気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

魂は多次元 (2)魂の波動遷移の時至る

2015-04-27 07:36:47 | 魂の諸相
魂は例えて言えば、あらゆる意識・エネルギー・波動の根源とも言えるだろう。

聖書には始めに「言葉」ありき、つまり意識と波動があったと記されているように、

また人が何事かを行為する以前においては、先ず明確な意識と意図があるように、

またあらゆる物質といわれるものは、波動、エネルギーに還元されるように、

宇宙を顕している「全一性」は、

無限に微小から無限大に至るところの、

無限相に及ぶ波動形態を示している。

「言葉」とは、単なる音声のことではなく、「想いが乗った波動」という意味である。

それはシンプルで深遠な原理、つまりあらゆるものは「波動」ということだ。

見る物、聞くもの、触るもの、あらゆる事物は「波動」によって生じている。

そして、人の目に見える事象、物質は、その波動周波数帯域のほんのごく一部である。


先端物理学でのひも理論、超ひも理論は、素粒子以下のレベルの「弦」のようなエネルギー振動で宇宙を説明しようとするものだといえるだろう。

波動には最大から最小に及ぶ周波数があり、周波数帯域がある。



我々の知っている範囲の原子核は、全て電磁波動エネルギーの局所化した姿であると言える。

人間の体も動物も植物も、岩も土地もあらゆる物質形態は、(電磁)波動エネルギーということだ。

それが証拠に、原子は電磁波動を吸収したり放出したりして、別の核種、物質に変わってゆく。

これは、電磁波動の吸収・放出によって物質組成が変わることを意味している。

・・・

また、さらに高次元的波動である、人の想いもまた波動であり、波動であるからこそ、以心伝心やテレパシックな意思の疎通、直観による事実把握が出来るのである。

想念つまり思考や感情も「波動」なのだ。

あなたやわたしたちの思い描くイメージや感情さえも「波動」なのである。


頭の中で何かを描くことが出来るだろう?

毎日、毎瞬行っていることだ。

他人へのイメージや感情、時折思い出す風景さえも、その波動帯域の中で実際に存在しているのである。

「思念波動」は電磁波動ではないが、スマホやTVの画面を描くシステムと同じように、よく言われる表現であるが、精妙極まりない多次元層での波動システムによっているのだ。

