気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

全ては兄弟・姉妹であるということ

2012-04-29 09:27:39 | 直感真知

「人間とは何か?」は、もっとも本質的な問いかけであると言えるだろう。

 

そして「あなたとは何か?」という問いかけも、また本質的に重要な問いかけであろう。

 

人間とは、

 

まさに 「自問自答とも言えるその問いかけの出来る存在」 ということが1つの答えなのである。

 

言わば他者に、そして自分自身に<意識的>になることがその特徴の意識生命体である・・とも言えるだろう。

 

二足歩行の知的生物・・というイメージ・カテゴライズは、人間という外見のほんの1側面に、人々の意識を固定するような作為的想念のことであると言われても仕方がない。

 

我(われ)という自己意識、あるいは自己認識の深化、拡大を「意識的進化」というならば、我々すなわち他の人間達も含む、その集合せる人間社会とは、

 

我(われ)という自己認識を進化させるための、無数の鏡、あるいは参照点であるとも言えるのである。

 

それはすなわち、人間関係というものを通じて進化する知性の働きなのだ。

 

あるいは一時はその中でもみくちゃにされながら、

 

あるいは一時はその中で孤独を味わいながらも、

 

あるいは一時は押さえつけられるような体験をしながらも、

 

それを通じてこそ、自らが何者であるかということを、

 

身を持って知ってゆくことが出来る、言わば無限の<鏡>の配置された仕組みとも言えるものである。

 

ここでいう仕組みとは、それは人知、加工知からのものでなく、

 

気付かぬだけで、既にあった、常在の法則であると言えるだろう。

 

普遍的法則であり、言葉を変えれば真理の道であり、また天の知、大自然、宇宙の法則というべきあり方である。

 

こころを広くもってこれを観るならば、

 

人間達とは、社会とは、お互いを理解し合い、その気付き、意識をより深くより広く切磋し琢磨してゆく仕組みであることが理解できるだろう。

 

それこそが本来の、人間達の集合、あるいは有るべき集合意識と呼ばれるものであろうか。

  

例えば考えてみれば解るけれども、宇宙にたった1人の世界では、どんな刺激も反省も、後悔も、自慢も、落胆も、嬉しさも起きようはずがない。

 

不満が無ければそれに相対する満足もなく、恐れも無ければそれに相対する安心もないはずである。

 

嫌悪が無ければ、好きもあり得ず、

 

大きさが無ければ、小ささもあり得ず、

 

辛さが無ければ安堵もあり得ない。

 

そのような、ある意味で2極性ともいえる、相対的な光の陰影を学ぶことが出来る世界として、今こここの地球という生命圏があったと考えても良いだろう。

 

我々は、大きく言えば地球に転生を繰り返した意識達は、制限された感のある時間と空間の中で、

 

右に行き、左に戻り、

 

あちらにぶつかり、こちらに反発され、

 

落胆の極みに涙も枯れ、

 

歓喜の極みにほとばしる涙があふれる、

 

上に登りつめた時、そして下に落ち込んだあの時・・、

 

・・・そのような2極性とも言える狭間で、辛抱強く体験と知的集約を成し遂げてきたのである。

 

あなたもまたそうではないか。

 

人間が、身体をともなう体験と、その知的集約を生み出す元にあるのが<魂>と言われるものなのだ。

 

体験を通じて大いなる知性につながる、言わば進化の大道を歩いている「本質」たるあなたやわたしが、<魂>と呼ばれるものであり、

 

その時々の身体と、それを通じて体験を重ねることで得られる知性、そしてそれらを生じせしめる普遍的なソースともいえる「魂」あるいは「霊性」を兼ね備える者こそが、あなたであり、そして私達である。

 

人間とは、

 

<身体>のみにあらず、

 

また<こころ>のみにあらず、

 

また<魂>のみにあらず、

 

それらを統括したところの極み無き一点、あるいは無限遠点をも、

 

軽く小さく容易に含んであるところの、一なるものの顕現である。

 

全体と部分、有限と無限が入れ子になった、フラクタルな構造は存在宇宙の普遍的な仕組みであろうか。

 

すなわち無限たる<全体>が、あらゆる<部分>に自らを畳込んでいる不可思議な仕組みに気付くことが出来るだろう。 

 

 

例えば人、それを宗教的、観念的に言うならば、

 

我々は皆、神の化身あるいは神の子ということになる。

 

そういうことにどこか、静かに謙虚に気付けるだろうか。

 

神とは完全無欠、静的な完成品などではなく、

 

