気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

カルマとは即ち「こころ」のパターン

2015-03-30 07:13:11 | 魂の諸相
こころの自由な働きとその創造力がなければ、カルマというものは存在しない。

動物にカルマがあるか。

植物にカルマがあるか。

あなたは観葉植物やペットたちが、反省や後悔などをしている姿を見たことがあるか。

あるわけもなかろう。

彼らは地球・宇宙という形で顕れているところの、

「宇宙意識」という無限大、宇宙大の意識の中の旋律・波動と一体となっているために、道が外れるということがない。



例えば人間の赤ん坊もそうである。

赤ん坊には未だ世間の「知識」なるものはないが、しっかりと「意識」がある。

周りの者たちが、この赤ん坊は生きている・・と知っているのはそういうことだ。

そこに「生きている」とは、そこに「意識の顕現がある」・・ということ。

何も知らない赤ん坊にも、後で知識や複雑な想い等を生じ得るベースであるところの「意識」があるのである。

なおかつ「意識」の輝きが無垢そのもの、天然自然体を表現しているわけだ。

彼らは、無垢で、愛らしく、無防備で、素直で、命の暖かさを体現しているだろう。

「可愛い」という表現は、愛すことが可能な、あるいは愛の可能性の顕現とも言えるのだ。

地球の壮大な想いの自己表現であるところの大自然もそのようなものではないか。


人間とは、自由な意思を持ち、それによって想像や創造、加工や工夫等を行いつつ、

また大自然、宇宙の調和の流れに同調するということを同時に可能とする存在である。

それらすべての元は、人たる者の「こころの働き」あるいは「想念」、想いや信念である。

そこにある花瓶やえんぴつが、ディズニーアニメのようにペラペラしゃべるだろうか?

