気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

みそぎ

2007-12-31 08:50:28 | 色々な気付き

●今年最後の記事です

1年間の最後に大切な教訓を得たように思います。

結構な衝撃として自分の心に響いてきた出来事が昨日ありました。

自分にとっては神の厳しい目を覗かせてもらったような感じがあります。

言葉主体の世の中でこそ、伝えることの責任ということをガーンいう音響とともに頂きました。

創造主はお見通しそのものであるのを忘れることはないです。

誰が言うのというのでなく、現実世界の中で起きてくることは、自分の中にあるからこそ

という事でありますね。

自分としては、ちょうど心の垢を落されるような強烈な禊のような経験でありました。

これで今年はお仕舞いです。ありがとうございます。

(閉めたはずの茶屋の後片付けをせねばならないことを思い出して、作業中にまた気付いたことを書いてしまいました。)


お礼の言葉

2007-12-28 22:57:04 | インポート

●平成19年のけじめ

このサイトをご覧になる方々にお礼を申し上げます。

親愛なる同好サイトの方々、本当に、お世話になっています。

コメントで励ましてくださる方々、お礼の言葉もありません。

近いサイト空間で共鳴してくださる方々もおられるようで、心から感謝しています。

自分がコメントでお邪魔しても、理解ある返答をしてくださる方々、遊んでいるような感じもあるでしょうが、若気のいたりで、申し訳ありませんです。

良く考えても、他に良い言葉がないので・・、

今年は本当にありがとうございました。

良いお年をお迎えくださいませ。


意識とは

2007-12-27 22:07:38 | 心の科学分野

この記事で良く意識する、意識的意識という言葉が出てきます。意識は生命という言葉より本質的な意味があるように感じます。ここで少しイメージをわかり易くするために、ちょっと定義的なことをします。(ややこしいかも知れませんが、ここはゆっくりと味わいながら、ご理解頂ければありがたいです)

 

●意識とは

「認識主体「わたし」が、認識対象として客体化(対象化)する働きである、と同時に、認識対象として「客体」であることの自己存在意識として存在する。

意識の存在形式は、自己意識であるが、それの成立形式としては、認識主観が認識客観として、自己を対象化することの働きである。」(「生命宇宙論」 山本佳人 より)

 

簡単に言えば、意識すること自体が主観であり同時に客観である・働きである、ということであり、さらに単純化すれば「意識作用=思うことが常に現実となる働き:創造である」ということです。

われ思うが故に我は存在する。我が思うところの我であり続ける。

汝が信じるごとく汝になる。・・・と言ってもいいでしょう。

他者に拠らない、永遠にあり続ける自己自身の存在原理、ということでもあります。

それぞれが皆、神であるという言い方も出来ますね。

私自身はこれは最も大切な根本原理であると思っています。

 


地球という3次元劇場 第3章

2007-12-24 19:01:43 | 新地球文明論

●地球3次元演劇の観客

 我々の住んでいる物質世界が素粒子の世界から宇宙まで、波動で構成されており、我々は1種の3次元立体映像の中にいると仮定できること、また現れてくる五感感覚付の映像、すなわち毎日の体験に同調するのは我々の意識・心・感情の働きによるという説明でした。あたかも、普段見ているTVが360度の3次元立体映像になっており、生まれてから持続して、途切れることのない全方位感覚を備えているために、そこに没入しているのが我々であるということでした。

あらゆる存在が波動によっているという考え方からすれば、例えば我々が現実世界で何かを見るということはどういうことでしょう。 普通の考え方は、物体に光が当たってその反射光を目の網膜で感受し、神経を通して頭脳に送られ、画像イメージになるという理解です。光という波動を媒介にして物体と人間とが間接的につながっています。認識空間の中に独立した物体があるという考え方です。この中の人間は、やはり独立した物体であり、単なる高度な機能を有した有機物といってもいいでしょう。私たちが目や耳をとおして頭脳で信号を受信しているために、主に目を中心とした視覚感覚によって、目の窓枠から外を眺めていると思っています。人間の認識作用の中心が、その人間の肉体の中にある、閉じた空間にあるという考え方です。これが’3次元立体映像の中に没入している’意識状態です。いづれにしても我々がそう思っているということでしかないのですが。

