親たちは通常、生まれた赤子、幼児の肉体をこよなく愛するものだが、
意識である私たちは、この世界との接点である肉体の知覚が発達するまで、
それに気づいていないし、生まれたその時のことは覚えていないのが常である。
2,3歳になって肉体機能が発達するにつれて、意識の窓が開き、
様々な経験を始めている自分自身に気づいてくる。
あなたの最も幼少期の記憶を、ちょっと思い出せるだろうか?
生誕から幼少期までの意識の変遷は、
まるで毎朝、熟睡という無意識から、
いつもの現実に目覚めてくる過程と同じようなものと気づけるだろう。
しかしながら幼児期での、無意識から意識への変遷の途上では、
身近な環境を通じて、様々なこの世の知識が植えつけられ、
それが観念、感情、記憶という形で蓄積されるにしたがって、
いつか新たな人格が作られれてゆく。
幼児期に意識の窓が開いてくると、意識内面からの情報、
いわゆる過去生やら他生の記憶も少しづつ湧き出してくるのだが、
如何せん、親や周囲からのこの世的な知識の植え付けが強烈なため、
いつかそれは”何かの気のせい”あるいは”妄想”ということで捨て去られるのが常だ。
それほどこの世界では、”意識”の重要性に気づいていないということで、
肉体存在としていかに生き残るか?が主流の観念になってきたのだ。
そうではないか?
意識である自己をよく見てみると、
1日のサイクルも生と死というサイクルも、
意識の・・”非顕現と顕現”のサイクルであると気付けようか。
それは森羅万象にある「波動」と同じようである。
物質もクオークレベルでは存在と非存在のはざまで揺れ、
生命も吸う息、吐く息で持続されている。
しかしながら不思議なことに、
この世界では自分の”意識”というものを全く度外視して、
外の世界の具体的な物質形の動きだけに価値観を置いている。
外と世界とは、わたし・・の知覚する世界・宇宙、さらに
自分の肉体や他者、様々な物質諸形態の姿や動きのことであるが、
そこには、この世界があり、他の天体、さらに無限遠方に続くかのような宇宙もあり、
様々な微細から無限大にまで広がる中の事物や出来事があるため、
その無限に展開するかのような顕現世界・宇宙が実在するものと考える。
だって、そうじゃないか!・・なのだが、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/fd/04f794a7dad6f1a21ebe92920ee92fa9.jpg)
外の世界・宇宙は「意識」の働きによって顕現することに気づけるだろうか?
たとえ、宇宙空間の中に出て行って、宇宙の様々な事象を観測・観察しても、
それは「意識」によって行われている知覚に変わりがない。
つまり、どこまで行っても”意識”が在るということなのだが、
これはお釈迦様の手の中から出ることはないという孫悟空の物語と同じである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/5e/db6205be95eaf1ceaa25777b47755cd7.jpg)
例えば誰でもそうだが、
微細で詳細な画質の「映画」を観て、一時はその臨場感を楽しむが、
今見ているそれこそが実在であるとは思ってはいないだろう?
なぜならば、それを見ているこちら側
・・肉体、そして自分自身に・・気づいているからだ。
一時はその迫真の演技や情景に気持ちが入り込んでしまうことで、
それを楽しむことができるわけだが、
もし仮に入り込んでしまって、そのままだったらどうするか?
と、小説ではそういう架空の設定もよくあるわけだ。
しかしながら、それが架空ではない・・ことが驚きなところだ。
実に・・意識・・が今、それを行っている。
われわれが・・今・・在る・・ことがそれだ。
映画とこちらの現実、
それを区別できるのは、見ている人がこちら側の肉体感覚に戻るからだろう。
私は、目の前の映画を見ている・・こちら側の肉体である・・という感覚が戻るからだ。
しかしながら、その肉体感覚がなければどうなるだろうか?
