気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

創造と人間

2009-03-28 17:09:54 | 宇宙的気付き

 意識的存在としての我々の行なうべきことは、眼を見張り、耳をそばだて、翻ってさらにそれを可能としている自分自身の存在、いつも奇跡としての「今」に在る「わたし」、今の自分自身を知る努力を通じて、大いなる自分自身の無限の可能性に「着実」に気づき始めることであると思います。

 この地球という生命圏の中に進行している、大いなる物語の真っ只中にいることに驚き、あらためて感謝を感じ始めることにもなるのではないでしょうか。このような、いわば「知覚による外の世界の認識」、また内面の「自己観察」を通じて気づきが深化・拡大してゆくものです。

 この「観察」というのは、何もせずにただ見ることではなく、実在を実在として認識する行為のことなのです。単に肉体という感覚だけに束縛されず、その時々の身体、様々に現われるこころ模様、永遠の魂からの衝動をトータルに認識・体験するということです。そのためには、今のこの瞬間を瞬間として意識する必要があろうというものです。

 我々は、いわば宇宙創造の確認者ともいうべき存在であり、無限に展開するこの大いなる創造の観察者であるという言い方も、あながち間違いではないと思うのです。

-----------

「光の12日間」等で知られているゲリー・ボーネルはアカシックレコードにアクセスすることができると言います。また時を同じくして、ここでも紹介した科学・哲学者であるアービン・ラズロは、Aフィールド(アカシックフィールド)の存在を導入することで、素粒子の不可解な挙動を説明し、それから必然的に導かれる宇宙の全一性を提唱しています。それらの内容、時期などの整合性等も鑑み、わたし個人として大いに共感ができるのです。

今我々が、かなり際立った時点にいるのを感じることができるでしょうか?

・・・・・・・・・・・・・・・・

以下は、「アトランティスの叡智」と題する、最近のゲリー・ボーネルの著からの抜粋です。人類にとって永続してきた第1義的なテーマは「創造主と人間」に関することでしょうか。創造と人間に関する理解は、意識的、無意識的に関わらず、我々の因って立つ根源というものでもありそうです。神と人間、その認識レベル上の虚実は、人類の歴史の中にまばゆい光と冷たい影を落としてきた事には否定の余地がありません。神が外にあると言う漠然とした思い込み、これは唯物的な世界観の対極ではなく、実はそれそのものの土壌であったのでしょう。

今、ここにも真理の光が当たっているような気がします。

-----------------------

「アトランティスの叡智」ゲーリー・ボーネル(徳間書店)より

・・・・・・・p057・・・

「叡智の道」のテキストは続きます。

創造主は(個人の人格と)関わらない。しかしながら、我々は創造主によって毎瞬、毎瞬駆り立てられている。

創造主に特定の形はない。しかしながら、創造主は全ての既知のそして未知の形である。

創造主は無限である。

しかし、各々の創造物の中、創造主自身が課した制限の力のうちに創造主は存在する。

創造主は知られているもののすべてである。

そして自らの創造である一つ一つの特定のものに関しては明らかに気づかないのだ

創造主を積極的に理解しようとするとき、テキストに示されているこの中心となるたった一つの信念が非常に重要です。:我々は創造主を自分自身の始まりの源であることを認識している。そして創造主は我々個人には『意識的に』気づかないのだ。

「創造主は私たち一人一人を認識していない」という考えに多くの人々が衝撃を受け、完全に間違いだと思うでしょう。それなら聖書や他の経典に書かれていることはいったい何なのだと?神が面倒見てくれないのなら、誰が私たちを見守てくれるのだろうか? 私たちが日日正しく徳の高い生活を送っているかどうかを、誰が見てくれているのだろう?無慈悲な行動をした人々をいったい誰が審判を下し、罰してくれるのだ? 天国行きの人と地獄行きのひとを振り分けてくれるのは誰だろう?   この信念が正しいとしたら、山ほどの疑問が沸いてきます。

・・・

(確かに傍線の部分は、一見かなり衝撃的な表現とは思えます。創造主・根源存在たるものが、我々人間を意識していない?・・)

・・中略・・・

・・・・p062・・・・

さらに「叡智」より:神は我々を自らの姿に似せて創った。(ゆえに我々はただちに始まりの瞬間からの)自己自身を知ることができる。これこそ真の創造主の本質ー解放である。

我々は創造された瞬間から完全に自由な「全体」であり、ただちに創造における私たちのユニークな位置に気づくことができる

創造主は我々を通して自身の創造の『証人』となり我々自身となる。創造主は我々のことを案じることはない。(なぜなら)我々は創造主自身の鋳型であるからである。

・・・・・・・・・以上抜粋・・・・・・

 

 上記の一見謎の表現は、『創造主』なる者は、『人間』を他者として意識してはいない言うことを意味しています。創造主はその無限であるがゆえに、我々1つ1つとして、無限に自分自身を現しているのです。それが人間という位置であるわけです。

 自覚するのもしないのも、誰かのせいではなく、一に、「あなた」にこそ、その全責任があるようなものです。別の側面から言えば、それは宇宙創造の申し子である人類・霊長類の誇りでもあり、責任でもあるのかもしれません。

 それであればこそ、うらぶれた情けない姿も、神々しい姿も、自由に演じられることができるのです。何を経験するのか自由自在でありながら、不思議にも、それを自覚していない状態、それが今の人類の大方の有り様でもあるようです。

 今この瞬間に生きている、存在している・・という真実にだけは、せめて、もうこれ以上の蓋をしないようにしたいものです。我々は、あるがまま、何物も獲得する必要のない存在であることをそれこそ必死で「思い出す」ことが、この地球生命学園のテーマでもあったのでしょう。

多くの人々は、たとえ今は忘れていても、ここに入園してきた時があったのです。

 なお、数万年以上の間、営々と続けられてきたこの地球生命学園は、今すでに変わりつつあるようです。それを信じる・信じないにかかわらず、我々を受け入れてくれているこの地球に対して、今こそ、心底感謝すべき時なのではないでしょうか。同じこの無限の『創造』に参加している一員として。

Chikyu0085_2

 

本日も誠に拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。

 

 


