気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

こころの浄化 (2)浄化は今、この瞬間

2011-07-31 12:02:07 | 覚醒意識

我思う、ゆえに、我あり」 ということは、

 

同じ意味の異なる表現をすれば、意識の根本的な自己認識作用を言うところの、

 

 I am that I am. 」 、

 

私は、わたしである・・ところのものである、という事が出来る。

 

これは抽象的な哲学、あるいは形而上的な言葉表現ではなく、我々の「今」の存在原理を示しているのだ。

 

今とは現在、過去、未来のどれかというものではなく、それらすべての元にある、永遠の「今」のことであり、意識的存在である人間の、最も身近で、肉体細胞すべてに浸透し、それそのものである「今」のことである。

 

「今」のこの瞬間の連続こそが、過去の記憶となり、未来への可能性となっていることに当然ながら気づくことだろう。

 

人生というものを過去の記憶であると捉えることも間違いであるし、片手落ちのようなものである。

 

また人は常に未来に向かっているという捉え方も間違いであるし、片手落ちなのだ。

 

なぜならば、今という瞬間から、意識が逸れているからである。

 

すべては、「今」しかないのだ。

 

この非常に単純な気づきを深く理解すればいい。

 

今という瞬間は、人のイメージでは、無限小とも無限大とも捉えられるだろうし、瞬間とは、容積も、広がりも、時間という量も存在しない。

 

科学的に言わなければならない場合は、「無限小」の時間量、あるいは時間量子のようなものかもしれない。

 

しかしながら、今・・・、

 

広がりでもなく、経過でもない「今」を深く意識すべきである。

 

あらゆる形態変化、生命表現、存在の諸相も、すべて「今」があればこそ展開できるのである。

 

我々の毎日は、その「今」の瞬間から限りなく湧出するところの、連続コマ送りの立体映画のようなものであると言えば、それほど外れてはいないだろう。

 

人は皆、そんなこと当たり前であると思うかもしれないけれど、その「今」を深く感じようとしたことは有るだろうか?

 

多分そうではないはずである。

 

常に未来はこうなる、こうしなければ、こうあるべきだ・・という理想を掲げて生きてきたか、あるいは、過去の残像に思いを寄せて生きてきたか、多分そのようなものであったはずではないだろうか。

 

若い人も年配者も、常に今の瞬間に有りながら、足早に、忙しげに通り過ぎてはいないだろうか。

 

若い時は未来の可能性を信じ努力を重ね、年老いては人生の履歴を振り返って、その過去という重みを財産としてきたのかもしれない。

 

そうやって大勢の人々が、生れては逝きながら、文明、文化を創り上げてきたのは事実であるが、そこには大きなミスマッチ、忘れ物、あるいは誤解があったことにも気づくだろうか。

 

そう・・、今のこの瞬間・・から遠ざけられてきたという現実である。

 

人は、 「我思う、ゆえに我あり」 という言葉の通り、「意識的な意識」を有する存在であるが、その意識的な意識によって、「今」の瞬間に気づくことが出来る存在でもあるのだ。

 

我々は、過去に生きているわけでも、未来に生きているわけでもない。

 

常に、今生きている。・・・と思っている、気づいている・・存在である。

 

それは、思い、そして思考や感情という「意識の働き」によって気づくことができるのだ。

 

謂わば、人間特有の「想念」によって、今という、全てを生み出し続ける、変化し続ける「瞬間」に気づくことが出来るのだ。

 

・・・

それそのものが、全てであるところの、無限の可能性を湧出し続けるところの、「」とは・・・、

有って無きのような、あるいはそれは「空」(くう)とも言えるだろうか。

 

「今」とは「空」(くう)であるがゆえに、全てを含むことが出来るのも、また自然のことである。

 

その空(くう)から現われ続けるのが、人間においては「想い」である。

 

空(くう)から、「今」の現実世界のような現象化への橋渡しをするのが、あなたの「想い」であることに気づけるだろうか。

 

あなたがいなければ「世界」は無いというのは、一面の真実である。

 

あなたの世界は、あなたの「自己認識作用」あるいは「想い」によって造られ続けているのが真相なのだ。

 

権威ある人はそれを単に『唯心論』として、議論する世界に引きずり込んで終わりにしようとするだろうが、大きな間違いであることは、それが「自分」でしか証明しえないところにある。

 

こころの法則として、こころの使い方を教示する多くの教えや、書物も出ているのだが、今一ぴんとこない人も多いだろう。

 ・・・・

例えば、こういう事ではないか。

「私はお金持ちになりたい」と「想っている」が、決して私はお金持ちではない。

想う事がどうして出てこないのだろうか、従って想いが現実化するなど嘘に違いない。」

・・・・従って、想いが自分の人生を決めているなど嘘にきまっている。

 

極めて論理的である。

ところが、実際にお金持ちの人に聞いてみると、

「そう、私は確かに今お金持ちですよ」 と言うだろう。

それも事実である。

 ・・・

何が違うのだろうか?

