的生存に必要な栄養補給、お乳の要求や、排便、排尿等を教えるべく、

 

時に応じて笑ったり泣いたりするのだが、その意識には未だ 「我・・わたし」 という自我・自覚が現れていない。

 

要は、俺、わたし、儂、おいら・・・等という自己意識、個別の『自己認識』とその表現形が極めて少ないということだ。実際のところ、あなたもわたし達もそうであったし、世の善人悪人と言われる人々にも言えることである。

 

 

そこには得も言われぬ素の意識の輝きと可能性がある。

 

意識はあっても心模様がないというか、白い用紙は存在してもそこに何も書かれていないというか、建築のベースはあっても未だ何も建てられていないというか・・そういうことである。

  

それを素(もと)の意識と言おうか。

  

この世界に生まれるという事は、肉体が子宮からポンと生まれてくるだけの形態的な話だけではなく、生命と云えば解りやすいが、その肉体を表現する・・原因体である『魂・意識』も、ほとんど無意識のような状態から生じてくるということである。

  

この世界では・・・素の意識から始める・・そんな仕組みになっているということだ。

  

生まれて少し経過し、この世界での環境で落ち着き始める状態になれば、赤子に何か言ったり触ったりすればそれなりの反応を返してくるはずである。

  

普通は・・・なんと可愛い子だね・・とか、アー笑ったよ~とかで終始しているわけなのだが、

  

赤ん坊の子宮内での生物進化論的な形態変遷もさることながら、また生まれてからの急速な意識進化はとてつもないものなのだ。

  

生物学的な理解では、肉体の中枢機関である頭脳のニューロンネットワークが急速に成長・拡大するということなのだが、それらが偶然に勝手に起きてくるというわけではないのである。

 

ここで云う「意識」あるいは「意図」、解りやすい表現では「生命」があればこその急激な成長なのである。

  

それは世に言われるところの、既に相応に成長したところの「魂」が宿っているからこそのことなのである。

 

宇宙の顕現の仕組みは・・・意識~エネルギー~形態表現(現象) である。

 

 

簡単に言えば、全ての諸顕現にはその青写真たる因(ソース)があるということだ。

 

現れた物事、現象、例えば肉体を有するあなた・私という人間の存在すらも、元の因(ソース)があればこそである。

 

あなたやわたし達、我々自身が灯台下暗しのようなものだと云うのは、その因たる自己に気づいていないということだ。

 

今・在る・・人間としてのわたし・・・を自覚しているところの・・その意識が・・『魂』の存在証拠そのものである。

 

さて、それでは魂とはどういう形なのだろうとしてしまいがちだが、形をあらわすところの原因は、現れることをその本分としている以上、特定の形態があるわけでもない。

  

まずそこに気づかなければならないわけである。

 

しかしながら、単純すぎて意外とわかりずらいし、いつも素通りしてもいる。

  

またそれは、もっと複雑なものの中にきっと答えがあるというような先入観が、

  

永久というほどの邪魔をしてきたからなのだろう。

  

また何かの形態、形、容姿、現れのほうばかりを気にするために、

  

次から次へと現れてくる現象のほうに意識がいってしまうということ。

  

そういう形だけを存在とする観念が主流の文化、文明あるいは惑星生命圏は、いわゆる3次元的世界とされ、

  

その中での人間は、不自由な3次元的空間のほんの一角に過ぎない・・・肉体自己であるわたし・・・という自己認識で終始していたということである。

 

また逆にそうでなければ、この3次元的な世界は続かなかっただろうし、

 

人間から見て不自由な時空を、出来るだけ自由に行き来できるような科学技術、各種の機械・機器なども生まれなかったし、

 

良かれ悪しかれ、繰り返される己を忘れた『魂たち』の喜怒哀楽経験も実際不可能であったわけである。

  

・・・

要は外の世界、3次元的形態結果の世界だけにその意識を向けることで、

 

逆に今までは、自分というものが『普遍的な意識』の”自己表現”であるところの、いわゆる「魂」であるという事実を思い起こさないで来たという事だし、

  

また魂・意識は様々な表現型の因(もと)にあるものであればこそ、3次元的な顕れ以外の、より自由度の高い表現形態もあるということなのだ。

  

いわゆるUFOや宇宙人、宇宙文明などの真偽の錯綜した情報類は、我々自身がそういうより拡大された存在表現形態が可能な、言わば多次元的存在であるということを示しているのである。

  

簡単に言えば、今は、そう3次元的(時空4次元的)な認識で終始していた世界から、より自由度の高い世界に移行する過渡期にあるわけである。

  

それは、また我々自身の自己定義として、3次元的時空の小さな塊であるところの肉体であるという自己認識から、

それを表現する元、因(もと)である普遍意識、あるいは様々に表現型を顕すところの可能な個性をも包含するところの「魂・意識」である・・という自己認識への移行なのである。

・・・

 

我々は今まで生命が偶然生まれて、そして偶然に意識が発達し、そして偶然の人生を経て死んで無くなってしまうものだ・・・というような、そんな漠然とした常識観念、社会通念の中にいたのだ。

 

そんな中で、その自己たる肉体を存続するために・・と称して、社会的な様々な問題や軋轢、闘争なども繰り返してきたわけであるが、その行き過ぎた自己存続、自己利益のみを主眼とした想念で満ちた人間性を「エゴイズム」と呼んできたのだ。

 

一時の儚い夢、短く限られた肉体自己の生命を、一時でも豊かに永らえることが、当座の目標、刹那の目標であったということなのだ。自己利益、組織の利益、そして国益さえもそういうことであり、それが度を外した形が闘争や戦争なのである。

 

世の終末が核による全破壊によってもたらされる可能性が出ている今の文明は、そういうエゴ的なあり方の極まれる姿なのである。

 

それは確かにEGOの文明と言っていいだろう。

 

その文明を構成する人々の自己認識・・・、すなわち自己を何者だとしているかという信念・想念のレベルによって、そこに現れる文明も決まってくるわけである。

 

