大いなる変容の時代にこそ大切なことは、今までも語り続がれてきた人類の叡智をしっかりと認識することです。今の時代は風雲急を告げてきているようです。だからといって、そうかもしれないからといって、ジタバタする必要はありません。わたし達に皆共にあるのは「わたし」という永遠のものであるからです。それを今しっかりと再認識することが出来ればどうということはないのです。
ただ行なわなければならないのはただ1つ、自分自身を観ること、大いなる自分自身を思い出すこと、これに尽きるのだと思います。
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ブッダの教えとされ、伝えられているものに『八正道』というものがあります。紆余曲折を経ながらも、人としての道を違えない為の、具体的なガイドラインと考えることが出来ます。その基本が「正見」と言われているようです。
--------------出典:フリー百科事典「ウイキペディア」 より
『正見』 ・・・ ( )及び赤文字は、ここでの意訳です)
「正しく眼の無常を観察すべし。 (正しく眼にするものは全て無常であると、観察すべきである)
かくの如く観ずるをば是を正見と名く。 (このような観察、これを正見という)
正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。(正しく観ずれば過ぎたる欲望から離れる)
喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」といわれる。(過ぎたる欲望からの乖離は解脱に至る)
われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、 (こころと体の感覚世界は全て無常であることを知り)
自分の心身を厭う思を起こし、心身のうえに起こす喜や貪の心を (心身を振り返り、それに伴う欲望は)
価値のないものと斥けることが「正見」である。(仮のものであると気づき斥けることが、正見だ)
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このように現実を厭うことが正見であるなら、人間の日常性を否定する消極的なもののように思われる。しかし、その日常性の否定は、真実を積極的に追求することから生まれるから、かえって真実の認識の完成である。この意味で「心解脱」といわれ、正見が「四諦の智」といわれる。
この正見は、以下の七種の正道によって実現される。その点で、八正道は、すべて正見である「智慧」の活動してゆく相である。 八正道は全て正見に納まる。」
---------------以上抜粋
●正見は解脱へのプロセス
この『正見』が言わんとしていることは「観察」ということでしょう。自己の身体と、その時々の思い(こころ)の観察のことです。自己の正しい観察が解脱に至る道であるといって間違いのないところです。
●思い・感情はエネルギーであり、わたし自身ではない
我々は往々にして、様々な体験に感情的に反応します。嫌い、好き、苦しい、楽しい・・など、体験による、その時々の感情があるものです。 「よかった~!、ありがとう!この野郎!ヤダヤダ~・・」。多分聖人と言われる人にも感情はあるものです。
しかしながら、ここで大切なことは、我々の多くが、その時々で込み上げる感情を、その感情のままで放置していることに気がつくことです。例えば、嫌で嫌でしょうがないことあった場合、それをどうして良いか解らず、その不快な状態から何とか必死で逃れたいと思うものです。「一体全体、どうしてこんな人生なんだろうか?どうして嫌な事ばかりなんだろう?」等と思ったことは誰にもあるものです。不快な感情をもてあまし、それでも我慢を続けるうちに、次第に忘れてしまうことで、いつの間にか回復していくようなことがあるものです。人によってはその不快感を外に爆発させてしまい、さらに大きな悩みを抱える場合もあります。
●正見によるカルマの解消
いわゆるカルマは、このような解消されない思いや感情のことであり、それらを腑に落ちさせなけらばならないと言うことだろうと考えられるのです。
ブッダは「正見」によってカルマを解消すべきであると言っているのでしょう。それは『正しく見る』ということです。人生は須らく経験と感情、思いの集合です。それらの経験、感情、思いを『正しく見る』ということです。それは「観察」という行為をも示すのです。
●自己観察とは、体験を「体験」とすること
ところが、観察というと、なにか味気ない中性的で、傍観者的なイメージを持つきらいがあり、面白くない有り方であると感じる場合もあります。人生は、涙や笑こそが全てであると思う場合もありますが、それが涙や笑である・・ということを観察する存在がいればこそのことです。我々は、経験そのもの、涙や笑いその者ではありません。それを経験している者としての意識が在ることを、忘れる事は出来ても、やめてしまうことは出来ません。