 波動を受信し信号処理をする機械を自分であると思っているのでしょうか。多分そんな感じですか。しかし波動が無くして機械など意味がありませんね。我々の肉体は存在界のあらゆる波動のごく1部のみを感じているだけの機械なのでしょうか。

 ほんの少し観点を変えて見れば・・・その3次元立体映像TVを見ている、茶の間の人間としての自分に気付くことが出来るでしょうか。パソコン画面を見ている自分に毎日気付くようなものです。

 これは単なる自分の客観視であるといえるかもしれませんが、自分のする事、考えることを、感じることを常に意識している、気付いている状態でもあります。ある意味で禅や瞑想での意識状態と同じとも言えます。笑っている自分、怒っている自分、泣いている自分・・それらの自分という現象を見ている「自分」に気がつくでしょうか。 3次元で演じている自分をしっかりスポットライトを当てて、直視することが出来るでしょうか。自分を意識する「自分」が、自分の肉体環境を越えて、時空を超えたものとして存在している事にまで気が付くでしょうか。 己への直視によって、新しい自分を再発見する自分、新しい意識次元から見ている本当の自分に気が付くようになるでしょうか。

五感を超えた意識の存在を示す具体的な現象の1つとしては、幽体離脱、というものがあります。これらはロバート・モンローや、古くはスエーデンボルグその他の実体験でも示されています。昨今、五感以外の身体に関して、多くの実証報告がアカデミックな分野からも多く出てくるようになりました。信じる信じないということから、認めるか認めないかという段階にまでになりつつあるようです。これらの現象をあくまでも認めないという人、またそんな考えや現象などに全く縁のない人にとっては、未だそれは存在しないということになります。まだその時期でないだけのことなのでしょう。

目をもってしても見えず、耳をもってしても聞こえないのは、その合図に気付く時期に未だ来ていないというだけのことです。見えないものを見ようとし、聞こえないものを聞こうとする勇気と好奇心こそが新しい世界への切符になるのかもしれません。

地球劇場の舞台で演じている数十億の主人公達が、同時に自分達を観客席でも見ていることに気がつくようになれば、よりすばらしいシナリオが描けるようになるかも知れません。我々皆、感動や美しさを求めてこの地球劇場に通っているわけですが、その為には自分が自分自身をよく見えるような「視座」をこの地球劇場の客席にも獲得すべき時なのです。人を見て右往左往するのは今まで充分演じてきたわけですからね。

我々は皆、我々が思うとおりの存在であり続けるということが、1つの法則として存在していると考えるならば、なにをどう思うかに関して無限の可能性と責任があるのですよね。


地球という3次元劇場 第2章

2007-12-23 10:42:53 | 新地球文明論

●惑星仲間からの伝言

 今回はある惑星探査員のレポートです。ある星系の惑星を探査すべく、大気圏からその生命系の各周波数帯、すなわち低次から高次までの各意識帯を検索していたときのことです。ベースバンドになるその惑星の基本周波数で、5次元モード立体映像をモニターしていたところ、惑星の意識存在と同調が行われ、貴重な情報を得ることが出来ました。以下はそのレポートの1部です。

---------その惑星意識の語る内容---モニター記録--抜粋------

わたしの言葉を記録してくれてありがとう・・・私はこの銀河の、ある星系の惑星意識です。

・・・私は悠久を遥かに超える時を経て、惑星意識まで成長を遂げてきました。この惑星生命圏に、今は何億種もの鉱物・生物である子供達を抱えているのはご覧のとおりです。このようになるまでには、悠久の時間というエネルギーが必要だったのです。 

