気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

宇宙全一性の証明

2009-01-25 11:46:19 | 宇宙的気付き

●宇宙の全一性への探求

 我々のこの生活場、地域、宇宙を含む全てのありとあらゆるものは、全てこの瞬間に一体であり、決して個別で、ばらばらな、気まぐれの産物でない事は明確な事実です。それらは決して過去の聖人、賢者、覚者達のみの事実ではなく、我々にとっても完全な事実なのです。

 彼らは直接知で会得した真理をそのまま言っているだけであり、まさにそのとおりなのですが、それをいまひとつ、または全く理解出来ない我々のような、一般的意識レベルの存在にあっては、それなりの時間をかけた汗水たらした理解プロセスもまた必要なものであったのです。

●新しいステージに移行しつつある集合意識

 この地球という惑星生命圏の中にあって、その意識レベルは、深く広く、またより調和を備えたものに移行しつつあることは間違いないところです。もうすでに古い意識レベルを脱し、否も応もなく新しいステージになりつつあることがはっきりと分かります。

●素粒子分野で発見された、宇宙の全一性

昨今では、科学という外界、物質の研究分野、特に原子・素粒子レベルを究極まで突き詰められてゆくことで、物質の有り様のフロンティア・どんずまりの視座にまで到達してきたようです。その先に発見されるものは、実は宇宙の全一性、一貫性です。またその全一性を表す為には、個々がばらばらでなく、瞬間瞬間に全てと繋がっていなくてはならないことがようやくわかったのです。

例えていえば、1つの大きな山の頂上にようやく辿りついたようなものでしょう。山に登った経験がある人はそれがわかるものです。艱難辛苦を超えて辿りついた頂上、そこから見えるのは、更にはるか彼方に繋がる山々であり、また無限の可能性であり、またきれいに整然とした町並みや美しい景色、それら全てが、今この瞬間、まさに調和をもってそこに展開していることが分かります。

●「科学」は「真理」を補完する

 科学の本来の役割は、自己を含む自然、森羅万象をその観察の対象にしながら、その中に潜在する数々の法則を抽出し、より広い全体を最もシンプルに理解することにあります。直感やインスピレーションでのダイレクトで時間を超越した真理の獲得に対して、それを証明、補完するような役目もあるようです。

●物質のフロンティアで発見したもの

我々の現実世界はあまねく様々な物質で構成されているとされています。その我々の取り巻く物質を構成する基本である「素粒子」に関する、全世紀末から今世紀にかけての新たな発見や理解によって、今はすでに異なる世界観が現実となりつつあります。

今、我々は極めて重大な時代にいることにお気づきでしょうか。 

 下記に紹介する内容は、欧米科学界の権威筋の一角を担っている天才的な科学者・哲学者である「アービン・ラズロ」の著作、「SCIENNCE AND THE REENNCHANMET OF THE COSMOS」  日本語タイトル「生ける宇宙」(日本教文社)からの抜粋です。

 ラズロを含む、昨今の最先端の科学者達は、宇宙が「量子真空」で取り巻かれていること、そして、その「量子真空」は無でもなんでもなく、時空、物質を生み出す「全ての根源」であるとともに、ゼロポイントエネルギーとも称される、無限のエネルギーに満ち満ちたものだと言っています。これらは勝手な思い込みではなく、疑い深いともいえるほどの科学的で厳密な、観測と観察の結果出てきた事実であるとも言っています。

(理系用語等、わかりにくい表現もあるかもしれませんが、精読されることを願ってやみません。)

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『宇宙の驚異的な一貫性』より

素粒子の最も注目すべき性質は、それが互いに絡みあっているということであろう。素粒子は極めて「付き合いがいい」ことが明らかになった。2つの素粒子が一度厳密に同じ状態をとると、その後それらの素粒子は、どんなに遠く引き離されようとも結びつきを保つ。(注:存在形態や情報を共有する)このいかにも奇妙な、空間も時間も超越した結びつきは、アインシュタインが同僚のポリス。ボドルスキー、ネイサン・ローゼンと共に提案した思考実験(いわゆるEPR実験)が、実際の実験装置によって検証された際に明らかになった。この実験は、フランスの物理学者アラン・アスぺによって1980年代に初めて施行され、それ以来世界中の実験室で再現されている。これは、より深く理解されるに値する重要なことがらである。

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実験の骨子はこうだ。二つの素粒子を、一重項状態と呼ばれる、二つの粒子のスピン(回転)が打ち消しあってゼロになるような状態に置く。(注:一方が右回転ならもう一方は左回転という状態にしておく) その後、二つの粒子を分離し、有限の距離をとって引き離す。そうしておいて両方のスピン状態(回転方向)を測定すると、両者のスピン状態を同時に知る事ができる。

この実験が行なわれると、奇妙なことが起こる。二つのスピンがどんなに遠くに引き離されようとも、一方の粒子のスピンを測定し、もう一方の粒子についても測定を行なうと、二つ目の粒子スピンは、量子力学の理論の要請に従って、最初の粒子のスピンのちょうど逆になっているのである。二つ目の粒子のスピンが前もって決定されていることはあり得ず、実際、決定されていたわけではないにもかかわらず、そのような結果になる。(注:一方のスピンが右か左かわからないものの、片方が例えば左回転と観測されれば、もう片方は、必ずその反対の回転になるという意味であり、遠く離れていても、相互の「逆スピン関係」を維持する、相手の粒子の状態に常に合わせる不思議な現象。)

まるで、まさに測定の瞬間に、二つ目の粒子が最初の粒子の状態を「知る」かのようだ。二つ目の粒子が得る、この奇妙な知識の根底にある情報は、任意の有限の距離を越えて伝わるようであり、しかもほぼ瞬時に伝わるようだ。アスペの実験では、この伝達距離にかかった時間は一秒の10億分の1以下で、真空における光速の約20倍もの速さであると見積もられた。その後、ニコラ・ギシンによって行なわれた実験では、情報伝達の速度は光速の2万倍以上であることが証明された

・・・

物理的世界は、言葉では表現できないほど不思議であるのは確かだが、決して理解出来ないものではない。その重要な特徴は、時間も空間も超越した、「非局在性」と呼ばれる絡みあい(連携)である。非局在性は、微視物理学的な現象であると同時に、宇宙論的な現象でもある。そこには、宇宙の極微の構造から、極大の構造までが関与している。

イギリスの物理学者クリス・クラークは、何ら躊躇することなく、『宇宙は、絡み合った一つの量子系である。これまでもずっとそのような状態にあったし、今後も常にそうであり、完全に一貫性を保ち続けるだろう』と断言した。

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 これらは我々が親しんでいる物質相互間の瞬時の結びつきであり、瞬時の情報交換の根拠でもあります。決して光速度などには制限されない、瞬時ともいえるコミュニケーション、情報伝達、相互認識などを現しています。実は我々の身体や周りの物質、環境、地球等も含め、無限の宇宙の全てと、瞬間に結び付けられていることも示しています。

例えば、あなたがコーヒーを部屋で飲んでいたとして、そのこと自体は、宇宙全体の全ての知るところとなっているとも言えます。

例えば、あなたが悲しんでいたとして、そのこと自体は、宇宙全体の知るところとなっているとも言えます。

例えば、あなたが「今生きて在る」ということは、まさに宇宙の全生命、森羅万象全てが「今生きて在る」ということであるとも言えます。

個別の物質や生命も、すべてと瞬間に繋がっているのです。

全てが兄弟・姉妹であるということは、美しい例えではなく、まさに事実なのです。我々個々は完全にユニークな存在でありながらも、同時に、無限の宇宙の中において完全に一体となって在るのです。

 我々や、周りの時空、遥か彼方の存在時空も含め、様々な存在形態や物量、意識覚醒レベルに関わらず、その全てが「一体である宇宙」にいることが理解されるでしょう。偉大な先達たちが繰り返し、繰り返し発し続けた「自他一体の真理」が、今ここに、最も「疑り深い」とも評される、「科学」によって証明され、認識されたということです。

スピリチュアルな直覚知と、常に、それに対して疑いの目を向けてきた近代科学は、ここに、この水準で完全に邂逅し、合意したのです。これは人類意識の一段高い認識レベルへの上昇を表しています。これは、いわゆるスピ系で言われる「アセンション」というものの1つの重要な根拠とも言えるでしょう。そういう意味で、それはすでに、まさに今、起きつつあるのだとも言えます。