地球という生態系の、言わば頭脳に相当する人類の想念が、単なる一過性の肉体自己に終始していた状態から抜け出し、飛躍し、

それぞれの『わたし』とは、本来は、より自由度の拡大された『魂・意識』であるという状態に移行することを・・・言うならば5次元への移行と言っていいだろう。

 

意識~想念~エネルギー~肉体表現・・であればこそ、

 

意識の発する想念を本質的に変えることで、当然扱えるエネルギーやその表現型である人間形態の有り方も大きく変化をせざるを得ないという事なのである。

 

世に言われる5次元や霊的進化、半霊半物質という言葉はそれを端的に示す言葉であろう。

 

我々・・人間という、自己の認識を有する存在まで至った者たち・・の存在定義は、

 

わたし・・・とは、常にわたしである・・・と自由に認識できるところの存在であるといえるのだ。

 

そして想念とは、魂意識たる自己存在が、白いカンバスに様々な自己を描くところの、万能の筆のようなもの。

 

根本の想いが変わらずして、その表現型である現象は決して変わることはないということだし、またそれは人間という意識存在の為の安全弁でもあると言えるだろう。

 

今までの泣くに泣けない、また本来あってはならないような、どうでも良いようでどうしようもないような、そんな他者の無明、様々な思いの流れかから、今はその身をゆっくりと引き揚げてゆく必要があるだろう。

 

そして、注意深く自己の想いを眺めつつ、意識内面で気付けるところの、本来そうであるべき嬉しく楽しい自己像を描き続ける必要があるのだ。

 

光りが増すとは・・・人々のそういう新たな拡大された「わたし」への気づきをもとにした、意識、想い、表現の具体的な作業、あるいは基本想念の転換のことと言えようか。

 

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転換 (4)現れている様々な印

2013-04-27 12:48:17 | 新たなる地平線

日本においても確かに戦後レジームと言われるものはすでに終わったのである。

 

戦後を通じて陰に陽に維持されてきた様々な秩序、支配体制の基本形が既に崩れてしまったのだ。

 

社会形態、組織形態は未だ存続しているように見えるが、60有余年の歳月を経てその根幹のあり方がすでに終わりを迎えているのである。

 

1つには、現在起きている様々な想定外の事象に対し、どれにもまともに対応することの出来ない社会の体制や仕組みが否応なくクローズアップされたことで、今までの思考、古い体制、常識とされてきた観念体系の結果としての『虚偽性』が明らかになったという事でもある。

 

また国家負債はその限度を超えつつあり、また日本の国際収支もついに今季は赤字転落が濃厚であるし、原発事故は放置状態であり、また必死で増税をするような政府の台所事情のはずが、なぜかよその国の償還されることのない赤字国債を実に何十兆円も購入するという話もあるからして、まるで辻褄も合理性もうかがえない。

 

・・・ 

不思議なことではあるものの、時を同じくして2011年前後からあらゆる古い仕組みが、あからさまに音を立てて崩れ去っていると思われるのだ。それは何も日本だけではなく、アメリカやヨーロッパも含めて世界的に言えることである。

 

最も容易にそれらを確認できるのは、人々がその意識を重点的に向けているお金経済、そして政治、あるいは社会で起きている様々な現象であるし、さらにそれと呼応しているかのような自然環境での顕著な異変である。

 

人間を取り巻く環境は、実に人間の想念、思考、感情という思念活動によって直接的、間接的に生起しているというのが筋であって、その逆ではないということを理解しなければ、今起きていることが何が何だかわかりようもない。

 

要は人類の意識がそのアンダーグラウンドにおいて大きく変わって来ているということである。

 

意識、想念は常に現象に先立つのである。

 

 

以下誰でも分る可能性のある表層の事象を上げてみると、

 

・・・

 

日本周辺で起きた前代未聞の地震とそれに付随する福島原発事故も、現れた想定外の現象としては最も象徴的であると言えるかもしれない。

 

それらの現象の周囲から焙り出されたものは、有るはずで無かった原発の安全性、放射能に対する新たな危機認識、人工地震の可能性、電磁波集中照射による地殻の歪への関与、小型の核兵器使用の噂、そしてトリガーさえ与えればとてつもない変動に至るレベルにある地殻の動きや歪でもあるだろう。

 

福島の原発施設は、未だほとんど当時のままの姿形であり、炉心冷却を何とか維持することで延命を図るしかない有様である。施設全体を隔離したとか、使用済み核燃料を撤去したとか、当然当たり前のことがなぜか実施されていないのは、放射性物質を容易に扱う事の危険性と現状での人為的限界を如実に示している。

 

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(広島の原爆ドーム)

 

未だに福島から毎日数億ベクレルとも言われる放射能汚染粒子が排出されているのを何かの気のせいにはできるわけもない。

 

何も手を打たないでいれば、そのうち風化し忘れ去られるとでも言うのだろうか。残念ながら出てきた放射性物質の多くがその減衰半減期が数十年~数万年なのである。未だにチョロダシならぬ垂れ流しというから実に凄まじい汚染の継続である。

 

復興に数十兆円かかるという試算から、政府はその後始末だけにお金を投入することの非採算性にビビッて出し惜しみをしているか、あるいはもう諦めているかのどちらかだろう。

  

これは原発の推進理由が既に終わっていることを示していないのか。

それでも経済効率性のため?に再稼働の動きがあるともされているが、噂される東海、東南海大地震の可能性とセットになったような今の情報錯綜等は、まさに混乱の極みにあるとでも言えよう。

  

既にわかってしまったように、放射性物質の本質的な制御も出来ず、事故の後始末も出来ず、放射性廃棄物の保管設備にも事欠き、実に膨大な資金を必要とする高コスト、高リスクな発電方法の、いったいどこに正当性があるのだろうか。

それとも、まだ何か有用な理由があるのだろうか。

 

