気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

生と死の真実(2) 地球三次元映画館

2010-09-26 10:55:10 | 覚醒意識

●常識の根底にある恐怖の観念

 

明確に言えば、大人の多くは生と死の何たるかを知らないし、また生を、生き生きとした輝くものにするところの「死」を、逆に怖れるような「観念」に染まっているだけのことなのだ。

 

死についても本当の事は知らず、ただ死を怖れている、あるいはまた生をも怖れているということであろう。

 

大人は知ったかぶりをしているだけのことで、生も死も何も知らず、知らないがゆえにこそ怖れているだけのことであろう。

 

大人が騒ぐ低レベルの経済・GDP成長信仰や政治や、国家間のくだらぬもめごとも、たいがいは自己保身毀損への怖れが元にある。

 

 

●身体=自己という刷り込み観念

 

死への恐怖とは、突き詰めれば、すなわちまず身体を失うことへの恐怖である。

 

違うだろうか?

 

しかしながら、身体は、元々生れた時に備わったものであり、それが成長する体験を経るとはいえ、いわば地球からレンタルしているようなものでしかない。

 

身体など、もともと持ってはいなかったのが事実である。

ここでの、この生自体も元々なかったわけである。

身体も生命も、借りものである。

 

これが事実ではないのか。

 

生や死を怖れるのは、この事実から眼をそらしているからだ。

何も持ってはいけないことが理解出来れば、執着のない、清々しい生が体験できるだろう。

 

死とは怖れ、忌み嫌うものではなく、生を全うするための生命の1側面なのだと気付けるだろう。

 

生と死は同じく「生命」の表現のことなのだ。

 

 

●肉体個人:エゴの幻想

 

大自然から借りた有機組織:身体を、いつの間にか自分自身であるという観念に固まってしまうような程度の文明であったこともまた事実ではあるが、

 

人は皆、この一見まともそうでありながら、実は虚妄の、現文明の垂れ流す観念を超える必要がある。

そのうち世界では、科学や技術を使って、生や死を超えるような何か特別のものが出来るかも知れない・・などという嘘を期待してはいけない。

あなたは既に特別な存在なのだ。待つことも恐れることも、また期待することも必要がない。

 

自己を貶める必要など全くない存在が、すなわち、あなたなのだ。

 

汝自身を知れ・・・という深遠な言葉を知っているならば、

自ら問いかけるべきであろう。

 

わたしとは何なのか?

まさか私とは肉体である・・と言うのが最終結論ではあるまい。

 

汝は肉体である・・という観念は、あなたは単に有機的物質にすぎない、という観念のことなのである。それが世間一般の漠然とした通念であろう。

 

しかしながら、

 

私は、わたし自身を身体であると思っている・ところの存在であるというのが真実なのだ。

 

それをR・モンロー流にいえば「フォーカス」している、あるいは焦点を合わせている、あるいは自己投入している・・ということだ。

 

このように、あなたもわたし達も「意識的存在」であり、単なる物的存在ではない

そう、

そうであるがゆえに、わたしは肉体だ、と思い込むこともまた可能なのだ。

 

 

●恐怖はエゴ的自己の抱く虚妄の観念

 

どこか唯物論的な固定観念を、正しいものとして無意識的に信じ込んでいるがゆえに、身体の毀損や喪失を最も怖れるのは、至極当然の成り行きである。

 

人類の多くの活動・非活動は、『自分の身体』を維持するための方策でしかない、といえば言いすぎだろうか。

 

経済も社会も、仕事も人間関係も、この『自分=身体』をいかに安楽にするかということで行われているといっても過言ではない。

 

気付けば、多くが身体:自己を失う怖れが根底にあるようだ。

 

失策を怖れ、競争での敗北を怖れ、失業を怖れ、地位の転落を怖れる。

 

仲間はずれを怖れ、病気を恐れ、怪我を怖れる。

 

ましてや身体を丸ごと失う「死」は最も怖れられ、忌み嫌われることになるのも、当然だろう。

 

生存のための駆け引きや自己への利益誘導、他者より優位に立とうという欲求は、個人でも社会でも、また国家でも、それがあからさまに行なわれるような世相になっている。

 

これらは多くは、肉体を毀損し失うことへの恐怖から来ているのだ。

 

怖れをベースに存在している私、それを称して個我、エゴの自己という。

しかし、なるほどとはいえ、一体全体何がそれほど怖いと言うのだろうか?

