気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

見性成仏

2010-09-12 12:05:53 | 今大切な禅の言葉

昨今はアセンションや次元上昇やらという言葉がスピリチュアルな世界等で流布されてきたようだ。

アセンションする?とかしない?とか、そういう楽で軽い言葉もあるようだが、確かにいえることは、多くの人々の中に、今の人間の有り方に対する疑問府が生じ、ようやく本来あるべき有り方に気付きだしてきたのだともいえるだろう。

 

我々は科学や技術の進展によって、現代社会での多様な快適さを得ているように見えるが、それは、あたかも本来の道から遠く外れた、あだ花多き、幻惑の花咲く『脇道』だったようだ。

様々な情報の氾濫、刺激に満ちた出来事・ニュースの類、身体的快楽等をお金と引き換えに提供する仕組み、それらは物質・身体中心の幻惑・麻痺を生ずる横道、迷い道であったといえるだろう。

我々の多くが他生にわたる繰り返しの人生を、その迷い道で過ごしてきたのかも知れない。

なるほど、それも道中の楽しみでもあったろうか。

 

しかしながら、人類は今・この時、その迷い道から急激に方向転換している最中のようだ。それに気付いている人は増えて来ているかもしれない。

あなたもそうだろうか。

 

言うならば、アセンションとは、眼に見えるばかりの、物質・身体への自己投入から足を洗い、こころを洗い、くぐもった常識という観念の壁を越えて勇敢に進むこと、

すなわち今よりさらに大きな自己とそれに呼応する大きな世界へと『意識の視野』を広げることなのだと思う

あなたは、・・・どうするのか?

 

注意すべきことは、スピリチュアルに親しむといえども、単にそれによって、外から何かの幸せや理想世界を得るということはないということだ。

 

すべては人の内部から輝くものに従って、ちょうどその程度に現れるものだからだ。

仮に外からの光によって一時照らされる時期もそう長くはないだろう。

 

おのれを『磨かず』して『光る』ものは無い、確かにこれが道理である。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

今回の記事は、江戸時代の白隠禅師の言葉であるが、これは長くご支援を頂いている親愛なる読者の方に頂いたものだ。

 

本来、・・人とは何か? を五七語調で表している。

多少古めかしくはあっても、これらの言葉の中に、

実に、時代を超えた、普遍的な『慈愛』と『輝き』を観ずることが出来るだろう。

 

人は皆、かならずここを通るものだ。

それを別にアセンションと言わなくてもいいだろう。

それは誰にもある『通り道』のことなのだから。

 

この文は、ちゃっちゃか眼で追うものではない。

 

ゆっくりと観じて頂ければ、ひょっとして、いや間違いなく、

あなたの礎となりましょう。

  