いいやありはしない、・・・それは既に終わっているのだ。

残念ながら、過度の経済観念に汚染されていない子供達の方が良く分かっている。

 

なんとまた、それを再稼働する動きがあるというならば、それは決して許されざることであるし、それに気づかざる政治・行政も、既に終わっているということだ。

 

『 窮すれば通ず ・・・』ということわざがあるが、窮すること自体をごまかし、それを必死で回避しようとする今の政治経済的な行為からは、決して通ずる道は開けないだろう。

・・・

 

昨今は日常でもメディアでも、太った米国人をほとんど見かけなくなったのは気のせいだろうか。数年前までは大体2人に1人の割合で太ったアメリカンという、良く言えば豊満な、悪く言えばブクブク肥え太ったイメージが当たり前であったし、それがまるで彼の国の豊かさを示しているような雰囲気を醸し出していたが、それらのイメージはいったい全体どこに行ったのだろうか。

 

リーマンショック後に急に民衆の困窮化が進み、全国で4000万人以上、約7人に1人がフードスタンプ(食糧配給券)を受けているというのは嘘ではなかったのだろう。

 

結局はあの経済学者ラビ・バトラの言ってきたような、自由競争のゲームセットの合図、すなわち貧富の差の増大が極限まで行ったのである。

 

なるほど生き残って肥え太った企業が競争しようにも、小金持ちの一般民衆という相手が少なくなっては経済ゲーム自体が終わりなのだ。

 

今アメリカという国体はその隠された巨額の経済損失という大きな穴の開いた身体に苦しみ、やむにやまれずその政治・経済・軍事規模を縮小しつつあり、またその縮小のために様々な種類の国内の締め付けが始まっているし、またそのように食糧配給の増えた国家が今までのように世界を引き付ける為の一大市場であるわけもないではないか。

 

要は、古きアメリカは既に終焉したということだ。

 

そこで新たに出てきたのが太平洋沿岸をブロック市場にしようとするTPP等であろう。

これは米国内市場の終焉に伴い、さらに拡大された市場を確保しようとする行為であるが、如何せん今までのアメリカのような余裕は微塵もなく、企業のなりふり構わぬ生き残りのための、あからさまな収奪主義が明白に謳われている。

 

いつものアメリカ発の、何か目新しい、何か良いことありそうな・・そんな仕組みであろうかというような、植えつけられた淡い期待イメージでそれに参加するならば、今の骨抜きの多くの日本の民は数年後には食糧配給券を受けることになるかもしれないということなのだろう。なるほど予想が簡単で笑う気にもなれはしない。

 

負け組の参加景品として手に入るなけなしの食料は、

「遺伝子組み換えでない」・・というラベルを張っていない・・リーゾナブル?で安い食糧ということかもしれない。

それにしても、一般民衆が困窮化して、いったい全体誰が企業の商品やサービスを購入するというのだろうか。 

自由競争、グローバリズム、規制緩和などを象徴とする拡張型の金融経済資本主義も既に終わっていることに気づかなければならない。

 

・・・

 

昨年末の衆院選挙に不正選挙疑惑が持ち上がっているのは有名な話である。現在、地域の違いによる票の格差の方面からも「違憲」であるという司法判断が出ているが、それよりもっと直接的な得票の操作に関する不正疑惑である。

 

選挙に不正?・・・まさか、そんなことやるはずがない・・という常識的な観念や期待を誰しも持っているわけだが、

先の大地震と驚天動地の原発事故による放射能の危険性の認知が民衆に行き渡り、これではいけないということで少なくとも「反原発の意識」によって多くの人が投票に参加した感があったのだが、

 

あにはからんや、いつの間にか原発を推進する党にすり替わっているような状態であり、これはどうもおかしいということになったわけであろう。・・・自分も含め、投票所に行った多くの有権者はそういう感覚があるはずだ。

 

前代未聞のM9という地震、それに伴う原発の国土や海洋の放射能汚染、じわじわと進む生物環境への侵食・・・・それが解決してもいないのに、いったいどこの国民が原発を是非にも続けて行きたいと主張するのだろうか?

 

普通に考えて、・・・・・あるわけもない。なるほど、これも想定外の人工事象なのであろうか。

 

往々にして政治には汚濁と疑惑はつきものなのは承知の上だが、ところがどっこい、とうとう主権者たる国民を騙してまでも事を進めようとするような『疑惑』が生じてしまっては、形ながらの民主主義も、それがすでに終わっているということになる。

 

国民の代表たる代議士を選定するための選挙、その選挙で生じた不正疑惑は、疑惑自体だけでも致命的なのである。金の貸し借りと同じようにそれが信用されなくなってはもう終わりなのだ。事はあなたやわたし達の知っている政治家たちは良い人だとか悪い人だとかの人情的な問題ではない。

 

そう、戦後創られ良くも悪くもアメリカナイズされた政治体制は、結局のところ金と欲によって・・・・既に終わってしまったのである。

 

問題は今有るべき本質的な変容に気づかず、脅しの種の核を温存しようとしたり、軍事によって国内外を締め付けるような動きに終始するならば、今起きている様々な天地のメッセージ・印に対して対応するわけでもなく、何かの変化に対して「恐怖」で反応する行為となってしまうことである。

 

卑近な例を挙げてきたが、マクロ的な俯瞰によって気づける肝心なところの1つは、

現在生起している様々な人為的、自然的な想定外の事象に対し、どれもまともに対応することの出来ない権威社会の体制や仕組みが、否応もなくクローズアップされたことによって、

今までの思考、古い体制、常識とされてきた観念体系の、結果としての『虚偽性』が明らかになってきたという事にある。

・・・

 

地震や原発事故、また様々な人間社会の騒ぎによって観察できることは、

地殻の大きな変動を含むところの人為的、あるいは地球大自然の大きな動きに対して、それに気づかず、またそれに対応もしようとせず、旧態依然たる自己保身と身の安全の中に没入しつつ、大勢の他者の犠牲の上であぐらをかいているような人間達の、無知で高慢なエゴ的な姿も浮き上がってきたのではないだろうか。