常にダイナミックに変化し続ける、あるいは無限を展開し続ける、あるいは無限を知り続けることの、極みなき「嬉しさ」を味わう仕組みであるとも言えようか。

 

存在することの嬉しさが無ければ、どうして今・ここ・世界・宇宙があることだろうか。

 

おのれに目覚めた者、人間・・、

  

意識を有する<今>ここ・・の存在、

 

すなわち、いわゆるところの神の化身であるあなたや私たちが、

 

皆兄弟や姉妹であるという事実に気付いたならば、

 

誰がどうしようと、何をしようと、

 

愛や思いやりを持たないはずがないではないか。

 

世界が無限に展開しつつそこにあるのも、

 

ただ ひとつ と言うしかない、空(くう)たる無限があればこそであり、

 

またそれを一貫して、表出しているところの普遍的意識の主テーマは、思いやり と 愛 、そのものでしかないのだ。

 

人は皆気付く・気付かないに関わらず、

 

大いなる愛と思いやりの中に生かされている・・。

 

どの人が気付いていようが、誰が今がどうだろうと関係は無い。

 

それはまさに事実である。

・・・・

世間での、騒ぎまくることを良しとする者たちの醸し出す愚かで嘘に満ちた情報の類から、あなたのその意識眼を外してみようか。

 

太陽の暖かい光も、

 

頬をなでる心地よい風も、

 

時には荒れ狂う嵐であっても、

 

道に咲く小さな花や雑草たちも、

 

あなたの接する家族や愛想のない御近所の人々も、

 

どこか嫌々やっているかもしれない仕事の先の人々も、

 

毎朝顔を洗う水たちも、

 

毎日変わる空の雲たちも、

 

夕暮れ時の大空を行く鳥たちも、

 

たとえあなたに親切でなくても、

 

また、何も物言わず、何を語らずとも、

 

そこに一緒に同時に存在しているあなたの仲間であることを、

 

その身をもって示しているのだ。

 

それは無理やり思う類の、センチメンタルな感傷などではなく、

 

 

これが今・ここ・・の本質ではないだろうか。

 

 

 

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個我の私は存在しない?

2012-04-24 08:17:55 | 宇宙時代の考え方

以下は、「ただそれだけ」セイラー・ボブ・アダムソンの生涯と教え、からの抜粋である。

 

・・・・・

 

質問者:

「私は存在しない」という事実を受け入れられるかどうか、こころもとないのですが。

 

ボブ:

誰も存在していないものについては何も言えません。あなたは存在そのものです。

 

この世にはただひとつの存在、ただひとつのパワー、ただひとつの知性があるだけです。

 

あなたは、いわゆる「自分」というそのちっぽけなパターン、その成り立ちから考えても無に等しいものの中に、みずからを閉じ込めてきましたが、

 

今度は心の中でその問題を解決しようとしています。

 

「自分は存在しない」という事実をけっして受け入れることはできません。

 

ニサルガダッタが言うように、「あなたは観念でそれをつかまえようとしてーーーーそして失敗する。 必ず失敗することになっている」のです。

 

つまり、頭でつかまえようとしている限り、必ず失敗する、ということです。

  

では、今、何も考えず、完全に停止してみてください。

 

どうでしょう?

 

何らかの観念が進行していますか?

 

考えることをやめたら、見る働きは止まりましたか?

 

聞く働きは止まりましたか?

 

気付く働きは止まりましたか?

 

観念なく、思考なく、別の思考が起こる前の瞬間、あなたは自分が存在そのものであることを理解します。ーーー

 

あなたは生きていることそのもの、在ることそのものです。

 

これはあえて受け入れなければならないようなことではありません。

 

受け入れるには、また別の観念が必要になってきます。

 

思考が起こる前にあるものーーーーそれはただあるがままです。

 

何の飾りもない、裸のきづき、いかなる観念によっても飾られていないもの。

 

ある詩に語られているように、

 

「それはあなたの手足よりも、息よりも近くに」あるのです。

 

あなたはけっしてそれから離れたことがありません。そんなことは不可能です。

 

・・・・・・

 

なるほど、我々は海にいて、水を求める魚のようなものかもしれない。

 

元々それによって生き、それによって笑い、それによって泣き、それによって呼吸をしているにも拘らず、それに気付いていない有様のことだ。

 

思考という様々な湧いては消える観念を真実であると誤解し、あるいは自分がちっぽけな物的存在であるという思いこみによって、

 

自らで苦しんでいるということであるが・・、人はこの皮肉に気付けるだろうか?

