気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

空(くう)は充満する意識 (4)神人

2014-02-15 09:22:00 | 見えないものから見えるものへ

「神」という言葉は宗教的な、そして様々な意味合いが含まれるために、不思議に誤解の多い言葉であるとも言えようか。

 

いつのころか神とは・・・支配者的、ジャッジする者、褒美や罰を与える者というような、人間を律する見えない存在とでもいうようなイメージがあるのではないだろうか。

 

願いを聞き届けたり、幸福をもたらしてくれたり、悪い人には天罰を与えたり、そういう風な人間を越えた存在の様な、そんな漠然としたイメージであるかもしれない。

 

あるいはまた、お正月にお参りする社(やしろ)に関係する何か・・・そういう薄い観念での神かも知れない。

 

あるいは言葉に出すのもはばかられる、厳粛で威厳のあるべき、冒すべからざる存在とイメージしているのかもしれない。

 

それとも何か理想的、完全な、最強の・・・人間を超える何か?・・・そんな感じかもしれない。

 

包括的に言えば、全知・全能・遍在せる実在・・・言葉で言えばそんな捉え方かも知れない。

 

 

 

いずれにしても、そのイメージの及ぶ範囲や質の違いがあっても、我々人間を大きく越えて、それを見守り宇宙全般、全てのソース・根源としての何か、突き詰めればそういうものとしての理解であろう。

 

ところで、あなたの神はどうだろうか。

 

相変わらず、外側世界のどこかに居る、あるいはその外側世界の全部の統御者なのだろうか。

 

いいや、いいや・・・多分・・それは、見えても観ていないと言うことなのではなかろうか。

 

あなたが外の世界を観る、

 

見て、感じてそれに物理的に精神的に反応しているこの知覚世界の、

例えそれが多次元的と言えども、

 

そのどこかに神がいると考えるのも・・・無理はないのであるが、

 

しかしながら、それこそ物質レベルの理解、現象世界レベルの観念でしかない。

 

神とはそこ、ここ、あちら、こちらに、あらゆる全てに・・・・自らを現出させている根源であり、

 

決まりきったどこかに「他人を装って」鎮座まします個別の存在ではない。

 

そうではないか?

 

そうなのだ、

 

その世界を観ている<あなた>こそが、・・その神なる者の眼なのである。

 

神とは<あなた>から、あなたを・・・・通して・・・生じているのだ。

 

世界であなたが・・・わたし・・と・・・自覚している「意識」、

 

我在り・・・という意識、まさにそれが神の存在の証明なのであるが、

これが・・・なかなか気づけない。

 

それをいつも見逃してきたのかもしれない、そういうことは一切ないと言えるのか・

 

外の世界は外の世界で、何かどこかの神様が勝手に創造している・・・、

 

私・・達はその中の偶然の生き物である・・・という「意識」に固まっていたという事は一切ないと言い切れるのか。

 

全てのあなたに・・・・一番身近にあるもの・・・それは何だろうか。

 

・・・

 

「おーい、バカもいい加減にしなよ、

 

えー?・・わたしが神なもんかね、わたしゃそんな理想的な存在どころか、生きるために小ずるく振舞うし、たまには嘘も言うし、金には眼がないし、おバカで小さい存在だよ。

 

いったい何を言っている?おだてて何か含みでもあるのかいな。(笑)」

 

・・・・せいぜいがそんな風なこころの反応があるだろうか。

 

しかし、それはあくまでも歪なイメージ、完成された理想形、全支配系、最強最大という物理的、物質的な極大イメージと自己との不一致感覚ではないのだろうか。

 

神というものを、3次元的、物量、範囲、距離、価値の大小などという現象の中での最高最大的存在としてイメージしていることに気付くべきだろう。

 

あなたが無自覚であろうと無意識であろうと、世界の中に居て世界を観ているという事実は、

 

<神>が「あなた」を通して観ているということである。

 

 

今まで、あなたは「あなた」という小さな「自意識」で、漠然と外の世界、社会、人々の生業を観ていたのであるが、

 

実にそれは、

 

神なる全体・・ひとつ・・が敢えて個別のポイントから創造を眺めているということなのである。

 

全体が個別化し、その次元からも創造に参加しているとも言えるし、

 

