気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

解脱のプロセス(2) 「今」を意識すること

2010-02-28 11:34:43 | 心の科学分野

●生き切るとは、「今」に、あること

人の多くが「今」を充分に意識し、体験してはいないかもしれない。

我々の多くが、今の瞬間の自己よりも、外の人々からの刺激や情報に意識が向かっているのがわかるだろうか。TVやラジオインターネットでも、「どこの誰がどうしたこうした」ということばかりが氾濫している。

多くの人々が外の世界に自らの「眼」を釘付けにしているということだろう。

それは、外の世界を学ぶ段階にある・・というよりは、あるいは、「現実」からの逃避をするために、何かの映画に夢中になる・・・ということかも知れない。

「現実」とは、他の何でもなく、人々自身の「今」の時であり、あなた自身の「今」の時であり、我々自身の「今」のことである。

我々の多くが、自己に与えられた「今」の瞬間を充分に「意識」していないのではないか。

 

●外には何も無い、変化と結果だけがそこにある

日常を、ありきたりの瞬間の連続として感じ、それに勝手に飽きてしまい、常に何か他に「刺激」を求め続けているのではないのか。

意識の段階においては、あるいは高潔な人を外の世界に探し回る、あるいは理想の社会を探し回る、あるいは愛深い指導者を探し回ることもあるだろう。

意識の段階においては、あるいは身体快楽の刺激を求め続ける、あるいは飽食の快楽を求め続ける、あるいは他者からの架空の尊敬の念を集め続ける、あるいは他者の愚劣な言葉の届かないより安全な地位に上り続けようとすることもあるだろう。

 

●人間本来無一物

何かをしなければならない・・という社会の刷り込みにいつも急き立てられてはいないだろうか。まるで、大忙しで時計を気にしながら動き回る「不思議の国のアリス」のウサギさんのようではないだろうか。

しかしながら、出来る全てを、疲れるまで行なったあとに残るのは、ただただ、体験と想いと感情なのだ。

あなたやわたし達に残るのは、

たった数十年の人生での、地位でも、名誉でも、快楽でも、苦しみでもなく、それらの体験と想いと感慨、感情なのだ。

我々の唯一持てるものは体験と想いと感情の記憶、そしてそれから醸造される「魂の知恵」である。

それらは魂の記憶として永久に残る財産なのだ。

身体維持の為にのみ生き続けることが正当なことであるという観念の呪縛を見よ。

刹那の世界のマネーや土地、財力、快楽等は露として消えるあだ花である

それらを血走った眼で追い続ける人々の、あるいは我々の有様をしっかり見るべきではないだろうか。

人生の「手段」がいつの間にか「目的」にすり替わった今の物質偏重文明のあり方に、もう気付けるだろう。

 

●今、あるがままの自己を観ること

「あるがまま」に在る・・、とは、我々の世界のあるがままを観るということではなく、我々自身の「今」の「あるがまま」、・・偏見や思い込み等を一切無くして、観る、体験するということなのだ。

生きていることで生起する、あらゆる体験や経験をそのまま観る、感じるということなのだ。

体験や経験はその時々の、また人それぞれの「想い」によって千差万別に色づけされるものであることは、もう既に理解出来るのだ。

究極は、我々自身の「想い」を「自ら観る」ということなのだ。良いとか悪いとか判断せずに、ただ、今の我々のありのままを観るということである。

ありのままを観ると言うことは、それを知るということであり、逆に価値判断など無用であり、歪みをもたらすものでしかない。

ポジティブだろうと、ネガティブだろうと、かまわずに、あなたのありのままを観るのだ。

「ありのまま」のこころを観ることで、こころの発する光と影はその意味を知らせてくれるだろう。光と影もお互いを補完している同じ存在であることに気づくだろう。

こころのありのままを観ることで、その何たるかを「知る」ことになる。

知れば真なる「知識」となり、自在に活用が出来る「知恵」となる。

真なる知恵からは、「愚かさ」の繰り返しは現れようがなくなるのだ。

こころの曇りを少なからず取り除けば、そこから生じる想いや感覚は、更に深く、高く、広くなってゆくことに気づくだろう。

 

閉じられた意識の窓を大きく開けば、我々の世界も大きく開いてゆく。いわゆる次元上昇も次元降下も、すべからく我々の「意識」によるのだ。

 

