気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

次元上昇と次元降下(2)

2009-11-29 16:23:36 | 心の科学分野

●今の三次元世界観

この世界は三次元と呼ばれる場合がある。物理学では我々を取り巻く世界、いわゆる時空は四次元で構成されているとも言われている。

XYZ座標指定できる「立体空間」及びその内部にある物質は三次元であり、それらの変化率である「時間」であわせて四次元ということもある。

我々の認識しているこの世界は、宇宙を含む無限大の3次元箱とその中での物質密度や形態の多様な変化で構成されていると考えているということだろう。確かに最も単純化して数式で表せるような時空論である。

そのような物質形態に満ちた空間を三次元と言うのだろう。しかし、これらは世界そのものではなく、単に我々の知覚認識する世界が、時間空間密度とエネルギー、その形態の時間変化率で説明されるとする世界観のことである。

ユークリッドやニュートンを経由して、リーマン、アインシュタインやボームの思考を借りながらその認識を拡大してきた地球人類の「時空観」であり、今最先端では全て波動で表せるという方向にある。

今、科学の最先端では、物質を含む時空形態は全て波動または振動として説明できるかもしれないというところまで来ているといえるだろうが、それもあくまでも素粒子や原子で構成されるこの物質的時空世界の説明としての新たな世界観なのだ。

我々という観察主体の本質を説明しているわけではないのだ。それはあくまでも今の我々の観察するところの物質的世界観でしかない。

次元上昇、アセンション等という言葉で表現されていることは、それらの客観世界が我々の意識と無関係に、勝手に様変わりすることではないということだ。

●自己の世界観のなかに自己を幽閉している人模様

ところで、この世界観の中で、人間は一定の物質肉体で動き回る、単なる知的動物としてそこに参加している風に捉えられているだろう。

これは、世界を認識する当の意識的存在自体が、なぜかその世界自体に組み込まれているという観念を示しているともいえるだろう。

世界を思考、思推するものが、その世界の中の一小部分に自己を没入させて、身動きの取れないような、パスカルの言うような「葦」(あし)になりきっているようだ。

一体だれがそうだと言ったのか。

また言葉を変えて言えば、無限の思考・思推を行なう存在が、その思推の湧出点を自己の肉体という小さな波動の窓に限定している「観念」である。不可思議なパラドックスに「あなた」は気付けるだろうか。

無限の存在が有限を装っていると言う感覚である。

それは肉体の五感の感ずる一定範囲の情報波動のみにリアリティーを付与して安心していることを意味するだろう。そのために、肉体を出来るだけ安寧に維持すべく、いつもながらの不安を友に、孤軍奮闘しているのではないか。

お互いの顔を遠くうかがいながら、今はそれしかないと考えながらも、何だかんだとつぶやきながら人生を歩んでいるようではないか。我々はまさに律儀な蟻のような、実に愛すべき生き方を経験してきたようである。

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●次元降下の諸相

肉体への幽閉は、別の表現で言えば、自己の観念の中に自己を幽閉しているという意味でもある。

大勢の共通の集合観念で慣らされた個々人は、1つの共通理念の中に多かれ少なかれ幽閉されているともいえるのではないか。

その1つ1つの囲いは、実は1つ1つバラバラであり、1つ1つの個人の間の囲いと囲いの間には無限の距離がある。

決して本質では分かり合えることが出来ないという観念に色づけされた「個我」の壁である。人と分かり合えることなどないのではないか?というあきらめでもある。

社会の法律や決め事は、そのバラバラの個我牢獄の間の、おためごかしの橋渡しともいえよう。

巨大なこの三次元世界の中に創った「小さなのぞき穴」から観ている無数の意識達が、即ち今の我々の有様であるといって良いだろうか。また、万華鏡をのぞきこんで三次元形態の様々な有様を楽しんでいる幼児とも言えるだろうか。

その中に入り込んでいる・・そのような感覚は多くの人も理解出来るのではないか。

三次元空間のあちこちに開いた、個我の覗き穴からお互い同士を、怪訝な顔をして見合っているのだ。そうして数十年のちにはその覗き穴はふさがれ、また再び小さな穴を生じて、この次元を観察するようなものだろう。

他者と他者がわかりあうことはないという感覚を確かにあなたも持っていないだろうか。

自己が自己の観察する世界に入り込む、いや創り上げるということなのだが、自己を忘れなければ出来ない芸当でもある。

これはすなわち、意識的な次元降下、分裂化、多様化ともいえるだろう。

 

●もとは ひとつの意識

全てに浸透し、全ての波動、振動を生じるところの根源の波動、「根源意識」は、ひとつのものであるが、人という意識存在・魂は、その搬送波とも言うべき根本の根源波動を変調し、多様性を無限に生み出すところの個別の「自由」を持つ存在でもある。