想念波は、電磁波のような物質密着レベルでない<相>というか、高い次元というか、そういう帯域にある波動と言えるだろう。

・・・
この想念も波動であることはバクスター効果といわれるものでも理解できる。

犯罪心理学の専門家であったアメリカのバクスターは、たまたま植物に「ウソ発見器の電極」を付けたところ、植物が人間の想いに強く反応することを発見したのである。

そう、想いやイメージも、多次元宇宙というか、空(くう)というか、その波動帯域に存在しているものへの同調と受信、送信なのである。


無限の存在波動域のことを多次元宇宙といい、また様々な「部分周波数帯域」のことをそれぞれの世界と言っていいだろう。

多次元宇宙には、様々な宇宙があり、恒星や惑星があるのは、多くの部分周波数帯域、チャンネルがあるということを暗示している。

それぞれの衛星TVや通信システムが多チャンネルを持っているようなものである。

・・・

あらゆるものが波動として存在しているわけで、

その波動で構成されているこの世界が、実は幻想であるという言い方も、

この地上の人類世界は、つまり波動で描き出されている、3次元的スクリーンに過ぎないということの謂いである。

平均的な人類の認識している波動域が、ごく一部の物質密着的なものだということだ。



幻想といっても、何もぼんやりしたような「幻想」という意味ではなく、常に千変万化する波動世界であるという意味なのだ。

魂・意識は同じく、

無限の可能性を有する、あるいは無限層で構成される多次元「波動」
といってもいいだろう。

その在り方は、まさにいわゆる宇宙創造主というか神というか、根源生命というか、宇宙存立の原理というか、

それとまさしく同じものである。

あなたである「宇宙の一部」は、・・・本質において・・・宇宙そのものである。

物理的、計測的、3次元的な認識では、人など無限大の宇宙の単なる微小片と観てしまうが、

それは極めて低い次元認識であり、何g、何m等という大きさ・重さの物量的な物差しを

当てているに過ぎないのである。

・・・

想いや感情、イマジネーションなどは、どこにもどんな制約もない。

そして、それらこそが生活や文明、物質的表現形態の「原因」でもあることに、

今は多くの人々が少しづつでも気付き始めた段階であり、

いわゆる物質性を超えた、精神性の重要度に再び気付き始めた段階である。

それはまた、魂の表現形が、内在する無限の波動域の、さらにより高い波動域にその「意識の軸足」を移行する時期であると言えるだろう。

簡単に言えば、想いや感情で表出されるところの「魂」の波動周波数が、低い振動域から高い周波数に移行することである。

映像システムが白黒TVからアナログTVへ、そして地上波デジタルへとより高周波数帯域に移行したように、

あらゆる宇宙の、あらゆる生命表現形は、低い周波数から、それらを含みながらも、より高いより広い波動エリアに拡大進化するようになっているのである。

繰り返しになるが、今は、もうその時なのである。

魂の無限性に気付くか、気づかないか、そのどちらかだと言えようか。








魂は多次元 (1)人は本来生きとおし

2015-04-23 07:11:05 | 魂の諸相
あなたはもう、自分が死んだら全て終わりだと想ってはいないだろう。

そりゃそうだ、あなたは本質において「魂」であって、時間空間など超えている存在だ。

また「そう想う」こと自体が、既に自己創造的であり、またそれが本質的な進化であるということなのだ。

「自己がそうだと想う」ことは即ち「自己認識」であり、それは勝手な想像ではなく、自己創造であり、かつその意識存在の「真実」なのである。


ややこしい表現であるが、

想いによってこそ「自己」を創り上げているということでもあり、

それはまた、

時空を超えた創造主の一部としての「自己」を思い出すということでもある。

意識を有する存在としての人間は、

自己認識を拡大することで、さらに大いなる「自己」即ち、「魂」に気付くようになる。

・・・

地上にいる人々が、「生まれ変わり」に気付くようになると、

自らが実に様々な人生を送ってきた、また送っている存在であるということにも気付くようになる。

当初は漠然とながらでも、自分は一時の肉体としての自己だけでなく、肉体自我を含むさらに大きな自己の在り方に気付くようになるということだ。


様々な場所、時代、歴史のなかで、その様々な「生」を経験する「共通する母体」のことを「魂」と言っているはずである。

3次元的で物質的なだけの自己認識、死んだら終わりの、その場だけの偶然の生命としての狭い自己認識を越えて、

数々の生き様を演じている、その「共通の自己」なるものに気付く様になるのである。


魂、つまり様々な生における共通の自己のことを、大きい「わたし」と言い、

今の常識的なひとりの個人のことを「私」というならば、

例えば、

それぞれの歴史、人生舞台での特定の個人としての自己を「私」といい、時や場所を違えて生きてきた、色々演じてきた俳優、役者のことを「わたし」:魂という風にとらえてもいいだろう。

ひとりの役者が、実に様々な配役となって演技しているという意味である。

役者、俳優はひとりであるが、様々な演劇・ドラマにおいて主人公や脇役、通行人などの様々な出演経験をするわけだが、それらは全てひとりの役者が行なっているように、

魂、つまり<大きなわたし>は、様々な人生、当然生と死を越えた人生経験、生まれ変わり経験を行ないながら成長しているのである。

その魂、<大きな自己>に気付くことが「目覚め」といえるものである。

自分が、死んだら終わりの、ポット出の肉体生物でしかないという迷妄観念体系からの目覚めである。

自己認識が深化する、つまり「わたしは何か?」の問いかけが進むこと、

肉体自己を凌駕した、時代や場所を超えた、つまり時空を超えている意識レベルに拡大されるならば、無理をせずとも、自分の中にある前世や過去生の断片記憶もよみがえってくる。

ふとしたイメージ湧出や、夢での不可思議な情報、変性意識で得られる情報などで、自分で記憶の断片を思い出すか、あるいは退行催眠やリーディング等の手法で思い出すかは問題ではなく、

要は、過去生やら前世と言われる記憶情報、時代や場所を超えた経験記憶を蔵するところのわたし、生と死を超えた次元にある、その共通する「生きとおしの自己」に気付き始めるということである。

