こころの自由な働きとその創造力がなければ、カルマというものは存在しない。
動物にカルマがあるか。
植物にカルマがあるか。
あなたは観葉植物やペットたちが、反省や後悔などをしている姿を見たことがあるか。
あるわけもなかろう。
彼らは地球・宇宙という形で顕れているところの、
「宇宙意識」という無限大、宇宙大の意識の中の旋律・波動と一体となっているために、道が外れるということがない。
例えば人間の赤ん坊もそうである。
赤ん坊には未だ世間の「知識」なるものはないが、しっかりと「意識」がある。
周りの者たちが、この赤ん坊は生きている・・と知っているのはそういうことだ。
そこに「生きている」とは、そこに「意識の顕現がある」・・ということ。
何も知らない赤ん坊にも、後で知識や複雑な想い等を生じ得るベースであるところの「意識」があるのである。
なおかつ「意識」の輝きが無垢そのもの、天然自然体を表現しているわけだ。
彼らは、無垢で、愛らしく、無防備で、素直で、命の暖かさを体現しているだろう。
「可愛い」という表現は、愛すことが可能な、あるいは愛の可能性の顕現とも言えるのだ。
地球の壮大な想いの自己表現であるところの大自然もそのようなものではないか。
人間とは、自由な意思を持ち、それによって想像や創造、加工や工夫等を行いつつ、
また大自然、宇宙の調和の流れに同調するということを同時に可能とする存在である。
それらすべての元は、人たる者の「こころの働き」あるいは「想念」、想いや信念である。
そこにある花瓶やえんぴつが、ディズニーアニメのようにペラペラしゃべるだろうか?
そうではあるまい。
それと人との違いは、意識の高度な自己表現性つまり「こころの働き」なのである。
こころの働きは、単なる「こころの中だけ」の働きではなく、
自己の外側への投影、つまり環境・体験となるということである。
宇宙意識という、全ての表現の元にある意識が宇宙を顕現せしめていると同じく、
人にあっても、自己内面に在る、本当に微妙なレベルでの様々な想いの痕跡、傷痕が、
気付かず知らずの間に、自己体験という映写幕に投影されているのである。
本当に気づかねばならないのは、外側にある他者の姿、社会の悪や非道ではなく、
それぞれの人間の中にある「こころ」の綾、色、反応の癖なのだが、
これこそが<灯台下暗し>、なかなか気づけない事でもある。
こころの波動というか、色合いというか、条件反応というか、
自然・宇宙の在り方とはそぐわない部分、絶対に気付くべき部分を称して「カルマの原因」と言って良いだろう。
カルマとは「繰り返すこころのパターン」であり、当然ながら因果として、ある時は感情を逆立て、ある時は落ち込むような「嫌な事象の繰り返し」として現れるのだ。
やり残しの人生と転生の色合いを決めるのも、そのカルマというこころの繰り返しパターンである。
では、それを修正・昇華するために何をすべきだろうか。
そのもとにあるのが、それをそうだと生ぜしめる・・・自分の「こころ」にあることは明白であることを自覚せねばなるまい。
自分のこころのなかの雑多な「おもちゃ箱」を自分で観てみることだ。
何がゴミで何が宝なのか、
こころの動き方を観ることである・・・何事かの出来事の経過であっても、
自分のこころがどういう反応をしているか、どういう感情を発しているか、
常に観ていることである。
外側の何かがどういう動きをしているかではなく、
それを見ている・・・わたし・・・が、
どういう想いや感情の反応をしているか・・の方を、
こころの目をそらさずに観るのである。
これは、あの禅(ぜん)の根本でもあるところの、
そして日常においていつでもどこでも行われるべき、
魂の学習の・・・いわば虎の巻・・と言えよう。
外側の社会、世界、人々は、例えそれが、
本当に、・・・実に、実にリアルな姿ではあっても、
それぞれの・・・わたし・・・の観ている投影映像なのである。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
