「我思う、ゆえに、我あり」 ということは、
同じ意味の異なる表現をすれば、意識の根本的な自己認識作用を言うところの、
「 I am that I am. 」 、
私は、わたしである・・ところのものである、という事が出来る。
これは抽象的な哲学、あるいは形而上的な言葉表現ではなく、我々の「今」の存在原理を示しているのだ。
今とは現在、過去、未来のどれかというものではなく、それらすべての元にある、永遠の「今」のことであり、意識的存在である人間の、最も身近で、肉体細胞すべてに浸透し、それそのものである「今」のことである。
「今」のこの瞬間の連続こそが、過去の記憶となり、未来への可能性となっていることに当然ながら気づくことだろう。
人生というものを過去の記憶であると捉えることも間違いであるし、片手落ちのようなものである。
また人は常に未来に向かっているという捉え方も間違いであるし、片手落ちなのだ。
なぜならば、今という瞬間から、意識が逸れているからである。
すべては、「今」しかないのだ。
この非常に単純な気づきを深く理解すればいい。
今という瞬間は、人のイメージでは、無限小とも無限大とも捉えられるだろうし、瞬間とは、容積も、広がりも、時間という量も存在しない。
科学的に言わなければならない場合は、「無限小」の時間量、あるいは時間量子のようなものかもしれない。
しかしながら、今・・・、
広がりでもなく、経過でもない「今」を深く意識すべきである。
あらゆる形態変化、生命表現、存在の諸相も、すべて「今」があればこそ展開できるのである。
我々の毎日は、その「今」の瞬間から限りなく湧出するところの、連続コマ送りの立体映画のようなものであると言えば、それほど外れてはいないだろう。
人は皆、そんなこと当たり前であると思うかもしれないけれど、その「今」を深く感じようとしたことは有るだろうか?
多分そうではないはずである。
常に未来はこうなる、こうしなければ、こうあるべきだ・・という理想を掲げて生きてきたか、あるいは、過去の残像に思いを寄せて生きてきたか、多分そのようなものであったはずではないだろうか。
若い人も年配者も、常に今の瞬間に有りながら、足早に、忙しげに通り過ぎてはいないだろうか。
若い時は未来の可能性を信じ努力を重ね、年老いては人生の履歴を振り返って、その過去という重みを財産としてきたのかもしれない。
そうやって大勢の人々が、生れては逝きながら、文明、文化を創り上げてきたのは事実であるが、そこには大きなミスマッチ、忘れ物、あるいは誤解があったことにも気づくだろうか。
そう・・、今のこの瞬間・・から遠ざけられてきたという現実である。
人は、 「我思う、ゆえに我あり」 という言葉の通り、「意識的な意識」を有する存在であるが、その意識的な意識によって、「今」の瞬間に気づくことが出来る存在でもあるのだ。
我々は、過去に生きているわけでも、未来に生きているわけでもない。
常に、今生きている。・・・と思っている、気づいている・・存在である。
それは、思い、そして思考や感情という「意識の働き」によって気づくことができるのだ。
謂わば、人間特有の「想念」によって、今という、全てを生み出し続ける、変化し続ける「瞬間」に気づくことが出来るのだ。
・・・
それそのものが、全てであるところの、無限の可能性を湧出し続けるところの、「今」とは・・・、
有って無きのような、あるいはそれは「空」(くう)とも言えるだろうか。
「今」とは「空」(くう)であるがゆえに、全てを含むことが出来るのも、また自然のことである。
その空(くう)から現われ続けるのが、人間においては「想い」である。
空(くう)から、「今」の現実世界のような現象化への橋渡しをするのが、あなたの「想い」であることに気づけるだろうか。
あなたがいなければ「世界」は無いというのは、一面の真実である。
あなたの世界は、あなたの「自己認識作用」あるいは「想い」によって造られ続けているのが真相なのだ。
権威ある人はそれを単に『唯心論』として、議論する世界に引きずり込んで終わりにしようとするだろうが、大きな間違いであることは、それが「自分」でしか証明しえないところにある。
こころの法則として、こころの使い方を教示する多くの教えや、書物も出ているのだが、今一ぴんとこない人も多いだろう。
・・・・
例えば、こういう事ではないか。
「私はお金持ちになりたい」と「想っている」が、決して私はお金持ちではない。
想う事がどうして出てこないのだろうか、従って想いが現実化するなど嘘に違いない。」
・・・・従って、想いが自分の人生を決めているなど嘘にきまっている。
極めて論理的である。
ところが、実際にお金持ちの人に聞いてみると、
「そう、私は確かに今お金持ちですよ」 と言うだろう。
それも事実である。
・・・
何が違うのだろうか?