●一見辛い体験は恩寵でもある

例えば、人生における極めて辛いといわれる経験も、ある人にとっては反面教師として捉える、またはバネとして捉えるかもしれないし、

またある人にとっては到底我慢がならない、また憎むべきものとして捉えるかも知れない。

人にとっては、同じような体験も、それを観る人自身の内面の「こころ」の綾によって様々に色づけされる。そう、いわゆる、ネガティブにもポジティブにもなるものである。

例えば、世の中には身体不自由で生まれる人々もいる。あからさまに正常でないと思われる身体の形により、一般世間から見ればかわいそうだとか、あんなになりたくないと思われる人達だ。

しかしながら、そのような天性のハードルを自ら背負ってきた人々の想いはいかばかりだろうか想像がつくだろうか。彼らはその他大勢の様々なネガティブな想いを確実に受けるだろうことは火を見るよりあきらかなのだ。

そのような不遇と言われる人々は、世間一般から見れば辛いと思われる体験を、あえてしている「勇者」と捉えてしかるべきなのだ。

その人々が、怒りや嫉妬や偏見をもって自己主張しているところ、・・あるいは他者を鞭打つような姿を見たことがあるだろうか?

一般にそれを評して、身体不自由であるがゆえに一般人と異なり、自由な表現が出来ないせいだという・・これまた、誤った観念をもってしまいそうな世間常識という悲しき性に、もういいかげん気づく必要があるのではないか。

 

●脱すべきは重い想いの垂れ込めた信念体系である

実のところ不自由と見える彼らは、もう、そのような悪想念は不要ということを、身をもって現しているのだ。彼らは形だけの身体保持などに執着してはいないのだ。

  

逆に、彼らの多くが、わざわざこの地に下生してきた「覚者」であるとも言えるだろう。

どんな眼で見られていても、辛抱強く、優しく、潔い、とんでもない大きさの魂の輝きを放っているのが見えないだろうか。

我々は、その謎に満ちた輝きに気づけるだろうか。

よく言われるように、そのような、生まれた時から世間から外されていると見える多くの存在たちが、逆に、重い信念体系からの卒業前の人々であり、魂の表現レベルでは、いわゆる相当に高いレベルの人々であることに気づくかもしれない。

黒ずんだ体躯の、みにくいアヒルの子の寓話は、一見普通から外れたように見える存在は、実は遥かに優れた魂の表現者であることを示している。

我々の今の世界は、このように苦渋に満ちていると同時に、愛と言わずばどうしようもない喜びに満ちているのだ。

あなたやわたし達のこころもまた、今は苦渋と愛に満ちているだろう。

しかしながら、自身のこころの実体を観れば、そこに確実な理解が生まれるのだ。

まさにそれが生きてきた今の証でもある。

 

●解脱とは自己の元を知ること

解脱とは、

人類の培った様々な想念、想いの光と影を識別することが出来る有様を示している。

解脱とは、

世間からの物理的な遊離でも逃避でもなく、そこにある陰影の出所を、すなわち、「こころの働き」を把握していることである。

解脱とは、

自己の自己たらしめ続けるところの「想い」を識(し)ることである。

 

我々は、我々自身の人生を生起せしめるところの、根本の因となっている、我々の「想い」を観ることが出来るだろうか。

他者の想いの結果に満ちた外の世界を眺めては、ため息をつきながら一喜一憂することではなく、我々の根本にある「想い」を、自ら観ることが出来るならば、あなたはもう解脱している者なのだ。

この世界に現れた結果ばかりを見ている限り、今ここにいる理由などわからないだろう。

現れた結果でしかない様々な社会現象に振り回されて、怖れ、嘆き、悲しむ体験に終始するだろう。

結果とは既に終わった現象であり、それをどうこうするわけにいかないのだ。

たしかに、原因がわからないでは恐怖が生まれるのも仕方がない。

しかしながら、自己の人生、自己を取り巻く世界に起こる不都合なこと、不快なこと、憎むべきこと、それが本然ではないと理解されていながら、それを生起せしめる因の方に意識が向いていないだけのことなのだ。