目覚める、覚醒するということは、何も虚構の政治・社会体制において、大衆が常に騙されていることに気付くというようなレベルのものではなく、

現在の肉体自我のみが「わたし」であって、

死んだら終わりの、儚く弱い存在であるという、

いつの間にか外から与えられた「迷妄観念」から自由になることなのだ。




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人間は本来、多次元存在である

2015-04-12 08:06:22 | 魂の諸相
人間とは何か?とは、「あなたとは何か?」、ということであり、

それぞれにあっては 「わたしとは何か?」という問いかけである。

この「わたしとは何か」という自問自答から得られてくる、自分自身への理解こそは、
生きている上での、何ものよりも大きく重要なテーマに相違ない。

なんとなれば、

外の世界、人間関係等の経験の、そのあらゆる接点の「中心」にあるのは「わたし」以外にないからである。

「わたし」がなければ、その知覚対象たる世界など無いということである。

そして多くの人々の、それぞれの「わたし」意識がなければ、集合世界等ないということである。

<人間は神と共同創造することが出来る存在だ>という言い方は、まさしくそういうことを示している。

わたし・・意識がなければ、わたしは・・世界を知覚することが出来ない。


そう、

特に何か特別なことを、こねくり回す事が「創造」ということではなく、

意識すること、「在ること」そのものが「世界を創りだしている」という意味がわかるだろうか?

「在ること」そのものが、それぞれの「世界を創りだしている」のである。

在るがまま、まず、それはすでに創造なのである。


・・・・

わたし・・という「意識」がなければ世界を知覚することは出来ない。

例えば、

目やカメラは物体像を捉えているが、それは視覚情報として通過しているだけであり、

その目やカメラ越しに、「あなた」が居なければその情報を「認識」できないのだ。

耳やマイクは音の振動を受けているが、それは音振動の情報が通過しているだけであり、

その耳やマイク越しに、「わたし」意識がなければその情報を「認識」出来ない。

「意識」があってこそ、何かを何かだと「認識」することが出来るのである。

・・・
例えば、人は死んだらそれで終わりだという観念は、半ば当たりだが、半ば大間違いな見識なのである。

人が死んで居なくなった、だからその人は存在しなくなった。

多くの人はそういう風にだけ思っているのが常だし、

死んだら終わりだから、人生等どうでも良いと思っている人もいるだろうし、

死んだら終わりだから、それは怖い事なので死にたくはなく、

例え保守的でも悪くでも、死ぬまで何とか自分を維持すれば良いという風な日和見的な、

あるいは、ずるいあるいは無関心な取りあえずの・・生き方で終始している人も多いだろう。

あなたはどうだろうか?

・・・・

死んだら終わりは・・・半ばその通りだが、半ば完全に見誤っている見識である。

本当に死んだら終わりなのは、あなたから見た他者の「肉体」でしかない、

逆に、

あなたが死んだら「あなた」がどうなるのかを、生きている間には確認できる術がなかろう?

それでも死んだら終わりで何もない・・・と頑固に勝負するひとは、

どこか何か大きな「恐怖」があるからなのだし、また魂レベルにおいて、この物質偏重世界を味わい足りないとしているからであろうか。
・・・

臨死体験の話は、医者から死亡宣告を受けた本人の意識が肉体から外に広がっていることを如実に物語るものであり、

そういう『知覚認識の働きが、肉体を含んだそれより大きい次元範囲で行われているという事象』が、世界で報告され出した背景には事情があるのだ。

どういう事情かと言えば、

<肉体の死滅は、意識(魂)の死滅にあらず>という、より大きい事実認識が、この3次元的世界に浸透してきたということなのである。

スピリチュアルで言われる、より高い元世界に移行しているという意味でもある。

半霊半物質などと言われるもの、あくまでもそれは「どんな物質か」と考えてしまうことに大きな誤謬があるのだ。

・・・
我々はいわゆる3次元的な自己観念、つまり人間は物質組成の肉体であり、その肉体の中の頭脳が全てを認識しているという観念から、解脱しなければならない時期にあるということだ。

それぞれの私個人の肉体は、この体験次元での表現型式、言わば地球という舞台の借り物衣装であるが、

わたし・・であること、その意識は借り物などではなく、

わたしは・・・わたし以外にあるわけもない。

そうだろう?