大いなる変容を観るべし

2009-03-21 11:27:41 | 宇宙的気付き

大いなる変容の時代にこそ大切なことは、今までも語り続がれてきた人類の叡智をしっかりと認識することです。今の時代は風雲急を告げてきているようです。だからといって、そうかもしれないからといって、ジタバタする必要はありません。わたし達に皆共にあるのは「わたし」という永遠のものであるからです。それを今しっかりと再認識することが出来ればどうということはないのです。

ただ行なわなければならないのはただ1つ、自分自身を観ること、大いなる自分自身を思い出すこと、これに尽きるのだと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ブッダの教えとされ、伝えられているものに『八正道』というものがあります。紆余曲折を経ながらも、人としての道を違えない為の、具体的なガイドラインと考えることが出来ます。その基本が「正見」と言われているようです。

--------------出典:フリー百科事典「ウイキペディア」 より

『正見』  ・・・ ( )及び赤文字は、ここでの意訳です)

「正しく眼の無常を観察すべし。 (正しく眼にするものは全て無常であると、観察すべきである

かくの如く観ずるをば是を正見と名く。 このような観察、これを正見という

正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る正しく観ずれば過ぎたる欲望から離れる

喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」といわれる。(過ぎたる欲望からの乖離は解脱に至る

われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、 (こころと体の感覚世界は全て無常であることを知り

自分の心身を厭う思を起こし、心身のうえに起こす喜や貪の心を (心身を振り返り、それに伴う欲望は

価値のないものと斥けることが「正見」である。(仮のものであると気づき斥けることが、正見だ

・・・・・・・・・・

 このように現実を厭うことが正見であるなら、人間の日常性を否定する消極的なもののように思われる。しかし、その日常性の否定は、真実を積極的に追求することから生まれるから、かえって真実の認識の完成である。この意味で「心解脱」といわれ、正見が「四諦の智」といわれる。

 この正見は、以下の七種の正道によって実現される。その点で、八正道は、すべて正見である「智慧」の活動してゆく相である。 八正道は全て正見に納まる。」

---------------以上抜粋

●正見は解脱へのプロセス

 この『正見』が言わんとしていることは「観察」ということでしょう。自己の身体と、その時々の思い(こころ)の観察のことです。自己の正しい観察が解脱に至る道であるといって間違いのないところです。

●思い・感情はエネルギーであり、わたし自身ではない

我々は往々にして、様々な体験に感情的に反応します。嫌い、好き、苦しい、楽しい・・など、体験による、その時々の感情があるものです。 「よかった~!、ありがとう!この野郎!ヤダヤダ~・・」。多分聖人と言われる人にも感情はあるものです。

 しかしながら、ここで大切なことは、我々の多くが、その時々で込み上げる感情を、その感情のままで放置していることに気がつくことです。例えば、嫌で嫌でしょうがないことあった場合、それをどうして良いか解らず、その不快な状態から何とか必死で逃れたいと思うものです。「一体全体、どうしてこんな人生なんだろうか?どうして嫌な事ばかりなんだろう?」等と思ったことは誰にもあるものです。不快な感情をもてあまし、それでも我慢を続けるうちに、次第に忘れてしまうことで、いつの間にか回復していくようなことがあるものです。人によってはその不快感を外に爆発させてしまい、さらに大きな悩みを抱える場合もあります。

●正見によるカルマの解消

 いわゆるカルマは、このような解消されない思いや感情のことであり、それらを腑に落ちさせなけらばならないと言うことだろうと考えられるのです。

 ブッダは「正見」によってカルマを解消すべきであると言っているのでしょう。それは『正しく見る』ということです。人生は須らく経験と感情、思いの集合です。それらの経験、感情、思いを『正しく見る』ということです。それは「観察」という行為をも示すのです。

●自己観察とは、体験を「体験」とすること

 ところが、観察というと、なにか味気ない中性的で、傍観者的なイメージを持つきらいがあり、面白くない有り方であると感じる場合もあります。人生は、涙や笑こそが全てであると思う場合もありますが、それが涙や笑である・・ということを観察する存在がいればこそのことです。我々は、経験そのもの、涙や笑いその者ではありません。それを経験している者としての意識が在ることを、忘れる事は出来ても、やめてしまうことは出来ません。

 幸不幸もそれらは「体験」なのであるということを「知る」ということです。この理解がどこかに有れば、人生での様々な体験から逃げないで、それを「直視」することが可能になり、それを自分のものにしてしまう事、つまり経験を経験として捉えるということが出来ます。経験としての、幸不幸自体が、自分自身であると思いこんでいるからこそ、それから逃れたいと必死になるのです。必死になればなるほど泥沼に嵌るように感じてしまうのです。それに気づけるようにということで、幾多の先達が現われてはそれを指し示してきたのだと言えます。

 観察は、人生に起きるあらゆる体験を、しっかりと観ているということです。様々な体験をしながらも、それをしっかりと捉えているということです。人生経験自体を、「自己」に対する「客体」として捉えるということも言えるでしょう。それらを上手に出来るようになるために様々な転生があるといってもいいかもしれません。カルマというのは、自ら課す向上への宿題のようなものでしょうか。恐ろしい何者かが無理に課すものではありません。

●観察と傍観の違い

 観察」は意識的に観ている・・という積極的なあり方と言えます。 これに対して、「傍観は、傍らに佇み、茫然と観ている状態と言えるかもしれません。ただ眺めているだけ、という意味です。視野に映っているだけという受動的な状態であり、「観察」とは全く異なるもの、似て非なるものだと思われます。また分裂症や多重人格のようなものは、主体となる中心自己があやふやになった意識状態であり、基本的には、自己観察が行なわれていない状態です。

 自己観察が出来ることは、その存在が眠っていない証拠です。精神の覚醒は自己観察作用があることを言い、自己のフィードバックによって、安定して成長する人々のレベルに達した社会のことでもあるでしょう。その様な人が多く集まる社会では、もう極端から極端に振れずとも、大きな感動と成長が可能となるのです。