 

 13

 

●人は意識的存在である 

 

人間とは意識的存在であり、物質的存在ではない。

 

それは普段のあなたやわたし達の在り方を見れば理解が出来るはずだろう。

 

そう、常に何かを意識しているはずだ。「想い、感情、想像・・」すべて意識の働きのことである。

 

その『意識』とは、宇宙を顕し続けるところの『根源意識』と同質であり、その意味で我々は「根源意識」と違ってはいない。

 

人の意識の拡大が未だ途上にあるだけのことである。

 

宇宙、森羅万象は根源意識のダイナミックな自己認識であり、人間の有り方はその根源意識に含まれる、同質の意識のダイナミックな自己認識なのだ。

 

 

●あなたは否応なく、常に自己を創造している 

 

わたしは「わたし」である。  あるいは、

 

わたしは「わたし」であるところの存在である。 あるいは、

 

わたしは有る。

 

これら全て、意識的存在としてのその存在原理を言い表したものであるが、

その「わたし」の処に、肉体・・を挿入して、固定化してるだけのことだ。

 

すなわち、わたしは「肉体」である。という、意識による固定化である。

 

わたしは○○という名前である。わたしは○○の経歴である。・・・・

 

我々が、その現れた刹那の自己の投影物に、自己同化してしまうお陰で、その「投影物」が変化し、あるいは消えて行くこと自体に恐怖を覚えることになる。

 

投影物が自分自身であると錯覚しているがゆえに、その、おのれの投影物自体の消滅、肉体の消滅、すなわち『死』に恐怖を覚えるのだ。

 

あなたが「それ」そのものに自己を投入しているからこそ、それが失われることを怖れるということである。

 

人間の生とは、根源意識による生命表現の1つであり、死とは同じく生命表現の切り替わりであり、死それ自体も生命表現に他ならないのだ。

 

 

●皆、地球映画劇場の主人公のようなもの

 

例えていえば、我々は映画館にいつの間にか入り、客席に座って映画を観ているようなものだ。

 

周囲は暗く、周りに他の観客がいるのはわかるが、たった一人でスクリーンを見ている感じは普通の映画館と同じだ。

 

その映画の主人公は、それぞれの観客自身であり、常にスクリーン上の主人公たる自分に自己投入しているわけである。映画が面白いのは、いつの間にか銀幕上の主人公に自己投入してしまい、その中で行なわれる物語にハラハラドキドキすることにあるからだ。

 

またその映画は実に三次元的立体感を持ち、身体の知覚機能によって、我々の周囲が全てスクリーンのようなものなので、なお更のことリアリティを感じるものがある。

 

例えていえば、

  

あなたもわたし達も、この地球という生命圏で、三次元的な立体スクリーンを観ているわけであるが、往々にして、その中に完全に没入・自己投入することになり、その上映している内容が全てだと錯覚してしまうようになっている。

 

数十億の人々が、上映されている映画の、それぞれの主人公に自己投入しているわけだ。

 

映画での恐怖や快楽の遊びを体験しているというわけだ。

 

あなたも今、そうではないのか?