そうではあるまい。

それと人との違いは、意識の高度な自己表現性つまり「こころの働き」なのである。


こころの働きは、単なる「こころの中だけ」の働きではなく、

自己の外側への投影、つまり環境・体験となるということである。



宇宙意識という、全ての表現の元にある意識が宇宙を顕現せしめていると同じく、

人にあっても、自己内面に在る、本当に微妙なレベルでの様々な想いの痕跡、傷痕が、

気付かず知らずの間に、自己体験という映写幕に投影されているのである。



本当に気づかねばならないのは、外側にある他者の姿、社会の悪や非道ではなく、

それぞれの人間の中にある「こころ」の綾、色、反応の癖なのだが、

これこそが<灯台下暗し>、なかなか気づけない事でもある。

こころの波動というか、色合いというか、条件反応というか、

自然・宇宙の在り方とはそぐわない部分、絶対に気付くべき部分を称して「カルマの原因」と言って良いだろう。


カルマとは「繰り返すこころのパターン」であり、当然ながら因果として、ある時は感情を逆立て、ある時は落ち込むような「嫌な事象の繰り返し」として現れるのだ。

やり残しの人生と転生の色合いを決めるのも、そのカルマというこころの繰り返しパターンである。


では、それを修正・昇華するために何をすべきだろうか。

そのもとにあるのが、それをそうだと生ぜしめる・・・自分の「こころ」にあることは明白であることを自覚せねばなるまい。

自分のこころのなかの雑多な「おもちゃ箱」を自分で観てみることだ。

何がゴミで何が宝なのか、

こころの動き方を観ることである・・・何事かの出来事の経過であっても、

自分のこころがどういう反応をしているか、どういう感情を発しているか、

常に観ていることである。

外側の何かがどういう動きをしているかではなく、

それを見ている・・・わたし・・・が、

どういう想いや感情の反応をしているか・・の方を、

こころの目をそらさずに観るのである。


これは、あの禅(ぜん)の根本でもあるところの、

そして日常においていつでもどこでも行われるべき、

魂の学習の・・・いわば虎の巻・・と言えよう。


外側の社会、世界、人々は、例えそれが、

本当に、・・・実に、実にリアルな姿ではあっても、

それぞれの・・・わたし・・・の観ている投影映像なのである。




本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

カルマは、それ「手離す」ためのもの

2015-03-22 15:58:26 | 魂の諸相
今の時期は、あらゆるものが「終わり」・・・というのが相応しい時期に来ている。

いつでもそうなのだが、なるほど、『終わり』は、即ち『始まり』である。

ところが何かの『執着』がある場合には、軋轢や摩擦を生み出してしまうもので、しっかりと終わるということが出来ないということにもなる。

人間も、国家も、文明さえもそうだ。

軋轢、執着、欲望、自我の主張は・・・つまり過去の幻影にこだわるという、自他の関係から来るエゴ同士の『葛藤』を生じさせることになる。

世界のあらゆるところで、いまそれが行われているだろう?

昨年、アラブの重要地域に、世界中にわざわざ「憎悪」を振りまいて、人々の憎しみと驚きを増やそうとしている、まぼろしの国が出現しているだろう。

見え見えだが、諸国民の葛藤を煽ってどうするのだろうか。

難しげな政治戦略や、諸国民の事情やら何やら・かにやらあるというわけだし、

当然の国家や企業の生き残りをかけて戦うだとか、まことしやかな争いの傾向が増えているのは

結局は「執着」をいかに続けるかという、想いとその行為に他ならない。

第3次世界大戦も辞せずとか、そういう会話がちらちら出てきているような切羽詰まった段階を演出している状況。

この世界のあらゆるところに「葛藤」の存念があり、それが形になって噴出してきているのだ。

・・・・

ところで、『葛藤』とは、ある意味で『手離せないもの』という意味であろうか。

意識の中にある「執着観念」、葛藤、特別な思い入れ、

その良し悪しに関わらず、未だ手離したくない想い、・・・それが「執着」というものである。

そして、その『葛藤』があるならば、

それが「重り」となって、その終わりの『次』の始まりにも持ちこされることになる。

それがいわゆる「カルマ」というものだ。

あなたも私たちも、それで『ここ』に居ると言ってもおかしくない。



そう、物質で出来たマトリクスは、眠りをいざなう「揺りかご」のようなものであり、

その揺りかごで眠っていながら悪夢を観つつ、

必死になって頑張っているという、実は笑えない喜劇を演じている無意識的な自分自身に気付けるだろうか。


確かに、カルマは、例えばコンピュータのプログラムでの、

繰り返しの無限ループというような、自分の想いで書き込んでしまう、

バグやエラーのようなものでもあるが、それも経験し直視しなければわからないし、書き換え、解消することも出来ない。


カルマの生産、清算という繰り返しの中で、

いつか

「何か変だな」と気付ける瞬間が来るものだ。

それが「今の時代」だと言っても・・・わからない場合はわからないわけで、

つまり意識上に、自らの宿題テーマのイメージが遡上してこなければ、

それは持ちこしとなり、

カルマという宿題帳をもって、新たな学期を迎えるわけである。

魂の成長なるものも、学校での学習プロセスによく似ているわけである。

今の学校は知識とその繰り返しの習熟度が基本だが、

魂レベルでの学習は、この世界ならではの「テーマ」への気付きや、

こころと肉体を経由した、宇宙との調和を学ぶ為の体験学習とも言えるだろうか。


あなたもそうなのだが、

この世界に来た魂達は、目覚めるまでは、全くの無知の状態、言わば意識的な暗闇で、

右往左往するという、得難い経験をもできるという、実に不快というか、ある意味では奇跡的な体験が出来るという「幸運」に恵まれているのである。

しかし・・・、永遠に同じことは飽きが来る。そうだろう?

