気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

意識の話(50)在るがまま・・

2017-11-25 09:47:11 | 真我実現シリーズ
色即是空という言葉で有名な「般若心経」という仏教の経典があり、
その中身は如何せん、その名前は誰しも多少とも知っているはずだ。

多くの人はそれを過去の教えだと考えている場合もあるだろうが、
そうではなく、まったくいつの時代にも、どこでも通用する教えといえよう。
特に、残り少なくなった感がある、今の末法の時代こそ、
その真骨頂があるといえるかもしれない。

実際、どの経典聖典、も本質は同じことを言っている。
その表現、飾りなどが異なるだけなのである。

銭・金・物に追われている忙しい時代に、何の役にも立たない、
何か難解で高尚な教えであると”考える”こと自体、大きな間違いなのだ。

これなども実に、末法の世、迷妄の時代の特徴であると感じざるを得ない。
本当に、人類はこれ以上はない、とんでもない遠くにきたものである。

別に何かの宗教の宣伝でも、何でもないが、

このサイトには、超わかりやすい解説があるので紹介する次第だ。
宗教的色合いはあるが、興味のある、またゆとりのある人は、
般若心経のエッセンスを理解できるだろう。
また当然ながら、既に知っている方も多いかもしれない。

色即是空、空即是色。
空(くう)なんて言われて、なんとなく怖いとか、
また、なんとなく味もそっけもない感じもするものだが、
シンプルなところにこそ・・真実がある。

この般若心経も、若干の宗教的な色合いを除けば、
「教え」というよりも、時空を超えた真実、
存在の・・在るがまま・・を解説しているものだと知るだろう。

ちなみに、
”あるがまま”とは、
そのまま、のんべんだらり、いい加減でも良い・・ではない(笑)
また、裸のままでもなく、欲望のまま、ひずんだ心のまま、わがままでもない。
好き勝手、思惑次第、勝手し放題ではない(笑)
それはマインドのお遊び騒ぎのことだ。

あるがまま・・とは、
在ること・・その状態のこと・・だ。
そのままとは、まんま在ること・・。

究極、まんま・・在ることは・・
突き詰めればそれは・・空(くう)であること、
またそれは、すべてで充満していることを示す。

あらゆる色を集めれば白になるように、
すべての充満は・・空(から)に等しいのである。

時空も物質も、命も無機物も・・そこから生まれて消えるところ。
消えては生じるところ・・あるがまま・・空(くう)。

逆に、そうでなければ、
どうして様々な事物、事象をその中に包含できるだろうか?
いいや、できはしない。





完全なる空(くう)であり、

同時にあらゆるものの充満でなければ、

この宇宙も、どの宇宙も存在するわけもない。

あなたもわたし達も、在るわけもない。

ましてや、苦悩も快楽もありはしない。

次元も諸世界も何もありはしない。







色 即是 空、空 即是 色、

逆に、色でもなく、空でもない。

これはまた、”不生不滅”と同義だ。

ちなみに、即、とはすぐ、直ち・・にであり、
時間やあるいは空間など超えているということ。

また、是・・とは、ただしい、正(まさ)しく・・で。
まさしく・・ただそうであること、あるいは法則とでもいえるだろう。

let it be,
良いも悪いもない。
偉いも卑賎もない。
すべてがOK。


言うならば、・・ただ在るがままに・・在る・・だ。








追記)量子真空に関する某大学の講義PDFは非公開になったため削除しました。

意識の話(49)眠り・夢・見覚めの あいだ

2017-11-24 08:29:45 | 真我実現シリーズ
人はすでに、意識の観点からすべてを観る時期に来ている。

意識の観点から見れば、わたしとは、
眠り、夢見、そして目覚めた現実という世界にも常在している、それだと気づく。

意識はそれ、眠り、夢見、目ざめの間、常に在るものだ。

そうでなければ、夢見に移行することもなく、
日常というこの世界に再び目覚めることもない。

眠りの間は全然意識が無い・・わけではなく、静まっているだけだ。
それはまさしく、量子真空の状態、基底状態にあるともいえよう。

わたしとは、・・常在の意識、あるいは生命、または存在・・である。

たとえば、人がいつ生まれたのか?という話になると、
この・・「いつ」「ある時」またある「場所」というのは、
常在の意識の・・上の・・ある出来事であるということになる。