●観察は、自我を観る、「わたし」の行為

 「観察」は、自己の体験を知り、考察し、意味を創造してゆくと言う、積極的な意識作用です。これはまた、体験をしている自分自身の反応、行動、感情、思考をも観るということであり、今風に言えばセルフチェック、自己フィードバックともいえます。決して他者や環境に対して、思いや感情を無軌道に発散して消えてしまう、いわば幼き意識形態ではありません。

●我々の多くは自己自身を忘れた俳優のようなもの

 例えば、舞台の役者が自分の役を演技をしながらも、自分が役者であり、演技しているのだということをしっかり認識しているようなものです。わたしは水戸黄門である!とは思わず・・水戸黄門を演じている者である!という第三者的な意識をもっているのが観察者意識というものです。

 もし仮に舞台俳優がその演技中において、自分自身があくまでも「役者」であり、演技していることを忘れてしまったら、どういうことになるでしょうか?役者ではなく、役が本人その者にすり替わったと思ったらどうでしょうか。そう思っていれば、そのとおりの世界に住むことになります。わたしは水戸黄門である・・・となるでしょう。

●「思い」は想いでありそれぞれの「自己創造」でもある

  これは、外からの刺激を採用した自己意識というものであり、他者依存であり、無意識的な無責任状態ということもいえるでしょうか。自己のあり様を自己で決めること自体は、間違いのない自己自身のプロセスではありますが、何をどうするかという「思い」を、外からそのまま持ってきている意識状態のことです。

 催眠術などでよくあるように、 『あなたは「○○」です』 などと言われて暗示にかかった被験者は、そのときには、そう思ってしまうために、まさに「○○」のように行動します。本人がそう思わなければ、そうは行動しないものですが、表面意識が、催眠術士の言葉をうっかりと採用しただけとしても、その言葉を採用している最中は、そう思っているのです。催眠が解かれなければ、どうなるか解ったものではありません。当初は遊びと承知ですが、そう思うプロセスを経てしまえば、変化が起きてしまい、ついそれになりきってしまうのが非常に面白いところです。

 欣喜雀躍や阿鼻叫喚のような、極端な感覚的刺激に充ちた体験こそが、人生そのものであると思う段階もあるでしょう。我を忘れて、体験そのものに入り込むことで、それを味わうことが出来ると思う段階といえるでしょう。

 実は、今まで我々の時代がそうであったという事なのです。いわゆる「分離」の時代です。自己が投影された先に、自分が居るという意識状態のことです。多くの集合意識が、皆それぞれ、投影された先に居る・・と思うことで、人間が物質的であり、バラバラであると感じる世界を創ります。全てが相対的な、二元性の世界を旅したとも言えるでしょう。

●観察自体は「思い」を超えた働きである

 問題は「思う」という、創造作用というところにあります。これにチェックをかけて自己のあり方を軌道に保つのが、自己観察という働きともいえます。良い悪いという価値判断や思いを超えた意識レベルから、自己のあり方を観るのが「観察」です。上品だとか、高尚だとか、下劣だとか、愚かだとかという価値判断をせずに、観察することで、自己の発する様々な想念・感情の働きに気づくということが大切なのです。

 そうすることで、それらの現在の「我」というものがどんなものかという事が理解されてきます。言葉で言えば、せつな的な「自我」を超えた「わたし」というものが現われてきます。これは「高次の自己」が現われるるということにもなるのです。

●思いから脱すると時空も楽になる

 自分を少し上から眺める状態であり、臨死体験や幽体離脱などの現象レベルとも呼応しています。それらは自己からの逃避でなく、自己を全体で見える意識的なポジションにいると言うことであり、そのような意識レベルであれば、なるほど、刹那の自我を取り巻く「思い」の集大成である環境から自由になるのです。

 禅などで行なうことは、ただ1つ、座って自己の想念を観ると言うことでしょう。何も特別な厳かで高貴なイメージを作り上げるものでもありません。そこに身体を置き、己の中のを見つめ、その無限に立ち現われては消えて行く「想念」を、「想念として」観るという行為であり、想念、感情自体がわたしではないということを悟ることです。

 実は、我々のこの地上の生はまさにその様なものであると言えるのです。我々は一体何者なのか、どこから来てどこに行くのか?名前や性別、生まれてからの記憶等はあるものの・・、それだけとは思えない・・そんな気がしている人も多いのではないでしょうか。

●わたし達は体験者であり、またそれを観察している存在である

 我々は様々な経験自体ではなく、その体験を「観察」している者なのです。意識的存在としての人間は、現われては消える諸行無常の現象そのものではなく、それを観ている者なのです。現象を見る、観ると言う行為は、存在を認識するという行為であり、決して依存的、受動的なものではありません。観ると言う行為は自己を「発見」する、想起する、気づく、思い出すと言う行為です。

 外の世界の移り変わり自体に価値や意味があるものだと、漠然と思い込んでいる間は、その様々な変化に対して、これまた様々な感情や思いが、それこそ嵐のように起きてくるように感じます。そうして疲れ果ててしまう事にもなるのです。来ては過ぎ行く嵐の真っ只中にいると信じていれば、それはそれは、忙しいことになるでしょう。外界の荒波に翻弄されるチッチャな「木の葉」のようです。その木の葉は、自分の感情で自分自身をボロボロにしてしまい、一体何の為に生きているのだろうと考え始めるまで続くのです。

 諸行無常というのは、あらゆるものが移り変わるということを現しており、あらゆる移り変わりを、体験している者が自分自身であるということに気がつくということです。ところが、ある時期の、ある状態が、永遠に自分自身であると、無意識に錯覚していれば、それがたまたま自分にとって不快・不幸であるとした場合は、どうしようもない不安と恐怖を感じてしまうのは無理もないことです。自分が肉体である・・と信じている状態でもあります。誰だって怖くてどこかに逃げたくなります。(笑)

●解脱は結果ではなく真摯な姿勢のことである

 悟りや解脱が、何か不思議で?また華やかなファンファーレを伴って起きてくるようなものと考えていれば、どうもそれは違うのです。悟りや解脱は、特別な人々の専売特許でもなければ、含蓄を臭わす思わせぶりのパフォーマンスでもありません。ブロードウエイの絢爛豪華な感情の爆発でもなければ、人里離れた山奥の神仙幽谷にあるわけでもありません。