分裂化、分化の方向の次元降下も「自由」であり、また地の底、海の底の観測から浮き上がり、洋上に、また天空に戻るような次元上昇もまた「自由」である。

意識的存在である我々には、まさに、「汝の信じるごとく汝になる」という法則が働いている。

なるほど、三次元観念への自己幽閉も例えば宇宙規模の認識拡大も、苦も楽も、何でも出来るのは、意識的存在であるところの人間ならではのことなのだろう。

三次元を観ているところの「わたし」は数式や現状の時空論では説明できない。それは自分で自分をいまだ充分知っていないということなのだ。

「わたし」とはまさに「今ある」そのものであり、説明不要の存在であるということに気付けるだろうか。

もとはひとつ、「わたし」とは、何の説明も出来ない存在であると言うことを暗にあらわしているのだ。

光を見、物を見る観察者、それは物質では語ることの出来ない存在であるということを示している

肉体や物質を超えた「わたし」は、いつも今、そこに在っただけのことだ。

意識的存在である人間は、今は「自分」自身を思い出す途上にあるだけのことであるが、また、その学びのプロセスにも何か大きな宇宙規模、いや創造プロセスでの仕組みや促しがあると思われる。

 

●地球という無条件の愛の舞台

人間が意識存在であると同じく、地球も意識存在である。個我のわがままや主義主張や人間的な表現がないからと言って、地球は宇宙に浮かぶ単なる「巨大な土塊」と考えるところの幼児的な誤解に気付くべき時でもあろう。

我々という生命、意識存在達の経験と表現の場を悠久の時間軸で設定、提供しながら、さまざまな時空を創り上げるフィールドを提供している地球という惑星存在の不思議さに気付くべきときではないか。

地球という舞台、人類やその他の無数の生命が様々な表現が可能な「演劇舞台」を提供しているからこそ、偉そうな主張も、悲惨な体験も、感動の経験も可能なのだ。

土、水、気、火・・全て地球の舞台道具なのだ。それに太陽の光、それらが無くては到底生きてゆけない我々でありながら、そのことに気づくのに何千年もかかるのだろうか。

自然への尊敬の念、それは単なる古代の信仰・・などという古い観念のゴミ箱に捨ててきた愚を振りかえり、それらに対する当たり前の「感謝」が今こそできるはずなのだ。

我々の世界を三次元と称し、そのある意味空虚な観念体系のなかで、

自己の周りに肉体という檻をめぐらし、個我やエゴという分裂遊びをしている間も、われらを無条件に生かし続ける、宇宙あるいは地球の「無限大の愛」に気付く時である。

個我と個我の間にある表面越しの、また交渉づくの架空の愛を求め続ける必要はないのだ。

我々自体の意識、想いや感情を調律し、より大きな観点、視座に上昇することにより、我々の「愛探し遊び」を遥かに超えているところの、いわば宇宙的な「無条件の愛」に気付くだろう。

それは全体へのこころからの感謝から生ずる、全体理解の視座への浮揚によるのだ。

 

●次元上昇は今ある

それに気付く意識的存在の増えるのを、いまこの地球は待っている。地球も進化する意識生命体であればこそ、今、ある飽和点に達しつつあると感じないだろうか。

「物語」はすべからく、ダラダラ行なわれるようなものではないものだ。起承転結のような節々の転換やサイクルもあるものだろう。

なぜならば、創造の目的は、未知なるものが既知になり続ける「楽しさ」であり、また、様々な意識の表現、生命の多様性を通じて沸き起こるところの「感動」を味わうことだと思う。

人の物語も宇宙の物語も本質的には違わないものだ。

それは、まさにあなたがうすうす気付き、また願っていることと寸分変わりの無いものであることに、もう気付けるだろう。

 

●意識原理

あなたやわたし達の本然のこころが変わるに従い、それを常にサポートしている大舞台である地球や宇宙も、あなたやわたし達に見せるその姿を変えてゆく。

あなたやわたし達の本然のこころが変わるに従い、それを常にサポートしているあなたの周囲の人々も環境も、その見せる姿を変えてゆく。

外の世界は、我々の観方に応じて変わるのが意識原理というもの。

「わたしは在る」・・・その有り方をいかようにも自由に表現することが出来る意識的存在・・それを「ひと」と言うのだろう。

また語呂合わせではないが「ひと」は「ひとつ」からの現れなのだ。

 

●次元は意識存在のさまざまな舞台

次元とはこころの反射せる舞台のようなもの。

今ここでいう次元とは、時空を含む我々の存在世界に対する認識レベルのことであり、外界世界そのものではないことは明らかであろう。

外界世界は、我々の意識の有りかたに依拠しているものであり、その逆ではないのだ。

今の時期は多分に、その意識の励起を促すともいえる宇宙大の仕組みによって、変容の為のエネルギーの増大している特殊な時期かもしれないし、また幕と幕の切り替わる大舞台の転回するような時期であろう。

まず、意識的存在である人間達の内面の励起を通じて外界の質的変化が現れてきている特殊なフェーズなのではないか。

次元が上昇するとは、我々の意識のレベルの深化・拡大のことであり、それに鏡を対するかのように現れてくるのが新しい存在世界である。

 

●変容、今、花の一大フィナーレを祝う時

アトランティスやムーの逸話はその多くが地殻大変動による清算のイメージがあることだろうが、その本質は語られていないかも知れない。

そのような驚天動地の文明の破滅の体験は、進化し、開花するべく変化しいている生命達の、時期を得た大舞台の変容に気付かず、その転回する大舞台に気付かず眠っているような、意識的ギャップによって生じるものだろう。