眠り、夢、目ざめ・・?
なんという刺激のない話をしているのかと思われるだろうが、
このわたしたちの・・常にある・意識・の事実を知ることは、
何をおいても重要と言わねばなるまい。

重い観念、歪み切った想念のマトリクス世界から、
いや、気づかず知らず行われる、不都合で不本意な輪廻の繰り返しから、
ようやく離脱する意識レベルにまで行くためには・・だ。

そうでなければ、気付くことも、またその必要もありはしない。
・・・

常在の意識、存在、あるいは魂と言おうか、
人は皆・・、ある時、ある所で・・目ざめた・・。
それが生まれたということだ。

24時間という小さなサイクルではなく、
それらを含む、意識・生命の大きなサイクル上での話だ。

この逆は眠り、あるいは死ぬとか言われる意識の遷移である。
生命というのは具象化した肉体形態、知覚している現象・・ではなく、

それらを含む全包容的な意識・生命なのである。

わたしが肉体であるならば、それは生まれて死んで終わりである。
それが世間一般に執拗に信じられていることだ。

わたしがそれを超えたもの、意識、魂、真我・・表現は如何様にも、
そうであるならば、生れて死んでも、

それは <わたし>・の中に起きる出来事なのである。

・・・

もともと、われわれの周り、内部すべて満たしているのは、
空間と言われる、物と物の間・・空(くう)である。
概念でいえば、無ではなく、空の状態のことだ。

空の中に様々なものが出現・消滅している・・、これが現実である。
そこに様々な人間の想いが組み合わされて、追加工されているのが、
この世界なのである。

これは大勢の人が気づいているか、賛同を得るかどうかに関係なく、
また多数決もお墨付きも全く関係なく、
古来から言われてきたこと、
そしてようやく科学技術によっても知られることになった、
真の我々の・・現実であると知らねばならないはずだ。

たとえば、
良く言われる・・現実が、現実が・・という騒ぎは、
実に・・空の中に描かれたマインド、信念・観念・概念の騒乱に過ぎない。
環境の中の身体という五感の知覚によってリアル化されてはいるが、
実際によくよく調べるならば、
いかようにも幻想を創り出す
マインドの物語なのであると気づけるのである。

すべては意識の中にあり、
あらゆるものは、
そこで生じる様々な想念の描く物語である。

そう、いままでは、
物には気づけるが、意識に気づかぬ惑星生命圏であったろうか、
今、それが静かに、大きく変貌していることに気づけるだろうか。



敏感な人たちは、あるいは厭世的な気分の人たちは、
今か今かと言われていた、その大団円たる騒ぎが起きようとしている、
ザワザワした雰囲気を次第に感じ始めているかもしれない。
いや、まったく何も感じさせられないまま、
TVやメディアの吹聴する、いつも何も変わらない、
肉体の快楽を餌にした、負債と消費の刺激の世界にいるかもしれない。


人まで進化した魂は、壮大な想念の創る世界で、
ある時空のある肉体に自己同化する。
生れてから、肉体を自己だと信じるという事、
そうであるからこそ、その肉体の快楽と苦痛の狭間で、
何度も苦しむことになるわけだが、それがマインドがゆえであることを、
この簡単な事実を、肉体自我は何としても認めたがらない傾向がある。
当然ながら、肉体自我は一時の存在であるということを知っているためだ。

自己が肉体、物質であるという信念体系にあるのは、
それはまるで、閉じられた、回転式洗濯機の中でもまれる様なものであり、
頑張れがんばれの見えない掛け声とともに、
生まれて死ぬを繰り返し、一旦歪み切ったマインドが、
洗われつつ、いつかまっさらになるまで、
幾千年も通過するような世界であったと言えるだろう。

意識としての人は、その物語の中で自己自身の臨在観を感じつつ、
また、本来その物語を観照する者でもあることに気づけるだろう。


意識の話(48)想念を見るもの

2017-11-22 07:34:22 | 真我実現シリーズ
主に意識的であるのは、、肉体の知覚や思考・感情が生じる、
いわゆる目覚めている間であることは、やむを得ないことではあるが、
それが持続反復することで、
私とは肉体である・・という信念に固定されるのである。