 

あるいは、常に先に先に投影するところの、より良き未来という観念に追いすがり、

 

今という瞬間を逃し続ける愚かさに気づけるだろうか?

 

現状が不満で不幸であるからこそ、幸せに満ちた未来に夢をつなぐということの、至極もっともらしい<嘘>の観念を自らで見破らなければならないのだ。

 

何処かに行けば幸せになるのだろうか?

 

幸いの里は、山のあなたの空遠く、あるいは宇宙のどこかの星にあるのか?

 

何かを考えだせば、こころの曇りはなくなるのだろうか?

 

お金が出来たら幸せを感じることができると考えているのだろうか?

 

世界が改善された後にだけ、あなたは安心して生活が出来ると考えているのだろうか。

・・・・

  

それはまさに条件づけされた自分、・・・自分の「こころ」に翻弄されているということを知らねばならない。

 

例えば、いわゆるスピリチュアルな知識を仕入れただけでは、マインドが広がっているように見えるだけで、やはり観念、思考の枠に閉じ込められたままであることを知らねばならない。

 

物質的であろうが霊的であろうが、そのような作り物に翻弄されてしまうところの、

 

自らのこころのパターンを見ようか。

 

どんなものであれ、いわゆるこころの歪んだパターンを自らで清める方向に歩まなければ、

 

本来ある素の輝き、あるがままの大自然、

 

あなたやわたしが生かされてあることを通じて発見出来るところの、

 

あらゆる全体の愛、あるいは思いやり、あるいは慈愛を感じることは出来ないかもしれない。

 

何が無くても、有っても・・・・ただそれだけで十分幸せであるように、この宇宙この世界は創られている。

 

それでは面白くないという、それをそうでないと、意地を張っている、

 

何かを無理やり作りあげようとしている健気な<個人我>は、

 

大勢の人の無意識ながら合意された想念、こころのパターンで創り上げられたものである。

 

大いなる無限、あるいは空(くう)という全体から投影された、無数の右往左往する個々人という影法師を見ている者はなんであろうか?

 

それを言うならば、

 

無数に分化した私達をみている・・・おおいなる<ひとつ>なのだ。

 

それはまた全体であり、空であり、無限そのものである。

 

それが我々の身体、こころ、魂として、また身の回りの世界として既に現われている。

 

我々は皆、ここに生きて存在している・・ことを感じているはずではないか。

 

我々の個我のこころ、マインドを静めることで、色眼鏡なき景色が現われるだろう。

 

人生における修行とはそういうことではないのか。

 

個々の創造とは、エゴで勝手に造り出すようなたぐいのものではなく、

 

す・で・に・在・る・その<無限>の奏でるハーモニーに合わせることだ。

 

そのためにこそ、個我の立ち騒ぐ幼きこころ、マインドを観る必要がある。

 

観ることは即ち客観化であり、それらの意識的調律を意味する。

 

実に、多くの我々にある・・どこかの不幸感は、マインドの騒ぎのことである。

 

マインド、こころをいつまでも騒がせておくことに意義はないだろう。

 

人々は、誰の行為やこころを見て、不安がり、安心し、嫌悪し、さばいているのか?

 

我々の観るべきものは、我々の原点たる、我々の其々の・・常に騒いでるところの、マインド、こころ、造られた観念のほうなのだ。

  

目に見えるところの他者の観察とジャッジから、

 

意識でしか観えないところの、自己の観察と理解へと進むべきときではないだろうか。

 

常にそこに、ここにあったこと、

 

それは、どんな条件もなく、いつでもどこでも出来ることなのだ。

 

それこそが大自然、宇宙との調和を意味するのではないだろうか。

 

全ては今、この瞬間に在り、過去や未来も、「今」にある。

 

誰も皆、すでに気付いていることなのだ。

  

 

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実感が<現実>を創造する

2012-04-15 10:33:19 | 宇宙時代の考え方

●全ては大いなる意識の中に在る

現前に現われている宇宙は、一般に言う創造主、神、全ての根源・・による思考によって顕現していると考えて良いだろう。

 

なぜならば、存在世界全てにおいて、たとえそれが局所だろうと全体だろうと、意識~エネルギー~現象顕現で首尾一貫されているからだ。

 

どんなことでも、そこに何かの現われがあるということは、必ず意図・原因があるのはそれこそ常識なのではないだろうか。

 

例えば著作があれば作者がいる。映画があれば製作者がいる。アート作品があれば芸術家がいる。

 

