気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

峠の茶屋・春問答祭り

2019-03-19 07:14:33 | 日記
勝手ながら、昔からこのブログを称して「峠の茶屋」と言っています。
開店以来16年程度過ぎましたが、
毎度ご来訪頂きまして、有難うございます。
どんな営業利益もありませんが(笑)書かれた内容を御賞味いただきまして、
こころより感謝申し上げます。

いつもながらこの峠の辺りは、かなり静けさが行き渡り、
それはそれで味わい深いものがありますが、
ここ峠の茶屋では季節の折々にお祭り騒ぎも行っています。



子供の頃、毎年花見の時には、皆で桜の下で御座敷いたものです。
文字通り、桜の舞い散る美しい情景の中で、
一杯入った赤ら顔の親父達の会話やへたな踊りを眺めたり、
お重に入った特別な料理をつついたりと、そういう思い出もあります。

そういう時折の自然、季節の輝きを感じて喜ぶこと、、
在るがままの楽しさを味わうことも、今では少なくなったようです。

しかしながら、そういう世相にあったとしても
思い切りよく、羽根を伸ばすのが良いでしょう。

だからどうだということもないし、
付帯のコメント欄で心苦しい限りですが、
今回は、桜の花の咲き初めから終わり頃まででしょうか、

質問、問いかけ、疑問、世間話、シェア話その他あれば、
ご参加のほど、何卒よろしくお願いいたします。






世界・宇宙という夢 その6

2019-03-16 06:24:07 | 語り部の章
意識が・・すべての存在顕現の・・根源である。

時間空間も世界も、そして宇宙すら、意識によって映し出されるもの。

本来意識であるわたしたちは、ひょっとして何千何万年も素通りしてきたのかもしれない。

意識は・・自らが映し出す世界・宇宙・時空間の中に、自らを投入し、
さらにそれを忘れるという荒業が出来るのである。

映画・夢を創り、その映画・夢の中に没我する。

映画監督が映画の中にちょっと出演するという生易しいものではない(笑)

そうではないか?

・・・

今の私たちの存在形式の基本、
毎日繰り返される24時間の在りようの基本は”意識”の変遷である。
体の変遷ではない。

「熟睡」は、知覚も思考も感情も、何もない状態だ。

そこから、毎朝・・いつか・・次第に・・目覚めてくる。

何が目覚めてくるのか、・・意識だ。

わたしという感覚・・意識、気づきである。

そこから”すべて”が始まっている。



毎朝のようにビッグバンが起きているといえば、興味をそそられるだろうか?
ちなみに、
宇宙物理学でいう難解なビッグバン、爆発的宇宙創成の理論は、
膨張している宇宙観測等から類推した理論といえようが、
当たり前のように、扱えるのは素粒子・エネルギーなどという、
観測可能で数式表現可能な物理量ばかりだ。

知覚対象世界・宇宙の壮大な成り立ちの理論ともいえようが、
その理論は・・誰が考えているのだろうか?といえば超偉い?学者さんたちだが、

理論とは・・観測・観察・思考・想念・想像によって組み立てられるもの、
現象をうまく説明できる類の理屈であるが、
あくまでも、人の・・「意識」の働きによって描かれている。

石ころが勝手に行うことでも、ロボットが自動で行うことでもなく、
知的生物と言われる、人の”意識”の働きによって描かれている。

何がどうあろうとも、どんな世界であろうと、
宇宙の果て、辺境、あるいは中心であろうと、
悩み多い人生だろうと、愚か者の支配する世界だろうと、

世界・宇宙、なんであろうと、
大きかろうと小さかろうと、卑小であろうと壮大であろうと、
それは・・わたしという「意識」・・の知覚する・対象であるということだ。

あなたが熟睡しているときには、世界や宇宙はない。
意識が土の中の種子のごとき、未分化の状態では世界も宇宙も存在しない。

いや、世界や宇宙はあるはずだと・・思っているのだが、
熟睡の・・その時には・・・、
意識にとって、それを証明する誰も存在していないのだ。

わたし・意識がなければ、世界宇宙も・・無い!
わたし・意識があるから、意識する世界・宇宙がある!

簡単すぎて、あり得ない感覚があるだろうか、
「熟睡」は体の休息という、わかったような表現に騙されてはいけない。

あなたが眠っているときに、そのときに世界・宇宙はあるか?



世界・宇宙という「夢」 その5

2019-03-07 06:26:34 | 語り部の章
熟睡しているときは”意識がない”と言われる状態であり、
無意識などと呼ばれるが、意識が”無い”のではなく、文字通り”眠っている”状態。

これは意識が意識に”気づいて”いない状態ともいえるだろう。
意識はあるが・・それを”自覚”していないということだ。

そこから・・いつか・・次第に意識が目覚めを開始してきて「夢」の状況になる。
そうではないか?