単純すぎて、物的証拠など必要でない・・直接認識に気付けるだろうか


多くの魂達が、つまり本来、より大きい次元範囲で存在している本質の「わたし」が、

3次元時空の小さな鳥籠のなかにわざわざ入り込み、そこで汲汲としていたということである。

実際のところは、籠に入るも出るも自由な鳥であるにも関わらず、

籠の外に怖れをなして、ほんの数十cmの中をバタバタと動き回り、

狭い範囲で生まれ変わり、死に変わり、お互い同士が自己保身に明け暮れていたということだ。

自己保身に明け暮れるということは、

狭い範囲でぶつかり合い、押し合い圧し合い、極端には攻撃し合い、殺し合いながら、さらなるカルマというものを増産していたということである。

それもこれも、

自分が死すべき肉体でしかないという、刹那的自己認識観念、あるいはどこかプラグマティックな観念支配が故のことだったのだ。

・・・

かーごめ、 
 (自分を閉じ込める籠目:マトリクス世界で)

かーごめ、
 (自分を閉じ込める籠目:マトリクス世界で)

籠の中の鳥は~、
 (3次元閉塞観念に閉じ籠っている私は)

いつ、いつ、出やるー、
  (ほんに、いつ目覚めるのだろう)

夜明けの晩にー
 (少なくとも、そう、ある特殊な時に至れば)

鶴と亀がすーべった 
(千年、万年という幻想の時間の囲いが壊れて)

後ろの正面、だーれ?
 (個々としての繰り返し転生を観ていた、本質の・・わたし・・に目覚めるのだ)


そう、目覚める・・その特殊な時、というのは・・「今」・・のことである。





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カルマとは即ち「こころ」のパターン

2015-03-30 07:13:11 | 魂の諸相
こころの自由な働きとその創造力がなければ、カルマというものは存在しない。

動物にカルマがあるか。

植物にカルマがあるか。

あなたは観葉植物やペットたちが、反省や後悔などをしている姿を見たことがあるか。

あるわけもなかろう。

彼らは地球・宇宙という形で顕れているところの、

「宇宙意識」という無限大、宇宙大の意識の中の旋律・波動と一体となっているために、道が外れるということがない。



例えば人間の赤ん坊もそうである。

赤ん坊には未だ世間の「知識」なるものはないが、しっかりと「意識」がある。

周りの者たちが、この赤ん坊は生きている・・と知っているのはそういうことだ。

そこに「生きている」とは、そこに「意識の顕現がある」・・ということ。

何も知らない赤ん坊にも、後で知識や複雑な想い等を生じ得るベースであるところの「意識」があるのである。

なおかつ「意識」の輝きが無垢そのもの、天然自然体を表現しているわけだ。

彼らは、無垢で、愛らしく、無防備で、素直で、命の暖かさを体現しているだろう。

「可愛い」という表現は、愛すことが可能な、あるいは愛の可能性の顕現とも言えるのだ。

地球の壮大な想いの自己表現であるところの大自然もそのようなものではないか。


人間とは、自由な意思を持ち、それによって想像や創造、加工や工夫等を行いつつ、

また大自然、宇宙の調和の流れに同調するということを同時に可能とする存在である。

それらすべての元は、人たる者の「こころの働き」あるいは「想念」、想いや信念である。

そこにある花瓶やえんぴつが、ディズニーアニメのようにペラペラしゃべるだろうか?

