●地球舞台はもう転回中か
「転回」とは舞台用語で、幕から幕への移り変わりのことを言い、その短い転回の間に舞台設定の変更作業が大急ぎで行なわれる。お芝居を見られた方ならばお分かりのように、いわゆるお芝居とお芝居の切り替わりのことである。
いま地球の舞台も風雲急を告げているらしいことは、感の優れた人や情報に敏感な人ならば良くお分かりだろうか。一般的な科学レベルでも、地球の温暖化の流布や、逆に氷河期への移行への議論など、一大変化の可能性が喧伝される時代はそうそうめったにないだろう。
人類集合意識の無意識レベルでも、何かがありそうな気配に気づきだしているのではないだろうか。俗に言う2012年とは単にその象徴でもあろう。
●エネルギーがここかしこで増大している状況
地球温暖化の概念の流布も、生態系への異変の情報も、太陽の活動のイレギュラーな観測報告も、あるいはまた、物資の加工、流通によって付加価値を生み出してきた資本主義の申し子である、金融資本の昨今の激しい立ち回りも、明らかに何か大きな飽和点あるいは変曲点に来ているような兆しを示している。
あらゆる現象が波動的に表せるならば、あらゆる現象においてインパルス状の急激な変化率の増大を示している。
例えば、数百年のスパン軸における人工の増大曲線のカーブ、昨今の金融負債の何かあきらめたような落ち込み曲線、インターネットでの情報量の飛躍的増大、・・調べてみるとわかるが、異常気象なども含め、人為的なものとその関連する自然現象の変化率も、21世紀において指数関数的に増大しているのだ。
あるいはまた地球外からとしか考えられないアクセス、1つにはチャネリングと称する情報伝達や、地球時空内での明らかな未知なる飛翔物体の頻出も急激に増加している。例えばそれらの宇宙情報の殆んどは、地球の変容に関する警告や対処に関するメッセージを告げている。なるほど、確かに我々は、今ようやく我々自身の住まう地球の異変に気付きだしている段階でもあるのだ。
様々な情報の中には、往々にしてウソや勘違いや希望的観測等も含まれるものだが、今の人間の知覚レベルや意識レベルでは当然ありがちなことでもある。しかしながら、それを理解不能として、全てインチキとする刷り込みや誤解だけは避ける必要があるのだ。
確かに、もう今の状況では、「あー知らなかった・・」ではすまない状況になっているのかもしれない。今までとは違うような感じもしないでもないではないか。
地球規模の異変の兆しの殆んどは、人類の生態系への無知と、扱う物質の循環の稚拙さと、物質エネルギーの危険な使い方に関連した現象であり、ことここに及んでの危機的状況は、それ以上はやってはいけない段階?になってきたからなのではないかと思われる。
この人類の諸行の観点から言っても、今は既に、物質次元的なレベル、いわゆる三次元的な有り方における飽和点、限界点に立ち至ったとも考えられるのだ。
この段階での飽和点、すなわち我々人類の今までの舞台劇の幕がそろそろ下ろされる段階まで物語が進んだと見るべきだろうか。
昨今流行の陰謀論の影の当事者達や、いわゆる見えない支配層もそのことを知っているだろう。なぜなら皆、同じ船、あるいは同じ舞台の役者達には違いがないし、その情報量は我々よりも遥かに多いと推察されるからだ。
人類は、自らの拠って立つところの主役である物質を構成する局限の素粒子を分解するところまで至り、もしその素材自体を破壊してしまう行為においては、連鎖反応に代表されるような、この次元における連続的な崩壊も予測され、その物質で出来上がった世界自体がまさに壊れてしまうことにもなるかもしれないのだ。
今世界において核の話が飛び交っている状況は、国や政治の駆け引きのごときものではなく、世界の屋台骨を知らず知らず脅かしている、極めて危険な状況を示しているのだ。
この地球上の各所に何万年たっても消えない放射性の猛毒が、後生大事に蓄えられているのは、単にお話しではなくまさしく事実なのである。
