気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

元ひとつ

2013-01-27 10:08:10 | 宇宙的気付き

普段我々が<私>だと意識している『わたし』は、この時空世界に生れてから次第に確立されてきた・・自意識、自己意識のことである。

 

通常、人は赤ん坊のころのことはなかなか思い出せず、大人に成長するにつれて増える記憶とともに次第に自己意識を育んでゆくものだし、

 

もし、人にそれらの記憶が無ければ、その人の自己アイデンティティなど定義すら出来ないはずであろう。

 

それは、例えばわたしは・・・、私の「人生での記憶」を元に「わたし」というものを自己定義しているということである。

 

あなたはどうだろうか。

 

普通にいう、わたし・・とは、実際にはこの人生での諸経験とそれに付随する想いや感情の記憶のことである・・・といって良いだろう。

 

例えば記憶喪失のように、人がその自己の記憶一部を何かの要因で失うか、あるいは忘れてしまうならば、

 

もはや普通にいう自己人格の定義が出来なくなることはよく知られている。

 

記憶が無ければ、要は「わたしは誰?・・・ここはどこ?」 ということになるのだ。

 

それは、

 

『私は誰だ?』 という問いかけが可能な 『意識』 は存在しつつも、

 

よって立つところの記憶を失って、自己の一般定義が出来ない有様のことだと言って良いだろうか。

 

人間がこの世界に赤子で生れるということは、この状態に似ているのである。

 

すなわち赤子は、自己認識を生みだすところの「意識」はあれども、全く記憶が白紙の状態で生れて来るということである。

 

たまに自己意識が多少発達し、かつ素の意識と同調している過渡的時期、すなわち幼児期に、いわゆる前世の記憶を思い出す場合もあるが、

 

この世界ではその多くが多次元的な自己意識の記憶を封印した状態で生まれ、あるいは終生思い出すことなく戻る場合が多いだろうし、

 

またそういう設定での体験学習の為の時空元であったとも言えるだろう。

 

しかしながら、今はもうそれが変わりつつあり、人類意識も他生に渡る自己の意識に拡大しつつあるのが現状であると言えよう。

 

宇宙文明やらUFOやら霊的世界の知識の浸透やら、多次元世界の可能性の認識やらも、その意識の拡大、魂レベルの気付きの延長にあるものなのである。

  

・・・

 

赤子には 「俺だ!・・私よ・・」 等という特定の自我意識がなく、そのまま生きている意識、ここでいう<素の意識>だけがあるということが言えるだろう。

 

あなたもご自分でそうであったし、また親御になれば自分の赤子を観て合点がゆくかもしれない。

 

赤子の『素の意識』の状態を深く観ずれば、それは実際に神々しいものを感じざるを得ないはずだが、普通はなかなかそこまで理解出来ないかもしれない。

 

全くの無防備の生命に関して、無条件にかわいい、愛らしい、ほほえましいと感じることもあるだろうが、

それは実のところ、

赤ん坊という、その無条件の存在形態からくる神々しさについての断片的な理解なのだと言えようか。

 

赤ん坊には当然ながらその時空点に生れてからの記憶があるわけもないが、

 

それはまたそこを出発点として貴重な体験をすべく、『魂意識』が降下し、敢えて真っさらな状態からスタートしたということである。

 

その赤子の有り方は、無意識とも言われるような元々の素の意識の波動域から、無限小・無限大を超えるところの周波数帯域まで拡大する『意図』を示しているといえようか。

 

ある意味で、宇宙創生の第一原因としての、

 

われ有り!・・であり、  わたしは・・生れたよ!・・なのである。

 

全包容的普遍意識、即ち神、創造主、あるいは根源意識そのものが、敢えて多方面に発した個別の光というべきものが「魂・意識」と言われるものであるが、

 

その「魂・意識」とは、この多次元宇宙というか、無限なる自己の姿の投影というか、存在諸世界というか、そういう創造の観察・体験をするための<分化された神>というべきものである。

 

赤子を観るということは、その 分化された神 をより解り易く観ているということだ。

 

一は すなわち 多なり・・・・

 

元はひとつであるからこそ、無限に展開が可能である。

 

また無限もまた元はひとつであるが故なのである。

 

もっとも大きい、あるいは真実に近いところの、<あなた>の定義とは、実はそれなのだ。

 

意識が拡大するその程度に応じて、様々な転生の記憶、様々な『わたし』の在り方に気づき、あるいは云うならば・・思い出してゆく。

 

そのそれぞれの<わたし>という膨大な数の云わば「光の分化」を、

 

それ即ち<自ら>であると自覚する方向が霊的進化と言われる大道なのである。

 

本質において、

 

あなたは・・・即ち・・わたし・・というのはそういう意味である。

 

好きや嫌い、右や左、自己や他人、上や下、女や男、富豪や貧民、

 

不幸や幸福、始めや終わり・・・・それら全ての二元性は、・・・

 

それを体験するためだけの、あるステップにおける遊戯の仕組みのようなものである。

 

赤子から始まり老人となるような人生、様々な魂の転生は、本来それを楽しく経験するためのものである。

 

それをどうしてか、こうしてか勘違いして来たのが今までの、どこか苦しき人類文明であったと言えようか。

 

しかしながら、

 

人々の表面的な姿態、地球表面の出来事、世間・世相をみるならば、

 

未だ、自己がどこから生じているのか、そんなことにも理解至らぬ者も多く、人殺しやら戦争やら嘘の政治やら、ごく一部にで敢えて騒ぎに騒ぎを重ねている風に見えるだろうが、

 

