気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

セイラー・ボブの教え(2)エゴは作り話

2012-02-26 10:07:51 | 覚醒意識

(以下は、「ただそれだけ」 カリヤニ・ローリー著(高木悠鼓訳)からの抜粋である。これ以上にないようなシンプルな言葉で、わたしとは何かを説明していることに驚くべき英知を感じないではいられない。)

 

私たちの問題は、二歳か二歳半頃に身につけた一個の分離した実体、すなわち「自分」という考えから起こります。

あなたは、「自分」とか「私」という言葉に対して何かできるでしょうか?

それについてできることはあまりありません。

 

そこで、私たちは、出来事、経験、条件付け・・・・自分に起こった物事・・・・を加えるのです。

そこに信念のエネルギーが入り込み、それは見かけ上、具体的なものになり、それが現実に存在しているように思えてきます。

それがとかエゴとか呼ばれているものです。

それは、自分自身はこうだと信じるための参照点となります。

 

何かを見て、私はそれを好きになります。それを好きになるとは知るはずもありませんでした。

まあ、それが以前に起こったことであれば、私はその過去のイメージと結びつけて、「これはいいな」というのでしょう。

やがて、その「良いこと」が過ぎ去ろうとします。

でも、私はそうなってほしくありません。

そのとき、何が起こるでしょうか?

私がそれらを本当に好きなとき、わたしは何をするでしょうか?

わたしはそれらが去るのに抵抗しようとします。抵抗とは何でしょうか?

抵抗は葛藤であり、病気です。(dis-ease:安らかではない)

もし葛藤の中にいれば、あなたは不安です・・・・こころ安らかではありません。

それが病気です。

 

もし何かが起こって、私がそれを好きでなければ、私は再びこの記憶の自分を参照します。

それを好きでないとき、私は何をするでしょうか?

私はそれを押しやり、取り除こうとします。またもや、抵抗、葛藤、病気です。

 

自然界においては、正反対のものからなるペアが常に作用していて、そうした作用なしでは、どんな二元性もありません。

これらの正反対のものは互いに対立するものではありません。

相反する立場はなにもないのです。

もし今が春なら、まもなく夏がやってきます。

春は「夏であったらなあ」とは言いません。

それは自然に、何の対立もなく動いていきます。

満潮は引き潮と戦いません。嵐がやって来て、色々なものを吹き飛ばします。

しばらくすると嵐は静まり、自然は徐々に自らを更新していきます。

正反対のペアはたえずそこにありますが、何の対立もありません。

 

私たちに関しては、正反対のペアは常に対立します。

なぜなら、私たちは物事を、こうあるべきだと自分が考えたり、信じたりしている心のイメージにたえず関連づけたり、照らし合わせたりしているからです。

・・・・つまり、私たちは物事をあるがままにしておかずに、物事が、こうあるべきだと自分が考えるやり方に従うことを望むのです。

ですから、私たちが抱える問題はすべて、実際は関係性の問題、すなわち何と関係するかという問題なのです。

・・・・それは、過去の出来事や経験にもとずく架空のイメージだということを理解するとき、人はみずから落ち込んでいる罠に気づくのです。

 

このことは、偉大な宗教的伝統の中でも言われています。

問題は、利己心、自己中心性、自己意思です。

あなたはこのエゴを昇華し、破壊しなければいけないと教えられます。

あなたはそれについてあらゆる種類のことを行ない、そうしたの中で、なにが起こるでしょうか。

あなたはそれに対して何をしているのでしょうか。?

それは、エゴがエゴに対して戦っているのです。

 

それを注意深く見れば、エゴとは作り話だとわかるでしょう。

それは決して存在したことはありませんでした。

それは決して存在することができないでしょう。

 ・・・

そのことは、今ここで、実にシンプルに指摘することができます。

誰もが今ここで見ています。あなたはまったく努力なく見ています。見ることが進行しています。

また誰もが聞いています。見ることが起こっていて、聞くことが起こっています。

自分自身に尋ねてください。

「私の目が私に見るように言っているのだろうか?」と。

 

さて、わたしの目は、「ボブ、ほらこれをを見ろ、あれを見ろ」とは言っていません。

目を通じて起こっているのですが、それが思考によって「私は見る」「私はあれを見る」と翻訳されているのです。

聞くことが耳を通じて起こっています。

耳は、私に、「私が聞く」とは言いません。

再びそれは思考によって、「私が聞く」と翻訳されるのです。

ですから、、目は「私は見る」とは言わず、耳は「私は聞く」とは言わないのに、思考が湧き起ってそれを翻訳します。

  

では次のことを自分に尋ねてください。---

「私は見る」という思考は、実際に見ることができるのか?

注意して観察してください。

そうすれば、思考が見ているのではないことをあなたは理解することでしょう。

「私は聞く」という思考が、実際聞くことが出来るでしょうか?

思考が行うのはだた翻訳することだけです。

このエゴとは考えられたもので、見たり、聞いたり、気づいたりするパワーを持っていないのです。

 

・・・

このように、虚構のエゴとは、私たちが長年束縛されてきた一つの思考なのです。

 

エゴとは、選択ができ、自分の意志を持っており、たまには悪運に見舞われることもある一つの実体である、という信念は、ただの思考にすぎません。

 

それが作り話であると気づくとき、いったい何が起きるでしょうか?