 

「今、私はそうだ」と、あなたが想っている・・・ことと、「今、私はそうでない」と想っていることの「違い」であることに気づけるだろうか。

 

それは、想いが足りないからだとか、真剣に想っていないからだという希望的取りなしのようなものでもない。

 

想いは量で量れない、謂わば高次元の波動といえるだろう。

 

しかし、あなたは実際に頭の周囲という感覚であれ、想いを感じることが出来るのだ。

 

・・・・

誰にも解り易い、ある意味下世話な話、お金持ちになる・ならないの例だが、

 

今それが事実である、真実である・・」と想っていることが、既に「出ている」ことなのである。

それを制御しようとする行為がマインドコントロールであり、それは、「共通現実」を不特定他者の「好都合」な方に向ける為の単に高度な技術である。

 ・・・・

未来への希望や期待は、常に未来というスクリーンへの投影で有りつづけるしかなく、それは逆に、今の瞬間を永遠に取り逃がす意識的行為のことである。

 

現象は、常に「今」この瞬間にしか顕れようがないではないか

 

今あなたが「事実である」 「真実である」と想っていることが、即ち今、この瞬間に出ていることなのだ。

 

これが人類という、そしてわたしやあなた達という、大勢の意識的意識を有する存在達の根本的有り方と言えよう。

 

「我思う、ゆえに、我あり」

  

「 I am that I am. 」

 

 

あなたの想いこそが、既にそこに、そのまま結実しているのがあなたの世界であり、それが集まって似たようなことを信じ込んでいることで結実しているのが、「共通現実」という、我々のこの世界なのである。

 

・・・・

今までの文明がどこか大いに堕落しているという意味は、

 

無限の可能性を意識の作用によって、自ら体現しているはずの人間達が、

 

結果、現象である外の世界の要素、即ち物質を最大限採掘・加工することで、

 

様々な二次加工品を創り上げ、それを身の回りに置くことで、

 

それを進化や進歩だと信じ込んでいたというところにある。

 

それらが、絶対的に必要なもの、即ちあたかも神のようなものとして信じ込んできた有様が、既に身の回り、社会、世界に溢れている現状を見るべきだろう。

 

・・・

人為的な創造物は依存すべき神のようなものではなく、単なるツールである。

 

自らの外郭形態・肉体自体を損なうツールを、どうして掴んでいたいのだろうか。

 

それは、

 

自らにある無限性に未だ気づかぬが故に、何かにすがっていたい・・というだけのことである。

 

我々人類において、霊的幼児達は、いわゆる現実世界で偉いと言われる人々、権力周囲にいる人々に極めて多いようである。

  

それらが世界に溢れてきたように見える昨今は、既にこの地球という学び舎、学習形態の最後に来ているということなのだろう。

 

例えれば、映画に慣れない観客は、いつまでも楽しい映画が続いてほしいと、観客席に居続けるかもしれないが、そういうわけにはいかないのだ。

 

まず1つには、この3次元的な時間・空間映画の興業主である、この地球という舞台がもたないところに来ているからである。

 

我々は、物質への執着を外し、過去の人為加工の想念群を、その意識の中から注意深く捨て去らなければならない時期にある。

 

その為には、それぞれの中にある様々な想いを自らで観じ、その意味合いを汲み取り、いつの間にか歪んでしまった色々な「こころ模様」という織物をきれいに洗い流さねばならないのだ。

 

今はもう、血走らせた眼を外の世界に投射する時ではないはずだ。

 

共通現実というこの世界の映画を映し出すところの、それぞれのあなたやわたし達のこころ、想い、そして付随する感情を、洗い出し、そして洗い流す時である。

 

想いは精妙で最強の波動であり、それは我々の行く末さえも「今」決めている。

 

今までもそうであるし、これからもそうである。

今、あなた自身に戻りたまえ・・!

 

・・・・・

 

毎日、毎瞬、ふと気づける時には、自らの想いを第3者的な意識のスタンスで、ただ「観る」ことが肝要である。

 

浄化の場合には、ポジティブ、ネガティブという判断さえも余計であり、

 

何かを加工しようと思わず、こころのあるがままを維持することが大切である。

 

そうすれば、様々な想いが相当に意識の中を去来していることに気づくだろう。

 

そのどれかの想いによって知らず知らず、常に行動させられていることにも気づくはずである。

 

虚栄心、体の欲求、ねたみ、自己保身、他者依存、そしていつの間にか常にある「恐れ」・・・・

 

それらが膿のように出てくるかもしれないが、それは正当な道なのだ。

 

今の時間とはその為のようなものではないか。

 

それらを『観る』ことが出来るならば、それは即ち、闇に光が点(さ)したという事なのだ。

 

闇と光、それらは決して抽象的な比喩ではなく、意識的存在であるそれぞれのわたしの、今生における極めて高尚な宿題なのだと思わないか?

  

そして「今」、がその時である。

・・・・

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こころの浄化 (1)自らの想念に気づくべし

2011-07-23 09:25:25 | 覚醒意識

我々は皆「こころ」をもっている。

 

こころとは「意識の高度な働き」である。

 

こころを構成する要素は、一般に想念ともいうし、思考と、感情とに色分けされてもいる。

 

想念とは、一般に「頭」に生ずる見えない思いのように考えられているだろう。

 

朝起きてから夜寝るまで、生活や、仕事、人付き合い等において、様々でめまぐるしい「思い」があなたの頭に去来していることだろう。

 

しかし、それは個々の人間の内面に生ずる「なにか」として、特に注視、注意されていないのが現状であろう。

 

想念、すなわち思い、思考、イメージは物理的に肉眼で見えないし、他人にも見えないがゆえに、不思議と実体のない、あるいは役に立たないものとして捨てられているかもしれない。

 

忙しく、あるいは暇に毎日を過ごしていても、あなたの意識の注視する先は、いつも自分の想いなどではなく、外の出来事、有様のほうに向いているに違いない。

 

あるいは昨今は眼の前に有るインターネットの情報に向いているだろうか。

 

多くの人々においては、出会う人間達、出来事の報告・ニュース、自分の行動の有様等、起きた現象のほうに意識が向いており、その背後でめまぐるしく生起している、自分自身の意識の働き、即ち様々な「こころ」の反応に、どれだけ気づいていることだろうか?