 解脱とは、我々が様々な体験をしている存在であることを心底「知る」ことであろうと思います。体験自体は様々ですが、それに振り回される事のない心境を言います。そのためには「正見」(観察)が有効であると、ブッダは言っているのでしょう。

 自分の今のこころを有態(ありてい)に観察する姿勢、これがいわゆる「禅」の姿勢です。いつでも今でも出来ることです。

 われわれは加速された究極の時代にあります。今まで考えられなかったことがこれからも数多くおきてくるでしょうが、それは大いなる「わたし」というものを忘れていたことを思い出すプロセスでもあります。

 

Dogen01

 

本日も拙い記事をご覧頂きまして、まことにありがとうございました。

究極は「正法眼蔵」も「正見」と同様の意味を持っていますね。難しそうでうが・・(笑)

 

 

 

 


人と宇宙

2009-03-14 11:40:37 | 宇宙的気付き

 「汝自身を知れ。そうすればすべてがわかるだろう」 という言葉を、誰しも聞いたことがあると思います。「なるほど」、という、どこかこころの奥からの直感的な納得のようなものを感じながらも、一体なんだろうか、どうすれば自分を知ることが出来るのだろうと、その瞬間で考え、結局はよくわからないという、こころの反応で終ってしまうようです。一体全体自分を知るという事がどんなことなのか、なかなかすぐに理解できるものではないようです。

----------------

フリー百科事典「ウイキペディア」より抜粋

古代ギリシアの賢人の中でこの格言の作者と言われたことがあるのは少なくとも以下の6人である。

  ・ヘラクレイトス ・ピュタゴラス ・ソクラテス ・アテナイのソロン ・ミレトスのタレス

デルポイの最初の巫女といわれる神話的詩人フェモノエの言葉とする文献もある。また、ローマの詩人ユウェナリスは、中庸や自己認識についての議論においてこの格言を引用し、天からの(de caelo)教訓であると述べている(『諷刺詩』11.27)。

自分自身を理解するということは結局のところ他者をも理解するということであるから、この「汝自身を知れ」という格言は人間の行為・道徳・思考を理解するという理念を表すものと拡大解釈されることがある。しかし、古代ギリシアの哲学者は、決して人間の精神や思考を完全に理解することはできないと考えており、ゆえに自身を完全に知るなどということは考えられなかった。よって、この格言は人間の理解という大きな理想を語ったものではなく、普段の生活を送る中で自分が立ち向かうところの人間的性質の諸相を知るということ、たとえば、自身の習慣・道徳・気質を自覚し、自分がどれだけ怒りを抑制できるかを把握する、といったようなことを指しているものである。

また、この格言には神秘主義的な解釈もある。その場合、「汝自身」というのは「己の分をわきまえぬ自惚れ屋」を意味しているのではなく、自己の中の自我、つまり「我あり」という意識を意味している

この格言はラテン語では普通 "nosce te ipsum" という。

----------------以上抜粋

●直接知と間接知

 我々は日常の単調な五感の刺激による生活を繰り返しており、その小さな窓からの世界観だけではなかなか気づきや意識が広がらないものです。観点を自在に拡大縮小できるのは人間の想像力、思考の賜物ですが、その無限に自由な想像力を、宇宙、自然の中に現われている「意識」に同調するような方向で使うことで、様々な真実を直感的に把握することが出来るのではないかと思います。

 古くからある瞑想、観想、修行などの方法は、その直覚知への試みです。「直覚知」でも科学の観測による「間接知」でも、「それがそうだ!と実感する意識になることが目的であるのは同じことなのです。まさにそうだ・という認識までの行程です。証拠を提示してゆくことで認識を得るのが、いわゆる科学的と言われてきた方法でしょう。疑いを友として歩いた道のようです。

 150pxthe_thinker_close_2

ただ「直覚知」は、イメージの一人歩きや思い込みとの混同に気をつける必要があり、科学等による間接知の場合は、「細分化による混乱」や「考えすぎ」に注意が必要です。

真理へのそれぞれ異なる道ですが、最終的に 「まさにこれだ!と感じる」までの道のりです。

 

●人体も無限に近い数の素粒子の集まり

人間は有限の容積を有する身体をもっていることは、どんな人にも理解できます。その時空的に有限のエリアを占有するだけの人間の身体も、素粒子・原子で構成されているのは、ミクロの有様を覗ける顕微鏡を見たことがない人でも否定はしないものです。

身体を構成する細胞は数兆以上と言われており、それを構成する原子の数は、それはもう数える、カウントするというレベルを超えています。さらにそのような原子を構成する素粒子・クオークの数など到底想像することなど出来ません。

 

●全ては意識的であり必然である

 それらの途方も無い数の素粒子たちは、我々の身体構造を作り上げているのが事実なのです。それらが、宇宙開闢以来の様々な粒子の相互作用、化学作用で偶然に寄り集まったものであると考えることは、正当でしょうか?

何も書いていない白いノートを置いておいたら、いつの間にか人間の精巧な小説になっていた・・というのと同じようなものです。例えそれが数十億年の間の出来事と云えども、無機的宇宙の諸法則による偶然の産物と考えることに一体全体正当性があるものでしょうか。

 ただ単純に、素直に考えて、そこには大きな意図、意志があるからこそということでしょう。何も意図しないものがこの世界に起きるはずが無いと考えても決しておかしくはないのです。天気が変り、気分が変るのも、それは偶然でなく、眼に見える見えないに関わらずその原因があります。例えば、天気の変化は擬人化された風神雷神の意図ではなく、宇宙の中の何がしかの意識によっているということであり、それらは複合された法則の現象化ということも言えます。

●日常にある意識的必然性

 我々の日常のあり方と同じく、宇宙全体に意識、意図があるものと考えておかしくありません。原因が無ければ結果は出ないという因果律は、物と物の相互の因果関係だけでなく、意識とその顕現にもあるのです。

 人間のこころと実際の生活での結果の照合は、その、こころの複雑さゆえに、かなり解りにくいと考えられますが、この、人間に顕著に現われている、こころ、意識作用というものは、我々の認識する世界の原因であるということに尽きるのです。