自然に生きることが、今までとにかくやってきたように続いていくのではありませんか?

それがあなたを呼吸させています。

それが、あなたの心臓を鼓動させています。

それが、あなたの髪の毛や爪を成長させ、

食べ物を消化し、細胞を新陳代謝させ、考えること、感じること、感情、あらゆることが、まったく努力なく起こることを可能にしています。

 

もし、こうした身体機構が「自分」とは関係のないものだとすれば、そのときなにが問題ですか?

もしそれはもっと違ったふうであるべきだ、と考える一個の実体と関連づけられないかぎり、良い悪いは問題ですか?

そのことは、問題がもう起こらないという意味ではありません。もちろん問題は起こるでしょう。

なぜなら。自然の中では、正反対のペアがたえず機能しているからです。

でも問題が現われてきても、それらはそのあるがままに見られるのです。

 

物事を固定的に捉えない意識があれば、問題は動いていきます。

私たちがしがみついたり、執着したりするとき、問題はそこに留まり続けます。

抵抗が続いているため、それは自由に動けないのです。

 

私たちの抱える問題のすべては、一個の分離した実体が存在するという信念から生れる、というのはそういうわけです。

それが決して実在するものではなかったことに気づけば、物事はただそういうふうに起こってきたのだと理解できるでしょう。

 

ーーーー以上「前記文献P127ー131」

 

エゴまたは自我といわれる、それぞれが独自でバラバラであると感じている自己アイデンティティとは、まさに思考と記憶によって出来あがっている。

 

肉体にある眼、耳、感触などの知覚の窓が、個人個人別個であると観ている・・その思考や観念と、 そのような観念フィールドで行われるあらたな体験と想いによって、さらに、自らを個別の存在であるとダメを押しながら社会で成長してきたと言うことである。

 

外に、あるように見える世界に、無理やり自らを同化させてきたということでもある。

 

確かに、・・・つらくないはずがないではないか。

  

我々が、世界で最も大切にしているところのものは「自分」というものだろうか。

 

何を差し置いても、利他や奉仕を考えるにしても、「自分」というものをまず第一に考えているはずだ。

 

個人とは、自由と民主主義でも保証されている・・とか、確かにそうであろう。

 

しかしながら、そういう個我を推奨することの先にあるのは、

 

これこそ絶対に正しい、当り前だ、当然だと思い、そして固執し、個人我という<砦>を築き上げることである。

 

その個人個人の砦が重合、離散しつつ様々な社会、世界模様を変化させるが、個人という砦であるがために決して調和することはないはずだ。

 

それが進化だ、人生だと言わんばかりの極めつけの自己主張までのぼせ上がり、極端にはガチンコ主張同士がスパークして破裂すると言われてもいる。

 

世に言われるアルマゲドンなどという歪みきった伝統的思考は、個々人のエゴ同士で作りあげた一大虚構文明の崩壊を意味しているのが良くわかるだろう。

 

冷たいエゴ同士が権利と自由を保障され、競争のなかで何か素晴らしいものが生れるという 歪みきった<思考>のなれの果てである。

 

歪みきった思考に自分を合わせて、その為にこそ怖れ、おののき、右往左往することの自作自演の愚かさに、もう自分自身で気付かなければならないのではないか。

 

それが言わば西洋的近代文明の正体であり、その一見合理的と見える科学思考から得られる、あるいは製造技術的な成果による、唯物史観的な物質の多様性の毒酒に、あなたも私達も悪酔いしていたかのようである。

 

しかしながら、

 

・・・・その長かったエゴの集合せる虚構の宴(うたげ)は、今もう終わりを迎えている。

 

その虚構の宴に参加していたのは、思考でできた「架空」のエゴ体であったのだが、それゆえにこそ、エゴという鬱屈とした思考で醸造された毒酒をも味わうことが出来たとも言えるだろうか。

 

嗚呼、なんという魂の学習場であることだろうか!

 

しかしながら時は過ぎ、魂たちを包む夜明けの光が差し込み始めた、今。

 

我々は、もう長い長い転生の夢から目覚めなければならない時期にある。

 

あなたは、もう気づいていることだろう。

 

 

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セイラー・ボブの教え(1) あなたは誰か?

2012-02-16 09:31:19 | 覚醒意識

セイラー・ボブ・アダムソン(1928~)はオーストラリアに在住の霊的教師と言われている。

 

若い頃は生活の為に水兵になり、こころを痛めて除隊し、羊毛刈りや船仕事で生計を立てるうちに、海の荒くれ仲間に合わせてアル中になってしまった。

 

周りの人々の気遣いや自助努力を通じてアル中から脱すると同時に、霊的な求道心が頭をもたげ、インドでの瞑想や修行をしたという。

 

そして、師であるニサルガダッタ・マハラジに会って、この世界での波乱に満ちた放蕩の旅は終わりをつげ、自らの存在の中心に帰還した。

 

それ以来は、今まで30年の間、意識としてのシンプルで当り前の教え「ただ、それだけ」を語り続けている。

 

・・・・・

以下は、「ただそれだけ」 カリヤニ・ローリー著(高木悠鼓訳)からの抜粋である。

 

・・・・

(ONLY THAT p100)

 

誰がその質問をしているのか?

 

質問者: この質問を取り上げていただけるかどうか、不安なのですが。

 

ボブ: どのような質問ですか?

