気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

世界・宇宙という「夢」 その3

2019-02-22 07:21:00 | 語り部の章

親たちは通常、生まれた赤子、幼児の肉体をこよなく愛するものだが、
意識である私たちは、この世界との接点である肉体の知覚が発達するまで、
それに気づいていないし、生まれたその時のことは覚えていないのが常である。

2,3歳になって肉体機能が発達するにつれて、意識の窓が開き、
様々な経験を始めている自分自身に気づいてくる。
あなたの最も幼少期の記憶を、ちょっと思い出せるだろうか?

生誕から幼少期までの意識の変遷は、
まるで毎朝、熟睡という無意識から、
いつもの現実に目覚めてくる過程と同じようなものと気づけるだろう。

しかしながら幼児期での、無意識から意識への変遷の途上では、
身近な環境を通じて、様々なこの世の知識が植えつけられ、
それが観念、感情、記憶という形で蓄積されるにしたがって、
いつか新たな人格が作られれてゆく。

幼児期に意識の窓が開いてくると、意識内面からの情報、
いわゆる過去生やら他生の記憶も少しづつ湧き出してくるのだが、
如何せん、親や周囲からのこの世的な知識の植え付けが強烈なため、
いつかそれは”何かの気のせい”あるいは”妄想”ということで捨て去られるのが常だ。

それほどこの世界では、”意識”の重要性に気づいていないということで、
肉体存在としていかに生き残るか?が主流の観念になってきたのだ。
そうではないか?

意識である自己をよく見てみると、
1日のサイクルも生と死というサイクルも、
意識の・・”非顕現と顕現”のサイクルであると気付けようか。

それは森羅万象にある「波動」と同じようである。
物質もクオークレベルでは存在と非存在のはざまで揺れ、
生命も吸う息、吐く息で持続されている。

しかしながら不思議なことに、
この世界では自分の”意識”というものを全く度外視して、
外の世界の具体的な物質形の動きだけに価値観を置いている。

外と世界とは、わたし・・の知覚する世界・宇宙、さらに
自分の肉体や他者、様々な物質諸形態の姿や動きのことであるが、
そこには、この世界があり、他の天体、さらに無限遠方に続くかのような宇宙もあり、
様々な微細から無限大にまで広がる中の事物や出来事があるため、
その無限に展開するかのような顕現世界・宇宙が実在するものと考える。
だって、そうじゃないか!・・なのだが、



外の世界・宇宙は「意識」の働きによって顕現することに気づけるだろうか?

たとえ、宇宙空間の中に出て行って、宇宙の様々な事象を観測・観察しても、
それは「意識」によって行われている知覚に変わりがない。

つまり、どこまで行っても”意識”が在るということなのだが、

これはお釈迦様の手の中から出ることはないという孫悟空の物語と同じである。



例えば誰でもそうだが、
微細で詳細な画質の「映画」を観て、一時はその臨場感を楽しむが、
今見ているそれこそが実在であるとは思ってはいないだろう?
なぜならば、それを見ているこちら側
・・肉体、そして自分自身に・・気づいているからだ。

一時はその迫真の演技や情景に気持ちが入り込んでしまうことで、
それを楽しむことができるわけだが、
もし仮に入り込んでしまって、そのままだったらどうするか?
と、小説ではそういう架空の設定もよくあるわけだ。

しかしながら、それが架空ではない・・ことが驚きなところだ。
実に・・意識・・が今、それを行っている。
われわれが・・今・・在る・・ことがそれだ。


映画とこちらの現実、
それを区別できるのは、見ている人がこちら側の肉体感覚に戻るからだろう。
私は、目の前の映画を見ている・・こちら側の肉体である・・という感覚が戻るからだ。

しかしながら、その肉体感覚がなければどうなるだろうか?
そりゃ、えらいこっちゃ!となることだろう(笑)




ところで、眠っているときに見る「夢」はどうだろうか?
夢の中でも、それが意味不明でも、何らかの状況設定や登場人物がいるだろう。
その時に、目が覚めているときのいつもの肉体感覚はないため、
その夢は、夢などとは思わず、まったく迫真的に存在していると感じるはずだ。

普通、「これは夢だから、適当でいいんだ~へへん」・・等という余裕はないはずだ。
そうでなければ、例えば悪夢を見て、それはもう必死で逃れようとはするまい。
後でなら、あれは夢だったということになるが、
夢を見ている最中に・・それに気づくことはなかなかだ。
そうではないか?

