気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

意識の拡大プロセス (1)黙示録の時代

2010-05-30 14:44:07 | 宇宙的気付き

●地球舞台はもう転回中か

「転回」とは舞台用語で、幕から幕への移り変わりのことを言い、その短い転回の間に舞台設定の変更作業が大急ぎで行なわれる。お芝居を見られた方ならばお分かりのように、いわゆるお芝居とお芝居の切り替わりのことである。

いま地球の舞台も風雲急を告げているらしいことは、感の優れた人や情報に敏感な人ならば良くお分かりだろうか。一般的な科学レベルでも、地球の温暖化の流布や、逆に氷河期への移行への議論など、一大変化の可能性が喧伝される時代はそうそうめったにないだろう。

人類集合意識の無意識レベルでも、何かがありそうな気配に気づきだしているのではないだろうか。俗に言う2012年とは単にその象徴でもあろう。

●エネルギーがここかしこで増大している状況 

地球温暖化の概念の流布も、生態系への異変の情報も、太陽の活動のイレギュラーな観測報告も、あるいはまた、物資の加工、流通によって付加価値を生み出してきた資本主義の申し子である、金融資本の昨今の激しい立ち回りも、明らかに何か大きな飽和点あるいは変曲点に来ているような兆しを示している。

あらゆる現象が波動的に表せるならば、あらゆる現象においてインパルス状の急激な変化率の増大を示している。

例えば、数百年のスパン軸における人工の増大曲線のカーブ、昨今の金融負債の何かあきらめたような落ち込み曲線、インターネットでの情報量の飛躍的増大、・・調べてみるとわかるが、異常気象なども含め、人為的なものとその関連する自然現象の変化率も、21世紀において指数関数的に増大しているのだ。

あるいはまた地球外からとしか考えられないアクセス、1つにはチャネリングと称する情報伝達や、地球時空内での明らかな未知なる飛翔物体の頻出も急激に増加している。例えばそれらの宇宙情報の殆んどは、地球の変容に関する警告や対処に関するメッセージを告げている。なるほど、確かに我々は、今ようやく我々自身の住まう地球の異変に気付きだしている段階でもあるのだ。

様々な情報の中には、往々にしてウソや勘違いや希望的観測等も含まれるものだが、今の人間の知覚レベルや意識レベルでは当然ありがちなことでもある。しかしながら、それを理解不能として、全てインチキとする刷り込みや誤解だけは避ける必要があるのだ。

確かに、もう今の状況では、「あー知らなかった・・」ではすまない状況になっているのかもしれない。今までとは違うような感じもしないでもないではないか。

地球規模の異変の兆しの殆んどは、人類の生態系への無知と、扱う物質の循環の稚拙さと、物質エネルギーの危険な使い方に関連した現象であり、ことここに及んでの危機的状況は、それ以上はやってはいけない段階?になってきたからなのではないかと思われる。

この人類の諸行の観点から言っても、今は既に、物質次元的なレベル、いわゆる三次元的な有り方における飽和点、限界点に立ち至ったとも考えられるのだ。

この段階での飽和点、すなわち我々人類の今までの舞台劇の幕がそろそろ下ろされる段階まで物語が進んだと見るべきだろうか。

昨今流行の陰謀論の影の当事者達や、いわゆる見えない支配層もそのことを知っているだろう。なぜなら皆、同じ船、あるいは同じ舞台の役者達には違いがないし、その情報量は我々よりも遥かに多いと推察されるからだ。

人類は、自らの拠って立つところの主役である物質を構成する局限の素粒子を分解するところまで至り、もしその素材自体を破壊してしまう行為においては、連鎖反応に代表されるような、この次元における連続的な崩壊も予測され、その物質で出来上がった世界自体がまさに壊れてしまうことにもなるかもしれないのだ。

今世界において核の話が飛び交っている状況は、国や政治の駆け引きのごときものではなく、世界の屋台骨を知らず知らず脅かしている、極めて危険な状況を示しているのだ。

この地球上の各所に何万年たっても消えない放射性の猛毒が、後生大事に蓄えられているのは、単にお話しではなくまさしく事実なのである。

これ以上は、多分興ざめでもあり、冗談的に言ってしまえば、もし仮に宇宙演劇を主催する宇宙興行主がいるとするならば、「あんたらやりすぎだよ・・ねー、またー?ちょっとやめてくれない」 という状況なのかも知れない。(笑)

核を誤って使い、せっかくの舞台が台無しになったことは、地球上で過去何回もあるようであり、それがいつもそのときの文明の幕引きの合図であったようだ。モヘンジョダロやハラッパの遺跡は、直ぐ前の文明の終わりにあった核戦争の記憶だともいわれている。

確かに、次元降下の極まった物質偏重文明の終焉は、物質の崩壊でしか起きないのかもしれない。

しかしながら、今回の飽和点は、長いスパンで行なわれた次元降下の過程にあるものではなく、それが反転したともいえる、いわゆる次元上昇の端緒にある時期ともいわれており、そうであれば今までとはその方向が異なると言えるだろう。爆発して終わり・・のようなストーリーはどうも無いようである。

 

●変化への胎動は常に内にあり

「今は大変動の時」などという認識はどの時代にもあったわけであり、確かにいつの世にも現状への嫌気と、より良い未来への願望は絶えたことがないのも事実である。

過去でも世紀末においては、特に終末思想を含んでいるキリスト教等に関わる文化、文明においては、黙示録的な世界の終わりを言われて怖れたり、また逆に待望したりということがあったようだ。