ベルトコンベヤーで同じ繰り返し作業では、いくらお金をくれると言っても続けることなどできっこない。

それが意識を有するまでに自らを高め、拡大させたところの「人間」である。


その繰り返しの輪を断ち切るには、

「ありゃりゃ、何か変だぞ」という・・自問自答の問いかけ、

あるいは自らに・・・自らの・・・問題意識が生じなければならない。

そう、それは、目覚めたときにだけわかることなのだ。

目覚めるというのは、肉眼の瞼の開け閉めの話ではなく、意識の眼が開くということである。

「われ・・在り」

「わたしは・・・である」

という自己定立原理に気付くということだ。


プログラムでいうところの、IF・・・、THEN・・・、それを勘違いすれば、無限に堂々巡りの道も可能であるということだ。

・・IF(もし)、(ならば)THEN・・・・どうなる?・・・

ではなくて、自分がどうあるか、どうするか・・・ということに尽きるのである。

自分で自分の成果を刈り取るということである。

カルマとは、それは魂の『学ぶべきテーマ』とも言えるのだが、

それは様々な他者の思惑、与えられた想念を『捨てること』が出来てこそ、『つかむこと』が出来るものなのだ。

捨てれば、つかめる物はなんだろうか・・?という問いかけは、

それ自体が成立していないと考えること、あるいは、意味わかんなーい・・かも知れないが、

それは頭のなせる業であって、3次元的物量加減算思考から来ている。


大切なことは、今生きている「肉体」やあらゆる物質形態を、つかんで離さないということではなく、

それを潔く手離すことが出来る「意識レベル」に在る・・・ということである。

大切なことは、身体の手でつかむのではなく、またこころの存念で執着することでもなく、


あらゆるものを手離しているという、物への執着のない「意識」のことである。

もともと誰も皆、本来無一物でこの世界に生まれてきた。

そうだろう?

意識を有する存在が、それを生み出しているところの物質で生きている、それが何をおいても大切だと想いこむこころの癖、そういう自縄自縛の観念から自由であるということだ。

執着を外す・・・?しかし、それは死んでいるということを意味しない。

物のように、死ぬことはあり得ない。

あなた・・という意識は、単なる物質ではないという自覚レベルに明確に上がるならば、

物や事象は生起していたとしても感情や恐怖を逆立てることもなく、

そうそう、それはそれだよな・・・というポジティブな意識、

あるいは全てを在るがままに観ることが出来る一段と高い視座を確保することになる。

そうはいっても現実がね・・、と、うん確かにそうだ・・という意識の間で、上がったり落ちたりする不快でやるせないようなそんな時期もあるものだが、それは意識的な成長の証拠なのだ。


比喩的な話だが、

10円玉をいつまでも必死にその手に握っていては、ほかの物がつかめない。

しかし、その手を開けば、あの空さえもその手の平に載っているのである。

しかし、空じゃ飯が食えないじゃないか・・という想いはあくまでも見当違いの観念、

手離すことで、結果、大切な何かが、嫌も応もなく得られてしまうものである。

あるいは宇宙・大自然の移り変わりと同じく、新たなる変化ともいえようが、

あるいは、手離すことで得られる「こころの軽さ」を喜ぶことが出来る体験、

それは魂の学び・・の中での・・・得難い「収穫」とも言えようか。


日本人は桜の花をこよなく愛する民族とされている。

桜の花の咲く時期や、その美しさと、散り際の良さに感じ入った日本の古代人の思い入れや気づきが、

そういう桜への愛という形に生きているのだろう。





本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

宇宙意識(4)天上天下唯我独尊

2015-03-13 07:38:36 | 意識の拡大
我々は常に無限性の中にいて無限を経験し続けているのだが、普段はそんなことなど何も感じないで生活をしている。

無限どころか、目先の生活・慣習のたぐいの処理に追われている状況では、とにかく忙しいのが良い事だとどこか自分に言い聞かせて、昨日(きのう)と同じことを延々としているのかもしれない。