人間社会での人為的な創造物であっても、それらは決して行き当たりばったりの偶然などではなく、その結果、現象、形はそれを現わす原因によって創られていると考えるのが自然である。

 

現象を起こすものは、現われた物ではなく、背後にある原因たる意図にあるということである。

 

あらゆるものには何がしかの意図されたものがあるのだ。

 

またその意図は現われた物に、その想い、思想・意図を<反映>していることも事実である。

 

我々の目にする、耳にする、味わう、感じること全ては、宇宙的<意識>によって顕現されたものだということなのだ。

 

我々の寝起きする世界、森羅万象、見はるかすこの次元宇宙の果ても、あるいは、自らの例えば手の中の細胞の、中の中、極微の素粒子の世界も、大いなる意図で創られているということだ。

 

我々は皆、その真っただ中にいるのである。

 

●大自然は征服でなく観察・習得すべきもの

 

その大いなる意図はあるいは意志は、結果である現象宇宙そのものに反映されているのであればこそ、

 

我々のなすべきことはまず、自分が今その一部であるところの自然界、宇宙を観察することで、その大いなる意志を感じとることであろう。

 

古代の民の多くが自然を尊崇し、そこから学んできたのが事実であり、それは何も機械文明等を作らなくても十分に霊的成長を遂げてきたのだ。

 

インカ、アステカ、マヤ、ケルト、チベット、南米奥地のシャーマン文化、古代エジプト、古代日本、・・等など無数に散見される文明の記憶等、現代文明では理解不能な文明・文化こそは、大なり小なり、物質顕現レベルを超えた範囲の霊的意識レベルにあったと考えられる。

 

現代はこの霊的と言われる意識レベルを度外視した極端な物質文明として、今その飽和点に達しているということである。

 

悠久の地球上での歴史において、精神の昇華を無視した物質文明は過去何度も地球上で核によって滅んできた。

 

もういいかげん、歪んだ信念から生じるところの、物質崇拝によって自らが自壊せざるを得なくなる皮肉に、気がつかなければならないのだ。

 

今はまさにいつものようなその瀬戸際にあるわけだが、自壊すべきは<偏った物質信仰>や<歪んだ観念>とその生成物のみである。

 

ここは勘違いしてはならないだろう。

 

何でもかんでも爆発して終わるような三流のアメリカ映画はごめんこうむる。

 

地球は未だかつて滅びたことはないし、滅びることはない。

 

地球は壊れて消えるような物質の塊などではなく、我々と同じく大いなる規模の正真正銘の意識体なのだ。

 

 

●霊的幼児の成長の時至る

  

宇宙におけるその原因あるいはソースのことを、根源、神、一なるものと言ってきたのだが、いつの間にか人間の恐れと希望の観念で作りあげた神なる者が支配者として畏怖され、またあがめられてきたようである。

 

宗教というのも観念体系にすぎす、その観念体系同士で衝突している有様の中には神などはいるはずもない。

 

子供でも理解できることであろうが、如何せんそれを理解できないトラブルばかりを作りだす大人のことを、霊的幼児といっても言い過ぎではない。

 

確かに、自信満々ではあるが、実際何をやっているか・・わかっていない者たちのリードしてきた世界は、権威と富とバトルを象徴とする、極めて生きにくいものであったかもしれない。

 

あるいはまた、そのような世界にやってきた人類そのものは、考えてみれば相当に勇気や雄々しさを持っているとも言えるだろう。

 

まさに愛すべきは地球人類なのである。

 

あなたもわたし達も本当に、よくここにやってきたものである。

 

・・・

 

●3次元的制約は架空の自我・エゴを生み出す

 

例えば、物質粒子が勝手に離散・重合を繰り返して偶然に生命を生み出すというような唯物的思考は、極めて皮相的な観念でしかないことがわかるだろう。

 

そのような物質顕現レベルのみに自己の意識を集中させていることにより、自らが3次元的制約が当然の有機的物質で創られた動物のように思いこんできたのである。

 

信じ込んでいる世界のあり方は「信念体系」とよばれるのだが、この地球表面にある文明そのものも、3次元的制約をその旨とする?信念体系にすぎなかったのである。

 

さらにこの世界は、動物・植物の間のサバイバル、すなわち食物連鎖等のイメージ、食うか食われるかという弱肉強食という架空の観念を信条にするような、個体生命の生き残りがその主なるテーマとする文明となっていたようである。

 

個体生命を生き抜くための個々バラバラの自己主張、すなわち「エゴ」がはびこってしまったとも言えるだろうか。

 