ヨハネが記したといわれる「黙示録」には、世界の終末のプロセスが大体7段階の形式で書かれているようだ。黙示録はいわゆる預言書とも言われている。

この預言書に書かれている内容自体が天と地を揺さぶるような内容であるために、世界の終わりであると解釈しがちであるが、しかしながら、実はそうではないのだ。 「そうして地球は無くなる。・・」等とは何処にも書かれていないのだ。

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Wikipedia より一部引用。

  1. 七人の天使が神の怒りの満ちた七つの鉢を受け取る(15:1-8) 神の怒りを地にぶちまける(16:1)
  2. 第一の鉢:獣のしるしを付ける者、獣の像を拝む者に悪性のはれ物ができる(16:2)
  3. 第二の鉢:海が死人の血のようになって海の生物がみんな死ぬ(16:3)
  4. 第三の鉢:水が血に変わる(16:4-7)
  5. 第四の鉢:人間が太陽の火で焼かれる。それでも神を冒涜し、悔い改めない(16:8-9)
  6. 第五の鉢:獣の国が闇におおわれる。激しい苦痛(16:10-11)
  7. 第六の鉢:しるしを行う3匹の悪霊、ハルマゲドンに王を集める(16:12-16)
  8. 第七の鉢:大地震 島も山も消える(16:17-21) 

なんだかおどろおどろしい言葉で書かれているようだが、宗教的な独特の一種の悔い改めへの、どこかおどしのようなものを含むと考えてもいいかもしれない。

文字通りに解釈すれば、人類の冒涜が最高潮に達し、環境異変があちこちで起こり、ハルマゲドンに象徴される大戦争の後に、地球が様変わりする・・となるらしい。

・・・・・

●手垢のついた道しるべ

黙示録も人類意識上の大きな変化のプロセスを記したもののようであり、ただその変化の内容が宗教がかって極端な分だけ、人間の恐怖も付随してくるだけのことである。

古代からの書は、長い年月を経て人の手で解釈変換された部分もあろうし、どうしてもそれを引き継ぎ伝承する人々、特定の民族・宗教的な観念で色づけされることにもなる。

例えば、連想ゲームで人づてに伝わった言葉が、場合によってとんでもない言葉に変わってしまう事もあるように、どんな観念も変質してゆくことはあるものなのだ。

黙示録に書かれた7つのプロセスは、多分に、舞台で言うところの「転回」のことを言っているに違いない。地球惑星生命圏の一大変容のことである。

世界は終るのではなく、ここにきて大きな変化をするということであろう。

 

●道標も誤解される時がある

ある意味で、三次元的な意識存在の住まう惑星文明が変化をするときには、往々にしてこのようなプロセスがあるものだ、ということを記したものだと思われる。

古くからある、良くあるルートの1つの道しるべのようなものだろうか。「この先崖あり・・注意!」 のようなものかも知れない。あえて注意を喚起しているにもかかわらず、「崖から落ちるようになっているのだ・・ああ」などと思うとすれば、そこには何か相当な無理があるのだ。

それは、多分に個人、宗教、民族の体験してきたカルマと称する「歪」の解消を請い願うところの「想いの集積」ではないかと察せられる。集積物を一挙にクリアーすべきものとして、爆発と焼尽を借りようとする行為ではないのか。

 

●外から内へではなく、内から外へ

しかしながら、外の世界で何がどう変わろうと、人間の意識の拡大に寄与するものでないならば、それはその外の世界に自己投入している者達の、いわば魂の学習プロセスでしかない。それは人類全体を代表するものでもなく、単に人類の一部にある執着観念に対する学習効果にすぎないのだ。

外の世界が壊されなければ、理想世界が現れないのではなく、それこそ全く逆であり、内面が変化しなければ、外をいくら変えようとも無駄だということである。

理想的な世界がくれば、我々がそれに合わせて理想的になるという考え方は、あくまでも、環境が人間を決めるという観念からのものであり、人間は社会的な動物であるという観念にあくまでも縛られていることを示しているのだ。

例えば、意識の拡大の程度の少ない人がいたとして、その彼が遥かに理想的な世界に行ったとしたら、その彼は多分その場に居たたまれなくなるだろう。

内面の意識の波動と外の波動は、写し絵、反射の関係にあるわけで、外と内が異なることは出来ない相談なのだ。波長が合わない、とはまさにそのような意識の拡大レベル、魂の発現レベルの違いを示すものである。

我々の周囲の世界は我々の写し絵であり、1つの大きな家、この世界のなかでは、人類の意識レベルにふさわしい形態をとらざるを得ないのは、単にそれが法則としてあるだけのことである。

種は自ら蒔いて収穫する定めであり、またこれは、自らの招かざるものは現れようがないという、ある意味で恩寵の法則でもある。

恐怖が無ければ、決して恐怖すべきものは現れない。それでも、どこかで多少とも恐怖があれば、そのとおりどこかで多少とも恐怖すべきものが現れる、それだけのことである。

 

●地球という学び舎のテーマ

我々そのものであるところの魂:意識の成長と拡大は、外の鏡の世界の驚天動地の変動によって起きるものではなく、あらゆる宇宙を表し続ける根源たる意識へのいわば帰還プロセスによるもの、すなわちあなたやわたしの、自らによる自己認識の拡大によってもたらされるものなのだ。