そうではあるまい。

それと人との違いは、意識の高度な自己表現性つまり「こころの働き」なのである。


こころの働きは、単なる「こころの中だけ」の働きではなく、

自己の外側への投影、つまり環境・体験となるということである。



宇宙意識という、全ての表現の元にある意識が宇宙を顕現せしめていると同じく、

人にあっても、自己内面に在る、本当に微妙なレベルでの様々な想いの痕跡、傷痕が、

気付かず知らずの間に、自己体験という映写幕に投影されているのである。



本当に気づかねばならないのは、外側にある他者の姿、社会の悪や非道ではなく、

それぞれの人間の中にある「こころ」の綾、色、反応の癖なのだが、

これこそが<灯台下暗し>、なかなか気づけない事でもある。

こころの波動というか、色合いというか、条件反応というか、

自然・宇宙の在り方とはそぐわない部分、絶対に気付くべき部分を称して「カルマの原因」と言って良いだろう。


カルマとは「繰り返すこころのパターン」であり、当然ながら因果として、ある時は感情を逆立て、ある時は落ち込むような「嫌な事象の繰り返し」として現れるのだ。

やり残しの人生と転生の色合いを決めるのも、そのカルマというこころの繰り返しパターンである。


では、それを修正・昇華するために何をすべきだろうか。

そのもとにあるのが、それをそうだと生ぜしめる・・・自分の「こころ」にあることは明白であることを自覚せねばなるまい。

自分のこころのなかの雑多な「おもちゃ箱」を自分で観てみることだ。

何がゴミで何が宝なのか、

こころの動き方を観ることである・・・何事かの出来事の経過であっても、

自分のこころがどういう反応をしているか、どういう感情を発しているか、

常に観ていることである。

外側の何かがどういう動きをしているかではなく、

それを見ている・・・わたし・・・が、

どういう想いや感情の反応をしているか・・の方を、

こころの目をそらさずに観るのである。


これは、あの禅(ぜん)の根本でもあるところの、

そして日常においていつでもどこでも行われるべき、

魂の学習の・・・いわば虎の巻・・と言えよう。


外側の社会、世界、人々は、例えそれが、

本当に、・・・実に、実にリアルな姿ではあっても、

それぞれの・・・わたし・・・の観ている投影映像なのである。




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カルマは、それ「手離す」ためのもの

2015-03-22 15:58:26 | 魂の諸相
今の時期は、あらゆるものが「終わり」・・・というのが相応しい時期に来ている。

いつでもそうなのだが、なるほど、『終わり』は、即ち『始まり』である。

ところが何かの『執着』がある場合には、軋轢や摩擦を生み出してしまうもので、しっかりと終わるということが出来ないということにもなる。

人間も、国家も、文明さえもそうだ。

軋轢、執着、欲望、自我の主張は・・・つまり過去の幻影にこだわるという、自他の関係から来るエゴ同士の『葛藤』を生じさせることになる。

世界のあらゆるところで、いまそれが行われているだろう?