つまり睡眠中に観る夢は、肉体の五感を経由しない”内面の知覚”というか、
いわば”意識”の観るものであるが、

意識が気づくものは・・それを実在するものとみなしている・・・ということだ。

熟睡中は、
生理学的用語では眼球の動きのない状態でノンレム睡眠といわれているが、
その間は、まったく”無意識”であり、
当然、自意識もなく、肉体感覚も、時間も空間も知覚していない。

つまり意識が眠っている・・無意識なので、
夢すら見ていないし、何かを覚えているも憶えていないもありはしない。
ある意味で、苦も楽も無い、いわば空(くう)意識ともいえよう。

無意識といっても、意識が無いのではない。
なぜならば、毎朝また意識が目覚めてくるからだ。

熟睡から次第に意識が目覚めてくると、夢を見る意識の段階になる。
実は、熟睡(無意識:空意識)から現実意識(肉体意識)に至る、
その意識の層(レベル)は無数の段階があるが、夢もその1過程なのだ。

実際に覚えているかどうかは別だが、誰でも夢を見ているのである。
夢には荒唐無稽な、またどこか現実生活上の記憶も含めたストーリー等もあって、
まるで想念、想像、イメージの連続物語を見ているようでもあるし、
たまに時空を超えた貴重な情報をもたらす内容もあるものだ。

しかしながら、それは「意識」の観ることに違いはないし、
夢も、意識している、気づいている・・ことに相違ない。

例えば夢を見ている場合に、夢の出来事ばかりにその意識を集中し、
・・一時、そのまま”そこに”自己を置き去りにすると、
夢の中の1個人としての経験をするということだ。

普通いわれる・・夢のみならず、現実とされる世界にあっても、、
意識の観ることに相違ないのだ。

夢のまた「夢」も、この現実という名の「夢」も、意識の観ているものである。


自らの信じるところを、自らに成す・・
I AM THAT・・I am・・
意識があるところに「自己」・・わたし・・が存在する。

この世界では、
人類は猿の進化した有機生命体に過ぎないとか、
物質形のみが実在であるとかの信念、
「自分は肉体である」・・という肉体意識によって、
生まれては死んでしまう物語、夢遊病的肉体個人としての夢、
輪廻転生と呼ばれる、お世辞にも幸せいっぱいとは言えない物語が主流の夢を、
飽きがくるまで繰り返し見ることも可能ということだ。

意識は自己自身を何かに集中・投入し、さらに投入しきったまま、
”意識”たる自分自身を・・忘れる・・こともあるということだ。

あなたは今、どうだろうか?

夢のまた「夢」も、この現実という名の「夢」も、意識の観ているものである。
意識の特質とでもいうべきものは、
その対象、事象、現象、事物、肉体、世界、宇宙無限大も含め、
意識する、気づくその対象に--おのれ自らを自己投入し、
それ自身で在ろうとする。

そうだ、それは創造者が創造物を愛し慈しむようなもの。
そしてまた、
おのれ自らの実在性を、それらに吹き込むようなものである。

そう、今・・わたしが・・在る・・ことの中に無限がある。

夢のまた「夢」も、この現実という名の「夢」も、
意識が自らの無限性を観ていることを意味する。



世界・宇宙という「夢」 その2

2019-02-18 06:21:32 | 語り部の章
この世界はバーチャルな仮想世界であり、簡単に言えば、
昔からなじんだ言葉で言うところの・・「夢」の世界である。

普通に「夢」とされているのは、
人が寝ているときに見る漠然としたイメージの連続のようであり、
現実とはかなり違った、どこかおぼろな意識的経験のようなものだとされている。
それに、夢など価値のないものとされた風潮があって、
せっかくの夢見をほとんど覚えていないケースが多いかもしれない。

大切なのは「現実」であって、漠然たる「夢」なんかではない・・というわけだ。
そうではないか?