意識の眼を、外でなく内なる自己に向けることである。

自ら発し続ける想いを観る事である。

外に投影されるあなた自身のこころの働きを観ることである。

観ることでこころのレンズにこびりついた影は、ボロボロと剥がれ落ちてゆくのだ。

それを怖がるのは、いわゆる「エゴ」だけであり、少しづつ「エゴ」なる自我が剥がれ落ち、次第に真我が現れてくるだけのことである。

いや、エゴが消えると言うよりも、真我に変身するといったほうがいいだろう。したがって、身体の生存の為に行なってきた、愛すべき「エゴ」の今までの苦労もしっかりと報われるのだ。

 

●まず、因(真我)に気づく習慣を創るべし

膨大な時間人生のなかで、例えば1分、10分、1時間でも、静かに自分に向き合う時をもてるだろうか。

落ち着いて、何をするでもなく、例えば、ただそこに座っていることが出来るだろうか。

あるいは何かを忙しくしていたとしても、常々、ふと我に返り、自己の「想念」に気づくことが出来るだろうか。

そして、自分の意識に上る様々な思考、イメージ、感情の湧出を、黙って観ることが出来るだろうか。それは我々の今のありのままの姿なのだ。

実のところは、自分に自分が向き合うことが結構難しいことがわかるかも知れない。

自己自身の本然のあり方を、ついつい忘れてしまうこともあるだろう。

実のところ、忘却の橋を渡ってきた「自己忘失」の癖が重たいかもしれない。

しかしながら全ては報われるのだ。

汗を流さずとも、血を流さずとも、全ての花が開くのが自然の有様ではないか。

Flower1008  

●こころは無責任なおしゃべり屋

ふと、常に何かをしていなければ不安でしょうがない自分のこころの癖に気づくだろうか。

ふと、機械仕掛けのクマのオモチャのように、常に忙しく動いている自分を、自分で気づくことが出来るだろうか。

ふと、時間、生活、お金、地位、仕事、信頼、付き合い、生活向上・・・という健気と思える動機付けに無条件に突き動かされている、あなたやわたし達の今の有様に気づけるだろうか。

あなたのこころが様々に変わる様を観ることが出来るだろうか。

あるいはその変化するこころに、その都度なりきってしまい、その無責任な流れに翻弄されることに気づけるだろうか。

こころは無責任なおしゃべり屋である。そのおしゃべりをいつも真に受けているのではないか。

あるときは、途方もない怒りを、外の人々や様々な現象に投げつける。

あるときは、やり場のない嘆きを外の人々や様々な出来事になすり付ける。

こころのおしゃべりの背後には、「淋しさ」があるのだ。

大勢の愛すべき人々との本来あるべき共感を得られずに、孤独を感じているのだ。

まさに、こころは生まれてこの方、五感の体験によって培われた子供のようでもある。

 

●あなたは常に「あなた」であるところの者である

我々の人生の共通の意味があるとするならば、

その人生の意味を創っているのは「自分」以外にないという真理だろうか。

主人公は、近くて遠い大勢の他人達ではなく、我々そのものであるということなのだ。

社会のせいではなく、世界のせいでもない。

親のせいでもなく、冷たい態度の隣人のせいでもない。

法のせいでもなく、慣習のせいでもなく、制度のせいでもない。

悪党達のせいでもなく、聖人のせいでもない。

自ら創る価値の世界のなかで、その自らを変えなくして、いかにして世界が変わると言うのだろうか。

おのれの眼にかけた色眼鏡を外さないで、「見える物がすべて暗い暗い」と嘆くことほど馬鹿馬鹿しいことはないだろう。

外の世界の大勢の人々が何を考え信じていたとしても、それがどうということはないのだ。大勢の人々は、今のそれぞれの魂の発現形を学んでいるだけのことであり、あなたとは異なるプロセスにあると言うだけのことであろう。

例えば同じ陸上競技のトラックを走っていても、各々の周回の数が違うだけのことなのだ。

あなたは「あなた」であるのが真実であるからだ。

わたしは「わたし」であるところの存在であるのが真実なのだ。

あなたは「眠れる者」であるところの存在なのか?