無意識を演じつづける存在は、卒業式も学びの1つであるにもかかわらず、それをボイコットして古い世界に安寧を求め続ける生徒・・という比喩もあながちそうそう外れてはいないだろうか。

居残りもまた格別な味わいがあるものだが、今回は地球生命学園自体の花の卒業式ではないか。

今は、もう今までのようにはここでの繰り返しが出来ないのかもしれない。

しかしながら、まさにその選択もまた自由であるし、地球も意識であるならば、その巨視的な観点から推し量るところの「地球」の意思にも自由な選択があるのだ。

巨視的な意識の変容は人間知ではわかりにくいものの、いまのこの地球の変容観察で気がつくのではないだろうか。

しかしながら、あなたも、わたしも「わたしはある」という永遠の意識に、もう気付いている。

母なる地球はそれを待っていたのではないか。

ワンネスとは、一極全体支配の構図ではなく、与え合いサポートし合うことで響き渡るところの「愛という」コーラスに参加していることに気付くことなのだ。

地球はいつもそうであった。

それは、我々という、今はまだ物質形態で楽しく演技する子供達の為に捧げる歌である。

 

そして宇宙に響く音楽は、もう次の楽章に行くべき時を告げているのだ。

 

Yae  

不定期で手前勝手な記事をいつもご覧頂く「あなた」に、こころから感謝いたします。

本日も、拙い記事をご覧頂きまして、まことに有難うございました。


次元上昇と次元降下(1)

2009-11-15 16:42:25 | 宇宙的気付き

精神世界の情報に大なり小なり触れている人々は、アセンションまたは次元上昇という言葉を知っているだろう。

それらの言葉が流布されてきたのはここ数十年以内のことではないだろうか。

それは何なのか、どういうことなのかおぼろげながら理解されている人々もいるだろう。

それが一体何なのかを多少とも理解する為には、今の現状をしっかりと把握しなければならないだろう。即ち外界の状況と、あなたやわたしの内面の状況である。

 

●続いてきた次元上昇の学習場・地球

アセンション、次元上昇等は、ことさらそのような新しい言葉で表わさずとも、今まで様々な宗教や教えなどでも、それは言われ続けてきた。

例えば、人間が成仏すること、昇天すること、あるいは解脱、悟りの境地というような言葉で説かれてきたものは、全て人間の意識の進化または質的転換を示している。

例えばアセンションは「昇天」とも解され、それは「死ぬ」ことではなく、生と死のレベルを抜けることであろう。

いわば、地上界から天界に「戻る」意味であり、単なる死とは異なるのだ。

 

●意識→ エネルギー →物質形態

意識は物質に先立つ根源的な存在であり、決して「死ぬ」ことはない。肉体死は分厚い縫いぐるみを脱ぐようなものであり、中核の魂・意識は不滅である。

これを例えれば、読んでいた本を燃やせばそれは燃えて灰となるが、その中味の記憶は残るようなものであり、また殊更ながら、本の作者自体は無くならないようなものである。

あまりにも本の内容に没入している場合、その本が燃えて灰となったら自分も消えてしまうような錯覚に陥るだろう。

我々は物質的な生と死を超えている存在であるが、あまりにも「生」にこだわるために、その対極の「死」を体験する錯覚に陥るのだ 。

 

魂・意識にとっては生と死は、単に相対的な事象なのだ。

 

●生と死の繰り返しの仕組み

往々にして我々が今までの繰り返しの生において、意識の昇華を果さずに肉体の死を迎えた場合、一気に天界へは戻らないようだ。

この降下次元である物質世界から、死を通じてその魂・意識が離脱した場合、人存在多くは進入する前の本来の高次元と、この物質次元の間にある緩衝次元に留まることを選択しているようだ。

その天界と地上界との間の緩衝次元をいわゆる霊界ともいう。ある存在にとっては休憩場でもあり、またある存在にとっては居眠り場でもあり、修羅場でもある。

即ち、魂・意識がこの地で予定した体験学習は、1回・2回ではクリアーできないことが多いため、何度も地上にリターンバックする為のクッション領域、言われるところの霊界という緩衝層を利用していたのだ。

 

これを天体を周回する衛星のようなものとしても良いかもしれない。地上付近から大気の上空を楕円を描いて周回する飛翔体というイメージもそう外れたものではなさそうだ。

 

一度天体の引力に引かれた場合、それを離脱するエネルギーを獲得しなければその周回軌道から外れることが出来ないようなものだ。我々は天空に飛び去り、そしてまた地上に降りてくるサイクルを行なっているともいえるだろう。

通常は、この生と死、あるいは階層の行き来という、繰り返しサイクルを通して体験と気付きを深めながら、自らの何たるかを思い出す体験学習をしているのだ。

  

●意識の階層構造

我々の地球もロバート・モンローのいうフォーカスレベル、または、多層の存在層で構成されている。物質階層はあくまでも1つのフォーカスレベルにすぎない。今は、多くの人々がその周波数帯に同調・集中しているだけのことである。我々は、今、そうした人々の集まりである人類意識の中にいる。

・・・

それは物質偏重の信念体系というべき、単なる1つの意識階層である。

高次の意識存在レベルから、地上の物質存在レベルの間にも多層の世界があり、狭間にある周波数帯、中間層は古くからは霊界とも言われるが、その霊界も決してアヤフヤな幻想世界ではない。