 

その上映の一定時間後の幕引きは、即ち「死」といわれる幕外での休憩である。

 

多くの存在が、その映画を堪能したと考えるまでは、その続きを観たいと思うものだろう。

 

その場合、上映館の周囲の休息場所から再びスクリーン席に戻り、観客席で再び目覚め、その続きを観ることも出来るのだ。

 

続きといっても、再び何か別の興味あるストーリーの映画に再登場するという形をとるものだ。

 

例えて言えば、それが霊界・地上界経由での輪廻・転生ということになるだろうか。

 

その繰り返しの映画鑑賞の間に、いつの時にか、その映画を観ている「当のわたし」を思い出すことになる。

 

 

あるとき、何かのきっかけで、我(われ)に帰ることもある。

 

それは覚醒や悟りと言われる、本質的な気づきのことでもある。

 

わたしは、即ち「わたし」である・・

 

自己投影している先の映画上の主人公ではなく、スクリーンに投影している当の主体である「本来のわたし」に気付く時が来る。

 

そう、わたしを観ている「わたし」に気付くのだ。

 

その本来の「わたし」とは、投影された者、現象化した者ではなく、その因たる「わたし」のことである。

 

あなたは「投影物」でなく「投影システム」そのものであるとも言えるだろうか。

 

あるいは、

 

あなたとは、映画の陰影を創り上げる元の「光源」自体のことである。

 

すなわち我々は「光源」自体である、また根源自体でもあるのだ。

 

あらゆる形態を顕す事ができる無限の振動波とも、根源波動とも、あるいは「光」ともいえるもの、それが当の「わたし」である。

 

あなたやわたし達が「光」であるというのは、そういう意味でもある。

 

光とは、根源から発せられた不滅の命(いのち)のことを謂う、

 

すなわち、今の、あなたのことである。

 

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生と死の真実(1) 怖れは虚妄の観念

2010-09-19 10:13:54 | 覚醒意識

●死を怖れる現代文明

我々は長い人生をそれなりに頑張って生きているわけだが、それはいつも死との隣り合わせであることには違いない。

 

生きてあるもの全てに、生と死があるわけであり、それは誰も百も承知なのだが、なぜか「死」というものは忌み嫌われ、、普段の意識の遥か遠くに追いやられているのが現状だろう。

 

死は悲しみであり恐怖であり、忌避すべきものであるという観念が世間一般にあるだろう。従ってそんなもの普段考えたくもないし、とりあえず忘れておきたいものになっているに違いない。

 

死は怖れるべき、忌避すべきもの・・・しかしこれは本当の事なのか?

避けて通れないものを、その眼で避け続ける姿勢に疑問府はつかないのだろうか?

  

●死を恐れ、生をスポイルしている愚行

我々の多くが潜在意識において強烈に「死」を意識し、それを忌避しているために、逆に「生」にしがみ付いてしまうことに気付いているだろうか。

 

我々が生を全うに扱う前に、それに強くしがみ付いてしまう、執着してしまうことになっていないだろうか。

 

例えば、あなたが誰かにしがみ付かれたとしたら、あなたは重くて身動きが取れないだろう。

  

死が怖くて生に執着するために、逆に『生』自体をまともに生ききることが出来ないということに気付いたことがあるだろうか。

死が極端に忌まわしいものだという観念によって、逆に生が色あせてくるのだ。そうであるがゆえに、輪廻を何度も繰り返すはめになることになるだろう。

  

逃げるからこそ、追いかけられるようなものだ。

笑える話ではないか。

  

●恐怖は、過ぎたる自己生存への執着である

死は怖いゆえに、それと真反対と信じる「生」に逃げ込み、いつかそれに執着してしまうことになるかも知れない。生への執着は、生きることを味わう、感じる、学ぶという感覚よりも、自己の周りに無意識に、生存の為の防壁を作るという行為に繋がりやすいのだ。

 

すなわち富や名誉、権威や支配力などの 『自己存続のための防壁』である。これは例えれば天に届くはずもないバベルの塔のようなものでありそうだ。

 