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衆生 本来仏なり

             迷える心を持つ わたしたちも 本当は仏なのです

水と氷の 如くにて

             それはちょうど水と氷のようなもので、

水を離れて 氷なく

             水がないと 氷ができないのと 同じように

衆生の他に 仏なし

             わたしたちをぬきにして 仏はありえません

衆生 近きを知らずして

             わたしたちが 仏であることを 知らずに

遠く求むる はかなさよ

             あちこち探しまわるのは むなしいことです

譬えば水の中に居て

             これは、たとえば水の中にいながら

渇を叫ぶが如くなり

             水をください!と叫んでいるようなものです

長者の家の子となりて

             本当はとても幸福なのに そのことに気付かず

貧里に迷うに異ならず

             「わたしは不幸だ」と 嘆いているのと 同じことです

六趣輪廻の因縁は

             いつまでも 苦の世界から 抜け出すことが出来ないのは

己が愚痴の闇路なり

             自分の境遇を くよくよと 嘆くからです

闇路に闇夜を踏みそえて

             その長い長い 闇をとおり抜けて

いつか生死を離るべき

             生きる・死ぬという 想いから離れることが肝心です

それ摩訶衍の禅定は

             そのために「禅定=こころを見通し、こころ落ちつける」という行いは

称嘆するに余りあり

                                 想いもよらぬ悟りをもたらすのです

布施や持戒の諸波羅密

            他人への施しや 自身へのいましめなどを行うこと

念仏懺悔修行等

                                真理の言葉の詠唱や心身の清めなどをすること

その品多き諸善行

            さまざまな よい行いがありますが

皆この中に帰するなり

            それら皆、「禅定=こころを見通し、こころを落ちつける」ことにあります

一坐の功をなす人も

            ひとときでも、心頭を滅却することが出来る人は

積みし無量の罪ほろぶ

            悩みごとや罪の思いも、実はなかった・・と気付くのです

悪趣何処(いずこ)に有りぬべき

            悪い事など、いったいどこにあるというのでしょう?

浄土即ち遠からず

            極楽はいま、ここにあるのです

辱なくもこの法を

            ありがたいことに、この教えを

一たび耳に触るる時

            一度でも耳にしたときに

賛嘆随喜する人は

            深くほめたたえて信じ、うけ入れる人は

福を得ること限りなし

            かならず幸福をえることでしょう

いわんや自ら廻向して

            ましてや自らひたすら祈りや精進をして

直に自性を証すれば

            本来の自分を感得することが出来れば

自性即ち無性にて

            自分があれやこれや、男や女やの区別なく

己に疑論を離れたり

            その瞬間、既に執着や煩悩から離れているのです

因果一如の門ひらけ

            人は仏と一体であることを悟るのです

無二無三の道直し

            真理の道から外れずに

無相の相を相として

            現れた形によらない 本来の無限の自己に気づき

往くも帰るも余所ならず

            どこであっても常におのれを見いだすのです

無念の念を念として

            想いに捉われず、観自在のあり方をもって日々過ごすならば

謡うも舞うも法の声

            どんな行いも そのまま仏の行いであります

三昧無礙の空ひろく

            こころが澄み切れば、大空のように自由にどこまでも広がり

四智円明の月さえん

            こころ模様の雲の上に、いつも輝く月が輝いています

この時何かを求むべき

            この あるがままの美しさの他に 何を求めるのでしょう?

寂滅現前するゆえに

            目の前の現象にとらわれないあり方であれば

当処即ち蓮華国

            この世界はそのまま極楽であり

この身即ち仏なり

            この身が そのまま 仏なのです

        

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

             

人、皆、ここにおいて行なうべきは、限られた生命、限られた人生の中でこそ、その無限さに気づくことだ。

その無限さは、今の『真のあるがまま』を、観ずることで見いだすことが出来る。

 

『こころ』は有る時は立ち騒ぎ、また喜び、あるいは有る時は怖れ、泣き叫ぶとも、 こころ・それ  を観ることが出来る『あなた』自身を発見すれば、

 

それは雲の上に輝る月と同じく、不動で、清らかで、美しいものだとわかるだろう。

それが本来の有り方である。

 

何をどう観ずるかは、ひとえに、 あなたの「こころ」の曇りの有り無しにかかっている

そう、それこそが、この地球という次元舞台での醍醐味なのだ。

 

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 本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました


ただ当たり前であること

2010-08-22 10:10:38 | 今大切な禅の言葉

いのちを惜しむことなかれ

いのちを惜しまざることなかれ

   (道元「正法眼蔵随聞記」より  日本の名言集:リベラル社刊)

  

命を惜しんではいけない。また命を惜しまないことがあってもならない。

命を後生大事にするような生き方では、何事にも積極的になれず、中途半端な人生を送ってしまう。

その一方で、命を簡単に投げ捨てるような考え方では、つまらぬことで本当に命を失ってしまう。

限度を超えない程度に、必死になって物事に当たらなければならない。(前出書p24)

   

  

家は洩らぬほど、

食事は飢えぬほどににて足ることなりけり

  (千利休 )

  

