気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

マインドの話(3)世界は心象である

2019-12-30 07:36:12 | 語り部の章

●マインドで創られた世界?

この世がバーチャル(仮想)世界であるということは、
その表現を変えて少し具体的に言えば、

わたしの世界は”わたしの心・マインド”で創られているということでもある。
あるいは身近な世界も宇宙も、マインド上の無限の構築物であるとも言えよう。

単純な事実を言えば、

人類の生活・文明のあらゆる物が、誰かのイメージ・設計・加工によって創られているし、
小説も人文科学も理科学も、工学も全て人間の思想と、すでに出来ている大自然の仕組みとのコラボレーション創造なのである。

自然にある物質が勝手に創造しているのではなく、人間の意識的活動の結果出現しているものである。

人類文明のあらゆる事物・歴史・物語は全て・・人類作・・想念の創りものなのである。

これらすべてが現実とされるならば、

現実とは、元は全て人間の思索・想いによって現れるものだ。

人の人生も全て、その人の発する想念、意識的な作り物であるという事だ。

何をどう考え行為してきたのか・・それが全てであり、外側の出来事・事象の影響も、

実際はアトラクション、あるいは触媒のようなもので、

それに対して、何をどう考え・行為してきたのかが全てなのである。

そのための人生であると言っても過言ではない。


●現実は幻影で、ただ法則があるのみ

全ては想念・マインドで創られている・・・、

これは何かの心理論のようだが、

実際は世界の創造の仕組みであり、これがいわば『現実』である。

「現実が・・現実が・・」と言っているのは、観ている”幻影”のこと。

あなたが暗い顔をして・・「この現実がネ・・」というのは”幻影”のことであり、

真の現実とは・・

それが意識的な投影現象・・マインドで創る幻影だという、

いわばその仕組み、法則の方である。それが「現実」なのである。

●仮想現実はマインドで創られる

それがバーチャル・仮想現実世界の”基本的な仕組み”なのだ。

実際、あなたの世界も、あなたのマインドで出来ているということだ。

あるいは、あなたの意識があるから、あなたの世界がある・・と同じ意味だ。

誤解が多いかもしれないが、

頭でちょいと考え、想起したイメージがすぐに実現するようなものではない。

もしそうであれば、特にこの世界は、ネガティブな事象で溢れてしまい、

世界の存続どころではないだろう。

●幻影でなく、”現実”を直視すべし

いわゆる”現実”?生活において、

例えば、あなたの人生が「不幸で苦悩だらけ」と感じているとしたら、

それは大勢の人々が愚かで、心狭く、あなたを認めない、優しくないのが原因なのではない。

それは誰のせいでもなく、単にあなたのマインドで創り上げている幻影のおかげなのである。

質感的・肉感的に現れ出ているからと言ってそれが「現実」とは限らない。

3次元的仮想世界とは、質量感を伴った・・幻想・・と言えばいいかもしれない。


●ありのまま見るとは

例えば、こういう人もいるに違いない・・、

自分が創っているって?

「いや、そんなことは無い! 実際に俺は”あいつに”やられたんだ!

あいつ以外に誰がいるもんか・・あいつの言動が無ければ、

俺がこんな怒りや侮辱や苦悩、苦痛を感じることは無かった、そうだろう?

ああ、間違いなく、奴が原因だ、絶対そうだ」・・と思うかもしれない。


でも良く見てみよう。

そもそも、それも、幻影世界での”出来事のこと”を言っていて、

実際に起きていることの表面しか見ていないという事に気づく必要がある。

ヤな奴がいて、何かが起きて、あなたはその影響で苦痛や怒りを感じている・・・、

ということが・・・”起きている”のだ。いや、起きているだけなのだ。


と、こう言えば、・・・

「ただ?・・起きているって?・・どうよ??」

「こんな大変なのにさ~・・」

「え?、それでは何かい、何でも無反応であればいいのかい?、へっ、(かなり下品?笑い)

それじゃまるでロボットじゃないか、何も感じないなんて・・出来るわけない!」

と反論するのはもっともながら、

いや、そうではなく、それらの沸き起こる感情やイメージを感じていながら、

同時に、どこかでそれを”観察しているか”ということだ。

あなたが人的、物理的事象という出来事に遭遇し、それに反応して色々な想いや感情が起きていることを・・・観察しているか?