 長い歴史のなかで、この惑星にも水という、固体層、液体層、気体層にまたがることが出来るオールマイティな形態が生じました。あるとき湿潤な大気から地へと降り注ぎ、中心恒星からの波動を受けながら、炭素系の有機生命が芽生え、成長してゆくことも見てきました。母なる惑星といえどもその小さな生命に干渉することはありません。芽生えた生命の意識が個々に個体としての花を開くようになるまで、じっと我慢をしながら何億年でも見続けます。巨大といえども惑星意識に出来るのは、ただその生命たちに絶好な環境を与つづけることなのです。汲めども尽きぬ時間をいくら贅沢に使っても何ら問題はないのです。1点の無限小の息吹が個体として回転を始め、動きながら自己認識作用を行って発展してゆく様は、宇宙開闢の絶えない再現なのです。

 生命体は、海という滋養に満ちた時空層で個体としての地固めをしたのち、波動の高い気体層を中心とする陸に上がってくる意識生命体も現れてきました。その陸に上がった生命体といえども、海の水を中心素材として構成されているのは当然のことです。

--------- 中略-----------長い物語------

それで、最初は小さな点であった命の息吹は、進化を経て高度な人間種の個体肉体をまとうような意識まで覚醒成長してきました。その個体肉体はある時、別の進化した同類存在によって、途中手を加えられたのも見てきました・・・。

今ごらんのように、地上のあちらこちらに構造物を伴って生存している人類は、その子孫なのです。・・・彼らの都市に入ってみましょう・・・・・。中空に浮いた建物が見えるでしょう。あの中の高度に意識進化した人間型生命体をご覧下さい。仲良く家族でくつろいでいるようですね。

 いまからお話しすることは、惑星意識としては甚だローカルなものなのであることは承知しています。・・・・・・・・・・

 その人類の都市の、あの家族の1人は実は幼なじみなのです。ガイヤと言われる惑星生命意識たる自分と、そのふところで存在している小さな人間型生命体が知己というのは、いかがお考えでしょうか。

それは自分でも驚いたものです。確かに色々な存在は個体生命に宿る意識存在として、長い進化を経てきているわけですが、その個体生命の中に記憶されている魂という記憶にアクセスし、それを読み取った時の驚きようは、なんとも言いようがない感動だったのです。自分のオーラとも言える惑星の大気組成が激しく振るえ、その後輝きを増したのです。

 その小さな人間型存在は、実は、太古の時間軸を遡ったところの、銀河のある太陽系の惑星にいたのです。その時私は、惑星意識になるほど進化しておらず、人間として存在していました。その惑星に盛衰した幾多の人類の数百万年の歴史時間軸の中で、とある時代に人間として、やはり数人家族の一員として生活していました。その時私はペットなる小動物を飼っておりました。名前があり「ミケ」と呼んで大変かわいがっていたのです。縞々の茶色毛をまとい、ねこ科の動物種らしくしなやかな体躯と茶目っ気があるが、おとなしい性格を持っていました。子猫の時に知人からもらい受けたのが出会いでした。ボール玉でじゃれたり、丸まって寝ている様は本当に可愛く思ったものです。隙をみては魚を食卓から引きづり下ろしては、よく母から怒られていました。その毛を撫でてやったり、話を聞かせたり、毎日のように遊んでいたものです。それから10数年経って、年老いたミケは、私の成人式の後に旅立って行ったのです。その時は涙が溢れて溢れて、どうしようもなかったのを今でも記憶の層にしまってあります。・・・・・・・・・・・

そう、その時のネコのミケであった意識存在が、その後進化を重ねて人間型存在となって、この惑星にやって来てくれたのです。・・・。当時はネコと人間の関係で、今は人間と惑星の関係ではありますが、今でも私はこの惑星にいるあの人間型存在を心のどこかで「ミケ」ちゃん・・と呼んでいます。

 今は人間である存在に対して失礼な呼び方ですが、いつもそう呼ぶ訳は、私自身あの成長多感な人間時代の一時期、ネコのミケにどれだけ慰めてもらったことだろうか、という心からの感謝を忘れない為なのです。

 惑星である私はこの地上に住む全ての存在達に、いつも心から感謝をしているのをご存知でしょうか。私に感謝する必要はありません。この世界の全ての存在に感謝をして頂ければそれで良いのです・・・・・・ほんの些細な身の回りのものに感謝して頂ければそれで良いのです。全てはつながっているのですから。

------------抜粋 了-------------