 

自分自身の源流を見ずして、遠くの支流ばかりを見ているようなものであり、あるいは人や社会の顔色ばかりを見ているようなものであり、それを見ている、あるいは感じている、観察している「当の」自分を忘れているということだ。

 

我思う・・ゆえに我あり

 

昔、ルネ・デカルトが表した重要な気づきは、いつの間にかどこに消えたのだろうか。

 

精神活動があるが故にこそ、人が存在しているという極めて重要な、当たり前の存在原理すらをも忘れているのかもしれない。

 

あなたはどうだろうか?

 

・・・・・

そんなことより、飯を食うのが先である・・・金が無いと何を言っても始まらない・・・状態なのかもしれない。

確かに、そのような刹那的な「思い」が、幅を利かせているような今の社会、世界情勢は、すでに相当なレベルまで堕落していると言ってもいい。

 

人々は、時代とともに人類は順調に進化、発達していると思っているのだろうか?

 

発達したのは、物質を製品として加工し、人間の身体をより快適により安楽にするための方法論とその機械的仕組みである。そしてその為の膨大な知識でしかないのではないか。

 

逆に、それは人間を肉体に縛り付け、意識の働きが無くても、こころの働きがどうであってもいい様な、安易な方向に大きく傾いて、そのまま進んでしまったようではないか。

 

生活に必要な物資を換算するための共通する価値観、「お金」の持てる量によって、その安楽さと快適さがいかようにも得られる仕組みになっているわけである。

 

しかしほとんど誰も、それによって「こころの平和」は得られていないではないか。

 

その逆に、それを得るために、借りを返すために、あたかも奴隷のような毎日を送らざるを得ない・・多分、そんなことにはまっていはしないだろうか。

 

大勢の人々の最大多数の最大幸福をもたらすという自由な人間活動という「思想」の周囲にあった、貨幣の最大利用という仕組みは、

 

本来人類にあってしかるべきの、まずそのままで生きていることの楽しさを、あろうことか奪ってしまったのではないだろうか。

 

我々は、本来ここに生れて、そして生きているだけで、まず、それが嬉しく楽しいことであるにも拘らず、それが不精だとか、怠惰であるとか、創作能力の無駄遣いであるとか、頭が良いとか悪いとか、あるいは何かを成し遂げなければ生きる資格は無いとか・・・、等という様々なもっともらしい「強迫観念」が植え付けられたのではないか。

 

人生終えるまでには、気づくべきことではないのか。

 

地球という生態系全体の為に・・、林立するビル群や大気を切り裂いて進む航空機や、ばい煙や汚染物質を大気や海に垂れ流しする工場が必要であるとでも言うのだろうか。

 

いいや違う。

 

行き過ぎたそれらの人為は、我々が生きてゆくべき、この地球生態系自体を明らかに「壊している」のだ。

 

その最たるものは、原子兵器や原発等であろうか。

 

自ら後始末のできない放射性物質を濃縮して創り上げ、それで一時の経済効果をせしめ、あとは野となれ山となれという有様は、少なくとも地球という生態系、いわゆるガイアという意識生命体にとっては、まさに百害あって一利なしである。

 

例えひいき目にみても、人類にとっては一利あっても99害の行為であろう。

 

濃縮された放射性物質は、その「崩壊」エネルギーによってあらゆる生命を死に至らしめるものであることは明白であり、そうであればこそ、それをすぐにも廃棄しなければ、生態系からの強烈な揺り戻しが必然として起こるだろう。

 

地球は巨大な生命、意識体であるからには、その生命維持のためにあらゆる現象が起きてくるのは明白であろう。

 

例えば、あなたが、誰かにひどいことをされたとした場合には、自らの維持のために、やはり同じことをするだろう。

 

警告を発し、それを無効にするように働きかけるか、どうしようもなければ、あるいはそこから立ち去るかのいずれかであろう。

 

全ての生命は、それ自体をまず維持する機能があり、また生命を昇華する、進化する方向にあることに気づけば、それが真っ当な反応であることが解るだろう。

 

それとも、人は機械であり、また自然は偶然の産物であり、無目的な物質粒子のランダムな集まりであるとでも考えているのだろうか。

 

 

ここは重要なこころの分岐点である

 

もう、

 

目先の一利のために制御の利かない物質を作り出すのをやめ、

 

大切な人生をお金の集団亡者で過ごすのをやめ、

 

亡者同士のカルマを造るばかりの争いをやめ、

 

他者の顔色ばかり見るような、支配の使役人をやめようか。

 

 

わたし自身の人生に戻る「時」である。

 

他人がどうであれ、あなた自身の人生に戻る時である。

 

そうでなければ、このままいきつく先は明白ではないのか。

 

天網恢恢・・疎にしてもらさず。

 

それとも、どうしても「物質」という教材の中に埋もれたままでいたいのか。

 

しかしながら、

  

物質という意識の為の表現形態は、自らも進化をすべく他に奉仕しているのであり、決して人間だけの身勝手な甘えを許さないだろう。

 

必然的に、その大好きな物質の中に埋められることになるかもしれない。そうして再び物質の中から目覚めるのだろうか。

 