家は雨露をしのげる程度、食事は飢えない程度にあれば、十分である。

必要もないのに豪華な家に住んだり、食べきれないほどの食事を楽しむことは、

本当はむなしいことなのかもしれない。

もちろん家や食事に限ったことではない。

見栄や欲から必要もないものを求めていてはキリがなくなり、永遠に欲求不満のまま過ごさなくてはならない。  (前出p26)

 

 

貴となく、賎となく、労となく、少となく、

悟りても死、迷うても死

   山本常朝 『葉隠』 より

身分の高い人であろうと、低い人であろうと、老いた者も若い者も、悟りを開いていても、

迷っていても結局は死を迎える。

死は誰にでも平等に、そしてどんなタイミングでも訪れるもの。

そのことを考えれば、自然に自分がどう生きるべきか、どう日々を過ごすべきかが定まってくる。

死ぬ間際には、充実した人生だったと思えるようにしたい。(前出p27)

 

 

身をやぶるよりも、

心を傷ましむるは、人を害う事 なお甚だし (はなはだしい)

   吉田兼好『徒然草』 より

 

身体を傷つけるよりも、こころを傷つけるほうが、人にとってよっぽど害が大きい。

心に負った傷は容易には癒すことができない。

そのことをわたしたち自身がわかっているようで、わかっていないことが多い。

ひとの心に与える傷の大きさに気がつかないばかりか、

自分が受けた傷の大きさに気付かないこともある。(前出書 p29)

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悟ってみれば、

仏も下駄も同じ木の片である

   (一休)

仏像も下駄も同じようなただの木片にすぎない。仏像は人にあがめられるが、下駄は人の足の下に敷かれる。

しかし、元を正せばどちらもただの木にすぎない。

物事の本質をとらえれば、つまらない事にこだわらずに生きていくことができる。

そうすれば本当に大切なことが見えてくるに違いない。少しずつでも、つまらないこだわりを捨てていきたいもの。(前出 p30)

 

・・・・・・・・・・・・

いつも気をつけるべきは、世界の諸悪のことではなく、

それを観て、感じているあなたのこころのほうである。

 

各人が行なうべきことは、無際限に広がる果てし無い世界の浄化ではなく、

あなた自身の魂の、道具であり、レンズであり、世界の窓であるところの

あなたのこころ以外にないのだ。

 

自分の内面から発することで、

身の周りの対象への感謝の言葉を投げかけることが出来るようになり、

それが次第に広がれば、嫌でもあなたの知覚する世界は浄化されるのだ。

 

人それぞれに共通の、大切な修養とは、

知識の増大でもなく、地位や名誉の獲得でもなく、ましては銭金を蓄えることでもなく、

ましてや修養も何もにせずに、単に肉体を生き長らえることでもない。

   

眼を見張り、こころに振り回されずに、

只、(ただ)

今この瞬間に生きていることに、心底気付けるならば、

感謝など無理せずとも沸々と、嫌がおうでも、

あなたを通して現れて来ざるをえないのだ。

 

もしそこに、感謝の涙があるならば、

それは多くのこころをきれいに洗い流す聖水となる。

 

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あるがまま

2009-08-02 10:18:30 | 今大切な禅の言葉

 宇宙、森羅万象を見て驚愕し、その不可思議さの何たるかを感得しようとすれば、「論理」は結局役立たずであろう。 一見分かったような解らない様な、古来から綿々と続く「言葉」にも注意を致し、耳を傾け、心を傾け、共感することで、宇宙森羅万象の、その大枠の因の波動を感じることが出来るものではないだろうか。 結果を先に取ろうとする魂胆と期待を廃し、自ずから、見て、聞いて、ただ感じることのなかにこそ、あるがままを理解する「こころ」の姿勢が創造され、あるがままの宇宙の有様を映し出すことになるであろうと感じないだろうか。

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●挨拶 (あいさつ)

一挨一拶、その深浅を見んと要す」 (碧厳録)