しかしながら、現実も夢も・・見る、いや観るものである。
見る、観る、観察する・・は意識の働きである。

結局は、
現実も、”意識であるわたし”が肉体五感を介して観察することであり、
いわゆる「夢」は”意識であるわたし”の、五感を介在しない観察である。

自分が肉体だ・・という信念では、こういう話は伝わらない。
自分が肉体を含む・・意識であると気づいていない限り、
これ以上は何を言っても・・
わたし:肉体・頭脳という概念で止まってしまうのだ。

肝心なのは、他者の言説でも、身体の仕組みでもなく、
詳細・多様極まる忙しい現実という幻想世界でもなく、

それぞれの・・わたし・意識・・のことなのである!

理解可能だろうか?

気づいていなければ・・意識がなければ、
どんな経験も情報も、記憶もあり得ない。



これが生きていることの根本にある。

日常の生活すべて、いわゆる”現実”というのは、
世界がある・・だけではない。
体がある・・だけではない。
思考がある・・だけではない。
人間関係がある・・だけではない。
親子・家族関係がある・・だけではない。
それに関する様々な感情や記憶がある・・だけではない。
それに関して様々の喜怒哀楽、不安、恐れ、安心・・があるだけではない。

それら現実とは、それらへの「気づき」のことだ。
つまり「意識」があるからこその現実だ、!
意識がなければ、どんな現象にも気づくことはない。
”気づくこと”がなければ、それらが”存在する”とは言えない。

したがって、
”わたし”は「気づき」「意識」であることは、
疑いようのない事実なのだが、
この重大無比なる事実に気づかないのは、
あるいはそれに気づいてもすぐに忘れてしまうのは、
それによって即座の、ご褒美も、生活改善も、成就もないからだろうか?
あるいは、多くの人が誉めそやし、それが正しいと保証しないからだろうか?

すでに先行して何かの具体、事象がある事に・・気づくのではない!
気づくことそのものが・・創造である。
そんな簡単なことがあるか!・・という人もいようが、
神の創造に難しいものなんかあるわけはない・・

石切り場の奴隷労働者のように、
無理やり汗水たらして城を作るようなものではない(笑)。
物と物がせめぎあって、ぶつかりあってバコーン、ドカーンと、
何とか形を作るわけではない。
それはあまりにも悲惨で卑小な思考、物質・物量にとらわれ過ぎた観念だ。

神が自己自身に”気づく”こととは、
その自己自身の・・無限の顕現形態を”見る”ことに他ならない。

あなたがこの世界に来て、つまり生まれてから、
初めて・・自分に気づき始めたのはいつ頃だろうか?
2歳か、3歳ころだろうか?

その時の記憶を思い出してみるとよいだろう。

その時にあったのは・・周りに気付いている・・ことだったろう。
親や周囲の人やお友達・・環境などに、いつか気付いている自分があった。
そんな記憶があるだろうか。

例えばあなたの親は、あなたの「肉体」を生んだ時から見ているわけで、
あなたが生まれたのは自分の子宮から苦労して出てきた時だと主張する。
その生誕時の写真も見せられたりするが、
しかしながら、それは親の子宮を通過して、出てきた赤子の「肉体」のことである。


千と千尋のアニメで迷い込むトンネルは、次元間、時空間の抜け道の象徴だ。


あなたがその時に生まれたと言うが、
”意識である”あなたはそれに気づいてないし、ふつうは思い出すこともない。

つまり・・「わたし自身に気づく」のは、
親から見た肉体生誕のその時ではなくもっと後になってからである。

これは一般に、頭脳を含む肉体の神経組織の時間的成長によって、
次第に「意識」が芽生えるからだと理解している。
もっともらしい説明だが、
あくまでも・・現象たる肉体組織の反応や変化に関する説明であって、
その当事者たる--わたし意識--を抜いて話をしているのである。



千尋が迷い込んだ世界で、初めは茫然とあたりを観ている姿


あなたが・・自分自身に気づいた、
”自分が在る”ことに気付いたのは何歳ころだったろうか?