残念ながら・・・それは最後の乱恥きお祭り騒ぎのようなものである。

 

山 川 草 木、国 土 悉 皆 成仏・・・、

存在諸物、鉱物、植物、人類皆とも、元はひとつ、本質において、あなたは・・・即ち・・わたし・・である。

 

好きや嫌い、右や左、自己や他人、上や下、女や男、富豪や貧民、

 

不幸や幸福、始めや終わり・・・・

 

それら全ての二元性の為のお拍子、祭囃子(まつりばやし)の楽曲は今まさに消えつつあり、

 

新たなるステージが立ちあがって来ている。

 

そのステージとは、

 

あなたやわたしの、それぞれの 素の意識 から湧きあがるものである。

 

本当の大人の知恵と、赤子のような素の意識の輝く時代である。

 

余計な銭や金や富や地位や名誉、権力や支配力等・・・

 

持ってゆけない物ばかり、

 

重く沈む想いばかり、

 

まったくどうでも良いものが、どこか人生の目的になっていたような時代、

 

そういう流れに流されていた時代、降下次元ともいわれる時代、

 

確かに、それもまた貴重な経験であった。

  

・・・・

 

しかし・・・・古きそれは・・今はもう、

 

既に終わったことである。

 

ところで、あなたはどうだろうか。

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 


夢のある話 (3)意識による遠隔知

2013-01-20 10:00:46 | 夢及び半覚醒時の体験記録

人間には第六感という感覚機能があり、それを簡単に言えば時空を超えた知覚機能であり、また身近な表現で言えば高次元的な情報送受信機能があるのだが、

 

それは・・・それを認識することで顕れて来る能力であり、また誰にでもある潜在的な本来的な能力なのである。

 

それを気付いて、認めてゆくプロセス、あるいは精神的な修練・修養等を経て顕在化していく性質のものであり、またそれは芸術や創作のように、何も無いところから在るところへ具体化するのと全く同じことなのだ。

 

3次元レベルを超えたような自由度の高い人間としての在り方は、本来特別でも難しいことでもないのだが、いつの頃からそうなったのだろうか。

 

やはり人類意識は直線時間で1万数千年前に次元降下したということも言われているが、多分そうに違いない。

 

宇宙・自然と一体化した中でのそれぞれの個性的意識表現としての<わたし>観から、

 

宇宙・自然と切り離された、個々バラバラの肉体単体存在としての孤独・単独な<わたし>観へと分化する経験だったのかもしれない。

 

そうしてみると、古くから日本という文化を中心として存在する「和」の意識はとてつもなく重要なものであろうか。

 

分化・単体化のサイクルから本来還るべき全体との調和としての『ユニティ』の意識を示していると考えられるからだ。

 

日本での様々な歴史や栄枯盛衰、欧米的な支配や事実の書き換え等があったとしても、

 

そんなことは実際どうでも良いわけで、

 

綿々として残る「和」の中核精神は人々の中に確かに生きている。

 

ここが肝心なところではないだろうか。

 

・・・・

 

意識を広げ、それによって可能となる様々な現象を経験するということは、

 

それは例えば畑に作物を実らせること、水面には見えない海のなかの魚を釣り上げるようなものであり、要は無限の可能性から1つ1つ具体化する創作、創造と同じものなのである。

 

私は実際に念写を試した経験があるため、意識がエネルギーを生じて直に現象化することは断言が出来る。

 

テレパシーや、以心伝心、読心、シンクロ二シティ、正夢・・・等と呼ばれる一種の超常的な現象と言われるものは、すなわち、時空を超えた次元からの意識的なアクセスによるものと考えた方が解り易いだろう。

 

また3次元的な有り方では理解不能な念力や念写、テレポート等も結局は高次元的な意識領域からのアクセス・現象化によって行われると言えるのである。

 

高い次元と言えば、それこそ何が何だか分からない別の世界、あちらの範疇に押しやっているのが常でもあろうが、

 

人は、今ここに・・・いながら、実はより高い意識次元にも確実に接続されているのだが、どうしてかこうしてか普通の我々の「今の意識」がそれに気付いていないということが言えるのだ。

 

それは例えば、

 

インターネットは使っていても、光ネットワークやら通信プロトコルなどの全包容的な背景インフラことは何も知らないのと同じようなものであろう。

 

また海の中にいる魚が水を求めて探し回るようなものだろうか。

 

我々は全てを包含し、全ての事象の元である「意識」の大海にいるようなものなのだが、今までは人間の五感という狭いフィルターを通じてのみ世界を観察していたし、それが全てだと思い込んでいたということなのだ。

  

今はもう、顕れた物質形態、量的表現に先立つところの意識の働き・精神的な領域への飛躍の時代が来ていることは疑う余地がない。

 

それを次元上昇という表現も可能である。

 

相変わらず回りの世界が変わっていないと思う人は、同じく相変わらず現象の方に眼を奪われ、そちらに意識をなびかせているわけで、

 

人々の内面にある・・・微妙で微細な、かつ現象化への影響力の極めて大きな意識的変容・・・を見逃しているのかもしれない。

・・・・

 

どのような体験、経験であっても、

 

意識的に何を正しいと信じているか、何をベースに考えているか、何が常識であると思い込んでいるか、というような信念あるいは固定された常識的観念によって、我々の経験にフィルターが掛かるのである。

 

観念のフィルターに全く透明感がなく、暗くて淀んだものであれば、我々の経験自体が暗くて淀んだ現象を体験することになるし、

 

重い・想いの観念のフィルターに気づかないで、暗い暗い・・・と嘆いていることを例えて、

 