 我々の人と人との接点にあるものが「挨拶」だ。おはようございます。こんにちわ。ごめんなさい。以心伝心の高度な意思疎通に気付く以前にわきまえるべき行為であり、それはおたがいの相互認識を、改めてお互いに示す「言霊の発信」と言えるだろう。また、その「挨拶」により、その発信者同士が、どの程度覚醒をしているものかわかるものだ。ある意味で生きてあるもの同士、求道者どうしの阿吽の励ましと共感ともいえるものだろう。

 素直に、こころ込めて他者に挨拶が出来る人は「1つ」間違いなく達成した存在である。小難しい表情、思わせぶりな態度、期待を促すような吸引、尊大な弾かれるような雰囲気の存在は未だ覚醒に至らぬものである。ましてや挨拶が出来ない・しないという有様は、人として「これからの存在」であることを示しているのかも知れない。

当たり前のことが、いかに自然に出来るか?それでその存在の「今」のあり方が解るものだろう。

 

●宇宙無双日 乾坤只一人

 「うちゅうに そうじつなく けんこん ただ いちにん」  嘉泰普燈録

 宇宙における太陽が、我々の全てを生かしているように、あなたも世界の中で、唯一無比の価値ある存在である。

このような言葉を、耳に心地良い単なる比喩ととらえるべきではないのだろう。まさにそのようであるのだ。乾坤(天地に)只一人、あなたも私たちも、ユニークで且つ唯一の存在だ。

 

●放てば手にみてり

はなてば、てにみてり 」   正法現蔵:道元

 何かを持っていては他のものが持てないということ。当たり前のことであるが、1つのことに執着していては他の理解が出来ないと言うことでもある。お金も地位もあるいは執着している価値観も、全て現われては消えて行くさだめのものである。手放すということは、感情込めていやいや捨て去ることではなく、元々手には何も持っていない・ということに心底気付くだけのことであり、あるがまま、そのままを観る行為にすぎないのだ。

 執着を放てば、あなたの手には、只元からのあるがままが残る。残るのは、ただあなたやわたし達の「あるがまま」しかないということだろう。悠久の無限を現しているように見える世界の全ての有様を感じること、それは、まさにあるがままを持つことに他ならず、それ自体に恐怖など不要ということだ。もともとそうなのだから。

 

●無一物中無尽蔵  

 「むいちぶつちゅう むじんぞう」   蘇東波(そとうば)の詩

 「人間本来無一物」とも言われる。 しかしながら現代は、いかに多くを所有するかの競争にはまり込んでいるのだろう。まさにその為に大勢が大忙しのようだ。 そうして何も持たず去ることになることすらも理解が出来ないお芝居をしている最中でもあろう。 確かに普通ならば「あり得ないほど」の体験をしているのだ。

 森羅万象、人間も含め、あらゆる生命表現の因は、それが無限であるからこそだ。その無限を怖がっていることも、1つ、本来無限たるあなたやわたし達の、実は愉しい遊びなのである。

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●照顧脚下

しょうこ きゃっか」 

 前や外ばかりを意識していては、元である自己がおろそかになるものだ。自己を顧(かえりみ)て、その存在たる本来の有り方に気付くべきだろう。 あなたが見ている外の世界はあなたなくしてあり得ないのだ。その世界を認識している「あなた」が元にあることを忘れるべきではない。 他の人の世界も他の人がそこに在る間だけの世界であり、あなたやわたしの世界も、まさにあなたやわたしが認識している間だけの世界である。

 元の元なる自己を顧ずして、外の世界がわかろうはずもないのだ。おのれのこころを顧(かえりみ)て、それを知らなければ、他の人のこころも解りようがない。極めて当たり前だろうか。

 

●明歴歴露堂堂

めい れきれき ろ どうどう

まさに明らかな(歴々)ありのままの美しい世界を見るべし!・・

 いまある視覚を通し、五感を通し、あるがままの世界を、内面のこころで感ずるべきものだろう。その世界をいかに切り刻んで加工し、挙句の果ては汚濁にまみれたものにしようとも、今この世界があなたやわたし達の目の前に現われ続けてくれる事実を観るべきだろう。