問題は、それに気づかないまま人生を送り、そしてあちらに行ってしまうということである。

生と死、これは誰もが薄々感じ続けている最重要なテーマであるが、身近に誰も何も言わない為に流されているのだと思わないだろうか。

何も解らない有様を体験したいが為にやってくる世界でもあるがゆえに、あなたに懇切丁寧に説明する人などいるわけもないかも知れない。しかし、その待ち続ける愚かさに気づいても可笑しくはないはずなのだ。

我々は意識的存在であるからには、物質や時間の形態そのものではないがゆえに、この観念を超える必要性は避けて通れない。

死んだら終わりの偶然の世界、あるのは便利さと物的享楽であり、そのためには必死で競争することを求められる「賭博場」にいることを発見したことは、既に解脱の域にあるということであろう。

こころに翻弄される域にあるか、こころを調律する域にあるか。

域とは単にその違いだけのことである。

一歩先のことであるが、そこには「自己のこころ」というハードルがあるのだ。

それは古い自分を超えるハードルのことである。

 

●我々は全て「一なる者」である

我々は例外なく一人で生まれ、一人で去ってゆく。

この例外のないシンプルな事実を見るべきではないか。

それは社会の通念のように、淋しいことでも、孤独なことでもないのだ。

宇宙が「一」ならば、

創造の因も「一」であり、

そこから出でるところの意識的存在である「人間」もまた「一」である。

大勢の動物、植物、人間、すなわち仲間たちはその「一」なる者の、

それぞれの無限の現われなのだ。

すなわち我々は全て違うあり方を創造している兄弟姉妹なのだ。

 

一は多なり、また、多は一なり。

 

Hs199919cweb  

本日も、いつもながらの拙い記事をご覧頂きまして、

誠に有難うございました。


解脱のプロセス(1)自己観想

2010-02-21 11:26:08 | 心の科学分野

●今、自分を再発見せよ

我々は、我々の生きている生の有様にもっと「意識的になる」必要があるのではないかと思う。

我々はいつの間にか外の世界の歯車になっていることに気づく必要があるのだ。

毎日、毎瞬、繰り返し繰り返し訪れる、人生を通じたこの時空内の諸物との遭遇は、それが日常的で、ありきたりのものであると感じているのは、こころの眠れる有様を物語っているのではないのか。

我々は意識を有する存在として、我々を取り巻くと見える世界を観察する意識を広げなければならない。

そして我々がいかに狭い観念の世界に自らを呪縛している有様を発見しなければならないのだ。

大勢の中で安穏と眠ってはならない。大勢の価値観念を全て正しいこととして鵜呑みにし、自己の人生を無条件に色付けしてはならないのだ。

大勢の無意識に眠れる社会の中でこそ、苦悩と後悔が醸造されるものだろう。

人のその意識発露の「質」自体が変わらなければ、何千年を経ようと文明文化の本質は変わらないだろう。

 

●人は物質的存在ではなく、意識的存在である

人間は物質的な歯車などではなく、意識的存在として、それらを超えている存在形態を持つものだ。

全ては大いなる意識の現れであり、その意識は自然、宇宙、森羅万象を顕している因そのものである。

因そのものが、結果の中に閉じ込められるようなことの滑稽さに大笑いしても良いではないか。

因そのものは、物質のように分割計量など出来るものではないのは明白であろう。

常に、わたしは「わたし」であるところの者である。

これが意識的存在の原理であろう。

おのれで創るのが「おのれ」であるということでもある。

まさに、本然の有り方である。

 

●こころの中の闇に気づけるか

古い時代の仏画には、鬼のような者達が人々を色々な地獄の責め苦を強制しているものがあるが、あれは地獄世界の有様を描いたものではないだろう。

それは、いつも疎まれるこの世界の様々な現象の背後にある、人々の想いの陰影を、ことさら強調して描いたものに違いない。鞭で打ったり鋸で引いたりする極悪の鬼は地獄のような世界にいる生き物ではなく、人のこころにある「恐怖」を表わしたものに違いない。

どこの誰でもなくあなたやわたし達のこころの中にある「恐怖」である。

それは、「恐怖」なるものに強制され、苦痛に泣き叫び、責め苦から逃げようとするこころの有様を図柄に現しただけのものに違いないのだ。

人が人を責め苦にあわせるなど、一体全体、誰が誰にそんなことをすると思うのか。どんな権利や意味があるのか?