これ以上は、多分興ざめでもあり、冗談的に言ってしまえば、もし仮に宇宙演劇を主催する宇宙興行主がいるとするならば、「あんたらやりすぎだよ・・ねー、またー?ちょっとやめてくれない」 という状況なのかも知れない。(笑)
核を誤って使い、せっかくの舞台が台無しになったことは、地球上で過去何回もあるようであり、それがいつもそのときの文明の幕引きの合図であったようだ。モヘンジョダロやハラッパの遺跡は、直ぐ前の文明の終わりにあった核戦争の記憶だともいわれている。
確かに、次元降下の極まった物質偏重文明の終焉は、物質の崩壊でしか起きないのかもしれない。
しかしながら、今回の飽和点は、長いスパンで行なわれた次元降下の過程にあるものではなく、それが反転したともいえる、いわゆる次元上昇の端緒にある時期ともいわれており、そうであれば今までとはその方向が異なると言えるだろう。爆発して終わり・・のようなストーリーはどうも無いようである。
●変化への胎動は常に内にあり
「今は大変動の時」などという認識はどの時代にもあったわけであり、確かにいつの世にも現状への嫌気と、より良い未来への願望は絶えたことがないのも事実である。
過去でも世紀末においては、特に終末思想を含んでいるキリスト教等に関わる文化、文明においては、黙示録的な世界の終わりを言われて怖れたり、また逆に待望したりということがあったようだ。
ヨハネが記したといわれる「黙示録」には、世界の終末のプロセスが大体7段階の形式で書かれているようだ。黙示録はいわゆる預言書とも言われている。
この預言書に書かれている内容自体が天と地を揺さぶるような内容であるために、世界の終わりであると解釈しがちであるが、しかしながら、実はそうではないのだ。 「そうして地球は無くなる。・・」等とは何処にも書かれていないのだ。
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Wikipedia より一部引用。
- 七人の天使が神の怒りの満ちた七つの鉢を受け取る(15:1-8) 神の怒りを地にぶちまける(16:1)
- 第一の鉢:獣のしるしを付ける者、獣の像を拝む者に悪性のはれ物ができる(16:2)
- 第二の鉢:海が死人の血のようになって海の生物がみんな死ぬ(16:3)
- 第三の鉢:水が血に変わる(16:4-7)
- 第四の鉢:人間が太陽の火で焼かれる。それでも神を冒涜し、悔い改めない(16:8-9)
- 第五の鉢:獣の国が闇におおわれる。激しい苦痛(16:10-11)
- 第六の鉢:しるしを行う3匹の悪霊、ハルマゲドンに王を集める(16:12-16)
- 第七の鉢:大地震 島も山も消える(16:17-21)
なんだかおどろおどろしい言葉で書かれているようだが、宗教的な独特の一種の悔い改めへの、どこかおどしのようなものを含むと考えてもいいかもしれない。
文字通りに解釈すれば、人類の冒涜が最高潮に達し、環境異変があちこちで起こり、ハルマゲドンに象徴される大戦争の後に、地球が様変わりする・・となるらしい。
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●手垢のついた道しるべ
黙示録も人類意識上の大きな変化のプロセスを記したもののようであり、ただその変化の内容が宗教がかって極端な分だけ、人間の恐怖も付随してくるだけのことである。
古代からの書は、長い年月を経て人の手で解釈変換された部分もあろうし、どうしてもそれを引き継ぎ伝承する人々、特定の民族・宗教的な観念で色づけされることにもなる。
例えば、連想ゲームで人づてに伝わった言葉が、場合によってとんでもない言葉に変わってしまう事もあるように、どんな観念も変質してゆくことはあるものなのだ。
黙示録に書かれた7つのプロセスは、多分に、舞台で言うところの「転回」のことを言っているに違いない。地球惑星生命圏の一大変容のことである。