またこれは、「一即多」という深い真理の言葉、全ては愛で繋がっている、宇宙全てが調和に満ちているという真理を、遅ればせながらも、また計らずも、最も疑り深い「科学」自体が、それを証明してしまったということでもあります。

   Anndoromeda

  

 本日も誠に拙い記事をご覧頂きまして誠にありがとうございました。


時空は意識の1形態

2009-01-18 14:59:15 | 夢及び半覚醒時の体験記録

 数年前から、当初は何か画期的なアイデアや事前予知のような情報が得られないかな?程度の気持ちで、夢を憶えておこうと意識しました。それがいい加減な気持ちではない事を行動で示す為に、枕元にノートと鉛筆を用意しました。実は、このようなことをされる人は結構多いようです。また、斬新なアイデアや難しい状況の打開策などは結構このような形で出てくるようです。

 ちょっと極端とも思える意識体験のほんの一例として、体外離脱を経た宇宙探索のようなものをご紹介します。顕在意識から感じる時間としては、ほんの数秒ですが、相当な時空を移行した感覚があります。宇宙空間に関する、夢・半覚醒時の意識体験は他にも多くありますが、自分にとって何か重大な疑問等?がある場合に、ふとある時に、それに関連する映像等を見るような事でもあるかなという感じもます。ある意味、質疑・応答のような、そんなものかも知れません。その情報アクセスともいえるものは、内面意識を通してのものですが。

 ちなみに下記の文章の「遷移」とは、現実とは異なる意識体験モードに入ることを示します。例えていえば、意識周波数、チャンネル上の変調のようなものという意味です。これらは意識的な体験談というべきものであり、何かの功利性や利益や、また、そのための証明をするものではないことに注意をしておく必要があります。他者への弁解めいた物的証拠提示は難しく、そこには、それら似たような経験した人だけにわかる事実というものもあるのです。

●意識体験例1

 「宇宙への飛び出し経験?・体外離脱?」 2年程前

フェーズ① (初期状態)

 ある朝、うとうとしている状態から、次第に目覚つつある状態に気付いてきました。体は布団の中で仰向けに寝ています。目を瞑った瞼の中の映像はいつものように、薄暗く、外界の薄い光などがウッスラと滲みこんでいるようなものでした。

フェーズ② (体脱的遷移)

 そのとき、不思議なことに、顔、頭の部分、つまり、いつも自分の意識がありそうな感じの部位が、なにか小刻みに振動している感じがして、その自分の意識がある?といつも感じている視覚のある顔・頭部?の辺りが、「ずぼっ」「ズバっ」と言う、音のような音でないような衝撃波的波動を伴って、上の方に抜け出てしまいました。

 R・モンローの記述やへミシンク等でよくあるように、順次にフォーカスレベルを経るような、ゆっくりとした離脱ではなく、もういきなり「ズボッ」という体脱体感であり、へミシンク的に言えば、直接的なフォーカスレベルのジャンプのようでもありました。

(ただ、その移行プロセスを憶えていないのかも知れないし、なにかの強力な援助があって為されたものかも知れません。)

フェーズ③ (遷移後) 

 これにはビックリする暇もありません。気付けば、一気に地球の大気圏の上に出ているようでした。ただ、周りは天体写真のような鮮やかさはなく、間違いなくそうであるとわかるものの、かなり薄暗い映像を見るようなそんな感じです。

フェーズ④ (意識的選択)

 その時には好奇心のみがあったようであり、不思議なことに全然怖くも何ともなく、「よし、ここが宇宙空間ならば「月」にいってみよう」と思ったようです(笑)。そうすると、ちょっと移動しているような感覚の後、相変らず薄暗い映像ではあるものの、クレーターを伴った丸い巨大なものが見えてきました。視野は暗いのですが、すぐに月だと判断できます。「自分の視点」はその月のかなり上空を北極辺りからやや斜め切りのように一回りしたようです。

 よくある観測衛星のような近距離ではなく、丸い月の輪郭が視野の中に常に留まるようなそんな離れた距離感です。視野映像は、残念ながら観測衛星のハイビジョンのような高解像度ではありません。昨年のあの「かぐや」の周回の、もっと上空からであり、自分の場合、色の鮮明さや解像度、コントラストが未調整のような、ぼんやりしているような映像のようでした。

  その後に探索を思いついたのが、地球から見て2番目に近い天体でした。(火星か?金星か?残念ながら憶えていません)・・今度はそれが一挙に近づいてきました。移動しながら?見ている映像は、やはり白黒のようなそれもコントラストがぼんやりしている感じです。これは何か白っぽい天体に見えましたが、ぼんやりで特定はできません。

フェーズ⑤ (遷移への乖離感の増大)

・・という間に、「事の異常さ」に気付いて来たようです。「これは普通の夢ではない!・・」と言う感覚が急に込み上げて来たのです。こ、これは、まずいかも!?、「ちょっと怖いな!」「戻れるのか?」みたいな、怖い感じになってきました。

フェーズ⑥ (遷移からの帰還)

・・・・と気がつくと、あっという間に、急に重力に貼り付けられたような重量感覚を伴って、布団の上に意識が戻ってきました。身体の重量感を普通以上に感じます。

フェーズ⑦ (現実感覚への復帰)

・・・あ~っ、夢だったのか?という感覚はいつもの夢から覚めるものと同じですが、普通の夢でないのは分かっています。朝目覚めた後であり、体が動き始める前の、意識だけがハッキリした状態であるのは間違いのないところです。

 

分析と所感>

・身体は寝ているが、意識はハッキリしている状態であるため、普通の夢とは違うのです。

・体外離脱など意識していなかったが、そのような現象が起きたこと、これは無意識レベルでの選択であったようです。または高次の援助か何かあったかも知れません。

・かなり強烈に離脱した感じであり、衝撃波ほどではないが、何か殻が上の方から破れたような、またピーナッツの殻に穴が開いたようなそんな感覚でした。

・普通の日常の意識(習慣化された顕在意識)では到底、そんなことをやろうとも、出来る事とも思っていないわけです。昔から宇宙には親しみがあるものの、日常の観念では、そこに飛び出そうななどと考えること自体があるわけもないのです。

・なんと大気圏を抜けた?と知ったときにも、恐怖がなかったのが不思議です。普通の夢であっても、ビックリするような事は時々ある訳で、そのような時は通常は怖い夢として一気に目が覚めてしまうものです。

・視野に展開したのは白黒的な映像のようであり、霊視・内観視のような感じです。要は、それを確実に知覚・認識しているが、あたかもはっきりした光が当たっていなくて暗がりで見ているような、そんな知覚。・・慣れていないせいだろうかとも思えるものです。

・そのような意識体験中、時間が経過するにつれ(ほんの数秒感覚ですが)、非常識ともいえる目の前の映像に気付き始め、「怖い」という感覚が現われてしまい、その瞬間に一挙に戻ってきたのは、多分、朝の寝起きから、意識に次いで、肉体機能も次第に活動を始めてきたせいだと思われます。いつもの肉体感覚主体の顕在意識がめざめてきたからでしょう。

そのフェーズの移行の意識感覚かなり微妙であり、前半と後半の違いは、途中で急に「怖い」という感覚が出てきたことではないかと類推されます。

まとめ>

 意識が目覚めた状態での視覚映像、体感であり、決して普通の夢ではないのは自明です。また日常の物理レベルの五感によるものでもない。あたかも「リモートビューイング」のような「遠隔知覚」に近いものです。単なる映像だけではなく、初期にあった強烈な「体脱」感覚も付随しているのは、なにか自分の高次のボディ?と関連していると考えられます。また体験した内容には時間という経過があって無きがごとくに感じられます。月や火星?をビューイングするのに、寝起きの布団の中では数秒の経過しかありませんでした。

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●日常体験も夢も、同じく自己内面への知覚作用

 前回は夢とハイアーセルフというテーマの記事でしたが、現実生活体験も夢体験も、自分が体験しているということには変わりがありませんが、我々の体験の多くが日常の五感に馴染んだものであり、それ以外は存在しないという、短絡的な無意識の思い込みが根底にあるものです。

 夢の中で見るものは、肉眼視覚でのセンシングに基づくものではありませんが、それが確かに見えているという自覚は、 結局は、日常の五感刺激を元にした体験と本質的には変わりがないという事です。夢を見ているときも、その内容を内面の視覚映像や音声等ととして捉えているという事自体は変わりがないからです。

