●生き切るとは、「今」に、あること
人の多くが「今」を充分に意識し、体験してはいないかもしれない。
我々の多くが、今の瞬間の自己よりも、外の人々からの刺激や情報に意識が向かっているのがわかるだろうか。TVやラジオインターネットでも、「どこの誰がどうしたこうした」ということばかりが氾濫している。
多くの人々が外の世界に自らの「眼」を釘付けにしているということだろう。
それは、外の世界を学ぶ段階にある・・というよりは、あるいは、「現実」からの逃避をするために、何かの映画に夢中になる・・・ということかも知れない。
「現実」とは、他の何でもなく、人々自身の「今」の時であり、あなた自身の「今」の時であり、我々自身の「今」のことである。
我々の多くが、自己に与えられた「今」の瞬間を充分に「意識」していないのではないか。
●外には何も無い、変化と結果だけがそこにある
日常を、ありきたりの瞬間の連続として感じ、それに勝手に飽きてしまい、常に何か他に「刺激」を求め続けているのではないのか。
意識の段階においては、あるいは高潔な人を外の世界に探し回る、あるいは理想の社会を探し回る、あるいは愛深い指導者を探し回ることもあるだろう。
意識の段階においては、あるいは身体快楽の刺激を求め続ける、あるいは飽食の快楽を求め続ける、あるいは他者からの架空の尊敬の念を集め続ける、あるいは他者の愚劣な言葉の届かないより安全な地位に上り続けようとすることもあるだろう。
●人間本来無一物
何かをしなければならない・・という社会の刷り込みにいつも急き立てられてはいないだろうか。まるで、大忙しで時計を気にしながら動き回る「不思議の国のアリス」のウサギさんのようではないだろうか。
しかしながら、出来る全てを、疲れるまで行なったあとに残るのは、ただただ、体験と想いと感情なのだ。
あなたやわたし達に残るのは、
たった数十年の人生での、地位でも、名誉でも、快楽でも、苦しみでもなく、それらの体験と想いと感慨、感情なのだ。
我々の唯一持てるものは体験と想いと感情の記憶、そしてそれから醸造される「魂の知恵」である。
それらは魂の記憶として永久に残る財産なのだ。
身体維持の為にのみ生き続けることが正当なことであるという観念の呪縛を見よ。
刹那の世界のマネーや土地、財力、快楽等は露として消えるあだ花である。
それらを血走った眼で追い続ける人々の、あるいは我々の有様をしっかり見るべきではないだろうか。
人生の「手段」がいつの間にか「目的」にすり替わった今の物質偏重文明のあり方に、もう気付けるだろう。
●今、あるがままの自己を観ること
「あるがまま」に在る・・、とは、我々の世界のあるがままを観るということではなく、我々自身の「今」の「あるがまま」、・・偏見や思い込み等を一切無くして、観る、体験するということなのだ。
生きていることで生起する、あらゆる体験や経験をそのまま観る、感じるということなのだ。
体験や経験はその時々の、また人それぞれの「想い」によって千差万別に色づけされるものであることは、もう既に理解出来るのだ。
究極は、我々自身の「想い」を「自ら観る」ということなのだ。良いとか悪いとか判断せずに、ただ、今の我々のありのままを観るということである。
ありのままを観ると言うことは、それを知るということであり、逆に価値判断など無用であり、歪みをもたらすものでしかない。
ポジティブだろうと、ネガティブだろうと、かまわずに、あなたのありのままを観るのだ。
「ありのまま」のこころを観ることで、こころの発する光と影はその意味を知らせてくれるだろう。光と影もお互いを補完している同じ存在であることに気づくだろう。
こころのありのままを観ることで、その何たるかを「知る」ことになる。
知れば真なる「知識」となり、自在に活用が出来る「知恵」となる。
真なる知恵からは、「愚かさ」の繰り返しは現れようがなくなるのだ。
こころの曇りを少なからず取り除けば、そこから生じる想いや感覚は、更に深く、高く、広くなってゆくことに気づくだろう。
閉じられた意識の窓を大きく開けば、我々の世界も大きく開いてゆく。いわゆる次元上昇も次元降下も、すべからく我々の「意識」によるのだ。
●一見辛い体験は恩寵でもある
例えば、人生における極めて辛いといわれる経験も、ある人にとっては反面教師として捉える、またはバネとして捉えるかもしれないし、
またある人にとっては到底我慢がならない、また憎むべきものとして捉えるかも知れない。
人にとっては、同じような体験も、それを観る人自身の内面の「こころ」の綾によって様々に色づけされる。そう、いわゆる、ネガティブにもポジティブにもなるものである。
例えば、世の中には身体不自由で生まれる人々もいる。あからさまに正常でないと思われる身体の形により、一般世間から見ればかわいそうだとか、あんなになりたくないと思われる人達だ。
しかしながら、そのような天性のハードルを自ら背負ってきた人々の想いはいかばかりだろうか想像がつくだろうか。彼らはその他大勢の様々なネガティブな想いを確実に受けるだろうことは火を見るよりあきらかなのだ。
そのような不遇と言われる人々は、世間一般から見れば辛いと思われる体験を、あえてしている「勇者」と捉えてしかるべきなのだ。
その人々が、怒りや嫉妬や偏見をもって自己主張しているところ、・・あるいは他者を鞭打つような姿を見たことがあるだろうか?