 

●こころ=意識の同調・変調作用

我々体験学習中の魂・意識は、その時々の我々の意識のコア周波数、別の表現をすれば信念によって、それにふさわしい世界に引かれることになる。

 

生きている間は主に物質層に五感を通して同調しているが、死を通った場合は一番外側の肉体という借りのボディの同調が消滅する為に、肉体を除く意識体のレベルでの同調が行なわれることになる。

 

●睡眠中に行なう意識周波数の変換

あなたも睡眠中に夢の諸フェーズにて、霊界やたまには天界などを訪問しては還って来ているのだが、そのような他世界の知識や好奇心が無い為に、顕在意識のフィルターでいつもふるい落とされている。即ち、表面意識では全くといって良いほど憶えていないのだ。

 

これを例えれば、我々がTV受像機のチャンネル4(例えばこの世界) に同調していることで、その時の地球ドラマを見ているようなものだ。

 

多少ながらも気付き始めた人々にとっても、霊界その他の存在界がいいかげんでアヤフヤのように思えるのは、今見ている・集中しているこの世界の周波数帯から、ある時ほんのちょっとチューニング(同調)が外れてしまうことで、隣接する別の存在界、例えばチャンネル6(霊界)を一瞬の間だけ垣間見ることに原因があるだろう。

充分にその周波数帯に同調できない為、その他の存在世界の知覚情報、映像・音声等に変換された情報等も、極めてノイズだらけのように感じ、映像や音声もかなりボケたものに見えるだろう。

夢の世界というのは、アヤフヤな夢幻の世界と解釈するのもしかたのないことではあるが、夢は内面からの極めて有用な情報と解釈される日も近いに違いない。

 ・・・

問題は我々の顕在意識の気付きのレベルにある。

 

●存在全ては波動である

チャネリングをする人、いたこ、シャーマン、あるいは霊界訪問をしたと称する人々は、まさに意図的また無意識的に、自己の意識周波数ともいえる波動の振動率をシフト・変換した者達といえるだろう。

  

TVやラジオ・携帯電話などを実現する電磁波も周囲の空間に飛び交っているように、どのような周波数帯の波動も、今ここ、同時に存在している。

空は波動の生じることで「空間」となる。今我々の知覚している三次元空間とは、我々の意識の波動で創出されるところの周波数帯域の一定のエリアとも言えるのだ。

  

つまるところ、我々の意識がどの存在周波数帯に同調しているかが、どの世界に存在しているかということを決めている。そう、我々は今しっかりといわゆるこの三次元世界に同調しているだけのこと。

 

我々のこころの働き、即ち想いや感情はその周波数の同調キーである。

  

即ち意識の働きが全てのキーである。

いつも有るのは「今」であり「わたし」であり、その投影たる「世界」なのだ

そう・・・、まさに「今」は、もう眠っていてはいけない時なのだ

  

そう・・・

それも  大笑いして  目覚める時が来ている。

  

 ・・・・・・・・・・・

次元上昇と次元降下(2)へ続く

Chikyu0085

本日も拙い記事をご覧頂きまして誠に有難うございました。


幸せは今ある

2009-11-07 16:21:06 | 心の科学分野

●人が求めつづける幸福とは

多くの人々は今幸せではないと自ら感じているだろうか。多分そうかもしれない

「冗談じゃない、幸せであれば、今のような苦労もあるわけない、当たり前のことだ」・・と想っているのかもしれない。

誰しも幸せでありたいとどこかで願っているからこそ、

冷たい朝に起き出して、仕事をこなし、勉学に励み、嫌な人にも頭を下げ、愛想笑いを顔に作り、疲れた足取りで家にたどり着き、いつかまたこころを眠らせながら床につくのだろう。

●幸福は苦労の先にあるものか

それでも、その毎日毎日の繰り返しにも辛抱し、我慢しながら、自分または家族の為にと密かに奮い立ちながら、いつも来る明日にようやくたどり着いているのかも知れない。

多くの人は、ものごころつく子供の頃からそうだったかも知れない。 そう、今、幸せなどあるわけもないと思うから、きっと将来、幸せになるために頑張っているのだ。

多かれ少なかれ、そのような希望に満ちた未来への頑張りの中に、せめてもの今の幸せを見出しているともいえるだろう。わたしも、あなたも本当に愛すべき人々であるのだ。

 

●幸福には条件が必要なのか

しかしながら、なぜ過去も、今も幸せではないのだろうか。

それは・・・

 世界どこかの誰かが我々の幸せの邪魔をしているせいなのか?

 社会が偏狭だからなのか。

 政治が低俗であるからなのか?

 身近な人が何かにつけ、いつもあなたの足を引っ張っているからなのか?

 仕事の仲間がいつもストレスをあなたに与えているせいなのか?

 お金が、収入が期待どおりでないせいなのか?

 人がうらやむような美貌でないせいなのか?

 こころから愛してくれる人がいないせいなのか?

 豪華な御殿に住めないせいなのか?

 尊敬される地位についていないせいなのか?