●五感の知覚は「小さな窓」からのぞくようなもの

 普段の五感のセンサーによる一般的体験か、それをバイパスした(ジャンプした)体験かの違いであり、何らかの情報を「わたし」が得ていることには変わりがないとも言えます。五感による体験が全てだと考えるならば、五感の眼に感じる可視光の波長域や、音の波長域や、皮膚振動の感受波長域が、極めて限られている現状をどう考えるのでしょうか。

 我々の五感のセンシングは、光、音、振動などの全波長域のほんの1部しか対象としていないことは、あたかも、五感自体が極めて限定された「小さな窓」のようなものであることを示しています。そんな小さな五感の窓だけを「全て」として、無意識に決め付けることは、多分に自らを局限した思い込みとしか考えられないのです。

●五感の小窓は開け閉めできる

 日常の世間的な生活の時には、知覚の窓は小さな窓のようですが、顕在意識による先入観が少ない状態では (眠っている時など)、その知覚の窓が大きく開くようです。

 言葉を変えれば、普段の意識状態でない「変性意識」状態ではその条件が整うようです。変性意識と言っても、そのままの身体状態で、五感の刺激から意識の焦点を、ゆったりと内面に向ける状態で得られる意識であって、決して酒や薬物その他の作用での意識変異状態ではありません。

 具体的にそのような条件が整う状態は、瞑想状態や睡眠中などがあります。普段の状態でも意識の焦点が外界の刺激に惑わされなくなれば、いつでも内面からの知覚が可能なのですが、如何せん現実の社会生活の中は刺激に満ち、あまりに慌しいものため、そのような「知覚が広がった意識状態」を維持することは、なかなか難しいのが現状です。

●肉体・物理次元を超えた「素の意識」

 寝起きの状態とは 「身体は相変らず眠っているが、意識が起きてきている」状態のことです。 多くの人は、毎朝の、この目覚めるプロセスを無為に通過しますが、何かに意識的になると、その短い移行期の意識状態においては、その答えというか情報というか、そのようなものが、「映像」や「音声」または「明確な感覚」等としてこころの内面に現われてくるようです。

 この寝起きの状態は、普段の肉体五感を主体にした習慣的な意識に今だ戻っていない、今だ覚めやらぬ状態、「素の意識」が出ている状態の1形態とも言えます。そらは、先般の記事では、高次の自分(ハイアーセルフ)の一端という表現をしました。

 「あれは出来ない、これは無理だ、これは経験がない、こんなこと出来っこない・・・」等という肉体経験に元づいた常識的習慣的な意識 (五感を主体とする顕在意識) が眠っている状態では、多くの可能性を拒絶しない、広い意識状態になるものです。

●意識と物理空間・主観と客観

 このような体験は意識体験といわれ、主観的なものとされており、一般の科学では今だその範囲外にあります。しかしながら、物理常識的な観念から逸脱するような現象が、最近は増加しており、それは「意識」と「物質」との相関を示すものです。

 新しい時代・ステージでは、このような「こころ」「意識作用」と、今まで慣れ親しんだ「物理的 時間・空間」の相関が明確になると考えられます。 例えば、あのセロ・マジックに伺える不思議なパフォーマンスは、手品というカテゴリーを遙かに越えている為、今の時点では、笑って楽しむしか?対処の方法がありません・・。

●いつも有るのに見逃してきた「意識」という要因

 何か妙にシンクロする。偶然としては出来すぎている。思ったことがそのとおりになった。予感が当たった。相手の気持ちがわかる。こころを入れ替えれば環境条件が変った。古い観念が脱落する大きい出来事があった。夢で人にあったら、その後現実に起きた。

・・・等等、このようなことは我々の日常生活でもよくあることですが、今までは「偶然」というゴミ箱に捨ててきたようです。それに意味を見出せない、また意識していない状態でもあったのでしょう。夢や変性意識での体験、直感知、いわゆる超感覚的知覚、テレパシー、予知、遠隔認識なども、全て、人間の意識作用、知覚作用に関連したものです。

これらを説明するためには「高次の意識」、高次元からの俯瞰認知などというものが想定されざるを得ず、これら高次ともいえる意識が自分たちのこの生活空間に滲み出していることを示すものです。肝心なところは、「気付き」「認めなければ」現われないということです。

●結果のみの世界から因を扱える世界へ

 単に物質のみの時間空間認識から、意識という「因」側の要素が、明確に現われてきたものでしょう。それを単なる心理的な偶然として無視すれば、今までの物理次元に囲われたままとなるわけです。また意識的な要素に気付き、その責任と無限に開かれた可能性に対して恐れをなさず、先に進んでゆく勇気があれば、さらにいわゆる高次元ともいわれる展開への道に乗っていると言うことだろうと思われます。

●先端科学も意識を発見しつつある

 しかしながら、素粒子、宇宙論などを含む、ここ数年の科学の最先端からも、宇宙そのものが部分部分と絶対に不可分の調和をもって展開しているという見解がなされつつあるようです。原子・分子に分解してきたその先にある、それらを含む宇宙・存在界全体の調和や同時性の発見です。まさに壮大な「意識的宇宙像」が現われつつあるようです。

 あたかも、美術絵画を鑑賞するために、バラバラの個別の素材の分析(分離)から始め、やっとのことで、その絵画の全体を眺めて感動できる段階(統合)になってきたようでもあります。

●精神の復古

 お金や地位や名誉などは、それを経験したい段階の人間達にとっての、その得がたい経験知としての意味しかありえません。逆に、精神修養、人徳、思いやり、等の人間の質の向上がとんでもなく重要であるという、古代から細々ながらも延々と続いてきたメッセージは、やっとその証拠を含めてクローズアップされてきたようです。

●人間は肉体だという文明の行き着く先

 わたし達は主として肉体感覚をもとに毎日の生活を送っているわけですが、わたし達というものが肉体だけの存在であるという短絡した観念体系が、社会を覆いつくしているようです。こころの清らかさや大らかさ、感受性や気高さ等といった高度の意識的な要素は、得にならないものとして、2次的3次的な扱いをされていたのです。要するに「物質偏重」文明であったわけです。今の世相は、まさにそのように現われているのです。

 肉体だけであれば、皆バラバラの個体であり、どうせならその中で知恵を使って、自分だけいい思いをしても、何も問題ないと考えるものです。どうせ死んで終わりならば、人が気付かなければ、好きな事やるほうが良いと考えるのも無理はないことでしょう。またわけがわからず生きていることや、隙あらば何をするかわからない人々の中では、「不信」と「恐怖」が蔓延することになるかもしれません。かろうじて法律というもので「律する」ことを除けば、頼りになるものはないと考えるでしょう。

●人間は身体・こころ・霊の統合存在である

 人間存在は、肉体だけがポカーンとそこにあるような「偶然の産物」ではありません。また精巧な有機的機械でもありません。人間は無限に意識的な存在であり、「身体・こころ・霊複合体」としての存在です

 「今ここにある」あなたやわたし達にとって、最も大切なこと、人間の本質は、こころ(意識作用)の拡大・昇華・進化にあることは明白ではないかと思います。その根本に在るのは、「今生きている」という事実であり、「」という瞬間であり、全てがというものでつながっている、この「調和に満ちた溢れた宇宙の真実なのです。

 自然や社会、身の周りにあるあらゆる現象の中に、そして、そこに現われている「愛」や「慈しみ」を感じることが出来るかどうかが、文字通り「目の前」にある喫急の課題またはテーマともいえるでしょうか。

汝が信じるごとく汝になる」という過去の聖者の言葉は、主観と客観を超えた真実を表しているようです。

・・・

 (つづく)

 Nature1006

 

本日も拙い記事をご覧頂きまして誠にありがとうございました。 


夢とハイアーセルフ

2009-01-12 18:11:31 | 宇宙的気付き

 「外界」は「内面」の反映にすぎないという言葉は、極端な理想論と感じるかもしれませんが、かなり深い意味でまさにそのとおりであると思います。また人間の行なうべき最も大切な探求は、自分の意識を掘り下げることでもあるようです。

 外の世界に生起する様々な現象の本当の因は、それを観察している「あなた」にあると言うことが、’どえらい’意味を有していることに気がつくでしょうか。

 古来から、しっかり自分発見の方法が伝わっています。修行、修道、瞑想、座禅、読教等そのほとんどが外界から内面への意識の転換とその探求と言っても良いでしょう。それらは意識的な内面探索の手法ですが、「夢」の観察も、最も身近な、誰にもいつもできる内面探索の手法でもあります。なにせ毎日必ず眠るわけですから、いつでもできることなのです。