世界は終るのではなく、ここにきて大きな変化をするということであろう。
●道標も誤解される時がある
ある意味で、三次元的な意識存在の住まう惑星文明が変化をするときには、往々にしてこのようなプロセスがあるものだ、ということを記したものだと思われる。
古くからある、良くあるルートの1つの道しるべのようなものだろうか。「この先崖あり・・注意!」 のようなものかも知れない。あえて注意を喚起しているにもかかわらず、「崖から落ちるようになっているのだ・・ああ」などと思うとすれば、そこには何か相当な無理があるのだ。
それは、多分に個人、宗教、民族の体験してきたカルマと称する「歪」の解消を請い願うところの「想いの集積」ではないかと察せられる。集積物を一挙にクリアーすべきものとして、爆発と焼尽を借りようとする行為ではないのか。
●外から内へではなく、内から外へ
しかしながら、外の世界で何がどう変わろうと、人間の意識の拡大に寄与するものでないならば、それはその外の世界に自己投入している者達の、いわば魂の学習プロセスでしかない。それは人類全体を代表するものでもなく、単に人類の一部にある執着観念に対する学習効果にすぎないのだ。
外の世界が壊されなければ、理想世界が現れないのではなく、それこそ全く逆であり、内面が変化しなければ、外をいくら変えようとも無駄だということである。
理想的な世界がくれば、我々がそれに合わせて理想的になるという考え方は、あくまでも、環境が人間を決めるという観念からのものであり、人間は社会的な動物であるという観念にあくまでも縛られていることを示しているのだ。
例えば、意識の拡大の程度の少ない人がいたとして、その彼が遥かに理想的な世界に行ったとしたら、その彼は多分その場に居たたまれなくなるだろう。
内面の意識の波動と外の波動は、写し絵、反射の関係にあるわけで、外と内が異なることは出来ない相談なのだ。波長が合わない、とはまさにそのような意識の拡大レベル、魂の発現レベルの違いを示すものである。
我々の周囲の世界は我々の写し絵であり、1つの大きな家、この世界のなかでは、人類の意識レベルにふさわしい形態をとらざるを得ないのは、単にそれが法則としてあるだけのことである。
種は自ら蒔いて収穫する定めであり、またこれは、自らの招かざるものは現れようがないという、ある意味で恩寵の法則でもある。
恐怖が無ければ、決して恐怖すべきものは現れない。それでも、どこかで多少とも恐怖があれば、そのとおりどこかで多少とも恐怖すべきものが現れる、それだけのことである。
●地球という学び舎のテーマ
我々そのものであるところの魂:意識の成長と拡大は、外の鏡の世界の驚天動地の変動によって起きるものではなく、あらゆる宇宙を表し続ける根源たる意識へのいわば帰還プロセスによるもの、すなわちあなたやわたしの、自らによる自己認識の拡大によってもたらされるものなのだ。
自己自身を変革して行くことこそは、ある意味で最も困難なものだろう。
例えば、どんなにお金を積まれようと、権威を与えようと、何らその人間の本来の幸せには寄与が出来ないようなものである。
例えば、目の前に100億円があったとして、あなたは生活の為の一時の安心は手に入るだろうが、人生の意義や内面から湧き上がり続けるところの、魂の意図や思惑は満たしようがないだろう。ましてやあの世に100億円を持っていけるわけはないのは昔から誰でも知っている道理である。
世界が変われば、自分は幸福になれる・・と信じる意識の段階もあるだろうが、それはあくまでも、いわゆる唯物思考の賜物であり、自己を環境の一部にしかすぎない物という観念であり、どんな豪華な物を回りに積み上げようと、それは物に更に物を付加しただけの「量の増大」でしかないのだ。
こころの作用はエネルギーを生み出すのであり、その逆ではないのだ。
地球はその大切なプロセスに気づくための、学び舎を提供してきたともいえるだろう。物はそのための教材であり、因たる自己のあり方、眼には見えない意識の働きを十二分に気づくためのものなのだ。