 必要なことは、世界の加工・改革などでは毛頭なく、自分の内面にある多くの「影」を観ることであり、それを辛抱強く観ることで影に光を当て、それを体験として認識・昇華することであろう。外を眺める心の窓が、本来自然(じねん)の有様になれば、そこから見える世界は、本来自然(じねん)の有様であることは、まさに自明の理ともいえるのだ。

●掬水月在手

 「みずをきくすれば つきてにあり」  春山夜月:干良史(うりょうし)作

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中唐の詩人・干良史の「春山夜月」という詩の一節。

月夜に水を手ですくってみれば、月の姿、光は手のなかに在る。

 あるがままの自然をそのまま丸ごと、単に認めることで月もあなたの手の中にあることが分かるだろうか。それとも何億トンという物量の塊の月が所望だろうか?我々の意識の段階、ここ、いま在るところであっても、いつも最善を超えた美しさが無数にある事に気付くことが出来るのが、恩寵でありまた責務とも言えるだろう。

 

●逢茶喫茶 逢飯喫飯

ほうさ きっさ ほうはん きっぱん」 (螢山禅師)

茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては 飯を喫す。

 当たり前のものごとが、自然であり、いや、それこそまさに奇跡であり、有り難いことであることに気付くならば、求めているものは既にあることに感謝しか感じないだろう。求めて求める行為の止んだときに、既に在るものに気付くことだろう。お茶を飲む時はお茶を飲み、飯を食うときは飯を食う。観念の世界に閉じこもることなく、今、当たり前に感謝することが「悟り」ともいえよう。ほんの少しの違いだが、全く違う次元にあるとも言えるかもしれない。

既にそこにあるものに気付くか、気付けないか、只それだけのことでありながら、ホンの少しのこころの違いがまさに、断崖のように立ちはだかると感じるかもしれない。量は質の投影であれば、まさにそのように映ることもあるだろう。人の意識が、物量の中に埋没したならば、まさに物量の壁が立ちはだかるのだ。

 「静」かの中にこそ、無限の「動」きを見ることが出来るものだ。激動の世界を見て一喜一憂しているその当人であるところの自己を観る必要性は「今」をおいて他にあるだろうか。各自の世界という影絵の、作者である当の自分を観ることが出来れば、それは、今でも、いつでも本来自然の「道」にあることを示している。

 「あるがまま」とは、いま在ることが、今の今、常に最高最善であることを知ることなのだろう。

そこには執着も逃避もない。固定観念も夢想もない。神も悪魔もない。過去も未来もない。

 ただいま」、只、今がある。 あなたは放蕩三昧から、今、あるがままの大いなる元の自分に帰り着いただろうか?

Anki(谷中 安規  作)

本日も誠に拙い記事をご覧頂きまして、まことに有難うございました。


宇宙と人間

2009-05-17 11:40:16 | 今大切な禅の言葉

竜安寺の石庭は有名ですが、それは単なる庭師の作ではなく、確かに何事かを発見した存在からのメッセージだと感じます。

Ryoanjidry_garden 一見すると大海原の中の島々のように感じるでしょうか。島の周りには同心円を模した「波」が描かれており、その波が遠くの別の島々にも伝播し、相互につながっているようです。

 同じく宇宙の有り様も示しているのでしょうか。大宇宙の中に浮かぶ様々な天体と大気圏、または時空存在フィールドのようです。さらに観点を拡大すれば、無限に広がる、それぞれの島宇宙をも表しているかのようです。

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 また世界の中に在る個人個人をも示しているのでしょうか。様々な個々の存在を取り巻く、白い砂で形づくられる「波」、個人個人の思い思いが、寄せては引く、波を通して広がっているようです。箱庭の世界。

 