 今回はハイアーセルフが「夢」に出てくるというお話です。

●ハイアーセルフとは

 「ハイアーセルフ」は、高次の自己意識、超自我、等といわれます。この言葉自体には、仮想でない「本当の」自分という概念が現われています。自分というものに、「仮想」のものと「真」なるものがある?という意味であり、一般通念ではとうてい理解出来ないことだろうと思います。これは実際問題、なんでしょうか。

 今の自分よりも高次な、またはそれを超えている「わたし」とは何でしょうか。そのような「高次なわたし」があると言うことは、どういうことでしょうか。

●夢はハイレベルな情報源

 私自身、アイデアやヒントを大切にする仕事に従事してきたために、「発想やヒント」が、どうやって得られるのかという試行錯誤を多く経験しています。新しい発想やヒントなどに対処するのに、普段の思考活動では必ず限界があります。 企業活動でもよくあるように、画期的な新商品や新企画など、簡単に出てくるものではないということは誰しも知っています。ちょっと考えただけで、決して新しい考えやヒントは出て来ないものです。

 例えば睡眠中の「夢」などは実は重要な情報源と言えるものなのです。肉眼のみ、五感のみを信じ込んでいる人にとっては、「夢」などアヤフヤな、意味の無いものと考えてしまいがちですが、睡眠中の「夢」や「夢に準じる意識状態」というものは、実はきわめて重要な情報源でもあるのです。

 それらを一括で「夢」としますが、夢は、普段の「顕在」意識の有り様とは異なり、それが「潜在」的というだけのことであり、人間の意識の有り様の「別の側面」を言っているにすぎません。 それこそ「夢」自体も、「わたし」という存在の意識状態の一側面なのです。

 夢を見る、またはそれに準じた意識状態で得られる情報は、この潜在意識から顕在意識への「意識の湧出」ともいわれるべきものです。何気なく見る「夢」には、その潜在意識から顕在意識にやって来る、無限の可能性が隠されています。

●ベンゼンの夢の逸話

 自分の幼少時に、六角形の「ベンゼン核」の発想が、化学者自身の夢の中から得られたという本を読んでから、発想の湧出する有効な方法への理解が少し出来るようになりました。多くの発明家や科学者等が、「夢」や、リラックスした意識状態の時に、極めて重要なヒントを得ている事は、実は「常識」なのです。重要な発想やヒント・理解などは、腕組んで首ひねって、なにか考えるだけで出てくるものでは決してありません。

 ・・・ある時、ベンゼンは新しい化学物質の構造を考えていたのですが、考えに考えた挙句、結局疲れ果てて眠ってしまったのです。そうした時、「夢」の中で 「へびが現われ、六角形を形作っている映像」を見た瞬間に、新しい化学物質の構造(ベンゼン核)が瞬間に解かったというお話です。それはベンゼンと名付けられる物質が、分子同士特殊な六角形に結合したものだという事が「直に」解ったという逸話です。

 表面意識であらゆることを考えた挙句、その力んで考えること自体を放棄した状態、(睡眠中の夢の状態に)なって初めて、その「答え」が得られた・ということのようです。 まさに必死で追い求めている間は、決して目的は得られず、逆に力みを放棄した状態で、そのものが得られる・・というパラドキシカルなプロセスとも言えます。これは顕在意識で問題を十分に提起し、潜在意識で解決するということでもあり、総合的な人間の意識の広さ、深さを感じさせるものともいえます。

●夢も現実生活と同じ、意識経験に違いがない

 学術的にはノンレム睡眠、レム睡眠という睡眠の深さや特徴等も調べられており、また各睡眠レベルでのθ、α、βなどの脳波の特徴なども解っているのですが、その時の人の内面で何が行なわれているのかということに関する分類や精査は十分に行なわれていないのではないかと思います。夢、それはあくまでも「心理的」なものであり、物性科学的な範疇を超えていると考えられているのかも知れません。

 木を見て森を見ず、または本を買っても、その本の外装や価格などの外部観察をするだけで、実際の中身を読まないようなものでしょう。確かに、意識的、心理的という言葉は、現状の測定器の対象外ということでしょう。TVのメカや機能、仕組みを調べるばかりで、放映される内容自体に意味を見出すことが出来ないようです。

 外の世界で生きていると言うことは、肉体に装備された五感の刺激を元に経験をしていると言うことであり、結局は外の世界を「見て感じている」という「意識体験」です。ハッキリすっきりしているため、それこそがリアルであると思い込んでいますが、意識体験であることには変わりがありません。

●夢を見るのは受像機を見るのと同じ

 夢は五感を経由しない「意識体験」と言えます。実は、予言、予知、発明、遠隔地の透視、テレパシーによる直覚知、リモートビューイングなどは、夢と同様、内面から得られる外部情報とも言えるものです。

 こころと身体を意識的に制御出来ていないために、あやふやな幻想のようなものと思い込んでいますが、自分のこころを分析・制御することで、肉眼、音覚では到底及ばない情報取得、送受信も可能なのです。

 米露その他の国々では、これらの情報取得手法はすでに密かに認知されていますが、もっぱらの目的はセキュリティ・軍事系のようですが。

 「外界」を知るために「内面」を探索するのは、目の前にある受像機や受信機を使って、外の広いエリアを探索するようなものです。夢はそのような様々な意識レベルでの探索を可能にしているのです。ただ、搬送波たる波動は、我々の認知している電磁波という限られたものではなく、「未知なる波動」としか言いようが無いのですが、ザックリ言えば「意識による波動」と言えるかも知れません。

●夢での情報感受 

 睡眠中は身体が休んでおり、意識の焦点が内向きにあります。外界からの刺激がない分、クリアーな意識状態であると考えられる為に、その中で得られる情報は極めてダイレクトなものになることがあります。但し、睡眠中も考えている位の「意識の方向性」を有していることが必要のようです。ついつい眠りこけてしまい、その時の意識の状態を「忘れて」しまうからです。

 また意識というものは森羅万象、全てと繋がっているために、遠隔地の出来事や、過去の記憶や、未来の可能性を「情報」として感得することも可能ですが、本人の目的意識、自覚意識の程度に応じて、相応のフィルターが掛かるために、その分「不確かさ」が増えるものです。

●潜在している、より大きな意識

 表面での意識・思考活動や感情表現、これを「顕在意識」とするならば、「夢」の状態を含む潜在下といわれる意識は、「潜在意識」といわれるものです。存在してはいるが、現われていない・顕在していない意識状態、これを「潜在意識」と言っています。実在するが普段はそれを意識していない状態・・とも言えるでしょう。

 顕在意識は、いつも外の世界との接点にある意識です。そう、今も行っている、瞬間瞬間の思いや感情、五感による刺激を伴う意識活動です。また、それらの毎瞬の意識活動は全て記憶され続けています。たまに夢で幼い頃のことや、忘れてしまったはずの古い出来事が、「夢」で映像になって出る時があります。そんなこと全然考えてもいないにもかかわらず、「夢」という状態でポッと出てきて驚くことが誰にもあります。 これは体験映像や感情、思いなどの意識経験が、すべて記憶されているという証拠です。

 このように、生まれてからの事は全て記憶されており、潜在意識の中に存在しているのですが、表面の意識がそれを「意識」しないために、普段は「存在しない」ように錯覚しているだけ、忘れられているだけなのです。ここまでのこと、顕在意識、潜在意識という「意識状態」があることは、臨床心理学、生理学などでも違和感がないものでしょう。

●普段意識されない意識=潜在意識

 まさにパソコンと同じく、全ては履歴情報として記録されているにも関わらず、それにアクセスしないだけのことです。人生体験の数々、これらは記憶として残されますが、パソコンでの機能・操作と同じく、再びそのファイル(記憶)を呼び出した場合には、そのときのイメージ映像や感情なども、臨場感そのままに再現されるのものです。

 しかしながら、TPOに合わない古い情報を、いきなりランダムにアクセスした場合は、現状に合わない為にしっくりとこないものです。一連の意味が繋がらない、意味不明な情報というわけです。「夢」も当初はそのように感じるため、意味の無い脳髄の信号の映像化などとして捨ててしまいう傾向があります。