 ・・・ 

これらの事柄を含め、様々な人間世界の様々なイレギュラーな諸現象が目立ってきたのは、今までの古き観念とそれに基づいて構築された様々な制度、体制が、本質において既に終っているということでもあるし、また想定外の事象を含めて、新たな地球、宇宙規模の胎動がスタートしているということなのかもしれないのである。

 

昨今地上を覆う地殻プレートも活発に動き始めているようだし、その地殻の微妙な振動の蓄積による、あちらこちらの土地の陥没、シンクホールも、

そして我々のエネルギーの元である太陽の異変も観測機器の発達だけのせい、あるいは何かの観測間違いでもないはずである。

あるいはまたスピリチュアル系の懸念情報や観念的な大騒ぎで済ませられるものでもない。

 

多分・・・それらは<印>しるし、なのである。

・・・ 

今までの資本主義や物質繁栄主義の結果的な虚偽性への気づきの問題等というだけではなく、それらを含んだ人類の古い価値観念自体が急速に変容しつつあるということでもあろう。

 

また人類は今までのような汚染垂れ流しのままでは存続が出来ないという直観が現実化してきていると同時に、色々な陰謀やら自作自演やら、古いマンガでよくあったような世界の支配やら、いずれにしても、何か大きな転換が差し迫っているということでもある。

 

それらの人為的、自然的異変事象の増加は、ここでいうところの一大転換のしるしなのだと云えるかもしれない。

それはまるで・・・煮込んだ鍋がブクブク沸騰してきたような、あるいはコップの水が溢れだしたような、パンツのゴムが切れてしまったような?、さなぎが蝶に変身しているような、嘘が人前でバレテ顔が真っ赤になったような・・・・自転車が脱輪して放り出されるような、・・・例えは変だが、要は何かが急変しているような、そんな感じではないだろうか。

 

しかしながら、その地球全体規模の変化あるいは「転換」とは、実のところ、単なる安易でお粗末なSF映画での物質的な一大爆発や世界の崩壊等という終末ではあり得ず、

 

それより実はもっとも苦しいかもしれないところの、

人類のこころの中で歪み切ったエゴの解消とその昇華に他ならないだろう。

分る人には分るけれども、世の中で変えることが最も難しいのは、ビルや建物、金やなどではなく、人の心・・内面なのだということだ。

 

様々な虚偽性から目覚めた人びとは、それがもっとも困難とも思えるところの、自らの想念の浄化と昇華を果たさねばならないはずである。

 

他者は自己の「鏡」のごとくに映りだすように、自己の魂を「磨き」上げる時なのである。

  

人類の蓄積してきた、ある意味で経験の『肥やし』となる歴史上、精神上の様々な『歪』は、人類それぞれ観察点によって、それを精神的な昇華でもって有意味に解消されることがその目的であり、

 

物質形態レベルでの安易な暴発、爆発や滅亡や崩壊によるフィナーレを求めるならば、そのサイクルを再びまた何処かのステージで行わなければならないことを意味するのである。

 

そうでなければ、やむかたなくこの地球という次元舞台サイドでの浄化、『一大転換』が起きても致し方があるまい。

・・・

 

今までは、人類の霊的進化の夜明け前・・・とはよく言われたけれども、

 

色々な汚れた想念、その結果である騙しや嘘や隠しという現象が、多くの人々の知覚上に現れてきたということは、

 

自己の中にあるエゴや心的歪が外に投影されてきたということでもあり、

 

今はもう、それが夜明け前どころか、実のところ、ようやく、

 

既に闇夜は終わりを告げ、この時空のあちこちに光が煌々と差し込んでいるが故なのである。

 

・・・

それぞれの魂たちの演じるこの地上舞台は、いずれにしても新しいステージに変容しつつあるということだ。

 

銭金の乱舞する浮かれ囃しや、経済崩壊の前の恐怖の乱痴気騒ぎ、人の命財産を犠牲にした金儲けである戦争と戦争の噂などに意識同調せずに、

 

しっかりと意識の眼(まなこ)を覚ましているべきである。

 

今はそういう時なのである。

 

(転換・・・了)

Top2

 

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転換 (3)最後のバブル

2013-04-24 11:48:11 | 新たなる地平線

古い時代を生きてきた人ならば、今の日本の政策が経済成長を促すどころか、実際にはインフレ方針であることが理解できるだろう。

 

経済成長は新しい製品、サービスによって利益を上げることで、得られる利潤が国内に貫流することを意味するわけで、単にお札を刷ったところで得られるのは、相対的にお金が増えただけ、つまりインフレということになる。

 

解りやすく言えば、お金の価値が高い「デフレ」から、お金の価値が低い「インフレ」への転換ということである。

 

1950年~1980年代のような右肩上がりの経済成長にイメージをだぶらせているならば、それは決してあり得ないのである。

実体経済の若々しい成長の伴わない株や土地の高騰は、それはすなわちインフレであり、要するにお金よりも物の価値が高くなるということだ。この場合、国の借金自体も相対的に目減りすることになる。

 

飽和した国の負債をインフレによって相対的に軽減させ、そのインフレの効果で仮の景気昂揚感を醸し出し、また増税の為の一時の数値的改善を図り、合わせて国民の残りの金融資産を株などの市場に吐き出させる、・・そんな目的があるということに気づけるだろうか。

 

・・・実に解りやすいではないか。

 

感情的に良いとか悪いとかいう事ではなく、我々の政府や銀行は、今そういう流れを作っているということだ。だから世界も今は固唾をのんで見ているということであり、それほど激しい非難をしていないというわけである。

 ・・・

今まで日本の公定歩合を低く設定しつつ、庶民という預金者にはその利率の還元をすることもなく、逆に金利の高い国々での運用利益を創出してあげてきた日銀が、今度は一転日本を中心に、お金が市中、世界に大量に流れますよ・・・とアナウンスしているのだ。

