●常識の根底にある恐怖の観念
明確に言えば、大人の多くは生と死の何たるかを知らないし、また生を、生き生きとした輝くものにするところの「死」を、逆に怖れるような「観念」に染まっているだけのことなのだ。
死についても本当の事は知らず、ただ死を怖れている、あるいはまた生をも怖れているということであろう。
大人は知ったかぶりをしているだけのことで、生も死も何も知らず、知らないがゆえにこそ怖れているだけのことであろう。
大人が騒ぐ低レベルの経済・GDP成長信仰や政治や、国家間のくだらぬもめごとも、たいがいは自己保身毀損への怖れが元にある。
●身体=自己という刷り込み観念
死への恐怖とは、突き詰めれば、すなわちまず身体を失うことへの恐怖である。
違うだろうか?
しかしながら、身体は、元々生れた時に備わったものであり、それが成長する体験を経るとはいえ、いわば地球からレンタルしているようなものでしかない。
身体など、もともと持ってはいなかったのが事実である。
ここでの、この生自体も元々なかったわけである。
身体も生命も、借りものである。
これが事実ではないのか。
生や死を怖れるのは、この事実から眼をそらしているからだ。
何も持ってはいけないことが理解出来れば、執着のない、清々しい生が体験できるだろう。
死とは怖れ、忌み嫌うものではなく、生を全うするための生命の1側面なのだと気付けるだろう。
生と死は同じく「生命」の表現のことなのだ。
●肉体個人:エゴの幻想
大自然から借りた有機組織:身体を、いつの間にか自分自身であるという観念に固まってしまうような程度の文明であったこともまた事実ではあるが、
人は皆、この一見まともそうでありながら、実は虚妄の、現文明の垂れ流す観念を超える必要がある。
そのうち世界では、科学や技術を使って、生や死を超えるような何か特別のものが出来るかも知れない・・などという嘘を期待してはいけない。
あなたは既に特別な存在なのだ。待つことも恐れることも、また期待することも必要がない。
自己を貶める必要など全くない存在が、すなわち、あなたなのだ。
汝自身を知れ・・・という深遠な言葉を知っているならば、
自ら問いかけるべきであろう。
わたしとは何なのか?
まさか私とは肉体である・・と言うのが最終結論ではあるまい。
汝は肉体である・・という観念は、あなたは単に有機的物質にすぎない、という観念のことなのである。それが世間一般の漠然とした通念であろう。
しかしながら、
私は、わたし自身を身体であると思っている・ところの存在であるというのが真実なのだ。
それをR・モンロー流にいえば「フォーカス」している、あるいは焦点を合わせている、あるいは自己投入している・・ということだ。
このように、あなたもわたし達も「意識的存在」であり、単なる物的存在ではない。
そう、
そうであるがゆえに、わたしは肉体だ、と思い込むこともまた可能なのだ。
●恐怖はエゴ的自己の抱く虚妄の観念
どこか唯物論的な固定観念を、正しいものとして無意識的に信じ込んでいるがゆえに、身体の毀損や喪失を最も怖れるのは、至極当然の成り行きである。
人類の多くの活動・非活動は、『自分の身体』を維持するための方策でしかない、といえば言いすぎだろうか。
経済も社会も、仕事も人間関係も、この『自分=身体』をいかに安楽にするかということで行われているといっても過言ではない。
気付けば、多くが身体:自己を失う怖れが根底にあるようだ。
失策を怖れ、競争での敗北を怖れ、失業を怖れ、地位の転落を怖れる。
仲間はずれを怖れ、病気を恐れ、怪我を怖れる。
ましてや身体を丸ごと失う「死」は最も怖れられ、忌み嫌われることになるのも、当然だろう。
生存のための駆け引きや自己への利益誘導、他者より優位に立とうという欲求は、個人でも社会でも、また国家でも、それがあからさまに行なわれるような世相になっている。
これらは多くは、肉体を毀損し失うことへの恐怖から来ているのだ。
怖れをベースに存在している私、それを称して個我、エゴの自己という。
しかし、なるほどとはいえ、一体全体何がそれほど怖いと言うのだろうか?