闇の荒野でさ迷っていると言い、また、

 

観念のフィルターを浄化しつつ意識が拡大し、様々ななことが次第に明らかになって来たことを

 

眼が覚めた・・・・と表現しても良いだろう。

 

それはひとえに、それぞれの人の意識が拡大しつつ遂げて行くべきものである。

 

ーーーーーーー

 

前置きは長くなったし、話が全く飛んでしまうのだが、若いころに火星とおぼしき世界にリモートアクセスしたような意識体験を話そうと思う。

 

それはこういうことだった・・・・。

 

学生当時ご多聞にもれず、Jアダムスキーのコンタクト体験記や宇宙哲学なるものも興味を持って読んだ記憶があり、

 

大学で物理学を専攻し、何事も実際に確認し、納得しないでは決して信じないタイプのマインドを持つ私としては、

 

その真実に迫る感のある書物の中身の話と、地球上の天文学的常識見解とのギャップが大きいことに気付き、何とかことの真偽の確認が出来ないかと思っていた。

 

アダムスキーの宇宙人とのコンタクトでは、火星にも金星にも知的生命体がいるということだったが、地球の科学的な常識ではどちらも人など住むことは出来ない環境であるとされていた。

 

この認識?ギャップは何だろうか、と思っていたのだ。

・・・ 

しかしながら、少なくとも昨今の火星観測では、どうもそういう風な生命など存在出来ないというような常識が・・次第に・・薄まって来ている感もあり、例えば火星の空は青く、何かの文明かその痕跡や、動植物の生息もあるような雰囲気があるようだ。

 

・・・・

(火星への意識旅行)?

蔦の・・からまる・・?学生時代(1970年台)なのだが、家の自分の部屋で寝ころんでいた時に、

 

少しウトウトするような、しかし決して眠っていない状態、雑念も少なくなり、体も緊張感が無い状態になってきた。

 

その時に 「そうだ火星に行ってみよう」 という、顕在意識では到底考えつかない・・不埒な?想いを持った瞬間だった。

 ・・・

ふと気付けば大気圏遥か上空、地球全体を見るような視点に自分があり、

 

次に、

 

あっという間にその地球が横に縮んでしまい、縦長の楕円形になったその瞬間・・・

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なんと、

 

既に地球ではないどこかの星の大気圏上空にいて、その星の上空から下降をしているようだった。

 

大気圏下を見下ろす丸い輪の中の視野であり、まるで宇宙船の底部の丸い覗き窓、観察窓から覗いているようなものでもある。

 

その底部の丸い大きな観察窓の視野の中に、何か無数のきらきら金色に光るものが浮遊しており、自分の視点が降下するのに合わせて随伴しつつ降下しているようである。

 

・・・

気付いたら、もうどこかの地表面上にいたようである。

 

雰囲気はどうかと言えば、・・・予想外ではあるが、

 

実に緑が豊富であるという実感であった。(え?、ここは本当に火星なのか)

・・・・

そしてその瞬間に頭の中というのか、意識というのか内面に強く何かが響いてきたのだ。

 

それは、深い緑を背景にしてこちらに気付いている・・何かの意識であり、

 

「おまえは何者か!?」

・・と、強く問いかけてきた。

 

それは思念のような明確で直接的なイメージであった。

 

どこからかやってきた者に対して、問い正すような強い感覚であったため、

 

自分ながらびっくりこいて、思わずとっさに、

 

「ち、地球から・・来た」(汗)・・・と答えたのだった。(結構横柄な答え方だが慌てている証拠である)

 

その時、何か阿吽(あうん)の感覚というか、納得というか、そうか・・というようなイメージがほんの一瞬来たようだった。

 

・・・ 

その瞬間、・・部屋に寝ころんでいる自分に意識が戻ったのだった。

 

ーーーーー

 

ほんの一瞬で、たったこれだけのことなのだったが、尋常ならざる内的体験と考えざるを得ないのも事実である。

 

コマ送りの漫画のような動的ビジョンの断片的な連なりであるが、白昼夢、夢想、想像とは違うし、完全に眠っている状態で見ている夢でもない、いわゆる半覚醒、変性意識での経験であることがわかる。

 

解った風に意識的なプロセスを言えば、

 

①変性意識において、 (ある意識状態)

②火星の内実を知ろうとした。 (ある意図をする)

③リモートアクセス、ビジョン的な旅行、転移 (その意図に沿った現象化)

④火星の総合意識との遭遇 (目的・対象とのエンカウンタ―)

⑤帰還 (意識が我に帰る)

・・・

ということも言えるだろうか。

 

これで得られた・・と思われる情報としては、

 

意識レベルでの情報取得や、それを象徴化、ビジュアライズした意識旅行的プロセスは時間と空間に左右されないということ、

 

以前太陽に行った?の記事でも示したが、例えば惑星という巨大形態であっても集合意識というか総合意識、(地球でいえばガイア)と呼ばれるような惑星意識があるということ。

 

赤い惑星と呼ばれる火星には緑、生息植物が存在すること。

 

・・・・等、ということだろうか。情報量としては少ないが意外な内容を含んでいる。

 

火星には濃い緑があるという知覚情報があったのが不思議なところであり、昨今の様々な火星探査機やキュリオシティ等での観察報道では、そんな豊富な植物生息の情報は出ていないようでもある。(表面上そうしているのかも。)

 

ひょっとして、現在でも火星の一部には豊富な植物が生息するのか、

 

あるいは、

 