確かに、あなたやわたし達も気付いているように、社会、国家、人間関係はそのほとんどが、それぞれの「エゴ」の調整に明け暮れているのではないだろうか。

 

●意識レベルの上昇では、我良しのエゴは消え去る運命にある

 

我々の世界はエゴ的共通現実の世界といっても良いかもしれないが、そのエゴ的観念による文明自体が、そのエゴ体同士の軋轢によって自壊する段階にある。

 

なぜならば、人類の意識レベル、即ち想いの質的向上が進んでいるからである。質的向上、宇宙における大いなる意識に気付き始めてきたということである。

 

人類集合意識は、今までのようなエゴの生存が目的ではなくなり、お互いさま・・・極めて簡単に言うならば、自他一体の意識レベルに、より広く高い見識レベルに、上昇を始めている。

 

その先にある世界は、バトルや競争など全く意味がなく、共感と共生が基準となることだろう。

 

エゴ体同士の競り合いで獲得できたのは、勝ったと言われる側だけの、肉体の安楽さと便利さや物質的享楽であることが、ことここに及んで誰の目にも明らかなってきたからなのだ。

 

その反面、バトルや競争に負けたと言われる者たちは、戦乱と貧困と分裂にこれでもかというほど苦しんできた。

 

まったくもって、おバカなゲームではないか。

 

●古いゲームは既に終わっている

 

ある意味で、形ばかりの栄光と、その嘘の栄光の影の悲惨さを作りあげる、モノポリーのような物質獲得競争ゲームは飽きられ捨てられたのだ。

 

ゲームオーバーである。

 

そういう生き残りだけが目的の、エゴ的文明の自壊作用を感じている人々も多く、その人々が感じているのは、世界が終るとか、一大天変地異によって滅ぶとか・・そういう恐怖の入り混じった直感であるかのようだ。

 

しかしこころすべきことは、確実に自壊するのは虚構の楼閣すなわち人類のエゴなのであって、いつもその母屋を黙って差出し、子供らを慈しみながらその遊ぶ場を提供してきた母なる地球ではない。

 

●自縄自縛の観念の檻を壊せ

 

外の世界のエゴの崩壊・自壊に一喜一憂している余裕はありはしないだろう。

 

あなたの問題はあなたの問題であって、外の誰かではないし、

 

わたしの問題はわたしの問題であって、外の誰かではないのだ。

 

 

人々の為すべき、あるいは為さねばならないことは、

 

自身にあるエゴの浄化なのである。

 

エゴ体同士のバトルゲームは終わったのだ。

 

今は、各自の知らず知らず作りあげてきた、自己存続ゲーム用の<自我キャラ>であるエゴを浄化する時なのである。

 

恐怖、執着、依存、制限、・・・それらの自身を縛ってきた観念、あるいは他者のせいにしてきたそれらの自己制限という檻を、自らでぶち壊すのだ。

 

それらが実際何であったかを確認するためには、自らのマインドを観てとることが絶対的に必要なことなのだ。

 

●実感(認識)こそが現実を創造する

 

それぞれのわたし達が生きる世界は、それぞれのわたし達が、それこそ真実であると認識していることが<投影>される世界なのである。

 

まず、外ではなく内にある、エゴ体を映し出すこころのパターンに気付くことが喫緊の課題なのだ。

 

内なる原因が変われば、外への写しが変わる。

 

そういう意識的存在達が増えるほど、共通現実としての世界が変わってゆくのである。

 

因果を逆転しては楽しい遊びにもなりはしない。

 

人は皆、それぞれの想念、マインドを出来るだけ観察することが必要である。

 

そうすればどういう想いや感情が、何がどうやって内面から湧き出してくるのかがわかるはずである。

 

またそれらの想いや感情で、表現や行動をしている自らの有様も見えてくるだろう。

 

想いや感情、あるいはそれらを実感する意識的認識作用自体があらゆる諸状態を引き寄せ、あるいは同調して顕在化してゆく。

 

例えば幸せを実感したければ、どこか誰か、どこか外に求めずに、

 

今ここで<実感>することによって、それに準拠しあるいは投影されたところのあなたの感ずる幸せが、反響して現われるのが実際の仕組みである。

 

実感が先に在り、外の結果はそれを確認するためだけのことである。

 

外に求めるがゆえに、いつまでたっても現われて来ないのは、まさに法則なのだ。

 

人が<こころ>を入れ替えれば、周りの世界が入れ替わる。

 

ただ、入れ替えのプロセスの遅延や時間経過を焦ってはならない。

 