●人は意識的存在である
人間とは意識的存在であり、物質的存在ではない。
それは普段のあなたやわたし達の在り方を見れば理解が出来るはずだろう。
そう、常に何かを意識しているはずだ。「想い、感情、想像・・」すべて意識の働きのことである。
その『意識』とは、宇宙を顕し続けるところの『根源意識』と同質であり、その意味で我々は「根源意識」と違ってはいない。
人の意識の拡大が未だ途上にあるだけのことである。
宇宙、森羅万象は根源意識のダイナミックな自己認識であり、人間の有り方はその根源意識に含まれる、同質の意識のダイナミックな自己認識なのだ。
●あなたは否応なく、常に自己を創造している
わたしは「わたし」である。 あるいは、
わたしは「わたし」であるところの存在である。 あるいは、
わたしは有る。
これら全て、意識的存在としてのその存在原理を言い表したものであるが、
その「わたし」の処に、肉体・・を挿入して、固定化してるだけのことだ。
すなわち、わたしは「肉体」である。という、意識による固定化である。
わたしは○○という名前である。わたしは○○の経歴である。・・・・
我々が、その現れた刹那の自己の投影物に、自己同化してしまうお陰で、その「投影物」が変化し、あるいは消えて行くこと自体に恐怖を覚えることになる。
投影物が自分自身であると錯覚しているがゆえに、その、おのれの投影物自体の消滅、肉体の消滅、すなわち『死』に恐怖を覚えるのだ。
あなたが「それ」そのものに自己を投入しているからこそ、それが失われることを怖れるということである。
人間の生とは、根源意識による生命表現の1つであり、死とは同じく生命表現の切り替わりであり、死それ自体も生命表現に他ならないのだ。
●皆、地球映画劇場の主人公のようなもの
例えていえば、我々は映画館にいつの間にか入り、客席に座って映画を観ているようなものだ。
周囲は暗く、周りに他の観客がいるのはわかるが、たった一人でスクリーンを見ている感じは普通の映画館と同じだ。
その映画の主人公は、それぞれの観客自身であり、常にスクリーン上の主人公たる自分に自己投入しているわけである。映画が面白いのは、いつの間にか銀幕上の主人公に自己投入してしまい、その中で行なわれる物語にハラハラドキドキすることにあるからだ。
またその映画は実に三次元的立体感を持ち、身体の知覚機能によって、我々の周囲が全てスクリーンのようなものなので、なお更のことリアリティを感じるものがある。
例えていえば、
あなたもわたし達も、この地球という生命圏で、三次元的な立体スクリーンを観ているわけであるが、往々にして、その中に完全に没入・自己投入することになり、その上映している内容が全てだと錯覚してしまうようになっている。
数十億の人々が、上映されている映画の、それぞれの主人公に自己投入しているわけだ。
映画での恐怖や快楽の遊びを体験しているというわけだ。
あなたも今、そうではないのか?
その上映の一定時間後の幕引きは、即ち「死」といわれる幕外での休憩である。
多くの存在が、その映画を堪能したと考えるまでは、その続きを観たいと思うものだろう。
その場合、上映館の周囲の休息場所から再びスクリーン席に戻り、観客席で再び目覚め、その続きを観ることも出来るのだ。
続きといっても、再び何か別の興味あるストーリーの映画に再登場するという形をとるものだ。
例えて言えば、それが霊界・地上界経由での輪廻・転生ということになるだろうか。
その繰り返しの映画鑑賞の間に、いつの時にか、その映画を観ている「当のわたし」を思い出すことになる。
あるとき、何かのきっかけで、我(われ)に帰ることもある。
それは覚醒や悟りと言われる、本質的な気づきのことでもある。
わたしは、即ち「わたし」である・・
自己投影している先の映画上の主人公ではなく、スクリーンに投影している当の主体である「本来のわたし」に気付く時が来る。
そう、わたしを観ている「わたし」に気付くのだ。
その本来の「わたし」とは、投影された者、現象化した者ではなく、その因たる「わたし」のことである。
あなたは「投影物」でなく「投影システム」そのものであるとも言えるだろうか。
あるいは、
あなたとは、映画の陰影を創り上げる元の「光源」自体のことである。
すなわち我々は「光源」自体である、また根源自体でもあるのだ。
あらゆる形態を顕す事ができる無限の振動波とも、根源波動とも、あるいは「光」ともいえるもの、それが当の「わたし」である。
あなたやわたし達が「光」であるというのは、そういう意味でもある。
光とは、根源から発せられた不滅の命(いのち)のことを謂う、
すなわち、今の、あなたのことである。