 

世界で最もデフレで金利の低い国、世界経済の錨、アンカーのような存在であった日本が、一転してインフレに転じたわけであるからして、その効果は絶大なものとなる。

  

日本にある信用と残された債権を元手にした最後の一大バブルの演出と言っていいだろう。

 

国が発行する国債・公債を、1クッションおいて中央銀行が買い取り、すなわち札束を国庫、市中に流すのである。国債・公債という国の信用だけの約束手形が、うちでの小槌のようにお金を出すわけで、一時の間、これを元手に色々な経済方策を打てるということであろうが、

 

裏読みをするならば、それで国民への借金を返すというよりは、世界貢献、安全保障とか言ってどこかの国の借金の肩代わりをもするのであろうし、世界の債権大国である日本の金融資産を使ったインフレ膨張風船(バブル)破裂の導火線にもなる。 

・・・ 

ことはすごく単純なのだが、問題は市中にお金が流れることで、今までのデフレの窮屈観で鬱憤のたまった庶民は、そこに”何かありそうな夢”を勝手に描いてしまい、またメディアによって乗せられることで、我も我もと欲望の踊りに参加し、一時得られる快楽と、その後にセットでやってくる嘆きを体験することになるわけだ。

 

特に、何時の時代でも、庶民がなけなしの預貯金を担保にして、当たり前のように株取引を行うようになってはもう先が見えるということだし、それはまるでおいしいエサに釣れられて囲い込みの中に入った魚群のようなものであり、そのうち投網が締め付けを始めることになり、間一髪逃げおおせる魚は意外と少ないに違いない。

 

例えば、これから少し経ってから各メディアや雑誌、新聞等で、株やFX等で利益を上げた人々・・・などという報道や記事が目立ってきたら、それはもうすぐ祭りの終わりの予兆であることを忘れないでおこう。

 

今回の明らかに急に設えられた人工的な風潮や相場には決して手出し無用なのである。

 

今までバブルと言われる時期は何度もあったわけだが、そのすべてがはじけ飛んでいることに、もう気が付かなくてはならないはずである。

 

必ず、山高ければ、海深しなのである。

 

・・・・

これらすべては、ゼロサム経済と言われて久しい金融資本主義的な経済体制が、既にほころんでいるという証拠である。

 

そのきっかけは2008年に表面化したリーマンショックを代表とするデリパティブの失敗にあるはずだ。その負債はアメリカの国庫の放出と資金放出にも拘らず、未だ解消されておらず一説によればその負債残高だけでも1京円を下らないと言われている。

 

また今回どうしてあの米国が10%の予算削減をせざるを得なくなったのか、まさに前代未聞のことではないか。

 

要は、既に世界経済に修復不可能な大きな穴が開いてしまっているということなのだ。

 

なるほど、そこは金融のプロ中のプロがその巨額の負債を様々な形で隠ぺいしているわけだが、お金の貸し借りは信用と契約がまさしく命であるため、これを反故にすることは決してできない相談であろう。

 

昨今キプロスで起きた預金封鎖は、他所の小国で起きた偶然の出来事などではなく、どうあっても返済契約を履行するように強制されてきているという証であろうし、中東でズルズル起きている紛争や火種は、赤字補てんのための資源や利権の収奪への魂胆が透いて見える。

・・・

信用と契約でできた金融商品や運用の失敗に対して、ごめんごめんでは済まされず、またその信用と契約によって簡単にチャラにできない宿命で自縄自縛にあるということだし、これはまた、

 

金で出来た世の中が、まさに金で潰れる寸前にあるということである。

そのトリガーはやはり日本が握っているということかもしれない。

 

負債には必ず金利が付き、その金利によって膨れ上がった負債額が一定水準を超えるとデフォルトという事になるわけだが、もしそれを行うならば、信用と約束で出来上がった経済構造そのものが崩壊することになる。もう誰も借り手を信用しなくなり、約束・契約などすることはない。

 

今までのお金による世界・支配構造が、それなりに有していた信用というものを失うならば、多くの一般民衆はそのような古いやり方が完全に間違っていたとうことを苦痛を伴って、嫌でも知ってしまうことになるだろう。

 

右に左にと自己保身に明け暮れてきた民衆も、その自己存続そのものの棄損に伴う苦痛によって否応なく目覚めざるを得ず、結果としてその意識が変わらざるを得ないという事である。

・・・

そう・・、もうじきお金の役目は終わりを告げることになるだろう。

逆にすでに、人類には生活物資を循環させるためにお金に頼る必要のない技術がある。

 

無いのは、それがすでに可能であるという明確な意識と、自然の中での生命達の共存、共生のための新たなコンセンサス作りなのである。

 

その間に地球の生態系が癒される過程に入れば良し。

 

万一、今までのような生態系との調和を欠いた経済が、何かをきっかけで急転直下崩壊し、人間の生産、伐採、汚染排出の活動が一時でも低下せず、このままGDP、GDPの掛け声で突き進んでしまえば、今起きているところの大自然の控えめな回復作用は効果を発揮できず、

 

時至りて、半ば強制的な地球の自己治癒が行われることになるならば、それはもうお金の有るなし、返すの返さないのという話では済まなくなるだろう。

 

昨今急に増えた感のある地震や気象異変、隕石の増加は何を示しているのだろうか。それらすべてが人工のもの、あるいは新兵器によるとでもするのだろうか。

 

 

事はいかにあれ、人類の知覚上に現れてきた様々なイレギュラーな現象は、何かの大きな転換が差し迫っているという印に他ならないと・・・受け取る鋭さと、謙虚さが必要ではないか。

 

その転換というものがカタストロフィー的になるか、あるいは一大昇華となるかは、人類の総体としての想念が、あからさまに地球の意識体との同調から外れたときか、あるいは同調昇華を維持できたかによる違いであろう。

 

地球は決して単なる物質の塊ではないわけであり、

人間と同じく、進化をしている物質表現形態をも含む意識体であって、

あなたやわたしたちがその身体を心地よく維持しようとするように、

ある時点に至れば地表面の汚れを一掃してしまうことにならないとも限らないのである。

・・・・

さて、あなたはどう感じているだろうか。

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 

 


転換 (2)溜まった歪の解消時期

2013-04-22 11:52:04 | 新たなる地平線

(つづき・・より)

・・・・・

飽和した国家負債、返すことのできない負債・・・なるほど、政府役人も、政治家もそれほど騒いでいないようにみえるが、彼らも知らないのだろうか?

