●今の三次元世界観
この世界は三次元と呼ばれる場合がある。物理学では我々を取り巻く世界、いわゆる時空は四次元で構成されているとも言われている。
XYZ座標指定できる「立体空間」及びその内部にある物質は三次元であり、それらの変化率である「時間」であわせて四次元ということもある。
我々の認識しているこの世界は、宇宙を含む無限大の3次元箱とその中での物質密度や形態の多様な変化で構成されていると考えているということだろう。確かに最も単純化して数式で表せるような時空論である。
そのような物質形態に満ちた空間を三次元と言うのだろう。しかし、これらは世界そのものではなく、単に我々の知覚認識する世界が、時間空間密度とエネルギー、その形態の時間変化率で説明されるとする世界観のことである。
ユークリッドやニュートンを経由して、リーマン、アインシュタインやボームの思考を借りながらその認識を拡大してきた地球人類の「時空観」であり、今最先端では全て波動で表せるという方向にある。
今、科学の最先端では、物質を含む時空形態は全て波動または振動として説明できるかもしれないというところまで来ているといえるだろうが、それもあくまでも素粒子や原子で構成されるこの物質的時空世界の説明としての新たな世界観なのだ。
我々という観察主体の本質を説明しているわけではないのだ。それはあくまでも今の我々の観察するところの物質的世界観でしかない。
次元上昇、アセンション等という言葉で表現されていることは、それらの客観世界が我々の意識と無関係に、勝手に様変わりすることではないということだ。
●自己の世界観のなかに自己を幽閉している人模様
ところで、この世界観の中で、人間は一定の物質肉体で動き回る、単なる知的動物としてそこに参加している風に捉えられているだろう。
これは、世界を認識する当の意識的存在自体が、なぜかその世界自体に組み込まれているという観念を示しているともいえるだろう。
世界を思考、思推するものが、その世界の中の一小部分に自己を没入させて、身動きの取れないような、パスカルの言うような「葦」(あし)になりきっているようだ。
一体だれがそうだと言ったのか。
また言葉を変えて言えば、無限の思考・思推を行なう存在が、その思推の湧出点を自己の肉体という小さな波動の窓に限定している「観念」である。不可思議なパラドックスに「あなた」は気付けるだろうか。
無限の存在が有限を装っていると言う感覚である。
それは肉体の五感の感ずる一定範囲の情報波動のみにリアリティーを付与して安心していることを意味するだろう。そのために、肉体を出来るだけ安寧に維持すべく、いつもながらの不安を友に、孤軍奮闘しているのではないか。
お互いの顔を遠くうかがいながら、今はそれしかないと考えながらも、何だかんだとつぶやきながら人生を歩んでいるようではないか。我々はまさに律儀な蟻のような、実に愛すべき生き方を経験してきたようである。
●次元降下の諸相
肉体への幽閉は、別の表現で言えば、自己の観念の中に自己を幽閉しているという意味でもある。
大勢の共通の集合観念で慣らされた個々人は、1つの共通理念の中に多かれ少なかれ幽閉されているともいえるのではないか。
その1つ1つの囲いは、実は1つ1つバラバラであり、1つ1つの個人の間の囲いと囲いの間には無限の距離がある。
決して本質では分かり合えることが出来ないという観念に色づけされた「個我」の壁である。人と分かり合えることなどないのではないか?というあきらめでもある。
社会の法律や決め事は、そのバラバラの個我牢獄の間の、おためごかしの橋渡しともいえよう。
巨大なこの三次元世界の中に創った「小さなのぞき穴」から観ている無数の意識達が、即ち今の我々の有様であるといって良いだろうか。また、万華鏡をのぞきこんで三次元形態の様々な有様を楽しんでいる幼児とも言えるだろうか。
その中に入り込んでいる・・そのような感覚は多くの人も理解出来るのではないか。
