気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

(23)五次元認識へ

2021-04-25 08:24:18 | 真我実現シリーズ

現代物理学によれば、時空間の存在物はすべて数種類の素粒子で構成されていて、その素粒子・クオークなるものの振動パターンによって様々な事物が展開されていると言う話である。

さらに、その素粒子なるものはどこから出現しているかといえば、無限のかなたでもなんでもなく、無限の昔の爆発から起きたという事でもなく、いまここの「空間」から滲み出しているのである。

量子論では、真空というのは何もない無の空間ではなく、エネルギーの基底状態の素粒子で充満していると言う風に解釈されている。

無などどこにもないということだ。

 

そこに、ここに存在しているすべての事物は・・既に空間の中に「出現」しているわけだが、それは真空の中に発生する超微細な波動によって構成されているということだ。

あなたとは無関係ではなく、あなたの身体、手足、周りの事物、テーブル、パソコンなども含めて、真空中の超微細なエネルギーの出現形態である。

真空中の基底エネルギーとは、それは有るのか無いのかわからない、存在するのかしないのかの確率で示されるような有様をしているともいえるだろう。

そしてそれらが観測されると、素粒子・クオークというものになり、さらに大きな物質形を形づくっているということになる。

・・・

超弦(ひも)理論では、それらのクオークは粒ではなく、ひもの振動パターンのようなものであって、次元としてはその振動数や振動のパターンに違いよって、最大11の次元があると予想されている。

 

さて、この世界の認識として、そのうちの四次元までが実際に知られているわけであるが、ここまで概略でまとめるとすれば以下のようになるだろう。

もちろんマクロな視点からの一般的な次元の説明であるが、0次元の点が連続して1次元の「線」になり、線が連続して2次元の「面」になるように、低次元の連続体が1つ上の次元となっている。

同じく、3次元的立体・物体が、時間的変化(t)を伴って四次元と認識されているわけだ。

 

たしかに、我々の見ている自然界、宇宙、都会、町、山川もふくめ、様々な動きや変化が起きている。

そのように認識している我々の世界は四次元世界というわけだ。

・・・

さらにこの上が「五次元」とされているわけだが、先端物理の話はさておいて、やはりこの認識の流れを踏襲すれば、

五次元とは・・4次元時空の”連続体”であり、また時間軸tの無数の連続体とも考えられるのである。

 

ということは、

我々の世界認識である四次元時空そのものが、さらに無数に存在するということであり、また各々の時間軸が別個に設定されているため、4次元世界同士での相互干渉などは出来ないものと考えられるだろう。

これはいわゆる「パラレルワールド、並行宇宙」のことだ。

 

それぞれの次元世界は、パラレル・平行線なので決して交差しない。

したがって通常は・・ある世界から他の世界は決して見えないわけであり、その1つの次元の存在たちにとっては、他の世界などあるわけもない・・という事になる。

 

いままでのこの地球の常識?、宇宙には地球と同じ生命体の惑星あるいは次元なんかあるわけもない・・だって全然発見できないじゃないか?・・と言うような話にもなっていたわけである。

これは実に面白い話ではないだろうか?

 

 


(6)無限意識の焦点・わたし

2021-01-25 05:47:39 | 真我実現シリーズ

真のわたしとは、私の個人意識や、また

知覚対象としての”自分の肉体”や”思考”、

はたまた”物質環境、世界・宇宙”のほうではなく、

その ”背後のすべてに完全に一体化” しているところの・・

気づきの総体=普遍意識である

 

そして、その、

普遍意識・・無限意識・宇宙意識・神・が・・”ある”焦点を結んで

まるで私個人として個別化したように見えるものを・・個別意識・魂といっていいだろう。

あなたやわたしたちであり、全ての生命ということだ。

それらは、

膨大な海(無限意識)の上に生ずる、無数の個々の波頭(個人意識)のようなものだ。

 

あなたは、無限の宇宙にあって・・今・・わたし・・個として意識しながら・・

そこから、その次元での無限の顕現宇宙を観ているのである。

個別の焦点を通して・・・無限が・・無限を観ているのだ。

 

宇宙は生命の海のようなものであり、無数の星々の中の・・ほんの小さな小さな太陽の、そのさらに小さな小さな・・地球という点の上に、我々はいるのである。・・意識は・・肉体と違って大きくも小さくもないのが理解可能だろうか?