夢を見ているときは、”意識があるが”いつもの現実生活とは様相の異なる世界を経験している状態だ。
現実生活とは異なる様相だが、これにも真剣に対応していることだろう。

夢においても、うれし楽しの夢物語とは到底言えず、
恐怖に顔?を引きつらせたりしているかもしれない。

つまり、夢中では、夢を夢とは思っていないということだ。

それは想念・イメージ・記憶などの断片が勝手に展開する物語を観ているようなものだが、
自分が創っているなどという自覚はなく、「これ何だ?なんなんだ?」という具合に進行しているだろう。




熟睡から夢見への意識の目覚めがさらに進み、
目が覚めてゆく過程で、これは夢だ!と知る段階があるが、
普通はこういう段階にすら気づかず、無視して素通りする場合が多いのだが、
意識内面への気づきの繊細さがある人、つまりより意識的になっている人は、「明晰夢」を見るものだ。

明晰夢、つまり「夢を夢と知っている」状態だ。

「これは夢だから、空も飛んでみよう」と、そんな経験もあるだろう。
「これは夢だから、壁なんか突き抜けられる」と、そんな経験もあるだろう。

明晰夢、夢を夢と知っている・・ことは、単に夢見に慣れたということではなく、
つまり夢を見ている意識・に”気付いている”・・・ことを意味する。

明晰夢は、ある意味で気づきの深化を意味しており、
誤解を招きそうなスピ系表現だが、いわば高次元意識、
あるいはその人が、より繊細な意識レベルにあることを意味しており、
目の前にある夢の物語に完全没我ではなく、”客観視”可能だということである。

「あー、これは夢だね」

我々は毎日、毎日そのただなかにある「意識」の変遷に気づく必要がある。

夢はただ単に肉体五感感覚のない・・意識の経験であることに相違ない。
そして、現実生活は、さらに肉体五感感覚の介在する・・意識経験である。

それらに共通してあるのは「意識」であり、毎日の意識の変遷、
繰り返されるその遷移のプロセスにおいても、
肉体の方は、付加されたり消えたりすることに気付けよう。


熟睡は、未分化の意識状態であり、意識の観るどんな物語もない。
夢見は意識が分化して来た状態であり、意識の観る物語が始まる段階だ。

そして、多くの人が必死になって騒いでいるこの世の現実とは、
意識がある特定の状態に分化した状況の物語を意味する。

そう、現実世界も、単に現れたり消えたりする、意識の観照する物語なのである。
物語に夢中になって、意識の視座を降りてしまい、そのまま我を忘れたままならば、
輪廻転生という慣性の輪の中で生と死を経験することにもなる。

その物語の中で、五感を通じた激しい苦楽の肉体現実を経験しているため、
意識は、肉体自体を自己と勘違いして過ごすため、その強い想念の慣性・惰性によって、
肉体自我として自らを似たような現実に、再出演させるということだ。

無限ループの輪の中を回る経験への自己投入だが、出口のない迷路にはまったようなものである。

たとえ話、寓話だが、、
ある天の王国の王様が下界の庶民たちの生活に強い興味を持ち、地上に降りて行ったが、
いつまでたっても王宮に戻ってこないことに気付いた家臣達が、必死に探し回ったあげく、なんとその王様は、豚小屋の中の豚になっていたことが分かったのだった。
家臣が豚(王の化身)に王宮に戻るように必死に説得したところ、
ようやく自己の何たるかに気付いてきたようだったが、まどろんだ眼をして、
「子豚の面倒を見ないといけないので、今は帰れない」と言ったとか・・。



経験しているのは・・意識そのものであるため、
わかりやすい肉体としての自己から脱し、
次元上位の”意識としての自己”に気づくまでは、そのままということだ。
I AM THAT I AM である。
神々しかろうが惨めであろうが、誰も皆創造主、誰も邪魔などできはしない。

夢を夢と知らず、その時にはリアルな物語と認識してしまうように、
意識は、その意識の対象を「現実」と見做す性質がある。

思い入れ、執着などという「想念」「マインド」によって重みが生じるためだ。

現実世界と言えども、意識の観るものであることには変わらず
ましてや、その世界で創造される肉体という機能による苦痛と快楽によって
物語の信ぴょう性が増すために、幻想が幻想と見破りにくいということだ。
安直な表現ではあるが、これはゲームだと言われる所以なのだ。

集合意識の中に、アセンション、高次元、覚醒などという、
いわゆるスピリチュアルな概念が出てきたことは決して偶然ではなく、
この世が夢だと気付く時の合図と言えようか。

悲惨で愚かしい夢すら、それが夢と気づかない長い長い状況を経て、
「もういい加減にせい!」という、静かだが大いなる声が、
同じく地球という意識をも通じて、
真のわたし・・である真我、(宇宙)意識から聞こえて来ているはずだが、
あなたは気付いているだろうか?