 ・・・・・いいや、ちがう。

 

●求める幸福はいつも未来にあるのか

それらの全てが、あるいは1つでも満足できる状況ならば、幸せと思い込んでいるのではないだろうか。

多分、漠然とした意識ではありながら、そう想っているのかもしれない。

実のところ、こころや身体を安楽にする為の「もの」「人」を満たすことが、「幸せ」を得ることにつながると漠然と思い込み、そのいつも満たされざるものを満たそうとして奮闘しているのかもしれない。

何かがなければ幸せではあり得ない・・という刷り込まれたような想いに気付くだろうか。そこには、知らず知らずの刷り込みと勘違いがあるようだ。我々はどうも、幸せを求めているのではなく、安穏と充足を求めているといえないだろうか。

 

●幸せが未来にあるという幻想

 当然ながら、人それぞれのこころのステージ、ステップがあるものの、実のところ、ある人々にとっては、実は幸せなど眼中にないのが事実だとしたら、それは言いすぎだろうか。

幸せという「的」を漠然と頭に描きながら、体やこころの為の「安楽」と「刺激」を求めているだけの場合もあるものだ。

現代社会がこのような乱雑さと活気と喧騒に満ちているのは、そのような人間達の想いを満たそうとしているからに他ならないだろう。

社会は有る面で、本然たる幸せよりも、物的充足と安楽と生きるための、外からの刺激を供給する仕組みになっていることに気がつくだろうか。需要と供給である。

そのためには実によく出来た、幸せを求め続けるだけの世界ともいえるではないか。

あなたやわたし達は、自分のこころの中の奥や隅に隠してある、不可思議な不安や恐怖、あるいは自尊心が腐りかけたような孤独の影に自ら気づかずにいるが故にこそ、その影が社会に投影されてしまい、体験として具現化されていることに気づくだろうか。

そうして、あくまでもその影の投影である世界や社会の有り様の方に不平不満をぶつけるのか。

漠然とした意識のなかで、まず身体の安寧さが幸せに先立つものと思い込んでいる。そのため、身体の安寧さを獲得する為に、多くの細切れの知識と世渡りの術で社会という海を泳ぎ続けるのではないのか。

岸はいつも遠くにあることに辟易としながらも、それでも必死になって彼岸に辿りつく努力をしているようでもある。結局のところ彼岸は、その必死の努力が終わった時にしか到達できない矛盾を感じることを毎度繰り返しながら、いつかどこかで辿りつく希望を、未来に投影し続けていることもあるだろう。

我々が幸せでない?・・まさに宇宙的な冗談ではないか。

確かにもって、それを何世も何生も繰り返すことが出来るのもこの愛すべき地球の支えのお陰でもある。

 

●既に与えられていることばかり

幸せを追い求めること自体、本然の幸せから眼をそらせていることになる。今、無い」と想うから求め続けるのだ。

一見当たり前だが、ここに既に、「いつも得られることのない幸せ」を想定し、その状態をしっかりと得ている所作に気づくだろうか。

我々はいつも求めているものを、今の瞬間に得ているのだ。それに例外はない、気付かないだけのことだろう。

そう、いつも「この先にあるかも知れないという幸せ」を、今の今その通り得つづけているのだ。いつも未来にある幸せというものを、今の今の瞬間に、しっかりと得ていることに判然と気づくではないか。いつも未来にあるということを創りつづけているという笑える話なのだ。

幸せを「求める」行為によって、「幸せが今無い」ことを勝手に設定し、そのままを瞬間に創造しているようなのだ。それがわがまま三昧の放蕩息子の遊びといわれるものだろう。

 

●生かされている事実を思い出す

我々は自助努力で生きていると誰しも想っていることだろう。自分が生きなければ誰が助けてくれるものか・・という、どこか奪うばかりの社会の中で必死に孤軍奮闘しているようではないか。

 

ところで、我々は本当に自分のお陰で生きているのだろうか。

  我々の身体は誰が維持しているのか。 

   数十兆の細胞はあなたやわたしの個人的成果なのか。

  空気はなぜ周りに満ちているのだろうか。

   調和に満ちた地球の大気は、あなたやわたし達の個人的成果なのか。

  水はどうして生命をあらゆる場所に運んでいるのだろうか。

   わたし達は、意図して体に水や栄養素を運んでいるのだろうか。

  大地はなぜ足元を支えてくれるのか。

   我々がその足で意図して地球を支えているとでも言うのだろうか。

  太陽はなぜいつもエネルギーを我々に供給し続けるのか。

   暖かい熱も、全てを照らす光も、たまたまの偶然の「好意」なのだろうか。

   そこには大いなる愛があると観じないだろうか。

例えれば、無限の愛というものが絵として目の前に掲げられていたとしても、我々は紙や絵の具にしか着目せず、それを物質として分解し、額を切り刻み分析し、バラバラにしたあげく、元に戻せないようなことをしているのかもしれない。

また、鼓舞するような書物があったとしても、その中味のテーマなど解読するよりは、外見の装丁や紙ページの量や重量などにしか眼がいかない様なものかも知れない。

全ての被造物は、それを鑑賞・観察し、その創造の本意が理解される為にこそ、存在している。形や物ではなく、それで現すところのこころ、意識の働きに気付けるまで何十億年も必要はないのだ。

 