もちろん、共同創造者である親たちが、
意図せず知らず用意した肉体も含めて。
それがこの世界というリアルな「夢」の始まった”時”だ。

そこからあなたのこの世界での気付き、創造が始まったのだった。



世界・宇宙という「夢」  その1

2019-02-15 06:46:27 | 語り部の章
現実として・・ただ言えるのは、
我々は・・・
肉体の五感を経験しつつ、様々な思索を行っていること・・に
気づいているという・・ことである。

気づいていなければ・・意識がなければ、
どんな経験も情報も、記憶もあり得ない。
---

世界・宇宙があって・・その中に”わたし”が存在する・・は、
私個人の肉体の存在様式を語っているだけであり、
いわゆる「3次元的世界認識」にすぎず、
事実・真実ではなく・・単なる認識の1形態である。

言い換えれば、この世界・宇宙も、”意識”の1様式に過ぎない。

わたしとは、知覚対象、認識対象物である「この肉体」ではなく、
それに気づき、認識し、意識している・・「それ」である。
---

世界・宇宙は”意識”の1様式であるということは、
簡単に言えば、
わたしは宇宙・世界という「夢」をみている・・ということだ。

そう、
この「現実世界」という”リアルで細緻な”体験世界は、
わたしたちが観ている・・そういうタイプの夢なのだ。

「夢」と言う言葉の概念に惑わされるが、
わたし自身の・・今の・・「現実」をよくよく観れば、
これは決して何かの例えではないことが解る。

この世も、宇宙も、さらにはあの世も・夢のまた夢。
こう言うと、この壮大な地球世界が、ましてやあの無限の宇宙が・・そんなはずは、
という風に思ってしまい、そんな説明は荒唐無稽な「夢物語」だとしてしまうのだが、

それも・それ、
物量・規模・大きさという「3次元的観念」に縛られているからだ。

それは肉体感覚、五感で感じるものが・・「現実」であるという、
いつか植え付けられた集団的「信念」によっている。

わたしが熟睡しているときには、世界が消えているではないか?
宇宙などどこにある?



わたしが肉体である・・という観念でなく、
わたしは意識であるという観点から見れば、

意識が眠ると世界が消え、意識が目覚めると現実が現れる。

繰り返すと、
”わたしが肉体である”というのは観察された上での漠然とした・・「観念」である。

ただ言えるのは、
我々は・・・
肉体の五感を経験しつつ、様々な思索を行っていること・・に
気付いているという事実である。

未だ現実というこの世界に捉われ続けている人は、
意識内面という方向の無限性にそんなに気づいていないため、
「夢などなんぼのもんじゃ?」
「飯食って生きてるだ、さっさと仕事、勉強せんかい!」(笑)
という観念のムチをまともに受けているかもしれない。

飯を食うことや性行為は、つまり肉体の維持と増殖のためのものだし
それは、この(夢の)世界を維持するための勤めのようなものだが、
そういう肉体事、物質事ばかりになった挙句、
ここが「夢の」世界であることを忘れてしまったのだ。

あなたはまだ、現実が現実が・・と思っているだろうか?



ふつう我々が言う「夢」とは、寝ている間に観(み)る、
現実とは少し異なった、おぼろな感じの
「こころの経験?」のようなものである。
そうではないか?




わたしとは何か? の考察 その12

2019-02-11 07:03:04 | 語り部の章
わたしが眠ると世界は消え、わたしが目覚めると世界が立ち現れる。
これが毎日の基本中の基本である。

世界・宇宙があって・・その中に”わたし”がいる・・は、
いわゆる「3次元的世界認識」である。
事実・真実ではなく・・認識の1形態である。

わたしとは・・、
この身長何cm、体重何kgの物質形である、という認識であり、
その肉体が世界、時空間の中にいて動き回ることからきている。
時空間の中にある様々な物質が存在して動いていることを、
五感の知覚によって、”認識している”ということだ。