●「夢」は潜在意識下への、1つのアクセスルート

 「夢」は、確かに表面意識の意図に沿わない、一見無意味な情報アクセス状態といって良いものです。また夢を、それを「夢」と認識する為には、その夢を「憶えて」いなければなりません。すなわち、表面意識レベルでそれを意識し、記憶していなければならないのです。様々な夢のうちで憶えているものが「夢」なのです。

 「夢」を見た直後の半覚醒状態では、それを実にハッキリ覚えていますが、不思議な事に、直ぐに忘れてしまうことがよくあるものです。夢を見た記憶だけが残り、すぐに中身などは不思議にあっという間に忘れてしまうものです。そのうち、そのこと自体も忘れてしまいます。絶対憶えているとその時思っていても、不思議に、忘れてしまうことも多いものです。

 ところが、メモなど取ったりして、その夢を憶えておこうと意識的に努力することで、潜在意識に顕在意識からの光を当てることになり、その潜在意識下から来る様々な情報に、次第に気付くようになります。当初は一見無意味に思えた夢の内容に大きな意味があることが次第に解ってきます。

 例えば、はめ絵パズルも全くそのようなものであり、1ピース1ピースが、当初は何の断片なのかさっぱり解りませんが、進めてゆくうちに、次第に意味のある「絵」になってくるのと同じです。

●ハイアーセルフが垣間見える

 夢は当初は表面意識・顕在意識に沿ったものではありませんが、逆に表面意識でとりあげなければ「夢」にならないのです。ここに重大な秘密があります。その秘密とは、普段の顕在意識でない「別の意識」が、一見脈絡のない「夢」を見せ、「あなた」という顕在意識にそれを知らせている・・ということです。普通にあれこれ行なっている、普段の現実的な「わたし」以外の「わたし」が夢を見ている、見させている・・ということです。

 「普段のわたし」以外の「別のわたし」が夢を見ているために、「普段のわたし」にとっては、それがチンぷん・カンプンになってしまうのも無理はありません。目が覚めた時に 「何なんだ?あの夢は・・」 と感じる所以です。

 「普段のわたし」以外の「別のわたし」・・、それは実は「大いなるわたし=ハイアーセルフ」の一部がそこに顕在化している証拠と考えられるのです。極端に言えば、あなたのハイアーセルフが、あなたに夢を見させているということです。

 簡単に言えば、表面意識である「わたし」ではない、さらに大きな潜在意識をも含む「わたし」が出てきているということです。

●夢は意識周波数のシフトした状態

 夢の状態での(ハイアーセルフからの)メッセージが理解しやすいのは、肉体や顕在意識が休んでいて、外乱が少ない状態である為です。五感で忙しい状態では外の世界に意識の焦点が行っており、ハイアーセルフ等眼中にありませんが、瞑想やリラックスした状態では、ふとしたことに気付くものです。 

 外の世界のみに意識の焦点があれば、内なる情報源ともいえる夢など、なんの意味もないと感じるのも頷けます。逆に、自分自身の方向に意識の焦点がある時には、それに気付きやすいのでしょう。TVラジオの同調周波数が、別の周波数に無意識にシフトした状態とも言えます。

●潜在意識を超えた意識

 実は生まれる前の記憶も、さらにその潜在意識を含む形で存在しているのですが、「連続した生まれ変わり」 の事にも、「生き通しの生命形態」にも、全く気付いていない意識状態では、まさにその意識の選択どおりに、夢などで見る内容は、潜在意識での「生後」の記憶に限られています。 

 生命の普遍的な連続などを理解しようとしない現代科学のレベルでは、心理学で言う「(生後の)潜在意識」が精一杯のようです。

●過去生は超意識からの情報

  現在の生活や生き様に全く無関係な「夢」も憶えているようになるものです。その不可思議とも感じるレベルの「夢」は、そもそも本人が意図しない内容であるわけであり、従って、顕在意識の勝手な想像と切り捨てる事はできないものなのです。

 「生まれ変わり」 もあり得るという観点を、理解できる意識状態になった人には、文字通り、「過去生」なる記憶?等がポツポツと湧出してきます。 夢に対して意識的になるにつれ、ひょっとして過去生かもしれない?あるいは自分を含む広範囲の世界に関する有意味な情報かも知れない?・という「夢」も体験するようになるでしょう。もちろん、それらは幼いときの事を思い出す以上に現実離れしたものと感じてしまうため、そのような夢も容易に忘れ去る傾向があります。

●普段の自分では思いもよらない「夢」に注意

 勝手な思い込みであれば、都合の良いことばかりを想像することになりますが、それがそうでもないところを、決して見逃してはならないようです。また脳内シナプスの勝手な信号の映像化であるという切り捨ては、それこそ人間は肉体であるという観念体系そのものであり、意識、生命などとは無縁な方面からの思い込みと思われます。

●必要なのは、掘り下げる自助努力

 「夢」が現実離れしているからとして、全てを捨て去る行為は、金鉱脈を前にして、金が延べ棒になっていないじゃないか!何処に金があるんだ!と言っているようなものであり、与えられることが当然と思っている幼さを示しているようです。

 真に重要なメッセージは、解りやすく加工されて、与えられる事はないものです。それなりの努力や成長は、いつでも何処でも必要なものであり、まさにその為の、メッセージでもあります。夢情報もそういう意識進化を促す働きの一側面なのです。

●フルコンシャスネス(統合意識)への階段

 偶然や刹那だけの生命観を越えた、大きな生命の在り様に気付くようになると、この人生体験で形成された潜在意識もさることながら、さらに過去生といわれる体験記憶をも含んだものや、来世の可能性等の情報も少しづつ意識されてくるようです。これを「超意識」からのにじみだしと呼んでもいいかも知れません。

 超意識は、顕在意識、潜在意識を含んだより大きな意識であり、「ハイアーセルフ」といわれる「真のわたし」が存在している意識フィールドと言えるでしょう。実は今もいつも、同時に存在しているのですが、現状はこの世界、すなわち今の物理次元に「意識」をフォーカスしているために、それに気付かない状態であり、「大いなるわたし」自身を忘れているだけのことです。

 それに気付いて、実感してゆく程度に応じて、ステップアップして行くのだと思われます。そのための段階、階層もあるようであり、古代からメンタル、アストラル、コーザル等と言われている高次の複数の階層・ボディー等と密接に繋がっていると思われます。

やはり、「汝自身を知れ」という奥深い言葉の中に「全て」が凝縮されています。

(つづく)

   

  Nature1016

次回は自分自身の実際の意識体験とその分析などをご紹介する予定です。    

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。

  

 


今ある・無条件の愛

2009-01-08 08:13:28 | 宇宙的気付き

 昨今は「愛」という言葉が世界に次第に浸透するようになってきたような気がします。その「愛」という言葉そのものにたいする感覚にも、やはり一般通念上の歪みが付着しているかもしれません。これも洗い出す必要がありそうです。愛ほど難しいものはないと言われますが、それは人間の情感のみにイメージを限定しているせいかも知れません。なるほど確かに、人間の想念・感情は、無限の様々な色合いを呈するものです。そうなれば難しくてわけが解らなくなりそうです。

愛というものの1つの側面、単なる見解として、参考にして頂ければ幸いです。

 

●愛のイメージ

 まず感じるのは「男女の愛」というものがあります。一例ですが、戦後日本にも入ってきた、欧米流のわかりやすい男女間のloveの言葉から受ける感傷的な?イメージにも現われているかも知れません。 洋画などの最後のシーンに多くみられる、ハッピーエンド、男女、接吻、愛する、永遠・・・・このような映像イメージも、どこか無意識に刷り込まれている感じがして、どうも違和感がある(古い?)人も多いのではないでしょうか。

 性愛が愛の代表であるような宣伝?と捉えるのも、少し無理があるようですが、やはりどこかになにか違和感があります。

 男女間の愛のベースは、異性を結びつける身体レベルのエネルギーを基本とした、自然界にある一種の「親和力」ともいえます。男女間の愛は、家族を作り子育てをするという方向を、暗黙のうちに内包しており、人類種の保存、維持という、大きな枠組みの中にある、もっともわかりやすい形態の「愛」でもありそうです。異性であるからこその親和力です。