動物にカルマがあるか。
植物にカルマがあるか。
あなたは観葉植物やペットたちが、反省や後悔などをしている姿を見たことがあるか。
あるわけもなかろう。
彼らは地球・宇宙という形で顕れているところの、
「宇宙意識」という無限大、宇宙大の意識の中の旋律・波動と一体となっているために、道が外れるということがない。
例えば人間の赤ん坊もそうである。
赤ん坊には未だ世間の「知識」なるものはないが、しっかりと「意識」がある。
周りの者たちが、この赤ん坊は生きている・・と知っているのはそういうことだ。
そこに「生きている」とは、そこに「意識の顕現がある」・・ということ。
何も知らない赤ん坊にも、後で知識や複雑な想い等を生じ得るベースであるところの「意識」があるのである。
なおかつ「意識」の輝きが無垢そのもの、天然自然体を表現しているわけだ。
彼らは、無垢で、愛らしく、無防備で、素直で、命の暖かさを体現しているだろう。
「可愛い」という表現は、愛すことが可能な、あるいは愛の可能性の顕現とも言えるのだ。
地球の壮大な想いの自己表現であるところの大自然もそのようなものではないか。
人間とは、自由な意思を持ち、それによって想像や創造、加工や工夫等を行いつつ、
また大自然、宇宙の調和の流れに同調するということを同時に可能とする存在である。
それらすべての元は、人たる者の「こころの働き」あるいは「想念」、想いや信念である。
そこにある花瓶やえんぴつが、ディズニーアニメのようにペラペラしゃべるだろうか?
そうではあるまい。
それと人との違いは、意識の高度な自己表現性つまり「こころの働き」なのである。
こころの働きは、単なる「こころの中だけ」の働きではなく、
自己の外側への投影、つまり環境・体験となるということである。
宇宙意識という、全ての表現の元にある意識が宇宙を顕現せしめていると同じく、
人にあっても、自己内面に在る、本当に微妙なレベルでの様々な想いの痕跡、傷痕が、
気付かず知らずの間に、自己体験という映写幕に投影されているのである。
本当に気づかねばならないのは、外側にある他者の姿、社会の悪や非道ではなく、
それぞれの人間の中にある「こころ」の綾、色、反応の癖なのだが、
これこそが<灯台下暗し>、なかなか気づけない事でもある。
こころの波動というか、色合いというか、条件反応というか、
自然・宇宙の在り方とはそぐわない部分、絶対に気付くべき部分を称して「カルマの原因」と言って良いだろう。
カルマとは「繰り返すこころのパターン」であり、当然ながら因果として、ある時は感情を逆立て、ある時は落ち込むような「嫌な事象の繰り返し」として現れるのだ。
やり残しの人生と転生の色合いを決めるのも、そのカルマというこころの繰り返しパターンである。
では、それを修正・昇華するために何をすべきだろうか。
そのもとにあるのが、それをそうだと生ぜしめる・・・自分の「こころ」にあることは明白であることを自覚せねばなるまい。
自分のこころのなかの雑多な「おもちゃ箱」を自分で観てみることだ。
何がゴミで何が宝なのか、
こころの動き方を観ることである・・・何事かの出来事の経過であっても、
自分のこころがどういう反応をしているか、どういう感情を発しているか、
常に観ていることである。
外側の何かがどういう動きをしているかではなく、
それを見ている・・・わたし・・・が、
どういう想いや感情の反応をしているか・・の方を、
こころの目をそらさずに観るのである。
これは、あの禅(ぜん)の根本でもあるところの、
そして日常においていつでもどこでも行われるべき、
魂の学習の・・・いわば虎の巻・・と言えよう。
外側の社会、世界、人々は、例えそれが、
本当に、・・・実に、実にリアルな姿ではあっても、
それぞれの・・・わたし・・・の観ている投影映像なのである。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。