●意識的目覚めはいつも今しかない

 我々人類が「眠っている」といわれる所以は、我々を取り巻く「いのち」すなわち無限に織り成す「愛の表現」に気付いていないからである。

様々な生命や自然の有様は、我々を十全の愛をもって生かしているにも関わらず、それを単なる確率・偶然として捨て去る意識のどこに、万物の霊長たる人類の意識があるのか。

不満足と不幸を元に車輪を廻し続ける幻想の社会、世界に浸りこめるのは、その人を取り巻くところの様々な自然界の「無条件の愛」の支えが故のものなのだ。

我々を取り巻き、我々自身でもあるところの自然・宇宙は何も文句をつけることが無いのは、無機ゆえでなく無限の慈愛が故なのだ。

 

●人間とはなにか

人間・・それは、

  空気がなくては生きられず

  水が無くて生きられず

  土が無くて生きられず

  光がなくて生きられない・・・

  人々がいなくて生きられず

  動物がいなくては生きられず

  植物がいなくては生きられない・・・

 

・・・しかしながら、全てが愛と調和であることに、

意識的に気付くところの存在が人間なのだ。

そして無条件の愛に対して、

無条件の感謝の念を発することが出来るのも人間である。

それは、創造を創造として仕上ることが出来るところの存在ともいえるのだ。

 

我々は今、いつも、今も過去も、未来永劫、幸せに満ちた存在なのだ。

 人々は・・・あなたの周囲に、これでもかというくらいに大勢いて、それを待っている。

 動物は・・・いつも愛らしく、あなたのそばにいて、それを待っている。

 植物は・・・あなたの糧になってあなた自身の細胞のなかで、それを待っている。

 万物全てが、それを待ちわびて、あなたやわたし達を黙って支えているのだ。

それを「無条件の愛」といわずして何と言えるだろう。

あなたやわたしが、どうということもない事に悩み、後で後悔する行為を繰り返しながらも・・・、

それでも次第にこころが広がり、万物から無条件に既に受け取っている、今有る「幸せ」に気付くことを待ちわびているのだ。

我々は、個々、別個の悩みや不満どころではないはずの、

万物からの無償の愛に、もう気付くべきなのではないのかと言っているのではないか。

そう・・・、我々は幸せなどを追い求める必要自体がないことを悟り、既に有る幸せにいつも感謝するしか手は無いのだ。

まさに今この瞬間が幸せそのものであり、努力して行なうべきは、

まさにそれに気付くところの観の転換のみである。

全ては与えられている・・・感謝を十万遍も言っても・・足りないと思う。

 ・・・・・・・・・・・・

Flower1009

(ふと思えば、何かオーラが写っているような花の写真です。)

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。


生と死・最後の二面性

2009-11-01 15:30:02 | 宇宙的気付き

●生と死の狭間

我々は今ここに生きている。その連続である我々の人生は、時間にして数十年程度のスパンのなかに現れた偶然の出来事の羅列であると考えている人が多いだろう。お金や物の話は誰にも共通する会話になるが、生とか死とか命とか・・そんな会話がタブーになったような世界に我々はいるようではないか。不思議な感慨があるものだ。

多分我々は、生と死の狭間である人生をそれなりに生きているが、その前と先、例えば生前と死後のことは考えないようにしているように見える。多分、肉体である我々は、死んだら終わり、元も子もない・・と考えているに違いない。

我々は朽ち果てるべき肉体そのものであると考えているからなのだろう。それが大勢の人々の 「意識されざる」 または 「責任回避の」 共通観念といえるものだろう。皆がみなそう思っているだろう?・・ことが真実であるかも?・・という「漠然とした信念」ともいうべきものだろうか。他者が他者の顔色を見つつ、様子をうかがいながら何の結論も得ないままでの、無知の状態での放置といえるかもしれない。

多分、何回も無意識で生まれ来たり、そうしていつの間にかあちらに還る繰り返しをしているのだ。地球という物質レベル波動の濃厚の世界には、本然の自己と、物質レベルの体験フィールドの自己の間に緩衝フィールドである、いわゆる霊界が生成される。我々はその緩衝フィールドを何度も行き来しているのだが、物質の波動に同調するたびに一時我々の真我を忘れることも繰り返している。

 

●集合意識の自己幽閉

地上の我々は、極めて小さい物質感覚の世界、五感の世界に幽閉されている、事すらも気づかない状態ではないのか。何事においても、「もうこれが全てである」と考えることの中にこそ、その幽閉の壁が出来ていることに気づかないものだ。幽閉の門の中で何もわからない者同士、世間という囲いの中で、お互いの顔を眺めているにすぎないのかもしれないのだ。

これが「集合無意識」というべきものだろう。我々は今、その観念のいわば周波数帯域の中にいると言っていい。

我々は社会という外界を生きている、見ていると思っているが、実は本当の外界ではなく、集団の観念、その時々の常識という観念体系の世界に生きているし、それを見ていることに気づくだろうか。その観念体系のなかでの出来事や、あるいは眼に見えない方向付け、刺激によって人生を消費しているのだ。よく例に出される個別別個の不安に満ちたか弱い子羊の群れのようなものだろうか。

誰にもある人生、その時々で生起する想いや感情が、社会の常識というプログラムで規定された範囲の中で歪められていることに気づくだろうか。毎度お馴染みの人の間で生じる歪が、怖くて楽しい人生の続きをもたらしてきたのだ。それをカルマともいうのかも知れない。