観察者というと、鉄仮面のような非情な”傍観者”のような誤解があるものだが、

自分が、想念や感情の反応で創られる「物語」のその渦中にあることを、

観察している者、高次の意識、あるいは魂の・・視点があるか?ということだ。


わたしの魂、高次意識、ハイヤーセルフ等とも言われる高次の自己は、

どこか・・別の時空、宇宙、”場所”や”時間”にあるのではなく、

それぞれのわたしの内面・・いまここで、・・意識・存在の中にある。


●高次元へのシフトの意味

現象に巻き込まれて没我しているか、あるいはその渦中にありながら、

それらが起きている・・こと、場合によっては激しい想念や感情の起伏が起きる事に、

・・・・気付いている”次元”にいるか・・・ということだ。

これはある意味では、この地球上の支配的観念・信念による、
閉鎖マトリクスの網を超えているか?という事にもつながる。

観察、あるいは気付いていること自体、

つねにその事象より高次にあるということを理解可能だろうか。



いつもの例えだが、映画を観ている人に対して、

”あなたはその中に入り込んでいる主人公に感情移入しっぱなしなのか、

あるいはそれを鑑賞している観客としても気付いているか?”

と問うているようなものなのだ。

映画を観ること自体が、映画の仮想物語を楽しむためのものではあるが、

夢中になっている時にはその中に没我であると言っても良いはずだ。


映画の中にどっぷり入り込んでいる場合、あるいは熟睡して眠りこけている場合などでは、

これが映画だと言っても、聞く耳持たぬこともあるわけで、そうふいう人を目覚めぬ人々と言ってもいいだろうか。

スピリチュアルな教えで、気付きの深まりが最も大切などと言われるが、

”魂・意識”が高次へと変化するならば、変化の進捗・進化の割合に応じて、

魂・意識”のその知覚対象たる世界もまた、いわゆる高次へとシフトするのは自然である。

超単純に言えば、

感情や思考、想念に翻弄され、感情の不幸まみれで右往左往する状況から脱し、

逆にそれらを観察者の視点からコントロール出来るようになれば、

それだけより自由な境涯に至るということだ。


イエスが残したとされる言葉にこういうものがあったとか。

”わたしはこの世に居ながら、しかもこの世の者ではない”・・・と。

キリストの宇宙人説とか、本当はどこで生誕したとか、若い頃どこで修業したとか、

そういう諸説もあるわけだが、まるきり嘘ではないと思われるわけだが、

ことの本質はそういうところにあるのではなく、

自身の言明として、

わたしはこの世界に居ながら、この世界を超えているところの、

高次の存在(魂・意識)であるということを言っているように思われる。


あなたやわたしたちも同じだと想えるだろうか?

あなたが人的、物理的事象という出来事に遭遇し、

それに反応して色々な想いや感情が起きていることを・・・観察しているならば、

わたしたちは、この地球の体験場にいながら、それを超えている、

いわゆる高次の存在であることに気付いていることなのだ。


意識的存在である人間たちの世界は、それぞれのマインドで創り上げている幻影の集合体。

幻影といっても実にリアルで質感・肉感を伴うバーチャル仮想現実、マインド劇場だ。

世界が質感的・肉感的に現れ出ているからと言ってそれが「現実」とは限らない。

3次元的仮想世界とは、質量感を伴った・・幻想・・と言えばいいかもしれない。


そして、その幻影を観ている者は・・・誰なのか?