アクセスした火星での時間軸のずれがあったのか、例えば過去とか未来、またはそれを包含する惑星の時空周波数帯域を構成する別次元層へのアクセスだったのか。

 

つまり火星の次元の異なる領域、時間軸のずれた領域へのアクセスだったのか、

あるいは、はたまた、好奇心が嵩じて夢の物語を潜在意識が造り上げたのか。

 

・・・等など、あれこれと左脳は考えるわけだが。

 

・・・

自分で知ろうと思ったならば、当初はほんの少しの情報であるかもしれないがそれを知ることは出来るものであるし、

 

また少し知れば・・・・またまた謎が深まるのも真実であり、

 

それらの断片を寄せ集めて行く意識的行為、行動、意図によって次第に世界と自己への認識が拡大してゆくものなのだ。

 

リモートビューイングに関しては、Jマクモニーグルやディムス少佐等が有名であるが、ちなみに10数年前に発刊されたアメリカのリモートビューイングに関する書物の中には、火星のことも描かれていて、

 

かつて高度な文明があったのだが、ある時の宇宙的な異変(隕石・遊星の近接近)によって滅亡した経緯だとか、

 

火星の人面顔とピラミッドに関わることや、他の宇宙文明によるの援助活動等の記事も出ていたと記憶している。

 

またリモートビューイング・遠隔透視に関しては、時間と空間を超えた働きがあるため、必ずしも現時点での情報を採取しているとは限らないということらしい。

 

マジに考えれば、頭がくらくらするようなことにもなるのだが、左右脳が連動した「意識」の状態は時間空間を超えることは実際そうなのだろうし、それに左脳が反応するとクラクラとなるか、あるいは完全な無視を決め込むことになるらしい(笑)。

 

普通の夢であっても、実際は、何かの次元か世界か、あるいはフォーカスレベルでの意識的『経験』なのであるが、

往々にして表面意識に解り易い概念や知識・イメージに変換されてしまうか、あるいは記憶から抜け落ちるか、そんなふうなことになっているようである。

 

夢も夢々おろそかにせず、しっかりと認識、評価、分析をする必要があるのだが、それを価値のない、何でもないものと決め込んでいるのが大方のようである。

 

夢で代表されるような様々な意識レベルの中には、例えば未来や過去を見通すことのできる魔法の杖?があるようなものなのであるが、表面意識の無理解と無知、あるいは先入観念によって、

 

文字通り「眠っている」のである。

 

・・・・

まさに、謡曲・・敦盛のごとく、

 

・・・・

  

思えば此の世は常の住み家にあらず、

 

草葉に置く白露、水にうつる月よりなおあやし、

 

金谷に花を詠じ、栄花は先立って無常の風に誘わるる、

 

南楼をもてあそぶ輩も、月に先立って有為の雲に隠れり、

 

人間五十年、化天の内をくらぶれば、

 

夢まぼろしのごとくなり・・・・・。

 

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夢のある話 (2)変性意識

2013-01-14 11:38:14 | 夢及び半覚醒時の体験記録

人々の普段の意識状態は五感によって体得される日常経験とそれに対する想い、感情で構成されている。

 

これをいわゆる顕在意識とするならば、その顕在意識に対する潜在意識が既に知られているだろう。

 

顕在意識は、知覚の表層に浮き出ている氷山の一角のようなものであり、知覚の表層以下に存在する膨大な意識領域のことを「潜在意識」と言う。

 

ある意味、<忘れ去られた意識領域>とでも言えるだろうか。

 

この「潜在意識」のいわば開発自体が<意識の拡大>といっても良い。

 

顕在意識から潜在意識への拡大は、変性意識という機動的な意識によって行われることになる。

 

変性意識とは、変な性質の意識状態ではなく、意識を自己修正・制御しながら調律し、意識の窓枠を広げる作業とも言えるだろう。

 

確かに日常のβ波的な乱雑な意識状態ではなく、

 

ゆったりとして全方位的に敏感というか、気付きの張ったというか、

 

変な先入観や既成概念の薄まった意識というか、

 

そういう意識的在り方の状態を変性意識と言って良いだろう。

 

解り易く言えば、脳波的にはα(アルファ)波~θ(シータ)ということだ。

 

古代からの瞑想や座禅、様々な修行は、自己意識をこういう拡大された意識レベルに持ってゆくことを目指したものであったのだ。

 

ロバート・モンローの創始したヘミシンクという技術は、左右耳から周波数のずれた音を聞くだけで自然にそういう瞑想状態に誘導することが出来る。

 

わたし自身もすでに経験済みであり、その効果は確認しているつもりである。  

 

 

過去の歴史での多くの霊的教師達、霊的開拓者や真っ当な段階の宗教者達は、何も特別な類の存在というのではなく、顕在意識が潜在意識領域まで相当に拡大した人々であったという言い方も可能だろう。

 

またその潜在意識なるものは、単に個々の人間の頭脳の中の体験記憶の集まりというものではなく、さらに時空を超えた広大なレベルのものであるということが解って来ているのが現状である。

 

実際にその意識は宇宙的なつながりを有している。

 

臨死体験の統計的研究や、前世の記憶を有する人々の調査、退行催眠による生れる前の情報の体系的研究は、既に前世紀から行われているのだが、

 

ことは「意識」に関する事柄であり、どこか心理的、精神的な色合いが濃いこともあって一般大衆への提示が難しいという状況とも言えるだろうか。

 

自分で調べるなり、あるいは断片的であっても意識経験を経ていなければ到底理解が出来ないことかもしれない。

 

あなたはどうだろうか。

 