 

いやいや確り知っているのであり、知っているからこそなりふり構わぬ消費税増税を計っているのであって、 

また知っているからこそ、国民に番号を割り当て、まるで重箱の隅をつつくように、少しでも税収をあげるように動いているのである。  

知っているからこそ、銀行の預貯金の動きを制限しようとしているのだ。

 

要は、担保になっている金融資産を勝手に沢山引き出されては困るからである。

おれおれ詐欺、振込め詐欺の対策とか何とかの理由で、何年も前から個人が1回で下せる預金額に制限枠が出ているし、 

昨今では、キプロスの預金封鎖の後に、銀行での10万円以上の出し入れには理由説明が義務付けられたのは記憶に新しい。

 ・・・

身近に聞いた話では、最近あるお婆さんがゆうちょ銀行で自分のお金をおろそうとして、窓口でお金の使途を聞かれたそうだ。 

・・で、そのお婆さんは憤慨して窓口の人に言ったそうだ。 

「自分のお金を出し入れするのに、どうして他人にとやかく聞かれるのか」・・・と。

そりゃそうだろう、自分が汗水流して貯めたお金、あるいは年金・預貯金の使い道を、預けてあげている・・はずの銀行にどうして使用用途を説明しなければならないのか、極めて変な話である。

 

しかしながら、実のところ我々が大なり小なり預けているお金、預金、あるいは生命保険の預け入れ金、年金積立の多くの部分は、すでに投資の担保にされているのである。

要は質に入れられているということである。

質草ならぬ・・・お笑い草である。

 

また一定の部分がすでに使われてしまって、そのうち、多分・・もう還ってこないということだ。 

え~、マジ?・・であるが、すでにその多くが・・・政府に使い果たされている・・・のである。

 

どこに使われているのかと言えば、その象徴は記事の最初に出した財務省の公債残高なのだ。 

いわゆる公共財、道路や橋、公務員給与、安全保障の一環としてのODA、国内経済活性化のための補助金、米国債の購入、円高是正と言われるドル購入等に使われていたということだ。

 

国民の金融資産を担保にした投資という名目であるが、これらほとんどは塩漬け、あるいは使い切りであり、またすでに形を変えてしまっているわけである。

 

例えば、すでに出来ている橋や道路に向かって、「なあ、お金返せよ」とは言えないし、

何をするかわからぬやくざな国の政府に向かって、「やっぱあんたの国の債券購入やめたし~、元本引き揚げたいわー」等とは言えるわけもあるまい。

 

そういう不可逆的な投資に・・・庶民の預金が勝手に使われているわけであり、 

また庶民の貯めたものが、いつの間にか国の予算に組み込まれているというわけである。 

ある意味で、なかなかうまくできている・・とも言える。

 

国の予算での使途対象は当然公的なものであり、利子などかっちり生み出せるはずもなく、そのほとんどが公的資金としての使い切りである。補助金や色々なばらまきも、マクロなお金の社会循環の試行であり、効果のほどはわからないということなのだ。 

政府が利子を生み出すような営業をやるわけでもないのは当然のことである。 

よく言えば武士の商法のようなものであり、悪く言えば勝手に人のふんどしで相撲をとっておいて、それもいつの間にか質に入れられていたりするわけだ。(笑)

 

利子を付けて返しますから・・と言いつつ、いつのまにか庶民、国民の財布の中身を使っているということであり、あにはからんや、もうすぐ利子も払えなくなる分岐点にきているということなのだ。 

もっと悪く言えば、TPPなどというわけのわからない条約に無理やり参加しようとする姿勢は、まるで今度は 「日本国民の働き」 を質に入れようとする行為と言えなくもない。

  

例えば、こういうマクロ的な一連の流れや仕組みに気づいていただろうか?

 

・・・ 

庶民がせっせと働いて溜まったお金は、給与振り込みなどでほぼ自動的に銀行に預けられる仕組みだろう。 

預け入れられたお金は、我々の汗水たらした個々人の獲得した余力、利潤であり、本来出し入れ自由で何に使おうが誰に断る必要もない。 

しかしその預け入れられた預貯金、生保への積立金、年金などは、形を変えて投資をされているということを知るべきなのである 

当然銀行の生業からして言えることは、集まったお金を別の何かに投資をして利子を生ませる必要があるわけだ。 

銀行は、一般には企業や商店に貸付け、運用してもらい、利子をつけて返済してもらうことで利潤を上げるわけだが、利益追求の資本主義的原理から言って、より安心で、さらに投資収益額の大きい商品を探すわけである。 

そうした投資先のラストリゾート、最大、最後の投資先が、国の政府機関ということである。 

国の政府機関は確かに最大の信用を誇っているのだが、

結局は営利団体であろうはずもなく、ましてや利子を生み出し、

元本まで増やすような直接的な投資と回収に邁進するわけにもいかず、

当然ながら赤字国債等が増えてゆくことは火を見るよりも明らかなのである。

 

・・・

いま世界で行われている国家ぐるみの金融の騒ぎは、全て同じストーリーである。

 

そして、世界で色々行われていることは、すでに使われてしまった金融資産を、いかにまだあるように見せかけつつ先延ばしできるか・・ということなのだし、

様々な国家や企業がそれぞれ紛争や闘争、条約の投網、資源地域の簒奪意欲を示しつつ、なんだかんだとあらん限りのことをやりつつ、お金の流れを自分の方に引き込もうという魂胆が見えている。