 食事も睡眠もトイレも最終的には意図によります。怒りも悲しみも意識作用でしょう。憎むも憎まないも笑うも笑わないも、意識的・無意識的に関わらず、そう意図しています。意図していないと思うのはどうも間違いで、それを単に制御していない・に置き換えるべきでしょう。意識・意図なくして人間の社会は構築など出来ようはずもないものです。要は、各自の意識・意図に気づいていない分だけ、何事も野放図であり、それらを偶然として片付けるしかないのです。

  

●宇宙全体はその中の部分に畳み込まれている

 先般記事にした、アービン・ラズロの唱える「宇宙全一性」の概念を理解出来れば、この「汝自身を知れ」 も少しながら理解が可能かもしれません。

 「宇宙全一」というのは、世界の部分部分が瞬時に全体と連携している、あるいは瞬時の情報交換を行なっている可能性を言うようですが、部分としての個々の要素のなかに、全てが畳み込まれているという表現も可能でしょう。

 瞬時の情報伝達という、無機的な表現でありますが、これは「部分」の中に、「全体」の情報がすべて「在る」とも言えます。瞬時であれば、それら相互の間には、時間と空間は無いのと同じです。瞬時ともいえるの素粒子の情報交換を元にした帰納的な世界観ですが、それが事実としての解明が行なわれれば、実に無限と有限が、全体と部分が一見不可思議な関係として「完全に調和」していることになります。

 何百億光年先の銀河群も今ここに、この宇宙に存在しているということは、やはり何かの瞬時のつながりをうかがわせます。我々の概念である光の速度は有限でも、時空という物理的カテゴリーを超えた別のもの(波動)による「情報」伝達があるようです。その一端の現象を捉えたのが昨今の素粒子の瞬時とも言える情報共有といえるでしょう。

情報共有というのは意思疎通と意訳的に解釈してもいいかもしれません。素粒子レベルでの意識的作用ともいえるでしょうか。

●人間それぞれも宇宙の中心

 そうであれば、我々1人1人が宇宙と繋がっている、1人1人の中に宇宙のすべてが畳み込まれているということは大いにあり得る話ではないかと思います。我々が、ひ弱な肉体という有機的な物質の塊であり、積み木の1つにもカウント出来ないような者である・・という概念は、当然ながら消えてしまいます。

 宇宙のあらゆる情報、諸現象の因、物質的・無機的形態から、組織的有機的形態、それらの総合した生命形態、また生命形態の意識的作用・活動などのあらゆる情報が、その無限の全体宇宙のなかの、1小部分に畳み込まれているということになります。

A10001_2

仏画の曼荼羅等も、実は存在世界の全て、部分それぞれが中心でありながら、階層構造や有機的なつながりを瞬間的に実現しているということを示しているようです。それらは仏様の序列などではなく、まさに山川草木国土悉皆成仏を表しています。

 個々の完全な個性は、全体性が個に内在しているがゆえのものであり、また全体性は完全なる個々の調和がゆえのものである・・とも解釈できます。

 

 

●宇宙はホログラフィック?

 これは例えば3次元ホログラムの原理と同じであり、ホログラムでは、全体を記録した光干渉記録板を、細かく裁断した場合でも、その細かく裁断した1小部分を再生すると、全体が現われるものです。

 マイケル・タルボットの「ホログラフィック・ユニバース」という著作があります。波動で構成される宇宙、その宇宙の中の微小部分にも、全体が組み込まれているのが、宇宙の有様であり、1つ1つの岩石といえど、人間1人1人といえども、宇宙の全体が畳み込まれているそのようなものと理解することが出来ます。

 宇宙の巨大な物量が組み込まれていると言うことではなく、存在の原因たるものが全てに渡って存在しているということであり、また存在のあらゆる情報や意識の全てが、部分部分にも満たされてあるということでしょう。物量はシナリオの顕現した結果であり、結果の世界の多様性のみに意識を奪われていては、その原因を真に知ることは難しいのです。物量は結果であり、物量それ自体が、物量それ自体を新たに生み出すことは出来ません。

 

●知ることで自己の周りの光が増す

 少なくとも、人間とはなにかということに対する我々の認識が、単に物質的・肉体のレベルであったとしても、その構成微粒子は全宇宙とのつながりを有していることは、驚愕の念を抱かざるを得ないわけであり、その全貌は未だ理解出来ないとしても、今まで見えなかった自分という存在の周辺にも光が当たるようになり、自分と世界を見るための視界が晴れてきたようなものではないでしょうか。今は遥か先にしか見えないとしても、遠くに確実に現われた山々をしっかりと見える位置に来たということも出来るでしょう。

●先達からの悠久につづく叡智

 いままで古代からの叡智として続いてきたメッセージは、それを悟っていた覚者、先達からのものであり、一定の時間という揺りかごの中から、再び目覚め始めたのではないかと思われます。長い時間にしっかりと種を温存してきた悠久の叡智は、今の時代になってようやく土から這い上がり花を咲かせることが出来るのでしょう。

人々は、今ようやく、間違いなく目覚め始めています。

 Anndoromeda

●宇宙は人間の反転したもの

 ご存知のように、宇宙はあのように無限に広がり、そのなかで数え切れないほどの恒星、惑星を有しています。その宇宙を眺めている我々は、我々自身を眺めているのかもしれません。

 我々人間の人体の輪郭の外側は、全て外の世界、宇宙として認識していますが、実は人間の輪郭の外側とは、人間の輪郭の内側の「反転した」ものだと思えないでしょうか。我々がいるからこそ宇宙があると言う意味でもあります。それも無数の我々があるからこそ無数の宇宙が在るということは、汎神論・唯心論という 「カテゴリーのふた」 をかぶせるだけではすまないものを感じないでしょうか。

 「汝自身を知れ!そうすれば全ては知られるものとなろう」

・・・・・・

ところで、あなたは今この瞬間に、参加していますか?