 相互に引き付けあい、そのフォースの中で様々な回転、展開をする天体間の引力と質的には同じようなものかもしれません。また静電気のプラス・マイナス、磁場の極性なども質的には同じものから湧出された「別表現形態」ではないでしょうか。しかしながら、自然界で身体を維持している、種としてのルール上にある愛ではあるものの、その在り様の中には、確かに理屈では説明が出来ないものがあるようです。

 

●家族の愛

 家族愛も、同じ血を分けた同族同士の、やはり身体レベルの関係を元に繋がっています。親子の愛といわれるものは、肉体を含む、家族という時間・空間を長く共有しているという連帯感も多分に含んでいます。

 ただ、家族の在り様の中には、共にすごす時間・空間による連帯感と共に、育てる、与えるという行為から来る「無償の愛」が多かれ少なかれ存在しています。また逆に、育てられる、与えられるという貴重な経験に、やがて気づくことになる、感謝に気付かせる「深遠なるポテンシャル」 をも秘めています。

 

●地域・国への愛

 いわゆる愛国心はどうでしょうか。本来ならば、やはり、これは異性間、家族間に共通した、肉体を含む、多くの家族集団とそれをとりまく環境に馴染んできた愛着や、同じ時間空間を共有しているという連帯感といえるかも知れません。  しかしながら、身近な者同士にある連帯感や記憶、育てる、育てられる、与える、与えられるという共感体験なくして「愛国心」など出てくるはずもありません。  過去の人類の歴史において、この愛国心が、どうしてか、排他心として宣伝され、煽られ、利用されてきたこともあり、その明確な違い自体に認識も出来ず、流されてきた集団の愚かさにも気づく必要があるのです。

 

●人類愛

 人類愛というのはどうでしょうか。やはりそれらを総合したものだと考えられます。観念の範囲が広いだけ連帯感が薄い感じがするものです。なぜなら自分に身近な身体レベルでの絆から遠く、地球上の各地域の文化や価値感の違いがあり、ましてや共有する時間空間は相当に薄いものと感ぜられるからです。漠然とした共感というものかもしれません。

 

●人類は今、「条件付きの愛」を経験している途中

 身近に感じる「愛」というもの、異性であるから愛せる。家族であるからこそ愛せる。国が同じであるからこそ愛せる。人類同種と考えるから愛せる。条件があっての愛ではないでしょうか。

 このように、社会一般的に言う「愛」は、条件付きの環境の中にあると考えられます。 これら人間社会で「築き上げるべき愛」 は、たしかに相互に調和と平和をもたらそうとする相互意識の現われでもあります。社会の中で、あらかじめそのような条件、関連付けがあるからこそ「愛」せるのです。

 このように、人に関わる「愛」というものは、人間関係の中での様々な刺激、体験、経験を通して、次第に意識的に気付いてゆくものですが、その段階においては、未だ、愛というものが、「人間の観念」であるとどこか勘違いしている段階であろうと思われるのです。

 愛が感情的だという歪み、愛は相互的なものだと言う誤解、愛は変るものだと言う利口そうなアナウンス、愛は所詮悠久の彼方にしかないというニヒリズム的逃避等。それら全てが、愛とは「人間の観念だ」と考えているからかも知れません。

 人間の観念はいつも揺れ動き、いつも変化し、いつも多彩であれば、なるほど「愛」など難しくて解らないものに感じるのも無理はないでしょう。 しかしながら、多分それは、全くの見当違いであると言えるのです。

 人間社会での「愛」は、異性、家族、社会、国家、人類という世界にあって、与えられた「生命」という仕組み、時空の舞台設定の中で、様々な人間模様を通して学ぶ事が出来る「恩寵」ともいえるでしょう。

 それらは、与えられた生命の関わりの中で味わえる恩寵であり、「愛」の形態ではあるものの、「無条件の愛」というものではなさそうです。相手の出方、人の価値観の違い、民族性の違い、国家のイデオロギー等によってコロコロ変るものは、本来の「愛」とは言えないからです。

 大げさに言ってしまえば、一般的には、人間社会での「愛」なるものは、「愛」であっても、「条件付きの愛」と言えるものかもしれません。

 

●無条件の愛はいつもそこにあるもの

 目の前にある「無条件の愛」に気づけるでしょうか。人間社会の「愛」を含む、「大いなる愛」といってもいいかも知れません。 今、生きてここに、在るという「当たり前」の「愛」に気づけるでしょうか。

 我々は、今この瞬間に在ること、存在していること自体が「無条件の愛」の賜物であると感じないでしょうか。人間の社会を含む、雄大な自然の中にある 「大いなる愛」 をなかなか気付けないでいるのかも知れません。

 (普通のこと)

太陽が、毎日昇ります。我々の生命全てに光や熱のエネルギーを与えてくれます。

空気のおかげで、息をすることが出来ます。

世界の人々は、喋り、怒り、笑います。仲間が大勢いてくれています。

町で擦れ違う多くの他人達は、何を言うでもなく、同じこの時空に存在してくれています。

木々には、時折鳥がやってきてはさえずります。そう、いつも異なる自然の音楽を聞かせてくれます。

青空は、抜けるように紫色に近く思えて、その無限につづく姿を見せてくれています。

水は、いつもほどよく冷たく、暖かく、身体の組織を循環してくれています。身体の7割は水です。

大地は、重苦しいアスファルトの下にもしっかりと存在し、いつも変らず我々を支えてくれています。

山は、我々以上の寿命を経ている木々が無数に生息し、何も言わずに地球全体に空気を提供してくれています。

海は、様々な生命体をその水面下に育ててくれています。

 

●愛は、確かに、無条件に与えること

 これらの当たり前のことの、どこが「愛」なのか?・・という感覚があるでしょう。愛は人為的なものという、我々の「固定観念」のゆえに、我々自身の目の前の真実を覆い隠しているようです。いつも見ていて、実は、何も見えていない真実とも言えるでしょう。

 それらの自然界の要素の、例えば、1つが無いとするならば、我々の生存自体があり得ないのです。それら自然を構成する要素の1つ1つが、自らの存在をそこに表し、自らの存在を我々に与え続けているからこそ、我々が生存し、成長してゆけるのです。

まず目の前にある「無条件の愛」に気付くことなく、それを「さも当然の普通のこと」 としている大いなる?勘違いに気付くことは可能でしょうか。

 

●愛は人為的だという誤解

 このような与えられ過ぎている程の大自然の中にありながら、一体何が不満で、不足で、面白くないのでしょうか。何を捜し求めて、何を獲得したいのでしょうか。なぜ人を恐れ、逃げ惑い、または仲間同士攻撃し、どんな理由で争うのでしょうか。

  多くの人間が盛んに作り上げようともがいてきた、人為的な「愛」は、愛という1形態ではあるものの、第2義的な条件付の愛であることに気づくべきでしょうか。それらは、宇宙、自然、生命という、与えられた「無条件の愛」の中にこそ存在出来ることに気づくべきなのです。

 

●愛は全てを1つと知っている根源意識

 我々を取り巻く自然界は、誰にもある親兄弟、肉親、恋人と同じ、いや、それ以上の「愛」を差し出していると感じることが出来るでしょうか? 我々の周りの全て、無限に続く時空の果てまでも、その1つ1つの要素が1つでも無ければ、今の「わたし」や「ここ」は存在し得ないということは、数学の証明など不要の「事実」なのです。

 人間社会における「愛」、恋人、友人、親子、社会にある「愛」、やはり与えることの中にこそ、その姿を垣間見ることが出来るのです。 

 今・わたしが在ることが出来るのは、全てが今・在るからこそであり、1部分1部分が全体の中のかけがえの無い、絶対にかけがえの無いものであるという理解こそ、「統合意識」というものであると考えられます。

 人類は、これまでは「他、多」の中に埋没し、その多様性の中で無限小まで自身を降下させてきたようです。実は「一 即 多」の多の面の部分・部分を探求してきました。枝葉の先のその枝葉までゆくのが降下ともいえるでしょう。そうして「多」の因である「一」に真に気付いてきたのです。

一即多、「無限の多様性」は、すなわち、「一なるもの」からの派生であることを示します。全ては大いなる自分自身であること、「愛」なくして「無限個の自分」が創造される事もないでしょう。森羅万象も、他人も、つまるところは、全て別の「自己」と言ってもいいのです。

あらゆるものが、自分、親友、恋人、親、兄弟よりも無限に近い存在である・・と言ったら言い過ぎでしょうか。実は、「全て」が「一」であること、多様性のすべてを繋いでいるものが「愛」というものでしょうか。

 

●今生きている目的?