三次元空間のあちこちに開いた、個我の覗き穴からお互い同士を、怪訝な顔をして見合っているのだ。そうして数十年のちにはその覗き穴はふさがれ、また再び小さな穴を生じて、この次元を観察するようなものだろう。
他者と他者がわかりあうことはないという感覚を確かにあなたも持っていないだろうか。
自己が自己の観察する世界に入り込む、いや創り上げるということなのだが、自己を忘れなければ出来ない芸当でもある。
これはすなわち、意識的な次元降下、分裂化、多様化ともいえるだろう。
●もとは ひとつの意識
全てに浸透し、全ての波動、振動を生じるところの根源の波動、「根源意識」は、ひとつのものであるが、人という意識存在・魂は、その搬送波とも言うべき根本の根源波動を変調し、多様性を無限に生み出すところの個別の「自由」を持つ存在でもある。
分裂化、分化の方向の次元降下も「自由」であり、また地の底、海の底の観測から浮き上がり、洋上に、また天空に戻るような次元上昇もまた「自由」である。
意識的存在である我々には、まさに、「汝の信じるごとく汝になる」という法則が働いている。
なるほど、三次元観念への自己幽閉も例えば宇宙規模の認識拡大も、苦も楽も、何でも出来るのは、意識的存在であるところの人間ならではのことなのだろう。
三次元を観ているところの「わたし」は数式や現状の時空論では説明できない。それは自分で自分をいまだ充分知っていないということなのだ。
「わたし」とはまさに「今ある」そのものであり、説明不要の存在であるということに気付けるだろうか。
もとはひとつ、「わたし」とは、何の説明も出来ない存在であると言うことを暗にあらわしているのだ。
光を見、物を見る観察者、それは物質では語ることの出来ない存在であるということを示している。
肉体や物質を超えた「わたし」は、いつも今、そこに在っただけのことだ。
意識的存在である人間は、今は「自分」自身を思い出す途上にあるだけのことであるが、また、その学びのプロセスにも何か大きな宇宙規模、いや創造プロセスでの仕組みや促しがあると思われる。
●地球という無条件の愛の舞台
人間が意識存在であると同じく、地球も意識存在である。個我のわがままや主義主張や人間的な表現がないからと言って、地球は宇宙に浮かぶ単なる「巨大な土塊」と考えるところの幼児的な誤解に気付くべき時でもあろう。
我々という生命、意識存在達の経験と表現の場を悠久の時間軸で設定、提供しながら、さまざまな時空を創り上げるフィールドを提供している地球という惑星存在の不思議さに気付くべきときではないか。
地球という舞台、人類やその他の無数の生命が様々な表現が可能な「演劇舞台」を提供しているからこそ、偉そうな主張も、悲惨な体験も、感動の経験も可能なのだ。
土、水、気、火・・全て地球の舞台道具なのだ。それに太陽の光、それらが無くては到底生きてゆけない我々でありながら、そのことに気づくのに何千年もかかるのだろうか。
自然への尊敬の念、それは単なる古代の信仰・・などという古い観念のゴミ箱に捨ててきた愚を振りかえり、それらに対する当たり前の「感謝」が今こそできるはずなのだ。
我々の世界を三次元と称し、そのある意味空虚な観念体系のなかで、
自己の周りに肉体という檻をめぐらし、個我やエゴという分裂遊びをしている間も、われらを無条件に生かし続ける、宇宙あるいは地球の「無限大の愛」に気付く時である。
個我と個我の間にある表面越しの、また交渉づくの架空の愛を求め続ける必要はないのだ。
我々自体の意識、想いや感情を調律し、より大きな観点、視座に上昇することにより、我々の「愛探し遊び」を遥かに超えているところの、いわば宇宙的な「無条件の愛」に気付くだろう。
それは全体へのこころからの感謝から生ずる、全体理解の視座への浮揚によるのだ。
●次元上昇は今ある
それに気付く意識的存在の増えるのを、いまこの地球は待っている。地球も進化する意識生命体であればこそ、今、ある飽和点に達しつつあると感じないだろうか。