それはすぐに出るとかでないとかは、全て「こころの入れ替えプロセス」にすぎないからだ。

 

前回の記事のようなスプーン曲げのようなことを取ってみても、同じ法則が働いていることに気づけるだろうか。

 

それが出来ると信じている、あるいは実感している純粋無垢な少年少女たちにとっては、「曲れ」という意図がすぐに現われてくるのは当り前のことである。

  

求めよさらば与えられん・・という意味を外にという意味に誤解してはならないだろう。

 

何事も灯台元、暗しなのだ。

 

そういう、人の世界の因たるところの想いや感情を観ることが出来るならば、その当該原因を観ることによって、その人は想いや感情で出来ていた束縛観念の次元牢から解放されることになる。

 

人間のこころ、マインドは、人間が無意識にあごで使われるべきものではなく、本来は透明でありながらも、時によってそこに思い描き実感することによって働くところの創造のツールなのである。

 

マインドの浄化とは、その働きを観る認識レベルに至ることである。

 

自らのマインド、こころ、思考を観ることが出来るならば、

 

同じく宇宙、森羅万象を現わすところの、神なるもののこころにも共感することになる。 

 

その先にあるのは、まさに宇宙本然の 「あるがまま」なのではないだろうか。 

 

変化表現しつづける宇宙、森羅万象は「あるがまま」であり、またそれらは全て無限大、特大の知性と愛によっていることがわかるかもしれない。

 

常日頃の周りの当り前生活の中にも、根源から放射されている無限の顕れを感じて、心底感謝が出来るかもしれない。

 

騒ぎまくってきたマインドを静めることが出来るならば、意識はこころのフィルターを通り越して見ることが可能になり、本来あるあるがままの自然、あるいは、様々な命の輝きを発見することが出来るだろう。

 

その世界はまた格別のものでありながら、すでに今までにもこの世界に重なって存在していたのである。

  

 

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思考という波動

2012-04-10 07:57:08 | 宇宙時代の考え方

思考は眼に見えないが人の肉体よりも身近にある感じがするだろうか。

 

身近というと距離を連想するので適当ではないのだが、要は最も人の存在中枢にあるものということが出来るのだ。

 

しかし、思考、想念、想いは頭の中の頭脳細胞で出来るものではない。

 

それはあたかも多くの人が使っている携帯電話やI-Phone などと同じく、身体以外の次元からの波動を感受しているということだ。

 

すなわち頭脳は送受信機のようなものということである。

 

受信する内容そのものは、あなたやわたし達のこころのパターンに共鳴するものがやってくるということである。

 

科学的な仕組みから言えば、それはまったくラジオやTVなどと原理的には同じということであるが、そのベースとなる波動は当然ながら電波ではなく、今の人類には発見、認識されていない波動である。

 

しかしながらラジオやTVの原理を知っているエンジニアや科学者ならずとも、すでにそれを使用しているのが、我々ということである。

 

ただそれが明確に認識されていない所にこそ問題が生じるのである。

 

こころを浄化する、こころを調律する、こころを静める等という古来からの教えは、それ相当の意味があってこそなのだ。

 

あるいはそのこころの動きを観察するということにも、大きな意味があってこそなのだ。

 

なぜならば、こころがその受信する内容を決めているからであり、すなわち思考という意識の波紋は、それが、受信される想念の呼び水にもなり、またそれは同時に想念としての発信にもなるからである。

 

簡単に言えば、思考とは自らが受発信する想念の動きであり、その想念はこの物理的時空を超えた次元の波動によって、3次元的な認識レベルにあるものにとっては、それは実に瞬時に伝搬するからである。

 

瞬時というのは時間=0、という意味ではなく、我々が過去や未来といっている時間軸を超えて働くという意味でもある。

 

想念が携帯電話等と同じく伝搬し、送・受信されているということに気付ければ、如何にその同調機能である<こころ>が重要であるかがわかろうというものではないか。

 

世間の尤もらしい非常識は、すでに存在している人間の意識の無限の可能性から眼をそむけ、低く重い観念の世界に安住するための、ある意味での時空的重りを形成しているのだ。

 

その重たい観念の世界が、第3密度だとか、3次元的制限の世界だとか言われているわけである。

 

また、意識は情報として瞬時にあらゆるところに既に伝わると同時に、情報を元に現象化というプロセスを起こす。

 

意識がエネルギーを通じて物質的現象化をするということであるにもかかわらず、その結果である物質顕現のみを後生大事にしている有様は、まるで幼児が与えられたおもちゃを必死になって守ろうとしているようではないか。

 