 

質問者: 「わたしとは誰か?」 です。

 

ボブ: ほう。 あなたはこれまでに自分が誰か、発見したことがありますか?

 

質問者: ありません。

 

ボブ: 「わたしとは誰か?」 を尋ねる代わりに、「わたしとは誰か」?という質問をしているのは誰か・・、

 

「わたしとは誰か?」を尋ねているこの質問者は誰なのか、と自分自身に尋ねてください。

 

質問者: うーん・・。

 

ボブ: あなたはそこから何を理解しますか?

 

質問者:それは心、思考、ということですかね。

 

ボブ: なるほど。心ないし思考が質問者というわけですね。では、心ないし思考が・・、その質問を尋ねている者は誰か、・・と尋ねているわけですか?

 

心ないし思考が質問者である、と。それでいいですか?

 

ボブ: さて、質問は何でしたっけ?

 

質問者: 「私とは誰か?」です。

 

ボブ: それは何ですか?

 

質問者: 一つの思考です。・・・

 

ボブ: ええ、それは観念、思考ですね。ということは、質問者と質問は、 ともにひとつの思考ないし観念で、質問者=質問そのもの、ということになります。

 

それらの間に、何の違いもありません。ですから、もし質問者がいなくなれば、質問もあり得ないのです。

 

質問者や質問が存在しなければ、そのときあなたはどうなりますか。

 

・・・ 

 

ボブ: 質問も質問者も存在しないとき、あなたはどうなりますか?

 

質問者: なにもない、・・でしょうね。

 

ボブ: あなたは思考の持ち主、観念の担い手です。

 質問者と質問を削除したとき、そこにあるのは、あるがままの裸の意識です。

 

・・・あなたは 「私とは誰か?」 を発見したのです。

 

何年も何年もその質問を心の中で問い続けて行き詰まる代わりに、

 

質問者が質問そのものだということを理解してください。

 

人々はこころ以前の存在状態について語り、そこに到達しようとしてあらゆる種類の奇妙なことをやります。

 

質問者は、質問それ自身に他ならないのです。

 

それらは互いに相殺し合います。 

 

つまり、質問がなければ、質問者は存在しません。 

 

その瞬間、あなたは心以前に存在しており、思考を超えているのです。

 

思考を超えていれば、あなたは思考以前にいるはずです。

 

それはそのくらいシンプルです。

 

質問者: わかりやすい表現です。私たちは思考や質問の担い手であるとおっしゃいましたが、

こうした思考や観念や質問が消えれば、その担い手も存在せず、そのとき、私たちはただ存在しているのですね。

 

ただの存在意識のみがあり、

それは起こっているすべての物事、すべての現象に先立つものです。とはいえ、その現象もまた「それ」なのですね。

・・・

ボブ: あらゆる現象は、詳しく見ていくことによって、あなたを故郷へと導いてくれるでしょう。

 

・・・・・以上p100-104 抜粋

 

様々な物や現象を、物や現象としてーー認識ーーするのは「思考」「観念」であるということだ。

 

認識という働きを「思考」といい、・・思考の記憶された集合を「観念」というならば、

 

「思考」や「観念」は、物や現象を観察し、それをそれと<認識する働き>の部分であり、物や現象自体ではないことがわかるだろう。

 

<物>が<物>を・・認識しているという考えが「唯物的」観念である。

 

正当さも論理性もどこにもない、ただの見てくれのみの平面的観念である。

 

それは認識をする当の自らの意識を、対象<物>に自己同化しているのだ。

  

認識・・・それ自体は肉眼視できない<働き>であり、物ではない。

 

また、認識の働きがなければ、物や現象は起きることは無い。

 

その逆ではないのだ。

 

あらゆるすべて、宇宙全体の<自己認識>の働きを称して、神、創造主ともいう。

 

またその認識を生じる元を  「素の意識」・・「普遍意識」ともいう。

 

それはまさに 「空(くう」 としか言いようがない。

 

それをすでに意識的存在である人間は誰でも気づくことが出来る。

 

存在諸世界に生起し続けるあらゆる事物や現象や、それをそれとして観察・認識するための「思考」や「観念」をも超えたところに、

 

いつも、今までもいたのが・・・わたし・・である。

 

今在る・・・。

 

ありとあらゆる全てを生じるところの、謂わば 「空(くう)」は、確かに見逃しやすい自己自身の・ふるさと・ともいえるだろう。

 

なにか問題があるのだろうか?

 

いいや、何もありはしない。

 

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古い共通現実の崩壊

2012-02-15 07:46:40 | 宇宙時代の考え方

我々はかなりな部分、外部からの気がつかない刷り込みがあることに気づかねばならないだろう。

 

今まで常識とされてきて、大勢の人々の共通した事実であると思いこんできたもの、あるいは思い込まされてきたものに気づかねばならないところにいる。

 

外の世界にあるとされる常識とされる観念、決まり、習慣、・・それらがいかに我々の生活を支えてきたか・・ということではなく、

 

いかに本来の意識的存在としての我々の自由自在さを、あろうことか制限し、極限し、押さえつけてきたかという、なかなか理解がし難いものに、意識を向けなければならないということである。

 

人間は、空気を吸っい、飯を食って消化し、排出しながら毎日を必死で生きてゆかねばならない存在であるというような観念が・・誰にもあることだろう。

 