・・・・

要は意識的な分野の開拓は、外からの情報集積だけでは意味をなさず、おのずと自らの体験・探求によって行われるべきものであるわけで、

 

自己の本質に関する知識がどこかの権威によって与えられるのを待っているような他者依存的なものではないということである。

 

意識的存在である人間は、ある精神レベルに至れば、自然におのれの内面方向にその探求意図を向けなければならないということであり、

 

またその内面といわれる方向は単なる心理的な事象の集合ではなく、実際のところ、我々の五感に映る宇宙、そして普段は気にすることもない多次元世界とも、あたかもメビウスの輪のようにつながっている気付きに至るということである。

 

そして我々の顕在意識、今・・・この瞬間の意識・・・こそが、そういう無限に広がる世界を捉えるところの、

 

まるで遠近両用、フォーカス自在、あるいは3次元的時間空間というカテゴリーをも超えた波動帯域にアクセス可能な、意識的<望遠鏡>のようなものと言えるだろう。

 

世界で肝心なのは、物、量、現象化された事象ではなく、それぞれのあなたの「意識」及び「意図」にあるのだ。

 

これは唯心論でもなく、唯物論でもない。

 

意識の展開せる世界の中に、マインドもあり物質顕現もあるということである。

 

・・・ 

 

もっとも受け入れやすいかもしれない表現をすれば、意識の拡大はすなわち右脳的な働きを増加させるということだろうか。

 

我々は直感イメージや直接知、ダイレクトな情報授受のような右脳的な働きよりも、左脳的な論理や分析、解析や分解等のような、直前の物質形態の知覚のみを重要視してきたわけだ。

 

つまり現代機械文明はいわゆる左脳的なものに偏った、極めて刹那的、場当たり的な、なるほど確かに功利的な文明であったと言えようか。

 

その左脳的な文化・文明を構成してきた人類集合意識が、今大きく変容をしつつあるのが現状であり、右脳的な直接知、直感理解、感性というものの復権と同時にその右と左のバランスをとれるような人々が増えつつあるということも言えるだろう。

 

それは単なるバランス・平衡ではなく、時空を超えた働きをするところの右脳的な直接知や、阿吽で生じる深い理解を含めたところの、1段レベルアップした意識存在への移行である。

  

スピリチュアル系のアセンションとは本来そういう意味であろう。

 

何かが勝手に起きるのではなく、それぞれの<あなた>の意識が拡大するということであり、拡大された意識での体験は、今までのことを含めつつ、必然的に更に自由度が増大した世界が立ちあがってくるということなのだ。

 

世界を見て聴いて、知覚しているのは、常にそれぞれの<わたし>なのである。

 

わたし・・・という知覚主体、あるいは想いの発振ベースが変わるからこそ、その知覚認識ワールドは変わってゆくようになっている。

 

ちっぽけで小さな存在であると教え込まれた感のある世間教育のことは全て忘れる方が良い。

 

誤解無く理解・感じるべきものであるが、

 

お釈迦様も言ったように、「唯我独尊」なのである。

 

あるいは「唯我独存」とも言えようか。

 

 

・・・・

前置きがかなり長くなってしまったが、

 

例えば瞑想やヘミシンク、そしてある種の眠りの状態等を通じて、

 

人が内面に意識的になると、

 

その内面から生じるところの、

 

直接的な知覚、リモートビューイング的な画像情報、いきなり意識に顕れるようなクリアーな想念のようなもの等に気付き始めることになるだろう。

 

なにしろ、自己内部にスマホを持っていることに気付く訳だから、半信半疑ちょっといじってみようということになる。(笑)

 

・・・

自己の意識に敏感になり、内観を重要視するようになると、気付ける範囲だけ色々な内面情報が入ってくることになるのだが、

 

最初は慣れ親しんでいる現実との脈絡のないようなびっくりものもあるわけで、そうであってもそこで決してひるんでいてはいけない。(笑)

 

あーこれは盲想だとか偶然のイメージだとかと決めつけてはいけないし、またその情報そのものを正しいものだと決めつけてもいけないのだ。

 

決めつけは・・・個人都合の解釈にも絡み、せっかくの有意味情報に歪みを生じることにもなる。

 

「あー、なにこれ・・・ふーん・・」程度がちょうどいい。

 

また、

 

新しいもの、よくわからないものに対しては「恐怖」がついて来るのが常であり、その恐怖にひるんで、その方向から逃げてしまう場合が多いはずだ。

 

そう、「恐怖」こそ先ず克服すべき意識の歪みであり、それらは往々にして、

 

子供のころからいつの間にかとりこんでしまった歪んだ世界観、

 

競争や闘争、弱肉強食イメージの世界、ちょっと間違えば不利益をこうむってしまうような油断のならないオドロオドロしい世界観から来ているようである。

 

ロクでもない学校や組織でのいじめや競争、バトルを礼讃するような風潮は、その根底にある怖れから自由になろうとする、方向違いの無知の頑張りのようなものなのだがそれすらも気付いていないかもしれない。

 

そういう世の中の波風に当たってこころを歪ませた場合もあるはずだ。

 

怖れとは、自己保存本能とも言えるのだが、これが現代文明によって度が過ぎてしまい、身近で既知の安全の範囲に閉じこもろうとする傾向があるということだ。

 

これは怖れによる、意識的自己幽閉と言うべき状態である。

 

意識的自由度を拡大する行程の第1関門は、この「恐怖」である。

・・・

 

ということで、びっくりするような意識的な経験、まーESP的ともいえる情報取得かもしれないところを紹介しようと思う。

 

1つは、以前の記事に出したように、太陽に行ったというものだ。

 