それもこれも、人に関わる世界でのあらゆる出来事は、人の意識の働き、即ち思い、すなわち「こころ」によって起きるものである。

 

仮に、こころが無ければ、我々は単なる肉体機構、有機的物質体でしかない。

 

例えば、プログラム、ソフトのないパソコンや携帯端末のごとしであり、通信も画像表示も何も出来ない、機能的にがらんどうの単なる物体であろう。

 

人間も同じようなものであり、こころを度外視して生きてゆこうとする有様は、まことに異常なことなのである。

 

こころ自体が「眼に」見えない、「人にも」見えない・・ということで、単なる個人的なものであるとして、あまり意味のないものとして、重要視していないのであれば、それはかなり幼い魂の表現と言っても言い過ぎではないだろう。

 

例えば、内面のプログラムが充実していないパソコンやipadなどなんの価値もないではないか。

 

人間においてはプログラムの充実とは精神の大きさ深さを意味しており、古くから言われてきた、精神の拡大と向上のことである。

 

・・・

こころ、精神を変えずば、その投影たる現象は変わり様がなく、

 

そのこころの描くシナリオでの結末を見ることが出来るほどの、

 

自らの「こころ」の観察が絶対的に必要な時なのである。

 

まず、自分自身の「こころ」、想念に気づかなければならないのだ。

 

もし、あなたが自らの、こころの働き、想念に気づいていることが出来るならば、自らの周囲の出来事の「ソース」根源であることに気づくだろう。

 

分けの解らないものに突き動かされることも、無意識の汚れた流れに巻き込まれることも無くなることだろう。

そこにあるのが、不動の「こころ」の平安である。

 

それは、いつでもどこでも、それぞれの わたしの中に あるのだ。

 

 

 

つづく。

Earth1

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今既に変容は起きている

2011-07-19 01:50:43 | 見えないものから見えるものへ

既に今、我々は大いなる「変容」の真っただ中にいることを知るべきだろう。

 

現象世界に次第に現われて来ている特異とも見える諸現象は、またすぐに元に戻る一過性のような、あるいはイレギュラーな出来事ではないだろう。

 

太陽からの光、熱、大気の動き、水の流れや色の変化、そして大地の震えは、大きく変化していることにもう気づかなければならない。

 

また、人々のこころに起きている純真な有り方への回帰、あるいは今までの根性という、ある意味でのこころのひたむきさ以外の美しさを感じる事が出来る時代になったのではないか。

 

一昨日の日本女子サッカーの世界制覇の快挙は、それが女子であろうと、1つの大会の単なる結果であろうと、今の時期、この変容の時期において、世界に与えた影響は大きいものがある。

 

いやそれは既に世界が変わりつつある一端を示しているのだ。

 

ニュースが駆け巡る時空の短くなったこの世界において、あの福島の惨状から立ち上がれという世界中から寄せられる熱いエールは、嘘や真を操ることを今はその胸とするマスコミからの叫びとも聞こえるのだ。

 

それは他人事ではない現状を今代表している感のある、日本という、いつも極東最果ての国、最後に残されたどんずまりの国からの、不屈の、強い、強い意思表示を感じているのだ。

 

ジャパンが、ハポンが、ヤーパンが・・また、率先してやってくれるだろうという人類無意識からの熱い期待が聞こえるではないか。

 

 

それらは、日本ならずとも、世界に今まで有ったのだが、観る眼を、あるいは意識を持とうとしていなかっただけかもしれない。

 

一瞬の変化は、一瞬の感動と共に生起するのが、有るがままの自然なのだ。

   

 

その奇跡の大自然の中で、人間はその中にある様々な波動、妙なる調べを感じることが出来るのだ。

それこそが「和」の精神といっても良いだろう。

まず自然との調和である。

調和から出てくるものが謂わば「神力」であろう。

 

まず今地球は、大調和への強烈な回帰、フィードバックが起きているのであると感じないではいられない。

 

いま、その人為ではどうしようもない変化、その背後にあるのは間違いのない「愛」によるシフトであることに、あなたはもう気づけるだろうか。

 ・・・・

大いなるシフト、また、それらは地球上の諸変化に合わせて、必然的に人的な、あるいは政治経済の変動も起きてくる。

 

人、動物、植物、自然、宇宙・・全ては繋がっていることに気づかなければならない。

 

経済社会も自然の中でこそのものであり、人類と自然がかけ離れて存在出来るという今までの幻想がゆえに、その造られた不安が故に、

 

地球上から物質をかき集めて、安心で快適な、出来れば豪華な生活をすることが人生の目的だとするような・・小さく醜悪な信念体系を生み出してしまっていた部分もあったろう。

 

あなたもその為に生まれてきたのか?

 

ちがうだろう。

 

・・・

 

福島で起きた原発事故は、大地の「震え」によるものであり、それは大自然の明確な意図と捉えなければならない。

 

人の生き死には、現象世界の常でありながら、それを否定するのが優しい有り方であるかのような、造られた虚像はもう捨て去る時期に来ているのだ。

 

この世界で永遠の命を探す行為は、始皇帝ならずとも果されるものではない。

 

自らに無いもの、その極限、有限を感じる、その為の世界ではなかったか。

 

エゴによる数万年の命への希求は、数万年に渡って続く放射崩壊には置き換えられないのだ。

 

嗚呼、・・

  

あたかも人類は、無意識のうちに、地上の各所を変動させないための、人質のようなものとして原子力施設を造っていたかのようである。

 

知だけに美しさを見ようとする人々は、原子力とは自然にある崩壊エネルギーを濃縮し、それを水に浴びせ、熱した蒸気でタービンを回すだけの技術的なものとして捉えているが、

 

物質の崩壊エネルギーを濃縮させ、それを地球上の各地に置いていることで、今の変動時期に合わせて時限爆弾を造っていることに気づくべきである。

 

いったい何をやっているのか?