自己存続努力それだけが、生を全うすることだという『勘違い』の袋小路に陥っているのだ。

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●幼子のような素の意識に恐怖はない

人は皆、子供の時には、死をはじめ、どんなものにもあまり恐怖を感じることはないだろう。大きい音と落下への反応は、体に備わったものであり、それは確かに恐怖に感じることもある。

 

しかしながら、幼子にとっては、それ以外は恐怖どころか、何かにつけて好奇心で一杯なのが事実なのだ。大人が最も怖れるところの『死』も、彼らにとっては恐怖の対象ではないだろう。

  

大人はこう言うだろう、それは、未だ社会のことを知らないことと同じように、死の知識がないからだと。知らないだけなんだよ・・・と。

 

子供は死の怖さを知らない・・・大人は死が怖いことを知っている。その違いであるというのが一般的な通念ではないだろうか。

大人は死が怖いことを知っている。

幼(おさな)子は知らない。

 

そう、未だ余計な重たい刷り込み観念がない状態のことである。

あなたもわたし達もすでに経験しているはずの、素の意識である。

 

執着や先入観念など、どこにもない素の有り方である。

 

分別くさく、いかにも何か知っていそうな権威ある大人が、幼子に尋ねてみればいいかもしれない。

 

深遠そうなテーマ、生と死、その怖さや人生の難しさ等について尋ねてみれば・・・、多分こう言うかも知れない。

 

 

「ねえ、・・・いったい、それがどうしたの?

 

Cas08111

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(つづく)


見性成仏

2010-09-12 12:05:53 | 今大切な禅の言葉

昨今はアセンションや次元上昇やらという言葉がスピリチュアルな世界等で流布されてきたようだ。

アセンションする?とかしない?とか、そういう楽で軽い言葉もあるようだが、確かにいえることは、多くの人々の中に、今の人間の有り方に対する疑問府が生じ、ようやく本来あるべき有り方に気付きだしてきたのだともいえるだろう。

 

我々は科学や技術の進展によって、現代社会での多様な快適さを得ているように見えるが、それは、あたかも本来の道から遠く外れた、あだ花多き、幻惑の花咲く『脇道』だったようだ。

様々な情報の氾濫、刺激に満ちた出来事・ニュースの類、身体的快楽等をお金と引き換えに提供する仕組み、それらは物質・身体中心の幻惑・麻痺を生ずる横道、迷い道であったといえるだろう。

我々の多くが他生にわたる繰り返しの人生を、その迷い道で過ごしてきたのかも知れない。

なるほど、それも道中の楽しみでもあったろうか。

 

しかしながら、人類は今・この時、その迷い道から急激に方向転換している最中のようだ。それに気付いている人は増えて来ているかもしれない。

あなたもそうだろうか。

 

言うならば、アセンションとは、眼に見えるばかりの、物質・身体への自己投入から足を洗い、こころを洗い、くぐもった常識という観念の壁を越えて勇敢に進むこと、

すなわち今よりさらに大きな自己とそれに呼応する大きな世界へと『意識の視野』を広げることなのだと思う

あなたは、・・・どうするのか?

 

注意すべきことは、スピリチュアルに親しむといえども、単にそれによって、外から何かの幸せや理想世界を得るということはないということだ。

 

すべては人の内部から輝くものに従って、ちょうどその程度に現れるものだからだ。

仮に外からの光によって一時照らされる時期もそう長くはないだろう。

 

おのれを『磨かず』して『光る』ものは無い、確かにこれが道理である。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

今回の記事は、江戸時代の白隠禅師の言葉であるが、これは長くご支援を頂いている親愛なる読者の方に頂いたものだ。

 

本来、・・人とは何か? を五七語調で表している。

多少古めかしくはあっても、これらの言葉の中に、

実に、時代を超えた、普遍的な『慈愛』と『輝き』を観ずることが出来るだろう。

 

人は皆、かならずここを通るものだ。

それを別にアセンションと言わなくてもいいだろう。

それは誰にもある『通り道』のことなのだから。

 