---------

その無限・絶対・・が個別化したものが個としての生命であり、

さらにそれを自覚している者・・は、

I AM THAT (・・・・)を知っている。

わたしは・・女だ・男だ・・大人だ、悪者だ、善人だ・・日本人だ、何々人だ、地球人だ、好きだ嫌いだ、身長は・・、体重は・・という、

個別の何かに成っているということである。

 

そしてそれを知る者は・・

I AM THAT I AM.  なのである。

 

本来の意識的存在・・人間の役目ともいえるもの、

わたしは・・何かのそれである・・という個人化、個別化をしながら、

その焦点から、自らの創造宇宙を観察あるいは二次創造をしている者だ。

 

特に自己意識の自覚を有する人間は、・・本来ならば・・・、

無限・絶対の個別化した焦点であることが理解可能だろう。

そして、

あなたもそれだ・・と言っているのだ!

 

今までの地球という生命カテゴリーにおいては、

動物の一種、高度な肉体を有する個人であるということだけが、

実に重く、執拗に喧伝されてきたため、

多くがそのように自己認識した世界を創り上げ、

何千年という転生の月日を ”気付かず知らず”・・創出してきた来たのだ。

 


目覚めの道程(16)宇宙意識・わたし

2018-11-03 05:51:13 | 真我実現シリーズ
宇宙意識という言葉は、あの無限の宇宙の意識だろうか、
ならば、なんと壮大、巨大なのだろう・・と考え感じ入るかもしれない。
地球、太陽系、銀河、銀河群を含む、宇宙大の「意識」であると考え、
そうして、それに比べて自分なんかなんとちっぽけなんだろうと、
まるでパスカルの葦ように考えるだろうか。

しかしながら、
それもまた3次元的思考に過ぎないのである。

無限大の「宇宙」の中に、自分という小さな「肉体」が存在する、と。
無限大の中の、1個の・・肉体・わたし・という比較思考が起きているのである。
大きい小さい、重い軽い、遠大、卑小という物理的な思考・感覚が起きている。



もちろん我々は目の前に多次元的宇宙を目撃をしているのだが、
それを見ているのが、私という”肉体”だという視点でいるということだ。

視点というか観点というか、そういう”意識的”感覚思考といっていい。

宇宙を見ているのは個人の肉体である・・、
いや、もっと高度に言えば?、
外の世界を認識をしている、肉体内部の「頭脳」だとそう思っている。

どこかの偉い先生風に、もっと言えば、
すべてはある種の物質が別の物質と反応しており。
”あなたは”その高度に組織化された「肉体」だとしている。

そこにある視点の要約をすれば、
わたしたちは肉体であり、五感経由でその肉体の外側と反応している。
そしてその反応を無数の情報として、身体・頭脳が処理をしている。
・・ということになるだろう。

あなたや私たちの日常の生活の、ちょっと科学的な説明である。
あー、なるほど・・という話ではある。

これは肉体的な反応の過程を調べた科学的成果といえるが、
ここで、いつの間にか・・この思考過程において、
<わたし>が・・肉体・頭脳にという物質形なっているようだ。

気づけるだろうか?
私は肉体である・・という前提というかそういう思考、

いったい誰がそれを真実と言っているのだろう?
誰も言ってはいない。
TVも先生も、隣の人も、通行人も誰も言っていないが、
漠然とした、しかし実に強固な人類の想念形態である。



科学や医学で肉体や宇宙の観察や説明が行われているが、
「わたしは肉体である」ということではない。

繰り返すが、「わたしは肉体である」・・は「思考」「観念」なのだ。
観察によって起きる想念・・観念といってよい。

つまり、多くの人の陥っている、<わたし>・・に関する、
思考の短絡的誤認識の話をしているわけで、
これは真剣に吟味、熟考することでわかるのもので
ここでは、ただそのことを言っている。

肉体の働きは観察できる、
またそれを組織立って説明も可能であるし、
それがいわゆる科学的認識であるが、

しかしながら・・わたし・・は、いつも・・
気づき、意識している側・・である・・というか、

超簡単に言えば、<わたし>は・・説明者側なのであって、
決して、
説明される<観察対象物>のほうではないということだ。


わたしは肉体である・・というのは、
単なる観念であって「事実」ではないということだ。

そこに観察、認識、思考、想像という”意識的な働き”がなければ、
どんな観念も出来はしないということだ。

理知的な人ならば、
ならば、頭脳が意識を創っているのか?と、
そういうことになるだろうが、
それも思考・認識という「意識」の働きなのである。
・・・
宇宙意識の話であるのに、全然関係ない話ではないか?と
そういう風に思うかもしれないが、

