昨今はアセンションや次元上昇やらという言葉がスピリチュアルな世界等で流布されてきたようだ。
アセンションする?とかしない?とか、そういう楽で軽い言葉もあるようだが、確かにいえることは、多くの人々の中に、今の人間の有り方に対する疑問府が生じ、ようやく本来あるべき有り方に気付きだしてきたのだともいえるだろう。
我々は科学や技術の進展によって、現代社会での多様な快適さを得ているように見えるが、それは、あたかも本来の道から遠く外れた、あだ花多き、幻惑の花咲く『脇道』だったようだ。
様々な情報の氾濫、刺激に満ちた出来事・ニュースの類、身体的快楽等をお金と引き換えに提供する仕組み、それらは物質・身体中心の幻惑・麻痺を生ずる横道、迷い道であったといえるだろう。
我々の多くが他生にわたる繰り返しの人生を、その迷い道で過ごしてきたのかも知れない。
なるほど、それも道中の楽しみでもあったろうか。
しかしながら、人類は今・この時、その迷い道から急激に方向転換している最中のようだ。それに気付いている人は増えて来ているかもしれない。
あなたもそうだろうか。
言うならば、アセンションとは、眼に見えるばかりの、物質・身体への自己投入から足を洗い、こころを洗い、くぐもった常識という観念の壁を越えて勇敢に進むこと、
すなわち今よりさらに大きな自己とそれに呼応する大きな世界へと『意識の視野』を広げることなのだと思う。
あなたは、・・・どうするのか?
注意すべきことは、スピリチュアルに親しむといえども、単にそれによって、外から何かの幸せや理想世界を得るということはないということだ。
すべては人の内部から輝くものに従って、ちょうどその程度に現れるものだからだ。
仮に外からの光によって一時照らされる時期もそう長くはないだろう。
おのれを『磨かず』して『光る』ものは無い、確かにこれが道理である。
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今回の記事は、江戸時代の白隠禅師の言葉であるが、これは長くご支援を頂いている親愛なる読者の方に頂いたものだ。
本来、・・人とは何か? を五七語調で表している。
多少古めかしくはあっても、これらの言葉の中に、
実に、時代を超えた、普遍的な『慈愛』と『輝き』を観ずることが出来るだろう。
人は皆、かならずここを通るものだ。
それを別にアセンションと言わなくてもいいだろう。
それは誰にもある『通り道』のことなのだから。
この文は、ちゃっちゃか眼で追うものではない。
ゆっくりと観じて頂ければ、ひょっとして、いや間違いなく、
あなたの礎となりましょう。
衆生 本来仏なり
迷える心を持つ わたしたちも 本当は仏なのです
水と氷の 如くにて
それはちょうど水と氷のようなもので、
水を離れて 氷なく
水がないと 氷ができないのと 同じように
衆生の他に 仏なし
わたしたちをぬきにして 仏はありえません
衆生 近きを知らずして
わたしたちが 仏であることを 知らずに
遠く求むる はかなさよ
あちこち探しまわるのは むなしいことです
譬えば水の中に居て
これは、たとえば水の中にいながら
渇を叫ぶが如くなり
水をください!と叫んでいるようなものです
長者の家の子となりて
本当はとても幸福なのに そのことに気付かず
貧里に迷うに異ならず
「わたしは不幸だ」と 嘆いているのと 同じことです
六趣輪廻の因縁は
いつまでも 苦の世界から 抜け出すことが出来ないのは
己が愚痴の闇路なり
自分の境遇を くよくよと 嘆くからです
闇路に闇夜を踏みそえて
その長い長い 闇をとおり抜けて
いつか生死を離るべき
生きる・死ぬという 想いから離れることが肝心です
それ摩訶衍の禅定は
そのために「禅定=こころを見通し、こころ落ちつける」という行いは
称嘆するに余りあり
想いもよらぬ悟りをもたらすのです
布施や持戒の諸波羅密
他人への施しや 自身へのいましめなどを行うこと
念仏懺悔修行等
真理の言葉の詠唱や心身の清めなどをすること
その品多き諸善行
さまざまな よい行いがありますが
皆この中に帰するなり
それら皆、「禅定=こころを見通し、こころを落ちつける」ことにあります
一坐の功をなす人も
ひとときでも、心頭を滅却することが出来る人は
積みし無量の罪ほろぶ
悩みごとや罪の思いも、実はなかった・・と気付くのです
悪趣何処(いずこ)に有りぬべき
悪い事など、いったいどこにあるというのでしょう?
浄土即ち遠からず
極楽はいま、ここにあるのです
辱なくもこの法を
ありがたいことに、この教えを
一たび耳に触るる時
一度でも耳にしたときに
賛嘆随喜する人は
深くほめたたえて信じ、うけ入れる人は
福を得ること限りなし
かならず幸福をえることでしょう
いわんや自ら廻向して
ましてや自らひたすら祈りや精進をして
直に自性を証すれば
本来の自分を感得することが出来れば
自性即ち無性にて
自分があれやこれや、男や女やの区別なく
己に疑論を離れたり
その瞬間、既に執着や煩悩から離れているのです
因果一如の門ひらけ
人は仏と一体であることを悟るのです
無二無三の道直し
真理の道から外れずに
無相の相を相として
現れた形によらない 本来の無限の自己に気づき
往くも帰るも余所ならず
どこであっても常におのれを見いだすのです
無念の念を念として
想いに捉われず、観自在のあり方をもって日々過ごすならば
謡うも舞うも法の声
どんな行いも そのまま仏の行いであります
三昧無礙の空ひろく
こころが澄み切れば、大空のように自由にどこまでも広がり
四智円明の月さえん
こころ模様の雲の上に、いつも輝く月が輝いています
この時何かを求むべき
この あるがままの美しさの他に 何を求めるのでしょう?
寂滅現前するゆえに
目の前の現象にとらわれないあり方であれば
当処即ち蓮華国
この世界はそのまま極楽であり
この身即ち仏なり
この身が そのまま 仏なのです
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人、皆、ここにおいて行なうべきは、限られた生命、限られた人生の中でこそ、その無限さに気づくことだ。
その無限さは、今の『真のあるがまま』を、観ずることで見いだすことが出来る。
『こころ』は有る時は立ち騒ぎ、また喜び、あるいは有る時は怖れ、泣き叫ぶとも、 こころ・それ を観ることが出来る『あなた』自身を発見すれば、
それは雲の上に輝る月と同じく、不動で、清らかで、美しいものだとわかるだろう。
それが本来の有り方である。
何をどう観ずるかは、ひとえに、 あなたの「こころ」の曇りの有り無しにかかっている。
そう、それこそが、この地球という次元舞台での醍醐味なのだ。
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。