この文は、ちゃっちゃか眼で追うものではない。

 

ゆっくりと観じて頂ければ、ひょっとして、いや間違いなく、

あなたの礎となりましょう。

  

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衆生 本来仏なり

             迷える心を持つ わたしたちも 本当は仏なのです

水と氷の 如くにて

             それはちょうど水と氷のようなもので、

水を離れて 氷なく

             水がないと 氷ができないのと 同じように

衆生の他に 仏なし

             わたしたちをぬきにして 仏はありえません

衆生 近きを知らずして

             わたしたちが 仏であることを 知らずに

遠く求むる はかなさよ

             あちこち探しまわるのは むなしいことです

譬えば水の中に居て

             これは、たとえば水の中にいながら

渇を叫ぶが如くなり

             水をください!と叫んでいるようなものです

長者の家の子となりて

             本当はとても幸福なのに そのことに気付かず

貧里に迷うに異ならず

             「わたしは不幸だ」と 嘆いているのと 同じことです

六趣輪廻の因縁は

             いつまでも 苦の世界から 抜け出すことが出来ないのは

己が愚痴の闇路なり

             自分の境遇を くよくよと 嘆くからです

闇路に闇夜を踏みそえて

             その長い長い 闇をとおり抜けて

いつか生死を離るべき

             生きる・死ぬという 想いから離れることが肝心です

それ摩訶衍の禅定は

             そのために「禅定=こころを見通し、こころ落ちつける」という行いは

称嘆するに余りあり

                                 想いもよらぬ悟りをもたらすのです

布施や持戒の諸波羅密

            他人への施しや 自身へのいましめなどを行うこと

念仏懺悔修行等

                                真理の言葉の詠唱や心身の清めなどをすること

その品多き諸善行

            さまざまな よい行いがありますが

皆この中に帰するなり

            それら皆、「禅定=こころを見通し、こころを落ちつける」ことにあります

一坐の功をなす人も

            ひとときでも、心頭を滅却することが出来る人は

積みし無量の罪ほろぶ

            悩みごとや罪の思いも、実はなかった・・と気付くのです

悪趣何処(いずこ)に有りぬべき

            悪い事など、いったいどこにあるというのでしょう?

浄土即ち遠からず

            極楽はいま、ここにあるのです

辱なくもこの法を

            ありがたいことに、この教えを

一たび耳に触るる時

            一度でも耳にしたときに

賛嘆随喜する人は

            深くほめたたえて信じ、うけ入れる人は

福を得ること限りなし

            かならず幸福をえることでしょう

いわんや自ら廻向して

            ましてや自らひたすら祈りや精進をして

直に自性を証すれば

            本来の自分を感得することが出来れば

自性即ち無性にて

            自分があれやこれや、男や女やの区別なく

己に疑論を離れたり

            その瞬間、既に執着や煩悩から離れているのです

因果一如の門ひらけ

            人は仏と一体であることを悟るのです

無二無三の道直し

            真理の道から外れずに

無相の相を相として

            現れた形によらない 本来の無限の自己に気づき

往くも帰るも余所ならず

            どこであっても常におのれを見いだすのです

無念の念を念として

            想いに捉われず、観自在のあり方をもって日々過ごすならば

謡うも舞うも法の声

            どんな行いも そのまま仏の行いであります

三昧無礙の空ひろく

            こころが澄み切れば、大空のように自由にどこまでも広がり

四智円明の月さえん

            こころ模様の雲の上に、いつも輝く月が輝いています

この時何かを求むべき

            この あるがままの美しさの他に 何を求めるのでしょう?