 

  

大勢の人間が目先の自己保身の理屈を並べ上げ、自然破壊をあたかも自分達の権利として、喚き散らしているのは一体なぜなのか。

 

人間だけが偉く、その他の動物、植物、鉱物を搾取して利己的な目的で遊んだあげく、そこらにポイと捨て去るような行為の、どこに正当性があるのか?

 

それは即ち、どこか、自らを崩壊させようとしている潜在的な滅亡願望としか考えられないではないか。

 

大自然と繋がる橋を自ら落として、自らの城など守れるものではないにもかかわらず、

 

一体どうするのか?

・・・・

 

しかしながら、

 

今起きつつある変容は、人間のエゴを消し去り、破壊をやめさせ、汚染を無くするための一大変容であると知るがいい。

 

それは、どこか待ちに待った恩寵ともいうべき存在世界の大いなるシフトなのである。

 

それは、人、皆為すべきはずの 「こころの浄化」 と同じく、この地球舞台の浄化の目撃なのだ。

 

どこをどうして、いつもいつも恐怖すべきことなのか。

 

これだけでも気づくべきであろうか。

 

 

 

 

全ての人々に共通するの喫緊の課題は、いたずらに自己保身に走りまわることではなく、

 

自らの「こころ」を観じ、そして浄化することである。

 

そして、今残されている自然を、感謝をもって感じることである。

 

・・・

 

また、繰り返されるバラエティー番組のような、何事の変化もないというような、浮かれトンボのような集団洗脳からも脱しておくべきである。

 

分けのわからない自己主張だらけの世間から、あなたのその意識を外しておかなければ、これからの変容がまさに恐怖のシナリオを演じることになることもあるかもしれない。

 

「こころ」はあなたの世界を映し出すスクリーンであり、あなたの意識的無意識的「意図」がそのシナリオとなって映し出されているのだ。

  

例え集団といえども、あなたの「意図」は消し去る事は出来ない。

  

主人公は、いつもいつも、それぞれの「わたし」達なのだ。

  

例えば、個々の波動はまとまって重合するように見えるけれども、個々のそれは消え去るのではなく、しっかり波動としての存在を保っていることを知っているだろうか。

 

波動は分離も重合も出来るが、個々の波動は消え去ることは無い。

 

これは実は「魂」レベルでも同じことである。

 

自らの意思が明確であれば、流されることはあり得ないのだ。流されるのは、そう想わされるプロパガンダ、あるいは宣伝、または催眠等に従うことを「決める」からなのだ。

 

全ては、それぞれの「わたし」が決めている。

 

これは決して忘れてはいけない。

 

 

・・・・

数々の予言は、枝葉末節を取り除き、すでに「本質の部分」においては、今、実現しつつあるのかもしれない。

(以下は拝借文である。「なわふみとさん」のサイトの文章を、勝手ながらコピーして掲載させていただくことにする。)

・・・・ 

「インデアンの大予言」

  かなり昔、1953年ごろ、ハワイから来たカフナ族のメディスンマンのダディ・ブレアは、地球の変化が起こるとき、2つの火山が同時に噴火するだろう、と告げた。そして、1984年にマウナ・ケア火山とキラウェア火山が同時に大噴火を起こしたのである。

 
 
さらに、ヒンズー教の年老いた僧侶が、自分の国にも予言があり、木が死に始めたら地球の変化の始まりであると私に話してくれた。これは、全ヨーロッパで今起こっていることだ。ドイツでは国内の半分以上の森林がすでに死滅したか、死につつある。アメリカやカナダのかなり広い範囲でも、森林がどんどん死んでいるのだ。酸性雨やそのほかの汚染物質で、木の高い部分からどんどん死んでいるのである。
 

  予言の別の言葉に、空気中の有害物質のために人々が家から出られなくなるときがやってくるというのもあった。私は、旧ソ連で起こったチェルノブイリ原発事故のときドイツにいたが、まさに予言どおり、放射性降下物のために家の外には出ないように警告されたのだ。
 

  チェルノブイリ災害から2年後の1988年の冬、旧ソ連とヨーロッパで記録的な最低気温が観測された。この2つの出来事は関連している。我々人間が自然と一緒になって地球の変化を起こしているのだ。人類もまた、地球の一連の変化の一部である。
 

  すべての聖なる教えは、私たちが確実に今の地球の大きな変化のまっただ中に入っていこうとしていることを示している。予言が実現されようとしているのだ。私たちは一つの時代の終わりと新しい時代の始まりの真ん中にいる。

 

 地球の変化は予言された経過の一部なのだが、その中で役割を果たす人間によって、それがいっそう速まってきたのだ。このころになると、母なる地球が人間の手による破壊から自らを守るのが難しくなってくる。

 

 地球はその歴史の中で大きな変化をいくつも経験してきた。だが、現在起こっている変化との違いは、変化のスピードと苛酷さをエスカレートさせている人間の影響にある。
 

  私たちインディアンは、この偉大なる変化の時を浄化と前進の時代と見なしている。人類は、自覚と目覚めという大きな難関突破の偉大なチャンスを与えられているのだ。変化から生き残る人々は、私が理解しているところでは、より高いレベルの目覚めと、より聖なる方法で歩きだせる意識に到達した人々である。

