普段我々が<私>だと意識している『わたし』は、この時空世界に生れてから次第に確立されてきた・・自意識、自己意識のことである。
通常、人は赤ん坊のころのことはなかなか思い出せず、大人に成長するにつれて増える記憶とともに次第に自己意識を育んでゆくものだし、
もし、人にそれらの記憶が無ければ、その人の自己アイデンティティなど定義すら出来ないはずであろう。
それは、例えばわたしは・・・、私の「人生での記憶」を元に「わたし」というものを自己定義しているということである。
あなたはどうだろうか。
普通にいう、わたし・・とは、実際にはこの人生での諸経験とそれに付随する想いや感情の記憶のことである・・・といって良いだろう。
例えば記憶喪失のように、人がその自己の記憶一部を何かの要因で失うか、あるいは忘れてしまうならば、
もはや普通にいう自己人格の定義が出来なくなることはよく知られている。
記憶が無ければ、要は「わたしは誰?・・・ここはどこ?」 ということになるのだ。
それは、
『私は誰だ?』 という問いかけが可能な 『意識』 は存在しつつも、
よって立つところの記憶を失って、自己の一般定義が出来ない有様のことだと言って良いだろうか。
人間がこの世界に赤子で生れるということは、この状態に似ているのである。
すなわち赤子は、自己認識を生みだすところの「意識」はあれども、全く記憶が白紙の状態で生れて来るということである。
たまに自己意識が多少発達し、かつ素の意識と同調している過渡的時期、すなわち幼児期に、いわゆる前世の記憶を思い出す場合もあるが、
この世界ではその多くが多次元的な自己意識の記憶を封印した状態で生まれ、あるいは終生思い出すことなく戻る場合が多いだろうし、
またそういう設定での体験学習の為の時空元であったとも言えるだろう。
しかしながら、今はもうそれが変わりつつあり、人類意識も他生に渡る自己の意識に拡大しつつあるのが現状であると言えよう。
宇宙文明やらUFOやら霊的世界の知識の浸透やら、多次元世界の可能性の認識やらも、その意識の拡大、魂レベルの気付きの延長にあるものなのである。
・・・
赤子には 「俺だ!・・私よ・・」 等という特定の自我意識がなく、そのまま生きている意識、ここでいう<素の意識>だけがあるということが言えるだろう。
あなたもご自分でそうであったし、また親御になれば自分の赤子を観て合点がゆくかもしれない。
赤子の『素の意識』の状態を深く観ずれば、それは実際に神々しいものを感じざるを得ないはずだが、普通はなかなかそこまで理解出来ないかもしれない。
全くの無防備の生命に関して、無条件にかわいい、愛らしい、ほほえましいと感じることもあるだろうが、
それは実のところ、
赤ん坊という、その無条件の存在形態からくる神々しさについての断片的な理解なのだと言えようか。
赤ん坊には当然ながらその時空点に生れてからの記憶があるわけもないが、
それはまたそこを出発点として貴重な体験をすべく、『魂意識』が降下し、敢えて真っさらな状態からスタートしたということである。
その赤子の有り方は、無意識とも言われるような元々の素の意識の波動域から、無限小・無限大を超えるところの周波数帯域まで拡大する『意図』を示しているといえようか。
ある意味で、宇宙創生の第一原因としての、
われ有り!・・であり、 わたしは・・生れたよ!・・なのである。
全包容的普遍意識、即ち神、創造主、あるいは根源意識そのものが、敢えて多方面に発した個別の光というべきものが「魂・意識」と言われるものであるが、
その「魂・意識」とは、この多次元宇宙というか、無限なる自己の姿の投影というか、存在諸世界というか、そういう創造の観察・体験をするための<分化された神>というべきものである。
赤子を観るということは、その 分化された神 をより解り易く観ているということだ。
一は すなわち 多なり・・・・
元はひとつであるからこそ、無限に展開が可能である。
また無限もまた元はひとつであるが故なのである。
もっとも大きい、あるいは真実に近いところの、<あなた>の定義とは、実はそれなのだ。
意識が拡大するその程度に応じて、様々な転生の記憶、様々な『わたし』の在り方に気づき、あるいは云うならば・・思い出してゆく。
そのそれぞれの<わたし>という膨大な数の云わば「光の分化」を、
それ即ち<自ら>であると自覚する方向が霊的進化と言われる大道なのである。
本質において、
あなたは・・・即ち・・わたし・・というのはそういう意味である。
好きや嫌い、右や左、自己や他人、上や下、女や男、富豪や貧民、
不幸や幸福、始めや終わり・・・・それら全ての二元性は、・・・
それを体験するためだけの、あるステップにおける遊戯の仕組みのようなものである。
赤子から始まり老人となるような人生、様々な魂の転生は、本来それを楽しく経験するためのものである。
それをどうしてか、こうしてか勘違いして来たのが今までの、どこか苦しき人類文明であったと言えようか。
しかしながら、
人々の表面的な姿態、地球表面の出来事、世間・世相をみるならば、
未だ、自己がどこから生じているのか、そんなことにも理解至らぬ者も多く、人殺しやら戦争やら嘘の政治やら、ごく一部にで敢えて騒ぎに騒ぎを重ねている風に見えるだろうが、
残念ながら・・・それは最後の乱恥きお祭り騒ぎのようなものである。
山 川 草 木、国 土 悉 皆 成仏・・・、
存在諸物、鉱物、植物、人類皆とも、元はひとつ、本質において、あなたは・・・即ち・・わたし・・である。
好きや嫌い、右や左、自己や他人、上や下、女や男、富豪や貧民、
不幸や幸福、始めや終わり・・・・
それら全ての二元性の為のお拍子、祭囃子(まつりばやし)の楽曲は今まさに消えつつあり、
新たなるステージが立ちあがって来ている。
そのステージとは、
あなたやわたしの、それぞれの 素の意識 から湧きあがるものである。
本当の大人の知恵と、赤子のような素の意識の輝く時代である。
余計な銭や金や富や地位や名誉、権力や支配力等・・・
持ってゆけない物ばかり、
重く沈む想いばかり、
まったくどうでも良いものが、どこか人生の目的になっていたような時代、
そういう流れに流されていた時代、降下次元ともいわれる時代、
確かに、それもまた貴重な経験であった。
・・・・
しかし・・・・古きそれは・・今はもう、
既に終わったことである。
ところで、あなたはどうだろうか。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。