昨年、アラブの重要地域に、世界中にわざわざ「憎悪」を振りまいて、人々の憎しみと驚きを増やそうとしている、まぼろしの国が出現しているだろう。

見え見えだが、諸国民の葛藤を煽ってどうするのだろうか。

難しげな政治戦略や、諸国民の事情やら何やら・かにやらあるというわけだし、

当然の国家や企業の生き残りをかけて戦うだとか、まことしやかな争いの傾向が増えているのは

結局は「執着」をいかに続けるかという、想いとその行為に他ならない。

第3次世界大戦も辞せずとか、そういう会話がちらちら出てきているような切羽詰まった段階を演出している状況。

この世界のあらゆるところに「葛藤」の存念があり、それが形になって噴出してきているのだ。

・・・・

ところで、『葛藤』とは、ある意味で『手離せないもの』という意味であろうか。

意識の中にある「執着観念」、葛藤、特別な思い入れ、

その良し悪しに関わらず、未だ手離したくない想い、・・・それが「執着」というものである。

そして、その『葛藤』があるならば、

それが「重り」となって、その終わりの『次』の始まりにも持ちこされることになる。

それがいわゆる「カルマ」というものだ。

あなたも私たちも、それで『ここ』に居ると言ってもおかしくない。



そう、物質で出来たマトリクスは、眠りをいざなう「揺りかご」のようなものであり、

その揺りかごで眠っていながら悪夢を観つつ、

必死になって頑張っているという、実は笑えない喜劇を演じている無意識的な自分自身に気付けるだろうか。


確かに、カルマは、例えばコンピュータのプログラムでの、

繰り返しの無限ループというような、自分の想いで書き込んでしまう、

バグやエラーのようなものでもあるが、それも経験し直視しなければわからないし、書き換え、解消することも出来ない。


カルマの生産、清算という繰り返しの中で、

いつか

「何か変だな」と気付ける瞬間が来るものだ。

それが「今の時代」だと言っても・・・わからない場合はわからないわけで、

つまり意識上に、自らの宿題テーマのイメージが遡上してこなければ、

それは持ちこしとなり、

カルマという宿題帳をもって、新たな学期を迎えるわけである。

魂の成長なるものも、学校での学習プロセスによく似ているわけである。

今の学校は知識とその繰り返しの習熟度が基本だが、

魂レベルでの学習は、この世界ならではの「テーマ」への気付きや、

こころと肉体を経由した、宇宙との調和を学ぶ為の体験学習とも言えるだろうか。


あなたもそうなのだが、

この世界に来た魂達は、目覚めるまでは、全くの無知の状態、言わば意識的な暗闇で、

右往左往するという、得難い経験をもできるという、実に不快というか、ある意味では奇跡的な体験が出来るという「幸運」に恵まれているのである。

しかし・・・、永遠に同じことは飽きが来る。そうだろう?

ベルトコンベヤーで同じ繰り返し作業では、いくらお金をくれると言っても続けることなどできっこない。

それが意識を有するまでに自らを高め、拡大させたところの「人間」である。


その繰り返しの輪を断ち切るには、

「ありゃりゃ、何か変だぞ」という・・自問自答の問いかけ、

あるいは自らに・・・自らの・・・問題意識が生じなければならない。

そう、それは、目覚めたときにだけわかることなのだ。

目覚めるというのは、肉眼の瞼の開け閉めの話ではなく、意識の眼が開くということである。

「われ・・在り」

「わたしは・・・である」

という自己定立原理に気付くということだ。


プログラムでいうところの、IF・・・、THEN・・・、それを勘違いすれば、無限に堂々巡りの道も可能であるということだ。

・・IF(もし)、(ならば)THEN・・・・どうなる?・・・

ではなくて、自分がどうあるか、どうするか・・・ということに尽きるのである。

自分で自分の成果を刈り取るということである。

カルマとは、それは魂の『学ぶべきテーマ』とも言えるのだが、

それは様々な他者の思惑、与えられた想念を『捨てること』が出来てこそ、『つかむこと』が出来るものなのだ。

捨てれば、つかめる物はなんだろうか・・?という問いかけは、

それ自体が成立していないと考えること、あるいは、意味わかんなーい・・かも知れないが、

それは頭のなせる業であって、3次元的物量加減算思考から来ている。


大切なことは、今生きている「肉体」やあらゆる物質形態を、つかんで離さないということではなく、

それを潔く手離すことが出来る「意識レベル」に在る・・・ということである。

大切なことは、身体の手でつかむのではなく、またこころの存念で執着することでもなく、


あらゆるものを手離しているという、物への執着のない「意識」のことである。

もともと誰も皆、本来無一物でこの世界に生まれてきた。

そうだろう?

意識を有する存在が、それを生み出しているところの物質で生きている、それが何をおいても大切だと想いこむこころの癖、そういう自縄自縛の観念から自由であるということだ。

執着を外す・・・?しかし、それは死んでいるということを意味しない。

物のように、死ぬことはあり得ない。

あなた・・という意識は、単なる物質ではないという自覚レベルに明確に上がるならば、

物や事象は生起していたとしても感情や恐怖を逆立てることもなく、

そうそう、それはそれだよな・・・というポジティブな意識、

あるいは全てを在るがままに観ることが出来る一段と高い視座を確保することになる。

そうはいっても現実がね・・、と、うん確かにそうだ・・という意識の間で、上がったり落ちたりする不快でやるせないようなそんな時期もあるものだが、それは意識的な成長の証拠なのだ。


比喩的な話だが、

10円玉をいつまでも必死にその手に握っていては、ほかの物がつかめない。

しかし、その手を開けば、あの空さえもその手の平に載っているのである。

しかし、空じゃ飯が食えないじゃないか・・という想いはあくまでも見当違いの観念、

手離すことで、結果、大切な何かが、嫌も応もなく得られてしまうものである。

あるいは宇宙・大自然の移り変わりと同じく、新たなる変化ともいえようが、

あるいは、手離すことで得られる「こころの軽さ」を喜ぶことが出来る体験、

それは魂の学び・・の中での・・・得難い「収穫」とも言えようか。


日本人は桜の花をこよなく愛する民族とされている。

桜の花の咲く時期や、その美しさと、散り際の良さに感じ入った日本の古代人の思い入れや気づきが、

そういう桜への愛という形に生きているのだろう。





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