宇宙意識は、・・・
はるか外側、無限の向こうにある、あの宇宙の意識ではないのである。



いうならば、・・
世界、宇宙・・それは・・あなたが気付いている範囲の、
本質のあなたという”無限意識”の投影像なのである。

わたしが見ているすべては・・実はわたし・・だと言われる所以だ。
ここで、わたしとは・・わたしの肉体のことではない。

内部、周囲、遠方・・すべてを含む五感感覚を伴った投影像だ。
そこに観察・認識対象である・・私の肉体も含まれるのだ。

わたしという、気づきの起きている意識の中に、
気づける範囲のあらゆる事象が起きている・・ことを観察・認識しているのである。

そして”気づき”そのものもまた無限としか言いようがない。



今ここに・・在って、この世界の波動の中にいるとしても、
いつも日常に引き戻され、世相でやるべきことをやり、
大勢の人々の、短絡的観念の波のまにまに浮き沈みしていたとしても、
それに流されず、そこに頽(くずお)れることなく、

その今・・ここ・・には、無限が内在していることに、
常に・・今・・気づいている・・のが真のわたし・・である。

真のわたしは・・もちろん現れては消える肉体も、そして宇宙も
その中に内包するところの・・意識だ。

いわゆる神は、あるいは宇宙意識は、
自らの無限性に気付いているからこそ、
無限の宇宙が自然に顕現しつつ、様々な姿を映し出し、
そして目撃しているのである。


あなたが熟睡しているとき、実は世界も宇宙もない、
ただ目覚めている時だけ、世界や宇宙という投影がそこにある。
毎日、毎瞬・・がわたし意識の投影なのだ。

真実はどこか無限の遠く、どこかの時間空間には無く、
常に・・今、・・在るという事だ。









目覚めの道程(15)宇宙意識に気づく

2018-10-23 08:41:48 | 真我実現シリーズ
空(くう)中にある物質・エネルギー形態や、
その位置や変化の相互関係は観察・観測・測定できるが、

無限の空(くう)自体は・・知覚も測定も観測もできない。

なので、空(くう)はなんとも説明も記述もできない。
ただ・・ある・・としか言えないそれだ。
物質形態がそこに存在できる・・スペース、無次元、無限、の母体・・とでも言える。

ここでは空(くう)という風に言っているが、
実際・・それ・・とでもいうしかない・・それだ!(笑)

あなたは空(くう)が見えるか?
空(くう)がつかめるか?
空(くう)を触れるか?
空(くう)を嗅げるか?
空(くう)の味は?

いいや、できるわけもないが、
我々はこの無限の空(くう)の中にいる。・・・
いや、中というのも変で、
外や内、ここ、あそこという2元性の表現では不可なので、

わたしたちは、まったくの無限の空(くう)の中・外ではなく、

まったくの無限性・・そのもの・・という以外にない。

そして、
その無限の空(くう)の中に様々な物質・エネルギーが出現消滅している。
我々の身体でいえば、
物質性はその0.000・・・1パーセントの占有率でしかないが、
それ以外のほとんどすべてが・・空間である。

宇宙もそうだし、我々の肉体、そして想念、心もそうだ。

さらに、
想念、思考、イメージ、そして情報も知覚対象であり、
空におけるある種の存在形態である。

もちろん五感で知覚可能ではないが、
あなたは自分の想像、イメージに”気づいて”いるだろう。
五感で知覚できるあからさまな物質次元の”物体”ではないが、
それも一種のエネルギー・波動であることは明確である。

それらはあなたの知覚対象であることに相違ない。
それは物理次元とはちがう、
高次元的なレベルでの波動・エネルギーといえる。


それらの波動・エネルギーが無数に出現・消滅している、
そのもとは・・無限の空(くう)あるいは「それ」である。

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ちなみに、現代科学、量子物理的解釈では、
真空は何もない空間という定義はなされていない。
何も無いように観察されながら、それは全てを生み出す量子で満ちているのである。

(ウイキペディア・日本語版)より参照
現代的な用語法では、「真空」という言葉は「何もない空間」と同義語ではない。真空状態でさえ、空間は宇宙を構成している量子化された場で満たされているのである。真空とはそれらの場が「可能な限り」低いエネルギーをもつような状態であるにすぎない。

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空(くう)には大きさも、重さも何もない、
距離も次元も何もない。
しかしながら、そこから様々な事象・事物・エネルギー・波動、
諸世界、多次元が出現・消滅する。