 また「色即是空」を表現しているのでしょうか。空(くう)の中に現われる様々な物質、組織、現象物、それらを総合した「顕現模様」、その変化し続ける諸現象・多彩極まりない顕現模様が可能なのは、すなわち、白い砂で象徴される、空(くう)の中にあるがゆえです。空(くう)の中に湧き出でる世界、様々な顕現模様が可能になるのは、空に生じる波模様、白い無限に小さい砂で描かれている「波動」ゆえのものです。我々の物質世界を構成する、素粒子をも彷彿とさせます。

 我々が、観客として、何の気なしにその石庭を訪れること・・、その庭を、個人の思い思いのうちに眺めること・・・、そのこと自体も大きなメッセージがありそうです。石庭と人間の関係でしょうか。いや、宇宙と人間の関係でしょうか。

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 我々は、その「有限の庭」というゲシュタルト(形態)を通じた「無限」を表すメッセージを眺め、それを観照し、そこから我々の存在の意義をも感じ取ることが出来るのです。すなわち、我々は石庭を眺めている立場の者、本来、色即是空、空即是色で象徴される存在表現を、「超えたもの」と云えるのです。

 我々はいつも、世界に在りながら、その世界の片隅に属しているような、ちっぽけな存在ではないということです。悟りや解脱は、ある意味で、より大きな自己への帰還です。常に自己自身であり続けながらも、小さなこまごました周りの物が次第に脱落してゆくのは、まさに枯葉が落ちるように、自然なプロセスなのです。

まさに、あるがまま、自然のまま。そこには、本来執着や恐怖など、どこにも無いことが分かるかもしれません。

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本日も拙い記事をご覧頂き、まことに有難うございました。

 


いつもある「私」

2008-04-12 10:53:51 | 今大切な禅の言葉

「求心やむ処、即ち無事」 (臨済禅師)

  外に求める心がなくなり、自分の内なる純粋な魂(仏性)と出会うことが出来れば、その人は無事であり、おのれの尊さに真に目覚めることになる。

 

●いつも今、気付いている存在・「私」

私とは、今この瞬間に気付いている状態を表しています。私は今、いつもの生活空間にいることを知っています。

今日も外は明るく、太陽が出ており、風があり、人々はそれぞれ動き回り、昨日と同じように、そこに存在していることに気づきます。毎日毎日少しづつ変化していながらも、いつもそれを認識するのは、この「私」という存在です。今生きている・・という自覚ともいえます。

環境を認識するのは我々の五感感覚、思考、想像というもので行なわれていますが、それらの働きを通じて、その外の世界を外の世界であると認識しているのは、いつもこの瞬間にある「私」という存在形態です。

このように、いつも在るのは「私」という気付きの状態です。感覚、触覚、思い、想像などは、私というこの瞬間にある存在形態を形作るツールであるとも言えます。心地よい感覚、不快な気持ち、熱い思い、不透明でぼけた思い、昨日の回顧、明日の予定の想像、それらは全て 「私」 が行なっていることに気付くはずです。

●自分の発見とは意識的になること

「気付くこと」は、何かを新たに感じることであり、言葉を変えて言えば、何もないともわれるところから、何かを抽出してくる行為であり、それが日常の出来事にピッタリと当てはまるかどうかは別として、今までにないものを、今ここに描き出す行為とも言えます。道端に咲いている花を意識して見ると言う行為をしなければ、そこにあっても無いがごとくに通り過ぎてしまうでしょう。

我々が今生きている・・ということに、我々は意識的に気付いているでしょうか。そこにあると言われるものでも、無意識的に通り過ぎていないでしょうか。それらは当たり前の事として、自分の背中の方に追いやってしまっていないでしょうか。私という第1義的な気付きを、忘れていないでしょうか。私は今、生きてここにある!ということが忘れ去られていないでしょうか。