どんなに衣服を着飾っても、姿形良くみせても、権威で威張っても、空気を吸い、飯を食って消化し、自分自身でさえ嫌がる排出物を毎日垂れ流している動物的な存在でしかない・・というような観念が・・・誰にもあることだろう。

 

そういう観念があるからこそ、そうではないという本質からのせめてもの努力を健気にしてきただけかも知れないのだ。

 

他人と比較し、その中で生き残るために、自分を良く見せようとして、富を貯め、学を溜め、権威の刹那の梯子を登り、目先の肉体の安寧の為に他者のつく明らかな嘘まで真実と思いこむ。

 

そうやって、学校で習うような「社会的動物」としての人間像、自分像をいつの間にか植え付けてしまったのだが・・・、それが肉体への自分の同化・物質への自己同化であることに、あなたはもう気づけるだろうか。

 

他者に注目してきたのは、あるいは外に注目させるようにしてきたのは、それぞれの人の中にある「意識」に気づかないようにするためなのだった。

 

意識的に見る、観る行為こそが、その意識を発する者の周囲に現実化するという真実に気づくには、何万年の生まれ変わりも、多次元世界の何回の転生も、今は必要ではないのだ。

 

今こそ、稀有の時・・である。

 

我々とは、まさに意識的存在であり、意識の及ぶ範囲だけは確実に自分を創造できる存在である。

 

あなたは、もう十分過ぎるほど留まっていた古い自己認識、自分は肉体でしかないという自分への刷り込みから脱しなけらばならない時期にある。

 

人々の知らないことは、実にたくさん、実にたくさんある。

 

今までのような、不満や、不安や、いじけや、恐れることや、自己犠牲でごまかすことや、病気や、孤独や、逃避や、破滅願望や、批判や、非難等をしている段階ではないだろう。

 

もうこの世界での旅の道中でついた、足の泥、こころの泥を洗った方がいいようだ。

 

そんなことよりも何よりも、

 

人の今だ知らないこと、未知なること、実に素晴らしきことは、それこそ山の山ほどあるのだ。

 

あなたやわたし達が、その意識を共有している、多次元宇宙とは、恐怖や不安とは全く無関係の、未知なる楽しさと調和に満ちている。

 

外から来る・・自分の中の様々な<影>・・にもう騙されてはならない。

 

こころの・・マインドの雲を吹き飛ばし、その向こうにいつもある、真なる太陽の光を、じかに「感じ」なければならないのだ。 

 

それを客観視し、真実と虚偽を見分けるためには、

 

古い観念、一般常識、既成概念、あるいは自ら人生で積み上げた価値観から、一旦は外れなければならないはずである。

 

気づくべきは・・・常に、「わたし」が行うところの「自己認識」という自己創造である。

 

これは精神世界の話ではなく、これこそ、今の現実世界のことである。

 

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わたし・・は、普遍的意識

2012-02-12 08:14:19 | 宇宙時代の考え方

世界はそれこそ大勢の「私たち」であふれている。

 

私達、貴方達を含め、今地球表面次元には70億の私という自覚を持った人間達がいる。

 

多分ほとんどが解り合うことなく、ただ同時に生きているだけと感じているかもしれない。

 

仲の良い親兄弟、夫婦、姉妹も、ただ付き合うのに慣れているだけのことであり、お互いの中身については、実際うかがい知ることも出来ないと思う時もあるはずだ。

 

そういう風に、

 

大勢の私たちの想い、感情、生活、体験、悲しみ、歓び・・で満ちているのがこの世界である。

 

しかしながら、大なり小なり多くの人々の共通した見解は、この世界が私にとって優しくないということかもしれない。

 

優しいどころか、ある人にとっては生き馬の眼を抜くような油断ならない環境であり、またある人にとっては無意識に惰眠を決め込むことでしか対応できない信じられないほど忙しい世界であるかもしれない。

 

あるいはある人にとっては、要領よく渡っていくことを学習するための世界かもしれない。

 

少なくとも、何もせず、何も考えずに、そのままで生きていることが難しい世界かもしれない。

 

なるほど、この世界が実に素晴らしい世界である等という人は、少なくとも周囲にはなかなかお目にかかれない。

 

多分、多くの人たちは、幸せで満ちているとは思えない世界と感じていることだろう。

 

それでも頑張ることに意味があると、多くの私達はそう想っているかもしれない。

 

そうやって頑張ってきたあなたは心底ではどう感じているだろう。

 

わたしはどうだろうか?

 

この世界は、必死で頑張らなければならない頑(かたくな)な世界なのか?

 

本当にそうなのか?

 

いいや、

  

本来はそうでもないかもしれない・・・ということに気づけるかもしれない。

 

そうだと思っている・・・それも、また刷り込みや思いこみで出来ていないだろうか?

 

自らの出来うる範囲で調べることは、この際必要ではなかろうかとも思う。

 

・・・・・

 

多分だが、

 

ここにいる存在たちは、それぞれのわたしのあり方を、見もしない不特定の誰かが決めている・・などという嘘を信じ込むほど幼くはないはずであろう。

 

自分のことは結局100%自分で決めていることに気づくには、自己観察とともに、こころを占めている既成の観念の大掃除が必要である。

 

・・・

 

ちょっと我に帰って考えてみるのも良いかもしれないとは思わないか。

 

気づくべき観点を<外>から<内>に向けて見るのも良いとは思わないだろうか。

 

あなたの観点のベクトルの向け先は・・・、

 

外の世界を観察している<あなた>自身である。

 

世界を感じている<わたし>自身のことである。

 

・・・・

 

<わたし>とは何だろうか?