自己自身を変革して行くことこそは、ある意味で最も困難なものだろう。

例えば、どんなにお金を積まれようと、権威を与えようと、何らその人間の本来の幸せには寄与が出来ないようなものである。

例えば、目の前に100億円があったとして、あなたは生活の為の一時の安心は手に入るだろうが、人生の意義や内面から湧き上がり続けるところの、魂の意図や思惑は満たしようがないだろう。ましてやあの世に100億円を持っていけるわけはないのは昔から誰でも知っている道理である。

世界が変われば、自分は幸福になれる・・と信じる意識の段階もあるだろうが、それはあくまでも、いわゆる唯物思考の賜物であり、自己を環境の一部にしかすぎない物という観念であり、どんな豪華な物を回りに積み上げようと、それは物に更に物を付加しただけの「量の増大」でしかないのだ。

こころの作用はエネルギーを生み出すのであり、その逆ではないのだ。

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地球はその大切なプロセスに気づくための、学び舎を提供してきたともいえるだろう。物はそのための教材であり、因たる自己のあり方、眼には見えない意識の働きを十二分に気づくためのものなのだ。

 

●預言はそれを超えるべき道を示すもの

黙示録の預言は、確かに預言であるが、実のところは今回の文明進化の大枠のプロセスを言っているのだと考えられる。もし、そうであれば、ヨハネやあるいはそれに関わる目に見えない情報発信源には、高度な知識、英知を感じざるを得ない。

なにがしらの、より高次といわれる次元認識レベルの視座から見れば、いわゆるこの三次元世界、縦横高さでイメージする立体形態、すなわち物質形態の表現が主要な要素であるところの世界における人間の意識の成長プロセスにおいては、その大体の方向性が見えるに違いない。

もちろん、何年何月何日になにがどうなるかは、真実においてはいわゆる「神のみぞ知る」であるが、大枠の意識的進化の方向性は予想可能であるといえるのだ。

すなわち、大きく言うならば、一定の意識レベルにおける惑星生命圏での進化進捗の方向性は予測可能であろうと考えられる。この1つの最近の試みはWEBBOTのような人類意識の抽出による予測である。

何を考えるか?によって行動や表現が変わってくるのが人間という存在の特質であり、したがってその「主たる想い」が知れれば、その行動や結果は大枠の予測がつくのだろう。

例えばそれが古代であろうと、人類の「根の想い」のいくつかが分かるならば、それらの要素に応じて現れる文明・文化も、それが数千年先であろうと、ある程度は読むことが出来るだろう。原因が変わらなければ結果はそんなに変わるものでもないのだから。

主たる認識対象である物質形態の扱いに次第に習熟し、それをどのように衣食住を含む環境構築に利用してゆくのか等ということは、大体において予測が可能なのだ。三次元は預言や予測が可能な次元とも言えるだろうか。

 

●今は確かに黙示録の時代

古い時代だから、現代には当てはまらない・・という考え方こそ当て外れでしかない。それは物事の生起の原因が意識、人間においてはこころの働きによっていることすらも理解出来ない場合の考え方である。

古代と現代との違いは、物質の表現形態すなわち車や飛行機や携帯電話、家の造りなどが異なっているだけのことだと思えないだろうか。根にある想い、すなわち個々人の発する思いの質は、それほど変わっているわけではないだろう。

人々の中で右往左往しながら、その想いと感情に突き動かされながら生活している我々の有り方は、機械があろうと空を飛べようと、ほとんど古代と何も変わっていないかもしれない。

●神とは内にある真我のこと

いわゆる神という概念は、人間の本来あるべき方向を指すべき観念であるが、それが全く違うカテゴリーに追いやられ、祭上げられたのかも知れない。まさに根源のあなたである神も苦笑しているだろう。

しかしながら、その楽しい苦しい笑い話も終わりがくる。人生も始まりと終わりがあるように、時代にも始まりと終わりがある。根にある思想にも始まりと終わりがあり、文明や文化にも始まりと終わりがあるのだ。

なぜならば変化こそが、神たる根源の自己認識作用であるからだ。無限たる自己は変化でこそ、その無限の多様性を表すことが出来る。

 

●世界よりも、「あなたはどうなのか」という根本的な問いかけ

世界がどうなるかというよりも、あなたはどうするのか?ということを、生れてから自らに問い続けているはずなのだが、無意識の下にしまい込んだり、他の人に押し着せたりした知らず知らずの過程の中にあっても、いつか気づく時が来るものだ。

「わたしとは?」

我々は、ひょっとして今ちょうど最後に問いかけられるような舞台の場面に遭遇しているのかもしれない、そうある意味で間違いなく黙示録の時代にいるのかも知れない。

ひょっとして、宇宙全体があなたや私たちに、問いかけをしているような、そんな稀有な時代にいるのではないか。

これはまさにすごいことなのかも知れない。

 

(つづく)

 Bosch

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悩みの脱落

2010-05-23 10:24:56 | 心の力学

●悩みはいつも人に関わるもの

人間はいつも何かに大なり小なり悩んでいるのだろう。その悩みのほとんどは「人間関係」から来ていることは知っているだろうか。この際明確にいえることは、人間の「悩み」は大方「人間」から来ているということなのだ。