行ったといっても肉体を伴って宇宙船か何かで<行った>わけではなく、ある意味でそれは夢だといわない限り、結構理解不能であることは自分自身がよくわかっている。

 

ただ非常に重要だと思われることは、その意識的経験の中で得られた”ものすごい”ほどの「愛」「慈悲」のような感覚だった。

 

太陽の内部エリアを飛翔する<わたし>の視点の範囲に存在した人のような者達、地表とおぼしき当たりにいる大勢の人型が一斉に手を振る情景は、例えばあの「幸せの黄色いハンカチ」という映画であった場面の何十倍もの感動があったのだ。

 

人には毎日誰でも無意識のような就寝状態から、次第に目覚めて来る段階があるのだが、特にその半覚醒意識の時には・・このようなこと・・文字通り・・眼が覚めるかのような意識的な経験が起きる場合がある。

 

ほんのちょっとの時間であるこの半覚醒時には、まるで時間が無いかのような感じで、様々なビジョンや直覚知がやってくる場合が多いのである。

 

特に夢と同じようで、実は夢とは異なるフェーズのビジョンのようなものは、昨今知られるようになった「リモートビューイング」のようなものだとも思われる。

 

またそれは時間と空間を超えたレベルからのアクセスのようだ。

 

いわゆる意識的体験なるものは、言わば高次レベルからの観察とも言えるものであり、

 

過去から未来に流れていると感じている3次元的な直線経過や歴史や、何km何光年などといった空間の距離といったものを超えたところからのものであるといえるのである。

 

ちょっと記事が長くなってしまったし、ここまでまともに読んで下さった方は、

 

少し頭がふらふらしてきたかもしれないが(笑)、面白い夢の話であると捉えるのも自由であるし、何事も無理がない程度に接するのが良いと思う次第である。

 

これは夢のある話なのだ。

 

また本来世界は夢で満ちているのである。

 

 

 

内面からのダイレクトな知覚情報は、まるでハメ絵パズルのようなものでもあるし、

 

技術者である私の本来の目的であった、現世で役立つ功利的で画期的なアイデアなどは、実際とるに足らないものであったのだ。

 

太陽の他にも、学生時代の頃に意識で「火星」に行ったことや、数年前に「地球に似たような惑星」に寸前まで行った?リモートビューイングのような体験等も次回以降記事にしようかとも思う。

 

またその他にもいわゆるハイアーセルフ、高次の自己ともいわれるものとの邂逅も順次出して行こうかなとも考えている。

 

結論めいてちょっと大きいことをいうならば、それらの内面情報をパズルのように集めると・・・、

 

全ての人々、存在達、すなわち生命達が

 

霊的な進化をするように助け合っている宇宙の有様が浮かんでくるのである。

 

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夢のある話 (1)第六感の認識

2013-01-12 09:34:46 | 夢及び半覚醒時の体験記録

例えば、「夢」 と言えば一般には、何か夢があって良いですね・・とかいうような、非現実的だがどこか希望のあるイメージのことを示す言葉かもしれない。

 

一般に「夢」と称される意識状態で見る様々な映像や疑似体験のような精神活動は単なる脳でのランダムアクセスのような、全く意味のない代物だと思っているのかもしれない。

 

夢はリアリティーというものがない単なる寝ている時の、まあ妄想のようなもの。

 

そういう風な捉え方が一般であれば、それはまるで解っていない見解ということも出来るだろう。

 

それは、今のこの3次元的現実のみが全てであると思い込んでいるところから派生する固定観念ということでもある。

 

要は、肉体表層的な、あるいは慣れ親しんだ範囲の五感の感覚で得られる情報で意識構成されるものが、我々人間の有する世界の全てであるという・・・思い込みである。

 

通常は、「何言ってんの・・それが常識でしょ!夢にどんな意味があるのさ」  となるのだが、ここにも常識というある意味で<非常識な>思いこみ観念で縛られ、意識的に閉じ込められている人間の自縄自縛の姿が浮かびあがる。

 

これを簡単に言えば・・・意識が拡がっていない・・・ということだ。

 

・・・・

まず結論めいたことを言えば、

 

「夢」とは意識のある段階の出来事、あるいは経験、あるいは情報授受のことを示しており、単なる脳内シナプスのランダムな活動の自己完結的な結果によるものではないということだ。

 

いわゆる第六感に属する感覚である。

 

視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚・・・という五感を超えた・・・知覚である。

 

それを第六感とか直感とか、あるいは超感覚的知覚(ESP)とか言っている。

 

夢に限らず、条件反射的なもの以外の・・・内面から生じる様々なメッセージ、イメージ、感覚、思考もそうである。

 

それらは・・・自然な意識状態・・・で湧いてくるものであり、

 

条件反射的な思考や習慣的感情はこの限りではない。

 

例えば、誰かに  怒られた⇒憤慨した・・などの習慣的なものではないということだ。

 

これらが解らないと何が何だか分からず、せっかくの第六感・・つまり超感覚も単なる偶然として忘れてしまうものである。

・・・ 

あまり良い例でもなのだが、例えばそれは多くの人の持っているスマホやIーPadのような端末を見ているようなものである。

 

それらはしっかりとプログラムされ、見る画像は極めてリアルであるし、勝手なランダムな画像・映像再生等ではないことは誰でも経験しているはずである。

 

そういう通信端末装置は、電磁波という波動の一定の周波数帯域に乗せた符号を送信・受信・再生しているということであり、端末機器にその送受信・イメージ画像再生機能が装備されているということに他ならない。

 