120pxbodhidarma

 

本日も、拙い記事をご覧頂きまして誠にありがとうございました。

(200記事めなので絵が多い(笑))

 

 

 

 

 

 

  


魂:<存在>について (セスは語るより)

2009-03-08 09:06:24 | 宇宙的気付き

本日は『セスは語る』の抜粋をご紹介します。この書はいまから30年以上前、1970年代にアメリカで出版されたものです。ニューエイジ思想のさきがけとも感じるものですが、その内容は相当に深遠なものであると思います。深遠と言っても、わけがわからない「山のあなたの空遠く?」にあるものではなく、我々人間とは一体何か?を懇切丁寧に語りかけてくれる偉大な存在の息吹を感じるものです。

 

 当初は、またまた怪しげな、流行のチャネリングと称する情報の書籍化されたものだろうか、また、どこまでが本当で、どこまでが個人のフィルターによる歪曲なのだろうか?という感覚を持ちながら読んだものです。

 

 それでも、しっかりと理解してみようという意識をもって通読したのですが、まず感じたのは、これは地球というカテゴリー、文明を超える、何がしかの、遥かに大きな存在からの贈り物とではないかと言うことです。相当な意識レベルの「教師」の講義を聴講しているような、そんな雰囲気を感じるのです。

 

 さずがに、部分部分では眠くなってしまう、理解困難なところもありますが、単なるチャネリング本では?という自我が表明するところの表面意識に騙されず、またそれを鵜呑みにせず、自分で確かめる事を可能にした自己の「好奇心」に謝意を感ぜざるをえません。何事も、噛り付いても理解してみようとすることで、やはり確実に何がしかの成長はあるものでしょう。

 

 どこにでも、どんな形であろうとも、多くの教師や仲間達がいるのだと思います。それが嫌いな他人であろうと、親であろうと、ペットであろうと、悩み多い世界であろうと、すべてがすべてのためにあるようです。それにどれだけ気づけるか?そんなものではないかと思います。それを行うことが出来るのは、皆々、自己という無限の存在であるからこそなのでしょう。

『セスは語る』 魂が永遠であるということ ジェーン・ロバーツ著 ロバート・F・バッツ記録

Seth Speaks ,The Enternal Validity of the Soul

 

―――――――――――――――p152-154

 (書籍からの抜粋文章に対して小タイトルを、勝手ながら付帯させています)

 

 

魂とは存在そのもの

魂とは、あなたがたが所有している何かではなく、あなたがたの存在そのものを言います。わたしは普通、「魂」(ソウル)という言葉より、むしろ<存在>という言葉を好みますが、その理由は単に、後者のほう(存在)はそれほど、特定の誤った解釈が結びついていないことと、その言葉の含意に前者()ほど組織化された意味での宗教色がないからです。

 

●魂とは内なる自己そのもの

ここで一番に問題にすべきことは、あなたがたが魂あるいは<存在>という時には、往々にして何か完成された、よって発展性のないもので、あなた方自身というよりはあなた方が属しているもの、という捉え方をしていることです。

 魂あるいは<存在>とは、換言すればあなたがたのもっとも内奥にある、大きな力を秘めた「内なる自己」であり、それは絶えずそして永遠に変化し続けます。それは大事にしまわれたまま代々受け継がれてゆく遺産などではなく、息づき、応え、好奇のこころに満ちているのです。そしてあなたの知るところの肉体や世の中を形づくり、「何かになろうとしている状態」であるのです。・・・・。

 

●今の自我は、自己を忘れるゲームをしている

 魂あるいは<存在>は、絶えず変化を遂げながら、常に学びつつある状態なのです、また、時間や空間と連携してではなく、主観的体験に連携して発展し続けています。それは聞こえほど不可解なことではありません。読者の方々は、「全体自己」が間違いなく知っていることを、意識的な「自我」が素知らぬ振りをするというゲームをさせられているのです。・・・・。

 

●自我は、物質的見地から悟る傾向をもつ

 自我というのは、確実に「全体自己」の一部なのですから、基本的にはそうした知識を把握していて当然です。けれども「自我」は極めて集中的に物質的現実に焦点を合わせているため、そうした情報が物質的見地からも採用できると踏むまでは、知らぬ存ぜぬを通すことに決めているのです。・・・・。 

 あなたがたの自我-(言い換えれば、あなたがたが自分自身であると考えている「外なる自己」ということになりますが、)-の部分は、自らの安全を確保し、一見自分を統率し続けているかのように見えます。れはまさに、あなた自身の人格の「内なる層の部分」が絶えず自我を支え、肉体の機能を保ち、内と外の状況から差向けられる種々のおびただしい刺激との情報交換を怠らずにいるからに他ならないのです。・・・・。

 

●肉体も無数の意識ある細胞・要素で出来ている事実

 自身の身体には無数の細胞があるにもかかわらず、あなた方はその肉体を「単体」と呼び、自己の所有物であると考えます。確かに肉体は内から外まで、あなた自身によって形づくられたものです。しかし、あくまでも「生きた構成要素」で肉体を築いているのであって、その究極の最小粒子にさえも息づく「意識」があるのです。・・・

 こうしたことからもお分かりのように、あなたという存在には際限というものがありません。あなたであるその魂あるいは<存在>が、自らを囲い込み、真の自由を否定するような境界を、どうして設定できるでしょう。

 

――――――p158-161

 

●自我は、限定が好きで変化を嫌う

 多くの人が、魂を永遠不滅性を付与された自我であると思っています。それはあなたがたの知る自我は自己の小さな部分にすぎないということを、あなたがたが亡失しているからなのです。よって、この人格の小さな部分は、いわば先へ先へと際限なく投射されるものと考えられています。あなたがたの現実(リアリティ)の次元が、ほとんど理解されていないため、あなたがたの概念も限定されてしまうのです。

「永遠不滅性」を思いやるとき、どうも人類は、そのままの自我が発展していくことを望むようですが、そのくせ発展にはつきものである「変化」に関しては否定的です。魂のなんたるかを自問することもなく、宗教心から自分には魂なるものがあると信じる人々もいます。

 

●魂は知覚し表現し創造する

 魂とは、何よりもまず知覚し創造するものなのです。あなたがた自身が魂であることを、いまここで再認識してください。つまり、あなたの内側にある魂が、いまここで知覚を行なっているのです。魂による知覚のしかたは、現在も、あなたが物質界に誕生する以前にも、また物質界から死去した後も、変わる事がありません。ですからあなたの内なる自己である魂という代物は、基本的には肉体的な死の後でも、その性質や知覚の仕方などを急激に変化させたりは致しません。