つまりこの世界は、知覚・認識の1様式にすぎないということ。
絶対的な現実なんかではない。

ようやく昨今になって、科学的認識の一部では、
この世界は幻想、あるいは仮想現実などとも呼ばれるようになった。

目の前にある様々な物質も、
”あなた”が”知覚し”ているからそこに”存在”する。
また誰かがそれを認識しているからこそ存在している。
存在があって次に、認識する・・と思っていたが、そうではない。

これは・・時間というものは存在しない・・とも密接だ。
あるのは今・・という瞬間であり、
そこには、先も後もない・・、
物があってその後で、それを認識する・わけではない。

パソコン、こたつ、食物、机・・すべて物質と言われる硬いものは、
目で見て、触ってそこにあることがわかるが、

でも、それを・・”認識する”こと・・がなければ、
そこに存在するとは言えない。

もちろん科学的な視覚認識の説明として、
物に光が当たり、その反射によってその物が「見えている」とされているが、
見えている・・その”認識”・・がなければ、
いかに様々なものに光が当たろうと、反射しようと、
そこにどんな物があると知るのだろうか?

物と物がいかにぶつかり合おうとも、どんな化学反応をしようとも、
ぶつかり、反応しあうことが・・勝手に、起きて、
それを自己主張している・・わけではない。

物質が・・それ自身だけで、勝手に存在することはできない。
物質への・・「きづき」や「認識」・・がなければ、物質など存在しないということだ。

これは、
意識がなければ世界はない・・を、
わたしがいなければ私の世界・宇宙もない・・を、
誰にでもある身近な経験を通じて話しているだけだ。

世界・宇宙があって・・その中に”わたし”が存在する・・は、
いわゆる「3次元的世界認識」にすぎず、
事実・真実ではなく・・単なる認識の1形態である。

さらに、それは人間の高度な頭脳が行っているはず・・も、
そういう認識の1様式である。

物質が物質そのもので存在できるわけはなく、
同じく、それがたとえ高度な神経細胞組織であっても、
神経細胞組織・・それ自体で存在しているわけではない。


知覚・認識されざるものは、存在しえない。
逆論理で言えば、
存在とは・・知覚認識の対象として存する・・それ。


言い換えれば、意識があって物質・時空、世界があるということだ。


外の世界でアワアワしているだけでは、決して気づかないこと。
だって、みんなそうしているよ・・に流されて、
人生映画のスクリーン上に展開される物語の中に入り込んだまま、
物質肉体としてへたり込んでいる間は、気づきようがない。
あれがおいしい、これは美味い、これは気持ちよい等という、
集団的な肉体感覚のだまし劇場で浮かれている間は気づきようもない。

余計なお世話ではあるが、例えば、それは
3次元的時空物語の最終フィナーレを、感覚マヒでやり過ごそうとする、
無意識的行為と言えなくもないが、
どんな体験劇場を選択するかが可能な意識の深化
魂レベルの向上進化には何の役にも立たないだろう。


わたしとは何?という、意識存在としての基本中の基本に立ち返ること、
世界が現れるその光源の方向に振り向いて・・初めて悟れることだ。

世界・宇宙があって・・その中に”わたし”が存在する・・は、
私個人の肉体の存在様式を語っているだけであり、
いわゆる「3次元的世界認識」にすぎず、
事実・真実ではなく・・単なる認識の1形態である。

言い換えれば、この世界・宇宙も、”意識”の1様式に過ぎない。

そして、
わたしとは、知覚対象、認識対象物である「この肉体」ではなく、
それに気づき、認識し、意識している・・「それ」である。


わたしとは何か?の考察 その11

2019-02-05 04:36:38 | 語り部の章
あなたが毎日眠っている間に世界は知覚できるか?
いや、できはしない。
そう、眠っているからだ。

眠っている・・と簡単に言っているわけだが、
眠っていること自体・・知らないはずである。

では、あなたはどこにいる?