 

 そして、現在を第四の世界として、私たちが第五の世界と呼んでいる、変化の次の段階に入ったとき、そこに到達できた聖なる方法に従って生きる人たちが、輝ける日々の一員になるだろう。

 
  第五の世界では、私たちは地球や人間ともっと調和を保って生きられるようになる。これが変化によって、そして今も私たちの中にいる多くの師によって、準備されつつある世界なのだ。第五の世界には、地球や互いを破壊するためだけにあくせくしていた人々はもはや存在しないのである。

 

 
  私には、世界の人口の約四分の一の人々が生き残るのが見える。生き残る人々はすべて高尚な意識に目覚めるだろう。私の仲間も偉大なる霊的な指導者たちが現れると信じている。何人かはすでにここにいる。この指導者たちが変化の時代を通して人間の意識を導く手助けをしてくれるだろう。

 

 その後、私たちはすべてに対してまったく違う意識を持つようになるだろう。これがあらゆるレベルの浄化の時であり、浄化か完了されたときには、今ある多くのものがもはやこの世に存在しなくなるだろう。

 

以上抜粋。

 
・・・・・

何がどうなるかは、予言が決めるものではない。

 

道は自らが選択しなければ、大勢の人の流れが決めることだろう。

 

それは必ずしもあなたの為の選択ではないのだ。

 

これが1つ、この世界で学ぶべきことではなかったか。

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神なる根源の直観的理解

2011-07-16 11:09:47 | 見えないものから見えるものへ

神、根源、一なるものという言葉は、宗教やスピリチュアルな世界でも盛んに出てくるわけであるが、人びとが、なんとなく思っているイメージは、究極的な存在とか、あるいは人間的な姿をまとった天上の存在であるかのように思っているかもしれない。

 

特にキリスト教などでは 「天にまします我らが神よ・・・」とかいう祈りもあるようであり、これ等は明らかに神なるものが、人間存在の延長上にある進化した者、あるいは我々を導き律する者というイメージが付きまとうものだ。

 

仏教などではあからさまに仏なるものを対象化していないものの、仏画や仏像などを有難がる風潮から、ついつい偶像をも創りがちでもある。その偶像があろうことか罰(バチ)をあてるのではないか?という恐れでもってしきたりに縛られてしまうことにもなる。

 

すなわち人間は何事も観念によって「対象化」したくなる傾向を持っているということであるようだ。同時に、すべて自分以外に何事をも投影してしまう癖があるということだろう。

 

それを言えば、それぞれの「わたし」というソース自体に気づいていない、ということであり、またそれは他者依存ともいえる意識状態である。

 

究極とも言える「神」という概念すらも、自らの「外」に置いてしまうことになるのだ。

 

何か困った時に、「あー神様、仏様・・・」 にそれが現われているわけである。

 

別に悪いわけではないが、これをよくある例えで言えば、

 

海の中の魚が、「み、水をくれ・・」といっているようなものであり、

 

何不自由のない大富豪が、何を勘違いしたか、「俺は一文なしだ・・」と嘆いているようなものであり、

 

また、病で熱を出した人が、たくさん服を着こんで「寒い・寒い・」といっているようなものである。

 

そういうどこか滑稽なことを何十億の人間たちが、お互いの顔色を伺いながら行ってきたのが、今までのこの世界の有様であったろうか。

 

考えてみた方が良い。

 

この我々を取り巻く世界の根源が神や仏というのならば、その中に包含されている、あなたやわたし達が、神でないというのは、どうにもこうにもおかしな話ではないか?

 

どうも、我々の意識は、個々バラバラの分割観念、物質的観念、何事も計量するような観念に長い間犯されてきたと思われないだろうか。

 

これは、

 

我々を取り巻く諸現象、五感に映ずる存在物を、あるいはその一部である肉体、身体機構を、我々自身であると勝手に捉え、自らをその物質的な観念に「自己同化」してきたということを意味するのだ。

 

どうしようもなく究極の存在という「神」すらも、外の世界に投影しているのだ。

 

そうであれば、あなたとは、あるいは内なる世界とは何だろうか?

 

内と外も二元的であり相対的なものであるが、今まで外ばかりを眺め、突き進み、争い、獲得作業をしてきた「外の世界」から、一旦は「内なる世界」すなわち、「あなた」自身にその意識を転じることが、必要欠くべからざるプロセスなのである。

 

わたしの原点は、確かに「わたし」である。

 

世界を観る原点も、他者ではなく「わたし」なのだ。

 

見ること、聞くこと、味わうこと、感じること・・・すべて「わたし」がしていることである。

 

生きること死ぬこと・・すべて「わたし」のことであり、

 

思うこと、憶えていること、喜怒哀楽も・・・すべて「わたし」が行うことである。

 

多くの人は、「それって当たり前だよ・・」と言うだろうが、

 

その当たり前の 「わたし」 をどれだけ知っていることだろうか?

 

それぞれの「あなた」は、あなたのことをどれだけ「意識」しているだろうか。

 

・・・・

ふと思い出せば、人生の記憶は甦る時もあることだろう、たまに思い出せば懐かしく思う瞬間もあるだろう。

 

わたしとは、何年何月に生まれ、どういう履歴があって、どういう人生を送ってきた者だ・・というのは、単に過去の記憶のことであり、あなたやわたしが歩いてきた「道」のことを言っているのだ。

 

その道を歩くところの、当事者である「あなた」とは・・・一体何なのか?