青い空や雲や海や、野に咲く花や道端の石ころが原因で、・・一体誰が悩むだろうか。

いや・・、例えば地球のこと、生態系のことに悩んでいる・・という人もいるだろうが、これはやはりそのように悩んでしまうような生態系にしてしまう人間に対する悩みであるということなのだ。

人間の悩みの全ては「人間」から来ているのだ。

 

●悩みは他者への期待からくる

あるいは、「いやいや、わたしの悩みはお金なんだ。ローン返済で苦しい生活に悩んでいるのだ。」という人もいるだろうが、お金の貸し借りや生活に関する苦しい事情に関しても、その悩みは当事者が作り、当事者が感じるものであることに違いはない。

人と人の間の、信用と責任に重圧を感じているということであり、問題はそもそもお金等ではないのだ。

あるいは、「いやいや、私の悩みは国の行く末だ。何とかしなければ、大変なことになる。これが悩みだ。」という人もいるだろうが、社会の流れに不安を感じ、どうしようもない他者の無知さ加減に嫌気が差し、それに憤りや無念さを感じて悩んでいるとしても、それは他者という人間を見ているあなたの悩みであることに違いはない。

あるいは、仕事先や学校などでの、上司や仲間の中で体験する嫌味やいじめや、それらに無理に取り繕う為の重いこころに悩んでいるとしても、それは何か自分以外の宇宙の問題ではなく、人間関係の何がしかの歪からくる悩みであることに違いはない。

悩みはほとんど全て人間関係からくるといってもいいのだ。

その人間関係の歪・悩みの元は他者にある・・と無意識に捉えているからこその悩みであることも自明の理なのだ。

 

○○ が自分の思うように対処してくれない、自分の思うように付き合ってくれない、自分の希望するような評価してくれない、自分が気持ちの良くなる言葉をかけてくれない、自分の期待する態度をしてくれない・・。

○○ とは、ある時は親であり、身近な人であり、社会の人であり、政治家であり、金貸しであり、世界の仕組みと称する「他者」なのだ。

それが人生の「悩み」と称するものなのではないか。自分の悩みとは他者への勝手な「期待」から来るものであるとも言えるだろう。

また、悩みとは他者との比較によって善悪を感じる各人の「こころの癖」によると言っても良いだろう。

 

●悩みは裁きの観念から生じる

それらは全て「相対的」なことであり、人の感じるところによって千差万別に見えたとしても、他人または自分自身へのジャッジ、裁きの観念から来ているのだ。

大なり小なり、他者への「期待はずれ」は他者への裁きのこころとなる。実のところ、賞賛も憎しみも同じ裁きのこころによるものである。価値観や立場や性別や集団や国やイデオロギーの違いによって、賞賛が裁きとなり、憎しみが親愛の情へと変化する。

しかしながら、考えてもみるがいい。

あなたはあなた以外の人間の思考・感情・行動に対する責任を本当に負っているのか?

またあなた以外の他者が、あなたに何か責任を負っているのか?・・と。

我々は、ここまで理解出来る意識的な位置に「今」あるだろうか。自分自身が見える位置にあるだろうか。

我々の多くが、自分のことは帰り観ることもなく、他人へ期待し、彼らから何か良きことを得ようとしている・・そんなこころのトーン・響きはないか?

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●他人とは、鏡に映る「一即多」の原則

それは、不特定他者の集団に沈み込んでいる有様とも言えるだろう。ある意味で、他者への期待は、自らの内面にあるテーマからの逃避なのだ。自ら観るべきものを、他者に投影しているのだ。期待への期待通りの回答など永久に得られるものではないのだ。

それは、鏡に映った自分の姿を見て、あろうことか鏡の方に化粧をさせるようなものだ、鏡に化粧しようと思えば思うほどその姿は動き回り、そんなことは出来るはずもないことがわかるだろう。

 

あなた自体の意識の有り方が変わらなければ、鏡に映った姿は決して変わらない。

わたし自体の意識の有り方が変わらなければ、それを映し出すところの他者や世界も変わらない。

 

●不遇とは恩寵の別の意味

例えば、誰でも体験する、他者の集団から受けたと感じる嫌味や辛い体験も、それを気づかせるための恩寵でありまた教訓なのだ。

外の写し絵たる社会は、決してあなたの期待するものではありません。どうか染まらないで下さい。ここは結果ばかりの世界であり、何かありそうで、実は何もないのです。」・・

といってくれているのだ。

誤解はいつも注意深く避ける必要があるのだが、ある意味で「他者は全く関係がないのだ。」ともいえるだろう。他人が何を言おうと、思おうと、あなたや私たちがそれを「そうだ」と同調しない限り、一切何も問題など生じないのだ。

他者への期待、または執着、その中での様々な階級や見かけの栄華、それら一切捨て去る行為は、決して不道徳でも逃避でもないのだ。なぜなら元々もってはいないからだ。

解脱とは、「本来わたしではない」ものを、「わたしではない・・」と看破する意識であり、執着の糊が綺麗にはがれたこころを持つ人間の、素の有様のことである。

それはこどもごころに似ている。

嗚呼、心悩ますあらゆる観念・・

それらを元々もっていないことに、明らかに気づくだけのことだったのだ。

 

世界がこうも不道徳で不調和で汚れたものに見えるのは、それにどこか波長の合うような「こころの根」が、あなたや私たちにあるということを示しているだけのことである。

例えば、ピカソの絵を見て、それを混乱ととるか、芸術ととるか、ただその違いでもあるだろう。問題は、ピカソの絵・すなわち世界にあるのではなく、それを鑑賞するあなたや私たちのほうにあるのだ。