それらの携帯端末機器を簡単に言えば、情報授受の為のツールである。

・・・・

実は同じように、人間の潜在機能の中にこのようなものがしっかり組み込まれているということなのである。

 

といっても、どこかに機械が埋め込まれているわけではないのでそういう既成概念で人体内を探さない方が良い。

 

何が無くても<人の体>には元々そのような機能があるということだ。

 

しかしそれらにほとんど気付いていなかったというのが現実である。

 

またそれらの機能に気づいていないが故に、しっかりと自己でプログラム出来ていないあるいは経験を分析していないために、「何かある」のは解るのだが、本当か嘘か、当たりか、外れか・・・何が何だか分からない状態の場合もあるはずである。

 

あーもったいない・・・ということでもある。(笑)

・・・

第六感が働く・・という言葉は、五感を超えた感覚からくる情報の取得が出来るということを意味する。

 

「どうしても・・・どうも?・・・ではないか・・そんな感じ」 という感覚が、実際後で当たっていたということは誰にもあるだろう。

 

「あーカレーが食べたいな・・」とか、カレーのイメージがふと出てきたその日の晩御飯がカレーだったとか・・・これは良くあること(笑)、

 

「あの子どうしているのか・・・」と、ふとイメージが出てきた数日後に何らかの便りか連絡があったっとか、

 

「何だか虫の好かない奴だな・・・」と初対面で感じた奴に、後で確かにいやな目にあったとか、(苦笑)

 

意識にふと生じたイメージに沿った経験や出来事が後で生じたとか、大切な判断をすべき場面で、ふと感じた方向に動いたら結構正解であったとか、

 

頭で考えに考えて出した結論ほど、ほとんど功をなさなかったとか、

 

あるいは、昔からいう「正夢」(まさゆめ)等もそうである。

大なり小なりの、いわゆる<セルフチェック>が出来る人々はそういう経験を記憶しているはずである。あるいはどこか合点がゆく、あるいは腑に落ちることだろう。

 

あなたはどうだろうか。

 

今まで偶然、たまたま、確率で・・と言われた超感覚的事象が、人間の意識の中で有意味な事柄・・・言わば当たり前の現実になって来ていることに気付けるだろうか。

・・・

そうであれば、多分新しい世界というかステージへ移行していることになるだろう。

 

例えば、様々な社会の不正や陰謀、嘘やごまかし等が短時間で暴露されるような状況は、インターネット等を介した大勢の人々の加速された感覚、想念によって生じているわけだが、

 

元にあるのは・・・こころある人々の超感覚的な気付きによるのである。

 

嘘は暴かれるのが早くなっているのだから、もうやめた方が良い(笑)

・・・・

すべての人間の意識活動、それを包含する全一的意識によって生じる森羅万象は、

 

質的内面が拡大しつつ外に展開して顕れる、

 

それが宇宙の仕組みであり、その逆ではない。

 

例えば第六感と言われる本来人間に備わっている超感覚的なものに意識的になることは、

 

今も、今までも既にあった、自己という存在の新たな側面に気付き始めたとも言えるし、

 

また、意識が拡大して来ている・・・とも言えるのである。

 

人間の意識が拡大するからには、その現象世界もその分拡大するのだ。

 

自己の内面意識の変遷を注視出来るならば、それが理解出来るだろう。

 

実に、今肝要なのは、これである。

 

例えば夢も超感覚的なものであれば、夢夢おろそかにしてはなるまい。

 

・・・・

次回はわたしの面白い夢というか、異なるフォーカスレベルの経験というか、変性意識での記憶というか、それらが周波数的に混在したビジョンというか、そういう多くの意識体験記録の一部を久しぶりに記事にしようかなと思う。

 

(つづく)

 

 Anndoromeda

 本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


神さんとの会話 Ⅲ その3

2013-01-05 11:49:35 | 見えないものから見えるものへ

その2からのつづきです。

 

・・・

峠のおやじ

  へえ~、じゃ混乱した観念とはなんでしょうかね。

  これから出てきそうな大混乱した現象に遭遇するのは願い下げですもんね。

  でもま・・、普段色々考えてしまいますが、どう考えればよいと・・・。

神さん

  おい、おい、それは見当違いやぞ、考えてはいかんチューことや。

  それにな・・、あんさん方は自分の考え・・を考えとらんことに気いつくか?

  外からの考えを、自分の考えと思うとるんやないか。

  ニュースや新聞や人の噂や、外から情報なるものを無条件にとりこんどるやろ。

  で、いつの間にかメジャーと言われる観念にとりこまれるんやが、気いついとるか?