個別の中には全体が投影されており、個別は全体、全て、あらゆる可能性があるという事なのだ。

 

また別の言い方で表わせば、宇宙にある全ての個別は、全体を含んでいるとも言えるし、

 

全体が個になり、また個が全体へと回帰する運動だとも言えるだろう。

 

 

 

個別の生命とは・・・・

 

空(くう)とも言うべき無限の可能性の中に、神が自らを自己投入しているということに他ならない。

 

そうであればこそ、その個別の生命は全て「意識」を有しており、

 

さらに個別で様々な階層、レベル、形態、存在諸世界を通じて、

 

それが全体で<ひとつ>の意識を構成しているのである。

 

個別の生命とは神の自己投入であるからこそ、それは魂とも言われる不滅の根源生命なのであり、

 

その段階、目覚めのレベルに応じて、どのようにも転生や自己転換を行うのだ。

 

そうして、次第に神なるわれ・・・に目覚めてゆくという、宇宙開闢の再現をしているとも言えるだろう。

 

あなたもわたし達も、その道にある。

 

・・・・

 

翻って、

 

世間や世界の動きを観るならば、相も変わらず自己自身を観ず、世界のうごめきにこころ取られ、そこでいかに生存するかに汲汲としているのではないか。

 

あれが美味しい、これがまずい、お金が多い、少ない、自国は全て正しい、あの国は愚かだ、税を上げなければ潰れる、放射能が怖い、地震が怖い、兵器が怖い、政治が悪くなった、あの人は良い人、この人は悪い人・・・、そういう情報に満ちてきた。

 

いずれにしても、それは外の世界に投影された、様々な想念形であるにもかかわらず、

 

それから悪い影響を受けるのではないか、財産や生命の棄損があるのではないか、このさき悪くなるのではないか、そんな恐怖からくる想いを更に倍加しているようなことになっている。

 

そして、そういう認識の存在達であれば、大体そのとおりの方向に動いてゆくだろう。

 

例えば、行き過ぎてもうすでに破裂している経済も明確な崩壊音を出し始めており、そして崩れ去るだろう。

 

でも、ただそれだけのことである。それがどうしたのだろうか。

 

如何にメディアで何も無いように、今まで通り、なんにも変らない風に装っていても、

 

既に古い観念世界は崩壊を始めているのだ。

 

 

個我でない、大いなるわたしという・・・根源意識に気付かす、外の誰か、何かに自己意識を預けているような、いわゆる目覚めぬ存在達と、

 

そういうバラバラの個人エゴの私・・・ではなく、閉じこもった個人我の私・・ではないところの、

 

普遍意識である<わたし>、そのより拡大した自己に・・・自ら目覚めた存在との明確な色分けが起きていることに気付くべきであろう。

 

・・・

 

他者がどうであれ、

 

あなたは決して他者にはなれない、

 

その他大勢の人々がどうであれ、

 

あなたはその中に沈み込むことは出来ないのである。

 

それをやろうとしてどれだけ苦しいことになるか、

 

十分にこの世界の転生で味わった者たちは、

 

大いなる神なるものが現れるところの<わたし>に戻る、魂のプロセスにあることに気付く時がきている。

 

それぞれの存在達は皆ともに、神の自己投入によって存在しているからには、

 

自らの神なる意識を起動させ、

 

小さな極限個体、肉体個体、バラバラの個人我という観念世界から抜け出して、

 

より広く、より自由度の拡大した、意識レベルに再び上がる時である。

 

それを言うならば、

 

そういう存在への道を歩み始めた人間生命達のことを、

 

単なる人ではなく、神人と言うのである。

 

 

神話にある八百万の神々とは、本来あるべきあなたやわたし達の姿であり、

 

架空の神話、絵空事や単なる1つの理想等と今まで認識して来たこと・・・・

 

この意味が分るであろうか。

 

 

自身の実相を忘れて、また思い出すという、なんというかそういうゲームに打ち興じていたということでもあろうか。

 

わたしが実際・・・何か知らないというわけではなく、忘れてしまったということに気付けるだろうか。

 

 

地球という生きた書のなかの、時空の折込ページに「次元降下」した、勇気ある魂達よ

 