寂滅現前するゆえに

            目の前の現象にとらわれないあり方であれば

当処即ち蓮華国

            この世界はそのまま極楽であり

この身即ち仏なり

            この身が そのまま 仏なのです

        

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

             

人、皆、ここにおいて行なうべきは、限られた生命、限られた人生の中でこそ、その無限さに気づくことだ。

その無限さは、今の『真のあるがまま』を、観ずることで見いだすことが出来る。

 

『こころ』は有る時は立ち騒ぎ、また喜び、あるいは有る時は怖れ、泣き叫ぶとも、 こころ・それ  を観ることが出来る『あなた』自身を発見すれば、

 

それは雲の上に輝る月と同じく、不動で、清らかで、美しいものだとわかるだろう。

それが本来の有り方である。

 

何をどう観ずるかは、ひとえに、 あなたの「こころ」の曇りの有り無しにかかっている

そう、それこそが、この地球という次元舞台での醍醐味なのだ。

 

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吸う息・吐く息

2010-09-05 11:20:38 | 覚醒意識

●数学的四次元的世界観の次にあるもの

わたしは元々現代的な科学・技術系の教育を受けた経緯があり、このブログで表しているようないわゆる精神世界のこととは相容れないことを信奉していた時代がありました。

大学での専門は物理学であり、卒論は「一般相対性理論の実験的検証」というご大層なものでした。一般相対性理論は、特殊相対性理論とは違い、単なる数式による平面的な四次元時空の表記ではなく、リーマン幾何学やテンソル解析などを使って、立体的な四次元時空を説明しようとするものです。

 

例えば、天体周囲の重力場は時空の歪で出来ていると考え、光も天体近傍では曲がって進行することや、それらの無数の天体で構成されている宇宙は、巨大ではあるが1つの閉じられた系であることが重力方程式で示されるのです。

これらは、地球が『球』であるように、宇宙も『四次元的な球』である・・という「直感的な理解」を後で数学的に説明しようとする試みであったようです。

 

宇宙が閉じた球であれば、その外には数多の宇宙球があるということも髣髴とされるでしょうし、これらは多次元宇宙の概念についての理解を促がすかもしれません。

また、どうあっても我々が『無限』の中にいることがわかるでしょう。

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人間は自分自身を、無限宇宙の中にいる、小さな、ちっぽけな人間という有機物質としてイメージするかもしれませんが、それはあくまでも『現象』の中の肉体人間という『思いこみ』でしかないのです。

それはあくまでも自分の「現れた表層の現象」を見ているにすぎないのです。

あなたは今、「表層の自分」すなわち「肉体人間」を見ているようなものです。

三次元的というのは、あとは二次元、1次元のような意味合いの、これ以上は『下れない次元にいる』ということも言えるでしょう。我々が次元降下してきたというのは、ある意味で我々はとんでもない探検者ということでもあるのです。

あなたもわたし達も、結構なところまで来ているのです。この次はなく、今度は次元を上昇する時期に来ているということでしょう。

それは単に、息を吐けば、今度は息を吸うようなものでしょう。

 

それにしても、宇宙が無限であると理解することができるのは、あなた自身が無限であるからだとも思えないでしょうか。

主体と客体は、常に相互不可分なのだと気付けば、この宇宙の根本的な創生の仕組みもわかるかもしれません。

 

●意識次元の再発見

この時空の窓から見える自分は、いわゆる三次元的な物体の自分でしょう。アインシュタインの表している数学的四次元時空の認識は、単に1つのステップであり、そこから見えるあなたには、未だ『意識』という新たな次元が加わっていないだけと考えられます。

 

あなたという観察者がいない限り、その対象となる宇宙はいついかなる時にも現れてはこないのです。それが微小なミクロの世界であろうと、巨大なマクロな宇宙であろうと、あなたや大勢のわたし達という『観察者』がいるからこそ、同時にそこに現れているということです。

 

相対論と同じくして現れた、量子力学、素粒子論という20世紀の科学は、外の世界は外の世界で終ることができず、それを見ている『観察者』を考慮に入れなくてはならないことを示しています。