マインドの話(2)心ここにあらず

2019-12-20 05:58:27 | 語り部の章
これこそが・・仮想現実だ! というそれは、
根っから”そう想っている”という・・その意識状態のことだ。


根からすべての木が成長し、枝葉を伸ばし姿を広げるように、
思考、感情や体感記憶イメージの集合を創り上げている。
これが「魂」といわれるもので、その中には多生の記憶集合体も包含している。

魂の記憶集合体が1つの存在シナリオを選定し、
”わたし”という個人として、時空間内部に、自らを結実・顕現させているのだ。
---
物理的環境とか条件とか・・肉体感覚とか、重いとか熱いとか・・そういうものは、
その2次的知覚創造感覚として現れているに過ぎない。

その”根っこから想っている”・・一見単純な物言いだが、
自己の内部・意識・・に想起する想念を観察できるまでに至らねば、
これはそう簡単に理解は不能かもしれないが、

それしかないと意識的に・・絞り込んでいる・・信じ込んでいる、
あるいはフォーカスともいうが、それその状態そのものが、
仮想現実の経験領域として出現しているのである。


この世では、外側・環境があって、それによって意識・マインドが決まるという、
実際には最悪な「たわごと」を教えられる過程で、いつかそれが根の思考になってしまい、
環境、条件、物質が人間を規定するので、
この環境、条件、物質を少しづつでも改善せずば幸せにはなれない・・、
そういう根の思考も作り出す。

したがって、毎日の思いのつぶやきも出てくる。
---
いや応なく・・毎日毎日繰り返される現実は、
悟りどころか・・飯を食うための生活維持に翻弄されているではないか。
悟りで得られそうな幸福感すら、いったい全体?どこにあるのやら・・
これはどうしようもないではないか・・!?

・・と、

これはいわば思考の回路のようなもので、この状況のままでは、
同じ回路で同じ状況を生産することになるため、
はっきり・すっきり・・完全破棄!しなければならないのだ。

人類意識が変わるまで・・待っている?ならば、
実際には、それが足の引っ張り要因であろう。

使い終わった古びた道具は捨てるだろうに、
ましてやそれが身の丈に合わなくなったならば、
まずそれを捨て去らねば、他の新しい道具を扱えないではないか。

多くの場合自分のこころ・想念を観ていないため、
こころここにあらずのまま人生を繰り返すため、
こころのうろつくまま、右に左に翻弄されていて、
様々な不快や苦痛、軋轢を大量生産していることに気付かない。
そうして、
悪いのは社会や大勢の他者であるとそう思うのも・・マインド・思考である。

例えば自分に不快感や不幸感、恐怖感をもたらすと分かった「想念」、
小さな世界でぶつかり合いつぶしあって、へとへとに疲れるような「想念」を、
いつまで後生大事に持っているのかという話である。




微細な水の分子も人の想いによって反応することが報告されている。

水に「ありがとう!」感謝・感謝の念を投げかけた場合と、
「馬鹿野郎!、この野郎!」等を繰り返し投げかけた場合の違いは明瞭である。

上の写真はまるで花のように結晶した水分子であり、
下の絵はぐちゃぐちゃな水分子の集合を示している。

例えばこのような写真の信憑性にしても、それ自体の証拠を探し回ることも大切なことながら、サラサラと知識だけ仕入れただけでは事足らず、
誰でも今・・すぐ出来ることならば、それを想いと行為で試し・現す時期でもあろう。
そう・・、それが科学的な行為と言えよう。


マインドの話(1)仮想現実 

2019-12-18 05:03:15 | 語り部の章
真面目に科学的な探求をしたり、
現代においてコンピュータグラフィックに精通した人や、
または純粋な動機で瞑想に親しむ人たち、
あるいは意識内面を観察する「内観」を多少とも実践する人たちならば、

我々がいる世界は実体のない”バーチャルリアリティー”であるということが、
まったく妥当であると実感するだろう。

ここで”実感”という表現は・・・、なんとなくそう思うけれども、
実体はどうなんだろう?という中途半端な想いではなく、
いやはや・・そうだったという「悟り」のようなものである。

