人は毎日、これだけは絶対に確かなことだが、
熟睡し、夢を見て、そして目が覚める。
私たちにあるのは、熟睡、夢見、目覚めた状態・・・これ以外にない。
生活やら、学校やら、仕事やら、世間やら、世界やら、
それらはすべて目覚めた時のことである。
一般常識では、目覚めてからのことが全てであり、大事なことであり、
夢見やあるいは熟睡は、扱う価値もないものと考えている。
大事なのは、目前の現実だ・・!というわけである。
そうではないか?
しかしながら、
これは我々の「存在」のごく一面だけのことなのだ。
目覚めた時以外の、夢見や、熟睡など、「何それ?」であろう。
それらは、休息やら単なる夢であって、
現実には何の役にも立たないという観念が支配しているからだ。
この「何の役に立つのか?」という観念は、
見える触れるものだけが実在だとする観念であり、
この思考が、
どんなところにも顔を出すことに気づけるだろう。
目覚めている間だけが存在として重要だという観念だ。
目覚めている間は、肉体や思考で様々な活動をしているため、
これしか目がいかないともいえるだろう。
・・・
これに対して、夢見はどうかというと、
夢見の場合は、わたし・・という意識があるが、
現実生活のような肉体の感覚は希薄である。
そうではないか?
<意識>は在るが、肉体感覚はなく、夢見での人とのやり取りは、
言葉と音声というより、直接の意思疎通によっている。
夢の中の誰か、彼かとの対話は、いわゆる以心伝心で伝わるものだ。
意識の中での「直接意思疎通」とも言えよう。
夢見での物語は、肉体五感を経由せず、
想念が直接に<意識>内面に伝わるものだと言える。
夢見と、目覚めでの違いは単にそれなのである。
それとは、肉体を経由するかしないかという事だ。
夢見と現実、その双方に在るのは、<わたし意識>・・である。
毎日疲れてバタンキュー、夢など観ませんと威張っている人は、
つまり、現実社会を一生懸命やってますと・・と自負している人は、
ここらへんはピンと来ないだろう。
夢って・・「何それ・・?」意味ないじゃん。
夢見も、目覚めも・・双方に共通してあるのは、・・・
<わたし意識>であって、肉体ではないことに気付けるだろうか。
肉体意識は、目覚めている時、
つまり自分が肉体であるという強い信念状態であるときだけのものだ。
これらの話は、
自分の意識、想念をしっかりと観える意識段階でしか、合点がいかないものだ。
・・・
夢の話は、現実逃避している話のことだと思い込んでいるのも、
実際、この現実という「夢の中に」くぎ付けになっている人なのだ。
普通の夢のなかの物語は、うすぼんやりと知覚され、
原因結果の明確な脈絡が無いように見えるため、
「なんだかなー・・?」的な「夢物語」だと思うものだが、
それは、普段意識が集中している、いわゆるこの現実の
その観念中心となっているためなのである。
普段は現実とされる世界に、
あなたやわたしの意識が集中、フォーカスしているということ。
ある事象に集中している場合、ほかの物なんか見えないだろう?
おーい、私の鉛筆どこにあるか知らない?、
って、自分の耳にさしている人のようなものである。
何事も、意識しなければ知覚できないのだ。
気付かなければ、現れないともいえよう。
物質なるものが、究極はクオークとされる、局在化した波動であり、
それが空間の歪として生じたり消えたりしながら、
無数の多次元宇宙として展開していると想定されているように、
現実世界というものも、
実際には波動で出来た仮想空間のようなものだと、
真面目に科学的に提唱されているように、
言いようによっては・・・全てが<夢>である。
これは、古今東西の、聖者や覚者が言ってきたこと。
目新しいことではないのだ。
今までは、外の世界から、常識観念から、
あーしろ、こーしろ、これが正しい、これはダメだと、
子供のころから比較論で仕込まれることで、
自分を卑下し、落ち込み、他者や他国と争い命を落とす、
社会通念がゆえに、家族でさえも争そうことになり、
「私の人生いったいどうしたことだ」・・と、
溜息込めて人生を振り返ることにもなっただろうか。
そう、今までのこの世界は、実に稀有な世界であった。
監獄惑星やら流刑惑星やらと揶揄されるような、
しつらえられた悪夢を一所懸命生きるほど、
律儀で、真面目で、勇気のある魂だけが耐えられるような、
そんな修羅場でもあっだろう。
しかしながら
あなたは拍子抜けするかもしれないし、
小説に良くある落ちだが、それは夢だった・・・。
魂・意識の観る・・物語、そう、それは夢だ。
・・・
夢とは、<意識>の観る”想念”の物語であり、
現実生活、いわゆる3次元的現実も、つまりは、
物質、肉体感覚を強くともなった「夢」なのである。
全ては「意識」であり、
宇宙・世界は、その意識の観る物語なのだ。
その中の1つに、我々が共有しているこの世界がある。
そういうことだ。
宇宙開発だ、月だ、火星だ・・銀河だと、
外にあるように見える世界も、意識が観察しているのである。
肉体も、宇宙や世界も、<意識>の中に在る・・ということだ。
そして、あなたが観る世界は1つの独自のもので、
そういう意味で、あなたの宇宙はあなたの意識の中に在る・・。
全ての意識ある存在は、神々と言えよう。
それが無数に共同創造されている場が多次元宇宙である。
その元にあるのが、無次元、無限次元である 空(くう)。
あらゆる事象の出現する可能性の充満せる空(くう)
全てを受け入れている、空(くう)
我々そのものでもある・・空(くう)
それを無限の愛と言わずして、一体何だろう?
それを無限の至福と言わずして、一体全体何だろう?
・・・
わたしとは、何だろう?