普通はこう言うだろう。
「どこにいるって?、何言ってんの?ちゃんと布団の上に寝ているじゃないか」

でも、”あなた自身”は、そのとき、それを知らない無意識の状態であり、
その無意識と言われる時には、体も、布団も、世界も何もかもすべて消えている。
いや消えている・・ことすらも何も知らない・・。

人は24時間の間の7-8時間、浅い眠り、深い眠りを繰り返すとされているが、
外側から見た肉体の現象を説明しているだけだ。
あなたの外側、肉体を見ている人の解説に過ぎない。

そのとき、あなたには世界も宇宙も存在しない。
いやあなた自身の意識が・・無い。

眠っているそのとき・・わたしは・・世界を知覚しない。
世界も宇宙も何もかも、知覚していない。
そして”わたしという意識”すら・・知覚していない。
世界も宇宙も存在しているとは言えないのだ。

そして、そのまま・・ならば、
世間的にはそれを永眠・・死ぬこと・・等と言っているだろう。
またそれを忌み嫌い、考えることも避けているため、
生命の本質を見逃してきたともいえよう。

毎日の繰り返しの生活の、
基本中の基本に明示されている事実は、

わたし・・という意識がなければ、世界も宇宙もないということだ。

こんな重大極まりない、シンプルな事実になかなか気づかないのである。

oh, my GOD!

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いわゆる3次元的世界観では
物質、肉体という現れた事象、つまり知覚対象物が実在であると思い込んでいる。
そのもっとも大きいものが宇宙であり、
その中に天体、惑星、地球という巨大な動く物質形態があって、
さらにその中に偶然に生命が出現しているものと考えているだろう。

その小さな世界の中に、例えばこの地球に・・偶然に・・(笑)
鉱物・植物・動物、人類などと分類された生命・非生命が存在すると考えている。
というか、なんとなくそう教わってきたわけだ。

また、その中の1人が私個人であるとしている。
そして私個人は、生まれて死ぬ運命にある儚い存在であると、そう思っている。
そうではないか?

さて、その壮大な宇宙も、あなたが眠ってしまうと、
その存在自体が・・消えてしまうということだ。

そして目覚めると、再び同じような宇宙があるため、
あの壮大で膨大な時空間である宇宙のほうが実在であると・・思い込む。

それは物量の比較観念によって優劣を決めているからだ、
「わたしなんかとてもとても・・」、どころではなく、
小さな塵、チリの1つにも及ばない・・となる。

つまり、
肉体、体、物質顕現の 物量比較の思考に”落ち込んでいる”わけだ。

しかしながら、

宇宙、惑星、天体、地球、山脈、海・・つまり壮大な世界・・は、

あなたが眠るとき・・あなたの世界から消え去るのだ!

あなたが目覚めるとき、またそこに出現する。




それはあなたが映画を観ているようなもの。

あなたは映画に見入り、感情移入して、

感動し、あるいは悪銭苦闘しているが、

決して・・その映画の中にはいない・・・のである。


わたしとは・・勇壮・膨大な宇宙を超えた「意識」だと気づけるだろうか?

これこそ、実にまことに・・壮大な事実であるため、

宇宙の中の塵である肉体個人には思いも及ばない。


しかしながら、
わたしとは物質肉体である・・という集合的誤信から転じて、
意識”であるという観点に転換することで、

その驚愕の真実に、文字通り、おののき、驚くのだ。


この世に常識と化している3次元幻想思考を取り払うまでは、
”意識的宇宙”の真実に気づくことはあるまい。

それまでは、波間に浮かぶ泡のように、
世界の中の塵として、現れては消えゆく定めの肉体個人を決め込み、
苦痛と快楽のはざまで行きつ戻りつを、飽きるまで繰り返すということだ。


しかしながら、そう、気づけば・・・、

それもまた・・夢のまた夢である。

意識の観る実にリアルな・・「夢」、それを現実と言っているのだ。


宇宙、惑星、天体、地球、山脈、海・・つまり壮大な世界・・は、

あなたが眠るとき・・あなたの世界から消え去るのだ!

あなたが目覚めるとき、またそこに出現する。


わたしは物質身体ではなく・・意識であることがわかるだろうか?

言葉、概念で表現するのは簡単なのだが、実にこれは大いなる「意識転換」だ。

しかしながら、単なる概念知ではなく、

自らの「在る」ことに・・深く気づく意識的行為が必要である。