そう、実感・・・ここまで行けば「悟り」となる。

「悟り」とは・・分かってしまって、
もう後には戻らない意識レベルへのシフトとでもいうべきもの、
あるいは大いなる目覚め、妄信でない確信のようでもある。
例えば、
幼稚園児から小学生になって、また幼稚園に戻る友達は決していないようなものだ。

あるいは優しい表現であれば、
悟りあるいは覚醒とは、
二度と忘れることのない根本的な理解、もう後には戻れない意識進化のようなものだ。

あるいはまた別の表現で言えば、
エネルギーや振動数が一段と上昇し、情報量が飛躍的に増えるようなもの、

何も、霊的行者や神官や仏法僧の専売特許のことでもない。
あるいは人と違う(超)能力をもっている人のことでもないし、
有名大学の超偉い先生が知ってる何かでもなければ、
謎めいた噂の宇宙人のことでもない。

おー!、なんだ、実体のない世界なのか、
ならば、何がどうという事もなく、必死に何かに追いすがる必要も、
肉体の周りを仮の物で飾りまくり、
地位や名誉や知名度を生涯かけて獲得することもないではないか、
すくなくとも、もっと気楽に生きて行けるではないか・・と想うものだ。
スピリチュアルな知識を得た人ならば誰でも、
こういう一時の涼風感的な経験をしているかもしれない。

しかしながら、・・

とはいえ現実は重く、・・・なかなかそうは問屋が卸すわけもなく、
「そうかもしれないが・・しかし実際は違うがね~」ということで、
いわゆる現実生活という有象無象の重たい縛りの感覚に引き戻ってしまうものだ。

そうではないか?

いや応なく・・毎日毎日繰り返される現実は、
悟りどころか・・飯を食うための生活維持に翻弄されているではないか。
悟りで得られそうな幸福感すら、いったいどこにあるのやら・・

嗚呼、これはどうしようもないではないか・・!?

という話にもなるだろう。

ところで、あなたはどうだろうか?


でも、

ちょっと待って♫・・笑)、今の言葉~ ♪(ちょっと古いが山口百恵風?)

いや応なく・・毎日毎日繰り返される現実は、
悟りどころか・・飯を食うための生活維持に翻弄されているではないか。
悟りで得られそうな幸福感すら、いったい全体?どこにあるのやら・・
これはどうしようもないではないか・・!?

・・と、

これ自体が・・仮想現実なのである!



転生の話(20)眠り・まどろみ・目ざめ

2019-12-07 10:55:13 | 語り部の章
わたしたちの”肉体”とは、
”自ら”の意識の無限性を現すところの1つ1つの表現体であり、有限という姿を託(かこ)った、無限の意識の・現れにすぎない。

その現れを・・人は「生命」などと呼んでいる。
あるいはその粗大な形式においては「物質」と呼んでいる。

我々自身の身体、身の回り、環境内の諸物、見上げる宇宙も全てその現れなのだ。

既にこの世界の科学者たちは見いだした、
粗大な顕現形である物質を分解してゆくと、細胞、分子、原子、素粒子さらには基本的なクオーク、言わば、空(くう)に出現する存在と非存在の狭間で揺れる極微のエネルギー、現れては消え去るような挙動を繰り返す微小な何か、実際には在るのかないのか、とらえどころのない何か・・を見いだしたのだ。

もとはひとつ空(くう)より出でる無限小のエネルギーの振動・波動で、全てが構成され全てが創られていることを知ったのだ。

それは自分とは関係のない、難しい科学の世界の話だとして退けてはなるまい。


<わたし>・・の外側には決して存在しないところの、
・・神の・・目ざめ・・
おのれの無限性に・・気付いている働き・振動・波動のことを・・意識と呼び、その粗大な表現形を物質という。