一般にそれを評して、身体不自由であるがゆえに一般人と異なり、自由な表現が出来ないせいだという・・これまた、誤った観念をもってしまいそうな世間常識という悲しき性に、もういいかげん気づく必要があるのではないか。
●脱すべきは重い想いの垂れ込めた信念体系である
実のところ不自由と見える彼らは、もう、そのような悪想念は不要ということを、身をもって現しているのだ。彼らは形だけの身体保持などに執着してはいないのだ。
逆に、彼らの多くが、わざわざこの地に下生してきた「覚者」であるとも言えるだろう。
どんな眼で見られていても、辛抱強く、優しく、潔い、とんでもない大きさの魂の輝きを放っているのが見えないだろうか。
我々は、その謎に満ちた輝きに気づけるだろうか。
よく言われるように、そのような、生まれた時から世間から外されていると見える多くの存在たちが、逆に、重い信念体系からの卒業前の人々であり、魂の表現レベルでは、いわゆる相当に高いレベルの人々であることに気づくかもしれない。
黒ずんだ体躯の、みにくいアヒルの子の寓話は、一見普通から外れたように見える存在は、実は遥かに優れた魂の表現者であることを示している。
我々の今の世界は、このように苦渋に満ちていると同時に、愛と言わずばどうしようもない喜びに満ちているのだ。
あなたやわたし達のこころもまた、今は苦渋と愛に満ちているだろう。
しかしながら、自身のこころの実体を観れば、そこに確実な理解が生まれるのだ。
まさにそれが生きてきた今の証でもある。
●解脱とは自己の元を知ること
解脱とは、
人類の培った様々な想念、想いの光と影を識別することが出来る有様を示している。
解脱とは、
世間からの物理的な遊離でも逃避でもなく、そこにある陰影の出所を、すなわち、「こころの働き」を把握していることである。
解脱とは、
自己の自己たらしめ続けるところの「想い」を識(し)ることである。
我々は、我々自身の人生を生起せしめるところの、根本の因となっている、我々の「想い」を観ることが出来るだろうか。
他者の想いの結果に満ちた外の世界を眺めては、ため息をつきながら一喜一憂することではなく、我々の根本にある「想い」を、自ら観ることが出来るならば、あなたはもう解脱している者なのだ。
この世界に現れた結果ばかりを見ている限り、今ここにいる理由などわからないだろう。
現れた結果でしかない様々な社会現象に振り回されて、怖れ、嘆き、悲しむ体験に終始するだろう。
結果とは既に終わった現象であり、それをどうこうするわけにいかないのだ。
たしかに、原因がわからないでは恐怖が生まれるのも仕方がない。
しかしながら、自己の人生、自己を取り巻く世界に起こる不都合なこと、不快なこと、憎むべきこと、それが本然ではないと理解されていながら、それを生起せしめる因の方に意識が向いていないだけのことなのだ。
意識の眼を、外でなく内なる自己に向けることである。
自ら発し続ける想いを観る事である。
外に投影されるあなた自身のこころの働きを観ることである。
観ることでこころのレンズにこびりついた影は、ボロボロと剥がれ落ちてゆくのだ。
それを怖がるのは、いわゆる「エゴ」だけであり、少しづつ「エゴ」なる自我が剥がれ落ち、次第に真我が現れてくるだけのことである。
いや、エゴが消えると言うよりも、真我に変身するといったほうがいいだろう。したがって、身体の生存の為に行なってきた、愛すべき「エゴ」の今までの苦労もしっかりと報われるのだ。
●まず、因(真我)に気づく習慣を創るべし
膨大な時間人生のなかで、例えば1分、10分、1時間でも、静かに自分に向き合う時をもてるだろうか。
落ち着いて、何をするでもなく、例えば、ただそこに座っていることが出来るだろうか。
あるいは何かを忙しくしていたとしても、常々、ふと我に返り、自己の「想念」に気づくことが出来るだろうか。
そして、自分の意識に上る様々な思考、イメージ、感情の湧出を、黙って観ることが出来るだろうか。それは我々の今のありのままの姿なのだ。
実のところは、自分に自分が向き合うことが結構難しいことがわかるかも知れない。
自己自身の本然のあり方を、ついつい忘れてしまうこともあるだろう。
実のところ、忘却の橋を渡ってきた「自己忘失」の癖が重たいかもしれない。
しかしながら全ては報われるのだ。