 今、ここに生きて在ることに、心から感謝の念を発することができるのは、それこそ実に誰にも単純なことではないでしょうか。考えてみれば、いつでも、誰でも、何処でも出来ることでした。それが最も難しいことのように思う観念が歪んでいるだけのことでしょう。確かに、誰かがやれば真似ができるような集団行為のものでもありません。

 その簡単な、当たり前の、今も、そしていつもここに在ること自体の「愛」に気づくこと、実はこれがこの世界に在る理由でもあるようです。確かに、まさにそのとおりです。

 様々な人々の社会的生存プロセスの中にはあっても、各人の通する目的は、このいつもそこにある、すでにある「無条件の愛」に気付くことでしょう。 我々皆に共通する問いかけである・・・生きている理由??とは、そのものずばり、全てのおかげで、「今」生きて在ることを知り、心から感謝出来ること。・それがその「理由」だと思います。 

 多くの無条件の愛に囲まれてあることを知る。今ここにいる、多くの我々の「魂の学ぶべきこと」なのではないでしょうか。無条件の愛」がすでに与えられていることに気付く事。 これが今生きて在る目的の1つだと考えられるのです。

 Nature1014

本日もまことに拙い記事をお読み頂き、ありがとうございました。


アセンションとは?(2)意識進化の通過点

2009-01-04 12:17:36 | 宇宙的気付き

 アセンションとは?それが何なのか?という理解を得るために、行なうべき必要な認識のプロセスの1つと考えていただければ幸いに思います。

 

●世界は波動で構成されている

 いわゆる科学的解釈といわれるものは、現象の観察とその法則化というプロセスを行なうものであり、自然界の理解の方法の1つでもあります。デカルト以降の物質と思索を明確に切り離す作業をもとに、純粋?的な物質科学が今まで進展したものです。しかしながら原子の微細構造までたどり着き、それから先の観測・観察が不可能なレベルまで至っています。

 観測する為には光、電磁波を当てて、その反射映像を見ることが必要ですが、微細な素粒子なるものは、光を当てられてしまえば、本来の姿、運動自体が変質してしまう為、素の状態の観察が出来ないということです。

 これは簡単に言ってしまえば、全ては波動形態であり、波動と波動の相互干渉により全てが生じていると考えるしかなく、丸い硬い物質なるものは本来無く、あるのは波動の変幻自在な性質のみがあるということなのです。

 全てが波動であれば、必ずサイクル・周波数や波長というものをもっており、よく目にする交流・サインカーブもそうです。上がっては下がり、右に行っては左に行くように見える「サイクル」が本質といっても良いだろうと思います。

 

●1プラトン年の終端時期

 地球の持つ最も大きいサイクル プラトン年とも言われる約25,800年の周期は、地球自身の歳差運動によるものであり、星座との関連で言えば、黄道12宮を一周するサイクルでもあります。誰しも見たことのあるコマの首ふり運動がその相似現象とも言えるでしょう。

 それは地球の自転と、太陽、月、太陽系の諸惑星の引力場、電磁場等の諸要素で起きているものでしょうが、自転周期、公転周期、そして全宇宙との位置関係を変えて行く歳差周期は、おそらく、地球自身が持つ属性としての最も大きなサイクル(周期)ではないかと思われます。  

 通常の解釈では、単に1つの天体現象による単なるサイクルではないか?と片付けてしまうのですが、意識進化という観点からこれを見た場合には、ある意味、進化のための重要な1サイクルでもあるだろうと考えられます。

 宇宙、天体、物質という現象化されたものの裏に在る意識的な意味合いを感じようとした場合には、地球という現象ステージ・舞台の為の設定のようであり、また、あたかもどんな物語の流れにもある「起承転結」のような1回りを表すような気もします。

 

●雄大なる地球圏の意識進化サイクル

 この地球の歳差運動は、この地球自身の持つ最も大きなサイクルであり、また宇宙に於ける地球独自のアイデンティティーを表すものだろうと言うことです。

 なぜかこれらの周期が、いわゆるアセンション、シフト、変移、上昇などとリンクしているようです。1周期、1次元、1時限、1サイクル、第1密度、第2密度、第3密度、第4密度、第5密度・・・これらは悠久の時間という形式に展開した、地球の絵巻物のストーリーを解き明かすヒントでもあるでしょう。

 あまりにも大きすぎると感じる、この歳差周期は、地球のステージの変わり目に関わっているようです。アセンションやそのシフトの「時期」といわれるものが、なぜこうもいわゆる2012年前後なのかは不明としても、確かに昨今は何らかの今までと異なったエネルギーが地球圏全体をとりまくフィールドにも現われてきているようであり、物理科学のレベルからも、異常な宇宙線の観測や太陽活動の変則的な挙動が注目されてきています。それ以上に激変しているのは、人類のアンダーグラウンドの意識とその顕現である社会の在り様であり、あなたやわたし達のこころの在り様ではないでしょうか。

 

●地球という惑星生命学園

 我々は学校教育を経てから社会に出てくることで、もうそのような規則的な学習は終ったものと思っています。社会にでてからは、仕事や自身の興味にしたがって、ある人はさらに知識を深め、人生での体験や経験によって様々な事柄を学んでゆきます。

 そうして、人によって千差万別ではあるものの、次第に意識作用(思い・感情・行為)を広げ、深めてゆきます。今の経済中心の時代には、魂の成長なるものへの意識は少なくなり、目先の生活にその注意が奪われているということはあっても、毎日、毎年の繰り返し(サイクル)の中で、結果、確実に蓄積されるのは、意識の経験知ともいえるものです。

 お金や物は現われては消える相対的で、不確かな物であることはもう十分理解しています。借り物である身体も、次第に衰退し、露と消えるときが来るのです。

 

●生死を越えた生命の在り様に気づく

 「生まれる前と死んだ後」のことは、科学的な証明不可能ということで、想定外のカテゴリーに打ち捨てられていましたが、それも終りそうです。

 前世を記憶する多く人々・子供達の証言とその追証が、アカデミックな分野からも出てきています。物質・粒子のイメージに固定された考えかたにこだわる人々は、たかが物理・化学などの小さなツールが、宇宙全てを理解できるものであると言う「誤謬」に陥っています。いわゆる無知の知への、観の転換が未だ出来ない状態でしょうか。

 

●物質は意識の表現形態

 全て物質に依存しているという考えかたは、最もわかりやすいものですが、我々が想念を発しているという事が理解出来るならば、それらが眼に見えない不確かなものであるという考えは妥当でないことに気づくでしょう。

 想念も意識の形態であり、物質レベルの何物をもっても壊す事等できない代物?であるということに気づけるでしょうか。思考自体を「剣」で切ることは出来ません。意識作用である思考が、「剣」を研ぎ、「剣」に仕上げるのです。

 

●「思い」すなわち「物質」表現

 このように、物質・頭脳があるからこそ、その中での意識作用ができるのだという思考は、多分に短絡した考えかたであり、丁度そのような意識というものが在るからこそ、同時に、そのような物質や頭脳がそこに在るということなのです。

 ニワトリが先か卵が先かという無限ループ的な議論にはまり込む事はないのです。思いが現象化するということが、実生活の体験などで気づける人々はよく理解が出来るかもしれません。時間というものは、その理解の程度に応じて早くも遅くも流れるものです。

 

●木を見て、かつ森を観るべし

 いわゆる唯物論者は、例えば「読書」を楽しめない状態とも言えるかもしれません。本などに興味は無く、外側の本の材質、紙の種類、重さ、金額のみを見ているようなものであり、本の中のストーリーや展開を楽しみ、ましてや作者の意図や創意など感じる余裕にまで至っていないということかも知れません。

 読書は文章を通じて、眼に見えないものを感じ、感動し、思い巡らす行為である訳ですが、ある人にとっては、外側の明らかに見える物だけが観察対象であり、その内面の観察にまで至っていないようなものです。人生においても、その外側の在り様だけに目がゆき、その因であり、それを体験・観察している「わたし」というところに意識が座っていないようなものです。

 

●第3(霊性)密度とは

 スピ系情報でよく出る第3霊性密度というレベルは、確かにそういう状態であろうと思われます。「わたし」という自己認識、人間であるという認識はあり、自他との違いに気づき、環境、社会を観察しているのですが、