意識とは・・私個人、あなた個人、誰それの”意識”にも、
また動物の本能的行動や植物や鉱物の姿形や、さまざまな反応にも現れている。

そう、あらゆる存在は・・意識・・である。

あなたの家の猫や犬、小動物のまなざしのその中にも「意識」が感じられるはずだ。

あらゆる存在は・・振動・波動であり、
創造の原初の・・無限の自己への気付き、
おのれへの目ざめから派生する「意識」である。

当然ながら、なじみ深い、あなたわたしの個人の意識にもそれが現れている。

これは人々が毎日、普通はその重要性に気付かずに通過している、
眠り、夢見、そして目が醒めた後の生活にも如実に現れている。

いわゆるこの世的、3次元的常識観念では、
体が眠り、体が夢を観て、体が生活をするとすり替えられている。

つまり(魂)意識が・・肉体次元に隷従しているということなのだが、

意識が眠り、意識が夢を観て、意識が目ざめて肉体次元で生活をするのである。

例えば、
次元上昇というのは・・何が・・次元上昇するのだろうか?
あくまでも、肉体が・・ホヤホヤニなって消えるのだろうか?
あるいは愚かにも、改造されたサイバーボディにでもなるのだろうか?

何が・・誰が・・
肉体や、環境や、世界や・・自分の思考や感情に気付いているのだろうか?
変化・転移・遷移そして転生にも気付いている不変なるものは・・誰?

意識から観れば・・我々の肉体は、意識が目が覚めた後に出現しているのだ。
その同じ肉体と環境の一定の時間と空間の体験が1つの人生であり、
大きな次なるサイクルへの転移、変化が・・転生と言われるもの。
あるいは、
魂意識の様々な自己表現形の移り変わり・・が転生だと言えよう。

ここまで気付いた人たちならば・・

身の回りや環境、人間関係、社会情勢、世界の動向もそれはそれとして、
それらのすべての元にある・・・わたし・・意識に・・最大の意識を向け、
自分自身の・・在るがままを・・深く理解しなければなるまい。

意識が目覚め、起きだしてから現れる幻想世界の信念形
自分は肉体だ、物質だ、脳髄だ・・という日常の想いを浴びるまま、
外側世界の個々人としての肉体の本能の刺激と享楽に酔い、
毎度毎度同じ中に安堵を求め、飯を食うために忙しく動き回るだけでは、

逆に・・だが、今、この世界にいる・・意味がないかもしれない。

せっかくの幻想の中の幻想の世界、
楽に見える苦や、後に苦痛となる愉悦、得れば奪われる富、
真実のような嘘八百の物語で塗り固められたこの3次元世界の幻想を、
見抜き、見破り、観念の殻を壊し去り、そこから、
さらに幸多き自在な自己表現へと上昇するために用意されたこの世界を、

気付かず知らずの無知のせいにして、
無駄にしてしまうのは、実に・・つまらないのではないだろうか。



創造の根源の欠片、一片として、

その根源と絶対に・・切っても切れないところの個々の魂・意識は、

”・・おのれが・・何か?”・・を知ろうとして、

根源から放たれる無数の光(波動)となって未知へと出かけた。

あなたやわたしたちが・・それなのだ。


幾多の人生 --I am THAT・・(わたしはこれだ・・)を通して、

今ここに・・在るのである。



(転生の話   了)
 





転生の話(19)わたし(本質)は肉体ではない

2019-12-02 05:29:02 | 語り部の章


●常識とは単に便宜上のもの、真実ではない


まず、この世の常識という迷信、
「自分は肉体であり、死んだら終わりの粗大な物質的な存在である」という認識あるいは信念は、ある物が時間とともに劣化したり、燃えたり、爆発・分解して消滅すれば、そのある物自体が知覚対象から消えてしまうため、その物はそれで終わりであると認識していることであり、さらに、それを自己にも当てはめているということだ。