毎朝目覚めるがごとく、生まれてから物心つくこと、
親や家族のもとで次第に成長してゆく過程で、
その信念が強く刷り込まれてゆく、というよりは、当たり前の真実として、
振り返ることもない、絶対の信念となっているわけだ。

わたしは肉体個人だ、という信念だ。

大勢の集団で漠然とながら、それを当然のように行動しているため、
それが「信念」となり、社会として事実化しているだけの話なのである。
それらの持続する体験と思考・感情の集積が、
この世界での人生なのだ。

しかしながら、
自分が肉体であると・・するのは明らかに「思い」である。
そもそも、思考、認識力・・それらがなければ、何があるだろう。

何も考えなければ、
あなたも単なる「岩」であり、また岩であることさえも自覚できない。
いわば、存在の無・・・である。

・・でもそんなことはない。

朝目覚めてから、わたしは、わたしとしての意識がある。
生まれてから・・わたしは・・ずっと在ると・・意識している。
元のもとは・・そこから起きている。

世界を知覚している、その経験によって生じる様々な「思い」があり、、
肉体を他者と関係なく自在に動かすことができることを見ることで、
わたしは単独の肉体個人であると・・”思う”。

「あんた、そりゃ”思い”というより、事実だろ?」
そう思うものだが、(笑)
そう言うのは・・誰だろうか?
大勢の他人様か?・TVやネットか?・、

いや結局は・・「わたし」・・がそう思っている、
あるいは感じている、いや観じているのである。
思うのは・・それぞれ・・わたし以外にない。

肉体を他者と関係なく自在に動かすことができることを観察することで、
わたしは単独の肉体個人であると・・”思う”。

ところが、よくよく観察すると、
そこには世界を”知覚すること、自他を観察すること”がある、
そして、知覚する者、観察する者がいる・・ことに気づけるだろう。

それが”わたし”といわれるものだ。

肉体の姿かたちも観察対象だし、
皮膚の感触も、五感での経験の同じく・・知覚、観察である。

もとにあるのは・・
気づいている・・意識している・・だ、

意識による知覚、観察、経験の次に、
それに対する「思い」が生じるのである。
「奴は嫌いだ、わたしの顔は美人とは言えない・・」等だ。(笑)
次といっても、ほぼ同時であるため、
深く自己の内面を見なければ・・ナカナカ気づけない。

このため、昔々から自己観察、修練、瞑想などというものがある。
自己を観察せずして、どうして本質のわたしに・・気づけるだろう?

勝手にいうのもなんだが・・・、
ある意味で、「こういう記事、なんか、やばくね?・・」と感じるならば、
それは肉体自我が敏感に反応している証拠であろうか(笑)。
実に肝心なところかもしれない・・・、

・・・
私たちのありさまを、よくよく観察すると、
そこには世界を”知覚すること、自他を観察すること”がある、
そして、知覚する者、観察する者がいる・・ことに気づけるだろう。

者・・というけれど、誰かの個人、私個人・・ではなく、
それが普段、多くの人が感じている・・わたし・・である。

わたしとは・・意識・気づきから・・生じているのだ。
その・・わたしの周囲に・・様々な思考や感情、思いが渦巻いている。
色々な思い・感情という「取り巻き連中」である。(笑)

そのさまざまな思いや感情で色付けされ脚色されたもの、
あるいはこの世界特有の支配的観念で加工されたものが、
私という肉体個人・・である。
・・・
原初の・・気付きによって、
充満する空(くう)から生じた意識の波紋、
それらは十重二十重の想念の波となって、
諸世界という無数の物語を創り上げている。

この世の目覚めも、壮大なその物語の1幕なのである。

むろん、この世界にあっても、
量子真空ともいわれる空(くう)に生じる、微細エネルギー、
あるいは意識の波によって創られた、
実にリアルでありながら、決して不変なるものがない、
いわゆるところの幻想世界なのである。

様々な世界、人生物語を創っているのは誰か?
実際に、わたし・・・の想念が・・その作者なのだ。

この世に在る・・ことも、それがゆえだ。






意識の話(47)眠りとは何?