自らを猿の子孫だとか、肉体自我でしかない存在だとか、卑小で平均化された平等存在だとか、

 

そういう閉じられた固定観念の世界、次元降下した世界、

 

そういう1つの言わば、観念マトリクス世界の味わいはどうだったろうか。

 

 

広大な内面意識から湧き上がる感慨が、それがもう素晴らしく十分であるとする者は、

 

<神人>へと戻ることになるだろう。

 

 

混濁と無明、汚濁と想念の混乱に満ちた世界は魂の経験と成長に欠かせぬものであれ、

 

 

春が来て、陽光が燦々と降り注ぎ、

 

花が咲くとき至れば、おもいきり背を伸ばしていいのである。

 

嗚呼、魂達よ・・・・、今はそういうターニングポイントにある事に気付けるだろうか。

 

あるいは外の世界の一見何事もなさそうで、既に生じ始めた大いなる時空の急流に流されるのだろうか。

 

外の世界はリアルな幻影であることに気付き、

 

それを投影するところの光源、自らの魂・意識に自らをポジショニングする時なのである。

 

・・・

 

汝ら・・・汝ら自身を観よ!

 

古い言葉であるこの問いかけを、はたして理解可能だろうか、それとも意味不明だろうか。

 

あなたは単なる死すべき肉体個人であるのか、

 

それを表わしているところの、時空を超えた普遍的な根源生命であるのか。

 

意識すべき時なのである。

 

 

なんとなれば、意識する、イメージすること、それが現れてくることが・・・

 

 

すなわち、創造なのだから。

 

 

20070101_226937

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 


空(くう)は充満する意識 (3)神、人間

2014-02-03 07:57:30 | 見えないものから見えるものへ

我々を取り巻いている空間、

 

無限大の向こうも見えず、

 

無限小のここも見えるものではないその空間は、

 

実に様々な存在波動、また様々な周波数で満ちているがゆえに、

 

空間そのものは、あたかも中和されて何もないように現れているということなのである。

 

 

つまり空間は、何もないがゆえにどんなものでも様々な物として出現しつつ、そこに存在出来るということだ。

 

様々な波動で構成されているからこそ、空(くう)でもあり、又存在諸物となるわけである。

 

 

何もないスクリーンだからこそ、映画を映し出すことが出来るように、

 

白いスクリーンだからこそ、あらゆる波長の光を反射することができるわけであり、

 

我々はそれを・・・そこに在るもの・・・として、知覚することが出来る。

 

 

空即是色、色則是空は、

 

仏教でのある種の比喩的な概念というわけではなく、我々の生きてあることそのものを、根本的な事実を簡潔に示した言葉なのだ。

 

空=色・・・・ 

 

この一見パラドックスのような事実に気付くこと、それは大きな世界認識へとつながる。

 

我々が周りの世界を何気に見て感じているということは、そこに様々な物体や局在化された波動、エネルギーの重合を観ているのである。

 

見る、感じる、観測する・・・そのこと自体も波動の反射、共鳴、送出、受信以外の何物でもない。

 

 

さて、

 

あなたやわたしの周りには、様々な物があり、様々な動きがあるわけであるが、

 

それは無限の空(くう)から生じた様々な波動形態があることに等しく、

 

沢山の物体があるというより、沢山の波動形態があるという理解の方が妥当なのである。

 

 

空(くう)とは様々な無限小から無限大にまで、あらゆる「波動」の渾然一体になった姿のことを言うのである。

 

 

空間とはあらゆる未分化の波動の渾然一体となった姿であって、それそのもの、目には見えず耳にも聞こえない、

 

だからそれを「空・間」と言っているのである。

 

 

つまり空間とは、様々な可能な限りのあらゆる波動に満ちていること・・・そのものを言うのだ。

 

端的に言えば、空間とは・・・無限の可能性を自己に蔵した「波動」なのである。

 

また様々な波動はそれ、様々な「情報」を含んでいるのだ。

 

そして「情報」とは知性から生じるわけであって、

 

宇宙空間は、波動、そして知性で満ちているということにもなるのである。

 

昔から宗教的に表現される、全知、全能、遍在の神である。

 

 

 

そして、

 