幸不幸もそれらは「体験」なのであるということを「知る」ということです。この理解がどこかに有れば、人生での様々な体験から逃げないで、それを「直視」することが可能になり、それを自分のものにしてしまう事、つまり経験を経験として捉えるということが出来ます。経験としての、幸不幸自体が、自分自身であると思いこんでいるからこそ、それから逃れたいと必死になるのです。必死になればなるほど泥沼に嵌るように感じてしまうのです。それに気づけるようにということで、幾多の先達が現われてはそれを指し示してきたのだと言えます。
観察は、人生に起きるあらゆる体験を、しっかりと観ているということです。様々な体験をしながらも、それをしっかりと捉えているということです。人生経験自体を、「自己」に対する「客体」として捉えるということも言えるでしょう。それらを上手に出来るようになるために様々な転生があるといってもいいかもしれません。カルマというのは、自ら課す向上への宿題のようなものでしょうか。恐ろしい何者かが無理に課すものではありません。
●観察と傍観の違い
観察」は意識的に観ている・・という積極的なあり方と言えます。 これに対して、「傍観は、傍らに佇み、茫然と観ている状態と言えるかもしれません。ただ眺めているだけ、という意味です。視野に映っているだけという受動的な状態であり、「観察」とは全く異なるもの、似て非なるものだと思われます。また分裂症や多重人格のようなものは、主体となる中心自己があやふやになった意識状態であり、基本的には、自己観察が行なわれていない状態です。
自己観察が出来ることは、その存在が眠っていない証拠です。精神の覚醒は自己観察作用があることを言い、自己のフィードバックによって、安定して成長する人々のレベルに達した社会のことでもあるでしょう。その様な人が多く集まる社会では、もう極端から極端に振れずとも、大きな感動と成長が可能となるのです。
●観察は、自我を観る、「わたし」の行為
「観察」は、自己の体験を知り、考察し、意味を創造してゆくと言う、積極的な意識作用です。これはまた、体験をしている自分自身の反応、行動、感情、思考をも観るということであり、今風に言えばセルフチェック、自己フィードバックともいえます。決して他者や環境に対して、思いや感情を無軌道に発散して消えてしまう、いわば幼き意識形態ではありません。
●我々の多くは自己自身を忘れた俳優のようなもの
例えば、舞台の役者が自分の役を演技をしながらも、自分が役者であり、演技しているのだということをしっかり認識しているようなものです。わたしは水戸黄門である!とは思わず・・水戸黄門を演じている者である!という第三者的な意識をもっているのが観察者意識というものです。
もし仮に舞台俳優がその演技中において、自分自身があくまでも「役者」であり、演技していることを忘れてしまったら、どういうことになるでしょうか?役者ではなく、役が本人その者にすり替わったと思ったらどうでしょうか。そう思っていれば、そのとおりの世界に住むことになります。わたしは水戸黄門である・・・となるでしょう。
●「思い」は想いでありそれぞれの「自己創造」でもある
これは、外からの刺激を採用した自己意識というものであり、他者依存であり、無意識的な無責任状態ということもいえるでしょうか。自己のあり様を自己で決めること自体は、間違いのない自己自身のプロセスではありますが、何をどうするかという「思い」を、外からそのまま持ってきている意識状態のことです。
催眠術などでよくあるように、 『あなたは「○○」です』 などと言われて暗示にかかった被験者は、そのときには、そう思ってしまうために、まさに「○○」のように行動します。本人がそう思わなければ、そうは行動しないものですが、表面意識が、催眠術士の言葉をうっかりと採用しただけとしても、その言葉を採用している最中は、そう思っているのです。催眠が解かれなければ、どうなるか解ったものではありません。当初は遊びと承知ですが、そう思うプロセスを経てしまえば、変化が起きてしまい、ついそれになりきってしまうのが非常に面白いところです。
欣喜雀躍や阿鼻叫喚のような、極端な感覚的刺激に充ちた体験こそが、人生そのものであると思う段階もあるでしょう。我を忘れて、体験そのものに入り込むことで、それを味わうことが出来ると思う段階といえるでしょう。
実は、今まで我々の時代がそうであったという事なのです。いわゆる「分離」の時代です。自己が投影された先に、自分が居るという意識状態のことです。多くの集合意識が、皆それぞれ、投影された先に居る・・と思うことで、人間が物質的であり、バラバラであると感じる世界を創ります。全てが相対的な、二元性の世界を旅したとも言えるでしょう。