「物語」はすべからく、ダラダラ行なわれるようなものではないものだ。起承転結のような節々の転換やサイクルもあるものだろう。
なぜならば、創造の目的は、未知なるものが既知になり続ける「楽しさ」であり、また、様々な意識の表現、生命の多様性を通じて沸き起こるところの「感動」を味わうことだと思う。
人の物語も宇宙の物語も本質的には違わないものだ。
それは、まさにあなたがうすうす気付き、また願っていることと寸分変わりの無いものであることに、もう気付けるだろう。
●意識原理
あなたやわたし達の本然のこころが変わるに従い、それを常にサポートしている大舞台である地球や宇宙も、あなたやわたし達に見せるその姿を変えてゆく。
あなたやわたし達の本然のこころが変わるに従い、それを常にサポートしているあなたの周囲の人々も環境も、その見せる姿を変えてゆく。
外の世界は、我々の観方に応じて変わるのが意識原理というもの。
「わたしは在る」・・・その有り方をいかようにも自由に表現することが出来る意識的存在・・それを「ひと」と言うのだろう。
また語呂合わせではないが「ひと」は「ひとつ」からの現れなのだ。
●次元は意識存在のさまざまな舞台
次元とはこころの反射せる舞台のようなもの。
今ここでいう次元とは、時空を含む我々の存在世界に対する認識レベルのことであり、外界世界そのものではないことは明らかであろう。
外界世界は、我々の意識の有りかたに依拠しているものであり、その逆ではないのだ。
今の時期は多分に、その意識の励起を促すともいえる宇宙大の仕組みによって、変容の為のエネルギーの増大している特殊な時期かもしれないし、また幕と幕の切り替わる大舞台の転回するような時期であろう。
まず、意識的存在である人間達の内面の励起を通じて外界の質的変化が現れてきている特殊なフェーズなのではないか。
次元が上昇するとは、我々の意識のレベルの深化・拡大のことであり、それに鏡を対するかのように現れてくるのが新しい存在世界である。
●変容、今、花の一大フィナーレを祝う時
アトランティスやムーの逸話はその多くが地殻大変動による清算のイメージがあることだろうが、その本質は語られていないかも知れない。
そのような驚天動地の文明の破滅の体験は、進化し、開花するべく変化しいている生命達の、時期を得た大舞台の変容に気付かず、その転回する大舞台に気付かず眠っているような、意識的ギャップによって生じるものだろう。
無意識を演じつづける存在は、卒業式も学びの1つであるにもかかわらず、それをボイコットして古い世界に安寧を求め続ける生徒・・という比喩もあながちそうそう外れてはいないだろうか。
居残りもまた格別な味わいがあるものだが、今回は地球生命学園自体の花の卒業式ではないか。
今は、もう今までのようにはここでの繰り返しが出来ないのかもしれない。
しかしながら、まさにその選択もまた自由であるし、地球も意識であるならば、その巨視的な観点から推し量るところの「地球」の意思にも自由な選択があるのだ。
巨視的な意識の変容は人間知ではわかりにくいものの、いまのこの地球の変容観察で気がつくのではないだろうか。
しかしながら、あなたも、わたしも、「わたしはある」という永遠の意識に、もう気付いている。
母なる地球はそれを待っていたのではないか。
ワンネスとは、一極全体支配の構図ではなく、与え合いサポートし合うことで響き渡るところの「愛という」コーラスに参加していることに気付くことなのだ。
地球はいつもそうであった。
それは、我々という、今はまだ物質形態で楽しく演技する子供達の為に捧げる歌である。
そして宇宙に響く音楽は、もう次の楽章に行くべき時を告げているのだ。
不定期で手前勝手な記事をいつもご覧頂く「あなた」に、こころから感謝いたします。
本日も、拙い記事をご覧頂きまして、まことに有難うございました。