 

わたしは固有の名前だろうか。

 

わたしには名前が付けられているが、それは一種のラベルであって言葉で発する「観念」でしかない。

 

例えば 「田中太郎さーん」 と言われて自分のことだと振り向くが、それは名前であって<わたし>自身ではない。

 

名前は固有名詞であるが、それはわたし自身ではなく「ラベル」である。

 

私は年齢を経た個人であろうか?

 

わたしは幼児の時も、若い時も、中年のときもわたし自身であった。

 

年齢は、瞬間の移り変わりの記憶でしかなく、年相応になった肉体の成長・老化の変遷記憶のようなものである。

 

年齢もわたし自身ではない。わたしは常に<今>在ると感じている存在だ。

 

わたしは学歴だろうか?

 

学歴も、学習経過とその社会的な組織を経たという記憶でしかない。

 

わたしそのものは学歴であろうはずもない。それは記憶である。

 

それでは、わたしとは・・それらの「記憶」なのだろうか。

 

それはわたしではなく、わたしが体験した生活によって得られた個人的な「情報」でしかない。

 

普通に個々人のアイデンティティーと言われるものは、連続した私というイメージを醸し出す個人独自の「記憶」であるが、

 

しかしながら、・・それは<わたし>の「記憶」であり、<わたし>自身であるとは言えない。

 

わたしは・・男という、あるいは女という性別だろうか?

 

性別は男か女かという、この世界に肉体を生み出し続ける生物的仕組みの、どちらかの働きとその種類名でしかない。

 

性別によって様々な悲喜劇とハプニング、幸せな家庭生活への刺激にはなるが、性別自体はわたしではない。

 

男や女という性別は、わたし自身ではない。

 

それは性別という肉体上の機能の違いであり、それを明示するラベルである。

 

記憶は蓄積された情報であり、情報は参照がされなければ存在意味が無い。

 

参照する主体である<わたし>は「記憶」とは言えない。

 

 

そうそう、・・それでは、わたしはこの肉体だろうか?

 

わたしは肉体を常に感じて生きているが、それは五感という波動感受による立体的なイメージにすぎない。

 

肉体は極めて近い位置にある、観察される、あるいは五感感覚で認識される客体であり、それを観察するところの<わたし>自身ではない。

 

わたしが肉体の外側にいるような臨死体験や体脱体験はまさにそれを直接示している。 

 

わたしは脳髄だろうか?

 

脳髄には複雑な神経細胞組織があり、電気インパルス等で様々な処理を行っており、またその働きの一部を医学実験などで確認することが出来るが、わたしがそれを自らのものとして追跡することも意識することもない。

 

解るのは・・・脳髄の一部の機能である。

 

それはある意味で自動処理をされている複雑な情報処理機構としか言えない。 

 

肉体は様々な波動情報処理の為の人体の<中枢機能>であるとは言えるが、<わたし>であるとは言えないだろう。

 

そのような情報処理によって<わたし>という感覚が生じていると思われるがゆえに、わたしが脳髄であるとする予想もあるだろうが、

 

それは脳の<働き>であって、脳自体ではないし、わたしであるとはいえない。

 

わたしは脳髄という有機組織自体である・・とも言えないのだ。

 

このように見て行くと、普段自分だと思っているものは、全て物質形態、あるいはそれに割り当てられた言葉、ラベルであるということに気づけるだろう。

 

実のところは、すべて物として観察されたことに関する観念、ラベルであり、

 

それこそが、霊的教師が言うところの、現われたものへの「自己同化」である。 

 

いわゆる物質次元に自分を幽閉しているとも言える表現は、この物質顕現形態への「自己同化」、現われた現象・結果への「自己同化」なのである。

 

わたしは、・・・わたしが<そう>想うところの者である・・・ということである。

 

観察されたものを、あるいは物を観念、概念で集大成して、それをなんとなく<自分自身>であると思っているという状態である。

 

観察する・・<働き>・・そのこと自体に気づいていないとも言えるのだ。

 

確かに、色・即是・空の「現われた様々な色」の方ばかりを観ている状態であり、

 

それを生じせしめるところの「全てで充満せる空(くう)」に気づけない在り方とも言えるだろう。

 

 

・・・

 

ここに重要な理解が生じるのではないだろうか。

 

肉体や脳髄が物質組成の組織体であっても、それが<働いて>いなければ、

 

そしてそれに<気づいて>いなければ、

 

<わたし>という自覚は生れていないだろうということである。

 

その働き・・、機能させるものは、目に見えない「エネルギー」というのが解り易いだろうか。

 

物理学的な諸現象の動き、働き、仕事、変化は全てエネルギーによって生じるとされているのが科学的常識である。

 

そのエネルギー自体は眼には見えないが、科学的には、働きの量的変化によって間接的に観測され、数値に変換されるものである。

 

確かに言えることは、物質界のあらゆるものはエネルギーがなければ勝手に動くことは無いのだ。

 

人体のエネルギーは食物や大気から得られているとされているが、それらがどのようにエネルギーに変換されても、エネルギー自体は眼には見えない。

 