なぜなら、周りのみんながそうであるから・・という他者依存によって自らの意識の開眼を自ら妨げているからである。

 

意識が開けなければ、そこにパワーも湧出しないのは道理である。

 

・・・

今はなぜか記憶はあるが忘れ去られたようになっている感がある<スプーン曲げ>という話題があった。

 

ユリゲラーなる者が発端となって一大ブームにもなったが、誰か1人2人の少年がズルしたとのことで、いつの間にか全てが嘘だという風な群衆認識になったかもしれない。

 

曲れ・・とスプーンに念を込めることで、簡単にスプーンを曲げた当時の少年少女達も多くいるはずである。

 

少年少女は、未だ大人の世界に生きるためと称される重い先入観念が希薄であるが故にこそ、最初から出来ないなどと「信じ込んで」いないからこそ、その多くがスプーンを曲げてしまったのだ。

 

あるいはテレパシーと言われる意志疎通や印象の情報伝達も多少ながら皆経験しているはずであるが、それが全て偶然の産物であるかのような想いで打ち消すのが理性ある大人の態度であるかのごとき風潮が広まっている感もある。

 

いつの間にかそれらは邪道であるかのごとき観念が、メディアを通じて大人の世界にはびこってしまい、本来ある意識のパワーを押し込めざるを得なかったかもしれない。

 

ある意味では、このような念の力で様々なものが破壊されたり、ねじ曲がったりしたのでは、にっちもさっちも行かないことになるという危惧からのことであったかもしれない。

 

要は、そういう効果や力が人間の意識にあったとしても、それを使うだけのこころの清浄さや倫理がないということであったかもしれない。

 

しかしながら、事実は小説よりも奇なり・・であり、人為的な作為話・小説よりも事実こそが正道である。

 

見えるもの以外は存在しないという愚かな「観念」にどっぷりつかっていて、誰かが助けてくれるはずもない。

 

真実以外に、人間が真剣に相手にすべき何が有るというのか?

 

目覚めは必ずひとりひとりなのである。

今まで人類は少しづつ進歩しているはずだという常識、恐れや不安を正当化するような共通現実こそが、まさに夢の中のようなものであり、人間の雄々しき<夢>を創り上げてゆこうとする意識によってこそ、そのまだるい古い夢から目覚めることができるのだ。

 

人間は肉体存在ではなく、意識的存在であり、意識的存在であるからこそ、意識~エネルギー~物質顕現のパワーソースでもあり、またそれは宇宙全般にすでに現われている、変化し続けながらも顕現し続けている、創造という雄々しくも美しき、愛すべき物語に参入しているのである。

 

あなたはもう自分というものが真に何であるかの一端に気付いていることだろう。

  

 Sakura2

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世界は仮想現実(2) 常無き世界

2012-04-01 10:06:14 | 宇宙時代の考え方

諸業無常という古い言葉がある。

 

人においても、その集合せる社会においても、そして大自然においても、あらゆるものが<常無き>有様を呈していることを看破した言葉である。

 

大自然における季節の移り変わり、人のこころの変化、社会の動き、すべては一瞬たりとも全く同じものではなく、

 

それがたとえ繰り返しのように見えても、決して同じ繰り返しではないことを示している。

 

無常と無情が混同された感のある印象、奢れる平家は久しからず、という栄枯盛衰のことわりだけを言っているものではない。

 

現われ出たすべては変化すること、すなわち一瞬一瞬が極めて特別な瞬間であり続けることを言うのである。

 

変化とはへんかであり、ゆらぎであり、あらゆるものに同じことの繰り返しがないのは、

 

一瞬一瞬の現われ続ける現象によって、

 

まさにそれを生み出して変化するところの、

 

<当の>

 

創造者あるいは意図、あるいは意識たる本源自らが、

 

自らに気付くことができるからなのだ。

 

なぜならば、

 

変化のないところには<存在>というものがないからである。

 

変化、変移等無くて・・どうして、それを<それ>として気付けるだろうか?