 観察主体である、その「わたし」自身に十分気づいていない状態とも言えるでしょうか。

意識対象が、人生・環境という、目の前のスクリーンのみに釘付けにされ、無力感を持ちながら一喜一憂しており、それを見ている「観察者」である本来の「わたし」が、まだ十分立ち現れていないとも言えるでしょう。

 3次元的な個体・個別・分離意識レベルとも言えます。外に依存しているだけの小さな物質的存在であるという意識状態です。「わたし」は誰でしょう・状態まで至らぬ意識とも言えるかもしれません。

 

なるほど、あのマハラジが、繰り返し言う 「わたしは在る」 は、極めて重要なメッセージということが理解されます。

 

●宇宙の自己認識の進化(一即多の展開)

 壮大で無限な大いなる意識は、宇宙という1つ1つの時空舞台の中で、それこそ、そこここで、鉱物、植物、動物などの生命表現として、無限の個・自分自身として立ち現れていいます。

 そして、その生命段階を経ることで、次第に、自分自身で在ることに目覚めてゆくプロセスを経験しているわけです。この気づき、「わたし」の発見は、おおげさに言えば、物質の海の中から上がってくるような転換でもあり、またおのれ自らが目覚めるようなものでもあり、確かに1つの意識進化の「転移ポイント」であると考えられます。

 人間が自分自身を無意識に意識しているような、漠然とした自己認識レベルから、無限の可能性を背景にした自分自身であることを意識し・理解する段階への飛躍といっても良いかもしれません。

 「わたし」というものが、単に大勢の人類の中の種の1つの個体である、有機物質的な存在であるという観点から抜けだし、「意識」(魂・霊)という無限性を持つ存在であるということに気づくことを、「覚醒」といっても良いでしょうか。

 全てが全部解った、真っ白で完全な夢のような状態というものではなく、単に、「意識的」な自己認識をし始める段階のことです。誰かに言われたからそう思うような、他者依存的思考ではなく、どうしようもなく自分自身でそうである!という思考と実感を伴う知識を有した段階とも言えるでしょう。

 この世界の様々な体験は、そのための肥やしのようなものであると言っても過言ではありません。 鉱物・植物・動物・人間という生命進化のプロセスは、それこそ無限の「あちら、こちら」で、おのれ自身への目覚めのプロセスが行なわれていることを示しているということができるでしょう。 それぞれの生命表現の形態は、その意識進化レベルの多様性として、あの光の七色のスペクトルと同じように枠組みがありそうです。

 あらゆる生命には明確な成長の意思があるために、それらを体現する存在達の意識の在りかた、気づきの程度によって、その体験フィールド(世界)にも、やはり向上を促す階段・ステップのようなものもあるに違いありません。

 

●神はおのれを無限に知っている

 「おのれ自身を知れ」という言葉は、そのおのれ自身を知ってゆく経過で、次第に自己認識の範囲が広く、深くなるような、いわゆる神の自己想起のプロセスでもあるでしょう。無限を無限に表現することが、神の「自己想起」といわれるものです。無限の自分自身を知るからこそ、常なる進化、変化はそのための必然的な属性ともいえます。

 

●アセンションは意識進化プロセス上の1つの通過点

 この、無意識に近い集団的自己認識レベル(浅い神の自己想起レベル)から、その自己意識の無限性に気づくという段階 (より深い神の自己想起レベル)に、なることが、実はアセンションという言葉に込められているのです。あわせて、数万年といわれる、一定のサイクルで何か行事のようなイベント等という地球・宇宙規模の様相をも覗わせるのは、それが宇宙の進化への明確な意思でもあるからだと感ぜられます。雄大な時という流れでまどろむことも自分を見失う事も含め、ゆっくりと確実に自分自身であろうとする「大いなる意識」を感じるはずです。

 

●進級・進学と相似なイベント?

 小学校などでも色々なカリキュラムを経て、次第に知識が増え、自己認識、自己アイデンティティを深めていきます。内容の事はさておいて、そのような仕組みがあるのは、学生の成長を促すのが目的であるのは火を見るよりあきらかです。そこには社会人となるための意図があるものです。無軌道に学校等があるわけもありません。 それは、単に、いわゆる第3霊性密度から第4、第5霊性密度といわれる「学級」へのシフトなのでしょうか。しかし進級するのに何の問題もないものです。問題があるとすれば、当然我々のこころに単に宿題を隠し持っているだけ(笑)のことでしょうか。

 

●しかし、なぜ今、そうなのか?

 しかしそのような大きなシフトが、なぜ今?なのか、という問いかけは、自分自身の潜在意識では理解できるだろうと思います。「今」がいつもその時なのですから、その「今」にある「わたし」・・が明瞭になる分だけ、その状態に近づいているといえます。大いなる自己の無限性に「はっ」と気づき、今までの苔むした概念群を記憶というオモチャ箱にしまい、身体レベルの固形想念・情念をも含めて開放し、少しづつ浄化する方向に進む事、・・・これがアセンションの基本プロセスであり、転移であり、グレートシフトといわれるものであろうと考えます。

 

●両極性の統合  

 人生で得られるものは、経験、体験とそれらによる気付きの数々であり、それら自体が貴重なものであると言えるでしょう。実際、内容がネガティブであろうとポジティブであろうと、体験や経験と、それらに対する意識作用(こころの反応)、それなくして何がネガティブなのか、何がポジティブなのか「真の知識」は得られないものです。真の知識は消えることがないのです。

 人間を演じている「意識」(または魂・霊)があるからこそ、丁度そのような肉体や、環境、人生が在るのだということに気づけるでしょうか。このような考えかたにはなかなか馴染めないかもしれませんが、よくよく調べてみると、物質をこね回すだけで進化があるものだという信念体系の中に居ることに愕然とする時が来るでしょう。

 そういう意味においては、ネガティブやポジティブという両極性も、同質のものであることがわかります。結局は、等しく有意義な体験、経験でもあるのです。色んなことも全てがありがたい経験であるということが出来れば、束縛から外れ、そこではじめて自由な選択が可能ということでしょう。

 執着・恐怖・こだわり・偏愛等は「葛藤」というものになり、そこに自分自らを自縄自縛してしまうのでしょう。波動的に言えば、いわば定在波になり身動きが取れなくなるものです。両極性の間で揺れる定在波であれば、そこに自分自身を固定する事になるようです。

 

●もう葛藤を外す時期という意味

 シフト間際のエネルギーの圧縮された時間空間では、この「葛藤」という歪に注意をすることが絶対に必要とも言われます。「光の12日間」(ゲリー・ボーネル)を読んだ方はご存知かもしれませんが、そこには、「葛藤」の解消、それだけがアセンションというプロセスに於ける「振るい」を通り抜けるものだという事が書かれていました。私自身も、これは頷けるものであろうと思います。葛藤は闘いであり、闘争であり、苦しいストレスであり、自己嫌悪であり、他者憎悪であり、優越意識でもあるようです。

思うにこれは、「自分自身同士の葛藤・闘争教訓はもう十分だろ~」 という、大いなる宇宙からの意思表明であり、その中に不可思議で雄大な「愛」や「思いやり」を感じたとしてもおかしくないのではないでしょうか。

 

●アセンションは同時期の、悟りへの促し

 「悟り」は単に、そぎ落とす意識的行為であり、元々もっていない架空の価値観を捨て去ることなのです。ある意味、絢爛豪華たる待遇や、はたまた阿鼻叫喚の騒ぎなど元々持っていなかった自分の事実を思い出すことでもあります。様々な体験・経験は全て良しと感じながら、無限の愛である我々自身を思い起こしてゆきます。

確かに、あれもこれも、それはそれで、今は、全て「よし」なのです。

 

●アセンションの時期

 ある意味、地球、動物、植物それらの全てが、ある一定の自己変容を促されているようです。促しは自身の内部からのものですが、同時に外からも来るように見えるものです。

 地球レベルでいえば、地球のガイアからの成長変容意図と呼応するような、無限なる宇宙からの途方も無い、静かな波動、具体的な地球外部からの存在の援助もあるでしょう。

 また個人レベルで言えば、個人の意識表面での向上意欲と、内面の真自我(ハイアーセルフ)からの援助も確実にあるでしょう。

 それら多くの援助や愛、思いやりに真に気づいたとき、丁度、「今」がその時期であったのだということが、実感、理解されるのではないかと思います。   (了)

081204

 

本日も拙い記事をお読み頂き、誠にありがとうございました。