汗を流さずとも、血を流さずとも、全ての花が開くのが自然の有様ではないか。
●こころは無責任なおしゃべり屋
ふと、常に何かをしていなければ不安でしょうがない自分のこころの癖に気づくだろうか。
ふと、機械仕掛けのクマのオモチャのように、常に忙しく動いている自分を、自分で気づくことが出来るだろうか。
ふと、時間、生活、お金、地位、仕事、信頼、付き合い、生活向上・・・という健気と思える動機付けに無条件に突き動かされている、あなたやわたし達の今の有様に気づけるだろうか。
あなたのこころが様々に変わる様を観ることが出来るだろうか。
あるいはその変化するこころに、その都度なりきってしまい、その無責任な流れに翻弄されることに気づけるだろうか。
こころは無責任なおしゃべり屋である。そのおしゃべりをいつも真に受けているのではないか。
あるときは、途方もない怒りを、外の人々や様々な現象に投げつける。
あるときは、やり場のない嘆きを外の人々や様々な出来事になすり付ける。
こころのおしゃべりの背後には、「淋しさ」があるのだ。
大勢の愛すべき人々との本来あるべき共感を得られずに、孤独を感じているのだ。
まさに、こころは生まれてこの方、五感の体験によって培われた子供のようでもある。
●あなたは常に「あなた」であるところの者である
我々の人生の共通の意味があるとするならば、
その人生の意味を創っているのは「自分」以外にないという真理だろうか。
主人公は、近くて遠い大勢の他人達ではなく、我々そのものであるということなのだ。
社会のせいではなく、世界のせいでもない。
親のせいでもなく、冷たい態度の隣人のせいでもない。
法のせいでもなく、慣習のせいでもなく、制度のせいでもない。
悪党達のせいでもなく、聖人のせいでもない。
自ら創る価値の世界のなかで、その自らを変えなくして、いかにして世界が変わると言うのだろうか。
おのれの眼にかけた色眼鏡を外さないで、「見える物がすべて暗い暗い」と嘆くことほど馬鹿馬鹿しいことはないだろう。
外の世界の大勢の人々が何を考え信じていたとしても、それがどうということはないのだ。大勢の人々は、今のそれぞれの魂の発現形を学んでいるだけのことであり、あなたとは異なるプロセスにあると言うだけのことであろう。
例えば同じ陸上競技のトラックを走っていても、各々の周回の数が違うだけのことなのだ。
あなたは「あなた」であるのが真実であるからだ。
わたしは「わたし」であるところの存在であるのが真実なのだ。
あなたは「眠れる者」であるところの存在なのか?
問題は、それに気づかないまま人生を送り、そしてあちらに行ってしまうということである。
生と死、これは誰もが薄々感じ続けている最重要なテーマであるが、身近に誰も何も言わない為に流されているのだと思わないだろうか。
何も解らない有様を体験したいが為にやってくる世界でもあるがゆえに、あなたに懇切丁寧に説明する人などいるわけもないかも知れない。しかし、その待ち続ける愚かさに気づいても可笑しくはないはずなのだ。
我々は意識的存在であるからには、物質や時間の形態そのものではないがゆえに、この観念を超える必要性は避けて通れない。
死んだら終わりの偶然の世界、あるのは便利さと物的享楽であり、そのためには必死で競争することを求められる「賭博場」にいることを発見したことは、既に解脱の域にあるということであろう。
こころに翻弄される域にあるか、こころを調律する域にあるか。
域とは単にその違いだけのことである。
一歩先のことであるが、そこには「自己のこころ」というハードルがあるのだ。
それは古い自分を超えるハードルのことである。
●我々は全て「一なる者」である
我々は例外なく一人で生まれ、一人で去ってゆく。
この例外のないシンプルな事実を見るべきではないか。
それは社会の通念のように、淋しいことでも、孤独なことでもないのだ。
宇宙が「一」ならば、
創造の因も「一」であり、
そこから出でるところの意識的存在である「人間」もまた「一」である。
大勢の動物、植物、人間、すなわち仲間たちはその「一」なる者の、
それぞれの無限の現われなのだ。
すなわち我々は全て違うあり方を創造している兄弟姉妹なのだ。
一は多なり、また、多は一なり。
本日も、いつもながらの拙い記事をご覧頂きまして、
誠に有難うございました。