 

これらはまるで禅問答のようで、極めて直感的感知を要求する表現かもしれないけれど、

 

すべての一なる根源、そしてその現われである森羅万象すべてが、その様々な変化を旨とする自然という現象を通じて、・・自らが目覚めていることに<気付いて>いることを表現しているのだ。

 

宇宙創造等というと、すぐに、はるか向こうにありそうな、途方もない、膨大な物質組成の創造とその仕組みという風な、いわゆる無限大の物理量的なものに捉える観念が直感的理解の邪魔をしてしまう傾向があるが、

 

実のところは、遥か無限の向こうの空間の先や、悠久の時間の流れという仕組み自体が、人間のマインド・こころによって創られたものである。

 

マインド・こころによって創られた・・といっても、あなたやわたし達が何かの彫刻を造るように丹念に意図的に製作するということではなく、

 

それを<それ>として見ている、・・観ている、・・そうだととらえている、あるいはそう信じ込んでいることで<仮に>創り上げているということである。

 

バーチャルなリアリティの創造である。

 

科学たりと言えどもその理解は変化し続けているではないか。

 

マインド、こころによって創られる世界、

 

それは、その時その時で<そう>と認めているこころの働き、すなわち<認識>によって創られているということである。

 

宇宙創成というレベルにおいても、大いなる創造、神なるものの存在演出、宇宙における永遠に変化しつづける森羅万象の、その常無き有様は、無限さえもそのふところ?に包んでいる<意識>によるところの<自己認識>なのである。

 

平たく言えば、全体である神なるもの、あるいは宇宙意識の自己認識・・・それが森羅万象として生起し続けているのだ。

 

ところで、あなたもわたしも、宇宙創造というそれに参加している<意識>である。

 

<意識>において、大も小も、神も人もなく、岩も、木も、動物もない。

 

ただその異なった現われ、常に変化する現象、そして常に進化、深化拡大する働きのプロセスがあるだけである。

 

意識においては全てはひとつなのだ。

 

ひとつであるからこそ、それが無限大に現われる。

 

無限大の中の、たった1つあるいは1人と感じている・・<あなた>・・も、そのソース、根源の中にいる意識である。

 

意識?  え、それは何だ? どこにある? というものではなく、

 

あなたやわたし達の・瞬・間・瞬・間に、すでに示されている。

 

というよりも、どういうことか、<それ>そのものである自らに気付いていないというだけのことである。

 

今ここに存在しているということに気づき、意識していること自体が、その絶対的な証拠である。

 

今一わからないというのは、人工的な価値観というマインドの影によって光を感じられないだけだ。

 

生きているだけで、この宇宙にいるという気付きだけで、それがどんなに奇跡的なことであるのかということに<気づける>はずである。 

 

それだけでOK・・、

 

それは、<あるがまま>という言葉で象徴されるものである。

 

今すでに在るにもかかわらず、それを誰かに、何かに求める必要があるのか?

 

いいや、ありはしないのだ。

 

ただ行うべきは、

 

それぞれのこころの中にある、いつからか、誰から受け継いだかわからぬような、虚妄の観念を・・、心の癖を・・、恐怖のパターンを、

 

自分で掃除することなのだ。

 

その為には、自らのこころ模様に常に気付いている必要がある。

 

自らのこころ模様自体に、自ら気づける<あなた>自身に移行することで、

 

あなたはもう、こころ、マインド、そしてその顕現パターンの1つである肉体自体も、明らかに自分の顕現様式にすぎないことを理解できるのだ。

 

どこかに行かずとも、何かを獲得しなくても、何かに成りあがらなくてもよい。

 

それぞれの<わたし>達の、言わば、親とも言える・・このすでに現われている無限の存在世界そのもの、それに調和し、それを学び、そこで遊ぶこことの楽しさを思い出すことが求められる時に至ったのだ。

 

本来は、様々な次元、階層を含む仮想現実世界の中における、この1つの世界も、まさに自由自在に創造を楽しむための魂達の遊び場なのである。

 

あなたも私たちも、まさに<無限>から生じたところの表現形であり、また無限自体をその根源としている<それ>である。

 

こころに捉われず、こころに翻弄されず、この世界で何があってもそれを得がたい体験として自らの意識を拡大することが、言わば神なるものの創った<遊び>といえるだろう。

 

日常的であろうと、世間の中であろうと、世界的なものであろうと変わりはしない。

 

全てはこころで作りあげるところのバーチャルなリアリティ、仮想現実なのだ。

 

変えるべきは他人のこころでも、社会の機構でもなく、

 

自分のこころなのである。

 

 

諸業無常・・常無き世界であるからこそ、

 

今、ここにもどこにも、常に創造と遊びの嬉し・楽しの瞬間があるのだ。

 

それを見えなくさせている、身に付着したマインド、こころの曇り、汚れを・・・もう潔く落とそうか。 

 

宇宙、あるいは存在諸世界を通じてダイナミックに変化し続けるサイクル、リズムは、いまはもうその時であることを告げていることも事実なのだ。

 

まさに、大いなる変化のときである。

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

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