 

外の世界にある、あなたに関連する様々な「出来事」の説明ではなく、

 

あなたの歩いてきた過去という「記憶」の披露ではなく、

 

俺はこう思うという、その都度生起する「想念」の話ではなく、

 

あなたが乗りこなしている「肉体」の機能説明でもかなわない。

 

「わたし」とは・・・何か?

 

これが「根源」による「自ら」への問いかけである。

 

空の一点として現われたもの、一なるものの、

 

自己(わたし)を見たいという意図によって無限の存在諸世界が展開する。

 

今あなたが見ている世界は、その「あなた」である根源の発する波動・いわば光の投影せる、あなたの1つの自己像のようなものである。

 

I am that 「 I AM 」

 

わたしは、「わたしである」・・・ところのものである。

  

ここにあなたの内と外が統合されていることに気づくだろうか。

 

ここには「無限」が見えるはずである。

 

・・・・・

  

有限の狭間で四苦八苦している大勢のあなた、困っているあなたに告げたい。

 

あなたは無限から生まれたものであり、どんな苦しみも、束縛も、痛みも、悲しみも、それは一時の体験にすぎないことを思い出せ。

 

あなたにも、わたし達にも、大勢のあなた達にも、どこにも不幸など無いという根本的な真実を今この瞬間に思い知るのだ。

 

全ては「あなた」が根源である。

 

あなたの為に、お子様用の支配もムチもアメも不要である。

 

あなたの観ることが、あなたの姿をそのまま顕しているならば、本来の素晴らしさ、楽しさ、嬉しさが当たり前のことだと「真に」思い知ることだ。

 

あなたの世界は決して他者が創造しているのではない。

 

大勢が影に怯えることで、大勢の影法師は面白おかしく踊るのだ。

 

全ては ”それぞれ” の真なる「あなた」が根源の光である。

 

それは想いや観念や主義主張でなく、仕組みであり、「法則」であるとも言えるだろう。

 

外に神がいるわけはない。

 

  

I am that 「 I AM 」

 

わたしは、「わたしである」・・・ところのものである。

 

 

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。


ハイアーセルフ (5) 鳥に籠は似合わない

2011-07-08 11:09:21 | 覚醒意識

拡大された意識体験、その様な特典を享受した人々、あるいは探求する人々、あるいは霊的進化を理解する人々が増えてくれば、この世界自体の周波数帯域が拡大、上昇してゆくのである。

  

あるいはインディオやアボリジニなどの古くから続く民族のような、そして多くのあなた方のような、人生の艱難辛苦を耐え忍びながらも、こころが澄んでくるような、強靭な成長を遂げるような人生を送ることが出来る人々が増えてくれば、この世界自体の周波数帯域がさらに拡大、上昇してゆくのである。

 

そのような拡大された意識周波数帯域での顕現生命としての「肉体」は、意識体の本来備わる、肉体より上階層のボディの顕現形態で賄うことになるだろう。

 

単純に言えば霊化された肉体、あるいは霊的ボディ等と言えるのかもしれない。

 

しかしながら、どの階層、どの意識レベルであろうと、わたしは在る。

 

ある意味で、部分から次第に全体を観ることができる意識の「視座」は、魂の表現形態は、決して今眼にしている3次元的肉体だけではないということである。

 

昨今はそのような、物質主体的3次元を超えるような内体験をした人々が増えてきているのも事実であるし、それを拡散するための書籍類も急激に増えてきていることがわかる。

 

そのようないわば拡大された多次元的な意識体験をした場合には、普段の現実であると信じ込んでいる、常識とされる、あるいは皆同じようだとされる「共通現実」のほうが、幻想のように感じられるのだ。

 

なぜならば、わたしは在る・・意識そのものが時空に縛られない経験をするからには、わたしはより高いより広い存在であるということが実感できるからだ。

 

ありふれた五感による情報に基づかない意識的体験といえども、それは観念ではなく、事実であることが分かるのであり、頭であーだ・こうだと悩むこともない。

 

霊的事実は、思考の介在しないレベルでの、意識的な体験によって知覚されるものであり、

 

それ」はまさしく「それ」なのである。

 

観念の介在しない、まことの直覚的知覚には議論の余地がない。

 

内面がたまたま、あるいは必然的に清浄な?クリアーなある瞬間に起きる意識的体験は、確実に内面の気づきと意識的成長を促すものであり、自らの接する外面・世界はそれに従って変質を遂げることもわかってくる。

 

外面が変質を遂げるといえども、大勢の作り上げる物理的な「共通現実」が、そのまま一大変化を遂げるものではないだろう。

 

例えば、人一人が悟れば、世界の文明が一挙に高度な宇宙文明になるというようなおとぎ話ではない事だけは自明であろう。

 

世界の物理的な変化が、例えばあなた一人の意識によって変わるということではなく、あなたと、世界という「共通現実」との関係が質的に変わるということである。

 

不浄と思えたものが、美しさをひきたたせる必要な脇役であると解り(わかり)、

 

悪と思えたものが、必要な成長のための肥やしであると解り、

 

どこか洗脳・誘導されていた夢遊病的集団行動が、

全自由であることを知るためのいわば訓練であることが解り、

 

孤独であると思えたことが、共感と愛を感じるための反面教師であると解り、

  

物欲、色欲で右往左往する愚かな有様が、

それを超える途上で七転八倒している成長途上の意識体の有様であることが解るのだ。

  

・・それを二元性の「見切り」と言っていいかもしれない。

 