 

Pica008 (夢:ピカソ)

多くの先達の言葉、「世界に在っても、世界に属してはいけない」という意味は、己の感性と直感を主にするべきであり、不特定他者の観念に自ら支配されてはいけない、無意識の集団の流れに属してはいけない、ということをも言っているようである。

植物、動物の種は集団の意識によって動くものだが、翻って、思考と感性を持つ人間が、自らの思考を停止し、自らの感性を覆い隠した状態での集団化は反吐が出るほどの不調和を作り出すだろう。

 

自らに気づくことが出来る存在、すなわち「意識的意識」を有する存在が、集団で眠った有様は、それぞれの役割を有する自然界の調和に反するあり方でもあるのだ。それは人間の素の有り方ではないのだ。

 

それはある意味で、いわゆる無意識のうちに重いこころを持つがゆえの、いわゆる「意識次元の降下」などともいえるかもしれない。

 

●あなたはなにものか

悩みや不満も、こころの波動の歪を、そのまんま己に現すものでしかない。

憤慨も憎しみも、他者への法外な期待の裏返しでしかない。

不安も怖れも、集団の中の自己保存への焦りでしかないのだ。

 

我々は全て、この生命の海における自由な観客・旅人のようなもの。

我々は、食べられるべき、個別別個のプランクトンでもなく、

獰猛を商売として生きてゆかねばならない鮫でもない。

我々は生命の海たるこの宇宙の、全存在に対する生き証人のようなものであり、

それは・・・、

人としての我々の意識が・・・、

それ「自体に気づく意識」であるからだ。

 

すなわち、わたしは、「わたし」である・・。

 

眼前に見える膨大で無限の宇宙も、そのままが根源意識自体の現す姿であり、

あなたとは・・・、

また根源自らが、

その変わりゆく無限の物語を、楽しみ楽しむことで、

その創造の面白さ、有りがたさを実感する為に、

人間として自己配置した「観客」でもあるのだ。

 

根源のシナリオの作り出す舞台の1つが、この地球という舞台であり、

我々一人一人も、また根源自らがその演技を演じるところの役者である。

我々がそれに気づき参加することで、また更なる楽しみ楽しむ物語が出来上がる。

それをマーヤ(神の綾なす幻想世界)と言えども、

そのマーヤを創り続ける主体は、じつは「あなた」である。

根源とは全てであるからには、どこかの誰か、何か高貴な対象ではない。

神なる根源は、わたしは「わたしである」という、あなたの「意識」のうちにあるのだ。

神なる根源の隠れ場所としては、さすがに、極まって秀逸ではないか。

しかしながら、もうあなたはウスウスでも気づいただろう。

なるほど、自分は自分でしか気づけないものだから・・・ね。

Photo096

(クレマチス)

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太陽の恩返し?

2010-05-16 15:40:05 | 偉大なる先達の言葉

ロバート・モンローは知る人ぞ知るへミシンクの発明者である。左右の耳から約4ヘルツ程度の差のある音を聞くことで、左右の脳の働きを調和させ、意識の拡大をすることが出来ることを発見した人である。

日本でもそれを発展させるべく活動しているのが、坂本政道氏である。数多くの出版本もあるのでご存知の方もいるだろう。

その著作には相当なことが書かれているのだが、常識的な観念にある人々にはなかなか理解出来ないかも知れない。今はピラミッドに関する研究をしているとのことで、その模索は最近の著作「ピラミッド体験」にも書かれている。

 

彼の著作のすごいところは、実際に自分で意識的体験を行いながら、その未知なる意識を拡大しているところである。なんと銀河の中やその向こうにも軽くフォーカスしているようだ。

 

意識による存在世界のあらゆる所へのアクセスなど、一般的な常識では到底考えられず、なにか荒唐無稽の物語を言っていると考えるだろうが、あれは真実を言っていると思う。

彼は、地球の周囲及び地球を取り巻き、あるいはそれを含む無限の宇宙の仕組みを果敢に実体験して紹介している、魂レベルの猛者であると思う。

私自身も似たような意識体験が多々あるのだが、彼の比ではない。しかしながら、意識による宇宙旅行や地球のフォーカスレベル、時空の層での諸体験は間違いなく頷けるのだ。

例えば、UFOの目撃も、臨死体験も体脱体験も、それらは実際に体験してみなければわからないわけだが、我々が単に物質肉体であると言う信念体系に捉われている限り、意識的な拡大は難しい場合もあるようだ。

坂本政道さんの縦横無尽の体験報告、

 

 

例えばこうである・・・、

「ピラミッド体験」(ハート出版)より、

p61・・・

このセッションはベッドに腰かけ、パソコンに直接記録をとりながら体験することにする。枕もとのランプのみをつけておき、パソコンのキーボードが見えるようにしておく。

F34/35(フォーカス34,35の意識層)へ到着。V8内にいる。何も見えない。真っ暗だ。個人用の探査機PODに乗り込む。ガイドもいっしょだ。太陽へ向かうことにする。

透明で大きな球体が見えてきた。真っ暗な中に縁だけなんとなく見える。

太陽と交信する。

 

あなたのことはよく存じていおるぞ。小さき者の子供の子供よ。よく来られた。まあ、前にも来られてはいるが、今回は何じゃ。何がお望みじゃ。」

 