客観的な作業と称して、素粒子的にミクロな世界を突き詰めてゆくと、どうしても確率的なアヤフヤな部分が出てくることになり、そのアヤフヤな部分の底には、観察者としての人間的な主観的な意識が働いていることがわかったともいえるでしょう。

物質の裏に精神が働いている・・・そんな意味にも取れます。

 

●自由度の大きな世界への移行時期か

これは、宇宙における様々な発見や理解も、つまるところ、観察者たる人間の意識の働きによって、その見せる層を変えてゆくことをも示しています。

堅い物質で出来たように見える世界の様々な形態の下地には、それを顕現させるところの主観的な要素、意識という次元軸があると言ってもいいでしょう。

21世紀には必然的に主観的な人間の『こころ』が復権され、全ての深層にあってそれらを生かしているところの普遍的な「意識」の発見が主流になるでしょう。

それは高次元への進化ともいえるし、また自分自身の発見の進化ともいえます。

単にスピリチュアルな世界でいわれている概念、高次元、五次元的というものは、既に人類にとっては当たり前の地点まで来ているのです。

今までの物質的、機械的な発明等による自由度は、これから意識の要素を明確に理解することで、更に一段とその自由度が増すことになります。

シンクロニシティーの増加、超常現象の理解とそれを扱える能力の開花、より大きな世界とのインターフェース等も増えてくるでしょう。

ただし、自由度が増大するに比例して、その効果の大きさに対する責任も大きくなるのです。

その意味でも、我々自身のこころの扱いの習熟と浄化がまず必要なのです

1人1人の気づきとこころの浄化が絶対的と言ってもいいくらいに今必要なことなのではないでしょうか。

これは昔から程度の差はありますが、一般に悟りや覚醒などと言われているものです。

 

ひょっとして、今まで以上に、思ったことが現れやすくなってくる世界になりつつあることに気付くでしょうか。

外に現れた大勢の人をつつきまわることではなく、自分の中にある意識の軸の方向にある『無限』に気付いてゆくことが、ぜひとも必要な時代に差し掛かっていると思えないでしょうか。

 

●今こころすべきこと

ことここに及んで、こころしなければならないのは、おのれがおのれたる所以である「あなたの意識の扱い方」への気づきと努力です。

それはマインド、こころの再発見と、その扱い方の習熟と、浄化といえるでしょう。

気にすべきは他者や外の結果の世界のことではないのです。

今後、たとえ外の世界が様変わりを始め、大きく変化しようとも、それは来たるべくして訪れた自然な機会・プロセスのことであり、様々な人間模様が織り成してきた、この地球という惑星生命圏の学びと体験における1つの『昇華点』と考えるべきでしょう。

しかしながら、我々がその時その時、そのフェーズフェーズで行なうべきは、常に、より大いなる意識・魂への進化・拡大であり、結果、我々皆が本当に兄弟や姉妹であることを理解してゆくことなのです。

人類が進む道の先にあるのは、次第に個我の意識、自己存続の本能たるエゴがそぎ落とされて行くプロセスなのです。

実のところ、古い自己であるエゴの脱落過程ほど厳しいものもないかもしれません。

それに引き換え他者の批判やジャッジはどんなに簡単なことでしょうか。

 

●無限に多くの兄弟姉妹に感謝

人々の多くは、皆近くにいながらも、その個々相互の距離は極めて大きいのではないでしょうか。親兄弟ですら何かの利害でそっぽを向いてはいないでしょうか。

生活の中で現れてくる普通の人達、いつも目の前に現れる人達を、あなたは真に魂の同胞(はらから)と感じることが出来るでしょうか。

実のところ彼らは、今、ここに、同時期に生きている「同胞」「兄弟姉妹」なのです。

どのようなレベルにあろうとも、どんな顔をしていようと、うらぶれていようと、虚勢を張っていようと、何の会話もしていなくても、今の同時期に参加している「兄弟たち」なのです。

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。