またそれはどこか、武道での間合いの読み、見切りはそれに似ているかもしれない。

 

見切りが起きれば、その状況は越えたことを意味するのであり、 その対象への攻撃や批判や小言は消え去り、 ただ単にそれを見守る眼差しが残るのだ。

  

そう、

 

まこと理解が起これば、どこに恐怖があるだろうか。

 

まこと理解が起これば、どこに逃げる必要があるだろうか。

 

まこと理解が起これば、何にしがみつき依存する必要があるだろうか。

 

まこと理解が起これば、蔑み、非難攻撃をしなければならない敵がどこにいるのだろうか。

  

 

人間の偏向された価値観を、そのこころから外せば、「あるがまま」はそれだけで素晴らしく、尊いことであることもまた当たり前のこととなるはずだ。

 

今までの我々は、どこか、あるがままを見る目を持たず、それが故にこそ、その神々しい輝きに対して、人工的な観念を覆いかぶせてきたのかもしれない。

 

自己自身、身の回り、宇宙、自然の「あるがまま」の中にはとんでもない奇跡が充満していることが推察できるだろう。

 

ひとたび大いなる理解が起きるならば、その在り方は、高い位置から地上を俯瞰し、あるいはまた地上に舞い降りることのできる「鳥」のようでもある。

 

カゴメの歌にある、籠の鳥は、自らの自由を極限し、自らの檻を設定している「飛べない鳥」を意味しているが、

 

本来は時空に縛られない「鳥」であることも知っていることを如実に示しているのだ。

 

・・・・・・・・・・・

かごめ、かごめ~

籠のなかの鳥は・・

いついつ出やる~

夜明けの晩に、

鶴と亀がすーべった

後ろの正面・・・だあれ?

 

色々な意味を含んでいる深遠な日本古来の伝承歌であるが、

 

後ろの正面にいるのは、大いなるあなた自身であり、

 

自らを籠の鳥に自己同化して今は悦に入っている、

 

それを体験している自分自身を高所から観ている、あなたを見ている「高次のあなた」・・である。

 

あなたは、本当は既に籠の外にいる「あなた」に気づいているはずである・・・と言っているようだ。

 

多くの人が、自らをか弱い肉体存在であると思い込んでいた有様は、

  

自らを卑小な物質肉体に自己同化し、何かになる・・ことで、様々な可能性を体験している、神なるもののひとつの小さな視点の体験と考えていいだろう。

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ハイアーセルフとは・・・、

  

何かになった結果である今のあなたの常に背後にいる、 あるいは「あなた」を直視しているところの、

 

今のあなたを含む、常により大きな「あなた」のことである。

 

また、ハイアーセルフとは・・・、

 

決して消えることのない「あなた」自身であり、 どこに有っても、それを常に思い出させる働きを有する、本質の「あなた」のことであると言ってもいいかもしれない。

 

ある時は道を示すガイドであり、ある時は理解を促す教師である。

  

しかしながら、より大きなあなた自身であることに違いはないことを忘れないでおこう。

  

心地よい低次元での眠りも、物質形態への自己同化も、それが十分過ぎる、行き過ぎる時に、

 

目覚めの働きとしても確実に顕れるのが、それぞれの高次のわたし・ハイアーセルフである。

 

・・・

1つ1つ別個の生命と思われる、あなたやわたし達、あるいは鉱物や植物、動物といった存在達は、様々な階層から自らを観ている、感じている、あるいは振動している「意識」である。

 

大いなる、一なる意識が宇宙という自らの多次元体を通じて、多方面、多次元、多層に渡って展開する「自己」を観察しているのだ。

  

人間意識においては、小さな分裂したような観のあるそれぞれの「わたし」が、 その小さな私を含むより大いなるわたしに気づいてゆく過程が、 意識の進化と言われるものであり、

  

人間として、今その高みの途上まで登ってきた、あなたやわたし達という人間意識においては、

  

想念、思考、感情というツールの昇華において、更なる意識の拡大が出来るということに気づく必要があるのだ。

  

いわば人間の高貴な遊びの道具は決して物質ではなく、「こころ」なのである。

  

古来からの精神の向上の重要性は、言い過ぎても決して言い過ぎは無いほど最も大切な人類の道標なのである。

  

顕れた物質形態の豊富さや、表層肉体の飾りにこだわるような文明は、残念ながら進化せる文明とは言えないだろう。

  

魂の花ともいうべき精神の向上と拡大、世界に対する受容性の深化なくして、 その存在表現のツールである物質科学は扱えないという事を肝に銘じなければならない。

  

そうでなければ、必然的に制御できない物質に押しつぶされ、物質のエネルギーに破壊され、 エゴの期待する最終幕を演じる可能性が増えてくるのだ。

 

今・・・がその選択の時なのだ。

 

さて今から一体どういうことになるのか、という外の人事のような思考よりも、

 

あなたは本来どうあるべきか?、という問いかけにフォーカスすべきである。

  

世界の騒ぎの急激な増大を観るにつけ、今はもう「その」時期にあることに気づくだろうか。

 

でき得れば、・・・あなたが今考えうる、

 

それも真に妥当と思われるところでの「最高のあなた」を、

 

自らで宣言しておくべきである。

 

全ての・・・始めに・・・言葉ありき・・・

 

それがまず第一になければならない。

 

  

・・・  汝ら・・・神なる・・ところの「汝ら自身」を知れ!

 

 

ハイアーセルフの章   (了)

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 本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。