「2012年について話してください。」

 

「いいだろう。これは地球生命系だけではなく、太陽系全体、あるいはその近くの星たちにも影響がある。我々はわくわくしながら、前から待ち望んでいたのだ。大きな変化が起こる。それは惑星によって異なる変化だ。太陽自体も変わる。」

 

「どう変わるんですか?」

 

「一緒に考えよう。そういう共鳴状態に入るほうがいいだろう。」

 

太陽と自分の意識を同調させることで、共鳴意識状態に入り、一緒に考えることができるようになるのだ。これについては、以前バシャールとの交信の際に体験していた。

 

「実はこういう共鳴意識状態が、今後は一般的になる。あなた方も我々と意識を合わせようと思えば合わせられる状態になる。惑星の意識にも合わせられるようになる。今あなた方がヘミシンクでやっていることが、もっと一般化するのだ。人々の意識があらゆるものと共鳴し、より調和のある世界になっていく。

 

それは地球上だけに留まらず、地球意識や惑星意識、太陽系意識との共鳴、あらゆるものとの共鳴が起こるようになり、共感を持つようになるのだ。

 

これはすばらしいことだ。人類や地球では、それは第3密度から第4密度への移行というふうに言うことができるかもしれない。

Glowingsunsunprominencega

・・・・中略・・・

 

「あなたの段階では何を学ぶのですか」

 

「愛をこの物質次元で周りの空間へ放出すること、それが周りへの奉仕であり、また源への愛の恩を返すことになる。源にはものすごく恩をうけているのだ。それを愛情をまわりへ放射することで、まわりに奉仕することで、恩返しをしているのだ。

 

それは喜びだし、自分も満たされるのである。あなたもそれと同じことを徐々にし始めている。

 

そういう意味では全ての生命体は同じことをしているのだ。わたしの場合はそれを太陽系という大きなスケールで行なっている。ここに住まう多くの生命体たちを育み、慈しみ、成長を促がしている。

 

それが恩返しである。喜びでもある。純粋な愛と喜び、それを実行する。その中に自分自身の気付きと意識の拡大がある。それによって、更に上の知覚へと進むことができる。」

 

「あなたにとって上とはどういうレベルですか?」

 

「それはまだわからない部分があるが、1つの可能性としては、他の形の天体や銀河といったものだ。」

 

「誰が選択するのですか?」

 

「もちろん自分で選択するが、私を導く存在達との相談もある。」

 

「誰が導いているのですか?」

 

「銀河系の高次のスピリットたちだ。ヒエラルキー構造になっている。銀河系の下にはローカルなグループもあり、そこにもリーダーたちはいる。彼らの導きもある。が、基本的には銀河系の中心にいる存在達だ。」

 

「もう時間になりました。どうもありがとうございました」

・・・以上抜粋。

  

・・・という具合である。

 あらゆる全てが意識的な存在であるということに理解が至らない場合には、いったい全体何を言っているのかわからないだろう。ましてや「太陽とコミュニケート」するなんて、おとぎ話か昔話のようにしか感じられないかもしれない。

太陽も意識の発現せるものであり、いわば共通の搬送波のような根源意識波動に乗れば、意識体同士のコミュニケーションが可能ということである。相互の意識的な深さの違いにより、こちら側の受ける印象に多少とも変換されたものが混在する場合があるものの、それらは確かに生命同士のコミュニケーションであると考えることができる。

 

実のところ、自分も太陽まで行って還って来たような半覚醒夢があるが、その時にはなにか太陽の波動の中に、複数の高次の人存在的な意識を感じたのだ。その時は、いつの間にか太陽近辺にいる自分に気づき、いつものように状況の異変に「あっ」と驚いてしまい、早々に退散しようとして視点を移動させながら太陽の球体表面を見たところ、そこに、こころを込めて手を振るような人影、いや人型の光のようなものを見たのだ。「えっ、なんだ~!!」

 そのこころを込めた手を振るような挨拶は、どうしても言葉に表しようのない「温かさ」を感じたのだ。たしかにこの世のものではない暖かさである。言わばハートから搾りだされるような温かさである。

一説によれば、太陽は熱くないと言われており、それは多元的な存在層のことを知っているのであろう。

もちろん、その時に訪れた太陽とは、その存在形態の「物理現象面」ではなく、地球にもあるような多層のフォーカスレベルでの訪問だったかも知れないし、また物質表現の裏にある因としての意識の本体の層へのアクセスであったのかも知れない。

人間は肉体であるという観念は、今は昔の物語となりつつあるのかも知れない。それが故の様々な競合や争い、生と死のこちら側で眠っていた人類は、その広大な本来の意識存在になりつつある、いや、戻りつつあるのだ。

あなたはどう思うだろうか。

Nature1012

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宇宙と意識

2010-05-08 09:45:32 | 新地球文明論

●ホーキング博士の宇宙人発言

ホーキング博士が地球外生命体のことをコメントしたという事が、公けのニュースで報じられていた。なるほど、時代は変わったとも思える所以である。

権威筋の著名な学者がいわゆる宇宙人の話をするなどということは、常識の中だけが確かだと思ってきた人々にとっては、晴天の霹靂のようなものであり、またある人々にとっては未知の観念にたいする困惑を生み出すようなものだろうか。