<わたし>はその<働き>を観察することが出来るだけなのだ。

 

・・・

 

したがって、身近なところからわたしとは何かを言えば、

 

わたしとは・・、わたしには物質原子による肉体組成があり、その動きを生じせしめる<エネルギー>で生きているという・・・ことに気づいている、またはそう観察している存在であると言えるだろう。

  

我々は、観察結果・・を集めて、あたかもそれを<自分>であると決めている・・ということである。

 

<わたし>は名前、年齢、性別、肉体、・・・それらすべてに気づいているわけであるが、

 

そうであるがゆえに、それは属性と言えども、<わたし>そのものではない。

 

それらは、わたしがおぼろげながらも客観視、あるいは観察できるものであり、<わたし>自身であるとは言えない。

 

現われたものは、肉体含め、全て客体、現象であり、

 

その・ど・れ・か・が<わたし>であるとは言えなくなるのだ。

 

肉体さえも観察結果の集合的観念であり、それが<わたし>であるとは言えない。 

 

確かにそれもこれも、観察結果のラベル付けされた観念、概念でしかないということになるだろう。

 

当然のことながら、

  

この記事すらも、言葉で表された概念を集めた文脈でしかないが、それを読んで何かを感じる当の<あなた>がいるはずである。 

 

人間は、現象をある一定の見解を経由して観察し、それを概念化しているだけのことなのかもしれない。

 

それをあろうことか、その観察結果や概念、観念を自分であると感じているのが、いわゆる『個我(エゴ)』と言われる仮想の自分である。

 

個我、エゴは・・肉体、名誉、男女等である自分イメージに特化し、あるいは自己同化し、(それを自分であると思うこと)、それが仮のものであることを拒否しつづけるところの、<刹那的な自己感覚>とも言えるだろう。

 

人々が、小さな肉体に自己同化すれば、個人はバラバラの単独存在となり、また人の集合である社会は、孤独な者達の集合となり、軋轢や葛藤を生み出すことにもなる。

 

ところで、

 

わたしは肉体を含めるあらゆる現象を知覚し、認識するもの・・であり、個別の肉体自体、あるいは認識した結果の観念体系などではない。

 

まるで<わたし>は本来どこにも居ないように感じるかもしれないが、実のところは確かに特定のどこかにいるわけではない。

 

<わたし>とは、本来どこにでも居ることができるとも言えるのだ。 

  

それを悟ることを『解脱』ともいう。

 

それは、 

 

観察者であるところの本来の当り前の<わたし>に気づいている在り方である。

 

また、観察とは「意識」の働きである。

 

多元宇宙の、あらゆる全てを観察している意識・・そのものを「神」とも「普遍意識」、あるいは「一なる根源」ともいうのであれば、

 

意識的な存在である人間は、<それ>と元を同じうする存在なのである。 

 

意識によって全てと<意識的に>繋がっている存在・・それを人間という。

 

また、今あなたが<あなた>であると意識していることは、

 

すなわち、

 

存在諸世界の根源意識、あるいは普遍意識が<わたし>であると意識していると同義なのである。

 

一は多なり、無限なり。

 

多は無限なり、即ち 一なり。

 

<富士 は晴れたり 日本晴れ>  

 

不二・・一なる者は、己の光をあらゆる次元に放射し、

 

あらゆる方面から<自ら>を観察しようと思った・・。

 

そして・・・それが、あなたであり、それぞれの<わたし>である。

 

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解脱(5) 肉体を超える視座へ上昇せよ

2012-02-05 07:43:40 | 宇宙時代の考え方

解脱(げだつ)とは、文字通り 「解(ほど)けて 脱している」ということであり、これは本来人間としての「当り前」の有りかたを言っているのである。

 

たしかに、下世話なことを言えば・・、

 

今の世の中を見渡せば、自由と叫びながら結局は、あまりにも縛りが増えてしまっている、ニッチもサッチモの状態を呈してはいないだろうか。

 

解けるどころか、諸外国も、政府も官僚も企業も、次から次へとその信奉するお金ほしさの欲得政策を、知ってか知らずか推し進め、飽和点である自壊にまで達しようと「頑張っている」始末である。

 

地上世界では、様々な条約や方針や、改革や革命を掲げて繰り出しながら、いつもながらの騙し合いと奪い合いの「公式化」を進めているようではないか。

 

今度はきっと政治が良くしてくれるだろう・・という民衆の期待感をむしゃむしゃ食べてしまっている、幼い指導者ごっこを演じたい者の増えたことが原因だろう。

 

解る人には解るはずであるが、世の中の繁栄と、自由と民主なるものは、お金で買うものだというふうにしか実際のところ理解できない人々の跳梁跋扈する、面白くも悲しき、どんずマリの時代になったということであろうか。

 

どのように叫んでみても、何を言ってみても、聞く耳を持たずに、何者か、あるいは何事かの信念と恐怖によって動かされ、

 

人々の為だ・・と称して、自分たちの保身と儚い栄華の為に「不退転の決意」をする者が出るようになっては、もうさすがに気がつく人々も多いと思う。

 

このような、感動も愛も無く、実に面白くない舞台演目に付き合う必要性も、その醍醐味もないと感じる存在たちは、さすがに解脱をすべき時に来ているのではなかろうか。

 