2017-11-20 05:53:47 | 真我実現シリーズ
深い眠りの間、
肉体の見地からは、たんに肉体が休んでいる・・というが、
”意識”の見地から見れば、
熟睡中、・・そのとき  ”私個人”は存在していない。

意識がない・・という表現をしているが、
私個人・・自体が知覚されていないわけだ。

深い眠り、その間、そこにはどんな存在もない。
つまり何かを知覚すること、存在として認識する何物もないのだ。
そうではないか?

自分もそうだったのだが、多くの人は、
毎日毎日これを経験しているが、ほとんど気づいていない、・・

熟睡中は・・どんな物事も、なにも無い。
私個人、他人個人、世界、時空も何もない・・!

これは実に驚くべき事実である。
そして誰にもある”実体験”である。

意識的実体験でありながら、それ自体に気づいていないのは、
つねに、私の外側から観ていたからである。
他者の目線から・・・わたし・・を規定していた。

わたし・・・意識から・・内面から観ていなかったからだ。
簡単だが、簡単過ぎて本当に気づけない。(笑)
これを読んでいる人も、マジ気づいていないかもしれないが。


深い眠り、その間、そこにはどんな存在もない。
つまり何かを知覚すること、存在として認識する何物もないのだ。
深い眠り自体が・・空(くう)であるということだ。

つまりすべては・・空(くう)、
それを、人によっては”無”などというが、
毎日、毎瞬間、それを通過しているということだ。


特に、深い眠りの間、私としての自意識は無く、
その意識による物事の知覚もなく、
したがって、
また時間経過も、空間の広がりも・・何もない。

目覚めると、いつもの時間空間が立ち現れる・・・!
3次元レベルでは、その逆だと・・信じられている・・が、
よくよく観察すれば、
外側からの、他者の話からではなく、大勢の外側の意見でなく、
わたし・・意識・・という存在形・・から見なければならないのだ。

世界があって、人はそこに生まれては死ぬ、小さな肉体存在だ・・・、

これは ” 実に深い刷り込み観念” であり、
逆に、またそうであるからこそ、
その信念に基づいた不自由で、肉体生存バトルに満ちた、
地球文明というものが創造されていたわけだ。

しかしそれは1つのカテゴリー世界に過ぎず、
これだけが絶対だなどと・・いうことではないのは明々白々である。

・・・・
浅い眠り、夢見の時は、
それ、夢を”見ている”というように・・
何事かの意識的な知覚経験の場にいて、
わたしたちは何人(なにひと)か、何事かの経験をしている。

それが現実生活といかに遊離した環境設定であろうとも、
ぼんやりとした場面や、あやふやな関係性であろうとも、
わたし・・”意識”が、どこか・何事かの経験場にいるのである。

そして、夢見の時は、その意識経験を”記憶”している。
どこかで記憶しているからこそ、朝目が覚めたらそれを”覚えて”いるのだ。
そう、夢見も内面での知覚・経験である証拠である。
しかしながら、その時には日常の肉体感覚はない。

深い眠りの間、私としての自意識は無く、
その意識による物事の知覚もなく、
したがって、
また時間経過も、空間の広がりも・・何もない。

また深い眠りであるがゆえに、
身体も精神も静寂でリセットされ、復活され、
再びリフレッシュされて現れてくる。

「あー、よく寝たなあ」
目覚めた後は身も心もすっきりしているだろう?

身体の不調や精神の歪も、毎朝目覚めた後、
その瞬間には浄化されているのだが、
再びいつもの習慣である想念が振動をはじめ、
再びいつもの習慣感覚に舞い戻るのである。

「あー、そうだった、あれをやらなければ・・」
「おー、忘れていた。あの問題があった。」・・etc。

生活を維持するためにという想いによって、
またその意識状態に舞い戻るのが常だ。
そうやって少しづつ変化しながらも、
肉体の耐久時間を使い切るまで、毎日の生活が繰り返される。
それを人生と言っている。

深い眠りの時は、肉体の感覚よる知覚作用がなく、
またそれに伴う様々な思考、感情もない、
つまり想念も無い・・。

それは・・「空(くう)」だ。

存在の絶対無・・永久の無・・ではなく「空」である。
そうでなければ、再び目覚めることもない。
そうではないか?

