(以下は、「ただそれだけ」 カリヤニ・ローリー著(高木悠鼓訳)からの抜粋である。これ以上にないようなシンプルな言葉で、わたしとは何かを説明していることに驚くべき英知を感じないではいられない。)
私たちの問題は、二歳か二歳半頃に身につけた一個の分離した実体、すなわち「自分」という考えから起こります。
あなたは、「自分」とか「私」という言葉に対して何かできるでしょうか?
それについてできることはあまりありません。
そこで、私たちは、出来事、経験、条件付け・・・・自分に起こった物事・・・・を加えるのです。
そこに信念のエネルギーが入り込み、それは見かけ上、具体的なものになり、それが現実に存在しているように思えてきます。
それが我とかエゴとか呼ばれているものです。
それは、自分自身はこうだと信じるための参照点となります。
何かを見て、私はそれを好きになります。それを好きになるとは知るはずもありませんでした。
まあ、それが以前に起こったことであれば、私はその過去のイメージと結びつけて、「これはいいな」というのでしょう。
やがて、その「良いこと」が過ぎ去ろうとします。
でも、私はそうなってほしくありません。
そのとき、何が起こるでしょうか?
私がそれらを本当に好きなとき、わたしは何をするでしょうか?
わたしはそれらが去るのに抵抗しようとします。抵抗とは何でしょうか?
抵抗は葛藤であり、病気です。(dis-ease:安らかではない)
もし葛藤の中にいれば、あなたは不安です・・・・こころ安らかではありません。
それが病気です。
もし何かが起こって、私がそれを好きでなければ、私は再びこの記憶の自分を参照します。
それを好きでないとき、私は何をするでしょうか?
私はそれを押しやり、取り除こうとします。またもや、抵抗、葛藤、病気です。
自然界においては、正反対のものからなるペアが常に作用していて、そうした作用なしでは、どんな二元性もありません。
これらの正反対のものは互いに対立するものではありません。
相反する立場はなにもないのです。
もし今が春なら、まもなく夏がやってきます。
春は「夏であったらなあ」とは言いません。
それは自然に、何の対立もなく動いていきます。
満潮は引き潮と戦いません。嵐がやって来て、色々なものを吹き飛ばします。
しばらくすると嵐は静まり、自然は徐々に自らを更新していきます。
正反対のペアはたえずそこにありますが、何の対立もありません。
私たちに関しては、正反対のペアは常に対立します。
なぜなら、私たちは物事を、こうあるべきだと自分が考えたり、信じたりしている心のイメージにたえず関連づけたり、照らし合わせたりしているからです。
・・・・つまり、私たちは物事をあるがままにしておかずに、物事が、こうあるべきだと自分が考えるやり方に従うことを望むのです。
ですから、私たちが抱える問題はすべて、実際は関係性の問題、すなわち何と関係するかという問題なのです。
・・・・それは、過去の出来事や経験にもとずく架空のイメージだということを理解するとき、人はみずから落ち込んでいる罠に気づくのです。
このことは、偉大な宗教的伝統の中でも言われています。
問題は、利己心、自己中心性、自己意思です。
あなたはこのエゴを昇華し、破壊しなければいけないと教えられます。
あなたはそれについてあらゆる種類のことを行ない、そうした奮闘の中で、なにが起こるでしょうか。
あなたはそれに対して何をしているのでしょうか。?
それは、エゴがエゴに対して戦っているのです。
それを注意深く見れば、エゴとは作り話だとわかるでしょう。
それは決して存在したことはありませんでした。
それは決して存在することができないでしょう。
・・・
そのことは、今ここで、実にシンプルに指摘することができます。
誰もが今ここで見ています。あなたはまったく努力なく見ています。見ることが進行しています。
また誰もが聞いています。見ることが起こっていて、聞くことが起こっています。
自分自身に尋ねてください。
「私の目が私に見るように言っているのだろうか?」と。
さて、わたしの目は、「ボブ、ほらこれをを見ろ、あれを見ろ」とは言っていません。
目を通じて起こっているのですが、それが思考によって「私は見る」「私はあれを見る」と翻訳されているのです。
聞くことが耳を通じて起こっています。
耳は、私に、「私が聞く」とは言いません。
再びそれは思考によって、「私が聞く」と翻訳されるのです。
ですから、、目は「私は見る」とは言わず、耳は「私は聞く」とは言わないのに、思考が湧き起ってそれを翻訳します。
では次のことを自分に尋ねてください。---
「私は見る」という思考は、実際に見ることができるのか?