峠のおやじ

  あ、そうですね。みんなが言うから正しいのではと鵜呑みするような・・。

神さん

  そうそう、鵜呑みやがな、そういう者は鵜飼に操られる鵜なんよ。

  それにな・・・「みんな」・・なんて有り得んことくらいわかるやろ。

  要はそれが身の安全なのかという、集団思考で動かされているというこっちゃろ。

  そういう場合は「他人の思考」で踊らされているわけよ。 まさに鵜 じゃな。

  ・・・世界の中にあって、これから極めて大切なのは<自己の感性>なんや。

峠のおやじ

  それはそうですがね。でも、

  自己中心では社会で生きることは難しいではないですか。

神さん

  あほんだら!・・もうずれとるがな。誰が自己中心というたんや。

  自己の感性やぞ、自己保身のための自己中やないのがわからんかいな。

  何が真実か・・・という解答を、

  自分の感性、感覚あるいは直感で知ろうとするというこっちゃ。

  1人1人のこういう意識的な姿勢が大切な時代に突入したんや。

  というか、そうあるべき意識レベルのステージに上がってもうたんや。

峠のおやじ

  うあ?・・・あアホンだら?・・。口が悪過ぎ・・・ブツブツ・・・。  

  でもまー、なるほど。そうですか。

  世界に在っても、決して世界に巻き込まれない生き方というわけですかね。

神さん

  おー、そういう言い方もあるか~。・・それにな。

  自己の意識、感性、直感に気づいて、それに沿った生き方をせんことには、

  まこと怒涛のような、カルマの解消のための騒ぎや混乱に巻き込まれるやろナ。

  今は人類進化のターニングポイントを過ぎたによって、ある意味、

  その方向転換の急な加速で振り落とされることにもなろう。

  まあ、例えで言えば、慣性で走る車は角を急に曲れない・・・ちゅうこっちゃ。

  自己意識を持たない者達がそれが安全だとして、

  尤もらしい顔をして、無意識に乗っていた大型バスはもろ危ないワイ。

峠のおやじ

  んん?ん・・、相変わらず例え話でわかりにくいですが・・・。

  ま、大勢の人の乗る大型バス。。とは、

  ・・・例えば今までの常識やら、社会的約束事やら、通念やら

  ・・・そういう価値観とか。

  それから、今までの貨幣中心の考え方や、経済成長一本やりとか、

  はたまた、究極まで富や利益を追求する国家、企業姿勢やら、

  金借りて贅沢をして、少しずつ返せばいいというような金銭奴隷根性、

  そういう人類全体を覆っている、今では常識?の価値観・・・・。

  そんなものが、危ない大型バスということでしょうかね。

神さん

  そうやな、今からは・・・大型の、メジャーな、常識的な、功利的な・・・

  マス・・コミ、マス・・メディア・・、とかいう全体の囲い柵が消えるわけや。

  ある意味で人類を縛っていた呪縛観念の囲い柵や。

  究極言えばな・・・、人間とは物質的動物であるという呪縛観念や。

峠のおやじ

  へっ、呪縛観念の囲い柵・・・ですか?

神さん

  そう、観念の囲い柵やで。

  人と人を共通の価値観に結びつけて縛っている大きな柵や。

  人類の歴史のなかで柵の形は変われども、ずっと続いてきたもんやな。

峠のおやじ

  しかしですよ、お言葉ですが、・・・

  それらは人間達が生きるための社会的な仕組みということも言えるでしょ。

  何でも悪いとは言えないはずですよ。

神さん

  わかっとらんな~。生活の仕組みは仕組みでええがな。

  そうやなくて、柵とはそこから出てはいけないという支配でもあるやろ。

  そりゃ、まるで無数の羊の群れの飼育の為の柵やないか。

  本来人間に観念の柵がいるんかい?  えー?

  特定の観念だけで人生終わって委員会?・・みたいな。

  まあ、結局のところは・・・人間とは何か?  自分とは何か?

  そういうテーマへの気付きから来ているんやな。

  自分が刹那的で偶然の産物・・・、

  また肉体だけの存在であるという自己認識レベルへの固定とも言えようし、

  ・・・意識している・・・当の自己自身に気づいてないということ。

  眼に見える表面の自己を・・自己の全てと認識することが支配的というか、

  それが・・観念の支配・・ということや。

峠のおやじ

  そうか、・・・、そう言えば、中学校の社会教科書で

  「人間とは社会的動物である」

  とかいう、確か、アリストテレスか誰かの言葉がありましたね。

  どうともとれますが、なるほどこういう仕込み方もあるんですかね。

  「人間は意識的存在である。意識において世界・宇宙全てと繋がっている」

  などと教われば、これはもう全然違ったでしょうし、

  そういう方面でより多くの人が、精神的、霊的自己探求等を促すことにもなったでしょうかね。

  まあ、その場合は物質的な富の創出や、

  その為の経済競争、あるいは闘争などは2の次になったでしょうがね・・。

神さん

  そうやな。

  気付かん間に自己限定と特定の方向付けが行われるもんやで。

  良い悪いではないが、それが教育というもんや。・・・そうやろ。

  また世界で行われてきた宣伝、洗脳、集団催眠のようなことや。

  昨今はそれが特に激しいやろ。

  肝心なのは、それに気がつくかどうかや。

峠のおやじ

  なるほどね。さすが神さん。

  目覚めるということは、

  自分を知らず知らず覆っていた自己限定の枠に気付き、

  あるいは、自己をそうやって造り上げている有様に気付くということ、

  ・・・そういうことでしょうか。

神さん

  そうやなあ、そうやって自己限定している自身に気づいてゆくことこそ、

  自己が意識的存在あるいは霊的存在であることを証明しとるやろう。

  

  時代というか、精神波動場というか、情報場というか、

  あるいは、意識エネルギーフィールドというか、

  それが急速なテンポで刷新されつつある時に遭遇しているわけで、

  それがそれぞれの人間の意識場、内面で感じられることが肝要やでな・・・。

  結果でしかない外の一大変化は、いつも遅れて来るやろうし。

  内面を知らぬ者は、その時大慌てに、慌てふためき、

  内面を知る者は、その時何がどうあろうなかろうと、どこか潔くあれるもんや。

  ある意味では、それは武士道精神のようなもんやろうか。

・・・・

峠のおやじ

  時に臨みて、これに慌てず、

  泰然自若、

  あるがままなり。

・・・・

  まさに、だから、それがどうした?  ということでしょうか。

 

・・・

神さんとの会話Ⅲ 

(おわり)

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。