在るのは・・ただ・・意識。
すべてが生じる・・それが・・真のわたし・・である。

この世、現実、この世界・宇宙も・・意識の見る「夢」の1種に過ぎない。



世界・宇宙という「夢」 その4

2019-03-02 13:30:48 | 語り部の章
私は子供ころに父親に連れられて、怪談映画を観に行った記憶があるが、
子供ながら、そのオドロオドロさに耐えきれず、客席の後ろにじっと隠れたまま、
決してスクリーンを見ようとはしなかった(笑)、
今では懐かしい記憶だが、それが人によって創られた「恐怖の物語」であるとわかっていたならば、その歪(いびつ)な観念や恐れの表現に辟易しつつも、
恐怖に色付けされた感情の嵐に巻き込まれずに、適当にやり過ごすことができただろう。

幻想、仮想現実とはそういうものだ。
同じく、この世界・宇宙さえも(宇宙)意識の創り出す幻想なのである。
・・・

誰でもそうだが、人が夢を記憶できるほど意識内面に注力できる段階ならば、
夢を見ているときは、大概その時は、それが夢だと思っていないことを”知って”いる。
つまり目の前の現実として、いや意識の知覚世界として、
真剣に ”夢中で”対応しているのが常だ。

そうではないか?
この現実という世界も、同じく、意識が観ているものに過ぎないと理解できるはずである。

理解とは単に言葉、概念を知ることではなく、悟ること。
悟るとは・・ほかでもなく・・”わたし-自身が--それ”だと気づくことだ。


見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れるという、
苦痛と快感を伴う実にリアルな身体感覚、そしてそれに反応する脳マインド・こころによって、これこそが現実だと思い込み、その思い込み・集合信念によって、
この世界での観察母体であるはずの肉体の、その出現(生誕)と消滅(死)のサイクルにはまりこむのだ。

意識の投射する、同じような”信念体系”の世界に繰り返し、夜に寝て、また朝起きるように、非顕現と顕現の間を行き来することが・・輪廻転生と言えよう。



意識は、認識・知覚対象を”現実”とみなす性質があり、
それがマーヤと言われる神(マインド)の創り出す、仮想現実というリアルな物語となる。


知覚するとは、意識の働きであり、それ自体によって、
意識の対象である・・・世界・宇宙が顕現しているということだ。

人生において、真に探究すべきは、無限に拡散する”物的現象世界”でもなく、
様々に変幻する”こころ、思考、マインド”の世界でもなく、
それらすべてを自身の中に内包しているところの、・・真なる・・わたし自身の本質だ。

その探求過程を、魂の進化や悟りへの道などと呼んで良いだろうし、
またそれに執着する必要もないと思う場合もあるだろうが、

下りに下った、今の次元世界では、朽ち果てる肉体を自身だと思い込み、
その中でまどろんでいる魂・意識が多いのかもしれないし、
またそういう視点、観点すら探し当てていないのかもしれない。

しかしながら、夢を観る者に終わりがなくとも、
見ている夢の物語自体には、はじめと終わりがあると知らねばならない。


毎日眠り、毎日目覚める・・その意識のプロセス、
無意識から意識への変遷と”同時に”起きる世界の出現と消滅という、
顕現と非顕現のサイクルを、誰もみな、
いつも、常時・・目撃していながら・・気づかず素通りしている。

多くの人が、どこか「自分は単に肉体だ」と信じ込んでいるため、
毎日の生活の基本は、ただ単に、体が眠って、目覚めるだけと思っているし、
また自分たちの肉体の生存のための、飴と鞭でできた社会的システムに、
我勝ちにはまり込んでいることも多いかもしれない。

気づけばかなりな悪夢のようなシステムであるが、
そこには、何もせずとも気づかずとも、自動的に許されるような
つらい奉公にもいつか来る”年季明け”等は無いとも言えよう。

なぜならば、
自身が仮想現実を映し出している元締めであるからには、
それぞれ、わたし自身以外に、誰も・・その解除を行えないからである!

I AM THAT I AM.

こういう話も、どこか荒唐無稽な「夢物語」と思うだろうか。
あるいは現実だと思うだろうか?

夢の物語の中で、わたしたちはどこからきて、どこへ行くのだろうか?

そして、その夢を・・観ているのは・・誰だろうか?