これがひとつの夢から覚める合図であり、また出口なのだ。
熟睡し、夢を見て、そして目が覚める。
私たちにあるのは、熟睡、夢見、目覚めた状態・・・これ以外にない。
生活やら、学校やら、仕事やら、世間やら、世界やら、
それらはすべて目覚めた時のことである。
一般常識では、目覚めてからのことが全てであり、大事なことであり、
夢見やあるいは熟睡は、扱う価値もないものと考えている。
大事なのは、目前の現実だ・・!というわけである。
そうではないか?
しかしながら、
これは我々の「存在」のごく一面だけのことなのだ。
目覚めた時以外の、夢見や、熟睡など、「何それ?」であろう。
それらは、休息やら単なる夢であって、
現実には何の役にも立たないという観念が支配しているからだ。
この「何の役に立つのか?」という観念は、
見える触れるものだけが実在だとする観念であり、
この思考が、
どんなところにも顔を出すことに気づけるだろう。
目覚めている間だけが存在として重要だという観念だ。
目覚めている間は、肉体や思考で様々な活動をしているため、
これしか目がいかないともいえるだろう。
・・・
これに対して、夢見はどうかというと、
夢見の場合は、わたし・・という意識があるが、
現実生活のような肉体の感覚は希薄である。
そうではないか?
<意識>は在るが、肉体感覚はなく、夢見での人とのやり取りは、
言葉と音声というより、直接の意思疎通によっている。
夢の中の誰か、彼かとの対話は、いわゆる以心伝心で伝わるものだ。
意識の中での「直接意思疎通」とも言えよう。
夢見での物語は、肉体五感を経由せず、
想念が直接に<意識>内面に伝わるものだと言える。
夢見と、目覚めでの違いは単にそれなのである。
それとは、肉体を経由するかしないかという事だ。
夢見と現実、その双方に在るのは、<わたし意識>・・である。
毎日疲れてバタンキュー、夢など観ませんと威張っている人は、
つまり、現実社会を一生懸命やってますと・・と自負している人は、
ここらへんはピンと来ないだろう。
夢って・・「何それ・・?」意味ないじゃん。
夢見も、目覚めも・・双方に共通してあるのは、・・・
<わたし意識>であって、肉体ではないことに気付けるだろうか。
肉体意識は、目覚めている時、
つまり自分が肉体であるという強い信念状態であるときだけのものだ。
これらの話は、
自分の意識、想念をしっかりと観える意識段階でしか、合点がいかないものだ。
・・・
夢の話は、現実逃避している話のことだと思い込んでいるのも、
実際、この現実という「夢の中に」くぎ付けになっている人なのだ。
普通の夢のなかの物語は、うすぼんやりと知覚され、
原因結果の明確な脈絡が無いように見えるため、
「なんだかなー・・?」的な「夢物語」だと思うものだが、
それは、普段意識が集中している、いわゆるこの現実の
その観念中心となっているためなのである。
普段は現実とされる世界に、
あなたやわたしの意識が集中、フォーカスしているということ。
ある事象に集中している場合、ほかの物なんか見えないだろう?
おーい、私の鉛筆どこにあるか知らない?、
って、自分の耳にさしている人のようなものである。
何事も、意識しなければ知覚できないのだ。
気付かなければ、現れないともいえよう。
物質なるものが、究極はクオークとされる、局在化した波動であり、
それが空間の歪として生じたり消えたりしながら、
無数の多次元宇宙として展開していると想定されているように、
現実世界というものも、
実際には波動で出来た仮想空間のようなものだと、
真面目に科学的に提唱されているように、
言いようによっては・・・全てが<夢>である。
これは、古今東西の、聖者や覚者が言ってきたこと。
目新しいことではないのだ。
今までは、外の世界から、常識観念から、
あーしろ、こーしろ、これが正しい、これはダメだと、
子供のころから比較論で仕込まれることで、
自分を卑下し、落ち込み、他者や他国と争い命を落とす、
社会通念がゆえに、家族でさえも争そうことになり、
「私の人生いったいどうしたことだ」・・と、
溜息込めて人生を振り返ることにもなっただろうか。
そう、今までのこの世界は、実に稀有な世界であった。
監獄惑星やら流刑惑星やらと揶揄されるような、
しつらえられた悪夢を一所懸命生きるほど、
律儀で、真面目で、勇気のある魂だけが耐えられるような、
そんな修羅場でもあっだろう。
しかしながら
あなたは拍子抜けするかもしれないし、
小説に良くある落ちだが、それは夢だった・・・。
魂・意識の観る・・物語、そう、それは夢だ。
・・・
夢とは、<意識>の観る”想念”の物語であり、
現実生活、いわゆる3次元的現実も、つまりは、
物質、肉体感覚を強くともなった「夢」なのである。
全ては「意識」であり、
宇宙・世界は、その意識の観る物語なのだ。
その中の1つに、我々が共有しているこの世界がある。
そういうことだ。
宇宙開発だ、月だ、火星だ・・銀河だと、
外にあるように見える世界も、意識が観察しているのである。
肉体も、宇宙や世界も、<意識>の中に在る・・ということだ。
そして、あなたが観る世界は1つの独自のもので、
そういう意味で、あなたの宇宙はあなたの意識の中に在る・・。
全ての意識ある存在は、神々と言えよう。
それが無数に共同創造されている場が多次元宇宙である。
その元にあるのが、無次元、無限次元である 空(くう)。
あらゆる事象の出現する可能性の充満せる空(くう)
全てを受け入れている、空(くう)
我々そのものでもある・・空(くう)
それを無限の愛と言わずして、一体何だろう?
それを無限の至福と言わずして、一体全体何だろう?
・・・
わたしとは、何だろう?
これがひとつの夢から覚める合図であり、また出口なのだ。