あろうはずもない事すらも気づかないとすれば、それは自らが溜め込んできた「恐怖」「不信」というこころのパターンの暗い歪がゆえである。それを正面視することを避ける為に、いつまでも恐怖として我々を追い続けるようなものなのだ。

毎日の精神的な雰囲気や、気持ちの浮き沈みの中には、それを促すところの、何がしかの怖れや不安があることに気付けるだろうか。

 

●覚醒とは、まず自己の想いの重大さに目覚めること

こころの中には宇宙以上に膨大な波動情報が記憶されており、その中をいかに検索しつつ理解に置き換えてゆくかが、いわゆる死活の問題であろう。

いかに世界の仕組みの知識や情報があろうとも、宇宙に遍満する意識の個別発露の集合であるところの、人の、こころの仕組みと理解が得られなければ、それは役に立たない百科事典にしかすぎないのだ。

あなたは、あなたであるところの根本原理である意識の作用自体に、意識的になる必要があるのだ。

わたしは「わたし」であるところのものである。それに気づくことである。

「 I am that I am 

その「わたし」のところに、どんなものを入れているのか注意すべきである。

わたしは「恐怖にさいなまれる」弱いものである。・・・というのだろうか?

汝自身を知れ・・・とは、汝が汝を創り出す仕組みを理解せよ・・ということではないのか。

これは単なる抽象論ではなく、意識、大いなる全体のこころの創造原理を示す古来からの叡智を示す言葉なのだ。

 

●内面の影を探しだせ

我々は自らの内面にある「怖れ」を見つけ出し、その歪を解かねばならないのだ。

解脱とは、世間からの遊離などではなく、自らの永遠の魂の発露であるその時々の人生での錯誤した観念、まずもって「恐怖」を「理解」に変質させることである。

内面におのれの作る歪がなければ、どうして外の世界を怖れる必要があろうか。

覚者たちの特性である、執着のなさ、自由闊達さ、悠然たる立ち居振る舞いは、決して余人にはうかがい知れないような「謎」ではなく、自らの呪縛を解き放ち、本来の生まれたままの素のあり方に戻っただけの有様のことである。

幼児の純真さと、大人の歪のない知恵がそこに現れているのだ。

これは我々の本来の有り方である。

 

●自己からの逃避は怖れがゆえのもの

「恐怖」から派生するのは即ち「逃避」であり、また逆に「攻撃」ともなって現れるのだ。

いずれも、いわゆる重いカルマといわれるものを紡ぎだすものだ。

今の世界の権力者たちの有様を良く観てみればいい。

 

科学も宗教も「人間」「世界」というものを模索する1つの方策にすぎない。

誰がそれらに、あなたの人生の方向付けを権威を与えたのか。

・・いいや・・誰も与えてはいないのだ。

人生を幸せの百花揺籃の花壇にできるのは、権威と称す者達の指示や命令を待つことによってではない。

ここに生まれ、そしてここから去るのは、一体誰なのか。

人生を生きるのはそれぞれのわたしであり、それぞれのあなたなのだ。

そして生きていくということは、あなたが自身の想いとそして与えられた身体による行動によって表現をしてゆくということである。

我々を取り巻く世界の本質を見るには、まず絶対的に、その世界を映し出すところの各自のこころを観る必要がある。

誰にも頼らず、誰に依存することもなく、「あなた」から出て来る想いを観ることが、水や食べ物と同じく我々に必要なことなのだ。

我々が「物」ではなく、意識的存在であることの自覚の視座にしっかり登らなくて、どうして世界を俯瞰することが出来ようか。

どうして意識次元の上昇・拡大ができようか。

 

●あなたも唯一の者である

あなた通じて映し出される世界は、あなたのこころ、意識の働きにおいて認識されるものであり、決して他者や他の諸物が認識するものではないのは自明であろう。

 

あなたは「あなたの見・聞き・感じる世界にある唯一の存在」なのだ。

同じく他者は「他者の見聞き・感じる世界にある唯一の存在」なのだ。

わたしは「わたしの見・聞き・感じる世界にある唯一の存在」なのだ。

 

自己の拠り所を、外に求める行為は、

あたかも電球の光源よりも、

その光によって投影される影、

遠くにうごめく光影を原因と考えるようなものだ。

光源がなくてどうして光と影が出来るだろうか。

光源とは「あなた」自身であり、光源の傍にある陰影の元は「こころ」であり、空間に投影される「陰影」は、あなたの見る「世界」のことである。

あなたはいま、ちょうどそのとおりを、まさにこの時空で行なっているのだ。

 