しかしながら、これは小出しとは言え、身近にある未知なるものに対する厚い既成観念の覆いが破れかけている証拠だとも考えられる。

これはまた、大勢の人々が社会的な著名人が言うことを信じていることの証である。ホーキングが言うことであるから・・と思ったが、何か想定外のことをつぶやいている・・とでも感じる人々もいるだろう。自分が思うに、ホーキングならではのせめてもの吐露であったのだろうか。

なるほど、何処かのおばさんやお兄さんがそんなことを言ってもニュースにもならないものだ。「想定外」のことは存在しない・・という無意識の観念に浸ってしまっているのだろう。真実もリアリティーもいつも誰かに頼っていることを良しとする人類集合意識を示すものでもあろうか。

未知なるものに対する興味や好奇心という、人間にとっての重要な1つの特質が、いつの間にか「常識」という集団観念のカテゴリーのなかで「眠って」しまっていたということなのかもしれない。

皆が言うこと、それが正しいことだ・・という観念。多数決の論理がなぜか漠然と、全てに浸透している集合意識の有様から言えば、権威筋のアナウンスによって、大きな風穴が開きだしたとも言えるだろうか。

それは、集団で安眠を貪ってきた我々の観念世界のなかに、涼しい風が吹いてきたともいえるのだ。それが涼しく感じるか、恐ろしく感じるか、または変わらずそんなことはあり得ない、と感じるかの「選択枝」が提供されているとも言える。

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●今は黒船の時代

今の時代を、大河ドラマで放映中の「龍馬」の時代、「黒船の時代」になぞらえる人も多いことだろう。太平を謳歌した江戸時代という文明の飽和状態から腐食し始めた、ちょうどその時に開国を迫る黒船が現れてきたのは意味深長である。黒船が良いか悪いかは別の問題だが。

人類意識の内面が変化し始めたことに呼応して、外の世界も変化し始めるということだ。個人でも文明でもそれに変わりは無い。

NASAやロシアの宇宙開発の過程では様々な地球外文明の証拠を観測しているが、それをひいき目に言ったとして、大衆の為という架空の大義名分によって隠してきたということだが、このような地球周辺にいる地球外生命体いわゆる宇宙人は権威筋、支配筋では当たり前の常識であるらしい。支配者側の自己存続自体が主眼となってしまい、事実を隠蔽することは本当によくあることだ。

宇宙人が存在するかどうかということを誰かが証明するまで待つ必要はないだろう。宇宙に存在する意識的生命体を宇宙人とすれば、我々こそまさにそうであるし、我々地球惑星圏以外の生命形態はあるのか?という意味で言えば、最も良識ある回答は、「我々に公式に認知されていないだけ」ともいえるし、また、もっと控えめな表現では、「宇宙人が存在しない<理由>は、どこにもない」と言えるだろう。

したがって、宇宙人はいるわけない・?とする一般風潮自体が、集団自己催眠に掛かっているようなものなのだ。

 

●生命を育む惑星の控えめな科学的解釈例

 「生ける宇宙」 アーウ”イン・ラズロ著(日本教文社)より抜粋

わたしたちの宇宙には10の20乗、すなわち1000京個以上の恒星が存在し、その全てが活動期にはエネルギーを生み出す。その多く、おそらくほとんどが、自らの周りを周回する惑星を伴っており、化学的条件と温度条件が適切な惑星の上では、やがて生命に至るような自己組織化が始まる可能性が高い。

生命を育むことが可能な惑星がどのくらい存在するかについては、確かなことはわかっていない。推定値はばらついているが、徐々に大きい数へと修正されている。ハーバードの天文学者、ハーロウ・シャプリーは、控えめに見積もりを行なって、まず、1000個に1個の恒星だけが惑星をもっており、そのような恒星1000個のうちの1個だけが、適切な距離に離れた惑星を持っていると仮定した。

彼はさらに、恒星から適切な距離にあり、適切な大きさをした惑星の1000個に1個だけが生命を育むに適した化学組成をもっていると仮定した。そのようなたいへん控えめな見積もりをしても、宇宙には生命を育むことが出来る惑星が少なくとも一億個存在するはずだということをシャプリーは見出した。

・・以上抜粋。

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地球的な生命形態に限っての想定算出例であるが、それだけでも単純に我々の可能な電磁波的な観測から言っても、地球型生命の生息できる惑星は観測される宇宙の中に、1億はあるだろうということである。10個、20個でなく、1億である。これは科学的な「常識的」、かつ控えめな想定なのだ。「常識的」な解釈の見地に立っても、宇宙生命体は否定などできるはずもない。

それが地球に来ているのかどうかということであるが、いわゆる「UFO」という形でしっかりとそこに来ているといわずばなるまい。

UFOは未確認飛行物体というカテゴリーに分類され、未確認な飛行物体は、何でもかんでもひっくるめてしまって、わけがわからないようになっているが、そのうちで「非直線的」な動きをするものや、空気振動音を発しないもの、意識的な挙動をするもの、周囲の力場の周波数的変調などによる発光を伴うもの、空間をホッピングするようなものは、その多くが正真正銘の「UFO」と考えられる。簡単に言えば、地球外の乗り物である。

それはすなわち一般的な言い方では「宇宙」を移動する乗り物、すなわち「宇宙船」である。人体組成を保護しながら、宇宙の時空間を移動する為には、その時空間から人体を保護するエリアが必要であり、これは海に浮かぶ船と同じことなのだ。