人類の集合意識は、「固まり」ではなく、単なる「集まり」であることに理解を致せば、そのような愚かな価値観の集合から潔く外れる勇気だけが必要だということになるはずだ。

 

今のこの時代は、汚泥のようになりつつある、唯物的な価値観を信じている集合意識から自分を切り離さなければ、逆にまともに生きることが困難になっているとも思われるのだ。

 

まさに、国破れて、山河あり。

 

山河とは、おのれ自身のことであった。

 

エゴ同士の戦争ごっこはもう終わりである。

 

もうそこには僅かの架空の物質的富が残されているのみである。

 

混乱する世界経済は、それを奪い合っている者たち、場合によって容姿端麗、弁舌明快でありながらも自身の中身の極めて薄い者達の、最後の晴れ舞台と言えば、それは言い過ぎだろうか。

 

極まった自己保身、極まった利益追求、極まった物質加工文明は、このままでは自己崩壊をすることは、皆皆内心では気づいているはずである。

 

それに合わせてレミングの群れのごとく、無明の指示器の言うとおりの方向に突進し続け、そのうち視界に開けてくる断崖に身を投じることもまた、稀な経験ではあるものの、けだし、実に面白くない、実に意識的存在としての人間にふさわしくないあり方ではないかと思われる。

 

あなたはもう気づいただろうか。

 

解脱したあり方とは、

 

文字通り 「解(ほど)けて 脱している」ということであり、これは本来人間としての「当り前」の有りかたを言っているのである。

 

またそれは、

 

どこに在りても、汚濁の流れに無意識に自己投入しない、あるいは巻き込まれないあり方のことである。

 

それはまた、

 

責任を持つはずもない不特定他者の思考に無軌道に価値観をおかず、

 

もともと無責任であるところの他者の行為に当然ながら憤らず、

 

常に責任ある自らにあって、常に自分を見つめつづけ、

 

ある意味で、暖かくそして涼しいこころを周囲に放射するようなあり方である。

 

恐れて逃げることも隠れることも、またどこか巻き込まれていることである。

 

一体それがどうしたのか?・・という開きなおった意識ともいえようか。

 

 

・・

今までは、肉体のことは実はほとんど知らず、<わたし>のことも解らないのに、わたしを肉体でしかないと思っていたということだった。

 

最も身近で最も重要と思える 「自己の認識」 さえも、実は限りなく妄想に近い短絡的思いこみであったということに気づいて笑えるかもしれない。

 

少なくとも断定など出来ないにもかかわらず、すでにそうだと漠然と信じ込んでいた自らの姿に笑える人もいるだろう。

 

今までの世界は、こういう思いこみや錯綜する情報を、正しいものとして自分を規定するような、無知や他者依存の集合無意識で作りあげられていた。

 

何が真実で何が虚偽かわからない情報の渦の中で、外の大勢の人々の想いを正しいものとして採用する手法とも言えようが、

 

それこそが、わけのわからないものばかりを採用してきた原因であるということに気づけるだろうか。

 

真っ当なことも、逆に明らかな「矛盾」も、大勢が思えば「常識」になるのだ。

 

 

 

・・・・・

解脱しているあり方、本来の素のあり方であるためには、

 

最も基本的なものに明確な理解が必要であろう。

 

それは我々の「肉体」という最も身近な動的衣服についてである。

 

気づけば誰にも間違いなくある・・・わたしは在る・・という感覚、

 

それが主に肉体に装備された五感という感覚によっていると感じているために、自分を肉体であると早計な、また漠然とした判断をしていたということだ。

  

<わたし>は世界という、様々な波動情報を感知していることには「気づいている」が、

 

しかしながら「気づいている」がゆえにこそ、その認識システムである肉体そのものではないといえる。

 

気づいている・・ということは肉体を「客体」として認識しているということである。

 

肉体、それが現われている・・ことを認識しているが、肉体そのものは客体であり、認識主体としての<わたし>ではあり得ないということだ。

 

<わたし>は肉体が存在している・こ・と・に・気・づ・い・て・い・る、という認識作用であるということもできるだろう。

 

例えて言えば、それは車とそのドライバーの関係のようでもある。

 

車を運転するドライバーでありながら、長い時間フロントガラス越しに運転をすることで自分が車であると錯覚してしまうようなものであろう。

 

我々は、あたかも肉体の五感という、観察の「窓枠」から外の世界を覗いているようなものであり、その観察する窓枠の形・ボディ・肉体自体を、自分であると勘違いしているということもできるだろう。

 

つまり肉体とは一定の形、あるいは仕組みによる世界観察の3次元的な「窓」であるとも言えるだろうか。

 

この時空世界には、この時空世界にふさわしい<観察の場>があるということである。

 

言わば、<今>という<瞬間>から見える、諸世界に開かれた観察の場の一角・・・それが現状での我々の肉体・ボディということになる。

 

そして、その観察の場、窓から諸世界を観ているものが<わたし>である。

 

また、この世界の今までの時空認識、次元構造では、その<観察の場>に時限があるのは当然であろう。

 

3次元的時空認識のなかでは、人生は限られた時間枠というものに制約されるということになるからだ。

 

こういう次元認識世界での人生はあっという間に過ぎるものだ。なぜなら時間とは我々の関与できない勝手な方向性を持っている・・と認識しているからであるが、そこにある原因と結果に気づけるだろうか。

 

3次元的世界認識、次元構造認識では時間・空間のほうが主流であり、われわれというそれぞれの認識主体である<わたし>は、どこにも居場所がないというものであった。

 

主人公としての居場所のない肉体人間のできることは、せいぜいが、考える葦としての知的体系の構築であり、また科学的考察と再現性の発見を元にした物質加工技術による物質文明の構築であったのかもしれない。

 

物質世界に組み込まれた、また物質的肉体で制約されたところの、単なる知的存在であるという<自己認識>によって自らを無意識の意識によって制約してきたとも言えるだろうか。

 

それはすなわち、簡単に言えば、

 

わたし達は物質の世界に生きる、物質肉体だという認識である。

 

いわゆるところの、今までの常識的なあるいは3次元的自己認識である。

 

あなたも私たちもそうではなかったか?