あれをしなければ、これも急かされる、これを確保せねばなどという半強制的な感覚を受ける社会観念に流されて、小さくて有限極まりない世界の中で何とか頑張っているかも知れない。

それに、寝ても覚めても、何か心配することが、さも正当だというように一瞬一瞬を送っているのかもしれない。

「生活費どうするのよ、まだローンがあるし、子育てだってある・・あれも支払があるし、税金だって上がる一方・・・あー、」

わたしもあなたも多分そうだろうか。

いや今まではほとんどがそうだったに違いない。

しかしそれは、それとして、古い観念からおさらばしよう。、

それだけに嫌々引きずられる、お馬さんのような生き方からは卒業したほうがいいだろう。

気付いている人も多いのだが、既にこの世界のステージは変わってしまったのだ。

ところが、必死で人々を変わらせないような、相変わらずの飴と鞭のパフォーマンスをしている世界の役者が、焦りまくって演技をしている現状がわかるかもしれない。

また、そういう世界での派手で悲惨な演出劇に見入っている一般大衆からみれば、

「何言ってんの、何も変わってなんかいないじゃないか、生活や人間関係は相変わらずだし、政治も経済も愚かなことばかりじゃないか、戦争の話が大きく出てきているし。嗚呼、ローンだってあるしさ、家庭内も仕事場もハッピーばっかりじゃないし、一体どこが変わったんじゃ(怒)・・・」

そんな風に思うかもしれない。
・・・

しかしながら、ちょっと落ち着いて自己周囲を観まわしてみよう。

そして、自分自身の内面を観てみよう。

外の世界に落ちている事象、テレビやスマホ画面ばかりを観ていては、多分何も得ることはなかろう。

悪だ、善だ、悲惨だ、恐ろしい、金が足りない、もっと出せ、もっと頑張れ・・・
そんなことばかりが意図的に落とされているようなメディアの「腐った落ち葉」を拾う事、世間のチリやゴミを拾うことはもう十分すぎたのだ。

そうではないか?

人が行うべきことは、他者の騒ぎで作られ、煽られている面白・恐ろしげな外側の現象ではなくて、

そういう風に、

外の世界を見ている自分、それに関して何か感じて考えている自分、

その「自分」自身に・・・『気付いている』意識・・・になることだ。

不特定あるいは特定の『他者』にではなく、意識の中心を自己に据えるということだ。

その「自分」が在るからこそ、他人も社会も世界も在る、その事実に気付くことだ。


例えば仮に、あなた自身が死んだなら、どこにこの世界を見る者が存在するのだ?

それに・・・、この世に生れる前はそうだったろう?

毎晩眠ってから、朝次第に意識が浮かび上がり、目覚めるのは、誰か?

体は誰が動かしている?

お金や立場がどうしたという問題は、遥かに、2次3次的なことなのである!


この世界を見る聞く感じるところの、当の主体は「わたし」・・・にあるわけで、

大勢の他人が何百億ワーワー集まったとしても、この事実は変わりようがないのだ。


世界にあって、意識を通して内面から外側を観察をしている・・・中心は「わたし」以外にないのである。


「わたし」が中心といっても、私という1個人が世界の中心だという意味ではない。

そういう独裁的だとか独善的だとか、おバカ極まりない、個々別々の物を寄せ集めてなんぼというような、西欧的な枝葉思考はもうやめにしよう。

そうではなく、

世界を観ている意識・・としての「わたし」が、わたしの世界の全ての元に在るということだ。

それは創造の主体である神の自己存立原理と同質のものである。

決して大それたことでも罰当たりでもないのだ。

そういう外側の何かに尊さを求めるこころの姿勢は、これもまた時代遅れなのである。


デカルトは、「われ思う故にわれあり」と悟り、

マハラジは「わたしは・・・在る」と表現した。

それを釈迦は「天上天下唯我独尊」と言ったと伝えられている。





一人のみ尊いではなく、

<わたし>という意識・・・そのものが、

宇宙での唯一のもの、


当然ながら仏法の伝承者はそれを「尊い事」だという字をあてて伝わったということだ。

それぞれの「天上天下唯我独尊」の「わたし」が、現在この地球上だけでも70億以上存在するということだ。

道を行くすべての人が、今それに気付いていないからと言って、それに合わせることはない、その人の意識は自身でしか変えようがないからだ!