●観察自体は「思い」を超えた働きである
問題は「思う」という、創造作用というところにあります。これにチェックをかけて自己のあり方を軌道に保つのが、自己観察という働きともいえます。良い悪いという価値判断や思いを超えた意識レベルから、自己のあり方を観るのが「観察」です。上品だとか、高尚だとか、下劣だとか、愚かだとかという価値判断をせずに、観察することで、自己の発する様々な想念・感情の働きに気づくということが大切なのです。
そうすることで、それらの現在の「我」というものがどんなものかという事が理解されてきます。言葉で言えば、せつな的な「自我」を超えた「わたし」というものが現われてきます。これは「高次の自己」が現われるるということにもなるのです。
●思いから脱すると時空も楽になる
自分を少し上から眺める状態であり、臨死体験や幽体離脱などの現象レベルとも呼応しています。それらは自己からの逃避でなく、自己を全体で見える意識的なポジションにいると言うことであり、そのような意識レベルであれば、なるほど、刹那の自我を取り巻く「思い」の集大成である環境から自由になるのです。
禅などで行なうことは、ただ1つ、座って自己の想念を観ると言うことでしょう。何も特別な厳かで高貴なイメージを作り上げるものでもありません。そこに身体を置き、己の中のを見つめ、その無限に立ち現われては消えて行く「想念」を、「想念として」観るという行為であり、想念、感情自体がわたしではないということを悟ることです。
実は、我々のこの地上の生はまさにその様なものであると言えるのです。我々は一体何者なのか、どこから来てどこに行くのか?名前や性別、生まれてからの記憶等はあるものの・・、それだけとは思えない・・そんな気がしている人も多いのではないでしょうか。
●わたし達は体験者であり、またそれを観察している存在である
我々は様々な経験自体ではなく、その体験を「観察」している者なのです。意識的存在としての人間は、現われては消える諸行無常の現象そのものではなく、それを観ている者なのです。現象を見る、観ると言う行為は、存在を認識するという行為であり、決して依存的、受動的なものではありません。観ると言う行為は自己を「発見」する、想起する、気づく、思い出すと言う行為です。
外の世界の移り変わり自体に価値や意味があるものだと、漠然と思い込んでいる間は、その様々な変化に対して、これまた様々な感情や思いが、それこそ嵐のように起きてくるように感じます。そうして疲れ果ててしまう事にもなるのです。来ては過ぎ行く嵐の真っ只中にいると信じていれば、それはそれは、忙しいことになるでしょう。外界の荒波に翻弄されるチッチャな「木の葉」のようです。その木の葉は、自分の感情で自分自身をボロボロにしてしまい、一体何の為に生きているのだろうと考え始めるまで続くのです。
諸行無常というのは、あらゆるものが移り変わるということを現しており、あらゆる移り変わりを、体験している者が自分自身であるということに気がつくということです。ところが、ある時期の、ある状態が、永遠に自分自身であると、無意識に錯覚していれば、それがたまたま自分にとって不快・不幸であるとした場合は、どうしようもない不安と恐怖を感じてしまうのは無理もないことです。自分が肉体である・・と信じている状態でもあります。誰だって怖くてどこかに逃げたくなります。(笑)
●解脱は結果ではなく真摯な姿勢のことである
悟りや解脱が、何か不思議で?また華やかなファンファーレを伴って起きてくるようなものと考えていれば、どうもそれは違うのです。悟りや解脱は、特別な人々の専売特許でもなければ、含蓄を臭わす思わせぶりのパフォーマンスでもありません。ブロードウエイの絢爛豪華な感情の爆発でもなければ、人里離れた山奥の神仙幽谷にあるわけでもありません。
解脱とは、我々が様々な体験をしている存在であることを心底「知る」ことであろうと思います。体験自体は様々ですが、それに振り回される事のない心境を言います。そのためには「正見」(観察)が有効であると、ブッダは言っているのでしょう。
自分の今のこころを有態(ありてい)に観察する姿勢、これがいわゆる「禅」の姿勢です。いつでも今でも出来ることです。
われわれは加速された究極の時代にあります。今まで考えられなかったことがこれからも数多くおきてくるでしょうが、それは大いなる「わたし」というものを忘れていたことを思い出すプロセスでもあります。
本日も拙い記事をご覧頂きまして、まことにありがとうございました。
究極は「正法眼蔵」も「正見」と同様の意味を持っていますね。難しそうでうが・・(笑)