考えられるもっとも微細で原初的、

 

根源的な波動、全ての根本にある波動、

 

どんな波動にも変換できる・・・その素の波動を「意識」と言い換えることが出来るだろう。 

 

様々な生命による意識のベースにある根源的な意識、それを「宇宙意識」等と呼んでも良いだろう。 

 

その根源的意識波動こそが、

 

様々な段階の、

 

様々な階層の、

 

様々な周波数帯域、

 

様々な自己表現世界を顕現させている、あるいは投影しているのである。 

 

我々のこの世界の意識的存在たる人間は、その一部の周波数帯域を垣間見ているということだ。

 

 

宇宙を見上げて、あー無限だな・・・と思うけれども、

 

それもまた小さな知覚意識の窓から見たものに過ぎないのである。

 

そう、我々はこの世界の中の、精一杯の認識の窓枠に寝そべりつつ、

 

無限の波動の織りなす大宇宙のほんの一端を垣間見ているに過ぎないのだ。

 

 

卑近な例で言っても、空間には様々な電波機器の様々な周波数で満ち満ちているのである。

 

現代社会では色々な電磁波商品、携帯電話、Ipad等が使われており、

 

道行く人々の多くが人差指で画面をスクロールしては、スマホ等の画面に興じているわけであるが、

 

その為に利用される媒体波動である電波が飛び交っていることに気付いているだろうか。

 

それを使っていても、その仕組みにはなかなか意識的には馴れない様に、

 

 

我々が普段生きて、活動している空間そのものが、

 

空虚で一切の何もない代物ではなく、

 

実に何もかもある・・・全ての可能性に満ちたものであるということに気付かなければならない。

 

その全ての可能性こそ、遍在せる宇宙意識、あるいは根源意識というべきものであり、

 

そうであるがゆえにこそ、

 

この宇宙が在ること、あなたやわたし達が生きてあること、幾多の世界が存在していること、

 

そのすべては、あなたやわたし、彼や彼女、それやこれとなって、

 

そこ、ここ、

 

あちらこちら、

 

遠くや近く、

 

今や昔、

 

過去や未来となって、

 

映し出されているのだ。

 

 

そしてその根源にあるのは、遍在する無限の知性であり、

 

大いなる宇宙創造の作者であり、

 

無限の可能性である自ら自身を自らの内面に展開するところの、

 

無限者である・・・・わたし・・・・、

 

それを昔から、創造主とか神とか、全ての根源とか言っているのだ。

 

・・・・

 

そしてそれに「気付いている」無数の個別化された意識が「魂」であり、

 

個別でありながら、また全体と渾然一体であることを自覚ながら、

 

その意識を拡大させる進化というストーリーを楽しんでいるところの魂達、生命達なのだ。

 

我々がその一部を垣間見ているこの宇宙とは、

 

言わば魂・意識の展開演技場であり、遊技場であり、魂の学びのスペースなのである。

 

それは様々な波動の周波数帯域で構成されつつ、

 

そこここに渾然一体となって存在している。

 

  

霊的、スピリチュアル的に言われるような世界階層、

 

3次元世界、現実界、霊界、神界、天上界などの違いとは、

 

その中に包含現出しているところの、魂意識の周波数、波動域の違いと言えるだろう。

 

それは単に、自己自身で表現出来うる知性や意図が、より根源に近いか遠いかの違いである。

 

根源から遠い意識の波動域からより近い波動域の違いが、低次元、高次元と言われるものであり、

 

それを魂意識達がその気付きレベルによって、自由に移行することを、次元降下、次元上昇とも言っている。

 

この世界の多くの魂意識はこれまでの次元降下によって降りてきた者たちであり、そして今は次元上昇のサイクルにあるということなのだ。

 

根源から遠くまで次元降下の旅をしてきた勇気ある魂達は、

 

今、もともとの、素の自らを思い出し始めていることだろう。

 

存在している理由を問いかける魂達は気付き始めていることだろう。

 

自らの魂の根源とは、どこか遠くのスペースというわけでもなく、

 

今ここ、その内面のさらに大きく深く、

 

それぞれのあなたの・・・広大な慈愛と知性の波動帯域にあることを。

 

 

Thca6r7eax

 
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。