空(くう)には大きさも重さも距離もない、
あなたの身体を占める空間は、宇宙の全空間と同じ・・
空(くう)であることが理解できれば、
あなたの身体の空(くう)も、宇宙の(空)も等価であることが知れるだろう。

空(くう)自体には、大きさも次元も何もない。


そして、その空(くう)は、意識で満ちている。

なぜならば、宇宙が事物・事象で満ちているからには、
それを知覚している”意識”がなくてはならないからだ。

あなたが人として、
意識によって周囲世界を知覚・投影しているように、

宇宙も”宇宙意識”によって知覚・投影されているのだ。




目覚めの道程(14)時空間は 単なる認識の1様式

2018-10-17 06:04:28 | 真我実現シリーズ

我々が漠然と「空間」と言っているものは、
物と物との間のこと・・空(くう)のことを言っている。

物、物質形は観察・観測・認識できる。
しかしながら・・
「空間自体」は、観察も観測もできない・・空(くう)である。

空(くう)自体は見ることも触ることもできない!
大きさも、重さもなく、姿形もない。
次元もなければ、距離もない。

いや、距離があるじゃないか、机とTVの距離、町と町の距離、
宇宙における星と星の距離があり、移動するには時間がかかるではないか。
新幹線でも東京~大阪間の距離で、移動に時間がかかるではないか。
現実に、空間・距離があるじゃないか・・と。
「東京・大阪間は約550km、・・距離があるじゃないか!」
あなたはどう思う?

空間、距離とは、
物質と物質、その領域と領域の関する「認識」の1つの様式なのである。



ここで、今説明している根幹にあるには、
物質それ自体は、それとして存在しているわけではなく、
それを知覚・認識しているからこそ、存在できるということである。

これを簡単に言えば
「意識」によって「物質」が存在認知される!ということだ。

現実に、あなたが見て、触り、大きさ重さを測り、においを嗅ぐなどしなければ、、
あなたにとって・・その物は存在しないと同じなのである。
同じく、人の集団であれば、多くの人がその物を知覚・認識しなければ、
その物は存在しないと同じなのである。

どのような事象、事物も・・”認識されなければ”存在し得ない。

唯物論的世界観は、時空間のみが存在するいわゆる「4次元世界」観であり、
不可思議にも人間不在の観念体系だ。
人間つまり意識的存在のことだ。
意識を除いた世界観では、機械的なものが機械的に動くだけの世界。

まともな学者も、”意識がどうして生まれるのか?”と、
意識を使って悩んでいるのだ。

最も身近であるそれが、意識それ自身が・・見えていない。
気づけば、実に滑稽な話ではないか?

常識観念世界で、多くの人は、
物がある、事実がある、事件がある、あれがある、これがある、
これらはすべて現実である、事実であると漠然と眺めているだろうが、

それらは永遠の事実でも、不動の現実でもなく、
認識の1様式に過ぎないのである。

認識とは、知る・認める・・という「意識」の働きである。

話を空間に戻すと・・・、
誰が見ても客観的とされる、空間とは
物質と物質の間であり、物差しで何cm、何m、
あるいは電波で、何km、何百km、、はては何光年という風に、
それはいわゆる”計測される”認識されるものである。

つまり、意識の働き、認識の働きがなくて、「空間」は存在しえない。
あるいは、空間とされるものも、意識なくば存在しえないのだ。

また空間としてあるのは、知覚されえない・・空(くう)であり、
それは大きさも、重さも、形もさらに次元さえ知覚されない。

そう、空(くう)自体には「距離」などないということだ。
距離も時間も、意識の・・認識上の1様式に過ぎないのである。

意識において、あれやこれやと考えること、
それをマインド、こころの働きとするならば、

「時・空間」は不動の現実などではなく、
マインドで描いている仮想現実ということになる。
仮想現実、常に変化する現実、・・だ。

そうであれば、
意識がなくば、その対象たる時空間も諸物もない。
あなたがいなければ、あなたの世界・宇宙もない。
あなたの見ている広大無辺な無限の宇宙も、あなたによっている。
そして、
その大勢のわたしたち・・が共同で投影する世界が、今現前する宇宙だ。



すでにあった宇宙の中に、肉体個人としてのあなたが偶然生まれ、
そして死んでいく、刹那的存在でしかない・・という常識思考は、
「わたしは物資・肉体である」・・という根本的な”誤認識”なのだ。

そう、それもこれも、様々な誤認識も含め、
自らが認識主体である「意識」だということの証である。

我々を取り巻く・・と見える世界、時間空間は、
気づきを根源とした意識の働き、認識の単なる一様式に過ぎない。



(つづく)