「今、私はそうだ」と、あなたが想っている・・・ことと、「今、私はそうでない」と想っていることの「違い」であることに気づけるだろうか。
それは、想いが足りないからだとか、真剣に想っていないからだという希望的取りなしのようなものでもない。
想いは量で量れない、謂わば高次元の波動といえるだろう。
しかし、あなたは実際に頭の周囲という感覚であれ、想いを感じることが出来るのだ。
・・・・
誰にも解り易い、ある意味下世話な話、お金持ちになる・ならないの例だが、
「今それが事実である、真実である・・」と想っていることが、既に「出ている」ことなのである。
それを制御しようとする行為がマインドコントロールであり、それは、「共通現実」を不特定他者の「好都合」な方に向ける為の単に高度な技術である。
・・・・
未来への希望や期待は、常に未来というスクリーンへの投影で有りつづけるしかなく、それは逆に、今の瞬間を永遠に取り逃がす意識的行為のことである。
現象は、常に「今」この瞬間にしか顕れようがないではないか。
今あなたが「事実である」 「真実である」と想っていることが、即ち今、この瞬間に出ていることなのだ。
これが人類という、そしてわたしやあなた達という、大勢の意識的意識を有する存在達の根本的有り方と言えよう。
「我思う、ゆえに、我あり」
「 I am that I am. 」
あなたの想いこそが、既にそこに、そのまま結実しているのがあなたの世界であり、それが集まって似たようなことを信じ込んでいることで結実しているのが、「共通現実」という、我々のこの世界なのである。
・・・・
今までの文明がどこか大いに堕落しているという意味は、
無限の可能性を意識の作用によって、自ら体現しているはずの人間達が、
結果、現象である外の世界の要素、即ち物質を最大限採掘・加工することで、
様々な二次加工品を創り上げ、それを身の回りに置くことで、
それを進化や進歩だと信じ込んでいたというところにある。
それらが、絶対的に必要なもの、即ちあたかも神のようなものとして信じ込んできた有様が、既に身の回り、社会、世界に溢れている現状を見るべきだろう。
・・・
人為的な創造物は依存すべき神のようなものではなく、単なるツールである。
自らの外郭形態・肉体自体を損なうツールを、どうして掴んでいたいのだろうか。
それは、
自らにある無限性に未だ気づかぬが故に、何かにすがっていたい・・というだけのことである。
我々人類において、霊的幼児達は、いわゆる現実世界で偉いと言われる人々、権力周囲にいる人々に極めて多いようである。
それらが世界に溢れてきたように見える昨今は、既にこの地球という学び舎、学習形態の最後に来ているということなのだろう。
例えれば、映画に慣れない観客は、いつまでも楽しい映画が続いてほしいと、観客席に居続けるかもしれないが、そういうわけにはいかないのだ。
まず1つには、この3次元的な時間・空間映画の興業主である、この地球という舞台がもたないところに来ているからである。
我々は、物質への執着を外し、過去の人為加工の想念群を、その意識の中から注意深く捨て去らなければならない時期にある。
その為には、それぞれの中にある様々な想いを自らで観じ、その意味合いを汲み取り、いつの間にか歪んでしまった色々な「こころ模様」という織物をきれいに洗い流さねばならないのだ。
今はもう、血走らせた眼を外の世界に投射する時ではないはずだ。
共通現実というこの世界の映画を映し出すところの、それぞれのあなたやわたし達のこころ、想い、そして付随する感情を、洗い出し、そして洗い流す時である。
想いは精妙で最強の波動であり、それは我々の行く末さえも「今」決めている。
今までもそうであるし、これからもそうである。
今、あなた自身に戻りたまえ・・!
・・・・・
毎日、毎瞬、ふと気づける時には、自らの想いを第3者的な意識のスタンスで、ただ「観る」ことが肝要である。
浄化の場合には、ポジティブ、ネガティブという判断さえも余計であり、
何かを加工しようと思わず、こころのあるがままを維持することが大切である。
そうすれば、様々な想いが相当に意識の中を去来していることに気づくだろう。
そのどれかの想いによって知らず知らず、常に行動させられていることにも気づくはずである。
虚栄心、体の欲求、ねたみ、自己保身、他者依存、そしていつの間にか常にある「恐れ」・・・・
それらが膿のように出てくるかもしれないが、それは正当な道なのだ。
今の時間とはその為のようなものではないか。
それらを『観る』ことが出来るならば、それは即ち、闇に光が点(さ)したという事なのだ。
闇と光、それらは決して抽象的な比喩ではなく、意識的存在であるそれぞれのわたしの、今生における極めて高尚な宿題なのだと思わないか?
そして「今」、がその時である。
・・・・
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。