●現象=わたし・という誤認識
つまり、わたしとは肉体であるからには、肉体死によって「わたし」も消滅すると考えるのだ。
しかしながら、これはすなわち、
わたしはわたし以外の様々な肉体形態の死の事象・現象を観察し認識している・・。
ということであり、次に・・同時に・・”わたしはその肉体形態であり”、その肉体死とともに消滅すると”思う”ことなのである。

その<わたし>・・が理解されていない(はず)にもかかわらず、当然のごとく、わたし=肉体、という判断を・・既に下しているということだ。




●そういう「想い」に気付けるか


えー、?どういうこと?・・だってそうじゃない!・・皆そういう経験しているし、
皆そう思っている・・というより、そうじゃないの?えー何言ってんだよ!

・・とそう思うものである。
これが常識で出来た集合意識の閉鎖枠の中の想念形である。

みんなそう想っているよ・・と、いったい ”誰が” そう思っているのか・・・?
そう、
わたし・・意識がそう想っている・・だけのことだ。

また、事実・事実というが、それは認識されたものの事実認識概念の集合であり、直接の観察・認識を抜きにして、事実・現象など存在し得ないことに気付かなければならない。

事象・現象へ気付いていること、その働きを・・意識・・といっている。

●現象は変化するのが宿命

春が過ぎ、夏が来て、いつのまにか秋が深まり、冬枯れを見る。
例えばその変化・現象の中にいる肉体も、同様の素材で出来ているからには、現れてはやがていつかは消え去ってしまうものだ。

そうではないか?

●他者も知覚対象

わたしたちはこの世界の諸現象の只中にいるがゆえに、その生成消滅を観察する。
特に人間世界というものを眺めた場合に、知人、友人、家族の中で、かつて生きていた人も、死んでしまって今はいない・・そういう経験は誰でもしているし、
大なり小なりのその衝撃を受けるがゆえに、あまりいい気味ではないし、出来れば避けたいと思う感情が、その事象を観察する意識を曇らせるとも言えよう。

嫌なものに蓋をするようなものだ。
そのため、自分を肉体レベルのままにして、その先を疎かにしていたのだとも言えよう。
嫌だ、怖い、そら恐ろしいことだとして、ただそのまま無視を決め込んできたのかもしれない。

実のところは・・・・死ぬなどという概念やそれに付随するネガティブな感情は、本来真の自己の真実ではないということを、内奥では知っているための違和感であるとも言えよう。

ある意味、ネガティブな感情、恐怖・・そのものが・・そこに放置されていたということだ。



●この世では常識自体がネガティブ


死という事象にネガティブな感情が付きまとうのは、殺伐として愛の少ない、嘘のはびこる世界での、身近な同志の喪失感が実に大きいからだと言えよう。

人間という意識的存在たちの有り様を言うならば、それぞれの肉体自我の刹那的な営利を目的としただけの想念と、その強烈な自己正当化のオンパレードのような世界であり、そのような世界では、生きること自体相当に過酷な状況であったとも言えよう。

お世辞にも豊かさと幸福の存分に味わえる世界とは言えないはずだ。

だからこそ、自分の長い記憶を一旦閉じてまで、あなたもよくもまあこの世界にまで来たものである。

あなたという魂の、その無類の勇気や強さは全宇宙の称賛に値する・・と、どこかのスピリチュアルな話でも聞いた事があるだろうか?

まったくその通り、こういう記事にしても、いつもただ目でサラサラ追っているだけかもしれないけれど、いまここにいて、自分が肉体・常識以上の何かであると気付いた・目覚めたならば、それは実に称賛に値するのである!

自信をもっていい・・等の話でなく、

既に今ここにいることで・・・実績・実証済みではないか!

●最大の迷信=私は肉体である

わたしとは肉体であるからには、その肉体死によって「わたし」も消滅する(だろう)。
多くの人がそうしているのだが、
それは、
”わたしは様々な肉体死の事象・現象を観察し認識している・・”
ということであり、と同時に、
<わたし>自体も、その肉体死とともに消滅する・・と”思う”ことなのである。

実のところ・・わたしに対する”想念形”・・なのである!