人が眠っていても、それはそれとしておくべきであろう。

どこか、今、あなたが自身の神性、それに気づくならばそれがいい。


何故なら、ある意味で、それぞれの世界には「わたし」しか・・・いないからである。

あなたの意識で生じている世界の最重要、最も尊い存在は「あなた」なのである。

「自己の本質に目覚める」とはそういうことではないのか?

多分、この世界まできて、実に長い間眠っていたからには、

それを、今、十分に、充分に自覚することが重要である。


かくあれかし。

 


本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

宇宙意識(3)あなたは「想い」で出来ている

2015-03-03 07:08:03 | 日記
●全体宇宙は部分に「全て」を自己投入している

宇宙意識というのは全ての元、根源意識と言えようか。

それはまた普遍的エネルギー、創造神、サムシング・グレート、根源法則・・等とも呼ばれるものだ。

それぞれのわたし達に自分だと思っている「身体」があり、それに気付ける「意識」があるように、宇宙全体も「宇宙という身体」と「意識」があるということだ。

宇宙の中に在る私たちは、即ち、宇宙意識とその表現型である宇宙と「一体化」しているのである。

部分(個々)は全体(宇宙)がなければ存在できないし、全体(宇宙)は部分(個々)がなければ存在できない。

つまり、あなたやわたしたちという、個々の存在がなければ、どれ1つ、どこ1片欠けても、宇宙は存在できないということである。

個々であると信じているあなたも、欠くことの出来ない宇宙の構成因であること、それを自覚しているだろうか?いつも大衆や群衆という十葉ひと絡げの観念カテゴリーのなかに消えていないだろうか。

●3次元的物量観念をマトリクスという

宇宙と私たちが一体化しているのが事実であっても、私たちには普段そういう想いがない。
何故なら、宇宙という表現型の中のほんの1微小片であるという、3次元的物量観念が故である。

肉体は体重何kg、身長何mしかない、極めて小さな肉体塊に過ぎないと感じ、それに比較して、確かに宇宙は果てが見えない程巨大この上ないものであるしているだろう。

そういう大きさや計量のスケールでの比較からして、自分が1なら宇宙は無限∞であり、
1/∞≒0 ちっぽけなものだとしているはずだ。
そうではないか?