●自己の想いを意識すべし

こころを観る・・・とは、その光源のすぐそばにある、あるいは光源の周囲にある、あるいは付着している様々な光と影の原因を観るということだ。

影絵芝居のような様々な光と影を作り出すのは、究極的にはあなたの「想い」なのだ。

例えば、光源たる電球等に黒い影をマジックペンでマーキングをつけるとどうなるか。

光が放散し、それで照らし出されたものには間違いなくマジックペンで描かれた黒い影が現れるだろう。マジックペンは、そう、あなたの思い描くことなのだ。

すなわち、各自を取り巻く世界の現実の因となっている、各自の意識、想いに気づくべきなのだ。誰のせいでもない。

さまざまな外の世界、物質の綾なす世界にいつまでも気をとられてはいけない。

いつもながら真に理性的なありかたは、その現象の背後にある因に気づくことである。

人為的な世界は全て人の想いの表出にすぎないのだ。

宇宙森羅万象は、因たる意識の表出であるように。

物質、素材の様々な現象も法則があり、その法則は謂わば大いなる意識の設計思想の現れである。

神様が天に座して、下界を操っているという無責任な想いに浸ってどうするというのか。

多分・・神も苦笑しているだろう。

想うこと自体が、そのような世界を投影せしめる因となることに気づくべきなのだ。

遠く神であるところのあなたは、もう気づいているだろう。

 

我々は何者か、世界とは何か、人生とは何か、その意味は何か、

多分全ての人々が青年時代に感じ、あるいは日常の生活の中において、いつも潜在的に気にし続けているその「問い」の答えを、自らの意識の表面に浮かび上がらせよ。

そのために、古来から口酸っぱく言われてきたように、こころを無にする必要がある。

心を無にする・・という言葉に誤解すべきではない。

無にするといって、必死に無意識になろうとする努力こそは愚かな行為に違いない。

あなたもわかるだろう。

人が生きている限り、こころは働き続けるものだし、そのこころを無することは出来ない。

まずこころの作用、今のありのままを観る根気と勇気がいるのだ。

そのために今という時がある。

こころは想念の湧き出すこと、またその積み上げられた履歴のようなものであり、ことさら消し去ろうとすることは、実のところは、こころ本来の働きを理解していない証拠なのだ。

大切なのはこころの働きを認知しそれを理解することなのだ。

そのためには、自ら発し続ける想いに出来るだけ気づいている状態を多くし、それら様々な想念を、単に眺めることが必要である。

それは古来から言われる「内観」とも言えるだろう。

 

瞑想やその他の意識の積極的な拡大の前に、その意識の作用に気づかなければならないのだ。

自分のこころの働きを自ら観ること無しに、創造の進化の道は進むべくもない。

それは、単にかんなやノミの使い方を知らずして家を作ることが出来ないようなものだ。

Saigyou12

●自己の想念・感情を謂わば看護すべし

例えば、

あなたは人から受ける言動から「怒り」を発するところの、あなた自身の「こころ」の動きを観ることができるだろうか。

それともその怒りという想い自体をすぐさま無条件に、感情と表情と行為に結び付けてしまうだろうか。

そうして更に怒りを更に増幅して、面倒な人間関係になり、結局悩んでしまうことはないだろうか。

怒りが怒りを呼ぶ、親和、同調作用に過ぎないのだが、そのパブロフの犬ともいうべきこころの無条件反応があることに気づくべきなのだ。

こころの無条件反応は「こころの習慣」ともいう。

それは、人生で無意識的に培った、こころの反応の集合である。

我々の多くが、自らの「こころの反応」を観ることが出来ず、それを単なる思いの発露であると眺めることが出来ない間は、どんな社会規約で固めようと、どんな制約を課そうとも、いつもながら不本意で後悔すべき事を体験し続けることになるだろう。

原因がわからずどうして現象が論じられようか?

自分のことがこれっぽっちも解ろうとしないで、どうして他者や世界のことを論じられようか?

人のこころの習慣が、ひいては人類の共通意識として集合、重合され、この地球生命圏を熱い雲の様に覆っているのだ。

馬鹿馬鹿しい、嘆かわしい争いや破壊、戦争は人々の集合された無条件反応によるものであり、またそれが、ことさら扇動されることによって増幅されることになる。

自らの行為の元になる「想い」を自ら認識していないからこそ、そこから出てくる結果や現象に戸惑い、また嘆くことになるのだ。

 