―――――――――――抜粋了

・・・・

 生きること死ぬことは、魂の「知覚し、創造する」表現の1コマであるということは、事実そうなのでしょう。今、生の只中にあるということが、まさにそのものをズバリ表しているのです。今大切なことは、我々の生活の中にありながら、勇気をもって、より大きな視点からの眺めを取り入れることです。それが次元上昇ということでしょう。より大いなるものからの視点で己を観るということです。

 籠の鳥が外に出るのは自力であり、わざわざ、そのために「忘れること」を自ら行なっているのでしょう。より大いなる自分に気づく為のの亡失というルールを、自ら設けて実施している我々、人類皆には賛嘆しかないのです。

 つらつら考えるにつけ、永遠なる存在としての自分を忘れる・恐れることが出来るゲームとは、一体全体、何たる面白い思いつきなのでしょうか。本来の自己を思い出せば、さらに大笑いなのではないでしょうか。

そろそろ目覚める時期でもあることは間違いのないところでしょう。実のところ、皆々そう感じているのではありませんか。

 大いなるわたしという存在は、今そこにも、ここにも、どこにも在るのが、実は本当のことのようです。

0169m

 

 本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。

 

 


感謝は宇宙へ響くこだま

2009-03-01 12:55:34 | 宇宙的気付き

 感謝はこころを浄化します。固まった考えを開放し、楽にする為には何をおいても感謝が一番ではないかと思います。どんなことにも感謝が出来るようになれば、その分だけ執着を落すことになるものです。そして執着や恐れというものが、今度は「記憶」となって身につくということのようです。

 その記憶の集大成が、今の時点での人の姿になっているのでしょう。気づく気づかないに関わらず、それぞれ皆個性ある人間であることは、存在の根源でありながら、相当な知恵や経験をあらわしているのだと思います。掘り下げる分だけ出てくるようなものでしょうか。

●感謝とは?

感謝という言葉の意味は、多くの人々は、しっかりと、あるいはまた漠然とながら知っていることでしょう。

普通にはこんなことでしょうか。

「ありがたく思うこと、また、その気持ち。」(はてな?キーワードより)

 ありがたいと思うからおきる気持ちであるということです。「ありがたい」は「有り難い」という意味からも来ているのでしょう。めったに無い事に感動する、という意味もあります。また、自分にとって良いことを、他の人にしてもらったという気持ちがおきた時に、それを表す言葉でもあります。

 一般通念では、起きた事に対し、それが自己にとって「良い」と感じる場合に発する想念を表しているのだと思います。

●感謝は宇宙全存在への放射

 またあるサイトで見つけた感謝の解説では、

『「感謝」という漢字は「感じる」と「ゴンベンに射る」という字ですよね。「ゴンベンに射る」というのは、「言霊の放射」というふうにとらえるとよくわかると思うんですよね。言霊というのは神さまの宇宙創造の働きですね。その神さまの宇宙創造の働きを感じる、受ける、これが「感謝」ですね。』(「菊池さん」というHPより抜粋)

 なるほどと思います。漢字では、言葉、言霊の放射というのがその意味のようです。

●思いは生きている

 思いは時空に瞬時に放射されているということでしょう。生きていると言えます。光の放射もそのゲシュタルト(本質的な形態・パターン)と同質のようです。太陽の光の放射が我々を生かしているのと同じことだと考えてもいいでしょう。

 光・電磁波は球面で広がる為に、観測上は距離の2乗に逆比例して減少するものですが、思い・想念・感情は、人間の内面から発する潜在的な波動としての性質をもっており、空間・距離には制限などされないのです。想念は、その物質レベルから見て不確かな存在性のためにこそ、物質・時空に制限されないとも言えます。

 しかし、物質自体の要素である素粒子の性質、空間を越えた情報共有などは、まさに瞬時に行なわれるものであり、その「瞬間」と時空ずべてに及ぶ「全一性」を表すものを彷彿とさせます。あらゆる種類の波動で構成されたのがこの世界の有り様と言えるでしょう。物質も意識も存在形態の異なる波動といってもいいのではないでしょうか。

●「思い」を自分の外においてきた歴史

 『思い』が意識的な人間の内面に実在するのは、毎日毎日経験しているのですが、それがすぐに物質化しないために、あたかも存在していないように思っているのが大方の通念というものでしょう。「思い」は思考と記憶という側面のみ、知識の集成とその物質世界への応用のみが重要視されてきたのです。客観世界と精神との分離はデカルト時代の分岐によるものと考えられます。

 また、その分離により思い切った客観世界・物質世界の探求も出来たのだと思います。精神に関わるものは、主に芸術・文学・思想などのジャンルに、ある意味で細々とその命脈を保ってきました。しかし今の時点では、精神と物質の境界が曖昧になりつつあるようです。

●自分を思い出すのは、まず「思い」のおかげ

 人間の特性を一言で表せば「人間とは活動する想念である」ということに尽きそうです。

 近代以降の物質文化の繁栄は、目先の物質の獲得と集積こそが、人間の幸せに直結するという、無意識の信仰があったからだと考えていいと思います。精神不在の状態であり、人間として最も、そして無限に近いところにある「精神」は、その姿自体が眼に見えないために、いつも背中合わせのようでもあったのです。まさに「後ろの正面・誰?」という謎とも言えます。

 何時もそこにありながら見えないもの、それは社会の中に隠れた宝物や一時の快楽、名誉などではなく、自分自身のこころ・精神、意識であるのです。それなくして体験などもあり得ようもないにも関わらず、その元もとの存在がわからないようなことでした。

●目の前のスクリーンに釘付けの演者

 自分の目の前だけが存在世界のすべてであり、言い換えれば、五感で映ずる世界のみがすべてであり、従ってその目の前の現象世界をあちらこちら探索してきたようなものでしょう。それはそれとして、近代以降の功利主義的な思念体系がいつの間にか繁茂してしまい、物質形態のジャングルの中で必死で闘い続けざるを得なかったのでしょう。しかしそれも十分になりつつあるようです。