無とは、それ・・”無いこと”を意味する。
無は・・どこにも、いつでも・・無いのだ(笑)


意識・・わたし・・は常在である。
寝ても覚めても、
”思うのは恋する人のこと”・・・ではなく、

寝ても覚めても・・存在しているのは、
肉体、想念、表層の意識波紋ではなく
・・それを含む・・普遍的意識である。

それぞれの・・本質の<わたし>・・である。










意識の話(46)眠りのこと

2017-11-18 06:41:45 | 真我実現シリーズ
誰にも眠りがある。
熟睡している眠りや夢を見る浅い眠りだ。
ノンレム睡眠、レム睡眠などと説明されている。

しかしながら、多くの人は眠りを実に軽く扱っているようだ。
単に、体を休めている貴重な時間という程度に考えている。
それは、目覚めた後の現実だけが大切だと思っているからだ。

「あー、忙しい、眠ってなんかいられない」
そうではないか?
それは、わたしが肉体だという信念からきている。
意識が・・・眠るので・・無意識であっては・・そこには何もない。
休息以外、・・何の役にも立たない・・・と。
「だって、何もないじゃないか!・・」
そう考えている。



これは全く・・空(くう)に気づかないことと同じなのだ。
空(くう)間がなければ、そこに物質もエネルギーも生じていない、
にもかかわらず、
そこに微かにあるエネルギー・物質ばかりを後生大事に扱っているのと、
まったく変わりがないということだ。

物理学の世界では、”量子真空”という概念があり、
空間は何もないのではなく・・・量子で満ちているとされている。
身の回り、周囲環境、身体の中の99.999・・・9%を占める空間・・、
それは、
量子、エネルギー微粒子、基底エネルギー等とも呼ばれるもので満ちている、
あるいはゼロポイントエネルギーで充満しているとされている。
これは、トンでも雑学ではなく、最新の物理学的世界像なのである。
・・
真空は・・・決して、真の空にあらず、
すべての可能性の充満だ・・ということだ。

えー、どこがどこが?・・(笑)

それを言うならば・・・、すでに、
そこに「わたし」として出現しているではないか・・!

---
話は戻って、熟睡中は全く意識がない・・ということだが、
この時には、私自体が実感として存在していない・・ということだ。
つまり、熟睡中は・・思考もなければ感情もなく、身体感覚もない。

わたし・・という存在を・・肉体ではなく、「意識」から見る必要がある。
そうすると、熟睡中は・・・、
わたし・・意識から見て、自覚意識が無いので・・
わたしは存在しているとは言えないのだ。
だから、熟睡中は・・”私個人”は存在しない・・。

仮に、そのままだと、だれが世界の存在を知覚するのか?
永眠などと言われるように(笑)、そのまま死んだなら、
宇宙も世界も・・あるのだろうか?

あなたのそばの人が、そのときあなたの寝顔を見ていたとしても、
それは外側から見た・・・あなたの身体でしかない。
「ねー、ちょっと!」などと、
揺り起こされれば、すぐにも目覚めるために、
この驚天動地の事実に気づかない。

熟睡中は”私個人”は消えているわけだが、

毎朝、刺激に満ちた世界に目覚めるために、
すぐさまその繰り返しとなるために、
この重大な事実?を、毎日毎日通り過ごしているわけだ。

肉体レベル、3次元的時空間認識ではなく、
それを観察している・・意識・・、
意識の観点からすべてを見直さなければならないということだ。

目覚めた日常の時でなく、また夢見の浅い眠りの時でなく、
あなたが熟睡しているとき・・・知覚はない、時間も空間もない。
こころも感情もない・・・私個人はどこにもいないのだ。

人は再び目覚めるがゆえに、
基本的、ベーシックな”意識”は在るといえるのだが、
「私個人だ~!」という顕現様式は・・消えているのだ。

これも色即是空・・である。
人はそれを、マジ体現しているのであるが、
しかし、まじに気づいていない(笑)

常識的な人は、なんでも知っているかの如く、
眠りに関しても、睡眠の効能とか、脳波とか、色々言っているが、
観の転換をすれば、ここにも実に深い意味がある。

肉体の見地からは、たんに肉体が休んでいる・・というが、
意識の見地から見れば、
熟睡中、そのとき  ”私個人”は存在していない。