組成形態の異なる海と肉体を切り離し、かつその海自体を航行するボディ・船体が必要であることと同じである。人体という最外表現形態ともいえる何らかの肉体を有する知的生命にとっては、その時の肉体及び意識の周波数帯を保護しながら、航行することが出来る集合的保護ボディーが必要であろう。すなわち宇宙船である。

これらの乗り物は、直接意識のコアによる転生によらない、外皮ボディーを伴った時空の転移を行なう船といえるだろう。

はるばる地球に来る為には、時空をホッピングするような仕組みの船体であることが最も考えられるし、またそのこと自体が、我々の科学的な「観念」から逸脱している為に、逆に容易に受け入れられないのだ。常識内のUFOなど、あるはずもないのだが、一般的な人々は未知のほうから自らを現してくれること、それを待ち続けているのではないか。しかしながら、未知はまず大勢が既知にしてこそ一般的な現象として現れることが出来るものなのだ。

 

●UFO目撃自体は現実

自分を含め、いわゆるUFOを目撃した人々は相当数いることだろう。一般常識の観念体系の外にあると感じることで、それを何かの見間違いだとか、目の中の星だとかで忘れてしまう場合も多く、また逆に飛行機や気球、人工衛星などとの見間違いもあるだろう。なにごとも鵜呑みは禁物だが無視することは更に問題である。

20世紀前半あたりから急速に増え始めたUFOの観測情報やコンタクト体験情報をなぜか全て無視し、数十年経っても相変らずUFOということに終始している面白い「奇跡」に気づく必要があるだろう。情報収集では間違いなく認知されているのだが、科学技術的な再現形態のノウハウが無い為に、慎重になっているというのは、あまりにも人の良い考え方でもあろうか。

 

●支配と非支配の共通点は未知への恐怖

大衆の信頼する?権威筋が今まで決して公式アナウンスしないわけは、現状維持や支配形態に支障をきたすからであろうし、また逆に一部の人々を除いて、一般大衆の多くがそれに関心を示してこなかったのは、未知なるものへの恐怖によるものでもあるだろう。相互の刹那的利益が同じであったと言えるかもしれない。

未知なるものは、どこかワクワクするようなものではなく、恐怖として感じることにこそ、文明の病を見出すことが出来る。まさか自然界、宇宙が恐怖で出来ているわけはないのは明らかであるにも関わらず、それを闘い、それを征服・支配してナンボの観念からくるところの病である。

しかしながら、本来の常識的な見解だけでも、上の1億個の惑星生命圏が想定されているのだ。我々の地球も単にその1つである。

 

●天にあるように地にもある

地にあるように天にもある・・という言葉は、フラクタル構造としての宇宙のあり方を示し、それはまた相似象ということにも繋がっている。我々の今の意識的有り方を拡大すれば、より大きい世界があることがわかるだろう。ようやく人類はそれに気づき始めたということだ。

宇宙は広大な意識の庭のようなものであり、我々はそのひとつの意識から分化し、広大な自己をあらゆるの方向から、あらゆる次元から観照しているところの庭師のようなものなのだ。

ひとつの意識・魂の無限への分化は、個別の意識体としての生命である。人も動物も岩も、木も川も、大気も、そして惑星遥か離れた時空にあると見える銀河も、それに変わりがないのだ。

 

●人類意識の飛躍の時

我々は今、よちよち歩く、足元ばかりを見る幼児から、更に広い世界を見ることの出来る生命への大きな変化の時にいるのだ。

ホーキング博士は、現在のあらゆる方面からの意識を気にしながらも、敢えて宇宙文明の存在を示す発言をしたものだろう。彼の人も、誰がどういおうと、真実を追究してきたことには変わりがない一人の科学者、また勇者と考えてもおかしくはない。おそれながら、博士は彼自身の顕してきた肉体の異常に関する自己観念を既に超えているものと思われる。

宇宙、森羅万象、多次元とも言われるこの存在世界において、我々は孤独ではないことは間違いのない事実である。

孤独どころか、その意識を拡大すればするほど、大勢の「わたし」に遭遇することになるだろう。そこにはけだるい天国のような虚妄は有り得ず、またおどろおどろしい恐怖の物語もふさわしくなく、ワクワクドキドキするような未知との遭遇と、体験と思考と気づきを駆使した意識の拡大があるに違いないのだ。

あなたがあなたの望まぬものを欲しがらないように、宇宙自体は自己の望まぬものを創れない。本来誰も望まぬ恐怖は無知の影のようなものだ。

過去という舞台で、繰り返し繰り返し滅亡と再生を体験した地上の諸文明の痕跡は今は昔の物語であるが、大宇宙の内部に1点として目覚め、悠久の時を経て自己組織化されて進化した地球人類は今、健在である。

 

●幸せはいつも今ある

楽しいのが、実のところは真実なのだ。

無理しての苦渋のしかめっ面は人間には似合わない。

宇宙に飛んでも幸せとはいえない。

 

しかしながら、

何が無くても「今」がある。

全てが創られるのは「今」だけなのだ。

過去や未来は、今という中心からの投影にすぎないのだ。

 

また未来への心配や、過去への執着は、

今という「あるがまま」の永遠の輝きを覆うベールにもなる。

「今有る」ことの、あたりまえの、かつ驚愕の事実に気づくべきときである・・と思う。

嗚呼・・有夢。

Flower1006

母の日が近いですね。

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。