●死の恐怖は、即ち生への恐怖

社会の中にある様々な人々の言葉、表現、行動は、いかに権威付けされていようと、いかに尤もらしくアピールしていようと、その刹那の生命をただ享受しながら無意識の状態のままで必死になって生きているということだろう。

我々が生きてある・・という意味を真剣に探求すると、必ず生と死を合わせて理解しなければならなくなる。

特に死という現象の先が五感では見えない為に、それを恐怖として逃避しているに違いない。死は忌み嫌われるものとして、いつもいつも我々の認識の外に排除しているのではないか。

そうして死ぬまで、死を回避することの正当性を主張しながら、刹那の人生を送っている場合が多いのではないだろうか。まさに大きな勘違い・無責任・逃避とも言えるものであり、これが人類の集合意識の共通の根にある観念といえるものだ。そのために様々な努力や軋轢、闘い、支配、反逆などが起きているといってもいいものだ。思い出す努力よりも目先の刺激を楽しんでいることを選択しているようなものだろう。

●自己自身を知る事と真反対の世相

自己のあるがままを観ることが出来ないからこそ、その眼を外に向けて固定してしまうのだろうか。そうして外の世界の他者をいじることで、何事かが為せると信じてしまう段階もあるだろう。しかしながら、その他者依存が嵩じて他者を攻めることになることにもなかなか気づかないのだ。

世界の様々な出来事やニュースや権威からのアナウンスも、全て、現象の扱いに一喜一憂しているだけのことであろう。どこかの権威や大統領やさらには陰謀集団や、あるいは政治家、革命家が、あなたやわたし達の幸せをもたらすわけではないのだ。

内面に湧く想いや感情の中にある久遠の創造性よりも、外の世界にあるわかりやすい物質の操作に夢中になっている幼児達が、今の我々の有態と言えるだろうか。

物質に夢中の間は物質の消滅が怖くてしょうがないのだ。そのような意識の場合は、例えば、死は忌避すべきタブーとなる。

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●物質文明の根元にある死への恐怖

大枠は死ぬのが怖いから様々な生への執着行為が行なわれるのではないだろうか。富の蓄積も、権威の追求も、支配への飽くなき努力も、多くは自己の肉体維持の為にあるといっていいのではないか。

限られた命であるがゆえに、それを必死で確保しようとする行為が、経済の発展であり、富の蓄積であり、人集団の中の有利な地位・権力なのだろうか。

他人の言動に悩み、人間関係に悩むのも、仲間外れや孤独という、自己の生存に適さない状況が起きるかも知れないという恐怖から来るとするならば、それはつまるところ、自己の生命の保身にたいする毀損への恐怖からきているのだ。

解決すべき問題は、他者にあるのではなく、いつも自己にあるのだと気づくだろうか。

●あるがままを忌避すること=怖れ

死からの逃避は、恐怖が故のものであり、その恐怖がゆえにまさに今の生が萎縮したものになっているかもしれない。生を生き切ると称して、無意識レベルで爆走するか、あるいは結局のところ汲汲とする人生ともなる原因は、まさに死への無理解と恐怖があることに気づくだろうか。

逆に言えば、自己本然の生を最大限に生きることができていない・・かも知れない為に、まさにその終局である死を回避している場合もあるだろう。

生も死も相対的なものであり、生への執着も、死の忌避もその何たるかを理解しないままのこころの歪を示すものであろう。

生も死も誰にもどこにもある相対的なものであり、それを体験する我々にとってはあくまでも一時的な現象にすぎないのだ。我々は現象を現すところの「因」たる意識であり魂であるからだ。

今の社会を構成する様々な人達は、生と死をあるがままに理解することで、我々自身の本来の生命に気づくことを怖れているのかも知れない。もう少し無意識の状態で遊びたいということなのだろうか。

ところが、必ずやってくる肉体死の後は肉体を離れた状態での生に直面することになる。

●内(因)から外(現象)へ展開する意識

死を回避し続ける手段として、生存競争や様々な娯楽を提供しているのが現代文明であろうか。支配と支配の軋轢や変遷、権力の華やかな飾り、飽食三昧、性の刺激の過剰発露、感情の冷ややかな爆発とも思える戦争・・・全ては無知なる我々自身が目覚めるまでの体験をするための、ある意味での時間稼ぎのようなものかも知れない。

外の世界の誰かが何か良き事をするのを待ちわびるような幼児(おさなご)のこころは、最後のダマシに遭遇することになるだろう。それもこれも、生きて、そして死を通過するのはいつも各自であり、また生きている間に目覚めるのも、いつも自分自身であることがわかるまでのことだ。

そのための繰り返しが飽きるまで行なわれてきたのかもしれない。あなたはもう思い出せるだろうか。

●不滅のものを推し量る

肉体の生成・消滅は、物質組成の様々な変化の一環であるが、その背後にあるエネルギーの不滅は理解出来るかも知れない。物質の様々な運動・変化の背後にある目に見えないエネルギーというものは、既にエネルギー保存則として理解されている。結果である運動・変化の因としてのエネルギーは物理科学でも常識とされている。エネルギーは様々な運動・振動系において、様々な単位として表されているが、その様々な形態変換を通じて存在するものがエネルギーなのだ。