 

無理やり復帰して出てきた感のある今回の自民党、地震の巣の上にある危険極まりない原発再開の動き、またその何とかミクスという円安政策や、為替の上下、株の買上げ等の操作等は、 

もう何でもやるしかないという危機感をさらに通り越した、ある意味でやけくそに近い実験のようなものであろうか。

 

EUの負債問題、キプロス預金封鎖、ギリシャやイタリア、その他の国のデフォルトのうわさ、日本の周囲での紛争の可能性、日本たたきのデモ、戦争のうわさ、核の脅し、兵器の購入、TPPという、国家の犠牲だらけのブロック経済化なども、そういう何が何でもの生き残りにかけるような、そんな流れの中で起きているのである。

・・・

これらの今起きている流れは、今まで何千年に渡って溜め込まれた、自己保存に特化した物質繁栄主義で歪んだ人類観念の噴出とその濁流の一環なのである。

 

日月神示にもあるように、まさに金でできた世の中が、金で潰れる前兆でもある。

またカルマの解消とも言われるもの、歪の解放とも言われる現象は、何も火山の噴火、溶岩の噴出、地震のエネルギー解放のような物理的なカタストロフィー現象だけではない。

 

・・・・

今までの資本主義的な政治経済の仕組み、そしてそこから得られる利潤を集めて肥大した企業や金融の仕組み、そしてどこか先導され、扇動されつつもそれら物質面での繁栄を良しとしてきた民衆の価値観念が、

伸びきった古いゴムひものようにすでに飽和してしまい、もう何年も前から、あちらこちらでほころび始めているということである。

 

これらは政治や経済という側面ではあっても、人類の想念形の歪の解放の一環で出ている現象なのである。

 

そして2011年前後あたりから、その歪が日本においても「一気」に噴き出してきているということなのだ。

 

また良し悪しは別にして、また色々な思惑によって動かされているとはいうものの、とうとう日本が再び動き出しているということは、知らぬ顔を装ってはいるものの、欧米諸国にとっては実はトラウマのようなものなのである。

  

(つづく)

 

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今回も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 


転換  (1) 飽和した国家の負債

2013-04-14 18:56:49 | 新たなる地平線

単なる経済の話なのだが、どうしても言っておきたいことがあって勝手ながら記事にした次第である。

 

ここに日本の財務省のデータがある。

http://www.mof.go.jp/gallery/20110308.htm

国の財政を預かっている政府機関の公示なので、そんなに虚飾はないだろうと思うが、

要は公債残高が昨年度までで709兆円あるということ、税収の17年分ということのようだ。 

それは子孫に大きなつけを残す・・・ともなんというかはっきり説明されている。

 

公債とは主に国債等であり、これは政府が主に国民から借金をしているということである。

 

ちなみに日本国民の全ての金融資産は約1400兆円だとされているが、要するに、 

大体その約半分が国の公債、国債に投資されているとも言えるだろう。 

多分あなたやわたし達のなけなしの?預貯金、生命保険、年金等の積立は、すでにその多くがそういうところに使われている。  

あなたやわたしが個人で国債を買いに行っているわけではないから、そんなことに気づかないわけなのだが、事実はそういうことなのである。 

 

日本人の全金融資産が約1400兆円(ローンなども含まれるので実質は1000兆円程度と言われている)、公債残高が約700兆円・・・国債の買取りの9割以上が国内の金融機関であることを考えると、最低限、預貯金の半分以上は日本の公債に投資されているといえるわけだ。 

つまり、多くの国民が銀行経由で日本の国債を購入しているのである。

 

そして国債の発行で集められるお金は政府の予算に組み込まれているのだが、それ自体が所謂「火の車」になっているのである。

要するに、我々の預貯金は、その「火の車」に投げ込まれているということであって、多分・・、もう還ってくることはないということだ。

 

なんとまあ、いつの間にか酷いことになったものである。

 

しかしながら、そう・・、ここにも転換の予兆が読み取れるのである。

 

・・・ 

もう多くの人が知っている・・? と思われるが、誰かが良いとか悪いとかの話は除外して、 

これがどういう事か、国の借金の状態がどういうありさまであるかをザックリ説明するならば・・・、

 

例えば誰かの年収入が400万円とするとその人には、400万円×17年分=6800万円の借金があるということである。 

月給・ボーナス合わせて年収400万のサラリーマンがなんと6800万円の借金をしているようなものだ。サラリーマンが家や土地を購入する場合の借入金の目安は年収の4倍程度とされているのだが、この17倍とはもうやけくそのようなものである。 

 

わーおう!

 

まあ個人と国は違うという事だろうが、借金とその返済の仕組みが違うわけもないし、借りたものは返さなければならない・・・という事になっている。

 

もう少し立ち入った計算をしてみると、

  

借金には返済利子が付くわけであり、たったの1.5%が利子だとすると、年間の利子返済額は 6800万×1.5%≒102万円である。 

つまり年収入の400万円のうち102万円が利子返済で消えるということだ。 

また利子だけ返すならまだしも、ついでに当然だが、元本も償還・返済しなければならない。 

元本の年間返済が仮に借金総額6800万円のわずか3%だとしても、6800万円×3%≒200万円となる。 

毎年の利子返済と元本の返済を合わせて、100万円+200万円=300万円 の返済が発生するということだ。 

なんと、400万円の収入のサラリーマンが300万円を差し引かれて手取りが100万円ということになる。

 

うわ・・え、マジ?おいおい、それではすでに破産だよ。 

 

そんなことで生活できるわけもないではないか、何かの間違いだろう?としたいところだろうが・・・、 

しかしながら、そんなことあるわけがない・・・という常識はもう通用しない1つの例である。

 

実にオー・マイ・ゴッドなのだが、我々B層はそれすらも知っていないのである。

 

せいぜい言えるのは、

 