 あたかも人生と言う映画に見入ってしまい、そのスクリーンに「意識」が没入してしまうようなものです。似たような経験は誰しもしているのではないでしょうか。例えば、子供の時などに、親につれられ恐怖映画を見てしまい、完全にパニックになった経験などもあるのではないでしょうか。それはもう怖くて怖くて小便ちびりどころではありません(笑)。

 大人はそれなりに、それを単に映画であるという意識をもっているために、映画をドキドキ、ハラハラと鑑賞しながらも、パニックになることは無いものです。これは映画だということを、大人は知っているからです。

●社会・人生は体験用ホログラム

 人生というものも、3次元スクリーンの演劇と考えてもおかしくないのではありませんか。昨今の3次元映像技術である「ホログラム」はまさに光の干渉や記憶・再生による立体映像を作り出します。その媒体となる光の記憶片は、大きさに関係なく全体を映し出します。光の干渉データを記憶するディスクが切れ切れの小さい断片になっても、その一片一片が、映っていた全体の映像を再生するのです。

 硬いと言われた物質イメージも、やはり究極は波動であるといわれており、その仕組みは極めて壮大であり、また微細でありながら、おそらく、今我々が集団で知覚している、時空・宇宙も一種のホログラムであるかもしれません。

●人生は自分で創るホログラム

 我々の見ている目の前の人生なるものは、実は自己内面からの放射によるものであるという事はおそらく真実であろうと思います。スクリーンばかり、現象ばかりに目がいっている間は、後ろから放射される光などには気づけないものです。原因たる光の放射により、目の前のスクリーンに映ずる仕組みは、その放射自体に気づくことで理解が出来るでしょう。

 後ろを見なければその仕組みに気づけるはずもありません。表面だけの追っかけでは決して原因に気づけないと言うことです。

 これは自己のこころ、意識の働きに気づくということです。

●集合意識にある依存という塊

 社会、自然という現象、自己を包含する立体スクリーンは、人類の集合意識の共通信念で構成されており、それらがその時々の上映内容ということでしょう。

 また、人間社会は須らく、集合意識をベースにしていますが、登場人物である個人個人の意識は完全に自由であり、完全にアドリブを行なうようになっています。各自に各自の自由な『思い』があるということです。ところが、その「思い」が無限に自由であるという選択肢を、主に集団への依存というものに使っているようです。「依存」を「思い」として選択しているということです。

 社会の中で生きながらも、自分のことを自分で決めてゆく本来の行為・・というものは、確かに、結構ハイレベルとも言うべきものがあります。どのケーキを買うか?程度でも迷ってしまうわけであり(笑)他人に言われたとおり動き、他人のせいにしておいたほうがどれだけ楽かわからないわけです。

●『自由』を恐怖に感じる場合

 それらには、選択とその結果が見えないことから来る「恐怖」が根底にあるのでしょうか。無限の「可能性」があたかも「崖っぷち」のように感じてしまうのかもしれません。大切なのはその恐怖をそのままにせず、一体なんだろうか?という意識を振り向ける勇気が必要ではないかと思います。恐怖自体に対する「意識」というものです。これは暗闇に対して意識という光を当てるようなものでしょう。

 自分の肉体や環境をいくら眺めても「自由」というものはわからないかもしれません。やはり自己の「思い」を見る以外に方法はないでしょう。敵は本能寺にあり?ではなく、超えるべき相手は「自分」にありということでしょうか。

 誰にもある、限られた人生というのは、始まりと終わりのある演劇のようです。シナリオは自分で創っているのでしょうが、それを何処まで気づくかというのが、その人生ドラマ・演劇での1つの主要なテーマなのです。

●今この瞬間に、すべての過去も写っている存在・人間

 幾多の人生で、あらゆるものが雑多に現われては、我々を傷つけ、翻弄する苦々しさ。親切に涙が出るほどの暖かさ。おのれの無知にどうしようもなく赤面してしまうはずかしさ。世間に対し怒り、反撃してしまう幼さ。巧妙に世渡りする自分のずるさへの後悔・・・。

 数え上げたらきりが無いほどの経験を重ねられるのも、人生という舞台が繰り返し繰り返し上演されてきたおかげとも言えます。

 思うに、今、このような人間存在であることが出来るのは、幾多の過去といわれる体験群のおかげともいえるでしょう。人間存在は、最高最適とも言われる存在形態であるとも言われていますが、それ自体、そのものが多くの幾多の過去と言う体験で培われてきたのだとも言えます。

 自分自身に気付いてゆくことを自己認識とすれば、宇宙の中にある1点である自分が自分に気づいてゆくことは、宇宙の自己認識そのものであると言えます。

まさに「一点は無窮である・・」という事です

 人間が自分自身に目覚めてゆくということは、宇宙それ自身が、その内部において宇宙たる自己自身に目覚めてゆくということです。

●今、すべての可能性に感謝せざるを得ない

 今のわたしであり、多くの人々であるということは、そのものずばりの存在であり、過去のあらゆる経験がそのまま現われているということです。過去も今のあなたやわたし達に集約されて、「今」ここに存在しています。

 不完全と見える自分は、その可能性の故にこそ「不完全」と見えるものです。不遇と見えるもの、不幸と感じるもの、それらは体験しなければその何たるが理解が出来ないからこそのものであり、教訓として感謝すべきものではないでしょうか。まずい食べ物も一度味わってみなければわからないようなものです。もう二度と食べないことが出来るのも、その苦さの経験があるからです。

●今という無限の可能性に感謝

 「今という瞬間」には過去も未来も含まれているという直感的な意味合いが理解出来るでしょうか。我々はそのことに気づくことが出来れば、どうにもこうにも「感謝」するしかないのではないかと思います。

 あらゆるものごとには意味があり、体験・経験を通して進むことができているという「宇宙」の仕組み、こころ使いに、いや、愛というものに対して、「感謝」の念を発するという行為は、創造の本源への気づきであり、これ以上の恩返しはないでしょう。

 それはまさに大いなる自分自身に対する慰めとなっていることではないでしょうか。

 今在ることに、あらためて感謝のしようもありませんが、ただ言えるのは「有難うございます」という言葉です。これも多分「そのぶんだけ」今宇宙に響き渡っていると感じます。

Nature1006  

本日も誠に拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。