●迷いとは、原因が見えないこと

戸惑いは無知を表し、嘆きは後悔を表す。

いつも自己自身を観ることを拒み続け、他者や外ばかりを観ている人々は、いわば迷える子羊であり、それを御す者を探しているようなものだ。

そこには必然的に支配が生まれ、支配者を招くことになるだろう。

人々が自ずから自己を支配できない他者を求める烏合の衆であればこそ、その烏合の衆を鞭打つような支配の構図が映し出されてしまうだろう。

その元にあるのは、自らを自らと表現し続ける人間の行為の「因」である想いに気付いていないという過ちに他ならない。

おのれの人生の良し悪しを他人、社会のせいにすることは、まさに己の創造行為自体に気付いていないことを明示している。

 

●意識の進化・人の道

眠ったままでこの世界を出ることは許されない約束ではなかったか。

誰か他の存在がその問いに答え、それについていけば良いものでもない。

因で一者である自己たちは各自が独立独歩の、いわば神人なのだ。

その神人ともいえる自己への自覚のなさこそが、その住まうところの次元の相として表れ、特に、この物質的な支配の3次元的観念世界では、その意味では、いつも時間が残されていないのだ。

時間はいくらでもあるように見えて、実は存在しない。

 

自らが発する問いに対して、自ら答えを発見してゆく過程を意識の進化という。

 

地上における様々な体験と思考と感情を通じて、内面にある可能性を現実化し続け、より広い見識と表現の仕方を学んでいるのが我々であろうか。

進化とは物質形態の変化のことではなく、その物質形態の背後にある、因たる意識の進化・拡大のことである。

人間においてはその意識作用、すなわち想いと実感をより広く、深く、無限のかなたにまで広げる必要があるのだ。

今この瞬間における、無限者たる可能性を、知覚と想いと実感によって創造してゆくのだ。

 

●自己で作る観念の鎖を消すべし

外の世界の真実であると妄信している観念の綾のなかで、たった数十年の人生を浪費する繰り返し、すなわち「カルマ」という鎖に気づく必要があるのだ。自己で創り上げる仮想のカルマ、想念と行為の不完全さを完全にしようとあせる行為自体が、鎖を生み出してしまい、さらにそれを嘆いてしまう有様に気づけるだろうか。

我々の五感という機能と、その機能の主体であるところの「意識」の窓を、広く大きくまた深く、本来の清らかな容(カタチ)に仕上てゆくことが肝要である。

それをこころの浄化という。

人間を一箇所に呪縛させる鎖など、本来どこにも存在しない。

人の「今」の想いの中にある光と影を、全霊で観る必要があると思う。

  

●世界は我々という意識存在の光の反射影

本来自然(じねん)である体験者、観察者としての我々は、対象自体ではないことを忘れてはいないだろうか。我々の周りにある諸事、諸現象は我々の体験、観察する対象であり、こころの働きでしっかりと色づけされているにすぎないのだ。対象たる世界は、我々自身ではなく、我々の実感する生きた想いで変調されるということに気づけるだろうか。

「対象」とは我々の「意識」によって反射せる「結果」のことであり、別の表現をすれば、意識によって生じるエネルギーが物質的事象を生み出しているのだ。

意識~エネルギー~物質、

物質(事象)はエネルギーで変幻変化しつつ、青写真たる意識の作用、人間においてはこころの働きを現し続けているのだ。

 

この瞬間に、

そう、

この瞬間に生ずるものは意識の形、

即ち想いであり、

その想いで描かれるのがあなたのいる世界なのだ。

それは、心底楽しい世界であろうか。

・・・・

そうかも知れない。

今はそうでないかも知れない。

・・

しかしながら、

その時は、全てそれで良いのだ、

そう、それが創造の雛形であるからだ。

いつもその時々で全ては オーケー。

  

●「一」なる者は分割できず

我々は世界に在っても、決して世界の一部分になってはいけない。

いや、本来それは出来ない相談なのだ。

自然も宇宙も、大いなる全包容的叡智の現れであり、我々人間はそれに自ら気付くところの意識的存在であり、全包容的叡智そのものであるからだ。

全包容的叡智を神と言おうと仏と言おうと変わりがない。

因たるものは現象の表れである計量や分割など出来るものでない。

法則、原理というものは分割、計量できるものではない。

我々は、そして全てはいわば「ひとつの創造原理」と一体である者である。

元の元は、一、ひとつである。

 