そりゃ政府の借金だろ? 俺たちには関係ないねえ

・・逆に政府が国民に借金しているわけだから、 

俺たちは債権者だという事だ・・・という感情だろうが、実際はそうではない。

 

政府は国の代表機関であり、役人、政治家は国民の代表なのであって、

 

全ての責任は・・・主権者である国民が負うという寸法なのである。

  

国民が選挙で選んだ政治家さんたち・・・昨今は全くそうでもないが・・

 

・・・が承認したことは、国民が承認したことになるのである。

 

それが例え間接的であっても、最終承認者は・・・天皇陛下でも総理大臣でもなく、主権者たる国民であるわけなのだ。

 

膨大な借金の意思決定をしたのは、要は主権者である国民という事になるのだ。

 

それってマジ?・・・・・なのである。

・・・・・

GDP世界に二位とかいう夢を引きずっているのだろうが、日本政府の負債は風前の灯のような状態なのである。 

 

前記の国の公債、国債の残高が700兆円だと仮定して、年税収40兆円ならば、40兆円の税収の30兆円が借金の返済に充てて残るは10兆円の予算・・?・・・ではやって行けるわけもない。

 

もう少し言えば、かなり荒っぽい計算に過ぎないけれど、 

年収(税収)=40兆円

負債(公債)=700兆円(多分控えめだが)

年間利子=10兆円(利率1.5%と仮定)

元本返済=21兆円(元本償還は全体の3%と仮定)

 

とすれば、年間の税収40兆-10兆円-21兆円=残り9兆円である。

 

このザックリ計算では、税金で40兆円あるはずの予算が、必要な返済額を差引いたら9兆円になっていたということである。

 

ち、ちょっと待って、・・これは一体全体どうしたことか。

 

個人であれ、組織であれ、これは破産に相違ないだろう。

   

それとも何かの、あーら不思議というような方策があるのだろうか。

 

それがあれば元々借金などするわけもない。

 

・・・

ところがしかし政府内では、表面上は未だそういう大騒ぎにはなっていない・・・ように装っている。 

それはまだ何とか年間予算が組めるからなのである。 

要は予算の不足分を新たに借金してそれで国家予算を組んでいるという事である。 

例えば不足分が31兆円であれば、それをまた新たに借金しているわけで、その新たな借金を組み入れて毎年の予算をねん出して、急場をしのいでいるわけである。

400万円の収入のサラリーマンが300万円の返済で差引かれ、全く予算ももへったくれもないために、新たに300万円以上を「借金」しているのと同じなのである。

 

利率や元本返済率等の要因が絡んでいるために、必ずしも上記のような単純計算ではないものの、借入金返済のために新たな赤字国債発行、借入を行なっているのは間違いがないし、そういう補填が必要なのは、税収入の大きな部分が借金返済で消えるためなのだ。

 

今年度の政府予算約90兆円では、約40兆円の税収入に対して、赤字国債発行額は約50兆円とされているようだが、これは50兆円の新たな借金のことなのである。

 

http://www.kh-web.org/fin/

・・・

おいおい、借金を返すために借金をしているのか?・・ということになるし、こりゃダメだと思わない方がおかしい。 

 

実は20年も前から、すでに正常な借入・返済の可能なプロセスから逸脱してしまったのであり、 

前記の財務省のデータを見るならば、1990年代頃からの公債残高の<加速>が読み取れるはずである。

 

カーブの時間での微分値が、平成5年あたりからプラスに転じているのだが、これは加速度がついたという事だ。  

また昨今のカーブは4,5年前からまた再び加速に転じていることがわかるだろう。

 

・・・

本当はゲームオーバーなのであるが、まさか政府がそういう宣言をするわけにもいかず、国の財政赤字がかなり増えたという言い方で終始しているわけである。

 

そして、その財政赤字のファイナンスは誰がやっているのかといえば、そのほとんどが国民の金融資産で行われているということだ。今までは、わけのわからない外国が金を貸しているというわけではないのが唯一の救いというか不幸中の幸いともいえようか。

 

しかしながら、その財政赤字の補填のための担保としての国民の預貯金、積立金、年金等はすでにもう、その担保限度まできたということである。

・・・

国民金融資産の1400兆円、実際にその中のローンなどを差引くと1000兆円程度になるだろうか、その1000兆円と、政府の公的債務の額がほぼ同水準になってしまったということである。

前記の国債、公債700兆円を含む政府の借財は大枠で約1000兆円を超えてしまったのだということだ。

損益分岐点ならぬカタストロフィーへの転換点、具体的には「借金」の額が「担保」を上回ってしまったということである。

 

今更言う事もなく既にわかっていることは、

 

先延ばしの為の目先の方策、例えばあべのミクスなる急進作業は、インフレ政策と期待される表面上の税収の増加、そして直接的な内需拡大・軍備拡張、国家による金銭カンフル剤投与、刹那的な需要創出である。

 

 

結局のところお金の話であり、全ては国民の金融資産の最後の使い切りなのである。

 

 

もし仮に清算が行われたら、担保を差し出すことで新たな負債はないかもしれないのだが、その代わり余裕も余剰もない、まるで裸一貫になるようなものである。仮に金銭面でチャラにした場合、何も残らないという段階である。

  

そう、現実というフィルムのコマ送りのちょっと先にあるのは、まるで戦後の焼け野原同然なのである。

・・・

今まで日本の国債発行は国民の金融資産内では大丈夫、それが他の国と違うのだという言い方をされていたのだが、とうとうその国民資産というバックボーンから、政府の負債総額がはみ出し始めたということなのである。

  

またこれ以上は政府として借金が出来ないということであるし、また外国から借り入れるにしても金利が低すぎて人気がなく、逆に金利を上げれば破綻に直行する、そんな時なのである。

 

経済状況からいっても、こういう実に特殊な時期を知覚している庶民は意外とそう多くはないかもしれない。

・・・・・

(つづく)

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。