●預言はそれを超えるべき道を示すもの
黙示録の預言は、確かに預言であるが、実のところは今回の文明進化の大枠のプロセスを言っているのだと考えられる。もし、そうであれば、ヨハネやあるいはそれに関わる目に見えない情報発信源には、高度な知識、英知を感じざるを得ない。
なにがしらの、より高次といわれる次元認識レベルの視座から見れば、いわゆるこの三次元世界、縦横高さでイメージする立体形態、すなわち物質形態の表現が主要な要素であるところの世界における人間の意識の成長プロセスにおいては、その大体の方向性が見えるに違いない。
もちろん、何年何月何日になにがどうなるかは、真実においてはいわゆる「神のみぞ知る」であるが、大枠の意識的進化の方向性は予想可能であるといえるのだ。
すなわち、大きく言うならば、一定の意識レベルにおける惑星生命圏での進化進捗の方向性は予測可能であろうと考えられる。この1つの最近の試みはWEBBOTのような人類意識の抽出による予測である。
何を考えるか?によって行動や表現が変わってくるのが人間という存在の特質であり、したがってその「主たる想い」が知れれば、その行動や結果は大枠の予測がつくのだろう。
例えばそれが古代であろうと、人類の「根の想い」のいくつかが分かるならば、それらの要素に応じて現れる文明・文化も、それが数千年先であろうと、ある程度は読むことが出来るだろう。原因が変わらなければ結果はそんなに変わるものでもないのだから。
主たる認識対象である物質形態の扱いに次第に習熟し、それをどのように衣食住を含む環境構築に利用してゆくのか等ということは、大体において予測が可能なのだ。三次元は預言や予測が可能な次元とも言えるだろうか。
●今は確かに黙示録の時代
古い時代だから、現代には当てはまらない・・という考え方こそ当て外れでしかない。それは物事の生起の原因が意識、人間においてはこころの働きによっていることすらも理解出来ない場合の考え方である。
古代と現代との違いは、物質の表現形態すなわち車や飛行機や携帯電話、家の造りなどが異なっているだけのことだと思えないだろうか。根にある想い、すなわち個々人の発する思いの質は、それほど変わっているわけではないだろう。
人々の中で右往左往しながら、その想いと感情に突き動かされながら生活している我々の有り方は、機械があろうと空を飛べようと、ほとんど古代と何も変わっていないかもしれない。
●神とは内にある真我のこと
いわゆる神という概念は、人間の本来あるべき方向を指すべき観念であるが、それが全く違うカテゴリーに追いやられ、祭上げられたのかも知れない。まさに根源のあなたである神も苦笑しているだろう。
しかしながら、その楽しい苦しい笑い話も終わりがくる。人生も始まりと終わりがあるように、時代にも始まりと終わりがある。根にある思想にも始まりと終わりがあり、文明や文化にも始まりと終わりがあるのだ。
なぜならば変化こそが、神たる根源の自己認識作用であるからだ。無限たる自己は変化でこそ、その無限の多様性を表すことが出来る。
●世界よりも、「あなたはどうなのか」という根本的な問いかけ
世界がどうなるかというよりも、あなたはどうするのか?ということを、生れてから自らに問い続けているはずなのだが、無意識の下にしまい込んだり、他の人に押し着せたりした知らず知らずの過程の中にあっても、いつか気づく時が来るものだ。
「わたしとは?」
我々は、ひょっとして今ちょうど最後に問いかけられるような舞台の場面に遭遇しているのかもしれない、そうある意味で間違いなく黙示録の時代にいるのかも知れない。
ひょっとして、宇宙全体があなたや私たちに、問いかけをしているような、そんな稀有な時代にいるのではないか。
これはまさにすごいことなのかも知れない。
(つづく)
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。