一は 即ち 無限なのだ。

今、あなたやわたし達は無限の中のひとコマを今ここで生きている。

あなたやわたし達が「生きている・無限の意識である」ことに気づく手段が「自己感想」である。

意識を内面に当てることで観えてくるのが外の映し世の世界のあり方である。

それは、神なる者の創造の在りかたの雛形そのものを体現することに繋がるのだ。

Child010  

 本日も、いつもながらの拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました


後ろの正面

2010-02-07 10:46:58 | 宇宙的気付き

●個の人格とは

我々が現在何歳かにかかわらず、生まれてこのかた蓄積した人格は、個人という生を通じて集大成された記憶といえるだろう。進化する「人格」は、生命という因をもとにして時空に生じる様々な現象を自ら体験することで得られる「記憶」であり、また、その人生という記憶に対する捉え方、ある意味で習得された内容に対する見識が、魂の現状の開化のあり様を示している。

あなたやわたし達の歩んでいる進化の道とは、我々の生命の様々な表現・体験と、その因である「想い」のその時々の集大成のことである、と言って良いだろう。

あなたが歩む道は、さらに大いなる「あなた」への道なのだ。

それを古くから「神」といい「仏」という。

例えば、あなたが子供であろうと「あなたは何だ」と問われたときに、間違いなく「わたしは人間です」と答えるようなものだ。

  

 

●あなたは究極において神なる者である

あなたやわたし達も、今は不完全という想いの衣を着ていようと、また幼児のような表現しか出来なくとも、間違いなく、古くから言われるところの「神」「仏」または「究極の一者」、多層に渡って顕現し続ける宇宙を、そうと有らしめているところの「創造の因」であるのだ。

なぜなら、我々は、我々の想いを我々自ら観ることができる位置に来ている存在、即ち意識ある人、人間であるからだ。たとえ幼児の自覚すらもなくとも、間違いなく人間であり、五感の世界に閉じ込められているように感じていても、間違いなく無限たる存在なのだ。

あなたは「あなた」を自分で自覚できるにちがいない。

誰にもある、これ以上ないシンプルな感覚を捨ててはならない。

「わたしは今ある」

これは意識的な意識を有する者の証である。

確かに、簡単すぎて、逆に難しいかも知れない。

 

 

●地球という舞台に溢れる神なる人々

誰も皆、出生というゲシュタルト、無意識という意識を通過する約束の、出生という時空の転移形態を通じてこの世界に現われ、いつの間にか忙しく生きている。また、表面では決してその全てを理解し合えない、それこそ大勢の他者のなかで、時にはぶつかり合い、たまにはののしりあい、またある時は共感しながらも、この同じ時空を共有しているのだ。

そのような「人と人の関係」は、この世界の重要なテーマでもある。

あなたは他者との折り合いをつけることが出来るだろうか。

あなたは父母との折り合いをつけることが出来るだろうか。

  父母のもたらす慈愛と、あるいは無知、無理解にも感謝ができるだろうか。

あなたは周りの人々との折り合いをつけることが出来るだろうか。

  周りの人のもたらす共感と、あるいは無責任、無関心にも感謝ができるだろうか。

あなたはこの世界の不特定の人々との折り合いをつけることが出来るだろうか。

  世界の人々の切なる希望と、あるいは幼稚さ、エゴイズムも理解ができるだろうか。

我々は、この世界の全てを共同創造している無限小から無限大にいたる様々な生命と折り合いをつけることが出来るだろうか。

それは決して難しいことと考えてはいけない。

人の行なうべきことは、その有様をそのまま観ること、あるがままを観ること、当たり前のようにそれを認める意識を生じせしめることである。

こころの歪を正すのは、浄化するのは、自己自身のこころをおいて他にはない。

  

わたしが今ここにあるように、

奇跡のように、

わたし以外のものがここにある。

  

いや、まさにそれは、当たり前の奇跡なのだ。

これを創造と言わずしてなんであろうか。

  

もっとも近くて遠いものは、

わたしのこころの作り出す幻影のほうなのだ。

  

こころに振り回されている間は、

無限の向こうに飛んで行こうと、

同じ現実が待っている。

  

まさに孫悟空のごときこころのなせる

幻影を見ているが如しである。

  

幻影、それは言われるところの三次元という

閉じた「観念」の作るものである。

  

ああ、今ここにある

当たり前の奇跡を観えずして、

一体何をなそうというのか。

 

今だ磨かれざるだけの神々を罵って

一体なにを理解出来るというのだろうか。

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