単純すぎて、身近すぎて分かりにくいかもしれないが、

<わたし>・・が理解されていない(はず)にもかかわらず、わたし=肉体、という判断を勝手に下しているということだ。

1つの迷える無知の正当化された”想念形”に過ぎないということだ。

誰も皆、わたし・・・意識内面に在る膨大な知識に気付いていないにもかかわらず、
わたしは肉体であると・・決めつけているという事だ。

「だって、そうじゃない?!」(笑)

●気付き対象は・・肉体から意識へ

死や転生に対する誤解や迷信に関しては、真のわたしとは・・に気付き始めた人だけが反応するだろう。

いったい誰が?そういう認識をしているのか?

いつもきまって常識や、権威、他者の意見に頼る意識レベルの場合は、
みんながそう思っているし、事実はそうじゃないか・・で終りなのだ。
自分で意識的に・・この先を探求しないままということだ。
別に良いも悪いもないが、ただ・・気付いていないだけということ。

●噂ではなく真実を探すべし

よく言われる事実とか現実とかいうものほどいい加減なものは無い。

例えば人が死んだ、終わった・・ということは、他者というあなたの知覚対象の”現象面の”生成と消滅を観察しているのであって、観察・・の当事者である・・わたし・・意識側の・・事実・・直接体験ではないということだ。

●本質のわたし・・の死は経験できない

まず、あなたは今生きており、未だかつて・・・今回この世界に生まれた後、死んだ経験が無い・・はずである。
そうではないか?

あなたは死んだら終わりだと・・それを言うならば、あなたが死んだならば・・その時にそれがわかるだけなのだ。臨死体験を経た人も、今生きているからこそである。


●わたしが死んで終わりは・・証明不可


たとえばあなたが肉体の賞味期限を過ぎた後には、その時には、この世から消滅して世界には存在しないため、決してわたしは死んだら終わりだったという、その証明などできないという事だ。

言えるのは、わたしの”肉体は”・・・生まれて死んだということだけ。
そもそも、あなたが死んだあと無になったとしたら?
いったい・・誰に証明するというのだろうか?

「わたし・・・が肉体であり、死んだら終わりである」・・ということは、
決して証明できないということだ。

●いったい何を信じ込んでいたのか?

証明できないことを集団で信じているからこそ、わたしは死んだら終わりの肉体人間である・・という常識観念は、迷える無知の正当化されただけの・・想念形だと言えるのである。

そして、
死んだら終わりであるという・・・そういう報告や事象なども起き得るものではない。

逆に、
いわゆる霊的世界からの通信とか、臨死体験の無数の報告など、有象無象のお話があるが、
死んでも終わりでない・・ことばかりの情報満載なのである。

これに引き換え、
自分は肉体であり、死んだら終わりだということを信じるという事は、情報のまったく無いデータを信じるということになるわけだ。

”オー、マイ GOD!” 

・・・
●目覚めとは・・意識・魂へ気付くこと

眼で追うだけでは理解に至ることは無いが、ここに書かれたことを経験に即して熟慮、理解できる人は、肉体や物質現象世界を超えたレベル、自分という存在の本質・・真我、不滅の魂の側面に既に気付いているということである。

この世もあの世も全ては事象・現象で満ち満ちており、その事象・現象、世界・宇宙の様々な世界創造を知覚・認識する「魂・意識」に気付いているという事であり、

わたしとは・・肉体という知覚対象・現象そのものではなく、それと不可分一体となってそれを知覚・観察している・・古くから言われる・・魂・あるいは根源意識・・真我に気付いているということだ。

様々な創造世界を知覚・認識・確認するための、様々な存在時空間への幾多の転生も、当たり前のように理解されることになるだろう。

問いかけてみよう・・、

「真のわたしとは・・誰か?」・・と。