注意して観察してください。
そうすれば、思考が見ているのではないことをあなたは理解することでしょう。
「私は聞く」という思考が、実際聞くことが出来るでしょうか?
思考が行うのはだた翻訳することだけです。
このエゴとは考えられたもので、見たり、聞いたり、気づいたりするパワーを持っていないのです。
・・・
このように、虚構のエゴとは、私たちが長年束縛されてきた一つの思考なのです。
エゴとは、選択ができ、自分の意志を持っており、たまには悪運に見舞われることもある一つの実体である、という信念は、ただの思考にすぎません。
それが作り話であると気づくとき、いったい何が起きるでしょうか?
自然に生きることが、今までとにかくやってきたように続いていくのではありませんか?
それがあなたを呼吸させています。
それが、あなたの心臓を鼓動させています。
それが、あなたの髪の毛や爪を成長させ、
食べ物を消化し、細胞を新陳代謝させ、考えること、感じること、感情、あらゆることが、まったく努力なく起こることを可能にしています。
もし、こうした身体機構が「自分」とは関係のないものだとすれば、そのときなにが問題ですか?
もしそれはもっと違ったふうであるべきだ、と考える一個の実体と関連づけられないかぎり、良い悪いは問題ですか?
そのことは、問題がもう起こらないという意味ではありません。もちろん問題は起こるでしょう。
なぜなら。自然の中では、正反対のペアがたえず機能しているからです。
でも問題が現われてきても、それらはそのあるがままに見られるのです。
物事を固定的に捉えない意識があれば、問題は動いていきます。
私たちがしがみついたり、執着したりするとき、問題はそこに留まり続けます。
抵抗が続いているため、それは自由に動けないのです。
私たちの抱える問題のすべては、一個の分離した実体が存在するという信念から生れる、というのはそういうわけです。
それが決して実在するものではなかったことに気づけば、物事はただそういうふうに起こってきたのだと理解できるでしょう。
ーーーー以上「前記文献P127ー131」
エゴまたは自我といわれる、それぞれが独自でバラバラであると感じている自己アイデンティティとは、まさに思考と記憶によって出来あがっている。
肉体にある眼、耳、感触などの知覚の窓が、個人個人別個であると観ている・・その思考や観念と、 そのような観念フィールドで行われるあらたな体験と想いによって、さらに、自らを個別の存在であるとダメを押しながら社会で成長してきたと言うことである。
外に、あるように見える世界に、無理やり自らを同化させてきたということでもある。
確かに、・・・つらくないはずがないではないか。
我々が、世界で最も大切にしているところのものは「自分」というものだろうか。
何を差し置いても、利他や奉仕を考えるにしても、「自分」というものをまず第一に考えているはずだ。
個人とは、自由と民主主義でも保証されている・・とか、確かにそうであろう。
しかしながら、そういう個我を推奨することの先にあるのは、
これこそ絶対に正しい、当り前だ、当然だと思い、そして固執し、個人我という<砦>を築き上げることである。
その個人個人の砦が重合、離散しつつ様々な社会、世界模様を変化させるが、個人という砦であるがために決して調和することはないはずだ。
それが進化だ、人生だと言わんばかりの極めつけの自己主張までのぼせ上がり、極端にはガチンコ主張同士がスパークして破裂すると言われてもいる。
世に言われるアルマゲドンなどという歪みきった伝統的思考は、個々人のエゴ同士で作りあげた一大虚構文明の崩壊を意味しているのが良くわかるだろう。
冷たいエゴ同士が権利と自由を保障され、競争のなかで何か素晴らしいものが生れるという 歪みきった<思考>のなれの果てである。
歪みきった思考に自分を合わせて、その為にこそ怖れ、おののき、右往左往することの自作自演の愚かさに、もう自分自身で気付かなければならないのではないか。
それが言わば西洋的近代文明の正体であり、その一見合理的と見える科学思考から得られる、あるいは製造技術的な成果による、唯物史観的な物質の多様性の毒酒に、あなたも私達も悪酔いしていたかのようである。
しかしながら、
・・・・その長かったエゴの集合せる虚構の宴(うたげ)は、今もう終わりを迎えている。
その虚構の宴に参加していたのは、思考でできた「架空」のエゴ体であったのだが、それゆえにこそ、エゴという鬱屈とした思考で醸造された毒酒をも味わうことが出来たとも言えるだろうか。
嗚呼、なんという魂の学習場であることだろうか!
しかしながら時は過ぎ、魂たちを包む夜明けの光が差し込み始めた、今。
我々は、もう長い長い転生の夢から目覚めなければならない時期にある。
あなたは、もう気づいていることだろう。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。