 

物質的な重たさと、時間という枠にはめられた・・人間としての私たち・・。

 

それが不可思議なことに、『常識』とされていたのだ。

 

しかし、その古い常識はすでに壊れてしまったようである。

 

なぜなら観察する主体としての、それぞれの<わたし>が主人公として現われてきたからである。

 

 ・・・・

ミクロと言われる量子場での観察は、素粒子それそのものの挙動を決めてしまうのは知られている。

 

 

その極小のミクロは、観察という<意識の働き>によって構成される。

 

またマクロは当然ながらミクロで構成され、そして現象化が規定される。

 

すなわち、マクロは意識によって変化せざるを得ないのだ。

 

素粒子の世界は単にミクロの学問体系であって、肉体レベルのマクロには通用しないという観念、

 

その「観念」そのものがすでに崩壊しているからだ。

 

そうでないという思いこみ自体が、そういう形を現わすように作用していただけの話である。

 

虚偽はそれに気づいたときにだけ、真実から虚偽になってしまうのだ。

 

すでにそういう、観察する意識が中心となる世界が現われつつあることに気づける人々も増えている。

 

不自由であるという「観念」そのものが、不自由を現出せしめている元のパターンである。

 

世の中のあらゆるものは、意識的存在である人間が、そういう風に観察した結果が、そのとおり現われているということだ。

 

これは多くの霊的教師たちが綿々と伝えてきたメッセージであるが、物質科学の行き着く先で、再発見された法則であった。

 

さてここまで明らかになった上では、「理解できない、嘘だろう、信じられない、あんたはどう思う?」・・という逃げ口上は通用しないことになってしまったということだ。 

 

これもシンプル過ぎて素通りしそうであるが、まさに<それ>は<そう>なのだ。

 

要するに、それぞれの存在原点である<わたし>とは、

 

物質の有機的な固まりであるのか?

 

あるいは意識的存在、すなわち観察による自己創造を行う者であるのか?

 

大枠で2つに1つのメニューが、人類集合意識自身のある段階での昇華によって提示されたということである。

 

あなたはどうだろうか?

 

今崩壊しつつあるのは、単に資本主義的経済社会ではなく、その元にある観念的制限という言わば「次元枠」である。

 

それに付随する古い人類の観念様式、当然ながらその表現形態も、全て同じく崩壊するだろうと思われる。

 

しかし地球という舞台そのものは崩壊しない。

 

なぜなら地球は人類に属しているのではなく、存在宇宙に属しているからだ。

・・・

 

人々が絶対あると主張している、いままでの様々な不都合、不具合、不自由・・・も、

 

意識的存在である人間の意識が、そう「勝手に」観察していただけであることの証左である。

  

・・・

 

ダメ押しのように量子論を掲げなくても良い、

 

我々は全て、観察主体としての自らが現わすところの、自らの体験する客体世界の創造者であるということである。

 

意識的に気づいた範囲だけ、いつもただそれだけではあるが、実のところは無限に広がる意識という中での<目覚めた観察点>、

 

それこそが、それぞれの<わたし>であり、また<あなた>でもある。

 

I am that ・・・・

 

<わたし>は、私である・・・、常に様々な私でありつづける・・存在。

 

わたし>私  と言ってもいいだろう。

 

それぞれの<わたし>は、常に世界の、宇宙における観察者であり、また観察する範囲内での、まごうことのない創造者である。

 

観察は同じく創造である。

 

観察するところの、自らの意識の振動、あるいは付随する想念にも注意が必要であるという事でもある。

 

 

解脱とは、本来のあるがままの<わたし>であることであり、

 

そうあるためには、今、そのままで解脱している自らに気づくことである。

 

この世界において、その為の唯一の障害は、

 

自らの周りを覆う黒雲のような様々な、刹那的個我の都合に合わせた観念、雑念である。

 

外を見て指摘し批判したところで、当の自らの周囲の黒雲は晴れることはない。

 

古代からの綿々と続く問いかけ、  「汝ら、汝自身を知れ」・・

 

もうそれに、自らで答える時であろうか。

 

そして、それぞれが  <わたし> とは何であるか?

 

と真摯に問いかけるのは、まさに<今>なのではないだろうか。

 

根源、神、創造主、一なる者・・とは、

自らに問いかけ続け、創造し、それを観察し続けるものそのものではないのか。

 

今ここで、この瞬間に、神なるものは<あなた>でもあるということだ。

 

それは決して大言壮語ではなく、

 

未だ十分に気づかぬ我々の『真実』と言う方が妥当なのだ。

 

(つづく)

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。