これは生命という形態変化の因としての意識の根本作用に気づく隠喩としては妥当と考えられる。

エネルギーの意識化されたものが情報であり、情報は記憶という形で保存される。物質レベル以上の存在である、あなたやわたし達の魂なるものは、不滅の記憶庫ともいえるかも知れない。意識が体験すること、即ち、想いや感情、経験は、消えない記憶として保存されている。

●降りてきている「蜘蛛」の糸

更には、昨今増えてきた汎世界の情報、多次元宇宙のチャネリング情報、モンローのフォーカスレベルの仕組み、古くはスエーデンボルグの霊界情報、相当に変質された感もあるが釈迦やイエスの言葉なども我々の生命の不滅を説いている。

それらの様々な情報の中にもある、変質されたものや真正なものをより分け掻き分け抽出し、内面の感性を信じながら自己認識に至り、自己の中にある無限の命を再認識すべき時に来ているのだ。

我々は今まで回避してきた全ての相対的な有様を、セットとして統合する過程にある。光と影、男と女、善と悪、そして生と死・・・それらを有るがままに観る必要があるのだ。どれか、何かを忌み嫌い、忌避することはいつまでもその影に怯え続けることになる。

 

生・それもあり、死・あれもあり、それらは単に我々の体験としてある。

  

様々な体験に対する想いや感情は、真我なるわたしやあなた達自身の豊かさを証明し続けるところの朋である。我々の想いの中にこそ本来自然の有り方に帰還する蜘蛛の糸があるのだ。想いを広げ、理解を広げることが今必要な行為なのだ。

●今は古い地球興行舞台の幕引き時期

他者に遊ばれ、小突かれ、また小突き返し、感情逆立て、復讐して喚くような演技はもうこの地では出来なくなるだろう。それも貴重な体験であるが、この地球生命圏はそれらの体験を充分演じきったようである。

例えれば、舞台の興行主が地球意識生命体とするならば、その興行内容は更に感動深いものにするべく次なる努力をするのは当たり前のことなのだ。どんな舞台もパフォーマンスも、その時々のテーマを元にした、始まりと終わりがあるものだからだ。もうこの愛すべき舞台を刻んだり破壊したりする演技は出来なくなるだろう。

次なるこの地球という舞台では、新たな感動と愛をこれでもかというくらいに創造してゆくことになるだろう。ある意味では、これでもか・・という悲しみのお陰でもあるのだ。

愛という言葉がいつも誤解と手垢にまみれていた地球の舞台は終わり、愛と理解、それが当たり前のこと、本然であることがわかるような舞台が演じられることになるだろう。考えてみればこれは自然の成り行きかもしれない。

●統合とは、ありのままを観ること

今我々は、生と死も統合しなければならない時期にあるようだ。

生と死も相対的な現象であり、我々はその相対的な現象そのものではなく、それらを体験する側の存在なのだ。様々な生と死を通じて命を展開してゆくことが、我々の歩いている道といえるだろう。

地球生命圏は物質レベルの形態変化を特徴とする生命フィールドであろう。素材としての物質形態が大自然を代表とするごとく様々に生じるところであり、そのため、我々を含む全ての意識の個性ある発現がわかり易く学べるようになっているのかも知れない。

生と死は意識的存在である人間の最も根本的なテーマであり、古来から伝えられて来たところの「悟り」や「解脱」は、その生と死をそのままに意識的に受け入れるということなのだ。とんでもない大革命を闘うことでも、肉体の変態を行うことでも、多次元世界に消え去ることでもない。

今あるわたしの有り方をあるがままに受け入れるということなのだ。あれがダメ、これが不足というこころではなく、全てがまさにあるがままであり、様々な変化と進化が行なわれている普段の創造に気づくということなのだ。

そうすれば否応も無く、変化と進化を体現している大きなわたしに戻ることになるのだ。執着を放すことは、物質レベルの現象に意識を没入している限りは、確かに難しいといえるだろうが、意識的に執着を手放す行為を通じてこそ、わたしという意識の焦点の転換と拡大・帰還が起きることに気づくだろう。

●放てば手に満てり

いつかまさかの天変地異や大変動等によって否応なく気づかされるよりは、勇気と潔さをもって、様々な執着をその手から開放するべきだろう。

その手放すべきものとは、子供の頃にはなかったはずの「執着」だけなのだ。今、子供の頃の無意識な純粋さをこそ、意識的に再び取り戻す時ではないのか。

様々な繰り返しの人生体験を経た後には、自らで再び純粋なこころを創りあげる意識的行為によってこそ、その大輪を咲かせることになるだろう。地球という生存圏が提供してくれた人類の幼年期の終わりを記念する大輪の花である。またそれは当たり前のあるがままへの帰還でもある。

これは「解脱」といわれる、今の在るがままを「意識的に」認める行為と言えよう。そこには困難や不満や不足があろうはずもなく、ただ感謝があるのみである。

この「地球」の特徴の1つは、人間という、ゼロから目覚める体験をあえて求めて降下してきた、無数の意識存在を受け入れ続けてきたところの、辛抱強い「愛」である。

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本日も、いつもながらの拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。