しかしながら、それはあくまでも3次元的な物的比較観念の話であり、単に採用している物差しから見たものでしかない。

こういう漠然とした観念にある意識状態は、要は、どうあっても「自分が肉体である」という前提観念、3次元的閉塞観念に留まっていることを示しているのである。

●人間はその想いで自己を規定している

自分は肉体である・・・というのは「思い込み」・・である。

「えー、なにそれ、人間は肉体じゃないの?皆そう思っているよ」という事自体も、
漠然とした想いにすぎない。

自分は単独で行動している存在、人皆それぞれ別々の肉体でしかないではないか、・・・
一般にはそういう風に思っているし、大抵の人はそう感じているだろう。

確かに、あなたの肉体は宇宙から観たら、有るような無いような微小片に過ぎない。
しかしそれは何度も言うように、肉体に物量比較の物差しを当てているだけの話なのだ。

生活の為と称して、いつに間にか、大きい・小さい、高い・安い、重い・軽い等という金銭物量比較思考でドロドロになっている自分の観念に気付けるだろうか。

●資本主義的繁栄は唯物思考の仇花

昨今では、あらゆるものを金銭に置き換え、それを比較してより大きい、より多いものを求めるという刹那的な比較価値づけ観念が大流行だ。

そこにあるのは金融資本主義的観念であり、またその底流には唯物思考が潜んでいるわけだが、そんなに悪いものでもないとしている風潮であろうか。、

銭・金・物さえあれば、そんなに生活悪くない・・程度の認識とでも言えるだろう。

こういう風に、出来るだけ主観的なものを排除しつつ、全てを物質的価値観で納めてしまうことは、自由で民主的と言われる体系にあっては、誰にも共通の価値観念として採用しやすいものなのだが、その底流にあるのは人間さえも有機的であっても「物」に過ぎないという唯物論的な重い思考から来ているのである。

●全ては意識⇒想いによって創られる

あなたは自分が肉体である・・としているのは、何ゆえか?

それは、あなたが・・そう思っている、そう意識している・・からである。

皆もそう思っているし、そう意識している・・と思っているからなのだ。

だから、本当を言えばあなたは「意識」であるするのが正しいが、

それ自体が・・物のように目に見えないから・・存在しないという風に思ってしまうのだ。

人々は漠然と、<自分は肉体でしかない・・>と、小さく「定義」している

つまり、そういう意識状態、認識レベルに在る・・と言うだけの話である。

だから、人間とは肉体存在であるとするのは近視眼的な認識であり、

実のところは「意識存在」であるとするのがより広く深い認識なのである。

●われ思う故に・・我あり

あなたに意識がなければ、「わたしは・・・である」と定義できるはずもない、

単なる物であって等価的には「石ころ」同然の存在である。

しかしそうではなく、

「わたしは・・・である」という認識を働かせているわけで、

今まで「わたしは・・個人的肉体である」と認識・定義して来ただけの話である。

想いが全ての元にあるというのは、こういうところでもそうなのだ。

ところで、一体誰が、絶対的な権威をもって「あなたは単に死すべき肉体である」言ったのだろうか?西洋の学者か、神父様か、偉い坊さんか?

そんな普遍的定義は誰もしていないのだ。

「だって、皆年取ったりして死んでゆくよ・・」というかもしれないが、

それはその存在の・・この表現世界での「借り物」の肉体が、その使用期限を過ぎて、地球に還元されるだけのことである。

「わたし」の・・・<肉体>は、車と同じく耐用年数があるだけだ。

●宇宙は「われ・・・在り」で創造されている

物質分子が確率によって勝手に宇宙を構成しているわけなかろうよ。

そうであれば人間も無意識で偶然で意味のない人生体験をしていることになる。

人間に「意識」がなければ、「わたしは・・・である」と定義できるはずもない、

意識は、「われ…であり」「I AM that・・・」で自己創造してゆくのである。

あなたとは、「あなたが・・・と想うところの存在」である。

想いを変えることで、表現型、周囲環境、体験フィールドが変わることになる。

想いが十分に変わらないがゆえにその表現型、体験も十分に変わらないのだ。

多くの人は、固まった観念の自己打破に時間がかかるため、そうはいっても現実が・・という話に引き戻されることが多いものである。

より自由で快活で、平安に満ちた在り方への希望を、

当たり前の信念にまで高める「意識的作業努力」を忘れてはならない。

これは意識的存在にとって、極めて重要な「観の転換」となる。

あなたもわたしも、即ち、意識の発露である「想い」で出来ているのだ。

だから、自らの想いを観てそれを自らコントロールしなければならないのである。

それをしない場合は、外からの不都合な想いでコントロールされることになる。

必要なのは、注意深くも、自分の思いを自分自身で保持しつつ、そこから出てくる体験を英知に変えてゆくことだ。

魂は、この世界でそれを喜々として、体験したいがために次元降下、下生してきたのである。

古来から悟った人、解脱した人と言われる者たちは、自己の想いを見極め自らで制御すること、いわゆる自己観想を経てきたのである。

想いの制御と創造に気付くこと、これが意識進化上の、越えるべき1つの峠である。



本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。