祈りとは何かというと、ある一定の想念を保持し、それが適えられるようにという「意図」の設定のことである。
それは、
意識 → 意図・想念 → エネルギー → 現象化
という創造顕現プロセスの「原因」側の因子を設定することに等しい。
よくある 「......が、....でありますように・・・・!」 という祈りのパターンは、
本来は、明確な「想い」を内面に掲げ、それを一定時間保持することで、現象化のベクトルを生み出すことなのである。
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まるで祈りとは、弓を構え、それに矢をつがえ、目的目標に<放つ>ことに似ているのである。
こうあるべきだという「思考イメージ」が矢(アロー)であり、それを意識的に行う行為が祈り、それを放つ意識的行為なのである。
しかしながら、大概の場合は的外れか、あるいはかする程度であるかも知れない。
それは、こうあるべきだという思考イメージが「おぼろげ」であるか、それは単に思うだけのことだという「ブレーキ思考」自体が邪魔をしているという、実に笑えない自己矛盾によるのである。
またその祈りが実際に現実化した時に、その責任を無条件に取れるのか・・という見えない恐れがどこかに内在しているものでもあろう。
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祈りなどの話に関しても、
想いを観たり、想いの効果やそれが現象化するという事に気付いていない場合は、
単なる効果のない抽象的な願いでしかないと「思う」ものだし、
まーそういう美しい希望を持つのは悪くないなあ・・・程度にしか「思って」いないかもしれない。
あなたは実際どうだろうか?
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想いは単なる頭の中のイメージでしかないし、意味のある全ては物理的な物ででしかないとする、どこか唯物論的思考で漠然と終始してはいないだろうか、
そういう場合は、どこか理知的でありそうな?唯物論的考え方自体が、また「思考」であること自体に・・・・気付いていないのである。
結局はそれも思考、思想、想いに過ぎないのだが、これが唯一の科学的事実であると「思い込んで」いるというわけである。
「えーなに?結局・・・全ては思い込みなのかよ」 と言えば、確かにその通りなのである。
我々の世界は「事実」で囲まれているということではなく、「思考」とその「現象物」で囲まれているのである。
それでは大自然や宇宙はどうかと言えば、確かにあなたやわたし個人が勝手に創り上げているわけではなく、
地球や宇宙という壮大なレベルにおける、創造の根源あるいは全包容的意識の、
人知では測ることのかなわぬ、いわば雄大で鷹揚たる思考、想いとその現象物で囲まれているのである。
現象は目に見える「結果」であり、常にその背後には原因たる「意図」があるのだ。
そしての背後には意識があるということである。
人間の在り方は人間の意識によって生じ、宇宙の在り方は宇宙の意識によって生じているのである。
全て「思考」、思い込みというものが既成観念になり、より多くの人がそういう既成観念の言動で終始すれば、そういう人々の共通した世界は、そういう共通観念で相互に強化されることになる。
あの人が言うならばそうだろうとか、みんなそう考えて、そう言っているならばそれは正しいとか、・・・そういう事は良くあることだと知っていることだろう。
皆がそう思い込んでいれば、そういう価値観ばかりであれば、周囲はそういう世界になる・・というのは当たり前のことになるということだ。
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意識的な意識を有する人にとっては、すなわち自分という存在を・・・自分で意識できる存在にとっては、
人生や経験を通じて、思考が定在化して信念となり、
信念は容易に言葉で表わされ、当たり前のように行為に移行するのは、
もう既に観察済みのことではなかろうか。
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こうして、思考や想いを有する意識的または知的存在が集合して創る世界のことを「共通現実」と言っている。
この「共通現実」というのは、大自然、大宇宙が全てあらかじめ設定・創造したものではなく、人為的な創造物なのである。
即ち・・・いわゆる「現実」とは、客観的事実とか変更不可能な真実なのでは・・毛頭ないということだ。
例えば資本主義的世界も「思考」及び体系化された「思想」が現実化したものであり、それが生活向上に資するものであるかも・・・という多くの人々の共通思考によって現象化が許されるものであり、
翻って、個々人の人生においても・・・それは・・・そうであるはずだ・・という認識、思考や信念によって方向づけされているという事である。
そこで、人々のその思考や信念を、ある特定の価値観へ、また一定方向に向かわせようとする行為が洗脳やプロパガンダ、宣伝などという手段なのだ。
よくよく見れば、メディアの発達したこの世界は、宣伝洗脳、プロパガンダで満ちている事に気付けるだろう。
それがまさしく事実であるという風に装った、思考による、利益誘導行為に満ち満ちているではないか。
本当にノイズだらけの世界になったなあ・・というのが個人的な見解である。
アベノミクスがどうしたこうした?、経済成長が落ちた上がった?、増税が必然だ無理だ?
軍備増強が日本を強くする?オバマがああ言った、こう言った?
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そんなことよりも何よりも、我々人間は、すなわち意識的・意識を有する存在は、
創造の矢とも言うべき ”思考、想念の技術” を身に着ける必要があるのだ。
世界の偉い人が?どこかの大臣が?権威あると言われる者たちが?
あなたやわたし達の幸せをもたらすわけではない!ということにもう気付かなければならない。
その当の存在自体が、その存在自身のことに真剣にならずして、いったい誰が真剣になるのであろうか。
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不本意ながら、今までがそうであったことに気付けるならば、
想念や定在化した信念、イメージが自らの周りを取り巻く目に見えないフィールドを形作り、
それが現象化のための鋳型になるのであれば、
それを自らの心地よい、あるいは幸福を感じる、あるいは生きがいを感じるフィールドに創り上げるのである。
今までは例えそれが無意識ではあったとしても、その多くが他者の想いを採用してしまったとはいえ、
既にそれ、すなわち自己創造を行なってきた「達人」であるということに気付けるだろう。
自他への「幸せ思考」の矢をつがえ、「幸せ」という<的>に、勇気をもって放つのだ。
そして同時に実感をもって感謝の念を抱くことである。
そして、
周囲を見ては感謝し、
また遠くの山を見ては感謝し、
空を見上げては感謝する。
道行く人を見ては感謝し、
また道に咲く草花の姿に感謝し、
飛び交う赤とんぼにも感謝する。
呼吸をすることに感謝し、
顔を洗う冷水に感謝し、
頂く食物に感謝する。
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これは宗教心やらではなく、 創造宇宙との同調であり、
1つ習得すべき、新しい次元のテクノロジーである。
しかしながら、まず、思考や想いが自らで観えずして、
そのテクノロジーは発動かなわないのだ。
無意識的思考から意識的思考へ、
想念という、現象化のための見えないエネルギーを動かす因子を扱う意識の技術なのである。
それがたとえ思考と表現のテクノロジーであるとはいえ、実践で鍛えるしかないのである。
さあ、自らの「思考」の矢をつがえ、「幸せ」という<的>に、勇気をもって放つのだ。