そりゃ、えらいこっちゃ!となることだろう(笑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/22/fc70c99c687f0d86bff8de7a86b68dae.jpg)
ところで、眠っているときに見る「夢」はどうだろうか?
夢の中でも、それが意味不明でも、何らかの状況設定や登場人物がいるだろう。
その時に、目が覚めているときのいつもの肉体感覚はないため、
その夢は、夢などとは思わず、まったく迫真的に存在していると感じるはずだ。
普通、「これは夢だから、適当でいいんだ~へへん」・・等という余裕はないはずだ。
そうでなければ、例えば悪夢を見て、それはもう必死で逃れようとはするまい。
後でなら、あれは夢だったということになるが、
夢を見ている最中に・・それに気づくことはなかなかだ。
そうではないか?
つまり睡眠中に観る夢は、肉体の五感を経由しない”内面の知覚”というか、
いわば”意識”の観るものであるが、
意識が気づくものは・・それを実在するものとみなしている・・・ということだ。
熟睡中は、
生理学的用語では眼球の動きのない状態でノンレム睡眠といわれているが、
その間は、まったく”無意識”であり、
当然、自意識もなく、肉体感覚も、時間も空間も知覚していない。
つまり意識が眠っている・・無意識なので、
夢すら見ていないし、何かを覚えているも憶えていないもありはしない。
ある意味で、苦も楽も無い、いわば空(くう)意識ともいえよう。
無意識といっても、意識が無いのではない。
なぜならば、毎朝また意識が目覚めてくるからだ。
熟睡から次第に意識が目覚めてくると、夢を見る意識の段階になる。
実は、熟睡(無意識:空意識)から現実意識(肉体意識)に至る、
その意識の層(レベル)は無数の段階があるが、夢もその1過程なのだ。
実際に覚えているかどうかは別だが、誰でも夢を見ているのである。
夢には荒唐無稽な、またどこか現実生活上の記憶も含めたストーリー等もあって、
まるで想念、想像、イメージの連続物語を見ているようでもあるし、
たまに時空を超えた貴重な情報をもたらす内容もあるものだ。
しかしながら、それは「意識」の観ることに違いはないし、
夢も、意識している、気づいている・・ことに相違ない。
例えば夢を見ている場合に、夢の出来事ばかりにその意識を集中し、
・・一時、そのまま”そこに”自己を置き去りにすると、
夢の中の1個人としての経験をするということだ。
普通いわれる・・夢のみならず、現実とされる世界にあっても、、
意識の観ることに相違ないのだ。
夢のまた「夢」も、この現実という名の「夢」も、意識の観ているものである。
自らの信じるところを、自らに成す・・
I AM THAT・・I am・・
意識があるところに「自己」・・わたし・・が存在する。
この世界では、
人類は猿の進化した有機生命体に過ぎないとか、
物質形のみが実在であるとかの信念、
「自分は肉体である」・・という肉体意識によって、
生まれては死んでしまう物語、夢遊病的肉体個人としての夢、
輪廻転生と呼ばれる、お世辞にも幸せいっぱいとは言えない物語が主流の夢を、
飽きがくるまで繰り返し見ることも可能ということだ。
意識は自己自身を何かに集中・投入し、さらに投入しきったまま、
”意識”たる自分自身を・・忘れる・・こともあるということだ。
あなたは今、どうだろうか?
夢のまた「夢」も、この現実という名の「夢」も、意識の観ているものである。
意識の特質とでもいうべきものは、
その対象、事象、現象、事物、肉体、世界、宇宙無限大も含め、
意識する、気づくその対象に--おのれ自らを自己投入し、
それ自身で在ろうとする。
そうだ、それは創造者が創造物を愛し慈しむようなもの。
そしてまた、
おのれ自らの実在性を、それらに吹き込むようなものである。
そう、今・・わたしが・・在る・・ことの中に無限がある。
夢のまた「夢」も、この現実という名の「夢」も、
意識が自らの無限性を観ていることを意味する。