●雑踏という外の世界

当たり前のことに飽きてしまい、外の世界の刺激や夢や恐怖ばかりを追いかけていないでしょうか。「私」という第1原因をすっかり忘れてしまい、外の多くの雑多な、ごちゃごちゃした雑踏の中に入り込んでいないでしょうか。雑踏の世界に入り込み、それを理想の世界に変える夢をもっている場合もあれば、その雑踏にがんじがらめになっていると思い込み、泣き叫ぶ場合もあれば、雑踏の中のアブクのような、富や名声にしがみついている場合もあるでしょう。

雑踏というのは、多くの人間が作り上げる共通観念の世界であり、幸せや安心が外の世界にあると信じる集団の作り出すものです。その雑踏の中には、当然「私」という第1義的な原因者などに気付いている人など少ないわけで、全て空虚な中に何かを求めて騒いでいる人達ばかりがいることになります。働き、怒り、嘆き、疲れる経験を繰り返していながら、それを体験している「第1義的な私」を忘れているようです。これに気付くまでは、雑踏の中でもまれ、疲れ果て、心がぼろぼろになりながらも耐え忍んでいる状態が続くでしょう。あたかも苦しいのが誰しも当然であり、それを耐え忍んで、雑草のようにのし上がり、周囲を睥睨するようになることが強い人間であるという、最もらしい暗示の曲も流れています。・・・そうだ、苦しくとも頑張るんだ、それが生きる道である、と言う考えが、雑踏をさらに大きくしていくことに気がつくでしょうか。一見もっともらしい世間的な常識ですが、なぜ苦しい生活をしなければならないのか?という疑問が出るほどの余裕もない異常な状態にいるのだということに、気付く人はそう多くないかもしれません。

●遊び好きな放蕩息子の集団

例えで言えば人類の多くが無意識的に放蕩息子になっているのかもしれません。今ここにある私という第1義的な存在原因を忘れて旅に出て、何処か遠くを探し回る人達の大集団のなかで浮かれ、踊り、悲しみ、苦しむなどの経験しているようです。その集団の中では、いつも誰にもある価値観は「他人」です。人に言われ、人に誉められ、人にいじめられ、人に殺され、人に助けられる、人の政策に問われ、人に騙され、人に貢がされ、人に与えられる。それらの連綿としたシステムの中でもまれているのが見えないでしょうか。

それらの遊びもそろそろ終わりにしていいのだと思いませんか。次から次に参加してくる人々はその人々の必要な経験をしたくてやって来るわけであり、いつもある「私」に気付いた存在は、もうその遊びから外れてもいいのではないかと考えます。気がつけばいつも、無限に近くにあった「私」という存在に戻る時間でしょう。放蕩三昧も良い経験でした。その遊びをする為のキーワード「外の世界」をポケットにしまって、自分というお家に戻る時です。

●五時の帰宅の鐘がなっている

我々は数千年に渡り、放蕩息子の世界を経験してきたようです。考えられることはなんでもありの世界を経験してきました。その世界自体を一瞬に壊すほどのエネルギーも、そのパワーゲームの途中で作り上げています。なんでもありの世界にさらに心までも破壊するエネルギーもボツボツと出来てきています。天地の動きに衝撃を与えるようなおもちゃも出てきました。それらはもうこれ以上の遊びが遊びで無くなることを示しているでしょう。なんでもありの遊びの中から、遊びそれ自体を壊してしまうものが出てきた時点で、そのゲームは終わりになるのは当然の理解ではないでしょうか。

●自分に戻る時間

我々は良く遊びよく学んだのです。いつまでも1つの遊びにこだわる必要はないでしょう。何でもありの遊びの場を提供し続けてくれたのは、この母なる地球です。我々が表層のこの肉体を基点として、多くの時代、時空を認識し、記憶で育てて来れたのも、天地たる父母の許し、宇宙の愛のおかげです。

母なる大地、父なる天はこう言っているようです。

「良く遊び、良く学びました。満点です。父母もおかげで大きく成長できました。父母も変っていきます。皆さんもいったん自分に戻って、新しい学びに行く準備をしてくださいね。いつもあなたはあなたであるので何も心配などありません。ほら、今ここにいつも在るでしょう。それに気付いているでしょう。」